午後の恋人たち
V 水曜日は活動的に


 つまらないテレビだ。番組が、というよりもこの時間は全てそうだ。国営放送は始めから見る気がない。受信料は銀行口座からの引き落としで払っているようだが。民放も、芸能人の離婚と生活費の切り詰め方、それに二時間ドラマの再放送と古い映画しかやっていない。衛星放送にはアンテナがない。
 だったら見るのを止めれば良さそうなものだが、昭博はリビングでテレビの前にいた。代案としてレンタルビデオという手くらいあるはずだが、じっと動こうとしない。体調はもうすっかり回復している。もちろん腕の傷が完治したわけではないが他はいつも通りだ。それでも出かけようともしない。ただ家にいる。
「そろそろかな…」
 つぶやいてから、昭博は自分の台詞に嫌そうな顔をした。何を待っているというのだ。他人の善意を当てにするのは彼の信条に反する。その不快感から、彼はようやく立ち上がった。
 そこへ、耳慣れた軽い音が響いた。来客を告げるインターホンの音である。
「はい」
 聞こえるかどうか定かではないが、昭博は返事をしてから玄関へ向かった。相手を確かめるのももどかしくドアを開ける。
「恐れ入ります。ひまわり銀行中央支店営業部の筑波里中と申しますが、お父様かお母様はご在宅でしょうか」
 この前の金融新創造とやらでいくつもの銀行が生き残りのために合併した。「ひまわり銀行」もそんなものの一つで、この幼稚園の組の名前のような名称を採用しなければ地球鳳南関東三巴銀行という怪しげな銀行が成立していたところだ。もっともこのあたりの地名が「中央」といい、そこに統廃合によって支店が出来てしまったので支店名はどこか妙な感じになっているが。今回はその営業だろう。いかにも銀行員、といった身なりのやたら整った男が立っている。
 もともと昭博は偏屈で口が悪く、しかもこの時は機嫌まで悪かった。上司の命令で仕方なく一件一件担当地域の家を回っている勤労青年には不幸な話である。
「取り次ぐ前にまず伺っておきましょうか。そちら様の普通預金の金利は年何パーセントでしょう」
「え、ええと…。そ、それよりお父様かお母様を…」
「自分の銀行の金利も知らない人間に用はないと両親なら思うでしょうね。もう一度だけ聞きますよ。いくつですか?」
「れ…0.040パーセントです。これは他のどの都市銀行と比べても…」
 誇れる数字ではない。だから他との比較を持ち出さなければならない。
「ゴミみたいなものですね。うちみたいな中流の預金高が500万として、一年預けたらいくらになります?」
「…二千円です」
「どうも。所でこのあたりで俺みたいな高校生がアルバイトをするとしたら、時給大体いくらかご存知ですか?」
「…いえ」
「八百円台半ばが相場です。そこのコンビニだと昼間で八百二十円、朝方だと八百五十ですね。深夜はやらせてくれませんが。たかが高校生が二日か三日学校の片手間で働けば、二千なんて簡単にたまるじゃないですか。それを一年、全部を預けてそれだけですか。ほう…」
 銀行員は適当に挨拶をしてそそくさと立ち去っていった。
 昭博もソファーに戻って、またつまらないテレビを見る。しかしいくらも経たないうちに電話が鳴った。
「英会話学校ならお断りですよ」
 最近そればかりなのでとりあえずそう切り出す。しかし返答はこうだった。
「あのう、昭博さん、英会話学校ではなくて玲奈ですが」
 かなり困っている。普通はそうなるだろう。
「あ…君か。何か用か」
 昭博はちょっと赤面した。さっきといい、大人気ない事をした物だと反省する。後の祭だが。
「熱の方はもうよろしいですか」
「ああ、もう引いたよ。昼には普通の物も食べたし、大丈夫だ」
「そうですか、良かった…。じゃあ、これから着替えてそちらに行こうと思っているのですが、よろしいですか」
 不安げであった声が弾んだものに変わる。昭博はわざわざ不機嫌そうな声を作った。
「別に来たいって言うんなら止めやしないが」
「昭博さんは座っていれば良いんです。分かりました、それでは二十分位したらそちらにつくと思います。ではまた…」
「ああ」
「……」
「……」
 お互い相手が切るのを待ってしまったらしい。昭博は受話器を置いた。
「さーて、片付けでもするかな…」
 何故か昭博はつぶやいて、そして何故か自分の言う通り片付けを始めた。
 待っている時間は長いと言うが、この約二十分は昭博にとってとにかく短かった。何しろ普段散らかしている玄関から居間にかけてを片付けるというのはそう楽な仕事ではない。何故わざわざそんな事をするのかということを、この時は昭博自身考えていなかった。
 そして十九分後(昭博は常に時計を気にしていたのでこのあたりは正確である)、インターホンが鳴った。学習能力はあるので昭博はまずインターホン越しに誰何した。
「はい」
「玲奈です」
 導線を介してさえ涼やかな声がする。昭博はマイクではなくドアの方に声をかけた。
「鍵は開いている。入っていいぞ」
