火焔樹の花 小山 道夫 ベトナム事務所長日記
2002年9月30日(月) 朝7時、無事成田へ到着。昨夜は早めにホーチミン空港へ行った。2時間半ほど空港内待合室で待った。 日本人の若い女性の観光客が多いのに驚く。大体共通して竹などで出来た大きな籠にお土産を満載しての帰国。 退職し中高年夫婦の旅行者も多いように思えた。やはりベトナムブームというのは、間違いないようだ。 ホーチミンで過ごした数日間が人生のどこかで役立つことを願う。 ホーチミンから5時間で成田着。寒い。とにかく寒い。 今回は2ヶ月ぶりの帰国。いつものことだが、成田から自宅までの2時間に「あれ?」と思うこと遭遇する。 今回は、地下鉄巣鴨駅で地下鉄を待っていると、30歳位の若いお母さんと5歳位の女の子が、ベンチでパンを食べ、牛乳を飲んでいた。 地下鉄のベンチは食事する所ではないでしょ?と言いたくなったが押さえた。とにかく、こんないほこりっぽい所はない。 こんなに汚い地下鉄のベンチで子どもと昼食をする親の意識はどんなものなのだろう? 地下鉄が来る。私の前の席に母子も座る。母親はやおら絵本を取り出し、娘に渡す。娘さんは声を出して読み始める。 そのうち「ママ読んで・・」とせがむ。ママさんはと見れば、携帯メールに熱中して、女の子の声が耳に入らないようだ。 娘さんは、絵本を読むのに飽きたようだ。 ママさんは、手で「読みなさい」と指示。どうやらママさんは、文字の勉強のために絵本を読ませているようだ。 5歳で文字を教える前に「人前やごみの中では食事をしないように」」というしつけが大事なのでは、などと、 おせっかいな気持ちになったものである。 目を違う席に移すと若い女性がお化粧を始めた。化粧用の鏡をやおら取り出し、基礎工事からのお化粧には、もう慣れてきた。こんなものか? でもどう考えても変だな。この若い女性は回りの人の存在が自分の意識の中にはないのだ。地下鉄に乗っていても一人だけの世界だ。 今回は10月5日(土)6日(日)日比谷公園で行われる海外ボランティアフェスティバルで販売するベトナム塩(10キロ)、 フォー〔ベトナムうどん)のタレ、150人程の奨学生の一人一人の履歴書など入れた30キロのスーツケースを運んで来た。相当重い。 我が家の在る都営三田線「西台駅」に降りる。たった二ヶ月前にいた街なのに駅前から自宅まで徒歩10分(手ぶらなら5分) の街が少し変わっていた。つぶれた店、模様替えした店。たった二か月で街が変わるのは、経済のせいなのか? 夜の飛行機は眠れるようで眠れない。午前10時半頃自宅着。 自宅のカギを開ける時「まだこの合いかぎは使えるかな?」と一抹の不安がある。妻と次男が帰国をわざわざ待っていた。 と思いきや妻は昨日の日曜日の運動会の代休で休み、次男も学校が休みで家にいた。 急いで、10キロのベトナムの塩とフォーを寒河江さん宅へ送る。ボランティア貯金中間報告書関連資料を渡辺和代さん宅へ送る。 明日からの札幌行きの準備。帯広の芳村さんとお会いし、札幌厚別中学校文化祭での講演会、 札幌の大学生などのボランティア団体との話し合いなどを行う。
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2002年9月29日(日) 9月最後の日曜日。幸いにも雨は降っていない。今日は日本へ帰国の日だ。 昨夜は午前1時までベトナム事務所長日記、メールの返信などですごし、それから帰国の荷物整理。 2時間ほど仮眠し、午前5時に起きて出発の準備と忙しかった。 朝6時45分、トンチンカンホテルを出て、フエ空港へ。朝8時半発の飛行機だが早めに空港へ。朝7時フエ空港着。日曜日なので道も空いていた。 またタクシーの運転手さんが、素晴らしく「スピード狂」で空港まで超スピードで飛ばしっぱなし。15分で空港着と相成った。 空港には数人の人影があるだけ。一応、ホーチミン行きのカウンター前にスーツケースを置いて待つ。 15分ほどすると欧米系と思われる男女数人が後ろにつく。 30分ほどすると15人程のお客が並ぶ。すると突然、中年のベトナム人男女が私の隣りに立つ。「来たな」と思った。 いつものやつだ。そのまま数分待つ。中年男女は、私の手続きが終わったら、次に「ずる込み」する魂胆だ。 私は黙って見ていた。私の手続き中、後ろの欧米系の数人が「YOU MHUT STAY OVER THERE」と言ったように聞こえた。 「あんたたち、後ろに並べよ」と。するとベトナム人男女は「ノー プロブレム」と言って、一向に意に介さず私の後ろへのずる込み体制をとかない。 この男女はどんな気持ちでずる込みをするのだろう。「問題ない」と自称しているところを見ると、 悪意をもって「ずる込み」をしているとは思えない。 結局、近所の外国人がら「ワーワー」言われ、4番目に割り込む。素晴らしい根性である。 この種の「ずる込み」経験は、この9年間に数えられないほど体験している。 これをベトナム人の「したたかさ」と言う人もあれば「マナーがない」と言う人もいる。 とにかく「自分中心」で世界が回っている人たちがいることだけは確かである。 手続きが終わり、待合室で1時間ほど待つ。壁には「NO SMOKING」と大書されている。後ろに座ったベトナム人おやじ(会社か役所の幹部風) がやおらタバコを吸い出し、携帯電話で話をはじめる。そのうしろのおやじもタバコを吸いだす。 私は席を反対側に移す。すると日本の若者数人がやってきて後ろでタバコを吸い出す。こうして、待合室は「タバコ地獄」と化した。 1時間の待ち時間で、頭から衣類まで大嫌いな「タバコ」の匂いがこびりついてしまう。 「飛行機まで行くためのバスに乗ってください」との放送がある。入り口に並ぶ。 早速、手続きカウンターと同じ、「ずる込み」合戦が再燃。とにかく、ベトナムの多くの人たちは「並ぶ」のが嫌いなようで、 順番など無視して、入り口に殺到する。 こうして「ずる込み攻撃」と「タバコ攻撃」に悩まされ、ホーチミンまで何とか到着。 タンソンナット空港からLEXホテルへ。そこで8月の日本事務局ツアーで置き忘れた「ベトナム塩」をもらう。20袋、10キロ。 ずしっと重い。 こんなことをしながら午後9時過ぎまですごし、午後11時45分ホーチミン発の飛行機で成田へ帰るという図式である。 成田まで長い道のりである。 こうしたことをもう9年もやっているのか、と改めて自分に感心した次第である。 明日朝6時半ころ、成田につく。日本の天気はどうなのだろう? ホーチミン市にて
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2002年9月28日(土) 今日は朝から晴天、青空。フールー小学校校舎落成式典には持って来いの天気となった。 朝7時半、ミン副事務所長の案内でホーチミン市から校舎寄贈者の時田一弘様ご一家(奥様と二人のお子さん)、友人お二人がフエ空港へ到着。 昨日夕方ホーチミン着。今朝は、4時に起きて6時20分ホーチミン発の飛行機でフエ空港へ。皆さん、疲れも見せず空港前で記念写真。(写真@)
時田さんは、元相撲の春日野部屋の関係者。現在名古屋で駐車場経営を手広くしている方である。 テレビで私の活動ご覧になり、是非ベトナムで困っている人を支援したいとの申し出があり、今日のフールー小学校校舎贈呈に至ったという訳である。 フールー小学校はフエを流れるフオン川の船上生活者の子弟が50%以上が通っている小学校である。船上生活者は子沢山でもある。 どの家庭もお子さんが5人から10人位はいる。仕事は川での魚とり、砂・砂利とりなどである。月給は平均30万ドン〜50万ドン(5000円)。 生活は厳しく、学校へ通えない子どもたちも多い地域である。 フールー小学校は子どもたちが急増し、現在2部授業を行っているが、このままで行くと「三部授業」となる危険性もはらんでいる。 そうした中で今回時田氏は、教室2室、職員室、図書室の寄贈を行った。総額18000ドルである。 式典は新校舎前で盛大に行われた。 フエ市人民委員会側からは、クアン・フエ市共産党委員長(県議会議長)、ティエン・フエ市長、クン・フエ市副市長、 ビン・フエ市教育委員会委員長、ニエン外務部長、フールー小学校児童、教職員、PTA会長、 地元ビザー地区人民委員会副委員長(人口1万2千人)、ベトナム事務所員一同。(写真ABC)
式典はフールー小学校「少年先鋒隊」の先導で行われた。 少年先鋒隊は、ベトナム共産党の下部組織であるホーチミン共産青年団の指導を受ける子どもたちの組織である。(写真D)
フールー小学校労働組合委員長の司会で式典は始まった。 最初に時田氏の挨拶。校舎を贈呈したのであとはフエ市人民委員会、 フールー小学校側でしっかりと子どもたちの教育を行って欲しいとの挨拶があった。(写真EF)
続いてクン副市長の挨拶。フールー小学校校長先生の挨拶と続く。(写真G)
時田氏よりフールー小学校校長先生へ、校舎のカギの贈呈。(写真H)
クアン・フエ市共産党委員長、ティエン市長、時田氏によるテープカット(写真I)
こうして約1時間の落成式典は終了した。その後、参加者の記念撮影。(写真JKLM)
最後に校長先生の案内で新校舎各部屋へ。図書室、1年生の教室2室などの案内。(写真NO)
フールー小学校の子どもたちや教職員も大変喜んでいた。(写真P)
その後関係者と記念昼食会を行った。時田さん関係者、副市長、外務部長、教育委員長、PTA会長、 地元ビーザー地区人民委員会副委員長、建築会社社長、設計士、ベトナム事務所員一同。(写真QRS)
