午後の恋人たち
X 金曜日は狂乱


 この日の午前中、昭博は久しぶりに最寄のJRの駅付近まで出かけていた。普段電車を利用するならばもっと近い私鉄の駅もあるのだが、集まっている商店の傾向が違う。食料品や日用雑貨ならば私鉄周辺の商店街で済ませた方が安いのだが、服や参考書、CDなどではやはりJR周辺に展開されている大型店舗の方が品揃えが充実している。
 それで昭博が行ったのは、ゲームソフトショップだった。この種の店は私鉄の駅周辺にはないのである。そこでRPGのソフトを一本買う。昭博のような暇人の必需品である。しかしRPGであるのに振動コントローラー対応とは謎だった。ちなみに彼が持っている機種は現在最も普及している型の物で、長時間やっていると内部に熱がたまってコンピュータがダウンするかなりの欠陥商品である。これは別に彼の持っている物だけがそうなのではなく売られている全ての商品がその欠陥を抱えている。そのため長時間使用するユーザーの間では本体を縦に置いたりひっくり返したりということが常識化している、そのような代物だった。その他スペック面においても、ライバルメーカーの機種より明らかに一ランク以上劣っている。
 しかしライバルメーカーはというと、一社は自虐的なCMで話題を集めているものの昭博がやるには少々ソフトのラインナップがマニアックに過ぎ、もう一社はかつて家庭用ゲーム機市場を席巻したものの経営戦略に失敗して衰退している。よって昭博としては消去法的に今の機種を選んだのだった。もっとも後者のメーカーは最近かつての栄光を勝ち取った実力を見せ付けるような超大作を発表して巻き返しを図っており、昭博としては本体ごと買ってしまおうかと気持ちが揺らいでいるのだった。
 ついでにファーストフードで昼食を済ませ、帰宅した後は早速ゲームをやってみる。とりあえずすぐに投げ出したくなるような粗悪品ではなかった。もっとものめりこんで何時間でもできるような傑作でもなかったが。
 電話が鳴ったのは暇つぶしにはまあ丁度いい物かな、と昭博が思い出したあたりである。
「はい、手塚です」
 先日の教訓があるので今回ばかりは真面目に電話に出る昭博であった。すると聞き慣れた声が返ってくる。
「昭博さん、玲奈です」
 しかし電話回線ごしだとあの澄んだ音が損なわれるな、だから深澄音と言うのか…と昭博はふとそんな事を考えた。
「ああ、どうした」
「それが…」
 どうも困っているようだ。というよりもそうとしか聞こえない。正直者である。
「何かあったのか。なんなら暇つぶしに手を貸してもいいが」
 嘘つき昭博がこんな事を言う。玲奈は回線の向こうで頭を振ったようだった。
「いえ、昭博さんの手をわずらわせるようなことではありません」
「とりあえず愚痴でも聞こうか?」
「はあ…。あのう、昨日は今日もそちらにうかがうと言いましたけれど、今日は学校で進路相談があるのをすっかり忘れていて、これからそれを受けなければならないんです。それかなりかかるみたいで…」
 控えめな声の向こうから、笑いさざめく声が聞こえてきた。どうやら今はまだ学校にいるらしい。
「そりゃ大変だ…。やっぱり受験生なんだな」
「ええ、まあ…。ですから、うかがうとしたら六時ごろになるとなると思うのですけれど、構いませんか」
「おい、別に俺は構いやしないけどさ。まず自分の心配をしろよ。忙しいんだろ。無理してそんな、来る必要もないから。そろそろこの腕も治りかけているし」
 昭博は笑った。いくらなんでも律儀過ぎる。しかし玲奈も簡単には引き下がらない。
「でも完全に治ってはいないのでしょう。まだ抜糸も済んでいないんですから」
「そりゃそうだけどな。何か今日は妙に傷口がかゆいし、これは治りかけの証拠さ。だから大丈夫、今日くらいは自分の心配をしろよ、な?」
「昭博さんはあれだけの怪我をして何ともないって言う人ですから、信用できません」
 痛い所を突かれた。確かに初めて彼女と出会った時に大した事はないと言ったのの、実際何針か縫うはめになってあげく傷が元の発熱までしている。この際昭博の言う事に説得力など有り得ない。
「信用できないなら来なくていいのに…」
「子供みたいな言い訳をしないで下さい」
 この状況下ではもう抵抗するだけ無駄だ。昭博が諦めた。
「分かった。それじゃあ来てもらうとしようか」
「はい、それでは六時過ぎに」
 嬉しさが回線ごしにも十分伝わってくる。昭博は少し苦笑して、話の方向を変えた。
「六時っていうと丁度腹の減る頃だな…」
「何か買って行きましょうか」
「その辺の物は食い飽きてるんだよ。俺みたいな人間はね」
 多少金の有る単身者は必ずこうなる。これがもっと財政的に逼迫してくるとやむなく自炊と言うことになるのだが。
「それでは私が…」
 それは止めろ、と言うほど昭博はストレートではなかった。しかしあのびっくり箱のような料理は勘弁して欲しい。もしかしたらあれ以外にごく真っ当な料理も作れるかもしれないのだが、昭博は少なくとも余計な所で危ない橋を渡りたがる人間ではなかった。
「おいおい。今俺の家の冷蔵庫には全く何もないから、何か作ろうとしたら材料からそろえなきゃならないんだぞ。それに三十分はかかるし、そこから君の要領で作り始めたらまた一時間くらいかかる。すっかり腹が減っちまうよ」
「それでは…」
「俺が作るからさ。一緒に食べよう」
「でもそんな、悪いです。昭博さん怪我をしているのに…」
 でも…と言う接続詞はつまり本当は食べたいと言うことである。
「心配することないって所を見せてやるさ」
「それで無理をして、また熱でも出したらどうするつもりですか」
「その時はまた看病してもらう」
「もう…」
 玲奈は少し考えてから答えた。
「分かりました。それでは昭博さんの料理を楽しみにしています。もし何かあったらまたミルク粥でもお作りしますね」
 危険な発言である。昭博は何か言おうとしたが、しかし休み時間の終了を告げているらしいチャイムの音にさえぎられてしまった。
「いけない! 教室に戻らないと…。それでは昭博さん、また夕方に」
「ああ、またな」
 これで電話が切れてしまった。絶対良くなってやる、という決意を昭博は新たにした。
「さて、それじゃ材料を買いに行かなきゃな。何を作るか…は向こうに行ってから考えよう」
 今日は午前中にもう出かけているから特に着替える必要もない。そのままの姿で後はバックパックに財布を入れて、昭博は外に出た。もっとも、Tシャツにジーンズのごく普段着である。元々この時期の少年の服装に変わり映えなどない。それに昭博は、近所の駅に買い物に行くのに服のことを考えるほど外見に関して神経質ではなかった。