「お邪魔します」
 何事もなかったかのようにソファーへ座りこんだところへ、玲奈が姿を現した。
「よう、わざわざご苦労なこと…」
 昭博は最後まで言う事が出来なかった。今日まで彼が見てきた彼女とは印象がずいぶん違っていたのである。英字の入った白いTシャツに膝が見えるくらいのベージュのショートパンツ、ソックスはやや長めのライトイエローの物、とそんな服装で、長く艶のある髪は白いリボンでまとめられていた。知り合ってまだ三日目とはいえ制服姿しか見ていなかったので、一瞬別人のように見えた。ただ、電話の際に「これから着替えて」と言っていたので、それをまったく予期していなかったのは昭博が悪い。

「あ…似合わないですか?」
 視線に気づいた玲奈が下を向いて手を体の前に持ってくる。まるで何も着ていないのを恥らうかのようで、頬が淡く染まっていた。
「いや、そんな事ない。ただ…あれだ。私服は初めて見るし、もっとなんと言うか、女の子っぽい物を着てるのかと思って」
 丁寧な話ぶりと言い、物腰と言いどこかのお嬢様然としている。それに運動神経が全くないことは今までの行動で証明済みであるから、大人しい様子の服を着ているようなイメージがあった。ただ、今日の活動的な服装は見栄えがしないかというとそうでもなく、多少違和感があるもののそのあたりがまた可愛かった。昭博の強烈な口の悪ささえ出番が無い。
「いつもはそうですよ。スカートの方が好きですし。ただ今日は体を使いますから」
「体を? 何で」
「そろそろ掃除をしなくては駄目ですよ、このお家は。ですから私がしようかと思って」
 苦笑する玲奈に、昭博は渋い顔をした。
「あー…何日本格的に掃除をしてないんだっけか」
「ほら。おとといから気にはなっていたんですよ。昨日見た昭博さんのお部屋もかなり散らかっていましたし」
「チッ…この場で言い訳しても無様なだけか。仕方ない、今日は掃除だ」
 口が悪いだけに昭博はその使い所をよく心得ている。負けと分かっている戦いを挑んではいけない。仕方なく立ち上がることにした。確かに指摘されると自分でも気になってしまう。良くもまあ放っておいた物だ。
 しかし玲奈がそれを制した。
「昭博さんは休んでいてください。また熱でも出したら大変です」
 怪我による発熱は一度引いてしまえばそれで終わりのはずである。今昭博は左腕が痛みで動かしづらい事を除けば特に具合が悪いわけでもない。しかしわざわざ活動的な服に着替えてきた玲奈の気合に押されてしまった。多少片付けて掃除機をかける程度なら別に制服のスカートでも何ら問題は無い。彼女は本気だ。
「あ、そう。じゃあそうさせてもらおうかな…」
「はい。それではええと…ああ、今日はもう片付いていますね」
 あたりを見まわしてみると、人並み程度には片付いている。もちろん先程の昭博の努力の成果だが、彼は嘘をついた。
「今朝起きたら体調は普通だし、暇だったから」
「…あれ、学校はどうしたのですか?」
 平日である。昭博と違って疑り深さとは縁遠い玲奈でも不審に思う。とっさの嘘のまずい所を突かれて、昭博は不機嫌になった。しかしこれは自分が悪いのだ。仕方なく、昭博は白状することにした。嘘に嘘を重ねて塗り固めるのもぼろを出すもとでしかない。
「高校は義務教育じゃないぜ。十七だからって行かなきゃならないってことはない」
 ただ答え方は曲線的だった。玲奈は少し体を引いて、頭を下げる。
「そうですか」
「別に君が済まなさそうにすることじゃないさ。この前やり合ったようなバカどもと同じ学校に行くのに嫌気が差しただけだ」
 とりあえず始めから行かなかったのではないらしい。しかしその口調は乾き切っていてそれ以上の質問を完全に拒絶していた。玲奈は話題を変えることにする。
「掃除機はどこですか?」
「廊下の左の、納戸の中だ」
「はい」
 最新型の掃除機は軽く取り回しのしやすい物だそうだが、昭博の家にあるのはやや型の古い重い物である。それを引きずって玲奈が戻ってきて、そして沈黙が訪れた。彼女がコンセントを探している間、昭博は無理に話題を作ろうとしない。
「…そう言えば、同い年でしたね、私達」
「ああ、君も十七か。そうだよな」
 昭博も世間話を全て拒絶している訳ではなかった。ただ学校に行っていないことに触れたくないだけである。
「はい。昭博さんの誕生日はいつですか?」
「八月十七日」
「暑い盛りですね」
「そうだな。君は?」
「二月の十八日です」
「真冬だな。ほとんど丸半年違うわけか…」
「……」
「……」
 二人同時に間違いに気がついた。
「違うぞ」
「ええ、そうですね」
「念のため確認するけど、君は今十七で冬に十八になるんだよな」
「はい。こちらからもお伺いしますが昭博さんはこの夏に十七歳になったんですよね」
「そうだ」
 気まずくは無いが、二人とも黙ってしまった。それを破ったのは昭博である。
「三年生か」
「はい」
「年上とは思わなかった…」