校舎建築合意から半年。多くの難関を乗り越えてやっと落成式に漕ぎ着けた。 支援金が本当に子どもたちのために使われるようにするためには、福田もえ子ベトナム事務所長代理、 ミン副事務所長などの「言うに言えない」(ここには書けないが)ドロドロとした努力があったことを付け加えておきたい。 いずれにしても、心ある日本人の善意が、学校・教室という形で子どもたちの人間教育のために使われるようになったことを祝いたい。 関係者の皆さんのご協力に感謝したい。学校・教室贈呈は飽くまで「手段」である。目的は「子どもたちを育てる」ことである。 私たちは、校舎建築と合わせて、フールー小学校地区の船上生活者の子弟で生活困難なために通学できない子どもたち32人に奨学金を贈呈し、 通学を可能にしている。 明日、9月29日(日)朝6時45分、トンチンカンホテルを出て、ホーチミン市へ。 夜11時半ホーチミン発の飛行機で日本へ帰国する。 9月30日(月)の昼頃には、東京の自宅に到着する。ベトナム事務所長日記はどなるのでしょうか? とにかく今日は疲れた。 おやすみなさい。
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2002年9月27日(金) 数週間ぶりの「青空」を見た。太陽が出ないということは心を「うつ状態」にする。太陽と青空を見ると何故か心が晴れ晴れだ。 不思議なものである。(写真@)
朝食を6時45分に済ませ、福田もえ子ベトナム事務所長代理と共にフエへ帰って来る西山優子日本語教師をフエ空港へ出迎えに行く。 朝7時半、西山優子さんは元気な顔を見せてくれた。(写真A)
午前9時、ベトナム事務所にて西山優子さんより「日本の情勢報告」を受ける。 日本の政治・経済情勢をはじめ、芸能情勢、町の様子、日本で流行していうことなど、半年ぶりに日本へ帰国して感じた事を報告してもらう。 ベトナム事務所員からは色々と質問。同時に明日の「フールー小学校校舎落成式典」の最終打ち合わせ。(写真BCD)
明後日は私が帰国する。帰国前の恒例行事になっている「床屋」さんへ行った。 この床屋さんには9年前から行っている。私専用のくしも置いてある。また、私の担当の理容師さんもいる。 黙って座れば30分程で調髪を済ませてくれるのでありがたい。 料金は100円。ベトナム人の場合は50円ほどであるが、私は100円でも安くて申し訳ないと思っている位である。 日本で調髪すると4000円前後はかかる。とにかく高い。日本ではとても理容室に行く気にはなれない。 と言う訳で帰国前に調髪を終え、2ヶ月の日本滞在中は絶対に理容室には行かない。 11月末にフエへ帰国してから「100円」理容室へ行くつもりである。 4000円といえば「子どもの家」の子どもたち二人の1ヶ月分の生活費である。「もったいない、もったいない」(写真E)
今日は長時間の停電。昼食は「ローソク」で食べる。(写真F)
停電はいつものことなので「またか」で終わりである。朝から午後まで停電である。 午後、ストリートチルドレンがベトナム事務所へやって来た。 ベトナム事務所がある地域の「祖国戦線委員」(行って見れば日本の町内会の役員のような人)に付き添われてやってきた。 ベトナム事務所員の福田事務所長代理、西山日本語教師、ハン通訳、LOC「子どもの家」寮長、 祖国戦線委員がストリートチルドレンのP君に事情を詳しく聞いた。(写真GH)
P君の言うには、次のような事情でストリートチルドレンとなったとのことである。 産まれはフエの隣りの「クナン・チ省」。現在12歳。(どうしても12歳には見えない。私には、15才〜18才に見えたのだが) 右足が生まれつき短く障害がある。松葉づえを使っている。小学校4年まで通った。(写真I)
母親は三年前28才で死亡。父親は2年前に50才で自殺。一人っ子。 しばらくは、クアンチ省で「物乞い」をしてその日暮らしをしていたが、知り合いもいて、貰いがすくないので、 クアンチ省以外の誰も知らない所で「物乞い」をしようと思いバスに乗ったら、フエに着いていた。4か月前のことである。 フエでは、路上に寝てベトナム人相手に「物乞い」をしていたそうだ。一人500ドン(5円)〜1000ドン(10円)くれるらしい。 15000ドン(150円)位もらえるとその日は『仕事』をやめて食事をする。 祖国戦線委員の隣りが小さな病院で、P君はその病院の軒下に寝ていたそうである。 時には、ゴークエン通りの民家の軒下にも寝ていたそうで、その民家の子ども(昨年大学卒)が時々食事を上げていた。 早速、LOC寮長がP君のクアン・チ省の住所等を聞き、クアン・チ省の児童保護委員会に電話連絡。 金曜の午後三時半というのに既に全員帰宅状態。明日(土)明後日(日)は休み。 結局、9月30日(月)に再度、クアンチ省児童保護委員会にP君の戸籍、住所等が本当かどうかを確かめる電話をすることとなる。 それまでの間、「子どもの家」で預かろうとしたが、ゴークエン通りの大学卒の若者が、「自分の家で預かる」と言うので、 数日間そこにいてもらい、LOC寮長の調査結果を待って、P君の身の振り方を考えることとした。(写真J)
ベトナム事務所はこのように、地域の生活相談所のような役割を果たしている。 私たちとしても「草の根」の活動を目指している。少しでも地域社会の貧しい子どもたちや生活に困っている子どもたちを支援できれば、 私たちも嬉しく、有り難いと思っている。「子どもの家」の子どもたちだけでなく、いつもフエの地域社会に目を向けて活動をしている。 地域社会に目を向けて活動することが、結果的には「子どもの家」を守ることにもつながるのである。 「目は広く見て、行動は小さく確実に」がベトナム事務所活動のモットーである。 明日は、フールー小学校の校舎落成式。晴れてもらいたいものである。
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2002年9月26日(木) 台風が過ぎ、大洪水の心配がなくなり一安心。朝から雨がパラつきそうな天気。しばらく太陽を見ていない気がする。 寒い日々が続く。街の人々は、冬服を着用。 ミン副事務所長がホーチミンへ行った。 明後日(29日)のフールー小学校校舎落成式典参加の時田一弘さん一行を明日ホーチミン空港(タンソンチャット空港)へ出迎えのため。 本島等前長崎市長へドイツ政府から「功労勲章一等功労十字章」の伝達式が行われたそうだ。 贈呈式に参加したプライジンガードイツ総領事は受章理由を「戦争の被害者の立場だけでなく、 加害者としての政治的責任を認めた活動を行っている」と説明したそうである。 本島氏が天皇の戦争責任について発言しただけで、銃撃され怪我をしたことを思い出す。 言論の自由が保障されている日本が実は、本当の意味で言論の自由がないことを証明した事件であった。 本島氏はそうした中でも言論の自由を守るために命をかけて発言を続けている。 れっきとした自民党市長であった本島氏の勇気に常に尊敬の気持ちを持っていた。ドイツ政府からの勲章受賞を心からお祝いしたい。 ドイツ政府からの勲章受賞というところが、いかにも悲しい日本ではある。 本来なら日本政府こそが、本島氏の民主主義を守る勇気を高く評価しなければならないと思うのだが…・・。 その人権感覚と多数のユダヤ人の命を救くい日本の「シンドラー」と言われ世界で高く評価されている「杉原千畝氏」も我が日本国外務省は、 事実上の解雇措置を取っている。外務省の不祥事件多発体質は既に戦前から続いているのである。 午前9時、フエ中央病院小児科医長、小児科医師と懇談。(写真@A)
午前10時、フエ中央病院院長と懇談。(写真B)
フエ中央病院とは「JICA開発福祉支援プロジェクト」で4年間お付き合いをしている。 特に小児科の先生方とは大変親しい仲となっている。 今回、小児科を中心に地方診療所医師の医療水準を高めるプロジェクトを行いたいとのこと。今回はフエ中央病院からの招請で懇談となった。 世界の5才未満の子ども死亡の70%は栄養失調、肺炎、コレラ、はしか、マラリアが原因だとのこと。 出生1000人当たりの乳幼児死亡率 越38人、 日本4人。 出生1000人当たりの5才未満児年間死亡率(男) 越57人 日本6人 出生1000人当たりの5才未満児年間死亡率(女) 越57人 日本5人 そうした実情の中で何とか子どもたちの死亡率を低くしたいとのこと。 そこで、フエ中央病院小児科を中心に地域診療所(トゥアティエンフエ省70箇所程)に入り地域診療所医療関係者の診療知識、 技量の向上プログラムを実施したいのだそうだ。 特に地域の上記5種類の病気についての知識と対処法を診療所の医療関係者に研修させたいとのことである。 現在、地域診療所の医師の水準は必ずしも高くなく、薬等の適量の把握、抗生物質の投与などに多くの問題を抱えているそうだ。 また、地域で診療所に行かずに亡くなる子どもたちもいるとのこと。トゥアティエンフエ省の地域とは農村か漁村である。生活も貧しい。 そうした地域の乳幼児死亡率が高くなる。ベトナムはドイモイ政策で豊かになったといわれるが、 実際には豊かさの影で農村、漁村に「豊かさのしわ寄せ」が押し付けれているのが現実である。 このプロジェクトを通して、農村や漁村の診療所(平均して医師1名か準医師1名)の医師の栄養失調、マラリア、はしか、コレラ、 肺炎についての技量と知識を高め、草の根から子どもたちを救う活動をしたいとのこと。 そのための費用を何とか支援して欲しいと相談された。総費用は2400ドル。 ベトナムでの乳幼児死亡率が日本の9、5倍という実態を少しでも改善したい。日本にいれば生きられる赤ちゃんをみすみす殺すようなものである。 私たちの出きる事は支援したいと思っている。2400ドル(30万円)あれば相当数の乳幼児を救うことが出来る。 私はストリートチルドレンを助けたいと思ってフエに来たが、 障害で困っている子どもたちや本来なら死ななくても良い赤ちゃんが死んでいく実態を見て、自分の出きる事は何かしたいと思っている。 フエ中央病院小児科からこうした積極的なプログラム推進の話があったので、心ある方々のご支援をお願いしたい。 ご支援頂ける方は、koyamavn@dng.vnn.vn(ベトナム事務所)か jass@pd5.so-net.ne.jp(日本事務局)まで御連絡頂ければ幸いである。