 今度昭博が向かったのは私鉄駅付近の商店街だった。食料品の買出しならやはりこちらである。大型スーパー同士が叩き合いをして安いのだ。とりあえず、昭博は一番近い店に入った。その日ごとに広告をチェックして比較検討するのが更に安く買い物をするコツであるが、彼はそこまでまめなことはしていない。そこで大体、利用する店はここと決まってくる。
「さあて、何にしようかな…」
 店備え付けの買い物篭を下げて、昭博は店内をふらつき始めた。一見高校生の少年が午後のスーパーを歩いている。実は珍しい光景であるが、別に不審がったりする者もいなかった。人それぞれ事情があるものだ。それにこの年頃の少年が今時スーパーの食料品売り場で万引きなどしないだろう。青果、魚介類、肉類…と足を運んで、気がつくと昭博はいつもの所に来てしまった。インスタント食品、レトルト食品、そんな物が並んでいる棚である。
「しょーがねーなー」
 昭博は自分の癖に苦笑せざるを得なかった。料理を作ると言っておいてインスタントを出すのはかなり挑戦的な行為である。俺はそこまで人に喧嘩を売って回る人間ではない、と昭博は自己分析をした。異論のある所だが。それはさておき、彼はそこを抜けてまた元の青果の棚のあるあたりに戻ろうとした。
「おや…?」
 棚が終わる所、つまり店の全体から言えば出入り口に近いあたりで、昭博は見慣れない物を発見した。新製品らしい。入ってすぐの所、しかも目に付く高さにある。これは間違いなく、売れ筋かあるいは店側が強力に押している商品だ。初歩のマーケティングは昭博でも知っている。しかし。
「…ボルシチ?」
 これはかなり奇抜な商品だ。この種のものなら、普通はカレーが来る。せめてビーフシチューかホワイトシチューだ。しかしボルシチとはマイナーな代物である。ロシア風のトマトベースのシチュー、と昭博は記憶していた。不況のどん底にあってもこの種の技術は日進月歩で、様々な新製品が発売されている。しかしそれはブームに乗って、イタリアンが中心である。ロシア料理とは珍しい。その珍しさにつられて、彼はとりあえず手にとってみた。買うと決めた訳ではないが。
 とりあえず箱の裏を見てみると、ルーであるらしい。多少材料は違うが、作りかたの基本はカレーと変わらないようだ。
「これなら俺でも作れるかな…」
 元々あまり複雑な物ができるわけでもない。作るとしたら炒め物やカレー、スパゲティ、そんな感じになる。むしろ味噌汁など彼には今一つ分からない。
 面白そうだし、自分に作れる。これは買いかもしれない。15秒ほど考えた末、昭博は改めて箱の裏を見やった。必要な材料が一通り書いてある。
「よし」
 とりあえずその通りに、彼はその材料を籠の中に入れ始めた。決まりだ。
 何やかやと材料を集めながら、昭博は既に次のことを考えていた。ボルシチだけでは、シチューだけでは足りない。量を増やせば足りるかもしれないが、それはちょっときついものがある。色々と作るのは面倒だから、恐らく自分一人ならこれで済ませてしまったかもしれない。あるいは食パンでも買ってくるか。しかし玲奈が来るのに、そうする訳にも行かないだろう。
「やっぱピロシキかな」
 ロシア料理と言えばやはりボルシチ、そしてピロシキである。しかし昭博に自力でピロシキを作る能力などない。かなり料理に精通している人間でもロシア料理をきちんと勉強していなければ無理だ。それでは、それが売っているだろうか。
 とりあえず、このスーパーの中で探してみることにした。
「ピロシキ、ぴろしき、火露死忌…」
 つぶやきながら二周ほどしてみる。ちなみに、最後は暴走族風に言ってみたつもりだった。もっとも発音上どう違うこともないのだが。しかし客観的に不気味な光景であることは間違いない。
 結局この店には売っていなかった。まずボルシチの材料を清算して、ひとまず店を出る。選択肢は二つ、探すか否か。
「…探すか」
 冷めているようで、昭博は一度決めた物事に関しては徹底するたちである。そうでなければ今この彼はいなかっただろう。まだ時間はかなりある。彼は足早に歩き出した。
 ひとまず家に戻って食材を冷蔵庫に放りこむ。夏は終わったとはいえまだ気温は高い、あまり生物を常温にしておくのは危険である。そして今度はJRの駅の方に向かった。こちらにピロシキが売っているという記憶があったのだ。当てもなく私鉄駅周辺を探して回るよりははるかに効率が良い。
 そして記憶に違わず、昭博はピロシキを駅ビルのデパート地下一階、食料品店街で買うことができた。ひき肉などを小麦粉の皮で包んで揚げた物だ。ひとまず買う物を買ったところで、昭博はふと立ち止まった。
「所でロシア人って、ボルシチとピロシキ以外に何を食ってるんだ?」
 考えてみると良く分からない。アメリカ人ならハンバーガーにホットドッグ、フライドポテト、ステーキ…でありフランス人なら何やかやという難しい名前の料理群、イタリア人ならピッツァにスパゲティその他のパスタ、中国人ならこれはもう名前を列挙するのもばかばかしい多彩な料理、と色々浮かんでくるのだが、ロシアというとあまりはっきりしない。
 しかしその場で考え込んでいても仕方がないので、昭博は家へ向けて歩き出した。とりあえず食べる分にはボルシチとピロシキで足りる。あまり意味のない考えだから、別に立ち止まってまで長々と考える必要もない。
「うーん…」
 かなり真剣に考えている。道行く人は、まさか彼の頭の中にそんな物がぐるぐると回っているとは思わなかっただろう。何しろ避けて通っているのだから。
 そして彼は商店街が終わるあたり、一軒の店の前で立ち止まった。思いつく物があったのである。
「あれは料理じゃないよな…」
 つぶやきながら、昭博はその中に入った。そして思った通りの物を買ってくる。ほとんど衝動買いに近い。しかしどうしても買いたくなってしまったのだ。
「ま、いいか」
 そして彼は自分の家に帰って行くのであった。

 もう秋が始まっているのだな、と考えながら玲奈は住宅街を歩いていた。確かにまだ暑い日も多い。彼女が今着ている学校の制服も夏服である。しかし夕暮れ時が急速にやってくる。空はもう茜色からどこまでも深い夜の紫へと変わろうとしている。かすかな風も涼しい。あの長く輝かしい昼間は、今年はもう戻ってこない。
 しかしその代わりに、家々からもれる明かりが良く見える。その中にいる人々の温もりが感じられるようだ。彼女は目を細めながら、少し歩みを速めた。待っている人がいるのだから。
 そして玲奈は、昭博の家の前に立った。日が暮れてからここを去った事はあっても、暗くなってからこうして正面から眺めるのは、そういえば初めてだ。一階の窓に明かりがついている。初めて見る光景であるのに、彼女は何となくほっとした。インターホンを押すと、例の調子で返事が返ってくる。
「玲奈か」
「はい」
「開いてるから入って来いよ」
「はい。お邪魔します」
 とりあえず居間に入ってみると、昭博はキッチンで鍋をかき回していた。シチューの芳香が部屋一杯になっている
