〜第一章 『その背中を見つめて』〜 第八節 前半部

                 * 作者からみなさまへ   下記のお話は、暴力的な表現、描写を含んでいます。そういったものに   苦手意識を感じられる方は、ご注意ください。   その場合、この前半部は飛ばして、後半部の方を読んでいただければ大   丈夫かと思います。   くどいようですが、このお話の内容はフィクションで、実際にあったこ   とではありません。  ――――とても、とても寒い夜。  本当に夏だろうか、と思えるぐらいに今夜は冷える。  昼間はあんなに夏らしい青い空が見えたというのに、今夜は冬がまた到来した かのように寒い。  異常気象もここまでくれば本気で世紀末だと思う。  でも、寒くて大丈夫。  今時のOLは、夏でも防寒対策はバッチリなのだ。  会社では、クーラーがガンガンにつけられて体の芯から冷やされてしまう。  夏なのに寒がらなくてはならないのは、どこかおかしいと思う。  うちの課には、人気のない――わたしも、好きじゃない太っちょの部長さんが 暑い暑いとクーラーの温度を下げるから余計だ。  会社の冷房は、OA機械を冷やす意味が強いものではあるけれど、うちの課の 冷房はその部長さんを冷やすためにあるみたい。  だから、会社には一枚上着を置いてある。  これがなかったと思うと、明日は風邪をひくことを覚悟しなくてはいけなかっ た。  でも、今はその必要はないみたい。  だって、わたしは走って、暑いくらいなんだから――。  ――――背後から、獣のような複数の息遣いと下卑た笑いが追って来る。  思えば、今朝起きた瞬間から悪い予感がしていた。  悪い予感はなぜだか当たる方だったけど、今回ばかりはわたしの人生の中でも サイテーだと思う。  仲の良い両親に、満足と不満の半々で、普通の家庭に生まれた、わたし。  制服が可愛いからという理由と、成績の問題もあって普通の学校に通い、ドラ マみたいな恋愛をしたいと思いながら普通に学生生活してた、わたし。  本音は少し遊びたいからだけど、両親には勉強したいと言って、普通の大学に 通わせてもらった、わたし。  就職活動で運良く今の中堅どころの会社に内定もらってOLしてる、普通なわ たし――。  この先も、普通だけど平和な人生が続くと思ってた。 「――なぁに、あの先輩みたいのがいいワケ?」 「い、いえっ、そんなこと、あるわけないじゃないですか」 「そうよね。いい人だけど、あの先輩は優しいトコしか取り柄がなさそうだもん ね」 「そ、そんな事はありません! 先輩は優しいのが素敵なんですっ!」 「あーあー、もうこの子はわかりやすくて……」 「!?」  最近だと、同じ職場の同僚によくからかわれてた。  同じ課にいるあの優しい先輩を意識してしまう、そんな普通の日常にわたしは いた。  時々、想像してた。  いつか結婚して、二人ぐらいの子供で、普通の温かい家庭を持てたらいいな、 って。  お母さんのように、晩御飯は何にしようかなぁってチラシとにらめっこする普 通の日々があるんだって思っていたのに。  ――――吐く息は白く荒く、足がもつれそう。  今、この足を止めれば、その普通の生活に戻れなくなると思うから必死に走る。  足の裏が痛い。  すでにパンプスは脱げてしまって、裸足も同然。  ストッキングは穿いているから、ホントは裸足じゃないけど、そんな薄いのな んて気休めにしかならない。  ……裸足で走ったのは小学生以来。  あの時はわりと平気だったけれど、今は見るのが怖い。多分、血まみれになっ ていると思う。  血まみれ……なんて、思ったけれど、ふと見たわたしの体は、転んだときにで きたのか、膝とか肘とか、あちこち血が滲んで酷いことになってる。  どうりで、あちこちじんじんするワケだ……。  怖い、ただひたすらに怖い。  追ってくるのはわたしを食べようとする、獣。  わたしの意思なんか関係なく屈服させて、その思い通りにされるかと思うと、 強い嫌悪、激しい恐怖に襲われる。  そして、思い浮かぶのはあの先輩の穏やかな顔。 「遅くなったし、送っていくよ」 「いいですっ、わたしなら大丈夫ですから!」 「あ、ちょっと!」  ……残業で遅くなったわたしを、先輩が送ってくれると言ってくれたのに断っ てしまった。  せっかくの好意で言ってくれたのに、ごめんなさい先輩。  実を言えば、嬉しかった。  でも、先輩のことを意識しだしてからは、何となく恥ずかしかったんです。  ――――今は、それを後悔する。  