 昭博は一つうめいてソファーに沈み込んだ。どうも頼りなくて、年上だとは全く考えもしなかったのだ。何故とはなしにこういう時は驚く。しかしすぐに立ち直る。
「でもだからどうだってものでもないか。いまさら丁寧にしゃべってもおかしいし」
「ええ…。あ、でも、私はなんとなく弟みたいだなって、思っていたところも有りますが」
「何でさ」
 昭博は身を乗り出した。気分を害してはいるが先程のような鬼気が無い。それこそ「男の子」の怒り方である。
「いえ、なんとなくですが」
 すねたような昭博の様子は可愛いと思ったが、これ以上とやかく言うと完全にこじれるので玲奈は廊下から掃除機をかけ始める事にした。
「これなら思ったよりすぐに済みそうですね。昭博さんの部屋も片付けてあるのでしょう」
 モーター音越しに玲奈の声がする。昭博ははっとなった。
「いや、俺の部屋はまだだ」
「そうですか…あ、でも気にしないで下さいね。私の時間はたっぷり有りますから」
 昭博は額に汗がにじみ出るのを自覚した。
「いや、いい! 自分でするから」
 声が不必要に大きくなっている。普通なら妙だと気がつくところだが、この時は掃除機がうるさかったから、玲奈はそのせいだと勘違いした。
「遠慮しなくていいですよ」
「そうじゃない。人が片付けると下手に散らかっているよりも物が使いづらくなるだろう」
「それでは昭博さんの言う通りに私が片付けますから」
「いいっていいって」
 ここはもうとやかく言われる前に、昭博は階段を駆け上がった。
「もう元気なようですね」
 玲奈は微笑んだが、昭博が慌てた理由はあまり微笑ましい物とは言いがたかった。
 彼も十代半ばの健康な少年である。部屋には当然、エロ本という奴がある。しかもこれまで親が踏み込まないと分かっているから隠されていないのだ。これはまずいとしか言いようが無い。そのような物をわざわざ女の子に見せるような趣味とは、彼は無縁だった。
 堆積した本、雑誌の中から問題の本を取り出そうとして、とっさに所在がわからない。毎日見ているわけではなく、最後に見て以来放り出してあるだけなのだ。最近は何もかも面倒でそんな物を見る気も起きなかった。それだけに探すのは厄介である。
 かなり掻き回したあげく、ようやく目的の物を発見した。別に非合法ルート輸入物の無修正本でもなく縛るなり何なりの変態的な行為がテーマになっているわけでもない、近所のコンビニエンスストアに売っている普通の雑誌である。さすがに店員も中学生と分かる相手には売ろうとしないが、高校生くらいになるともう判別がつかなくなるので何も言わずにビニール袋に入れてくれる。傍目、大人の目で見ればそんな物なんでも無いのだが、昭博にとっては大問題だった。
「やれやれ…と」
 その雑誌を所定の隠し場所に入れて一息つく。雑多な物を置いている棚の裏側である。しかし虚しくなった。そして玲奈に「片付けをする」と口実をつけてしまった成り行き上仕方なく散らかっているほかの物についても片付け始めた。そうするのも久しぶりだ。この惨状を見れば分かる通り昭博はきれい好きには程遠いから、やり始めたうちは完全に嫌々であった。しかし成果が出始めるとそれはそれで気分の悪い物ではないから、いいかげんな仕事では無くなってゆく。多少時間はかかったものの、結局全く別の部屋ではと思えるほどの仕上がりになった。
「さて、後はこの万年床を上げて掃除機をかければ終わりか。布団は干した方がいいかな…。しかし今からやってもな…。とりあえず別の奴を使うか」
 この少年は口が悪いだけでなく独り言も多い。結局とりあえず今の布団はどかしていずれ干すことにして、客用の予備の布団を使うことにした。一応この前洗って換えたシーツをはがし、何日そのままだったのか敢えて考えることは放棄した物体を持ち上げる。
「…つっ…」
 なにも考えずに左腕を使ったら痛みが走った。さすがに全力は出せないらしい。布団がだらしなく崩れ落ちる。そしてその下からなにか雑誌のような物がはみ出した。どうやらずっとそのままであったらしい。自分自信で苦笑しながら、昭博はあまり見覚えのないその雑誌を引っ張り出した。
「…………」
 減らず口の昭博でも思わず絶句してしまう物、それは…またエロ本だった。しかも内容に満足できなかったので一度読んだきりそのまま放り出して忘れていた代物である。いくらなんでも情けなさ過ぎる。そして彼はのろのろとそれをしまおうとした。
 と、そこへゆっくりとした足音が聞こえてきた。超常現象の類でなければ、玲奈だ。もっとも今この家ならば前者が起きてもおかしくはないと昭博は思っているが。が、しかし今問題はそんな事ではない。棚の裏に物を慌ててしまおうとすると棚をひっくり返しかねないのだ。そして玲奈(あるいは別のなにか)は今すぐにでもやってくる。
 昭博はとっさの判断でさりげなく、その雑誌を普通の雑誌が置いてある本棚の一角にまぎれこませた。木の葉は森の中に隠せと言うし、玲奈は部屋の掃除に来るのだからわざわざ片付いている棚まで見はしないだろう。昭博は自分の判断、決断力に満足した。
