〜第一章 『その背中を見つめて』〜 第八節 後半部

             ――――誰かが、わたしの名前を呼んでいる。 「……あ、まぶし」  自分の呟く声で、目が覚めた。 「大丈夫?」  お母さんの声がする。  まだすっきりしない頭で、「うん、大丈夫」と答える。  お母さんが起こしに来たのなら、起きないと。  確か、今日は土曜日で日曜日じゃないから寝てはいられない。  起きないと、会社に遅刻してしまう。  体を起こそうとすると、体が重くて起きるのが何となく億劫になる。  ……何か、おかしい。  わりと目覚めはいい方なのに、今朝に限っていつもの調子に戻ってくれない。  とりあえず、体を起こそうとして、そこをお母さんが手伝ってくれた。 「辛いなら、もう少し休んでなさい」  何やら今日はやけにお母さんが、優しくてヘン。  おまけに、着ている服が違うし、何やら消毒液特有の病院みたいな臭いがする のが、ヘンだった。 「……ここ、どこ?」  目をこすりながら見回して、わたしの部屋じゃないって気がついた。  ――――そこは、見慣れない白い部屋。 「どこって、ここは病院じゃない」  お母さんが、親切に教えてくれた。  …………じゃあ、ここは病室?  でも、どうしてわたしがこんなところにいるのか、全然わからない――。 「――事故?」 「そうよ、心配したんだから」  目が覚めた後、お母さんからわたしが交通事故にあったのだと説明された。  わたしは、会社からの帰宅途中で轢(ひ)き逃げにあったのだという。  ……確かに、そんな気がする。  覚えているのは、強烈なヘッドライトの光……?  …………そうだったような気もするし、もっと酷いことが起きたような気もす る。  わたしは幸いにして怪我もなく、検査の結果もどこにも異常もないらしい。  体がだるい感じがするくらいで、何ともない。  それを教えてくれたお医者さんは、良かったですね、と陽気に笑う。 「では、お大事に」  そう言ってお医者さんは、女性の看護士さんを伴って病室を出て行った。 「お腹、空いたでしょ? 何か持ってくるわ」  お母さんも、売店で何か買ってくるなんて言って出て行った。  独り残されて、手持ち無沙汰になる。  ――――……ずくん!  あ、あれ?  何だか、右の足首の辺りに違和感がある。  シーツを除けて、そこを確認してみる。 「打ったのかな、痣になってる」  じんわりと赤くなっていて、誰かにつかまれたような痕(あと)がある。  誰かに、……誰かに、つかまれたような痕!? 『……タスケテェ、……タスケテェ、タスケテクダサイィ……』 「嘘よ、嘘! アレは、夢なんだから!!!」  全力で否定して、顔を覆う。  目を瞑っても、駄目だった。  ――――甦ってくる、この記憶だけは否定できない!  心臓が、壊れる  肺が、潰れる。  追いかけてくるのは、両目が爛々(らんらん)と輝くバケモノ。  わたしは、逃げられない――。  暗い、迷路。  笑う、仮面の悪魔。  たくさんの、誰かの手。  わたしは、汚される――。  救いなんて、ない。  優しい人は、損をする。  優しい人は、倒れてしまう。  大切な人が傷ついていくのは、耐えられない――。  赤い目の、黒くて、怖いモノ。  世界は、赤くて、ドロリとしてる。  人はあっけなく死んでいくもので、誰も助からない。  無力なわたしは、見ているだけ――。  ナイフは、銀色。  月は、綺麗。  雪は、優しくて冷たい。  十字架は、わたしを裁く――! 『――忘れなさい』  ……頭が痛い。  気持ち悪くて、吐き気がする。  罪悪感で、押しつぶされそうになる。 『――忘れなさい。それが、君のためのなのだよ』  そう囁くのは、わたしに手を翳(かざ)す神父さん――?  ……コンコン。 「――……あれ? 何してるんだろ、わたし?」  ノックの音に、我に返る。  知らない間に、ウトウトしていたみたいだった。 「……はい、どうぞ」  また、お医者さんか看護士さんかと思って、わたしは声を掛ける。 「失礼します」  どこかで聞いたような声の誰かは、礼儀正しく入ってくる。 「目が覚めたんだね。良かった」 「え、先輩?」  その人は、わたしの会社の先輩。  同じ課にいる一つ年上の先輩で、怒った顔なんて一度も見たこともないぐらい に優しい先輩。  誰にでも優しくて、仕事がわからなかった頃にはわたしも一つ一つ丁寧に教え てくれた。  あまりに人が良すぎて、損ばかりしてる、そんな先輩。  でも、そんなところを含めて、わたしは憧れている先輩なんだけど――。 「ええっ!? あ、な、なな何で先輩がー!?」  今朝からわからないことだらけばかりなのに、今回はとびきりだった。  どうして、先輩がここにいるのかがわからない。 「え、覚えてないの?  ……そうか。怖かったものね、無理もない。でも、もう大丈夫だからね」  先輩、一人で納得しないでください。  わたしは、ちっともわからないんです。  だから、こちらが安心してしまうようなその優しい微笑をしないでください。  それに、先輩は大丈夫というけれど、大丈夫じゃない。  …………寝起きの顔を先輩に見られてることが、全然大丈夫じゃないっ! 「――娘をありがとうございます。本当に、何とお礼を言ったらいいか」  売店から戻ってきたお母さんは、先輩に何度も頭を下げていた。  お母さんによると、先輩が事故の時に偶然居合わせ、わたしをかばってくれたらしい。  そのおかげで、わたしは奇跡的に怪我を負わなかったそうなのだ。 「無我夢中でしたし、ほら、軽く頭打っただけで、平気ですから…………」  お母さんに、しどろもどろになっている先輩。  