終電に間に合わせようと駅前まで急いでいたわたしに、バンに乗った男達が 「つきあえよー」なんて声を掛けてきたのは、ほんの十五分ぐらい前のこと。  人通りは、その時ちょうどなかった……。 「ヒャッホォー!!!」  誘いを断ると、男達は歩道に乗り上げるように車を突っ込ませてきた。  ――――身が、竦んだ。  後、数センチのところで急ブレーキ。  冗談にしても、質が悪すぎるいたずら。  本当に、轢(ひ)かれると思った。 「あ、危ないじゃないっ!」  どっと、冷や汗をかいた。  そんなことをする人がいるなんて、信じられなくてわたしは怒る。  けれど、車のフロントガラス越しに見える男達は、わたしが怒っているという のにニヤニヤしてる。  威嚇するように、アクセルが空吹かしされて車が唸り声を上げる。  運転席にいる男の口が、「ニゲロヨ」と動いた。  さぁ始めるぞ、と言わんばかりに車がゆっくりと動き始めて、わたしは後退り するしかない。  …………冗談、じゃないらしい。  ――――殺される!?  わたしは、逃げ出した。  振り返ると、車はやっぱりわたしを追いかけてくる。  車の強烈なヘッドライトは、バケモノの両目みたいにわたしを睨んでる。  考えるまでもなく、……人の足なんかじゃ、車からは逃げられない。  わたしは何度も転びそうになりながら、走る。  そうしないと、後ろからは冗談でも轢き殺されるぐらいに車がスピードを上げ てきてる。  それからは、必死だった。  もう頭は、逃げることしか考えてなかった――。  ――――歓声が、上がる。  ついに、わたしは肩を捕まれて引き倒されてしまった。 「っ!」  倒された時にとっさに手をついて体への衝撃は弱めることはできたけれど、そ の手が折れてしまったかと思うぐらいに痛い。 「……んんっ、はぁっ」  呼吸もままならなくて、肺が潰れてしまいそう。  心臓は、とっくに壊れてる。  わたしの好きなバンドのドラマーの人が、いつもラストで限界までドラムを叩 いているみたいに連打連打していて目眩がする。  倒れてそのまま気を失いそうだったけど、男達に囲まれた時こそ本当に気を失 うかと思った。 「イイじゃん、イイじゃん。イきがヨくってさ、ボクチン、そーゆのスきヨ〜」 「マラソンのアトは、トライアスロンってか?」 「ささ。ボクラとめくるめくカンノーのセカイへ」 「オ〜。ムズカしいコトバ、シってるじゃん」 「オウヨ。ダテにチューボウやってたワケじゃないのよ、ワ・タ・ク・シ」 「スゲー、スゲー」 「ま、イチネンしかいってねーけどナ」  笑い出す男達は、よくわからない言葉を言って興奮に眼を血走らせている。  地面に横たわる体が、地面からの冷気に一瞬の冷静さを呼び起こし、それが引 き金となって自分でも驚くぐらいの声で泣き叫ぶ。  ……でも、それはその男達を喜ばすことぐらいにしからならなかったみたい。  泣き叫ぶのをそのままに、わたしの服を無理矢理引き剥がしにかかる。  それは、当然。  ここは、新都オフィス街から少し離れた人通りのない路地裏。  ここに逃げ込んだのは、わたし自身。  とにかく、車の入ってこれない狭い路地裏に逃げ込むしかなかった。  それでも、男達は車を降りてわたしを追いかけてきた。  無我夢中だったし、男達もこちらに誘導しようとしていた気がする。  オフィス街は、昼と夜ではまったく雰囲気が違う典型的なベッドタウン。  昼は多くの人が行き交う活気に満ちた場所だけれど、夜は人気が絶えてまるで 死んでいるかのよう。  ほんの数ヶ月前には殺人事件があったし、半年ぐらい前にはたくさんヘンなこ ともあった。そんなことでも影響しているかもしれない。  こんな深夜に、誰もいるわけがない。  たとえ誰かいたとしても、何事もなかったように通り過ぎていくんだろう。 「イヤァ……、イヤァァァ……!」  ……後の記憶は、曖昧。  この状況を認めたくなくなくて、頭がしっかり働いてくれない。  手足をつかまれているところは痛くて熱いくせに、だんだんと夜気に触れてい る肌の部分が多くなって寒く感じるのを他人事のように感じてしまう。  太陽の明かりは暖かいのに、人がつくった街灯の明かりはなんて冷たいんだろ う……。  灯りに照らし出された男達は、そのシルエットが浮かび上がってわたしには黒 い影法師に見える。  その顔には、笑いのカタチに吊り上げた口と、爛々(らんらん)と光る目だけ がやけに強調されて、悪夢にでも出てくる仮面の悪魔かなにかのように見えてし まう。  