「昭博さん、玲奈です。居間のお掃除は終わりました。入っていいですか」
「ああ、いいよ」
 全くもって平静な声を出す。演技力もあるのだ。しかし玲奈は彼の顔を見ずに顔をほころばせる。
「ずいぶんきれいになりましたね。後はお布団を上げるだけですね」
「そうだな。そこに入れるから、そっちを持ってくれ」
 非力で不器用な玲奈と片腕に力の入らない昭博、二人で協力して何とか布団を押入れに入れた。後は玲奈が掃除機を掛ける。これで昭博の部屋もまともな人間のすむ環境を回復した。
 居間と昭博の部屋の次は廊下と階段である。最低限使うスペースを確保すれば良いというのが昭博の考えだった。玲奈がそのあたりに掃除機を掛けている間にざっとではあるがトイレ掃除も済ませてしまう。なんとなく、そこまでさせる気にはなれなかった。
「とりあえずこれだけやればいいかな…」
 風呂は左腕の傷が完治してから本格的にすればいいことにする。今は水を大量に使う作業は難しい。とりあえず玲奈の様子を見に行ってみると、二階の廊下と階段を終えて玄関付近に入ったところだった。
「…………」
 掃除機の音に遮られて内容までは分からないが、口の動きから判断して機嫌良く何かの歌を口ずさんでいるらしい。ホースを動かす手つきもリズムに乗っている。昭博は少し笑みを浮かべて、彼女に声をかけようとした。
「るーん…」
 軽やかに身を翻す…のは良かったが肘で玄関先の何も入っていない花瓶を突いてしまった。
「あっ!」
「おっとっと」
 半ば予想はしていたので昭博の行動は早かった。花瓶が傾いた時点で既に手が回っている。そして何事もなかったように元の位置に戻された。
「自分のドジを自覚しろよな…」
 溜息が漏れる。玲奈は小さくなった。
「済みません…」
「まあいい。それに今日はもうこれでいいだろう」
「え、でもまだお部屋はいくつか残っているでしょう」
「いいんだよ。どうせ俺一人で使うのはこんな物なんだから」
「ご両親がお帰りになった時にそれでは可愛そうですよ」
 昭博はすっと視線をはずして、そのまま二階に上がっていった。ついて来いという事らしい。何となく恐る恐る、玲奈はその後についていった。
 二階の手前の部屋、それが両親の部屋であるらしい。昭博は無造作にその扉を空け、半身にして玲奈に中が見えるようにした。少し背伸びをして、彼女は昭博の肩越しに部屋をのぞきこむ。ごく普通の和室は、意外なほどを通り越して異様なほど片付いていた。旅行に出ているせいなのか、生活感が全くない。旅行前にはきちんと部屋を片付ける、几帳面な人なのかもしれない。
「ほらな。こっちは大丈夫なんだ。二人が帰ってくる前にはまた掃除機でもかけるさ」
 昭博はさっさと扉を閉めた。何もない部屋を見たくないように。
「そうですか…」
 惨状を予想していた玲奈はひとまず安心したが、しかしどこかこの家に初めて入った時のような違和感を拭い去れなかった。まるで人の住んでいないような。
「さて、下に戻ろう」
「はい」
 かといって今の玲奈に反駁する理由もない。昭博に続いて下に下りるしかなかった。
 居間に入ると昭博がペットボトルの烏龍茶を二つのコップに注いで一つをテーブルに置いた。もう一つはそのまま自分で飲んでいる。
「いただきます」
 甘党の玲奈としては烏龍茶はあまり飲まないのだが、少し動いた後だけに喉に心地よかった。
「そう言えばさ、さっきここに電話してきたよな」
 コップを一息で空けてから昭博がそんな事を言い出す。玲奈はまだ口の中に物が残っていたので黙ってうなずいた。
「うちの電話番号教えたっけ。メモをもらったのは覚えてるんだが、あの時ちょっとふらふらしてたからな。その後のことがちょっとはっきりしないんだ」
 記憶にないところで物事が進んでいる居心地の悪さを、昭博は解消しようとしているのだった。玲奈が笑って彼の疑問に答える。
「教えてもらっていませんよ。聞く間もなく追い出されたようなものだったんですから」
「そうだっけかな…」
 そこまでは覚えているが、この際とぼけることにした。
「そうですよ。ですから昨日電話帳で調べました。この町内に住んでいる『手塚さん』はこちらだけのようですから」
 昭博のやりようが分かっているのか、玲奈は苦笑している。
「別にそこまでやらなくていいのに…」
「だって、昭博さんは放っておくと自分の具合が悪くても閉じこもってしまいますから」
 ぐうの音も出ないので、昭博が話題の方向をずらしにかかった。
「三年生だろ。忙しいんじゃないのか。俺と違って大学にも行くんだろう」
「…………。へ、平気です。このくらいは…」
 どう見てもこれは平気ではなかった。無意味に顔や手足が動いている。どうやら深く考えもせずに痛いところを突いてしまったらしい。しばらく考えた末、昭博は口を開いた。
「そう、平気なんだ」
