眩暈。
 懐かしいと言っては変だけれど、それは馴染みの感覚だった。
 でも、久々だな。
 今にも気絶しそうなのに、変な余裕。
 そう思いながら、電話番号を告げた。
 普通の医者ではない方がいい。
 なるべくはっきりと口にして、すぐに限界が来た。
 真っ暗になった。
 視界も、頭の中も。

 
 
 疲労感。
 何もかも吸い取られたような空っぽの感覚。
 渇く。
 口を開き、何かを言おうとしたが声も出ない。
 ……。

 何かが唇に触れた。
 何かが口の中に流れ込んだ。
 それを飲み込む。
 甘いのか、苦いのか。
 味なんてわからない。
 でも、喉を流れ落ちた時に、美味いなと思った。

 目をゆっくりと開く。
 ああ。
 一子さんだ。
 顔を近づけ、唇を合わせる。
 口移しに何か入れられた。
 甘酸っぱい。
 飲み下す。
 その間、目が合っていた。
 
 はぁ。
 溜息。
 一心地ついた。

 もぞもぞと体を起こそうとすると、一子さんは背中を押して手伝ってくれた。
 かなりだるさがあるが、倒れるほどではない。

「大丈夫か、有間」

 心配そうな声。
 大丈夫ですと答える声が自分でも弱々しい。

「もっと飲むか?
 起きたら何でも良いから水分を取らせろって言われたけど」

 一子さんの手には半分くらい減ったグラス。
 口に蜂蜜の甘さが残っている。
 あと、何か柑橘系の香り。

「唇奪われちゃった……」
「仕方ないだろ、飲ませる道具とかないし……、冗談言えるくらい回復したか」
「はい。あ、でももっと飲みたいな。いえ、自分で」

 受け取って飲む。
 レモンか。
 一子さんなりに滋養を考えたのか、一応手作りっぽくて美味しい。

「だいたい、有間とはときどき熱い口づけを交わしているそうじゃないか」
「翌日にはイチゴさんは記憶に残してませんけどね」

 酔っても平然としているけど、たまにキス魔になるんだから。

「それじゃ、有間だけいい思いを……、来たな」

 玄関のチャイム。
 往診兼お迎えの到着。
 一子さんは下へと降りていった。
 
 また横になった。
 天井を眺める。
 しげしげと見ている訳では無いけど、良く憶えているな、この天井。
 乾家の馴染みの……。
 ……。

 
 
  
「有間、おい……」
「え、あ。あれ、うたたねしてたかな。
 どうしたんです、イチゴさん?」

 少しなんというか奇妙な顔をして俺を見ている。
 どう言おうか言葉を選んでいるみたいだ。

「琥珀さん、来てくれたんですよね」
「いや……」
「琥珀さんじゃないんですか?」
「ああ」

 なんだか歯切れが悪いな。
 でも、琥珀さんじゃない?
 じゃあ、誰が。
 まさか秋葉が来て一悶着起こしたとか。
 
「志貴くん」
「え、あ、朱鷺恵さん?」

 一子さんが戸口から体をずらすと、見知った顔が覗いた。
 朱鷺恵さんだった。
 何で、こんな処に。

「ええと、お電話いただいたんだけど。志貴くんが倒れたからって」
「え? だって確か家に電話して貰って……」
「いや、有間の連絡先なら教えて貰うまでもないけど、知らない番号だったな」
「あ、もしかして昔の癖で、時南医院の番号を」
「きっと、そうよ」

 なるほど。
 ありそうな話だ。
 変な話、自宅に電話する事ってそんなに無いし。
 しかし、ちょっと狼狽してしまう。

 ここが乾家の一室である事とか。
 有彦がいるならまだ良いのだが、今は一子さんしかいない事とか。
 その一子さんのいる処に朱鷺恵さんが現れた事とか。

 よく考えれば何もまずい事は無い……、ような気もするけど、本能的に、上
手に立ち回らないととんでもない事態を招くと感じていた。
 朱鷺恵さんの柔らかな笑顔の中の何かに。
 一子さんの何とも微妙な表情の何処かに。
 非常にきな臭い匂いが漂っていた。

「取り合えず治療しましょうか」
「え、朱鷺恵さんが?」
「お父さんいなかったから。大丈夫よ、お薬はわかるし」

 気を取り直したように朱鷺恵さんがきびきびと動き始める。
 どこか空気が変わった。

「うん、じゃああたしは外に出ているから」

 朱鷺恵さんに必要なものを確認し、一子さんは部屋を出た。
 さてと、とどこか嬉しそうな顔で、朱鷺恵さんは診察を開始した。


「ああ、やっぱり。
 志貴くん、最近はだいぶ体の調子が良くなっているんだけどね、決して無理
していい状態じゃないの。
 これまで抑えられてたから、元気だと思って負荷をかけると体のあちこちが
おかしくなるの」
「元気になっているのに?」
「どんなに凄いスポーツ選手だって、病気や怪我で入院生活を送ったら、念入
りにリハビリ期間を取るものよ。
 志貴くんはそれなしで走り回っている状態なの。
 前なら倒れる処を、あっさり越えちゃってるから自分では自覚無くても、別
の限界がすぐに来るの。本来の志貴くんの状態よりは悪いんだから」
「そうですか」