先輩はわたしをかばった時に、どこか頭を打って気絶したらしい。  その先輩も怪我らしい怪我もなく、検査でも異常は見られなかったという。  額に申し訳なさそうに絆創膏があるだけで、本当に何もない。  …………そう、先輩は元気なまま。  顔も腫れていないし。  倒れてもないし。  先輩は、意識がなくて、血も吐いてない。  ――――アレは、質の悪い夢。  そうだ。きっと、そうだ。  あんなになった先輩が、怪我ひとつ負っていないなんておかしい。  慌しくドアが開けられて、わたしを見たお父さんが号泣しだしたのは、そう結 論付けた時だった。 「良がっだぁ、本当に良がっだぁ」 「あー、はいはい」  げんなりする。  わたしを力一杯抱きしめて、涙でぐしゃぐしゃになったお父さんの相手は、非 常に疲れる。  確か、お父さんは泊りがけで出張中だったはず。  大体からして、連絡がついたのは明け方だというのに、お昼前にはこうして着 いているのだからよほど大急ぎだったんだと思う。  ……交通安全を守ってきたのか、わたしはとても心配です。 「あなた、こちらが助けて下さったのよ」  わたしの様子を見かねたのか、お母さんは先輩を紹介する。 「君が、娘を!?」  ぐわわっ、と異様な迫力を湛えてお父さんは先輩に迫る。 「あ、はいっ! この度は、なんと言ったらいいか……、え〜と、すいませんで した!?」  そのつかみかからんばかりの迫力に、先輩はなぜか謝る。 「……お、お父さん、先輩は……」  先輩は犯人じゃないのよ、と言う前にお父さんは――。 「――ありがどうございまずぅ!!!」  いきなり泣き崩れた。 「お、お父さん、先輩が困っているから! お願いだから、止めて、止めてくだ さい!」  お父さんが先輩に泣きすがるのは、娘として何とも恥ずかしい。 「娘を、娘をありがどう、娘をぉぉ、本当に、本当にありがどうございまずぅ〜」 「……はぁ」  当の先輩は、何とも言えない弱り顔で対応に困ってるし。 「……すいません」  真っ赤になってわたしは先輩に謝る。 「……いい、お父さんだね」  あはは、と苦笑いしながら、先輩は優しい目でわたしにそっと耳打ちする。  ――――やっぱり、優しくて素敵……。 「娘はやらんぞ、貴様ぁっ!」 「ええっ!? あの、ちょっと!?」  わたし達のやりとりに何を血迷ったのか、お父さんはいきなり先輩の胸ぐらを つかみあげる。 「お父さんっ!」  そんなお父さんに、ゲンコツを入れて黙らせる。 「ぐぅ……、私はおまえのことを心配してだな……」 「お・と・う・さ・ん?」  わたしが睨みつけると、お父さんはそれでようやく大人しくなってくれた。 「……まったくもう!」  わたしが溜息をついて、ふと見ると先輩が吹き出していた。  とっても恥ずかしかったけれど、うん、確かに可笑しいかもしれない。  わたしも何だか可笑しくて、吹き出してしまった。  そうやって、先輩とわたし、二人してお腹を抱えて笑い出してしまった。 「……本当に、無事で良かった」  その最中、ポロリ、ポロリと先輩が涙をこぼしたのには本当にびっくりする。  それに、胸が熱くなってしまう。  先輩にこんなにも心配してもらって、純粋に嬉しかった。 「…………ありがとうございます」  わたしも涙を堪えることができなくて、大粒の涙がポロポロこぼれて止められ ない。  何だかよくわからないけれど、とてもとても怖い思いした。  そんなわたしを、お父さんとお母さんは優しく抱きしめてくれた。  小さかった頃、わたしをそうやってあやしてくれたことを思い出す。  生まれたときからずっと愛してくれているお父さんと、お母さんに抱きしめら れて、わたしは安心しながらワンワン泣いた。  後になって、からかわれるネタになってしまったけれど、今はそんなことは気 にせず、ただ泣きたいから、泣いた。  あれが、現実に起きた悪夢だったのだとしても、こうして生きていられるのは なんて素晴らしいんだろう。  ――――あぁ、ここに戻ってこられて良かった。 「……と、そのようなことが昨夜、巡回中に起きた。いやいや、この老体には堪 えるて」  そう言って、疲れたように目尻を揉み解す神父から、わたし――遠坂凛は、管 理者(セカンドオーナー)として報告を受けていた。  今日は、七月十三日。  土曜日なので、お昼で学校は終わり。  その足で、わたしはセイバーと合流して所用を済ました後、こうして教会に来 ている。  ……で、昨日の今日で教会に来てみてみれば、いつもよりハイな神父が出迎え てくれたというワケである。  それで神父が言うには、昨日の深夜、一連の事件の“容疑者らしきモノ”と遭 遇したらしい。  何でもこの“容疑者らしきモノ”は、別件で男女二人に暴行を働いていた五人 をことごとく殺害し、跡形もなく捕食。  そして、交戦状態に入るものの、“容疑者らしきモノ”にはまんまと逃げられ てしまったと言うのだ。  事の顛末としては、その一戦後、各関係機関に連絡をつけながら被害者の二人 を保護。その場で応急処置すると、慎二もお世話になった病院に搬送。  そのまま神父は二人に“癒し”を施し、意識の戻った女性に、催眠誘導をかけ て事情を聞いて後は、お決まり。  暗示による記憶の改竄(かいざん)と、事件の偽装と隠蔽(いんぺい)である。  表向き、その二人は交通事故の被害者ということにされる。  当の現場では、ガス爆発事故として処理されるのだそうだ。  机の上にはその時に回収した証拠物件、写真なんかの資料が広げられて、わた しとセイバーは言葉少なげに見ている。  