 全く動揺を感じさせない、外の天気を聞いて晴れだと知らされたような口調だった。
「ええ」
 昭博が何も感じていないかのようであったので玲奈も落ち着きを取り戻す。そして少し伸びをしてから、昭博が立ち上がった。
「もう腹が減ってきちまったな。ちょっと早いが、飯にしてしまおう」
 そして台所へ入って行く。残された方としては少し行動に迷った。
「あ、ええと…」
「君も食べるかい。どうせ一人分作るのも二人分作るのも変わらないから。ただし、味の方は保証できないぞ」
「お料理なら私が…」
 睨まれて、立ち上がりかけた玲奈も座り直さざるを得なかった。
「今食べたい物は君には作れないし、その辺にも売ってはいないんだよ。さ、どうする。食べる? 食べない?」
 実はこう言っている方も必死である。また玲奈に妙な物を作られてはたまらない。
「…いただきます」
 迫力負けしてごくか細い返事が返ってきた。
「よーし、じゃあ作るとするか」
 どうやらすっかり回復した、そんな様子で昭博はフライパンを取り出した。しばらく使っていない物であるし、ざっと水洗いしてから火にかけて水滴を飛ばし、更に十分に加熱する。そして油を引いて、冷蔵庫の中にあるベーコンを刻んで放りこんだ。それが香ばしい匂いを立て始めたところで焼きそばの麺を放りこむ。麺がほぐれたら醤油、塩、胡椒、オイスターソース等で味をつけて、しばらく待ってから最後に野菜を入れ、くたっとなってしまう前に火から下ろせば醤油味の焼きそばの出来あがりである。この料理は食感を楽しむために麺をやや固めになるまで良く焼き、逆に野菜はあまり火を通さず歯触りを残すのがコツだ。
 もともとあまり難しい料理ではなかったが、この少年は基本的に器用な性質であるらしい。左腕を負傷しているとは思えない手際の良さで、一通りのことを仕上げてしまった。
「さて、出来たと。ほら、早くこっちへ来な」
 フライパンの中身を二つの皿に取り分けてダイニングテーブルに置く。焼けた醤油のいい匂いが部屋に充満していた。
「はい」
 つられるように玲奈が席につく。
「ええと、玲奈の箸は…これでいいか」
 例の独り言とともに箸を用意しながら、昭博は席についた。
「さ、食べようぜ」
「いえ、だめです」
 いきなり真顔で言われて、昭博は椅子からずり落ちかけた。
「…なんで?」
「食事の前には手を洗わなくては行けませんよ。ばい菌が入っては行けません」
 穏やかそうな目を厳しくして、きっぱりと彼女は告げた。
「あ、ああ」
 今度は昭博が迫力負けした。
 もともと犬や猫が糞をするような砂場に手を突っ込むだとか、あるいは医療行為に従事するかでもしていない限り、手に病原菌が正常の人間の免疫力を超えるほど大量に付着することはあまりない。しかも今回は手づかみで食べるような物がないから、口を通して病原菌が体内に摂取される可能性はごく低い。それでも感染するとしたら、いわゆる伝染病の類である。

 よしんば大量に病原菌が付着していたとしても、それを安全なレベルまで除去しようとすれば家庭用の石鹸ではまず不可能だ。病院であれば逆性石鹸ないし場合によってはクレゾール石鹸液を使うと、宍戸医師あたりなら教えてくれるかもしれない。このあたりになると口に入れば下手な菌より余程危険な代物である。食事の前に手を洗う習慣はむしろ道徳的意味の方が大きい…。などと普段の彼なら手を洗えと言われた瞬間にこの位反論するところだが、今回は駄目だった。
 二人は順番に手を洗ってから席についた。
「いただきます」
「…いただきます」
 不本意極まりないまま、昭博は自分で作った料理に箸をつけた。いつもと変わり栄えのしない味がする。別にこれが食べたかったわけではなく、単に今ある材料で作れるものが大して思いつかなかっただけである。ソース味の物も作れたのだが、玲奈が何か作ったときのことを考えると可能な限り甘さを排除した物にしたかった。
「あ、おいしいです」
 細々と麺をすすりこんでゆっくりと噛んできちんと飲み下してから、玲奈が言った。
「そうか?」
 世辞だと思ったから昭博の反応はそっけない。しかし玲奈の食べ方が少しだけ早くなった。
「本当です。すごいですね、昭博さんは。色々と出来て」
「別に…」
 相変わらずそっけなく、昭博は視線を合わせない。が、しかし彼はその代わりに焦点を彼女の目の下の方、時には麺をすすり、時には涼やかな音色をつむぎ出す桜色の唇を眺めていた。口紅はつけていない…と昭博は思うのだが実の所良く分からない。色の淡い口紅だってあるし、カラーリップという物も有る。とりあえず今は食用油がまとわりついていて、妙に艶っぽかった。それに柔らかそうで、それでいて弾力もありそうで、思わず指でつついてみたくなる。指でつついたらそれから自分の唇で感触を確かめてみて、それからそれから…。
「昭博さん、何かついていますか?」
 玲奈が慌てて自分の口のあたりをぬぐった。まあどう考えても普通の反応であろう。
「い、いや、何でもない何でもない!」