 脈を計り、舌や目を診る。
 血圧を測り、宗玄先生の書いた診察書を確認する。
 
「とりあえず、これ呑んでね。それと、針で体調を整えてあげる」
「はい、お願いします」

 言われるままに俯けになる。
 朱鷺恵さんの指が、肩や背骨の線を探る。
 ツボを的確に判断しては、針を刺していくのがわかる。
 何本くらい針が立っているのだろう。

「こんなものかしら」

 そう言った朱鷺恵さんの声は平然としていたけど、疲れを含んでいた。
 肉体的なものより、集中と緊張による精神的な疲れ。
 わざわざ来てくれて、ありがたいなと思う。
 

「お父さんがいたら良かったんだけどね」
「こんな処まで来てくれないでしょう。それに朱鷺恵さんの方が嬉しいです」
「そう、お世辞でもありがとう。でも、ここに志貴くんの素敵な人がいるなん
て知ったら喜んで来たと思うわよ」
「え?」
「年上のお姉さん、か」
「へ?」

 なんの話だろう。
 わからない。

「綺麗な人よね、一子さん」
「ええと……、それはまあ、綺麗な人ではありますが」
「それに、さっきの電話でもしっかり用件は伝えて、必死でお願いしますって
言われたし、良い人よね」
「そういう側面があるのは、否定しませんけど」
「そっか、ふーん」

 なんだろう、妙な引っ掛かりが感じられる。

「そっかあ、志貴くん、そんな良い女の人に愛されているんだね」
「……」
「せっかく二人きりだったのに残念だったわね。
 あ、眩暈って……」

 顔だけ横にして見ると朱鷺恵さんは真っ赤になっている。
 なんとはなく、何を想像しているかわかった。
 つまり一子さんと二人で負荷が掛かりすぎる運動行為をしていたと……。

「あの、朱鷺恵さん、何か勘違いを」
「いいのよ、隠さなくても。
 あ、家の人たちにはまだ秘密だったなら、琥珀ちゃん達には黙っているね」
「なんで変な方には気が回るんです。俺と一子さんは」

 と、その時、襖が開いた。
 一子さんがお盆片手に登場。
 やや、驚愕の目でこちらを見ている。
 上半身裸で寝そべっている事にか。
 背中や肩に無数の針が突き立てられている事にか。


「お茶だけど」
「あ、すみません」

 すぐに落ち着いて、座卓にお盆を置く。
 ん?
 なんだか、少し雰囲気がいつもと違う。

 信じられないほど淑やかな仕草で、お茶を並べている。
 それに、あれ?
 一子さんの髪、ポニーテールなのは同じだけど、無造作に束ねてあったのが
どこかすっきりした感じに見える。
 それに、薄く化粧を整えていて、凄く綺麗だ。
 いつもの感じではないけど、その微かな手入れで凄く見栄えがするようにな
っていた。
 なんで、また急に?

 まあ、いいや、それより調度良かった。
 一子さんからもフォローして貰おう。

「で、俺と一子さんは、の続きは?」
「へ?」

 機先を制された。
 立ち聞きしていた訳ではないだろうけど。

「志貴くん、素敵な恋人がいていいわね、って言っていたんです」

 朱鷺恵さんが罪の無い笑顔で言う。

「ほう、有間にいい人がいたとは初耳だ」
「ほら、朱鷺恵さん、聞いたでしょ」
「あら」

 一子さんは怪訝な顔。

「朱鷺恵さんが、イチゴさんのこと俺の恋人だって勘違いして」
「ああ、なるほど」
「ね、イチゴさんは……」

 どう説明したものだろう。
 ちょっと言葉につまっていると、一子さんが言葉を続けた。

「ときどきやって来ては一緒に食事をして、風呂なんかにも入って、一晩過ご
して帰っていく、そういう関係だな。まあ、有間には恋人とは思って貰えない
ようだが……。
 今夜は有間の匂いが染み込んだベッドで一人寂しく眠るのかな」
「な、な……」

 うろたえて声も出ない俺と裏腹に、一子さんは寂しげな笑みなど浮かべて見
せる余裕振り。
 朱鷺恵さんは、やっぱりという顔。

「冗談だよ。長らく弟の友人などやって貰っているので、姉であるあたしとも
親しいだけだから。あたしの部屋で寝かせたのも、弟の部屋の惨状を他人に見
せるのがはばられただけだから」
「そ、そうだよ。有彦のお姉さんなんです」
「なんだ……」

 どこか嬉しそうに聞こえるのは何故だろう。
 そろそろいいわねと、どう聞いても弾んだ声を出して、針を抜いていく。
 なんだか、凄く疲れた。
 針は効いている筈なのに。