惨劇となった血で赤黒く染まった現場の写真。  放心状態になっている被害者二人の顔写真。  血が付着したナイフ。 「聞くのかね? あまり、勧められないが……」 「いいから! わたしは、知らなくちゃいけないのよ」 「……はぁ、君らのような娘さん達が聞くようなものではないぞ」  そう断りを入れてから、神父はレコーダーの再生を押す。  多少ノイズ混じりの、女性の淡々とした声。  再生されているのは、催眠状態にされた女性がその時の状況を告白したものだ。 『――止めて、止めて、離して!』  耳を塞ぎたくなるような、悲痛な叫びもそこには録音されていた。  胸が、痛くなる。  こんな傍で、知らない間に五人もの人間が死んで、二人の人間が心身に酷い傷 を負うことになった。  ――――無力。  歯痒い。  何も、できなかった。  思い上がっていた。  英霊を使い魔に持っていたって、わたしが魔術師であっても、こうして何もで きてやしない。  士郎に気づかれない内に、被害を出さないように、何とかしようとしていたの に、結果がコレだ。  人間のできることなんて、たかが知れている、そんなことを思い知らされるの はこういうコトだ。  わたしの知らない場所で。  わたしの知らない間に。  わたしの知らない誰かが。  ……こんな悲劇に、巻き込まれている。  ――――今も、世界中のどこでも起きてしまっている。  このことを知ったら、士郎は悲しむんだろう、苦しむんだろう。  士郎の進む道とは、こういう無力感と向き合っていくことに他ならない。  目を、そらしてはいけない。  士郎と共に進むことを決めたわたしに、辛いからといって目を背けてはいけな い。  ただ、不幸中の幸い。  被害にあった二人は命に別状なく元気だということで、わたしは胸を撫で下ろ す。 「再び襲われることは考え難いが、念のため護衛のために部下をつけておるよ」  やはり神父は狸で、手抜かりがない。  護衛と聞こえはいいが、その意味するところは、監視。  被害者二人の記憶に綻びが生じて、問題になったらすぐ様“事”に当たるため に。  それがわかっていても、神父を怒れないわたしがある。  記憶をいじることに申し訳なさを覚えるものの、そうしなければならない立場 な人間がわたしなのだ。  多分、わたしでも同じことをした。  ――――笑ってしまう。  一体、わたしは何様なんだろう。 「……何から何まで。  この地の管理者として感謝します。本当に、ありがとうございます、神父」  事後処理に追われていたという神父に、わたしは感謝の意を示して頭を下げる。  “この手”の問題と責任は、最終的にこの地の管理者であるわたしにある。  被害はできるだけ未然に防いで、最小限に収めなくてはいけない。それが、こ の地を任せられる上での義務なのだ。  そして、腹立たしいことに、最大の責任は“神秘”を秘(ひ)することにある。  それができなければ、わたしのこの地での権限を失うことに留まらず、協会に よる大規模な証拠隠滅が行われることもある。  そうなったら、事情を知らない無関係な人間を大勢巻き込む大惨事になりかね ない。  神父がいなければ、被害者の二人は助かったかどうかわからなかったし、今頃 は警察機構が動き出して、マスコミが大騒ぎしていたことだろう。  だから、いくら甘党神父と言えど、感謝しないワケにはいかない。 「……私は私の仕事をしたまでのこと。お気になさるな、遠坂殿」  頭を下げたわたしに、何やら戸惑いを見せる神父。 「そうもいかないわ。この件は、改めてお礼させていただきますから」  ……多分、ケーキで。 「神父。その二人のこと、くれぐれもお願いします」  それと、釘をさすことも忘れない。 「…………わかっておる」  その二人に何かしたら、わたしが承知しないことを理解したのか、神父は真剣 に頷いてくれた。  それに、わたしは安心する。  長い付き合いじゃないけど、この顔で頷く神父は嘘をつかないことを、わたし は知っている。 「……ありがと、神父」 「む、むぅ」  あ、神父が何やら照れている。  少し、可笑しい。  この神父、ひねくれて狸だけど、根はいいヤツなのかもしれない。 「神父様、一睡もされていないのでしょう? 話は後にして、少し休まれてはい かがですか?」  セイバーが気遣わしげに神父を労わる。 「おぉ、かたじけない。では、その膝枕で――」 「神父、今は真面目なお話ですので、そういったユーモアはわたしの機嫌を著し く損ねます。……よろしいですか?」  左腕をまくって、優しく微笑んで見せるわたし。ついでに、わりと本気で魔術 刻印を唸らせちゃったりしてみる。 「――セイバー殿、私は神に仕える身。この程度のことで根はあげては、神の信 徒の名折れ。大丈夫、大丈夫ですとも、ええ!」  一転して、神父は真面目腐って殊勝な発言をする。 「セイバー、そのセクハラ神父に情けは不要ね。つけあがるだけみたいだから」 「……そうですね、軽い冗談を言えるようならまだ大丈夫なのでしょう」  わたし達の冷たい視線に、当の神父は「いやぁ、若い娘さんに見つめられるの は若返りますなぁ」などと抜かして、元気そうである。  いや、本当に冗談じゃなくこの神父は元気だ。  二人分の“癒し”を施す大仕事をしといて、その上、不眠不休で走り回ってい たというのにまだまだ余裕がありそうだ。  さすが、“魔”の領域という死と隣り合わせの最前線で、この老齢まで生き残 り、現役の代行者を張っているだけのことはある。 「それにしても、“目撃者は消す”、というのが教会の方針だと思っていたのに、 ずいぶん甘いのね」 「いやはや、遠坂殿は歯にものを着せずにおっしゃってくれる。