それが上下、左右、ユラユラと揺れ動いて、わたしを嘲笑う。  正直、しっかり頭が働いていたら、正気なんか保っていられない。 「ホラホラ、あんまりウルサイとぶっちゃうカラ」  そう言いながら男達は、わたしの頬やお腹を殴りつける。  口の中が切れて、血の味がした。  お腹を乱暴に殴りつけられて、息に詰まる。  そして、泣いてしまった。  泣いてしまったら、もう負けを認めてしまったのも同じ。  痛くて、悔しくて、自然と涙が出てくる。  何度もぶたれて、もうわたしは抵抗する気がなくなってしまっていた……。 「――先輩、先輩、先輩」  助けを求めて、先程から呪文のように繰り返される言葉は、両親でもなく、仲 の良い親友でもなく、あの先輩というのが少し可笑しかった。  ――――先輩のことは、わたしはこんなにも特別だとわかったから。 「サ、ボクラといっしょにアッタカいトコで、いいコトしようネェ」  わたしに抵抗する気がなくなったことを悟ったのか、男達は無理やりわたしを 立ち上がらせて、どこかに連れて行こうとする。 「ごアンナイ〜、ごアンナイ〜」  男達は、涙ぐむわたしを囲んで笑う。 「……誰か、いるのか!?」  そんな時、切羽詰った声がわたしの耳に飛び込んできた。  信じられなくて、わたしは顔を上げる。  でも、何となく想像できてしまった。  人が良くて、努力しているのに報われなくて、何かと間が悪くて損をしている あの人なら、こんな状況に巻き込まれることもあるかもしれない。  例えば、悲鳴が聞こえたら、あの人なら助けにこようとするだろうから。 「オ、ナンだ、テメェ!?」  男達は、突然現れたあの人に足止めされる。 「な、何をやっているんだ!?」  やっぱり、その声はいつも聞き慣れていて、こんなところを一番見られたくな い人だった。  ――――先輩。 「……せ、先輩……」  呆然と呟く声が聞こえたのか、先輩は声を無くす。 「――待っていろ、すぐ助ける」  今まで、一度も見たこともない怒った先輩の顔。  突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に、男達は不機嫌ながらも別段慌てることも なく先輩を迎え入れる。  こんなことにも慣れているのか、まずは余興として先輩を相手に決めたんだろ う。  五人の男達の内、四人が先輩の方に向かう。 「オー、オー、カッコイー」  男達は不機嫌そうに、はやし立てる。  先輩は手に持っていたスーツケースを振り上げて、男達に立ち向かう。  少し、驚く。  大人しくて人の良さそうなあの先輩がスーツケースを振り回し、何やら空手め いたもので戦ってる。  傍から見ていてもわかる。先輩は何か格闘技をやっていたのだろう。  でも、多勢に無勢。  わたしを拘束している一人を除いて四人がかり。  一対一なら先輩は負けなかっただろうけど、相手はずいぶん喧嘩慣れしている みたいで分が悪かった。  最初の内は優勢だったけれど、先に倒された一人が先輩の背後に回って頭を殴 りつけてからは形勢逆転してしまった。  男達は、地面に倒れた先輩を滅多打ちにしている。  予想外に先輩が強かったこともあって、男達は異様に興奮しているようでその 攻撃は容赦がなくて、本気で殺しかねない。 「止めて、止めて、離して!」  暴れるけれど、一向に拘束されている手の力は弱まることない。 「よくミなよ、キミのためにガンばってんだしサァ」  腕を逆に捻り上げて捕まえている男に、わたしは滅多打ちにされている先輩を 見せつけられる。 「サ、キミもサービス、サービス♪」 「!!!」  そうやって、わずかに残った服さえ剥がされて、わたしの胸が露わにされた。 「や、止めろ!!!」  先輩は男達に踏み続けられるのに構わずに、怒った顔で叫ぶ。 「……イヤ、先輩、見ないでぇ……!」  こんなところを先輩にだけは見られたくないのに、わたしは嬲られ続ける。 「キモちイイ? ネ? キモちイイ?」 「……イヤぁ!」  誰にも触られたことないのに、胸を乱暴につかまれ、太股の辺りを触られる。 「……んんっ!」 「カンじちゃう、カンじちゃってるよネ?」  その男は更にわたしの首筋や耳を蛭のように舐めまわし始めて、鳥肌が立つぐ らいに気持ち悪くて、不快感しかない。  ……でも、わたしのそんなものなんて、先輩が傷ついていくことに比べたら些 細なこと。 「……や、止めろ。その人を……離せ!」  今も先輩は苦しそうなのに、わたしの方に必死に手を伸ばそうとしている。 