「いい匂いですね」
「匂いはな。ただ味の方は保証しないぞ。一応ルーで作っているからそう簡単に失敗はしないだろうが、何しろ作っているのが俺だからな」
「済みません、昭博さん。怪我をしているのに料理までさせちゃって。手伝いますから」
「いいよ、疲れてるだろうし。暇な人間が忙しい人間を手伝うのは当然だろ。それにもうそろそろ終わるから、座ってな」
「はあ…」
 拒絶の調子が弱くはなかったので、玲奈は仕方なくいつものソファーに腰掛けた。確かに今日は少し疲れている。少し行儀悪くソファーに沈み込む。それが何故か心地よかった。
「何か…」
「ん?」
 昭博は振り返らない。
「こうしていると、何となく我が家に帰ってきたっていう気がします」
「おいおい。何だよそれ。行った事はないが、ここと君の家では様子がずいぶんと違うんじゃないか」
「そうですけれど、でもここには人がいますから。私の部屋に帰っても一人ですし」
「ふうん…」
 昭博はやはり振り返らなかった。また鍋をかきまわしているが、しかし少々混ぜ過ぎのようだ。あまりいじっていると煮崩れる。
「すると何か? この前君が言ってたけど、俺は弟ってわけか」
「え? ええと…」
 玲奈はうつむいて考え込んだ。確かにそういう気もまだするが、次第に別の感情も生まれているのだ。
「まあ…そうですね」
 結局、玲奈は自分の内心の半分以上をごまかした。
「へえ…」
 そして昭博はまだ振り返らない。どうやら料理が終わるまではそうしているつもりらしい。何気ない会話が、何故かひどく気まずかった。お互い分かっているのに口には出さない、そんな事があるようだ。
「あ、昭博さん。お水飲んでいいですか」
 玲奈が卓上にあった瓶に手をかける。昭博はどこかほっとしたように答えた。
「ああ」
 玲奈も慣れたもので、昭博の背後の食器棚からコップを取り出して瓶の中身を注いだ。無色透明、かつ無臭、これはどう考えても水だ。喉が乾いているから、まず中身の三分の一くらいは開けるつもりでコップを傾ける。
「…はふう…」
「ん?」
 玲奈が妙な溜息をついたものだから、昭博もようやく振り返った。その顔を見て、玲奈が笑いかける。
「変わった風味のミネラルウォーターですね。産地はどこですか」
 昭博はちょっと口を開けて、しばらく止まっていた。そして鍋を放り出して歩み寄ってくる。
「…ロシアだと思うな、俺は」
 そして中身の減った瓶を取り上げる。確かにロシアのアルファベットらしい物がラベルに書いてある。もっとも昭博にロシア語の知識は無いからそれらしいでたらめが書いてあっても分からないし、中学、高校とすでに四年以上やってきた英語でさえ日常で使うレベルで不自由しないとは到底言えないのだが。
「それは珍しいですね。昭博さんはこういうのがお好きなんですか」
 今度玲奈は味わうために少量を口に含んだ。飲めば飲むほど、彼女の経験に無い変わった味だ。
「いや…今日はボルシチにして、ピロシキも買ってきたからついでにロシア風の物を買ってきたんだが」
 昭博はほとんど呆然として玲奈がコップの中身を空けて行く光景を眺めている。玲奈は首を傾げた。長くつややかな髪がさらりと流れる。
「どうしました?」
「いや…それは水じゃないからさ」
「ではなんですか」
「酒」
「なるほど、お酒ですか。初めて飲みます…え?」
 玲奈がコップを取り落としそうになったので、昭博は慌ててそれを拾い上げた。しかしもう、中身が半分以上なくなっている。
「お…お酒ですか」
「ああ、ウォッカだ」
 ようやく呆然と、玲奈がコップの中身を見つめる。昭博はそれをちょっと飲んでみた。間接キス…とは言えない。位置関係上、口をつける場所が逆になるのだ。
「うわ、さすがに強いな…アルコール度数四十五は伊達じゃないか」
 日常的に飲んでいるのではないにせよ、多少酒を飲んだことのある昭博でさえ顔をしかめてコップを離した。コップの水位はほとんど変わっていない。元々昭博は飲むとしてもビールや度の軽いサワーなどで、ワインや日本酒のような中程度の物にもあまり手を出さない。ウィスキー、焼酎などは飲んだこともなかった。今回は半ば冗談、半ば興味本位で買ってきたので、ちょっと味を見た後は適当に、ジュースか何かで割るつもりでいたのだった。しかし玲奈は見事に、ストレートで飲んでくれた。
「どうしましょう…」
 おろおろとしてほとんど泣きそうな玲奈に、昭博は言い聞かせた。
「大丈夫だよ。これだけの物を飲んで、『変わった風味』で済ませているんだから、きっと酒には強いんだ。弱かったらとっくにひっくり返ってる。心配することはないんじゃないか」
「はあ…そうですよね。じゃあ、昭博さんを信じることにします」
 玲奈は昭博が保証してくれたので安心したようだったが、しかし実の所昭博としては自分自身に大丈夫だと言い聞かせていたのだった。
「さ、さーて、料理もできたし、食べようか。そっちに座って」
「はい」
 玲奈はダイニングの椅子に腰掛け、昭博はウォッカの瓶を片付けてからボルシチを二つの深皿によそい、ピロシキを大皿の上に並べた。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
 玲奈の様子をうかがいながら、昭博はボルシチを一口食べてみた。さっきから味見をしていたせいもあるかもしれないが、しかしけっこう食べられる味をしている。まあ、それほど美味だとも思わないのだが。
「うわあ、おいしいです」
 と、いきなりこんな声が上がった。当然玲奈である。可愛い女の子がこういう事を言う、ノリは料理番組だ。しかし料理番組と違う所は、彼女がそのままの勢いで食べ続けたと言うことである。この前醤油味焼きそばを食べた時と比べても、明らかにペースが速い。少なくとも本人は、確かにおいしいと思っているようだ。
 酔っている。昭博はそう結論付けた。食前酒の効果抜群である。こうなると素面の人間としては心配が先に立って、もう食べている物の味もわからない。
「はい、昭博さんっ!」
 と、いきなり彼女が深皿を昭博に向けて差し出した。さすがの昭博もちょっとのけぞる。
「な、何?」
「おかわり下さい!」
 見ればいつの間にか、小さくないはずの深皿がきれいにからになっていた。
「あ、ああ。分かった」
 何かに操られるように昭博は立ちあがり、そしてもう一杯ボルシチをよそった。今日食べる人間は二人だが、後で食べるために四人分ほど作ってある。これは料理の手間を惜しむ人間の日常的な知恵である。
「あー、ピロシキもおいしいですぅ」
 食われている。昭博が背中を向けている間に、ピロシキが食われている。この勢いなら昭博が自分の分と計算していた物までやられるに違いない。しかしこれも先に述べた理由で余分に買ってあるから、今日の所は我慢することにした。