まあ、否定はし ないがね。  魔術師が魔術という神秘を秘匿するように、教会も神の教えに反するモノを否 定する我ら代行者の存在を秘匿しなければならないところ、なのじゃが……」  そこで神父は、十字を切って神に祈る。 「……だがね、助けを求めていた人の手にナイフを刺してしまった、と懺悔(ざ んげ)するような善良な娘さんを害することなど、到底できまい? 悔い改める 者は、神は赦してくださるよ」  そんなことをしたら、それこそ神罰の雷でも落ちかねん、とまで言ってみせる 神父。 「“カルネアデスの板”の話にもある。  ああしなければ、娘さん自身の命も危なかったじゃろうしの。法から見ても、 あの娘さんに罪はない」 「……“カルネアデスの板”、ね」  神父が持ち出したのは、緊急避難のある例え話。  海難事故に遭って、漂流中に海面を漂う板切れに何とかつかまることができた、 わたし。  そこに、同じく漂流中の誰かがその板切れにすがろうとする。  けれど、その板はとても小さくて二人分の重みには耐えられそうにない。  わたしが助かるためには、その人を犠牲にしないといけない。  ……つまり、それが“カルネアデスの板”。  ――――自分の命を守るために他人を犠牲にした場合、その罪を問えるだろう か?  紀元前二世紀頃、ギリシアの哲学者カルネアデスが提唱した問題定義である。  実に、深遠な問いをする哲学者らしい問いではある。  その当のカルネアデスは、『自身の命を捨てて他人の命を救うのは正しいかも しれないが、自分の命を放っておいて他人の命を気にするのは、愚かである』と 答えている。  その言葉通り、そうなった場合、罪に問われない。  そのことが、緊急避難として法律では定められている。  これをテーマにした物語は、数多い。  自身を含めて、誰かが絶体絶命の危機にあり、誰かを犠牲にしないと助からな い状況に追い込まれる。  その犠牲の相手と言うのが、家族であったり、子供であったり、恋人であった り、国民だったり、時には世界だったりいろいろ。  そんな生と死の極限状態で、自分の命か、それを捨てて悲劇のヒーロー・ヒロ インになるかの究極の二者択一の選択を迫られることがお話の大筋となる。  ちょっと何年か前に流行った豪華客船が沈没する様子を描いた映画などは、そ の典型でもある。  そんな状況に置かれたら、どうするんだろうな、わたしは……?  しかも、その犠牲の相手が士郎だったりしたら――。  ――――答えは、決まっている。  結局、わたしは“その選択”しかできないのだとしても。  これに関しては、はっきりとした答えなんて持てるものじゃないと思う。 「……そうね。そうした対処をしてくれて助かったわ。そんな人が犠牲になるの は、後味が悪過ぎるもの。話を聞く限り、ただの被害者だもん」  同じ女性の立場からとしても、その場に居合わせた男達には同情する気にはな れないし。  気の毒ではあるけれど、そいつらは法(ルール)を犯した。  本来、法は人を守るためにある。  その法を破ったのなら、その法の外にあるモノに襲われても文句は言えまい。  仏教の言葉、まさに因果応報である。 「――さて、今問題とするのが、この現場に現れた黒い霧から生まれたという男 のことじゃな……」 「そいつを目の当たりにした神父としては、どうなのよ? 何かわかる?」  こうして、わたし達は当面の脅威について話し合う。 「あの男の纏っていた禍々しさは、彼(か)の吸血鬼――死徒二十七祖にも匹敵 しよう。  生きている人間を吸収するほどの干渉力を備え、あまつさえ受肉し、出現と同 時に確固たる理性を持つなど、ただの亡霊ごときではあるまいよ」  神父の語るその在り様は、身近にいるある存在を彷彿とさせられてしまう。 「……セイバー、どう? そんなの相手にした心当たりある?」  とりあえず、わたしよりも人生経験が豊富なセイバーに意見を聞いてみる。 「…………いえ、かつての時代においても、そのようなモノと遭遇したことはあ りません。  ですが、凛の考えている通り、私と同じ類のモノでしょう」  わたしに対する気遣いは無用です、と言わんばかりにセイバーははっきりと言 う。  霊体から、他者の命――霊元的な力を糧にして実体化する……。  ……そう、その在り方は、セイバーと同じサーヴァントと酷似している。 「私が見た限り、アレはセイバー殿と同じ英霊と列するには、あまりに禍々しく 不安定。  ……アレは、悪霊の類に違いあるまいがな」 「実体化するぐらいなら、それはもう“悪霊”じゃなくて、“悪魔”とか、そん なレベルよね。存在規模としては、英霊と大差ないわ」  溜息をついて、ぼやくわたし。  化けて出る、なんて話しは聞くけれど、それは本当にある。  でもそんな例は、よっぽど霊的素養に優れ、死ぬに死にきれない未練を抱えた 場合に限られる。 「……それとも、誰かが召還したのかしら」  考え込む、わたし。  彷徨っている霊体に、依り代の仮の肉体を与えて“ヒトガタ”にする。  魔術師であるならば、それは可能ではあるけれど。 「……話を聞く限り、エーテル体から実体化でしょ? そんな破格なコト、普通 じゃできないし……」  思考の渦に埋没して、あーでもない、こーでもないと考え込んでしまう。  でも、それができるのは、アレしかない。  それしかできないのなら、アレに違いない。  難しく考えるまでもなく、この地はアレの召還の地なんだから。  やっぱり、結論としてアレ――聖杯に至ってしまうのだけれど――。 「――、と……、遠坂殿!」 