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2002年9月25日(水) 朝から雨。昨夜の豪雨で更に洪水の被害が出るのが心配。 フォン川の洪水状況を視察。朝の時点でかなり水位が上がっている。 市内と中州との道路は通行禁止。 報道では、フエ近郊にあった台風が北部に移動したとのこと。これ以上の豪雨と洪水が進まない事を祈る。(写真@AB)
いつもの事ではあるが、日本帰国間際はどういう訳か仕事が分刻みとなる。今日も忙しい一日だった。 A8フエ師範大学時代の教え子の相談に乗る。(写真C)
A9ベトナム事務所でフールー小学校建築完了確認書に署名 A9時半 フエ師範大学でベトナム語教育コース設立の打ち合わせ A10 フエ衣類工場訪問。「子どもの家」支援者から依頼された衣類の見本を受けとる。 午後3時、フールー小学校校舎落成式の最終打ち合わせ。ベトナム事務所にて。 4室の校舎を作る事であっても何回も打ち合わせを重ね、当局とも相談・打ち合わせし、落成祝賀会の準備、落成昼食会の打ち合わせなど、 様々な取り組みが必要であった。現地の行政に支援金を渡すと言う支援の仕方は「大いに問題」がある。 私たちは、相当な時間と労力を使い、やっと4室の校舎落成に辿りついたというのが実際である。 支援金が全て校舎建築費の使われるようにするためには、こんな努力をしなければならない現実である。 9月28日午前、やっと落成式典を迎える事が出来る。長い道のりだった。(写真D)
午後4時「子どもの家」A君の進路についての相談。(写真E)
A君は19歳。今年農業大学を受験したが不合格。その後、「子どもの家」で遅くまで寝て、 夕方になると友達と遊びに出ると言う怠惰な生活をしている。「子どもの家」にいる限り、3食昼寝つきの生活である。 年下の子どもたちが、「どうしてA君だけ朝遅く起きて、子どもの家の仕事もしないで、昼間寝ていていいの?」という質問が出ている。 本人と話し合うが、埒があかない。本人は、努力はしたくないが、とにかく自分の入れる大学に入りたいと主張。 セン運営委員長、ロック寮長、福田もえ子事務所長代理、ミン副事務所長などから「努力しないで大学に入るのは無理」 「お金持ちの友達が遊んでいるからと言ってA君が同じことは出来ない。自分自身の置かれている状況をしっかりと理解すべきだ」などと説得される。 自分の今後の生き方について、時間をかけて自分自身でしっかりと考えるということになった。 午後5時。在宅支援者の家庭訪問。母子二人の生活。子どもは手に障害がある。善意のベトナム人が自宅を貸してくれていた。 私たちの在宅支援金で母子は何とか生活していた。所が家主が急逝。親族がいないため家は人民委員会の持ち物に。 人民委員会は、母子を家から出るよう指導。母子は生活費もなく困っている。状況を視察。 里親の帯広の芳村さんが家賃を負担するので、転居を勧める。母親と転居問題を話し合う。(写真H)
午後6時。「子どもの家」にボランティア体験に来ている姪の送別夕食会。(写真F)
日本の支援者から支援物資が送られてくる。有り難い事である。と同時に支援物資にかかるベトナム側の税金が高額なのに困っている。 この数日に送られて来た支援物資の例である。 ● 17キロ(ノート、クレヨン等)私たちの支払った税金 134ドル ● 10.6キロ(ノート)私たちの支払った税金28ドル ● 10.5キロ(ノート、文房具)私たちの支払った税金11ドル ● 6.5キロ(絵の具等)私たちの支払った税金16ドル という事でこの数日に支払った支援物資の税金は、189ドルである。 たった数日で200ドル近くの税金を支払っている。ベトナム人の平均月給は30ドル程度である。数日間で支払った税金は、6人の月給分である。 ベトナム事務所予算に支援物資税金分の予算はないので、大変困っている所である。 支援物資を送って頂くのは本当に有難い事であるが、現地で多額の税金を支払わなければならないという実情も理解して頂けるとい有り難い。 200ドル近くのお金があれば、送られて来た支援物資はベトナムで購入可能なのである。 この辺の矛盾を感じながら支援物資を受け取りに行っているところである。 フエは冬の様相を呈してきた。街の人々は、冬服を着用。(写真G)
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2002年9月24日(火) 24日(火)の夕方フエへ戻る。フエから300キロの海上に台風が来ている。フエのフォン川が氾濫。 8月に続いて2回目の洪水となっていた。(写真@A)
午後8時、フォン川を縦断している道を視察。既に通行は警察によって禁止措置が取られていた。 夕方から夜にかけて、一層の豪雨となっている。これからしばらくは、海上にある台風との闘いである。(写真B)
33通のメールが入っていた。 さて、昨日から24時間という短時間でハノイーフエを往復した件である。今回のハノイ訪問の目的は二つ。 @ PACCPM(略称:パッコム「海外NGO管理委員会」)ヘ行き、海外NGOライセンスを受領すること A 日本大使館へ行き、2003年9月の「日越国交回復30周年記念行事」の打ち合わせ PACCOMは、海外NGO(NPO)を総括的に管理するベトナム政府の機関である。長官は閣僚級と聞いている。 PACOMのKIEM次官と会見。ライセンスを授与された。(写真CD)
ベトナムでボランティアをする場合、勝手にボランティアをする事は禁止されている。 ベトナム政府の許可を受けて始めてボランティア活動が出来るというシステムである。 従って、「ベトナムでボランティアをしています」と言っても、PACCPMから正式なライセンスを受けないと、 ベトナム側はボランティア活動とは認めていない。基本的には、お金を寄付してくれている団体という位置付けになる。 ボランティア活動をしているということにはならないのである。 さて、ベトナムでボランティア活動をする場合には、政府からのライセンスが必要であると言ったが、この政府ライセンスは、何種類かに分れている。 例えて言えば「初級」「中級」「上級」と3段階位に分れている。 また、全国展開のボランティア活動へのライセンス、地域ボランティアのライセンスなど色々とあるが、基本的には、3段階である。 今回私たちJASSがもらったライセンスは、「上級」ライセンスである。この9年間に初級、中級とライセンスを受け、活動実績を作ってきた。 以下PACCOMの話。 現在ベトナムでは500の海外ボランティア団体が活動している。これは、ベトナム政府(PACCPM)からライセンスを貰っている団体数である。 そのうち、「上級ライセンス」を受けている海外ボランティア団体は60団体。そのうち、日本は5団体のみ。 5団体のうち既に実質的な活動を停止している団体がいくつかあるそうで、 実際にボランティア活動をしていて「上級ライセンス」を受けている日本の団体は2〜3。 JASSの活動は、トゥアティエンフエ省やフエ市から詳しく報告を受けている。PACCOMとしては、JASSの活動を高く評価している。 この数年間、PACCOMに日本の団体が来るとJASSの活動を報告している。 私としては、日本のNGOではJASSの活動を一番高く評価している。(これは、リップサービスと思うが) さて今回の「上級ライセンス」ではどんなことが出来るかのか。以下箇条書きする。 @ JASSベトナム事務所を公的な事務所と認定する。(ベトナムの機関が認める印鑑と銀行通帳を独自に作ることが出来る) (※人民委員会、大学等と同等の資格) A JASベトナム事務所として、独自にビザ(OFFCIALビザ)を発行することが出来る。 ベトナム事務所訪問者等へベトナム事務所がベトナム入国ビザを出す事ができる。 B JASSベトナム事務所の文章は、ベトナムでは「公式文書」となる。(※役所の公文書と同じ文書となる。公的な重みを持つ事になる) C JASSベトナム事務所で独自に人を採用する事が出来る。 (※外国企業等で人を雇う時は、ベトナム政府機関から派遣される人を雇うシステムになっている。 政府機関が手数料を取る。企業が勝手に人を採用することは出来ない) D 日本から車等の輸入に際しては、無税とする。(一般的には税率250%) E ベトナムトゥアティエンフエ省等でのボランティア活動は、人民委員会等との提携なしで、JASSベトナム事務所として、 独自にボランティア活動をすることが出来る。 大体こうした内容である。ベトナムではボランティア活動をする場合は、 必ずベトナム側のパートナーと一緒にボランティア活動をしなければならない。 今回、ベトナム側のパートナーなしで、独自にボランティア活動を組織することが出来るようになった。 この「上級ボランティアライセンス」を取得できたと言う事は、9年間フエで活動した事、実際に地域に草の根活動で入り大きな実績を上げた事、 JICA(国際協力事業団)との提携による「開発福祉支援プロジェクト」を4年間実施し、多くの障害児の救済、支援を行った事。 地元トゥアティエンフエ省、フエ市から強い推薦があったことなどである。 いずれにしても、日本の多くの方々の御支援でここまで到達出来たことに心から感謝したい。 日本大使館に行った。(写真EF)