「はい、おかわりだよ」
 言い方が幼児向けまがいになっている。しかしこれが丁度良かった。
「はーい」
 そしてまた玲奈がボルシチを食べ始める。しかし食べこぼしもせず、皿に口をつけるという下品なまねもせず、一体どうやってあの速さを保っているのかと昭博は不思議になった。実に器用に、素早く食べている。と、観察している内にそれが次第に怪しくなってきた。ゆらり、ゆらりと上体が左右にゆれ始める。アルコールが回ってきたらしい。それでも食べつづけているのが、恐い。
「おい、大丈夫か…」
「だいじょうぶですよぉ。それよりあきひろさぁん、おかわりくださいー」
 かなり大丈夫ではない返答である。しかもまた、深皿がからになっている。直接アルコールが回っているせいか、あるいは普段にない食べ方をしているせいか、どうも彼女の満腹中枢はまだ働いていないらしい。酒を飲んでいる時には何か食べた方が良いと言うが、少なくともこれ以上食べさせるのは危険だと昭博は判断した。
「あー…ごめん。一応まだ残ってるけど、これは俺が食べたいから…」
「じゃあ半分こしましょう。半分こ」
 ある種合理的な提案ではある。仕方なく、昭博は残っている鍋の中身を半分に分けた。が…その間、大皿の上のピロシキが全てやられていた。
「はふう…おなかいっぱいですぅ…」
 ボルシチを二杯半、ピロシキを五つ平らげて、ようやく玲奈が止まった。しかし女の子が背もたれに体重を預けて腹部をさすっている光景は、あまりいただけない。
「そりゃ良かった。じゃあ、ごちそうさま」
「ごちそうさまでしたぁ」
 ボルシチ一杯半、ピロシキ二つの昭博は半ばやけになって答え、食器の片付けを始めた。普段ならここで玲奈が手伝うと言って立ちあがって、そして昭博が邪魔扱いするのだが今回ばかりは玲奈は済まなさそうなそぶりさえ見せない。しかしその方が、今の昭博としては有りがたかった。この状態の玲奈に手伝われたら、恐らく洒落にならない事態が起きる。
「あきひろさん…前々からちょっと聞こうと思っていたことがあるのですが…」
 椅子に寄りかかったまま玲奈が話しかけてくる。放っておくと危険な気がするので、昭博は食器を洗いながらも振り返った。
「前々って、何だよ。知り合ってまだ一週間も経っていない。ええと…五日目じゃなかったかな」
「だって、おとといから気になっていたんですよ」
 むきになって反論してくる。多少危険かとは思いつつ、面白そうなので昭博は再反論してみることにした。
「それ、全然前々じゃない」
「昨日が前でその前ですから、ほら、前々じゃないですか」
 玲奈は笑った。駄目だ。やはり酔っ払いには勝てない。
「分かった。前々だね。それで、何が気になっていたんだ」
「昭博さん、最近何かありませんでしたか。雑誌もCDも、新しい物を全然買わなくなっただなんておかしいです」
 視線が衝突した。一方はあくまで熱っぽく、真っ直ぐで、他方は冷たく、しかしわずかにゆれていた。
「別に。単に面倒になっただけさ」
 そして昭博は流しに向かって食器洗いを再開する。さすがにこの時の玲奈はしつこかった。
「うそですー。ちゃんと話してくださいー」
「話すことなんてない」
「むー。どうせ昭博さんは私の事を頼りにしてくれないんですね。もういいです…」
 ようやく黙ったかと昭博がほっとしたのもつかの間、やがて玲奈はすすり泣き始めた。陰鬱な空気が充満する。昭博はかなり長い間耐えていたが、それも食器を洗い終えるまでが限界だった。
「あーもう。俺が悪かったよ、だから泣くんじゃない!」
 タオルで手をふきながら、座ってうつむいている玲奈の所へ歩み寄る。そして彼女の顔をのぞき込んだ。
「はあ…」
 泣いたせいか、あるいは酔いのためか、顔にうっすらと紅がさしている。そして長い睫毛を伏せ、熱い溜息をつくさまは一瞬動きが止まるほどきれいだった。
「……」
 そして自分が何をすべきかも忘れ、立ち尽くす。一方玲奈は更に顔を伏せた。
「ぷっ…」
「え?」
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 しばらく昭博は何が起きているのか理解できなかった。しかしよくよく観察してみると、肩を震わせて笑っていると分かる。いくらなんでもこれには頭にきた。
「こら、何がおかしい!」
 玲奈の肩をつかんで強引に顔を上げさせる。酔っているせいかそれともそれが彼女本来の力なのか、ほとんど抵抗らしい抵抗もなかった。ふっと正面を向いた彼女の顔から、いつの間にか笑みが消えている。ぼうっと、まぶしい物でも眺めるかのように、あるいは恋人と向き合うかのように、彼女の潤んだ瞳が昭博の目を捕らえていた。
 ここで昭博は彼女の細い肩をがっちりとつかんでいて、玲奈はじっと彼を見つめて来て、この家には他に誰もいなくて…と、状況を整理すれば以上のようになる。ここですることと言えば、もういくつもない。昭博はつばを飲み下した。
「くす…」
 玲奈が微笑んだ。
「…………」
 昭博が腕を縮めようとする。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 また始まった。しかも今度は指を差して笑っている。どうやらいたく、お気に入りらしい。
「くぉら、人を指差す物じゃないって、親に教わらなかったか!」
 怒鳴るが、通じない。状況が悪化するだけだ。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
「止めろと言っているだろうに!」
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 酔っ払いよりたちの悪い物も珍しい。これが男なら二、三発殴った上で水を張った浴槽に頭から叩き込み、それでも黙らないようなら猿ぐつわを噛ませて柱にでも縛り付けておく所であるが、相手は玲奈である。どうやらくすくすと笑っているだけのようだし、放っておくことにした。
 昭博はダイニングから続きになっている居間に移って、午前中に買って来たゲームを再開した。すると玲奈がよろよろふらふら怪しい足取りで同じくやってきて、そしてソファーに倒れこむ。昭博は無視を決め込んだ。
 ゲームを進めてとりあえず中ボスを撃破する昭博。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 更にゲームを進行させ、無理が祟ってその辺の雑魚に葬られる昭博。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 仕方なく地道に経験値稼ぎを始める昭博。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 一度始めると癖になって武器防具まで手に入る限り最高の物を揃える昭博。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす…」