 昭博は慌てて、大量にそばを掻き込んだ。動揺を隠すにはそれしか思いつかなかったのだ。映像化すれば確実に十八歳未満への販売禁止、通称十八禁になる想像をしてしまったのだった。別に文字媒体であれば、現行の法運用相当過激な所まで平気だが。
「昭博さん、そんなふうに食べては体に良くないですよ」
 もっともな意見ではあるが、昭博はここで食べた物を喉に詰まらせるようなお約束な真似はしなかった。
「これが普段の食べ方なんだよ」
「今はそれで良いかもしれませんが後になって悪いことになるかもしれませんよ。歯だとか胃腸だとか…」
 この後は昭博も落ち着きを取り戻し、食事をしてその後のお茶を一緒に飲んだりしながら取り留めのない話をした。
「そう言えばさ、君の両親はなにかで出かけてるとか言ってたけど、いつ頃帰ってくるわけ?」
「さあ…予定を立てる事ができないそうです。日本にいることの方が少ないですし」
「ほう…じゃあ、君も一人暮しなんだ」
「ええ、でもお手伝いさんが来てくれていますから家事はしていないんです。それで慣れなくて」
「ふうん」
 どうやらと言うかやはりと言うか、ともかくもかなりの金持ちであることは確かなようだ。他人の詮索をしない昭博としては別にそれ以上興味もないが。
「それで、こちらのご両親はいつ頃お帰りなのですか?」
「あ…ああ。さあな。俺が生まれてから初めての二人っきりの旅行だから、気ままにやっているらしい」
「そうですか」
 同情したそうな玲奈の顔色を見て、昭博はすぐさま話題の方向をずらした。
「あれかい? あの宍戸先生って留守がちな自分達の代わりに君の面倒を見て欲しいとか君の両親から言われているわけか」
「ええ。良くお分かりですね。すごいです」
「別に…。君が外科医を行き付けにしているとは、どうしても思えないからな。多少の擦り傷とかは多そうだが。先輩か何かにしては歳が離れすぎているし、それで知り合いとなると親の方の縁だと考えただけさ。社会的な地位も高いから後見役にはうってつけだし」
「後見役と言うか…私にとっては優しいお兄さんのような人です。子供の頃から良く一緒に遊んでくれて。今考えてみれば私のままごとに付き合ってくれていたんですよね」
「へえ…」
「昭博さんの方はどうなのですか」
「はは。俺は別に、娘じゃないからさほど心配もされてなかったみたいだし、もともとそう長くするつもりもなかったらしいからな。近所の人に何か有ったららよろしくとか言って、それだけさ。一応弁護士の知り合いもいたりするけど、あの人は忙しいからあまりうるさく言ってこなくて助かるよ」
「そうですか」
 そんな事を言っているうちに、やがて外がすっかり暗くなってしまった。まだ気温の高い日は多いが、急激に日が短くなっているように感じられる。
「さあて、と。そろそろ帰ったほうがいいんじゃないのかな。留守にしている間に娘が夜遊びなんて覚えた日には両親が泣くぞ。ま、泣かせたいと言うのなら止めはしないが」
 昭博がややわざとらしい仕草で伸びをしながら立ち上がった。口は悪いが、どうやら玲奈のことを心配しているらしい。確かに年若い娘が夜も更けて一人歩きをするのも、いくら日本の治安が良いとは言えあまり望ましいことではない。これを拒絶するのもはばかられるから、玲奈も立ち上がった。
「そうですね。それでは、失礼するとしましょう」
「ああ」
 ごく普通の日本の一軒家だけあって、歩き出すとすぐに玄関についてしまう。玲奈は少し慌てた。
「あのっ、昭博さん」
「んー、なに?」
 何か考え事をしていたのか、昭博の反応はやや鈍かった。むしろそれが玲奈を安心させて、上目遣いでの質問を引き出す。
「明日も来て…いいですか?」
「あ…と」
 返答に迷う昭博と言う物を、玲奈は初めて見た。もっとも今の彼女にそうと気付くような余裕は無かったが。
「…別にいいけど、あんまり俺のことを負い目に感じなくていいぞ。俺と違って君には学校とか色々あるんだし」
 昭博は少し伸びている髪を掻き回した。そんな仕草が、玲奈には可愛いと思えた。
「それは平気です。学校にはきちんと行っていますから。昭博さんは怪我人なんですから、まずは自分のことを考えてください」
 気を良くしている玲奈は可能な限りの笑みを向ける。しかし彼はそっぽを向いたままだった。
「ああ…」
「明日は普通の格好で来ますからね」
 昭博の視線の方向に回りこんで、玲奈はこう宣言した。
「え? あ…そう」
 普段はややきつめに見える目が少し不思議そうに開かれた。昭博には玲奈の意地は分からない。もっともそこまで敏感な男は大人にも珍しいのだが。
「それでは、また明日」
 華やかな笑顔を残して、玲奈は帰って行った。後には今一つ釈然としない昭博が残されたのだった。

 玲奈は賃貸マンションに一人住まいをしている。両親不在で一人娘の彼女に本邸は広すぎるし、高級マンションならセキュリティもしっかりしているためだ。  