山口一義大使館広報文化センター所長と懇談。2003年9月フエで行う「日越国交回復30周年記念事業」について、意見交換。 山口所長は中々気さくな方で、フエでの30周年記念事業について熱心に話しをして頂いた。 8月にベトナム政府からトゥアティエンフエ省に「2003年9月にフエで行う日越30周年記念事業は、 省とJASSとで協力して行うように」との指示があった。現在、フエ市、フエ省、JASSで具体的な内容を詰めている所である。 JASSとしては、文化交流を是非したいと思っている。 日本から「琴の演奏」「障害児の田楽踊り」「お茶会」「日越児童絵画交流」などを考えている。 山口所長から上記文化交流をするに当たっての色々な情報などを頂いた。 今後も日本大使館と連絡を密にし、30周年記念行事を成功させるようJASSベトナム事務所としても努力してくつもりである。 さて、ハノイ24時間滞在で2つの目的を果たした。以下、ハノイ滞在の短い記録である。 ハノイは寒かった。私は長袖を着ないといられなかった。ハノイの街は、落ち着いた佇まいを留め、 街中が一定の秩序で動いているような静けさを感じた。(写真G)
23日の昼食は私の大好物の「チャーカー」へ行った。チャーカーは道の名前である。 昔は、この種のお店がたくさんあったようだが、現在は、たった一軒しか残っていない。(写真H)
チャーカーは、炭火の上にフライパンを置き、木の油(?)に魚の切り身とネギと何とかと言う水草のような野菜を入れ火を通す。 お茶碗にブン(米の細いうどん)をいれ、唐辛子入りのエビの塩辛をかけ、その上にフライパンで暖められた魚や野菜を載せ食べるのであるが、 これが美味、珍味。ハノイに行かれる方にはお勧めしたい。(写真I炭火とフライパンのチャーカー)
(写真JKL)
夕食はハノイ市街の大衆食堂へ行く。(写真M)
食堂の入り口に食材は並べられている。食べたいものを指定する。 アヒルの卵焼き、豚肉の甘辛煮、野菜炒め、豚の子宮、漬物、蟹と野菜スープ。(写真NOPQR)
特に美味しかったのは豚の子宮に茹でたもの。唐辛子とレモンをかけてエビの塩辛につけると、ご飯にぴったり合う。美味・美味。(写真S)
ビール2本と食事で一人500円。贅沢な夕食だった。どこの国でも庶民が一番美味しいものを食べているのである。
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2002年9月23日(月)ハノイ版 朝8時40分のフエ空港発ハノイ行きの飛行機は無事ノイバイ空港(ハノイ空港)へ到着。ハノイは、曇り。肌寒い。 ホテル着A11.昼食は「チャーカー」(24日付け日記で写真報告予定)。 午後3時、PACCOM(ベトナム政府海外NGO管理委員会)本部へ。次官より海外NGO地域活動の最高ライセンスを授与。 ベトナム政府PACCOMとしてもフエでのJASSの活動は良く理解している。省からJASSの情報が入っているとのこと。 詳細内容は、24日付け日記で。 現在、午後5時半。ハノイ市内のインターネットカフェで送信中。 ハノイは落ち着いた町である。ホーチミンよりは、町に品格があるように思う。今回のハノイ訪問はたったの24時間滞在。 明日の12時には、飛行機に乗ることになっている。丁度、小泉首相のピョンヤン訪問と一緒で、「短時間で効果ある交渉を」ということであろうか? 交渉の後、「非公式の死亡日時」などがでないよう、しっかりとした話し合いをしたい。今回のハノイ訪問の全情報を公開するつもりである。 次回をお楽しみに。今日は、ここまで。 2002年9月23日(月) 昨日9月22日(日)のベトナム事務所長日記には、「午後、ハノイへ行く」となっていたが、 結局、2時間以上フエ飛行場(フバーイ飛行場)で待たされ、「飛行機のトラブルで飛ばない」との放送一本でハノイ行きは突然中止となった。 特に雨が降っていた訳もないのに。フエから車でダナンへ行き、ダナンから飛行機でハノイと言う方法も考えたが、それも無理だった。 結局、午後1時半から午後4時までフエ飛行場に「拘束され」た。半日いや事実上一日分「取られて」しまった。 せっかくの休みであったが、残念。 9月22日(日)は午前7時に沖縄歌手知念さん、タッチセラフィーの大極さん、長沼さんをフエ空港へ送り、その後フォンザンホテル社長と懇談。 これで午前中はつぶれ、午後は上記のように飛行機が飛ばずに空しく引き返してきた。 ベトナム人の間では、「飛行機のトラブルではなく、ハノイ空港での乗客が少なく、採算が合わないので飛行を中止した」との噂がもっぱら。 とにかく、国営ベトナム航空はお客をお客と思っていないことだけは事実。 午後1時45分にフエ空港へ入り1時間程待合室で待つと、「飛行機はしばらく遅れます」との放送。 そのまま午後4時近くまで何も放送がなく、突然「飛行機のトラブルで飛行は中止」との放送が一本あると、 職員が待合室のドアを閉めはじめるという始末。大枚片道1万円を支払ったお客対する対応ではない。 しかし、現実にはこうしたことがまかり通っているのである。 ちなみに、外国人は、ベトナム人の2倍の飛行運賃を取られている。 この9年間、この種のトラブルで何回、飛行機が止まったことか。5年ほど前の4月30日にフエからホーチミンまで行くため、 フエ飛行場で例の様に「しばらく遅れます」の放送で待っていると「今日の飛行はありません」と何の理由もなく飛行は中止。 結局、自費でフエ空港からダナン空港までタクシーをやとい(4000円位)、7時間ほど遅れてホーチミンへ行った事もある。 その時は、「4月30日ホーチミン市解放記念日に参加するハノイの共産党幹部を乗せるために民間人を乗せる飛行機は中止になった」 との噂がもっともらしく語られていた。私の個人的な体験では、この種の噂は、大体において真実に近い事が多い。 こうして、全ての日程が狂い今日午前中、ハノイで会うPACCMの次官との約束の変更など大変手間がかかった。 こうして多くの旅行者に迷惑をかけたベトナム航空の誰もが乗客に謝らないだけでなく、何ら責任すら感じていない。 責任者もいないという実情である。私もこの種のトラブルに「慣れっこになってしまい」特に文句も言わずに、 次ぎの方策を考えた方が得策と思い、直ぐにタクシーでフエ市内トンチンカンホテルに戻ったという次第である。 数日前に「ホンダベトナムが生産を中止した」との報道がベトナムであった。 理由は、「オートバイ等、生産の全ての部品は、ベトナム産を使うべし」とのお達しがあったため。 数日前に保存していた輸入部品がそこをつき、生産不能となったと言う訳である。 私は「子どもの家」附属オートバイ修理研修センターをホンダベトナムより寄贈して頂いたと言う関係があり、 2年前にハノイ郊外のホンダベトナムの大きな工場で社長さんと懇談し、工場視察をしたことがあった。 その時社長さんは「私たちはベトナム人を育てています。ゼロから出発して、 やっとベトナム産の部品50%までのオートバイを作れるようになりました。 今後、更に指導と援助を強め、将来は、100%ベトナム産部品でオートバイを生産したい」と言っていた。 現状でベトナム産部品の品質が悪く、100%使う事は出来ないと言うのは、誰の目でも一目瞭然である。 ホンダベトナムは、そうした現状を少しでも改善しようと、ベトナム産部品の品質向上の指導・援助を行っていた。 そうした時に突然、生産中止となってしまった。こんなめちゃくちゃな話はない。 ベトナム政府はドイモイ政策で外国資本を導入し、共同経営をしながら経済発展を目指している訳であるが、全く逆行した措置である。 これも噂であるが「中国と国防省の合弁会社」等からの横槍、圧力があったとのこと。政府内部でも色々軋轢があったもよう。 ベトナムでは、ベトナム戦争で勝った第1の功労者は軍隊と言う事で、軍隊(国防省)が一番強い力を持っている。 ホンダベトナムと合弁をしている政府系機関関係者はこの措置に反対しているとのこと。いずれにしろ、世界には通じない措置である。 ベトナムでオートバイは「セー・ホンダ」と言い、オートバイの一般名詞になるほど、ホンダはベトナムでは一般化している。 ベトナムにとっても貴重な産業を『国内部品産業を守る』という理由で生産中止追い込むという無謀なことが罷り通っているのである。 残念ながら国内部品産業が国際規格品を作るまで十分育っていない現状で、こうした措置を取ると言う事は、 結局、海外資本をどんどん追い出すことになる。ドイモイ政策自体が後退していることを物語っている。 ベトナムという国家にとっても大きな損失になるホンダベトナム生産中止(SUZUKIも同じだが)という異常な措置に対して、 誰も責任を持っていないのも不思議な国である。 一昨日のベトナム事務所長日記にも書いた「フエ医科大学謝罪事件」。私自身が体験した全く身近な事ではあるが、世界では通用しないことである。 「ホンダベトナム生産中止」−「昨日の飛行機突然中止」−「フエ医科大学謝罪事件」と三題話ではないが、共通したものだある。 世界の常識をわきまえていない幹部。そして誰一人責任を持っていない事。国家、飛行機会社、大学などの社会的な使命より、 自分たちの個人的な利益を最優先する資質が身に付いている、こんな点が共通しているようだ。中々、大変な国ではある。 とグチを書きながら、今日は朝7時半にトンチンカンホテルを出て、8時40分のフエ空港発ハノイ行きの飛行機に乗らなければならない。 午後、PACCPM、明日午前9時日本大使館、午後12時ハノイ発フエ。 ということでハノイは事実上24時間程しか滞在しない強行軍となってしまった。これからフエ飛行場に行く.今日は、飛べる事を祈る。