「先輩、先輩! 逃げて、逃げてください!」  わたしのことなんかいいから、逃げてと願いをこめてわたしは叫び続ける。 「シュ〜ト〜!!!」  男の一人が、助走をつけて先輩のお腹を蹴り飛ばす。  その先輩は、数メートル転がって壁にぶつかった。  咳き込みながら、先輩の口から血が溢れたのを見て血の気がひく。  それを見た男達は、「ゴォール!!!」なんて、叫んで喜んでる。 「ホラホラ、もっとカッコイイとこミせなきゃダメじゃん?」 「ハハッ、ダッセー!」  男達は言いたい放題言って、ゲラゲラ笑う。  先輩は気絶してしまったらしく、呻くばかりで身動き一つしない。 「アレマ! もう、キィウシナちゃったノ?」  反応が無くなったのを、男達は先輩の頭を足で小突いて確かめる。  ここからじゃよくわからないけれど、顔を腫らした先輩の容態はとても危険だ ということはわかる。 「ハイ、ハーイ! そのニイさんも、ボクラといっしょにカノジョとアソびたい とオモいマース!」  男達の一人が、手を挙げて信じられないことを口にする。 「オオ、イイことユーじゃん」 「ナカマハズレは、ヨくないよネ」  男達は、それは名案とばかりに先輩を起そうとして――。 「――ホレ、キつけ」 「オウ」  男の一人がナイフを取り出して、屈みこんでいる男に投げて渡す。 「ハヤくオきないと、グリグリしちゃうヨォン」  パチンと刃先を出して、その男はニヤリと笑う。 「先輩!!!」  その男が先輩の足にナイフを振り下ろそうとしているのがわかって、何かのタ ガが外れてしまった。  多分、今までの人生の中でもこれほど一生懸命になったことはなかったと思う。  もう必死で、わけがわからなくなるぐらい必死で抵抗してわたしは拘束から抜 け出そうとする。 「あー、ダメダメ。ニガさないヨ」  いくらわたしが暴れても、男のつかむ手は緩んでくれない……と、思ったら――。  ――――不意に、その拘束が無くなる。  不審に思う間もない。  急がなければ、先輩にナイフが今まさに振り下ろされようとしているんだから! 「やめて!!!」  迷うことなく先輩の方に走り出して、先輩の上に覆いかぶさる。  喧嘩なんてしたことのないわたしに、先輩を守る方法なんてこれぐらいしか思 いつかなかった。  目を固く閉じて、どくまいと先輩の体に強くしがみつく。 「オー、ケナゲー」 「ナニしてんの、ナニ? アンタ、ジャマよ、ジャマ!」 「キミは、アトでボクらがセイシンセイイ、アイテしてあげるからサ」  その上からは、男達の罵詈雑言が降ってくる。 「チッ! ……ダメーじゃん! きちんとオサエといてくれないと、いくらオン コーなボクチンでもキレちゃう……ヨ?」  様子がおかしい。  もう先輩の上からどくまいと覚悟していたのに、何もされない。 「……?」  代わりに、男達の困惑した空気が感じられるだけ。  その空白の時間と、わたしの下にかばった先輩の体温と息遣いに多少安心した ためだろう、少し冷静になる。  ……そういえば、どうしてわたしはあの拘束から抜けだすことができたんだろ う?  恐る恐る目を開けると、男達はわたしを拘束していた男の方に目を向けたまま 絶句していた。  その理由は、嫌というほどわかる。 「――っひ!」  漏れた悲鳴は、果たして誰のなんだろう。  ――――黒い霧が、男を包み込んでいた。 「……ジョ、ジョーダン、だよナ?」  その言葉は、この場に居合わせている全員の代弁だと思う。  濃密な黒い霧に包まれた男は、苦しそうにもがくけれど声が出せない様子。  開かれた口からはあの黒い霧が流れ込んでいるみたいで、呼吸ができないらし く顔がみるみる赤く、紫色に変わっていく。  本当に何の冗談か、男は三十センチほどだけど、宙に浮いている。  怪異は、続いてる。  ――――生気が失われて、干乾(ひから)びていく。  その様子は、いつか見た理科のビデオ。  カエルさんの死骸が自然界の中でどうなっていくのかを、早回しでやっていた のに似ていた。  可哀そうなんてその時は思ったけど、今は生きた人間がそう。映画をみている ようで、まるで現実感がない。  そして、男の助けを求めるようにさまよう腕は、ただの丸太になったみたいに ボロリと落ちて、砂みたいに崩れていく。  ……そう、崩れて何も残らない。  ――――服だけが、パサリと落ちる。  男を呑み干してしまった黒い霧は、次の獲物を探すように――。 「――クルシイ、…………クルシィィィ!!!」  黒い霧は無機質で掠れる呻き声で、わたし達に訴える。  