 そして見事、先ほどやられたところを難なく突破する昭博。

 反応がない。昭博は慌てて振り返った。玲奈は完全に崩れ落ちている。飛びあがるように立ち上がると、昭博は玲奈に駆け寄った。
「おい…」
「くー…くー…くー…」
 寝ていた。気持ちよさそうに、微笑さえ浮かべている。昭博の両腕がだらりと下がった。
「おいおいどうすりゃいいんだよ…」
 選択肢その一、この場で叩き起こす。これは間違いなく不可だ。どうせ今起こした所でまだ酔っている。事態の解決にはならない。
 選択肢その二、起きるまで待つ。無理に起こさなければ、少なくともアルコールが回っている間は起きないであろう。しかしその分、何時間か待たなければならない。深夜か、下手をすれば朝になる。
 選択肢その三、とりあえず彼女の自宅に運んでしまう。朝になれば彼女が自力で後のことは決めるだろう。どうやら今の所、これがベストのようだ。が、昭博は彼女の自宅を知らない。
「…電話帳で調べれば何とかなるな」
 どうやら少なくとも付近には住んでいるようだし、深澄音の姓も珍しい。何より電話番号を知っている。これですぐに分かるはずだ。昭博は納戸から分厚い冊子を運び出してきた。
「…と、深澄音深澄音…なんで載ってないんだ」
 電話帳には全ての人間の電話番号、住所が記載されている訳ではない。本人がNTTの申し出を明確に断れば、電話帳には載らないのだ。テロ、ないしは盗犯を警戒して高級官僚、企業の重役などはそのような処置を取ることが少なくない。芸能人の自宅電話番号なども電話帳に載ることはまずあり得ない。
「チッ…金持ちのお嬢さんで、しかも一人暮しだからな…」
 別の手段を考えた方が良さそうだ。この際、保護者ないしそれに類する人に引き取ってもらうとしよう。昭博はそこにある物を活用することにした。再び電話帳をめくる。今度はちゃんと目的の番号を見つけることができた。「宍戸外科医院」
「さて、この時間に人がいるかな…」
 ぶつくさ言いながらボタンを押す。と、コール二回で向こうの受話器が取られた。
「はい、宍戸外科医院です」
 女性の声だ。看護婦か事務員か、少なくとも本人ではないことは確かだ。
「夜分に失礼します。手塚と申しますが宍戸先生はいらっしゃいますでしょうか」
 こう見えても昭博は礼儀をわきまえている。正しい日本語を知っていなければ「だせー」「うざい」「むかつく」だとかいう芸のない罵倒しか使えなくなるためだ。
「生憎今急患が入っておりまして…」
 向こうの相手は受話器を口から放したようだった。
「ひいいいいいいいい! 痛い! 痛い! 痛い! せ、先生、何とかしてくれ」
「がたがたうるさいですね。手元が狂いますから黙っていてください。たかが腹を刺されて小腸がはみ出してるだけじゃないですか」
「そんな!」
「一々騒がない。大した事じゃないですよ。腸そのものに傷がついているわけじゃないんですから。人間の腸なんて適当に押し込んで縫い合わせてしまえばそのうち勝手に元通りになるって医大で最初に教わるんです。まったくぴいぴいぎゃあぎゃあ、それでもやくざの端くれですか。普通黙って耐える物ですよ」
「うううううう、俺はただ、シンナー売ってただけだよ…」
「ったく、使えないですね、チーマー上がりは。シンナーなんて地元のやくざが絡んでるに決まってるじゃないですか。蛇頭が関わって来ないだけましですがね。こんなのばかりとは、古き良き任侠道も先が長くないですね」
「うわああああ…」
「ほら暴れない! 先に手足を縫い付けましょうか」
「ちくしょう、こんな病院二度と来るか!」
「ええ、後の処置は係り付けの先生にお願いしますね。私だって迷惑してるんですよ。これから帰ろうというときに急患なんて」
「ぐえええええ」
「…あ…いいです。お取り込み中のようですしこちらは急の用事ではありませんから、また後日に」
 昭博は諦めた。
「恐れ入ります。それでは、失礼いたします」
 電話が切れた。
「医者も大変だよな…」
 昭博は肩をすくめた。それをよそに玲奈はぐっすり眠っている。
「俺も大変だが…」
 つぶやいて、昭博はもう一度肩をすくめた。
「仕方がない、漁るか」
 昭博は玲奈の学生鞄に視線を突き刺した。さっきから目に入っていたのだが、できれば女の子の鞄の中身をあらためたくはなかった。しかしこうなってはやむを得ない。昭博はそれを玲奈が寝ているソファーの前の机に置いて開いた。隠れてこそこそするより堂々としていた方がいい、という判断である。
 まず目に付くのは教科書、ノート、そして参考書である。非常に学生らしい、正確に言えば受験生らしい中身だ。この際ざっと見てみると、ノートは丁寧な字が整然と並び、教科書、参考書には細かく書きこみがなされている。持ち主の几帳面な性格がうかがえた。
「やっぱ勉強してるんだな…そうか、よし」
 昭博は溜息をついた。そして顔を上げ、元の作業に戻る。
 どうやら鞄の一番大きなスペースには後ペンケースしか入っていないようなので、別の所を探ってみることにした。
 次に目に付いたのはブラシ、鏡、リップスティックなどの化粧道具とも言えない身だしなみの品々である。口紅やファンデーションは見当たらない。やはり化粧はしていないようだ。
「なんか…いい匂いだな…って、こんな事してる場合じゃないか」
 危険な自分を打ち消しつつ、昭博は更に別の所、鞄の脇のポケットを調べてみた。そして口の端に笑みがこぼれる。
「ビンゴ」
 学生手帳だ。それを引っ張り上げる。彼女の性格からして、この記名欄に書き落としがあるという事は…やはりなかった。住所氏名電話番号、きちんと記されている。しかしせっかく見つけたそれを確かめると、昭博は毒づいた。
「ザ・タワー中央…バブルの塔か」
 地上三十六階を数える、それは高層超高級マンションである。この付近では最も有名な建造物だ。今で言うバブル期、土地高騰の時勢の中である不動産業者が周辺最後の雑木林を潰し、地域住民の猛反対を押し切って建てた物である。抜群の眺望、広い間取り、オートロックに始まるセキュリティ完備…と高級を売りにした物で最低価格がなんと八千八百万円。誰が買うんだ、誰が! と昭博はその宣伝を見たときに思わず吐き捨てた物だったが、時代の勢いは恐ろしいもので、売れ行きに全く問題はなかったらしい。が、その勢いが下る時、それは更に恐ろしいことになる。