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2002年9月22日(日) 昨夜の「子どもの家」での中秋祭り。午後7時開始。開始直前まで雨。7時頃から雨もやみ満月が顔をだす。 2階の音楽室で「知念良吉コンーサート」、「中秋のお祝い」。 参加は「子どもの家」の子どもたち、在宅支援の子どもたち、卒業した子どもたち、在宅支援の子どもたちの家族などです。 総勢100人。(写真@参照)
@ SEN運営委員長のチャン・ドゥック・ルオン国家主席の手紙の紹介(写真A参照)
A 小山ベトナム事務所長開会の挨拶(日越友好と皆さんの健康を祈る)(写真B)
B 知念良吉コンサート(写真CDEFG)
C 子どもたちのお祝いの踊りと歌 ・ 獅子舞い(写真H)
・ 子どもたちの歌と踊り(写真I)
人民軍兵士が子どもたちを守るという設定(写真JK)
月の精と農民の嘘つき男の話(写真L)
D お菓子や果物を配る(写真MN)
E 最後に知念さんより「子どもの家」へギター2台の贈呈(写真O)
中秋の祭りには、「子どもの家」を卒業した子どもたちも参加。後輩と交歓。(写真P)
ドゥオック君が「花」を歌い、全員合唱(一部の子どもたちは、目の前のお菓子が気になっていたようだ)(写真Q)
参加の日本人スタッフとセン運営委員長記念写真(福田事務所長代理撮影)(R)
9月22日(日)午後一時半、飛行機でハノイへ。 今日から3日間、PACCM(海外NGO管轄部署)へ行き、海外ボランティア活動の最高ライセンスをもうらう。 また、大使館へ行き、2004年9月の「日越国交回復記念行事」打ち合わせ。 今週も土日は、休めず。
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2002年9月21日(土) 今日は中秋のお祭り。雨。 とても忙しい一日だった。 朝8時から「子どもの家」赤旗隊隊長(生徒会)SON君の今後の進路等について、SEN運営委員長、LOC寮長、ベトナム事務所員とで相談。 昨日、SON君が「フエ師範短大コンピューター科」に見事合格した。 SON君は現在、田舎の法事に参加し、大学受験後、田舎へ帰っている。(写真@参照)
大学合格の知らせを聞き、今後の身の振り方をセン委員長と私たちとの間で相談。 SON君が「子どもの家」へ帰ってきたら、SON君の意見を聞いて、進路を決定することとした。SON君は現在21歳。 今後は「子どもの家」を退所し、自立する事を基本とるすことで一致。できたら、大学寮に入寮し、一般社会の体験を多くした方がいいとのこと。 長い間「子どもの家」で生活し、赤旗隊長となり、子どもたちのリーダーとして年下の子どもたちの面倒を見てきた。 私としては、長い間、「子どもの家」の運営をして来て本当に良かったと思っている。 こうして、一人の人間であっても、「子どもの家」で生活し、しっかりとした人間となって「巣立っていく」ことが出来るということを祝いたい。 そして日本の多くの支援者に感謝したい。これから3年間の大学生活が始まる。SON君も将来への希望に胸をふくらませているのではないだろうか。 SON君、大学合格おめでとう。「子どもの家」から入学をするというこをは多くの困難がある。そうした困難を乗り越えてよく頑張った。 これからも、自分の人生を自分自身の力で切り拓いて行って欲しい。 朝9時半、ANH元フエ市長の案内で THANH TAN(タン・タン)温泉を視察。フエ市内から車で40分。温泉に到着。 源泉は65度の単純泉。標高1000Mの山麓にある。(写真AB参照)
しっかりと整備された温泉リゾートとなっている。トゥアティエンフエ省の製薬会社が中心となり建設を進めている。ほぼ完成。 温泉は水着で入る大きな露天風呂から、数人で入る小さな露天風呂まで大小いくつもある。森の中にある露天風呂でゆっくりと温泉につかり、 敷地内にある少数民族風の高床式のコーテージ(2人〜3人一泊5ドル)から冷房付きのスイートルーム(TWIN一泊20ドル)に泊まる事が出来る。 400人収容のベトナム料理のレストランもある。(写真CDE参照)
ベトナム旅行で疲れた人や少し時間がある人は、THANH TAN温泉をお勧めする。 詳細を知りたい方は、私たちのベトナム事務所まで(koyamavn@dng.vnn.vn) 午後12時頃、フエ市内へ戻る。 午後1時、フエ医科大学より「謝罪に行きたい」との連絡あり。トンチンカンホテルで面会。 プロジェクター担当より「昨日、学長・副学長より厳重注意を受けた。更に学科全職員会議が緊急に行われ、この問題について討論。 学科の職員から厳しく批判された。自分も態度が悪いと反省している。ミン副所長、ラーム所員への失礼な態度について謝罪したい。 また、JASSに対しても失礼な態度を取り深く反省している。許して頂きたい。 JASS側で許しが出ないと自分は失職することになっている」と謝罪。 私たちとしては、失礼な態度を直してもらえれば良く、担当者をクビにする気持ちもないので、謝罪を受け入れた。 通訳をいれての話し合いなので1時間かかる。(写真F参照)
ベトナム生活で学んだことは「以心伝心」は通用しないこと。自分の気持ちはしっかりと言葉で相手に伝える事。 文化の違いがあったとしても「人間として許せない事は、世界中どこでも共通だ」との気持ちで問題にあたっていくこと。 「泣き寝入り」はしないこと。問題を起こす事を恐れないこと。正しいこと、道義にかなったことなら、楽な道を選ばず、困難な道でも闘っていくこと。 自分の信念を曲げない事。どんな問題でも広い気持ちで許すこと。 午後3時からハイバーチュン中高校で「知念良吉コンサート」を開催。 ハイバーチュン中高校は、1945年までのグエン王朝時代は、ベトナム随一の女子名門校だった。今年で創立86周年。 今日は中秋のお祭り。ハイバーチュン中高校でも中秋祭りを行っていた。コンサートは、中秋祭りの一環として実施。 知念さんの歌に合わせ、一曲目から生徒たちは、踊り始める。舞台でも会場でも。 大変盛りあがったコンサートだった。ベトナムの子どもたちは、真正面からコンサートにぶつかっていた。 自分の気持ちに合えば、自然に踊り始めている。人がどう見るかではなく、「自分は踊りたい」と思ったら、男女の生徒を問わず、 コンサートを楽しんでいた。(写真GHIJKL参照)
午後7時からお楽しみの「子どもの家」での中秋祭りと知念コンサート。 「丁度時間となりました。この続きは明日。ちょっとお休み」……。
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2002年9月20日(金) 明日は「中秋祭り」。晴れて満月であることを祈る。明日は「子どもの家」で子どもたちと中秋祭りを楽しもう。 神奈川県の「タマちゃん協議会?」が会合を開き、タマちゃんの健康には問題ないとの話し合いをしたとのこと。随分、暇な役所もあったものだ。 一方で拉致され、死亡したと通告されて、戸惑い、怒り、悲しんでいる家族がいる。マタちゃんと拉致事件が並列で報道される恐ろしさ。 報道する人間の感性を疑う。内実の伴っていない報道の羅列。何を言いたいのだろう? 拉致事件と一緒にタマちゃんを報道するどのような意味があるのか? そんな時間があったら北朝鮮の政治犯等収容所の実態の一端でも報道してみたらどうか? 横田めぐみさんなど死亡した8人がどのように形で死亡(有本さんのお母さんははっきり殺されたと言っている)したのかが分るというものだ。 午前中、大極さん・長沼さんたち「タッチセラフィー」一行は、フエ平和村で障害児の治療へ。 東京、横浜、鹿児島のボランティア体験希望若者も同行。(写真@参照)
午後、大東文化大学ベトナム語学習グループがベトナム事務所へきた。 福田もえ子ベトナム事務所長代理が会活動を説明、「子どもの家」へ同行。(写真A参照)
障害児医療センター(国際ソロプチミスト東京-東設立)のAN医師が障害児医療のスキルアップをしたいとのことで、 フエ医科大学でスキルアップの学習に入った。半日大学で勉強、半日は障害児医療センター事務局長の仕事をする。 フエ医科大学再入学の学費を奨学金として出すことにした。久門―NHK奨学金の一環として。(写真B参照)
フールー小学校校長がベトナム事務所へ。 9月28日の「時田一弘様贈呈フールー小学校校舎落成記念式典」の式次第の最終打ち合わせを行う。(写真C参照)
午後7時半から『静岡―フエ青年交流会館』で知念良吉コンサートを行う予定だったが、借りる予定だった音響装置が届かず、 30分遅れの午後8時過ぎから始まる。約70人の参加。今回は、テレビで広報を行い、フエ市の一般市民に参加してもらった。(写真DEF参照)
ニエン新運営委員長の開会挨拶。(写真G参照)
続いて、来賓の紹介。元フエ市長など参加。 早速、知念さんのコンサートが始まる。グエンフエ高校と同様、ミン副事務所長がパソコンに入力してある歌詞のベトナム語約をスクリーンに映す。 これがフエ医科大学へ抗議した問題のプロジェクターである。 知念さんは会場の雰囲気を見ながら保存されている約20曲の持ち歌の中から、7曲を指定し歌う。 4曲目から沖縄の島歌。ベトナム人参加者は、リズムのある島歌に合わせ踊り始める。(写真H参照)
フエテレビとトゥアティエンフエ省テレビ、トゥアティエンフエ省共産党機関誌が取材に来ていた。(写真I参照)
知念さんのコンサートの後、ベトナム側のクラシックギター同好会の皆さんのクラシックギター演奏。(写真J参照)
最後に私の閉会の言葉でお開き。(写真K参照)その後、参加者の交流会となり、歌ったり踊ったりの大騒ぎとなった。 会が終わったのが、午後11時半である。(写真L参照)