「――、り……、凛!」  二人の大きな声に、その思考が途切れる。 「な、何?」  少しびっくりして、二人を交互に見つめる。 「何、じゃありませんよ、凛。また、考え事をして周りが見えなくなっていまし たよ」  セイバーは、呆れたような顔をする。 「また、やってた?」 「はい、思いっきり」  いけない、いけない。セイバーに指摘される通り、わたしには考え事をすると 周りが気にならなくなってしまうことがある。 「うむ、考え事をする遠坂殿の横顔は、実に凛々しくて見ていて飽きない。…… が、放って置かれるのは、いささか寂しい」  神父にさえ苦笑され、ぼやかれる始末である。 「何よ、神父。他に、何かあるの?」  人をからかうような発言をする神父に、あまり期待せずに問う。 「ある。私なりに、仮説はある」  などと、神父は気になるコトをおっしゃってくれる。 「……と、その前に、確認しておきたいことがあるのじゃが、遠坂殿?」 「な、何よ?」  神父は、ずいと顔を寄せるので、わたしは、ずいずいと後ろにのけぞる。 「本当に、聖杯は破壊されたのかね?」 「――!」  その問いに、一番反応を示したのはセイバー。 「……それは、間違いありません。あれは、確かに聖杯で、それを破壊したのは 私なのですから」  複雑な表情を浮かべるセイバーは、今のわたしには辛い。 「……そう、か。では、もうこの地に聖杯はないと?」  確認するように神父は、もう一度問う。 「セイバー、ごめん。  ……この地での聖杯は、なくなったわけじゃないの」  隠しておけることではないので、わたしは正直に答える。 「凛、本当なのですか!?」  セイバーは、戸惑いの声をあげる。 「……わたしも、知ったのは聖杯戦争が終わってからだったわ。  考えてもみて? 聖杯が破壊されてなくなるものなら、聖杯戦争は前回で終わ ってる」 「あ……」  そのことに、セイバーは気がつく。  前回の聖杯戦争でも、終止符を打ったのはセイバー自身なのだから。 「地下にあった文献を調べててわかったの、この地には始まりの聖杯とも言うべ き“大聖杯”がある」  わたしの告白にセイバーは驚きで目を見開き、神父は続きを促すように頷く。 「――遡ること、二百年前。  アインツベルン、マキリ、そして、わたしの先祖である遠坂……。この三家が、 聖杯を得るためにお互いに協定を結んで、この地に聖杯召還のシステムをつくっ たの。  その根幹とも言えるのが、“大聖杯”。空っぽの聖杯の“器”に、霊体の聖杯 を降霊させるための、魔術基盤をね」 「では、凛。私が、破壊したのは……?」  セイバーはうなだれながら、わたしに問う。 「わたしも、勘違いしてた。目の前で聖杯が破壊されてしまったから、もうなく なったと思ってた。  ……そう。前回と今回、破壊したのは、受け皿となる聖杯の“器”にすぎなか ったことになる」  もともとこの地の聖杯は、霊体であることは知っていたのに、我ながらの大ポ カだった。 「つまりは、その“大聖杯”がある限り、この地の聖杯は失われていないのだね?」 「……そうよ。聖杯の“器”となりうるものがあるのなら、確かにこの地に聖杯 はあるはずよ」  神父の確認の問いに、わたしは頷く。 「では、ではっ! 私がしたのは、ただの先送りしただけだと言うのですか!?」 「そう……なる、わ」  セイバーの悔しさを滲ませるのを、わたしはただ肯定するしかない。 「……なるほど。聖杯がないのなら説明はつかぬが、あるのであれば説明はでき よう。  聖杯にしか成しえない奇跡ならば、“その者”は、聖杯の力によって誰かが召 還したのじゃろう」  神父は簡潔に、単純な結論に至る。 「でも、期間が短すぎる。まだ半年ぐらいしか経ってない。聖杯戦争がまた始ま るには、まだ早いはずだった……」  だから、高(たか)をくくっていた。  場所を特定して。  色々準備して。  魔力を蓄えて。  これから、って思っていた矢先だったのに。  ――――この遠坂市の地脈に根ざした、大魔術の結晶。  迂闊に触れれば、何が起きるかわからない。  一度完成された魔法陣の解体は、爆弾を解体するように難しく注意が必要なの だ。  それも二百年ものの魔術基盤、莫大な大源(マナ)を内包しているであろうそ れを、安易に破壊しようとすれば、地脈が乱れてこの冬木市の地が割れ、火を噴 く事態にもなりかねない! 「……恐らく、溜まりに溜まっているのであろうな。前回と今回、完成を目前に して破壊されておる。その行き場を失った魔力は、そのまま持ち越されていると 見るべきじゃろう。  その最期の一押しとする起動の魔力も、この都市を覆う瘴気をかき集めれば、 充分すぎるかもしれん」 「…………やっぱり、そうなるわよね」  神父の考えは、ことごとくわたしと同じだった。  昨夜、わたしの使い魔が破壊されていた。  気づいたのは、今朝。  場所は、冬木中央公園。教会に来る前に、セイバーといっしょにその子は見つ けてきた。  回収できた最期の記録には、何かの礫(つぶて)によって一撃されたらしい。  わたしの使い魔を一撃で破壊するなんて、よほど目がいいのか、勘がいいのか、 腕のいい射手のようだ。  そして、その直後に他の子達が、その公園に向かう魔力の流れを感知した。  時間にして、ほんの数分たらず。  けれど、周辺部に漂っている魔力やら、瘴気やらがその公園に吸い取られてい った。  わたしの使い魔を倒したヤツは、そのやっていた何かを見られたくなかったら しい。  ……で、何でそんなことが起きたのに、わたしは気がつかなかったのかと言え ば、昨夜はセイバーから流れこんできたイメージの方が大き過ぎて、あの子達の シグナルに気がつかなかっただけ。  …………反省しよう。  ともかく、これであの公園で何者かが何かやっていたのは、わかった。  それも、よほど慎重なヤツで、恐らくわたしに気がつかれないように、ごくわ ずかな量を定期的に回収していたんだろう。  何者かわからないけれど、この地の聖杯のことにかなり詳しいことはわかる。  ――――いい、度胸じゃない。  何が目的か知らないけど、あの聖杯戦争をもう一度起こそうというのなら、わ たしはそれを阻止するだけなんだから! 「ただ、腑に落ちないのが、聖杯戦争の時のように地脈が全然活性化してないの よね」  これが、わたしには気にかかる。  仮にも、聖杯を召還しようとする“大聖杯”が動くのなら、それに相応しい魔 力の流れがあってもおかしくはないだろう。 「だが、外ではその兆候は現れておる。私には、これが嵐の前の静けさに思えて ならんよ」 「……わたしもよ」  神父とわたし、二人で思わず溜息をついてしまった。 「しかしな、遠坂殿は事の原因の方を気に配っておいでじゃが、私には“その者” が召還されてしまっていることの方がよほど深刻に思えるよ」  珍しく、神父が苦りきった口調で言う。 「え? 誰か心当たりあるの、神父?」  わたしは、思わず身を乗り出す。 「誰も何も、遠坂殿も知っているはず」 「は? 悪いけど、そんな物騒な知り合いは知らないわよ」  そう言っておいて難だけど、若干一名なら心当たりがあったりする。 『マーボーの道は、一日にならず』  真っ赤なマーボーを手に、あの辛党神父――言峰綺礼が振り返る。  駄目、駄目。この想像は、イヤすぎる……。  あんなのが迷って出てきたら、わたし泣いちゃう。 『そう邪険にするな、凛。フフ、私はいつでも草場の陰から見守っているぞ』  見守らんでもいいっ!  お呼びじゃないんだから、ずっと針の筵の天国で成仏してろってのよっ! 『凛、供え物にマーボーは忘れるな』  いいから、とっとと消えなさいっ!  わたしは頭を振って、そのものすごーくしつこいイヤな想像を払いのける。 「……ど、どうしたのかね?」 「な、何でもないわ。……何でもないから、気にしないで」 「そ、そうかね?」  わたしの行動を神父は奇異の目で見るが、ありがたいことにそれ以上は突っ込 んではこなかった。 「……ゴホン。でも、本当に知らないわよ、わたし」 「昨日、渡したじゃろう? 私が知っているのは、一重にそれのおかげでもある。  むしろ、このことを予見していたというのなら、私は遠坂殿が恐ろしい」  わたしの思考は、凍りつく。  ――――神父は、回りくどい、言い回しを、する。 「凛? 顔が、真っ青ですよ。それに、昨日渡したとは?」  心配そうな顔しながら、何の話ですか、とわたしにセイバーは問う。  昨日、神父から渡されたのは、青いファイル。  そこには、ある人の個人情報がまとめられていた。 「……セイバー殿はよく知っている方、でもありましたな」  少し、しまったというような顔をする神父。 「え? 私が……? …………!?」  セイバーも、なぜか思い至ってしまったのだろう、蒼白になっている。 「心して聞いて欲しい。……私が見た男は恐らく、――――」  それを聞いた、わたしとセイバーは耳を疑ってしまった。  ――――銀世界。  教会から出ると、真っ白な雪景色が目の前に広がっていた。  少し眩しくて、手でひさしをつくる。 「……これじゃ、士郎が驚くのも無理ないわね」  朝のことを思い出して呟く声は、白い吐息となって虚空に溶けていく。  ……積雪、十センチぐらい。  朝一番、士郎に起こされてみれば、こうして一面雪が積もっていた。  この冬木市では冬に雪が降ること自体珍しいのに、夏の最中に雪景色になって いたら、さすがに何事かと思うだろう。  冬木市一帯は、お天気のお姉さんが朗らかに曰く、「昨夜から突如として発生 した寒気団に覆われて、今日のお天気は曇りのち雪ですねー」とのことらしい。  朝からニュースではこの珍事に大賑わいだし、交通機関にも影響が出ていたり する。  気象の専門家が、海流の影響などと一応説明しているけれど、正確なところは 今まで例がなくて、わからないんだそうだ。 「お野菜とか、心配ですね」 「あ! そうか、夏に雪が降ったら農家のみなさんはタイヘンじゃないっ! ご 飯、食べられなくなっちゃう!」 「……野菜の値段が上がるのは困るな」 「シロウ、食事ができなくなると言うのは本当なのですかっ!?」  その朝のニュースを見ていた桜、藤村先生、士郎、セイバーがこんな感じで混 乱していたし。  ……真っ先に食糧事情を心配するあたり、衛宮邸は平和だなぁ、としみじみ思 ってしまった。  いや、まぁ、確かに問題では、あるんだけどね……。  ――――白い、フワフワとしたのが漂ってくる。 「あ。また、降りだしたんだ」  見上げた鉛色の空からは、また雪が深々と降り注いでくる。  こうして空を見ていると、壊れた雲の破片が降り注いでいるみたい。  雪は、まだこうして依然として降り続いている。  一時の自然現象なんかじゃ、ない。  破壊された、わたしの使い魔。  わたしの使い魔達が観測した、魔力の流れ。  召還されてしまった、あの人。  ――――この雪は、また聖杯戦争の冬が再来したことを告げるもの。  わたしは、決めた。 「セイバー、このことは士郎には言わないで」  つまりは、士郎に知らさないで、この件はカタをつけるということ。 「……同感です。このことをシロウに伝えるのは、あまりに酷です」 「まったくよ」  わたしは、同意する。  