 ダイニングに入ってみると、支度の整った夕食が彼女を待っていた。お手伝いさんの仕事である。契約通りのことを済ませるとすぐに帰ってしまう、そういう人なのでもう姿は見えない。
「あ…失敗ね、これは…」
 元々食の細い性質であるので、とてももう一食いれる気にはなれない。これは冷ましてから冷蔵庫に入れて明日温め直して食べることにした。その方がお手伝いさんの仕事も少なくて済むだろう。
「ええと…あ、そうだ」
 独り言は一人暮しの人間に良く見られる癖である。玲奈もこの例に漏れない。そして彼女はコードレスの受話器を取った。登録してある短縮ダイヤルの番号を押す。コール音三回で相手が出た。張りのある、しかし落ち着いた男の声だ。
「はい、宍戸です」
「玲奈です。お時間をよろしいでしょうか」
「やあ、玲奈ちゃんか。時間なら大丈夫。今日は特に急患もなかったし、ゲームをしていたところさ。何か困ったことでもあったかな」
 電話の向こうの声の調子が変わった。患者を相手にしているよりもやや明るい。
「いえ、困ってはいないのですが、少しお聞きしたいことがあります」
「ああ、何でも聞いていいよ。…と、しかしできれば勉強のことは勘弁してもらいたいな。語学なら何とかなるかもしれないが、数学は自信が無い。外科で平面幾何やら数列やらは使わないからね。すっかり忘れてしまったよ。世界史も一々覚えていないしな」
 医者はそう言って笑った。玲奈も少し笑ってから返す。
「今日は先生のご専門についてですよ」
「医学…いや、生物? 基本的に大学受験レベルの勉強は専門家に聞かない方がいいよ。変に難しく考えるからね。って、君は化学を選択していなかったっけ。私は生化学なら一通り知識があるけれど…」
「いえ、私の勉強のことではなくて、お医者様としての知識に関して教えて欲しいんです」
「知的好奇心か。受験の最中にそれを忘れないとは結構結構。まったく、日本の教育システムと来たら学ぶことに最も大切なものを置き去りにしていけない。最先端のバイオテクノロジーでも何でも知っている限り教えるよ。それで、何かな」
「最先端でなくて申し訳無いのですが、怪我がどうすれば早く良くなるのか教えて欲しいんです」
「はい? 怪我でもしたのかい、玲奈ちゃん」
 少し慌てている。珍しいことなので、玲奈は悪いとは思ったが笑ってしまった。
「いえ、私ではなくて…」
「ああ、あの男の子か。手塚君だね」
「良く覚えていますね」
「ああ、君の知り合いというせいもあるが、少し気になることがあってね」
「何です? 何か悪い所でも」
 今度は玲奈が慌てる番だった。医師は容赦無く笑い返す。
「いや、私の見る限り至って健康体だよ。もっとも内科医ではないから大した保証にはならないが。気になったのは別のことだ」
「何ですか?」
「んー…悪いが教えられないな。医者の守秘義務に引っかかる。職務上知り得た秘密だから。どうせ大した事じゃないよ。知り合いなら家庭の事情くらいすぐにわかるだろう」
「いえ…あの日初めて知り合ったんです」
「ああ、そうなんだ。見ず知らずの怪我人の付き添いとは君らしいが、後の面倒まで見るのはやり過ぎだと思うね。世の中にはああいう喧嘩が日常茶飯事の手合もいる。特に若いとね。一々付き合っていても仕方が無い。消毒して縫合して包帯を巻いてやればそれでいいのさ」
 外科医の声が冷たく響いた。仕事柄、そういう人間の相手をすることも多いのだろう。
「違うんです!」
「あー…君に怒鳴られるなんて初めてじゃないかな」
 そう言われて初めて、玲奈は自分が大声をあげてしまったと気がついた。
「あ…ごめんなさい」
「いいから、訳を聞かせてくれないかな」
 穏やかに言われて、玲奈は恥ずかしいのをこらえて事の顛末を話した。
「そういうこと…か。それならばとりあえず傷がふさがるくらいまでは面倒を見てやるのも仕方が無いかな。大事な時期かもしれないが、世の中にはもっと大事なことがいくらでもあるし、君の力なら多少の遅れはすぐに取り戻せるだろう。君のしたいようにするといい。事の次第によっては私からご両親に説明するから」
「有難うございます」
 社交辞令ではなく、玲奈には許容してくれる医師が有りがたかった。
「それで、怪我を早く治す方法って訳か。良し良し、知っている限りの事を教えよう」
「はい、よろしくお願いします」
「って、良く知らないんだ」
 玲奈はこけた。コードのある電話なら絡まっていただろう。
「あのう…」
「初歩の冗談だ、と言いたい所だけれどそうでもなくてね。それは最先端医療ですら解決し得ない問題なんだ。…いや、少なくとも呪術や漢方の方がまだ話が早い。とりあえず所定の事をすれば一通り治ることになっているんだから。理論体系までは知らないがね。しかし翻って近代西洋医学、これの根幹である実証主義科学の見地からすれば、今のところ外傷を治癒せしめる決定的な方法は発見されていない。これまで様々な医療技術が開発されてきたが、外傷だけは患者の自然治癒力に任せるしかないんだ」