日本人歌手を招請してのコンサートも、フエでは事前に「省情報文化局」に歌詞の内容を翻訳して提出しなければならない。 知念さんは作詞・作曲を自分でする。結構難解な内容である。「時計が愛を運ぶ」とか沖縄米軍基地問題など政治的な内容も入っている。 省情報文化局からは、上演禁止措置が出そうになった。 そこで今回は、形式的にはコンサートでなく、日本人訪問者とベトナム演奏家との文化交流とした。 どうしてこのような形にすれば、問題がないのかは理解できないが、私の方は、知念さんのコンサートが事実上出来ればいいので、了承した。 そこでグエンフエ高校、今日の『静岡―フエ青年交流会館』でのコンサートもベトナム側でも若干の演奏などが入る訳である。 中々、難しい国ではあるが、そこは9年の経験を生かして、何とか実質を取る方式を考案してきた。 簡単な日本人歌手のコンサートですら、そう簡単に出来ない実情である。日本では中々理解してもらえないベトナムの実情である。 私たちが一番苦労している所である。 午前中、添付の「フエ医科大学学長宛て抗議文」を書き手交。 内容は、上記をクリックして頂ければ全文あり。要約すると、フエ医科大学でパソコン接続プロジェクターを借りる約束になっていたのに、 大学側の不誠実な態度で結局借りることができず、当日、大変な努力をし他機関から借りて(急遽借りて1日70ドルの使用料を取られる) 何とかグエンフエ高校での知念良吉コンサートを成功させたという出来事を巡る問題である。 ベトナムに住んで9年。この種の問題は日常的にある。特にフエは長い間の「鎖国状態」から未だに抜け切れない地域でもある。 ホーチミン市などでは、問題にならないことが、日常的に問題となる。 人間として常識を疑う出来事が多い、特に公的機関、役所、学校などでその傾向が強い。 一言で言えば、官僚主義、特定政党の奢り、腐敗がその根底にある。 問題が起こる度にカッカと怒っていては体が持たないが、言うべき事ははっきりと言う姿勢は堅持したいものである。 この国でこの種の抗議文を機関に送ると言う事は、かなり勇気のいることである。何故なら、必ず後で何らかの「仕返し」が待っているからである。 多くの外国人は、こうした不当な事が起こった場合、ケンカして「帰国」するか、何も言わないで表面仲良くするかのどちらかである。 その証拠に、今までフエに3年以上いた外国人は、私だけである。インドの砂糖会社も2年で「ケンカ」してホーチミン市の方へ移転。 その他の海外ボランティア団体も数年で活動を止めるか、駐在員が交代するかである。 フエ医科大学は、ベトナムでは数少ない医科大学である。エリート集団である。特にベトナムでは、未だに医者は「偉い先生」である。 患者が何か質問したり異議を申したてるという状態ではない。 そうしたエリート集団に対して、上記の異議異議申したて、謝罪要求の文書を出すのは、人によっては「馬鹿なことをする奴」ということになる。 私は、フエで活動している。けして日本を代表している訳ではないが、9年間住んでいる事、地元で草の根の活動をしている事、 フエ市名誉市民であることなどを考えると、いつの間にか、「日本人を代表する」ような立場に追い込まれている。 知らず知らずのうちに、「日本人はこんななめたことをされて黙っていられるか」と言う気持ちになてくる。 私は、けして不当な事に黙って9年間過ごしてきた訳ではない。むしろこうした抗議文を始め、フエの官僚主義、腐敗・堕落と闘い、 子どもたちを守ってきた9年間だと「自負している」ところである。 この抗議文が「吉と出るか凶と出るか?」。 先を恐れていては何も出来ない。 間違ったことは、フエ医科大学であろうとどんな偉い人であろうと間違いである。 今回は、特にベトナム事務所のベトナム人スタッフに対する暴言、侮辱である。ベトナム人スタッフも怒っている。 私はベトナム事務所長として、二人の真っ当なベトナム人スタッフと共に闘って行く。こうした時に逃げるのは人間として卑怯である。 明日あたり、反応があだろう。吉とでることを祈る。
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2002年9月19日(木) 貴乃花10勝おめでとう。とにかく行動、実行で批判に回答を与えた。 個人的には、貴乃花など花田一族は好きになれないが、ぐちゃぐちゃいい訳をしないで、行動で答えをだした貴乃花を称えたい。 拉致事件、やはり「日朝合意」が先にありきだ。死亡の日時はどう考えてもでたらめ。 死亡日時がでたらめなら「死亡・生存」「安否情報」そのものも信用ならないものとなる。 小泉首相の「拉致事件の解決なくして日朝国交正常化はありえない」という言葉が、空しく流れて行く。 一人の人間の生死をこれほどいい加減に扱う小泉首相、外務省の精神構造が見えるというものである。 国家というものは、戦前からこうしたものなのだとも思う。拉致された家族は、日本政府に「弄ばれている」と言っても過言ではない。 小泉首相は記者会見で「死亡年月日は不確かな情報だから家族に教えなかった」と言っていたが、死亡年月日が不確かなら、 「安否情報」そのものも不確かと思うのが常識でしょう。 小泉首相も外務省も「日朝合意」がまずあって、 そのために形だけ拉致問題を反省するとした金正日の言い分を「見て見ぬ振りして」受け入れたとしか思えない。 北朝鮮側のいい加減な情報を鵜のみにして、「死亡・生存」などと確定したかのように家族に報告した政府を糾弾したい。 私は「人間を人間とみなさない」ことを一番憎む。政府であれ誰であれ。ストリートチルドレン支援の原点もそこにある。 「人の生死を弄んで、日朝国交正常化交渉ありき」 今日の日記からはもう日朝問題を書くのを止めようと思っていたのだが、書かない訳には行かない。 拉致された家族を24年間も捜し続けた父がいて母がいて、兄弟がいる。こんな理不尽な仕方で人間が政府や外務省に「弄ばれ」ている日本。 人間の尊厳、そして人の倫理がなくなって行く社会を政府・外務省が身をもって見事に証明しているようで悲しい。 いくら日朝合意が前進の第一歩と言っても、情報を小出しにし、家族を弄ぶかのような政府・外務省の態度を見ていると、 「日朝合意」そのものが既に色褪せたもののように思えてならない。これは、私一人の思いだろうか? 今日は朝からベトナム事務所に多くの若者の訪問者があった。 東京から来た3人の若者、神戸から来た6人の若者、そして鹿児島から来た2人の若者。(写真@A参照)
午前中、大極さんたち「タッチセラフィー」の皆さんが、再度「子どもの家」で子どもたちらベトナム人スタッフの治療を行った。 針やお灸を使っての治療をを行ったが、子どもたちやベトナム人スタッフには、かなり効果があったようである。 「子どもの家」では、新年度になり、午後学校へ行く子どもたちのために、各部屋担当のベトナム人スタッフが、勉強を教える体制を作った。 子どもたちも一生懸命、ベトナム人スタッフに質問をしたりしながら勉強を進めていた。 男子は21日の中秋祭りを前に獅子舞の踊りや太鼓の練習に励んでいた。(写真BCDEFG参照)
午後3時からグエンフエ高校で知念良吉さんのファーストコンサートが行われた。 校長先生、副校長先生を始め、約100人の生徒の前で10曲ほどの歌を歌った。(写真HI参照)
会場の片隅には、日本語の歌詞(特に沖縄の方言が入った歌詞)をベトナム語に翻訳し、スクリーンの映した。 生徒たちは、知念さんのメッセージを理解しながら、歌を聞いていた。(写真J参照)
沖縄の島歌になると、リズムに合わせ、生徒たちは踊りはじめた。最後は校先生、副校長先生も踊りの輪に入り、楽しい日越の交流を行った。 会場の外にも立ち見で聞き入る生徒がいた。最後に校長先生よりお礼の花束贈呈があり一時間半のコンサートは終了した。 こうした草の根の日越交流を今後も進めて行きたいと思っている。(写真KLMNO参照)
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2002年9月18日(水) 昨晩は、拉致事件の家族の事が心に残り眠れない夜を過ごした。親や兄弟、家族の身になったらと思うと、 自分は、ああした「冷静な」記者会見が出来るだろうか、と考えてしまう。 つい数ヶ月前までまでは、「拉致事件など一切ない」と断言していた国である。そんな「うそつき国家」が「死にました」と言って、誰が信じられよう。 報道は、うそつき国家の報告を真に受けて、「死亡」と断定している。 横田めぐみさんのお母さんが、「死んだといわれても誰が信じられますか?」と言っていた。その通りだ。 「感情的になるな」と言う人がいるかも知れない。しかし、これは人間としての本当の叫びではないか。 横田めぐみさんのお母さんの悲痛な叫びを小泉首相、外務省のお偉方の皆さん、是非聞いて欲しい。 私は、昨晩眠れぬままにこのままでは、庶民のレベルでは既に「国家崩壊状態だ」と思った。 今年は加藤紘一氏、参議院議長、鈴木宗男氏をはじめ、多くの政治家が辞職せざるを得なくなり、政治への信頼は大きく傷ついた。 雪印食品、日本ハム、東京電力、三井物産など大手企業の腐敗堕落が続発し、経済界への信頼は失墜した。 そうした外務省を始めとした官僚の腑抜け腐敗振りは、書ききれぬほどである。官僚への信頼は失墜を通り越した。 庶民に取っては、政治、財界、官僚の世界は信用でぬ存在となってしまった。 そして、今回の拉致事件で、一人の国民の安全すら守れない国家に対する信頼が心底失墜してしまった。 これをもって国民は「国家そのものへの不信、国家崩壊」となってしまうのではなないか、 国は信用できないという事態に至ってしまったような気がする。 