 元々ザ・タワーとの命名がまずかった。さすがにバブル期に成り上がっただけの不動産業者らしく経営者が無教養で、英語圏で「The Tower」と言えば様々な惨劇の舞台となり幾度もその所有者を変えたロンドン塔か、神の怒りを買って崩れ去ったバベルの塔を差す事を知らなかったらしい。そしてバブル崩壊、膨大な負債を抱えて不動産業者は倒産し、また売りに出す者が多く現れもしてマンションの資産価値も急速に下落した。以後この塔は庶民、特に地域住民からバベルの塔をもじって「バブルの塔」と渾名され嘲笑の対象となっている。
 ただその所有者達の中に代議士やら警察の高級官僚やらがいるとかで、その他のマンションのように空き室が出ても治安が悪化することはないらしい。管理組合も再建され、強力なセキュリティなどはいまだ健在と言われている。
 つまりそう簡単に中には入れない。とりあえず住民である玲奈がいれば問題はないのだが、この酔っ払い状態ではきちんと入れるかどうか難しい所だ。そして妙な挙動をしようものなら警備会社に連絡が行く。これはかなり厄介だ。今、この状態では諦めた方がいいだろう。
「八方ふさがりだな…」
 鞄から出したものをしまい直して腕を組む。選択肢その三、とりあえず彼女の家に運んでしまう、は消えた。
 選択肢その四、このまま泊って行かせる。違う、これは選択肢と言わない。他に選択の余地がないのだから。
「しかたねえな、もう」
 昭博は毛布でも取って来る事にした。このままでは風邪を引くかもしれない。
「ったく、何だってこんな事になったんだ。元はと言えば俺の怪我のせい…って、もう治ってそうだな、おい」
 ぶつくさ言いながら毛布を抱えて戻ってくる。それでも玲奈は気持ちよさそうに寝入っていた。しかも完全に体の力が抜けているらしく、とうとうずるずるとソファーから落ちて行く。それで起きればいいような物だが、そのままそこで寝る態勢に入ろうとしている。
「あーもう、どこまで手間をかけさせるんだ」
 とりあえず床に寝かせておく訳にも行かないので、昭博は毛布を別のソファーの上に置いて彼女を引っ張り上げようと近づいた。
「あー…」
 どこまでも間の抜けた声を、昭博が発した。そんな事しか出来ないほど、衝撃が大きかったのである。
 制服のスカートがまくれあがって白い太ももがあらわになっていた。どうやらずり落ちた拍子にそうなってしまったらしい。紺色のスカートとの対比で、それは輝くように白く見えた。これまで昭博は玲奈の体格を細い細いとばかり思っていたし、確かに足首からふくらはぎにかけてはこれで体重が支えられるのかと思えるほど細い。しかしその上の方はというと適度に肉付きが良くて柔らかそうだ。筋張った所がみじんも見られない。
 すすすっ…と昭博の人差し指がそこへ、それも一番柔らかそうなあたりへ伸びていった。こうなるともう止まらない。何しろもう本人がなにをやっているのか分かっていないのだから。頭の中は白一色である。
 そしてとうとう、指先が触れた。それは温かく、柔らかく、しかしそれだけではなかった。確かな弾力を持って押し返してくる、それに脈拍が感じられる。
 当たり前のことのようだが、生きているのだ。芸術品でも嗜好品でもない。生きて確かな、それも愛すべき人格を持った人間である。昭博はようやくそれを思い出した。今この状況も思い出す。玲奈は昭博の身を心配してここにやってきて、そして彼が半ば冗談で買ってきた酒を誤って飲んでしまって、寝入っているのだ。それをどうこうするなど、客観的に考えれば滑稽な行動だ。
 昭博は伸びていた指を引っ込め、拳を固めた。そしてそのまま自分の側頭部を殴りつける。視界がゆれた。
「馬鹿が。さっき決めただろうに」
 つぶやいてから玲奈のスカートのすそを直してやり、そして抱え上げた。女性として思いのか軽いのか彼には分からないが、少なくとも確かな手応えがあった。温かい。それから器用にドアを開けたり階段を上ったりして、自分の部屋に運び上げた。例によって布団は敷きっぱなしである。そこに彼女の体を横たえ、毛布をかけてやる。玲奈はそこが自分自身の寝室であるかのように、また深い眠りへと落ちて行くらしかった。
「やれやれ、俺が下で寝るのか」
 わざと愚痴をこぼしながら部屋を出ようとする。そこに玲奈の寝言が聞こえてきた。
「おかあさま…おとうさま…」
「おいおいおいおい」
 昭博は肩をすくめて下に降りていった。寝るにはやはり酒が必要だったが、昭博は慣れないウォッカをそのまま飲むような危険な挑戦は避け、昨日買ってあったオレンジジュースで割って飲み干した。しかし何かと寝る際にアルコールに頼るのは依存症、ひいては慢性中毒になりかねないので気をつけたほうが良い。

 昭博の朝は早い…訳はないが、しかしこの日だけは不可抗力的に早かった。
「明るい…」
 起き抜けの第一声がこれである。人類のみならず地球上の生命全てに恵を与える光に対する声は、しかし憎悪と呪詛に満ちていた。寝起きの人間は大概たちが悪い。しかも昭博である。すさまじい視線を、彼は窓の方へと投げかけた。普段の彼の寝室よりも居間のカーテンは薄く、しかも窓そのものが大きいため入ってくる光の量がまるで違うのだ。さらに今はまだ、日の出は六時前である。適当な生活をしている彼には非常につらい。しかしこのまま寝るのは無理なので、仕方なく彼は起きあがった。どうせ今日も何をしなければならない事もない。後で昼寝をすれば良いのだ。
「…そういや玲奈はどうなんだ」
 今日は土曜日、公立学校なら休みかもしれない。だが玲奈の学校は私立だ。週休二日かどうかは聞いてみなければ分からないし、その可能性は低い。それに昭博ではないのだから、恐らく玲奈の辞書にサボるとかずる休みだとか、そのような単語はあるまい。寝かせておいてやりたい気もするが、とりあえず昭博は二階に上がった。彼女の学校がどこにあるのか良くは知らないのだが、遠くの学校なら今のうちに動いておかないと間に合わないかもしれない。
「玲奈ー、起きてるかー?」
 勢い良く自分の部屋の扉を開ける。全く時間が経っていないかのように、玲奈は相変わらず気持ちよさそうに寝ていた。ただ布団の上に散らばったり顔にかかっている髪の毛が、時間の経過とそれに伴う寝返りを示している。人間寝ている時にでも意外に動くものである。そうでなければうっ血する。起きていても長時間同じ姿勢を続けていれば苦しくなるのを考えれば分かることだ。
「おいこら、起きろ!」
 怒鳴ってみるが、反応なし。そこでとりあえず揺さぶった。
「おーい、玲奈さーん、起きてくださーい、朝ですよー」
 丁寧語に特に意味はない。芸もなく同じ口調で同じことを続けるのに飽きただけである。さすがに今度は反応があった。昭博の手を振り払おうとする。…つもりらしい。つもりとからしいなどの単語を使わざるを得ないのは、一見すると何をやっているのか良く分からないためだ。動作を観察してその意図を斟酌した結果、そうではないかと考えられる、そういう事である。手が昭博の手の合ったあたりをゆらり、ゆらりとさまよっている。これは多分、振り払おうとしているのだろうが、しかし遅い。蝿でもとまりかねない。これは血圧が低いに違いない。昭博は気長にやることにした。