 でも、普通に起き上がれる。
 一子さんが興味深そうに針灸の事を質問しているのをやれやれと思いつつ、
脱いであったシャツを着た。

「そっか。年上だから志貴くんに捨てられたと諦めていたから、一子さんの事
見て凄く衝撃を受けちゃった」
「ほう、有間に……」

 待て、なんでそんな話に。
 慌てて介入する。

「ちょっと、待ってよ。イチゴさん、違うんです」
「面白そうな話じゃないか」
「志貴くん、渾名で呼ぶほど親しいんだね」
「いや、だから」

 頭が沸騰しないのが不思議だった。

「いつ頃付き合っていたんだ?
 不覚にも全然知らなかった」
「ええと、どう言ったらいいのか、ええと、ええと」
「私のこと、話すのも嫌なんだ。
 それだったら何で私と……。
 酷いわ、志貴くん。私が初めてだって言ってあんなに愛してくれたのに……」

 な、
 わ、
 あ、
 そ、
 頭に言葉が出てこない。
 凄い勢いで心臓が動いている。
 ちょんと突付かれたら、ばらばらになって崩れ落ちたかもしれない。
 
 一子さんも目を見開いて朱鷺恵さんを見つめている。
 何か言いかけては、口を閉じる。
 それを繰り返して、突然こっちを見た。
 じっと魂まで見通すような目つき。
 しばらく俺を冷たい目で睨むと、また朱鷺恵さんに顔を向けた。

「ちょっと、ええと時南さん」
「はい?」

 ちょいちょいと手招きして、自分からも顔を近づける。
 そして額を合わせるようにして一子さんは朱鷺恵さんと小声で話し始めた。
 ひいふうのと指を折っているのが凄く不安を誘う。

 あ、こっちを見てる。
 うわあ。
 凄い形相。

「有間……」
「は、はい」

 震えながらも静かに重い口調が怖い。
 直立不動な気分。

「おまえ……、おまえ……、有間、おまえ……」

 だんだんと語尾の震えが大きくなり、声量も上がっていく。

「あの時、あたしが初めてだって言っていただろう!」

 ひびくん。
 体を稲妻が貫いた。
 
「なかば無理やり襲ったみたいで、後でどれだけ後悔したか。
 全然彼女をつくるどころか、女に興味ないなんて顔してたから、初体験でト
ラウマ植え付けたかなって本気であたしは心配してたんだぞ」

 そう言って一子さんは絶句してしまう。
 そんな事考えていたのか。
 知らなかった。

「だって……、一子さんが」
「あたしが?」

 怒り顔でありながら、冷たい声。

「凄く嬉しそうで。
 有間の初めてをあたしが相手できたって言って……、泣き出してさ」
「あ、うう」
「それに、俺も嬉しかったし、だから言うに言えなくて……」

 一子さんが真っ赤になっていた。

「もう言い。有間、止めてくれ」
「はい」

 朱鷺恵さんが微笑んでいる。
 急に恥ずかしさが込み上げてきた。
 今更だけど。



「でも、なんでその後は手を出してくれないんだ」
「私もそれ疑問。結局、私じゃよくなかったのかなって思ってた」
 
 ちょっと落ち着いてからも泥沼のような状態が続いていた。

「あれかな、初めては年上の女の人とってのに憧れるけど、その後で付き合う
のは、若い可愛い女の子がいいってやつ」
「そうね、お屋敷に、琥珀ちゃんとか、秋葉ちゃんがいるものね。
 なんだか翡翠ちゃんも表情が明るくて、志貴くんのことじっと見つめている
みたいだし」
「そうだな、学校に行けば眼鏡の似合う先輩がいるそうだし。それに、ブロン
ドのモデルみたいな美女ともお付き合いなさっているそうだから、それであた
し達のことなんか、どうでもよくなっているのかな」
「それで、お見限りなのね。悲しいなあ」

 いつの間にか、一子さん&朱鷺恵さんに責められる展開になっているし。
 何か俺は悪い事をしたんだろうか?

「いや、そんな事は……」
「じゃあ、単純にどうでもいいんだ。
 勇気を出して誘ってみてもそっけなくかわされちゃったし」
「うん、なんで手を出してくれないんだ? 有間?」
「それはですね、その……」
「まあ、そんな答え聞くと落ち込みそうな質問はいいや。
 もっと聞きたい質問がある」
「あ、私も聞きたいことあるの」

 良かった。
 神経がすり減らされる試練を一つクリアした。

「な、なんでしょう」
「今の中で手を出したのは誰?」
「琥珀ちゃん達とは、しちゃったの?」

 甘かった。
 しかし。
 その瞬間、視界が紅に染まった。
 淀んだ水の中に浸かった感触。
 初めて、感謝した。
 このぽんこつの体に。

「志貴くん」
「有間」

 悲鳴のような声。
 触れる手。
 すみませんけど、しばらく意識を失いますので。

 でも、目覚めたら……。


 どうすればいいんだ―――――
 
     1.三十六計逃げるにしかず。いくぞ自由の地へ。

     2.皆で仲良くはダメかな。LOVE&PEACE!



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