よりにもよって、どうしてって暴れたくなるくらいに思う。  どういうつもりで、あの人を召還したのか。  ――――悪意以外に、考えられない。 「わたし、許さない。どこのどいつよ、そんなことをしたヤツ……!」  わたしの怒りに、知らず左腕の魔術回路さえ震える。 「……風邪をひきます、凛」  横合いからセイバーが赤い傘を広げて、わたしの視界を遮る。  優しいセイバーの声に、自然と落ち着いた。 「……セイバー、ありがとう」  二重の意味を込めてお礼をして、セイバーの手からその傘を受け取る。 「あ、傘なら、私が……」 「いいのよ、わたしの方が背は高いんだし」  歩き出したわたしに、セイバーが慌ててついてくる。 「ですが、私は……」 「いーの。これが、フツーなの。  それより、寒いし、早く帰ろ。……色々と、やらないといけないし」 「……」  少し気が立っていたので、声音が強くなってしまったことを反省する。  横目に見れば、申し訳なさそうな顔しているセイバーがいる。  別に、おかしくない。  セイバーはわたしの使い魔だけど、対等な協力関係にあるパートーナーで、姉 妹みたいな親友なんだから、これが普通なのだ。  こうして、わたしとセイバー、女の子二人して相合傘して帰ることにした。  ……さくさく。  踏みしめる感触は、心地良い。  丘に続く道は訪れる人も少ないせいか、踏み荒らされていないので真っ白なま ま。  わたし達の行きにできた足跡は、新たに降ってきた雪でうっすらと隠されつつ ある。  この分だと、帰りにできる足跡もなくなってしまうだろう。  ……それが、何となく教会が孤島にあるような気になる。  誰も通らない雪道というのは綺麗だけど、とっても寂しいことなのかもしれな い。  ――――独りきりの道を行くのは、どんな気持ちなんだろう?  ……こんなことを考えるなんて、わたしはいくらか感傷的になっているらしい――。  ふと隣を見れば、真っ白なファーコートを着たセイバーがトコトコ歩いてる。  頬をほんのり赤くさせて、吐く息は真っ白い。  わたしのセイバーのイメージは白い感じなので、何だかウサギさんを連想して しまった。  抱きしめれば、きっと柔らかいんだと思う。  なのに、セイバーは思いつめているらしく、その表情は硬い。 「――凛。今度こそ、聖杯は私が完全に破壊します」  道中、押し黙っていたセイバーは、「剣にかけて、必ず」と誓った。  ――――我慢、できない。 「ね、セイバー」 「はい、何ですか?」  わたしが足を止めると、セイバーも足を止めた。  さっき思いついたことを、そのまま実行する。 「!? な、何をするのですか、凛!?」  セイバーが驚くのも無理はない。 「うーん、やっぱりセイバーは柔らかくて気持ちいいわ」  わたしはセイバーを抱きしめている。 「り、凛、ふざけているのですか!?」  わたしの腕の中のセイバーはかなり戸惑っているらしく、じたばたする。  でも、イヤならセイバーはわたしの力なんかじゃ抑えきれないんだし、わたし に対して遠慮しているというなら、それに甘えるだけ。 「セイバーってさ、こうやって抱きしめられたこと、ほとんどなかったでしょ?」 「――!?」  びくっ、と震えて、身を硬くしたセイバー。  そのしばらくの沈黙は、多分、肯定だ。 「ごめん、セイバー。わたし、あなたの過去、見ちゃった」 「!? ……そう、ですか。…………謝ることはありません。  昨夜は、らしくなく昔を思い出してしまった私が悪いのです。むしろ、あんな ものを見せてしまって、申し訳ありませんでした」  そう謝りながら離れようとするセイバーを、わたしは離さないように抱く力を 強める。 「凛?」 「いいから、このまま。……辛いことあったらさ、人肌が恋しくなるものじゃな い?」 「……あ」  数瞬のためらいが感じられた後、セイバーは力を抜いてわたしに寄りかかって くる。 「……そうですね、王となってからは、こうして抱きしめられることはなかった」  視線を落とせば、頬を赤くして照れたセイバーがいる。  わたしの視線に気がついて、それから逃れようと一層わたしの胸に顔を預けて くる。  夢の中のセイバーは、いつも張り詰めてた。  誰かに抱きしめられることなんかなかったし、そんなことを望んだことも、考 えたこともなかったんだろう、わたしと同じで……。  ――――その分まで、お疲れさまと労わるように抱きしめる。  士郎が、わたしにしてくれるように、わたしもセイバーを……。 「よしよし」 「……凛、そうやって頭を撫でられるのは、少し……」 「うんうん、可愛い」 「……」  諦めたのか、特に抵抗もしないので、撫で心地の良いセイバーの髪をわたしは 撫で続ける。 「――セイバーは、まだ聖杯が欲しい?」  そうしているとわたしも落ち着いたので、ちょっと怖いんだけど、思い切って 訊いてみた。 「…………わかりません。  以前の私なら、何を犠牲にしても聖杯を欲していたでしょうが、今はわからな くなりました」  顔を上げて、セイバーは迷っていても、その胸の内を語ってくれた。 「……少なくとも、あの聖杯は私の望むものではなかった。  国を、人を救いたいのに、多くの人を犠牲しなければならないのでは、意味が ありません」  悔しそうに、セイバーは言う。 「馬鹿」 「なっ!? ……え、……り、凛?」  抱きしめる力を強めて、わたしはセイバーを叱る。 「聖杯に願いをかけても、あなた以上に立派に王様できるヤツはいないわ」 「……そ、そんなことまで、凛は知っているのですか……!?」 「そうよ。わたし、見てきた。あなたがどれだけがんばってきたか」  これだけは、断言できる。  ――――セイバーは、ずっとずっとがんばってきた。 「ですが、わたしの使命は、国を守ること、王として……」 「あなたは、もう充分にやったわ。誇りなさい、わたしがそれを知ってる。いい 加減、その重責から開放されなさい。解放されても、いいはずよ……! 誰も、 文句なんて言わない!  願いを叶えたって、セイバーは苦しいままじゃない。苦しむだけ、…………ひ っく、ダメよ。セイバーが、苦しむのはダメなんだから……」  我ながら情けないことに、感極まったらしく視界がぼやけて喉が痛くて、声が 掠れる。 「……凛」  セイバーは、驚いた顔をしている。  突然、こんなことを言われれば、驚くだろう。  セイバーを怒らせてしまうのか、セイバーに嫌われてしまうのか、わからない。  それなら、まだ良い方で、セイバーをただ困らせることになったら、どうしよ うかと思う。  でも、わたしはセイバーのマスターで、好きだから言わなくっちゃいけないと 思った。  そして、そのセイバーは優しい表情で、くすりと笑った。 「む? どうして、笑うのよ?」  そこで笑うとは、恥ずかしいじゃない。 「今朝、シロウにも同じことを言われました。……凛、あなたは最近、シロウに 似てきている」 「え? そうかな?」  嘘。……全然、自覚がない。 「嬉しそうですね、凛」 「くっ!?」  意味ありげにセイバーに微笑まれて、赤くなってしまったことを自覚する。 「凛と、シロウ。……あなた達に出会えた幸運に、私は感謝したい」  今まで見たこともない、セイバーの微笑は見惚れるほど綺麗だった。 「……、……セイバー!」 「あ、あの、凛?」  可愛すぎて、わたしはセイバーに頬擦りする勢いで抱きしめてしまった。 「み、みんな、見ちゃダメよ!」  そうそう邪魔しないで欲しい、藤村先生。 「ぜ、全隊、回れ右! ……全力疾走!!!」  藤村先生の号令が響き渡って、やたらとワイワイガヤガヤとうるさい。 「り、凛、見られてます、見られまくってます!」  セイバーが、わたしの腕の中で慌てまくっている。 「遠坂……、知らなかった。おまえ、まさか…………!?」  聞こえるのは、綾子の声。 「なっ!?」  綾子の声が、聞こえてはっとする。 「な、何で綾子が!?」 「いや、何でって……、ロードワーク」  やたらと退きまくった顔して、そこにいるのは胴着姿の美綴綾子!  わたしとセイバーは、ずざざっと離れる。  きっと、あのランサーにだって負けてない回避速度だろう。 「理由も、知りたい?」  呆れた顔をした綾子からの、ありがたい申し出にわたしはコクコクと頷く。 「いやね、うちの部員が寒い寒いとぶーたれるもんだから、藤村先生が『気合が 足らんー!』と、冬木市一周寒中マラソンしているワケよ、あたし達」  ありがとう、綾子。よくわかりました。  …………藤村先生ならば、充分考えられる可能性ではある。 「……と、いうことは、あれに見えるのは、弓道部員全員?」  こちらを振り返りながら、逃げるように走っていくのは、確かにうちの学校の 弓道部員だった。  風に乗って聞こえてくる、「すげー、初め見た」とか、「噂に聞く、アレがそ うなん?」とか、「あの遠坂さんが」とか、「衛宮先輩、かわいそう」とか、 「邪魔しちゃダメよ、ここは速やかにっ!」とか、「ハーイ、先生!」とか、色 々気になるのが聞こえるんですけど、実況生中継で。 「……そういうことに、なるねぇ」  吹きすさぶ風が冷たい。  父さん、泣いてもいいですか?  アーチャー、泣いてもいいよね?  …………士郎、泣いてもいいでしょ? 「衛宮くんには、黙っておいてやるし、うちの部員にも釘をさしておく。  だから、うちの部員の記憶といっしょに命まで奪わんでくれ、頼むぞ」  そう言いおいて、綾子は「じゃ、行くから」と弓道部員の後を追いかけていっ た。 「――貸しだな、遠坂」  さすが、親友――美綴綾子、最大の貸しをつくっていきやがった。  そして、弓道部員全員なら、当然あの子もいる。 「ね、ねぇ……遠坂先輩!?」  桜が、顔面蒼白でわたし達を見てる。  どう誤解しているか、とっても怖い。  桜は、わたしとセイバー、丘の上の方に交互に視線をやっている。 「あ、あのね、桜? これは、ただのスキンシップ、なワケで……」  わたしの言い訳は、もはや士郎レベル。  わたしの言い訳が、通じたことはないのだろう。  しっかり、誤解が解けぬまま蒼い顔の桜は走っていった……。  ――――誤解、された。  これで、溝はますます深くなったことは、確かなんだと思う。 「だ、大丈夫ですか、……凛?」  セイバーが、恐る恐るといった感じでわたしの顔を覗き込む。 「あはは、大丈夫よ、セイバー。……だから、アレ貸して、ね」 「! いけません! わたしの聖剣を、そのような!」 「アレなら、見えないでしょ? “峰打ち”にするから、あいつら全員の記憶を 消すの♪」  わたしが弓道部員を追いかけようとするのを、セイバーが必死で止める。 「凛、わたしの聖剣に峰なんてありません!  いいから、落ち着いて、落ち着いてください、凛! あぁ、シロウ、助けて、 助けて〜!」  セイバーの悲鳴が、寒空に響く。  ――――後日談。 「……遠坂、セイバーと抱き合っていたってホントか!?」 「忘れなさい、バカー!!!」  しっかり、秘密は守られてなかった。 「セイバーちゃん、可愛いものねー。  士郎、あなたがしっかりしないと、遠坂さん、セイバーちゃんに盗られちゃう わよ?」  あなたですか、藤村先生……。     次頁へ

 前頁へ 表紙へ 二次創作頁へ TOPへ