 何かを長時間続けるコツは、それを楽しむことだ。本来不純な動機で始めた訳ではないが、しかしどうせならば楽しまなければ損である。昭博はまずまだふらふらしている彼女の手をつかんだ。そしてリズムを取って上下左右に動かす。ノリはフォークダンスだ。
「うにゅう」
 奇声を発して、玲奈は手を引っ込めた。これは面白い。昭博は今度彼女の足元に回りこんだ。そして布団から出ている両足首をつかむ。
「はい、玲奈ちゃん、バタ足ですよー」
 説明の必要はあるまい。さすがにこれには無意識のままの蹴りが飛んだが、しかし昭博は難なくかわした。まだ動きがにぶ過ぎる。
「さすがに胴体に手を出すわけには行かないし…顔だな」
 一度始めると昭博はかなりしつこい。今度は反対側に回った。細心の注意を払って両耳をつかみ、ゆっくりと引っ張ってみる。
「ううんぅ!」
 彼女は首を振って逃れた。では今度は頬だ。つつくとすばらしい弾力とすべらかさが伝わってくる。今度はまた手で払われた。それも先程より若干動きが速い。どうやら次第に起きつつあるようだ。そろそろ止めにした方がいいらしい。最後に昭博は鼻を上に上げようとして…止めた。彼とて見たいわけではない。
「おいこら、玲奈。いい加減に起きてくれよ」
 そして何事もなかったように揺さぶる。しかしそこから彼女が顔を上げるのにまたしばらくかかった。
「んー…ふあ…ああ、昭博さん…」
 目を開けてもしかしまだどこか寝ている部分があるらしい。視線もはっきりしない。そこで昭博は彼女の目の前で手を叩いた。
「いい加減にしろ、ねぼすけ。朝だぞ」
「朝…? 何故、朝なのですか」
 かなり強烈な質問である。それをさも不思議そうに聞いている。昭博は苦笑して、直接には答えなかった。
「覚えてないか。学校でええと…進学相談があって、それから俺の家に来て、それで?」
「学校で進学相談があって、昭博さんの家に来て、それから…ああ、お水を飲みました」
「水じゃない、水じゃないぞー、良く思い出せー」
「だってあれは水…ではありませんね。なんでしたっけ」
「酒。しかもウォッカ」
「なるほど、ウォッカでしたか。それから…そうそう、昭博さんの作ったボルシチがすごくおいしくて…」
「そうだそうだ、段々思い出してきたぞ、それから?」
「…………?」
 かくり、と玲奈は首を傾げた。
「何故でしょう。何も思い出せません」
 あれほど暴れておいてそれか! と昭博は突っ込みかけたが、止めた。本人に完全な責任のあることではない。それに酔っ払いの生態も中々興味深かった。
「なるほど、そこまでか…。酒のせいで記憶が飛んでるんだな。ま、ボルシチとピロシキを食った後はそのまま寝ちまったよ」
 何も真実を語って聞かせる必要もあるまい。昭博が黙っていれば、それで済む事だ。
「そんな事が…」
 玲奈がゆっくりと首を振って周囲を確認する。
「昭博さんの部屋…ですね」
「そうだな」
 おかげで昭博は居間で寝て、早起きをするはめになった。ただそれも、文句は言わないことにした。
 が、玲奈はうつむいた。その頬にゆっくりと赤みが差し、やがて顔全体真っ赤になる。そして慌てて、毛布で体を覆って小さくなった。
「あん?」
 挙動不審だ、まだ酔っているのか、と昭博は考えた。その彼に対して、玲奈は恐る恐るの上目づかいで小さな声を出す。
「責任…取ってくださいね」
「は?」
「せきにん…」
 玲奈がやはり小さな声で繰り返す。
 昭博の頭が筋道だった思考を再開するまでしばらくかかった。
「何の責任だ何の!」
 思わず怒鳴ってしまうが、しかしこればかりははっきりさせておかなければならない。ただこの語気の強さが、良い結果を生まなかった。玲奈の目に涙が溜まる。
「ひどい…」
「お、おい、ちょっと待てよ。冷静に考えようぜ冷静に」
 大概こう言い出す人間自身冷静ではない物だが、とりあえず昭博は自分を落ち着けた。玲奈は不信の眼差しを突き刺してくる。
「自分の服を確かめろよ。それが何かされた後の服か。ここへきたまんまじゃないか」
 さすが昭博は弁が立つ。とりあえず検察兼裁判官に無罪の証拠を提出した。しかし服装に証拠能力があるなら、事を終えた後で訳もわからないうちにそれを直してしまえば完全犯罪成立である。もっとも現代日本の法体制は女性に非常に厳しく、男の体液が残っているうちに医師の診断を受けなければ強姦の立証は難しいと、法曹内部で言われるほどであるが、この際それは関係ない。
「あ…ほんとです」
「それにさあ、俺は女じゃないしそう無茶苦茶もしたことはないから良くは分からないが、無理やり何かされたら痛みが残ったりするんじゃないかな」
「はあ…そうですね」
 とりあえず玲奈は納得したようだ。やがて深々と頭を下げる。
「済みませんでした。変な風に疑ってしまって」
「ま、いいさ。部屋に入れた俺も不用意だった。何とかして君の家に連れてくべきだったよ」
「いいえ、元はと言えば不用意にお酒を飲んでしまった私が悪いんです。本当に、済みません」
「いいっていいって」
 玲奈は何度も頭を下げるが、そうされると却って自分が申し訳なくなる。やましい気持ちが全くなかったといえばそれは嘘になるのだし。それでようやく玲奈は頭を下げるのを止めた。そして自分に言い聞かせるようにつぶやく
「何か体中を触られるような変な気がしたのですけれど…夢だったのですね、ええ」
 昭博はよそを向いた。それには覚えがある。体中ではないにせよ。確かに手足、顔には触っていた。そして深呼吸してから向き直る。
「それでさ、今日学校は? 土曜日だけど」
「あ…行かなきゃいけません。今何時ですか」
 顔はきょろきょろ、腕はばたばた。しかし意味はない。昭博は冷静に立ち上がった。
「六時十三分、念のために早く起こしたよ」
「ええと…それなら大丈夫です。いつも起きるのは六時半ですから」
 ひとまず玲奈が落ち着く。しかし布団から出たくないらしい。昭博はここで冷静に助言をした。
「良く考えろよ、ここは君の家じゃないんだ。ここからすぐに学校に行けるのならそれで問題はないが、家にとりに行くものとかないか」
「あ…教科書を取りに行かないと。昨日の時間割のままですから」
「やっぱりね。それじゃ、すぐに出たほうがいいんじゃないのか」
「そうですね…あ、いけない! お手伝いさんが六時半に来るんです。その時私がいなかったら…」
「下手すりゃ警察に連絡が行くな。急ぐか」
「はい」
 玲奈も立ち上がった。昭博に従って階段を降りる。居間で鞄を取って、玄関に向かった。とりあえず同行するつもりで、まず昭博が靴を履く。
 しかし玲奈は、靴を履く前に立ち止まってしまった。玄関先においてある鏡に見入っている。出かける時に身だしなみを確認するために置いてある。