「そうですか…」
「あるいはその方法があるのかもしれない。ただ医療と科学の両立は難しくてね。こと問題は急を要する外傷だ。医者としては一刻も早く患者を治療せしめる義務がある。例えそれがどんな相手でもね。しかし科学者として外傷に対する研究をするなら、様々なアプローチを試みる必要がある。治癒を研究している以上、その逆に治癒しない現象を研究する必要もあるんだよ。それにね、人間の自然治癒力は個体差が大きくて中々掴みづらい。理論を構築するならば膨大な例を集める必要がある。中々運ばれてくる患者だけでは足りなくて、いっそ患者を作ってしまおうか、と科学者ならふと考えてしまう。もっとも死神博士と言われた私でさえ、そこまではしないがね」
 医師は重くなった話を転換するためにボケを打ったが、不発に終わった。ちなみに死神博士と言えば天本英世、そしてイカデビルである。
 玲奈は黙ってしまった。つまらなかったからではない。それならばまだ言った側としては救いようがあるというものだ。そして何事も無かったように医師が再び話し始める。
「さて、以上が前置き。これから本題に入るよ。プラシーボ効果というものを覚えているかな。確か何かの機会に話したと思うんだが」
「はい。本当は何の効果も無いはずの物を病気の人に薬だと言って飲んでもらうと、本当に治ってしまうことですね」
「そうだ。本来は精神医療から始まったんだが、これがまた風邪や何かの患者に試してみても結構文字通り根性で治してしまうことが多い。近代以前の医療はこれに依存することが大きかったとされている。もちろん重い病気には大した効果は無いが、人間の体にはそういういい加減な所もあるんだ」
「なるほど。そういう物を昭博さんに飲ませてあげればいい訳ですね」
 医師は苦笑したようだ。
「それはちょっと早とちりだなあ。プラシーボ効果の実験でも全く効果の無かった被験者が確かにいるんだ。彼はそのタイプなんじゃないかと思うね。人の言うことを頭から信じ込むような人間とは思えない。頭はいいようだが、それだけに。それに君は嘘のつけない人間だから、そばにいて事情を知っていたらすぐに彼にばれてしまうよ」
「はい…」
「私が言いたいのは人間の治癒能力には確かに精神的な部分が不可欠だってことさ。統計を取ったわけじゃないけれど、精神状態のいい患者と悪い患者では明らかに治り方が違う。これが分からないのなら医者をやめた方がいい」
「つまり昭博さんを元気付けてあげればいいと言うことですか」
「うん…基本的にはそうなんだが、これがまた難しくてね。あまり背中を押してしまうとこれがプレッシャー、ストレスになる。この人がいなければ立ち行かないっていう町工場の社長を診たことがあるんだが、これが結構てこずったよ。ストレス過多はどう考えても不可だ。しかしまったくストレスの無い状態というものも危険だったりしてね、いわゆる無気力になってしまう。これも治らないんだ」
「それでは…」
「それこそ現代医療が抱える問題の一つだな。済まないが、私ではこれと言った正解を見つけることができない」
「うーん…」
「よっと」
「どうかしましたか」
「いや、ちょっと水でも飲もうと思って立ち上がっただけさ。あれだね、私はどうしても難しく考えすぎるのかもしれない。とりあえず優しくしてあげればそれでいいんじゃないのか」
「優しくと言われても、どうしたらいいのか…」
「普段通りだよ。君は優しい子だ。自信を持て」
「でも、私のすることを昭博さんが喜んでくれるかどうか、分かりません。ここ三日も失敗ばかりで…」
「真心は必ず通じるなんて安っぽいことは言わないが、多分大丈夫だよ。もし駄目ならそんな奴は放っておけばいいのさ」
「でも…」
「何か今日は、嫌にこだわるね」
「え…そうですか?」
「んー、私にはそう思えるけど…。まあいいや。それからもう一つ。人間は誰かを必要とし、そして誰かに必要とされているという認識をも必要とする存在だよ。とりあえず今、誰かが彼のそばにいることは決してマイナスにはならないと思う。そしてそうするのが君しかいないのなら、すべきことは決まっているんじゃないのかな。何を迷っているのか良く分からないが、今はそうする時じゃないだろう」
「…分かりました。今は、とにかく私に出来ることを考えてみます」
「そうそう、その意気だ。とにかくやってみる、それだよ」
「はい。有難うございました」
「どう致しまして。さて、じゃあそろそろ切るとするかな。多少は勉強もしておかなきゃ駄目だぞ。視野の狭い自己犠牲ほど虚しいことは無いからね。時間があるのなら自分の用事も済ませておいた方がいい」
「分かりました。昭博さんも似たようなことを言っていたことですし」
「へえ…それじゃあまあ、また何か有ったら遠慮無く電話をするといい。じゃあね」
「はい、おやすみなさい」
 風呂を済ませてから玲奈は机に向かった。しかしはかどりはしないのだった。


前へ 小説の棚へ 続きへ