男達の理性も、それが限界だったみたい。  あとは絶叫しながら、わたし達のことなんて目もくれずに逃げ出そうとする始 末。  あんなものに、彼らの脅しなんて意味ないし。  あんなものに、彼らの人数なんて意味ないし。  あんなものに、彼らの暴力なんて意味はないし。  あんなものに、ナイフなんてそれこそ意味はないだろう。  生きているなら、誰でもわかる。  さっきまで、男達にとってわたしと先輩がそうであったように、今は立場が逆 転している。  ――――わたし達は、ただの狩られるだけの存在。  男達は、お互いにぶつかり合って罵りあう。  混乱はここに極まり、逃げる方向さえ定まらず仲間同士で、押せや退けやの大 騒ぎになっている。  考えることは、わたしも同じ。ここから逃げ出したいということ。  わたしはすっかり腰が抜けて動けなかったし、何より先輩の前から動きたくな かった。  逃げられなかった理由はそんなもの。  情けないことに歯をカチカチと鳴らして、地べたに座って駄々をこねる子供の ようにわたしは頭を振って現実を否定しようとしてただけ。  それに、例え逃げ出せることができたとしても、あの黒い霧みたいなものには 無駄なことだったと、頭のどこかで理解していたし。  黒い霧は、なんだかさっきよりも輪郭がはっきりしてきて、ヒトの形をとり始 めている気がする。  腕みたいなものを逃げ出した男達に向けると、そこからナニかが、飛び出して いく。  例えるなら、銃弾。  映画やドラマでしか見たことない、あの銃弾。  それが、あの黒い霧からたて続けに放たれる。  ――――世界は、真っ赤になった。  真っ赤に染まった世界で、銀色のナイフが宙でくるくる回ってる――。  顔にかかった飛沫(しぶき)は、焼けるようにアツい。  手で拭うと、それは赤くて、ドロリとしてる。  がしゃん、とわたしの前にナイフは落ちてきた――。 「――……! ……、…………!!!」  わたしの悲鳴は、引きつるような喘ぎ声にしかならなかった。  呆然としている間に、あの黒い霧は触手めいた腕を何本も伸ばし始める。  それに引きずられていく、男達。  ……ずるずる。  頭が、無いモノ。  胸が、無いモノ。  左肩が、無いモノ。  ……足が、無い者。  完全に生きていないモノの中で、その足が無い者は生きていた。 「ア? ァアァアァ??」  突然のことで理解できないのか、走れないことを理解できないのか、ただ驚い た顔のまま呻き声を上げ続けている。  それが、わたしの目の前を通り過ぎて――。  ――――わたしの足首をつかむ。  ぞっ、とした。  意識があっても、意識がなかった夢の中にいるような状態から急に醒める。  いっそ、壊れてしまっていた方が良かったのに。  ……ずるずる。 「ヤヤァァ!!!」  少しでもあの黒い霧から離れたいぐらいなのに、それに引き寄せられるのはと ても怖いこと。  その時の感情は、ただ怖かった。  男の手は万力のように強い。  先輩の体にすがろうとして、やめる。  引きずられていく先は、逃れられない死。そんなところへ、先輩をいっしょに 連れて行くわけにはいかない。  でも、温もり――先輩の体から離されていくのは、本当に心細くて、怖い。  ……ずるずる。 「は、離して! た、助けて!」  怖いから、少しでも生きたいから、カミさまやホトケさまと色々なものに祈っ てしまう。 「タ、タスケてくれ……」  わたしの足をつかんでいる男も、そう懇願していた。  けれど、わたしにはその男が地獄へと引き寄せようとする亡者か何かに見えて しまう。 「――っ!」  わたしはそれから逃げ出したくて、その手に触れた何かを――転がっていたナ イフをつかむと、その手に突きたててしまった。 「ギャー!!!」  男は絶叫して、その手を離した。 「テメェ、タスケロ、タスケロヨォ!!! タスケロヨォ!!!」  男の恨みがましい声に耳を塞いで、先輩のところまで這いずって逃げる。 「……タスケテェ、……タスケテェ、タスケテクダサイィ……」  その声も遂には泣き声となって、わたしに助けを求めている。  わたしに助けを求められても、困る。  自分の命さえ守ることができないわたしに、あなたを助けることなんてできな いのに……。  ……ずるずる。  男の手は必死に引きずられまいと、地面に爪を立てている。  けれど、逃げる術(すべ)の足を失った彼にとっては、意味の無いこと。  爪はすでに剥がれ、自分の血を絵の具にして赤い線をずっと描いていく。  