1998年度ノーベル経済学賞を受賞したインド人のアマルティア・セン博士の「貧困の克服」(集英社新書)を読んでいたら、 次ぎのようなくだりがあった。 1998年に行われた第一回「アジアの明日を創る知的対話」の基調演説の中で故小渕恵三首相が『人間は生存を脅かされたり、 尊厳を冒されることなく創造的な生活を営むべき存在であると信じています』と発言したことを高く評価している。 人間の安全保障を「人間の存在、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これらに対する取り組みを強化する考え」とし…・ 今回の拉致事件は、人間の「存在」と「生活」「尊厳」を根底から否定する最悪卑劣な国家の犯罪行為である。 一人一人の安全が担保されてこそ国家である。 識者の間では、「外交的に大きな成果があった」とする評価が多いようだ。私はこうした評価をする方々に問いたい。 貴方は他人の家族の出来事なので、そううした評価が出来るのではないのですか? 貴方の家族が突然拉致され、 20数年後に『死んでいます』といわれても、「はいそうですか」と答え、「外交的には前進」と言いますか? ミサイル問題、核開発問題等での前進があったから外交的には前進と言う識者・政治家に尚更問いたい。 政治とは「人間の存在と生活、尊厳が抹殺された」異常事態をも平然と通過し、既定の「国交回復交渉路線」へ突き進んで行くものなのだろうか? 横田さん、有本さんなど拉致被害者の家族は、「日朝共同宣言」は国交正常化交渉の再開が合意されたことで、 重要な前進の一歩だ、との声を聞いてどう思うであろう。 フエは雨。雨期のフエは、フエ歌曲にもあるように、フエの名物なのだそうだ。 さすがにフエで産まれ育ったフエ人は、雨をもものともせずに、しっかりと生きている。 街中カッパを着て自転車、オートバイを乗りまわしている。どこの家の前にも、自転車やオートバイの上にカッパが置かれている。 これもフエの風物詩となっている。フエ人は、雨の中を「したたかに」生きている。(写真@AB参照)
雨の中でも「チャオバンカン」(小麦粉煮込みうどん)売りのおばさんは、カッパを着て町を売り歩く。(写真C参照)
庶民はビニールシートを張ったテントの中でフエ名物「ブンボー」(米うどん)を食べてる。 路上ではいつものように「豆乳売り」のおばさんもしっかりと仕事をしている。照っても雨でも変わらないフエの風景である。(写真DE)
ベトナム事務所へ行く途中、「恒例」の交通事故に出会う。オートバイ同士の正面衝突。(写真F参照)
午前中、4日間の「ボランティア体験」コース希望者・横浜の小川さんが事務所へやって来た。 小川さんは横浜の大学で国際関係の勉強しているそうだ。実際の海外ボランティアがどんなものなのかを体験したいと言って、メールで予約してきた。 (写真G参照)
今日は、朝8時半から10時半まで2時間、福田もえ子の『ボランティア体験オリエンテーション』を受ける。 午後のスンフー診療所訪問からベトナム事務所手伝いとして参加。 午後、「マブベの会」(タッチセラフィー)の大極安子さんたちが、フエ郊外のフンスー地区で障害児治療を行った。 ボランティア体験1週間の男子学生も参加。 この地区はJICA(国際協力事業団)の支援を受けて、私たちが4年間障害児支援を行い、昨年9月に「障害児父母の会」を作り、 定期的に支援を続けている地域である。今日は、5組の障害児の母子がフースン地区診療所にやって来た。(写真HI参照)
初めにスンフー診療所の医師と打ち合わせ。同時に医師にタッチセラフィーの仕方を教える。 既にこの医師は、私たちの障害児医療センター(国際ソロプチミスト東京―東設立)でタッチセラフィーの講習を受けている。(写真JK参照)
医師への講習が終了した後、一人つず治療を行った。タッチセラフィーは、子ども達の心を解放し、リラックスさせる。 病気の予防などに効果がある。特に、地域診療所の医師や両親などが覚えると、いつでも子どもたちに「施術」出きるという特徴がある。 大極さんたちは、一人一人の子どもに治療を行いながら、母親に家庭でのタッチセラフィーの仕方を教えて行く。 結構時間はかかるが、こうして地域・草の根に入り、一人一人の障害児や生活困難を抱える家族と接し、話し合いながら治療を行うことは、 大きな意義がある。何よりも母親や家族が子どもたちの障害に真正面から取り組むようになる。 小さな取り組みであるが、こうした所から少しずつ障害児支援の活動を進めて行きたいと思っている。(写真L参照)
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2002年9月17日(火) 日本では「日朝会談」で持ち切りなのではないだろうか? ベトナムでは情報があまり入らない。テレビで会談と合意の内容を知る。 「ハアー?」。それから思考が進まない。午後7時のベトナムTVでは、 日朝会談が成功し世界の平和と安全にとって重要な第一歩を踏み出した、と報道している。 多分、多くの日本人は日朝国交正常化自体は良い事だと思っているのだろう。しかし、一体何なのだ。 拉致された日本人の多数(6人)が死んでいたと言うことは。年齢的には40歳代〜50歳位であろう。一般的に言って死亡する年齢ではない。 どう考えても「自然死」とは考えにくい。 日本政府は、北朝鮮側が拉致について反省し、消息を明らかにしたので、一応、「問題解決」ということらしい。 国交正常化へ進んで行く合意をしたことが、日本政府の態度を表している。 安全保障とはどういうことなのだろうか? 有事立法を作ろうとしている。その理由として、国民の財産と安全を守るとしている。 しかし、有事立法をウンヌンする前に、20年以上も前から既に国民の財産と安全が蹂躙されているのだ。 24年間もこうした安全保障が蹂躙されていた状態を放置していた外務省や政治家に有事立法、有事法制を語る資格はない。 中学生が突然連れ去れて、恋人同士が海岸から連れ去られ。世間では40人とも60人とも言われている拉致された日本人。 今回は8件11人のみ。4人生存、6人死亡。 金正日総書記が「一部の暴走分子の仕業」とか「私の知らない所で行われた出来事だが、反省する」と言っているらしい。、 「はあ、そうですか?」という気持ちにはなれない。「貴方の国では貴方以外に決定権を持っている人はいないはずですね。 貴方が認めない事を部下が勝手に出きる国ですか?」と。全ての決定と責任は、貴方自身にありますね、 と多くの国民は思っているのではないだろうか? 明らかに北朝鮮という国家による重大な犯罪行為である。犯人が「自白」したからと言って、 それで「免責」する小泉首相の態度には到底納得できるものではない。 こんな茶番で一件落着と思っている金総書記に、貴方の息子が日本に偽造パスポートで入国しても日本は「国外追放」という穏便な措置にしていますよ。 もし、貴方の息子さんが、拉致され、20数年後に死んでいますと言われたらどうですか。小泉首相にこの質問をしてもらいたいものである。 一国の領土で平静に生活していた一般市民を誘拐拉致し、結果的には死に至らしめる権利が一体誰にあるのだろうか? 国家の最低限の義務は国民の安全と幸福に生きる権利、家族と一緒に暮らす権利を保障することである。それなくして国家が成り立ち得ないように思う。 今回の拉致事件は国家とは、一体何を守るものなのか、何を守ろうとしているものなのかを明らかにしたように思う。 国家はけして個人や家族を守ってくれるものではないということを、一人一人の国民が実感したのではないだろうか? 横田みぐみさんのお父さんやお母さんの無念な顔は、国が個人を守らない、 国が国民の安全保障すら出来ないということに対する無言の抗議の顔のように思えてならない。 拉致という国家犯罪が明らかになった以上、国家としては、重大な決意と抗議の行動を起こすべきだったように思う。 国家としては、拉致問題を通過し、国交正常化交渉に進んでしまった。小泉首相の「拉致問題の解決なしに国交正常化交渉はない」との言葉が、 「拉致問題の前進なしに」に変わる。言葉がうつろに聞こえてくる。言葉とはこんなに軽いものなのか? 今日、河合文化庁長官が小学校で道徳の授業をした。家族と言う内容である。 「皆さん、家族とはその人がいるだけで安心出来るものです。そうでしょう?」と子どもたちに話していた。その通りである。 政府としては通過点を通り、次ぎに進んだということなのだろうが、拉致された家族は、「通過した」とは到底思えないであろう。 家族の気持ちを思うと心痛む思いである。訳もなく家族が20年も離れ離れになり、その上死にました、では納得できないのはあたりまえである。 現代の「生き地獄」とはこういうことなのではないだろうか? 朝7時半、沖縄の歌手知念良吉さん、「マブベの会」大極安子さんたち3人がフエに来た。 知念さんは、「子どもの家」や高校などでのコンサート、大極さんたちは、「タッチセラフィー」で「子どもの家」の子どもたちの治療をしたり、 ベトナム人スタッフの治療などに当たるためにわざわざフエまで来てくれた。(写真@参照)
大極安子さんは、大学時代の同級生である。学芸大卒業後お茶大大学院で心理学を勉強し、現在は鍼灸、子どもの針、タッチセラフィーを行い、 子どもたちの心の解放と病気の予防、針やお灸での治療などを行っている。アジアの子どもたちや障害児への医療支援をボランティアで行っている。 現在は、毎年2回フエに来て、「子どもの家」やフエ平和村(障害児リハビリテーション)、農村地域の障害児の治療を行っている。 A9フォンザンホテルで福田もえ子の主導で打ち合わせ。(写真A参照)
A10 「子どもの家」で子どもたちの治療を実施。(写真BCD参照)