「あー…」
 発せられた声はほとんど泣きそうだった。
「おいどうした」
「髪がぼさぼさです。服もよれてるし…」
 確かに整えられているとは言いがたい。何しろ寝て起きたままの姿なのだから。しかし今はそんな事を言っている場合ではないはずだ。
「そんなのどうでもいいから、行こうぜ。元々六時半っていうのも着替えたりする時間を含んでいるんだろ」
「良くありません。見ないで下さいっ!」
 捨て台詞と共に、彼女は洗面所のほうへと走って姿を消した。
「おーい…」
 昭博はあきれたが、女の子とはあのようなものかもしれないと自分に言い聞かせて靴を履いたまま待つことにする。しかしかなり長く待たされるはめになった。戻って来た玲奈の服はさすがによれたままだが、その長い髪は一通り整えられている。
「済みません、でもあんな髪、昭博さんに見られたくなかったから…」
 玲奈はまた謝ったが、昭博は冷静に言った。
「別に遅れたって困るのは俺じゃないからね。しかし今から歩いたんじゃ間に合わないな」
「じゃあ走ります」
「君の体力じゃ無理。途中でばてる。俺の足なら何とかなるかもしれないが」
 靴を履く玲奈を後ろに、まず昭博は外に出た。そして自分の自転車を持ってくる。メタリックシルバーのフレームの、スポーツサイクルだ。
「これが多分、間に合わせるたった一つのやり方だな。冴えてるかどうかは知らないが。さ、後ろ乗れよ」
「は、はい」
 座席はもちろん、荷台もないので二人乗りには苦労する。結局玲奈が昭博にしがみつくようになってしまった。
「飛ばすぞ、落ちるなよ」
 力いっぱいペダルを踏みこむ。後ろに人を乗せているとは思えない早さで、自転車は滑り出した。
「方向はこっちであってるよな」
 実は知っているのだが、とりあえず聞いてみる。鞄を改めたとは知られたくないためだ。抜け目がない。
「はい、あの大きい建物です」
 しがみついているので声が耳元でする。ちょっとくすぐったかった。それに胸が背中に当たっている。
「よし」
 そのまま一気に加速する。朝の光の中、ひとけの少ない町並みを全力で風を切って走りぬける。こんなに爽快な気分は久しぶりだ。初めてかもしれない。
「なあ、玲奈」
「はい」
 お互い風の中なので少々話しづらい。しかも昭博はペダルをこいでいる。それでも昭博は話しかけた。機会は今しかない。
「明日の日曜、暇か?」
「え? ええ、特に何もありませんから、また昭博さんの家に行きますよ」
「いや、そうじゃない。君には今まで何やかやと世話になったし、礼がてらどこかへ連れてこうと思ってさ。たまにはそういうのもいいだろ」
 昭博はまた玲奈が自分の身を案じて「え、でも…」と言い出すものと思って身構えていた。しかし返答は、違った。
「どこへ連れていってくれるんですか」
 朝日にも負けない、元気の良い返答が帰ってくる。少し拍子抜けしながら、それでも全体としては思惑通りに話が進んでいるから昭博は続けることにした。
「君が行きたい所ならどこへでも。まあ、日帰りができるところになるけどね」
「ええと…ええと…」
 かなり真剣に考え込んでいる。一方昭博は自転車の運転もしているから、しばらくそれに専念することにした。何しろかなりスピードを出しているので、不注意は危険だ。
「じゃあ、遊園地がいいです」
 タワーが段々大きくなる中で、玲奈はそう言った。思わず自転車の速度が鈍る。
「遊園地?」
「駄目ですか」
 冗談ではないらしく、声が急に沈んでしまった。
「いや、いいけど。それじゃ、デスティニーワールドかな」
 昭博が挙げたのは湾岸に建設された海外資本の巨大アミューズメントパークの名前である。大人から子供まで楽しめるというふれこみで、現に大人で年に何度もここを訪れるマニアも少なくない。目に付く物耳に入るもの鼻をくすぐる物手に触れるものすべてが計算し尽くされており、それゆえファンが多いのだろうが昭博としてはそのあたりに作り物らしい違和感があって好きではない。ただ遊園地で女の子を喜ばせるのなら、まず間違いなくここだ。
「あそこは乗り物の待ち時間が長いですから、あんまり…サンパラダイスがいいです」
 意外な返答が続く。サンパラダイスと言えばここから私鉄で一本、終点付近にはあるが最も時間的に近い遊園地だ。このあたりの人間なら行き飽きている。
「遠慮しなくていいぞ」
「遠慮じゃありません。本当に行きたいんです」
 玲奈がしがみつく手に力をこめた。嘘はない、と体で示しているらしい。
「分かった。じゃ、あっちの駅の改札前で待ち合わせよう。何時がいい?」
「七時!」
「…気合をれるのはけっこうだが、その時間にここを出たら開園時間前に着いちまうんじゃないか」
「じゃあ、決めてください」
「…九時…いや、八時半にしようか。それなら開園少し前に着くはずだ。一番乗りってのも面白いだろう。それに下り線だから、ラッシュももう終わってるだろうし」
「分かりました。では明日の朝、八時半に駅前で。待っていますから」
「ああ」
 一瞬、また運転に集中する。最後のカーブだ。ここを曲がればタワーまで後は一直線、それも裏道を通っているから交差点などで止まる心配もない。普段ならブレーキもかけずに体重を内側にかけて曲がる所だが今回それではバランスを崩す。一度スピードを落とし、慎重にハンドルを切ってから再びペダルに力をこめた。
 昭博が注意を払っているのが玲奈にも伝わっていたらしい。彼女が声をかけてきたのは、彼が少し気を抜いた後だった。
「あのね、昭博さん」
「ん?」
 口調が微妙に親しげになっている。昭博は振り返ろうとして、止めた。耳を澄ませる。
「今日はもう、昭博さんのお家には行けません。…用事を思い出しました」
「用事…?」
 途切れそうになるその口ぶりから、昭博はそれが嘘だと直感した。ただ、詮索は止める。自分には関係のないことだ。
「そう。わかったよ。でもさ玲奈、別に君が毎日俺の家に来なけりゃならない義務なんてないんだから、そんなに済まなさそうな声を出さなくていいぜ。君はまず、君自身のことを考えなきゃ駄目だ」
「はい」
 玲奈はさらに体を寄せてきた。頬が昭博の肩に当たる。後は無言だった。
 それも短い間。すぐに自転車は巨大な塔の前に止まった。
「ではまた明日」
「ああ、明日な」
 昨日成り行きで昭博の家に泊ってしまった詫びを述べるでもなく、明日を楽しみにしていると言うでもなく、ただ再開だけを約束して玲奈は頭を下げた。
 昭博もうなずいてその内容を繰り返しただけで、もう何も言わなかった。ペダルを一度逆回しにしてこぎ出しやすい位置に持って行き、そのまま走り去っていった。


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