黒い霧は、引き寄せたものから順に呑み干す。  それは楽しむというよりは、渇きを癒す必死さみたいなものが感じられる。  まだ生きているものにも関係無しに、あの黒い霧はつかみあげてその首筋に、 口らしきものをつけて貪るように吸い上げる。 「ア、アア、アァアァァアア!!!」  その男の断末魔は、生涯忘れられそうにない。  ――――枯れていく。  男の手に突き刺さっていたナイフが、カランと音をたてて落ちる。  残ったものは先程と同じように服だけ。  その頃になるとあの黒い霧は、更に濃密さを増してヒトとしての形になってい た。  ……今のところ助かっているのは、わたしが逃げ出さないからだと思う。  もとより、あの黒い霧はこの場にいる誰も逃す気はない。  男達を殺したのは、逃げだそうとしたのを止めたにすぎない。次はわたしだろ うということも、何となく理解してしまった。  わたしは、黒い霧の中に灯る二つの赤い光点みたいなもの――目と合う。 『死ネ』  ただ、それだけをあの赤い目は要求していた。  あの赤い目に睨まれたら、体が萎縮した。  あの赤い目に睨まれたら、心が砕けた。  あの赤い目に睨まれたら、魂が罪の意識で凍った。  …………どうして、わたしなんかが生きているんだろう?  そんなことをぼんやりと思いながら、あの黒い霧が近づいてくるのをわたしは 待つ。  むしろ、心待ちにしていた。  この時、わたしは全てを忘れて『死』に魅入られていたと思う。 「……ゆ、き、だ、わ」  だから、夏なのに雪が降ってくるのを不思議とも思わずに眺めていた。  雪が舞う。  その中を、黒い霧はゆっくりとわたしに近寄って――。  ――――空を、見上げる。 「……あ、れ?」  あの赤い目が空に向けられたことで、いつしか『死』の呪縛が解けていた。 「……ココ、ココハ? ナンデ、ボクハ……?」  黒い霧は、そこで意識がはっきりしたかのように呟いていた。  それは、今までの自分の行動もわからないように夢から急に覚めて、呆然とし ているようも見えた。  わたしも、それにつられて空を見上げる。  ――――月が、出ていた。  もうすぐ満月になりそうな、少しだけ真ん丸が欠けた、とても綺麗な月。  その月が、立ち込める分厚い雲からのぞいている。  フワフワと舞い降りる雪を淡く照らす月は、馬鹿みたいに綺麗で――。 「……シ……、ロ……ウ……」  震える声で、誰かの名前を呟いた気がした。  その呟きは、雪の舞い落ちるサラサラとした音よりも小さくてよく聞き取れな い。  それがきっかけになったのか、月明かりに彩色されるように黒い霧は本当に 『人』へと変貌を遂げていく。  ――――灰色の髪の男へと……。  黒い霧から“人”になったその人は、白い和服を着ていることもあって、昔話 でよく出てくる雪女なんかをイメージしてしまった。男の人、だけど……。  でも、間違ってはないと思う。  こんな雪の降る日に現れて、白い装束を着ていたら誰だってそう考えたくなる に違いない。  それぐらい、この灰色の髪の人は幽霊みたいに儚い感じがする。  わたしでは理解できる範疇をとっくに超える連続ばかりで、もう声も出せず、 身動きひとつできずに立ち尽くすその人を見つめ続ける。 「……ぐ」  そんな静かな時間も、わたしの後ろにいた先輩が苦しそうに呻くことで動き出 す。  ぼんやりと月を眺めていた灰色の髪の人は、わたしの方へと視線を変える。  振り返ったその人の目は、あの黒い霧と違って黒い目だった。 「怖い思いをさせてすまなかったね、大丈夫かい?」 「……え、あ、ああ、ええ?」  あの黒い霧から出てきた男に優しげに声をかけられるとは思ってもみなかった ので、心底驚いてしまう。  その人の雰囲気は、黒い霧の時のような怖さは消えて、穏やかなものになって いた。  害意は無いことは理解できて、むしろこちらを案じているような気配さえある。 「ひっ!」  それでも、その人がこちらに近づこうと歩き出したときに思わず悲鳴をあげて しまった。  わたしが怯えているのがわかると、その人の足は止まる。 「すまない」  そう言うその人の表情は、本当にすまなそうだった。 「…………冷えるから、とりあえずこれを」  その人は落ちていたパーカーを拾うと、わたしに放り投げる。  心なしか、その視線はやや避けられている気がする。  ようやく、自分があられもない格好をしているのに気がつく。  慌てて、心情的に身につけるのはためらいを覚えてしまうけれど、男が着てい たパーカーを羽織る。  