午後3時からは、「子どもの家」のベトナム人スタッフにお灸と針の治療。スタッフの中にはリュウマチで足を痛めている人が多い。 季節の変わり目で、仕事にも支障をきたす状態であった。お灸と針で大分楽になったようだ。(写真EF参照)
今日は一日雨。「子どもの家」の男の子たちは、9月21日の「中秋祭り」の太鼓の練習に入り、太鼓の音が聞こえると、 いよいよ中秋のお祭りの気分が盛り上がってくる。(写真G参照)
女子は、部屋で宿題にいそしんでいる。どこでも男の子は、お祭り好きである。(写真HI)
1週間のボランティア体験の男子大学生も一日、「子どもの家」で子どもたちと交流していた。(写真J参照)
今日は、夜、日朝会談問題の結果を聞いて精神的に一気に疲れてしまった。 「自分の家族が拉致されて、死んでいます」と言われたら、自分はどうするだろうか? それにしても、家族の気持ちを思うと涙が止まらない。
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2002年9月16日(月) 一日雨。憂うつな季節である。「雨期」となる。 フエでは、「結膜炎」が大流行。8月初めに一度、そして二週間ほど前から二度目の大流行となっている。 「子どもの家」でも目を赤く腫らす子どもたちがいる。私の身の回りにも3人程、結膜炎となっている。手洗いを励行している。 1週間の「ボランティア体験コース」希望の大学生がベトナム事務所へ来た。 午前中は、福田もえ子ベトナム事務所長代理からベトナムの状況、フエの様子、「子どもの家」での活動の諸注意などのオリエンテーションを受ける。 午後は「子どもの家」で実地体験。1週間後にどんな感想を持つのか、楽しみである。(写真@参照)
午後、数年前までベトナム事務所員として活動していた西谷今日子さんが突然やってきた。 ベトナム事務所員を辞した後、社会人枠で神戸の大学へ入学し、生涯教育を勉強中とのこと。 同学の友人と一緒に訪ねてきたが、元気そうな様子であった。今後の学業の成就を期待したい。 ●この間、読んだ本 @ 突飛な芸人伝(吉川潮著)新潮文庫 A さよなら芸能界(永六輔著)朝日文庫 B 落語への招待(江国滋著)朝日文庫 C トニー谷ざんす(村松友み著)幻冬舎アウトロー文庫 D もひとつ ま・く・ら(柳家小三治著)講談社文庫 E 江戸前の男・春風亭柳朝一代記(吉川潮著)新潮文庫 「春風亭柳朝一代記」は一読の価値あり。江戸―東京下町にいた私たちの父親世代の男の生き方が、説得力をもって描かれている。 一言で言えば「やせ我慢」の世界である。人生そのものにかっこを付けた生き方、自分なりの筋を通した生き方をしぬいた芸人・柳朝が描かれている。 柳朝の師匠は8代目林家正蔵(林家彦六)。春風亭小朝は、柳朝の弟子という関係にある。私は何度も柳朝の高座を見ている。 細い目と早口の江戸前の啖呵に聞き入ったものである。私が柳朝を知ったのは、師匠の林家正蔵(当時は彦六)を知ったからである。 当時私は東京駒込駅近くの「滝野川第七小学校」に勤めていた。学校の隣には、桂三木助(先代)の家があった。 安藤鶴夫の「三木助歳時記」の舞台になった家である。三木助が、落語「芝浜」で、芝の浜辺で財布を見つける夜明けの場面は、 この家の物干し台から夜明けの太陽を見た時の情景を語ったと言われいる家である。学区域には、多くの落語家や芸人さんがいた。 そんなこともあり、私は学校で「子ども寄席」を始めた。1970年代である。 近所の古河庭園の前に「南鶴堂」という本屋があった。講談の田辺南鶴師の家族が経営している本屋だった。 南鶴師は既に亡くなっていたが、南鶴師の弟子に田辺南州という講談読みがいて、ひょんな事で知り合い、 学校での「子ども寄席」を一緒に始めることになったのである。 田辺南州は、師匠を亡くし、当時講談界の「はぐれ鳥」と言われていた。その後、南州は、林家正蔵師匠の預かり弟子となり、 正蔵師匠の推薦もあり、真打となった。悟道軒円玉(ごどうけん・えんぎょく)と名乗り一本立ちの講談師となり、 数年間、私と一緒に各地の学校で「子ども寄席」を行った。 先代悟道軒円玉の家に無名時代の作家川口松太郎が講談の速記として居候していたと言う関係で、悟道軒円玉という名跡は川口松太郎が預かっていた。 田辺南州は、正蔵師匠の仲介で、川口松太郎から悟道軒円玉という名跡をもらったという経緯がある。 しばらくして、円玉師は、講談協会が太平洋戦争に賛成する声明を出したのか何かの問題で、講談協会に公開質問状を出し、 講談協会を除名されてしまった。当時、東京で唯一残っていた講談定席の「上野本牧亭」への出演が出来なくなってしまった。 真打になった円玉師は各地で「自主講演」を行った。私はほとんど円玉師匠の高座の手伝いをしたものだった。 お寺、公民館、公会堂など様々な所で講談を行う。「悟道軒円玉」と名の入った半纏を着て準備をし、客の迎え入れなどをしたものである。 当時、小学校の教諭ではあったが、将来「演芸評論家」を目指していた私は、この業界に顔を出し、色々な芸人さんと付き合っていた。 今では、大真打になっている噺家さんも当時は、前座か二つ目で、皆お金がなく、生活の苦労をしていた。 近くの中学校から「子ども寄席」を頼のまれ、前座に桂三木助(数年前に自殺)、真打になりたての春風亭小朝で子ども寄席をした記憶もある。 入船亭船橋、紙切りの先代林家正楽、五街道雲助、曲独楽の柳家とし松、柳亭燕路……多くの芸人さんと付き合った。 80年代になり、悟道軒円玉師から「我が師匠の林家彦六師も終わりのようだ。今日の上野鈴本が最後の話になるよ」と言われ、 夜8時頃から上野鈴本演芸場に行ったものである。彦六師匠は既に歩けなくなっていて、舞台の幕が開くと高座に座っていた。 90歳近くになっていたのだろうか。かくしゃくとした話し口に驚いたものである。 昔は「とんがりの正蔵」と言われ、曲がった事や筋の通らないことには、いつも「とんがって」いたようである。 そんなこともあり、「東京瓦版」(?)の演芸予定表を見ては、彦六の追っかけ、東京の寄せ巡り、講談の本牧亭通いに精を出したものである。 そうしたことが昂じて、30歳で落語家に入門ということになってしまった。私の小学校のPTAに「鈴の家馬勇」という真打ちの落語家がいた。 馬勇師匠から誘われたこともあり、馬勇師匠に入門。馬勇師匠は当時全く売れていないかった。 師匠一人、弟子一人という「恵まれた」環境で修業を始めた。落語の「上下」(かみしも)から始まり、寿限無などの「前座話」を教えてくれた。 師匠に「落語の原点は歌舞伎だよ。歌舞伎を見ないと、落語は語れないよ」と言われ、歌舞伎座通いもした。 と言っても本当に落語家になるつもりはなく、将来、演芸評論家になった時、何かの役に立つと思って入門したのである。 馬勇師匠は、月に1週間程高座がある。池袋演芸場、新宿末広亭、上野鈴本などの楽屋に連れって行ってくれて、 多くの師匠方に紹介してくれたものである。 我が馬勇師匠は、金原亭馬生師匠の2番目の弟子である。総領弟子は金原亭伯楽師匠である。 馬生師匠は先日亡くなった古今亭志ん朝師匠の兄、古今亭志ん生の長男であるから、我が馬勇師匠は、名人志ん生師匠の孫弟子ということになる。 という事は、私は名人古今亭志ん生のひ孫弟子になる訳だ。 芸人の世界は、芸がうまいから売れるいと言うものでもないようで、我が馬勇師匠は全く売れない芸人だった。仕事がない日がほとんど。 毎晩の様に寿司屋や飲み屋に一緒に行き、落語界の話をしたものだった。我が師匠は一杯入ると「古今亭は、話を切って、切って、刈り込むのが伝統だ。 話に無駄がない。柳家(小さん)は、だらだらと話をする、あれは落語じゃない」と言っていたものだ。 1年後、我が師匠馬勇は、くも膜下出血で急逝。43歳だった。師匠が亡くなり、私も「改心」して本業の教育に励む事と相成ったのである。 春風亭柳朝一代記は、私の20代から30代初めの「青春中期」を思い出させる本でもある。 1ページ目をめくった途端に私の滝野川第七小学校(教師として初めて教壇に立った小学校)の様々な出来事、人の顔が浮かんでくるのである。 私はベトナムへ数十本の落語のテープ、CDを持って来ている。この9年間、何とかベトナムで持ったのも落語のテープとCDのお陰である。 話は変わるが、この7月に日本に一時帰国した。講演会の途中、池袋駅を歩いていたら、地下道で落語のテープを売っていた。 何の気なしに見ると、「柳亭痴楽」のテープがあったので買ってみた。昭和30年頃の寄席の録音テープである。 先日、フエの部屋で聞いてみると、これがやたら面白い。一人で部屋で笑ってしまった。 テープを聞いていて、大して面白くない所でも当時のお客は大声で笑っている。今から40年程前の日本人の心は豊かだったなあ、 こんなことでも笑ったんだ、と改めて感心した。数ヶ月前に池袋演芸場に久しぶりに行って見た。客も15人程だったが、ほとんど誰も笑わない。 この40年間で人間の感性がこんなにも鈍ってしまったのかと驚いたものである。笑うと言うことは人間だけの特権である。 「笑う門(かど)には、ラッキー カムカム」(柳亭痴楽の枕は、これで始まる。笑う門には福来る) いつも笑って過ごせる世の中になりたいものである。「タマちゃん」を本当に喜べる日本はいつ来るのだろうか。 タマには、こんなことも考えてみた。皆さんの貴重な時間を「おタマしました」。 最後に「なぞかけ」でバチッとしめましょう。 「明日の小泉首相の訪朝」とかけて 「男の子の立ちしょんべん」と解きます。 その心は 「どこに飛んで行くか分りません」 とならないことを願っています。 お後がよろしいようで……・
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