タバコとお酒、汗の臭いがするけれど、背に腹は変えられない。  それに、あそこに散乱している遺品――服の中では、これが一番被害は少なそ うであることは確かなのだし。 「後で救急車を呼びに行くけど、今はその人に応急処置しないといけない。  ……いいかな?」  それが近寄ってもいいか、という問いにわたしは迷う。  ともあれ今のわたしでは、正常な判断力があるのかわからない。  それでも、今は先輩の命に係わることだと判断して今はそれが正しいような気 がして頷く。  良かった、とその表情が目に見えて柔らかくなり、その人がこちらに近づいて くる。 「――くっ!?」  なのに、突然顔を険しくして大きく跳び退くのは同時だった。  ざんっ、と突き立つ、何か。  ――――十字架。  でも、鈍く輝く刃先があるから、その十字架は剣か何かだと思う。  それに次いで、黒い大きなモノが上からわたしの前に降り立つ。  その正体は、黒い服――神父さんみたいな服を着た人だった。 「生者に触れるな。退け、悪しき者よ」  おじいさんといった感じの神父さんは、わたしをかばうようにあの人の前に立 ちふさがる。 「……代行者か?」  神父さんを見た、あの人は忌々しげに呟く。 「ほう、私が代行者とわかるのかね?」 「“黒鍵”(こっけん)なんて危ないもの投げてくるのは、代行者以外にいない んじゃないかな」 「…………どうやら、ただの悪鬼の類ではなさそうじゃな」  短いやりとりの間で、お互いに緊迫感が増していく。  “だいこうしゃ”、“こっけん”、なんてわたしが聞いたことのない単語が耳 を通り過ぎていく。  よくわからないけれど、とりあえず神父さんみたいな人を、代行者というらし い。 「……何者だ、貴様?」 「……何者? さあ、僕が何者かなんて、僕だってわからないよ」  神父さんの殺気の篭った問いに、あの人は自嘲気味に答える。 「……む? いや、その顔は見覚えが…………、ば、馬鹿な!? 貴様が、なぜ!?」  しばらく油断なく対峙した神父さんは、あの人のことを知っていたのか、ひど く驚く。 「へぇ、僕のことを知ってる?  まいったな。僕の知り合いの代行者で生きてるのは、三人……いや、二人くら いなものと思っていたんだけど」  その一言で、神父さんは一気に緊張を高める。  あの人は言外に、自分のことを知った神父さんの仲間は死んでいる、と言って いる。  どうして死んでいるのか、あの人が何をしてきたのか、薄く笑っているあの人 の顔を見たら、わたしでもわかってしまった。  神父さんは、辺りを見回す。  散乱する服と、大量の血痕、倒れた先輩とわたし。  何があったのかを想像するのは難しいけれど、ここにいるのなら当事者以外に ありえない状況なんだろうと思う。 「……最近の失踪事件に関係ありと判断する」 「さて、何のことやら」  怒気を漲らせる神父さんに対して、あの人は飄々(ひょうひょう)と返す。 「とぼけるか? どうして貴様がいるのか、ゆっくりと話を聞きたいところじゃ が、その禍々しい邪気は危険すぎる」  神父さんは呟きながら、じりじりと左の方へと移動していく。 「どうする、気かな?」  あの人は神父さんに視線を合わせたまま、その場を動かない。 「――主に代わり、殲滅する……!」  そう宣言すると、神父さんは懐から何かを抜き出した。  抜き出されたものは、さっきの十字架みたいな剣。  その剣が三本ずつ指の間に握られ、胸の前で両腕を交差させて構える神父さん。 「それは、僕を相手にしていたら、後ろの人が危ないことを知ってのことかな?」  口調は穏やかだけど、あの人はどこか苛立ちを抑えながら神父さんに問う。 「……フン、言われるまでもない。貴様を早急に排除して、治療にあたらせてい ただくとも」 「そうかい? なら、僕は失礼するから、二人のことはお願いしますよ」 「抜かせ!」  神父さんは構えていた十字架を投げ放つ。  いつ投げたのかさえわからない早業で放たれた十字架は、プロ野球選手の豪速 球みたいな風切り音を上げて飛んでいく。  あんなの避けられっこない、と思った束の間、あの人はわずかに身を逸らすだ けでやり過ごしてしまう。  まるで、十字架の方があの人を避けていったかのような不思議な光景だった。  かわされて、空しく通り過ぎた六本もの十字架は壁や地面に突き刺さって――。  ――――爆発した!  ……ごうごう。  十数メートルは離れているわたしのところまで熱風が襲うくらいに、あの十字 架が真っ赤に燃え上がっていた。 「怖い、怖い。当たっていたら、火傷じゃすまないね」  あの人は、燃え盛る炎を背に何事もないように呟く。 「……ぬぅ」  あたることを確信していたんだろう、神父さんが悔しげに唸る。 「じゃ、今度は僕の番……」  ニコリと場違いな微笑さえ浮かべて、あの人はナイフを弄(もてあそ)んでい た。  いつの間に手にしたんだろう? あれは、わたしも使ってしまったあのナイフ。 「ゴメンね」  あの人はなぜか、わたしの方に視線を送って謝る。  疑問に思う間もなく、あの人は空き缶を投げ捨てるみたいにそのナイフを投げ る。  ゆったりとした動作だったのに、あの人の手から離れたナイフは光のように鋭 く飛んでいく。 「な!?」  飛んでいく先は、神父さんやわたし達の方じゃなかった。  ……パァァン!  見当違いともいえる方へ飛んでいった先は、わたしと先輩のちょうど真上にあ るビルの窓ガラスの方。  ガラスに物が当たれば割れてしまうのは、当然と言えば、当然。  でも、その割れ方が風船みたいな音をたてて、爆発するように粉々に砕けてし まうのは、不思議と言えば、不思議だった。  その破片は、キラキラと雨のように崩れ落ちて、わたしと先輩の上に降り注い でくる。 「きゃっ!」  とっさのことで、わたしは先輩の上に覆いかぶさる。 「む、いかん!」  それを助けてくれたのは、神父さん。  上着を広げて、わたしと先輩を覆ってかばってくれた。  粉々になったとはいえ、けっこう高いところから落ちてくるガラスの破片は痛 そうなのに、神父さんは無言で耐え続ける。 「……あ、あありが……」  お礼を言う前に、わたしの声はけたたましい音にかき消される。  ――――鳴り響く、警報。  窓が割れたせいで、ビルのセキュリティが働いたみたい。 「……やってくれる!」  神父さんは上着のガラスの破片を振り払うと、あの人を忌々しそうに睨みつけ る。 「もう行くよ。あ、そうそう。君達も早くここを離れないと、タイヘンだよ。  “人払い”の結界は張ってあったんだろうけど、そこの警報ですぐに警備員が 駆けつけてくるだろうからね」  どうやら、その警報自体があの人の思惑だったらしい。 「待て、この私がそれを許すと思うか?」  無防備に背を向けて歩き出したあの人を、神父さんは再び十字架を取り出して 引き止める。 「――追ってくるのは、別に構わない。……でも、その時は、“殺す”」  こちらを振り返って、あの人は冷然と言い放つ。 「!?」  その一瞥に、さすがの神父さんも動けなくなってしまっていた。  明かりの届かない影の中にいるから、あの人の顔はよく見えない。  でも、とてもとても怖い目でわたし達を見る。  ――――真っ赤な目。  わたしは、あの真っ赤な目を見てしまって、動けない。  今、指でも動かせば、その瞬間に殺されてしまうと思った。  寒さで震えていた体が、ぞっとする冷たい目で睨まれて凍てついたかのように 震えさえも止まってしまう。  あの人がこちらを振り返っていたのは、ほんの一瞬。  その一瞬は、わたしには数分のように感じられた。 「……じゃあね」  去り際にそう言い残し、あの人はわたし達に背を向けて、突然いなくなる――!?  ……いや、違った。  わたしの目が追いつかなかっただけで、あの人はビルの壁に向かって飛び上が っていた。  信じられないことに、あの人はビルの上に向かって壁の間を三角飛びするみた いに駆け上がっていく。  ビルの屋上まで二十メートルぐらいのところを、五秒もたってないと思う。  その人間離れしたジャンプに、わたしは唖然とする。  ふわり、と重さを感じさせないでビルの屋上の縁に降り立ったあの人を、雪の 混じった風が吹雪いてその姿を覆い隠してしまう。  ……びゅおう!  その風が通り過ぎた頃には、あの人はビルの上にはいなくなっていた。 「…………逃げた? いや、見逃してくれた……か?」  あの人がいなくなると、金縛りから解けたように神父さんは深い息をつく。  明らかに安堵のものだった。  だって、わたしもそうだったし。 「君、大丈夫かね?」 「……あ、はぃぃ……」  だから、神父さんの声を聞いて、わたしが意識を保てたのはここまで。  けど、消えていく意識の中で、お月様に目が奪われる。  ――――泣いている。  吹雪(ふぶ)く雪は、まるでお月様が泣きじゃくっているみたいだった……。     次頁へ

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