午後の恋人たち
Y 土曜日は小休止


 昭博が自分の部屋で寝直した後、起きたのは一時を過ぎたあたりだった。朝に光のせいでかなり早く起きてしまったとはいえ、その三十分後には床についたのだから、普通に考えれば少々寝過ぎである。一連の騒ぎ、そしてもう気にならなくなってはいるが完治した訳ではない傷によって、体力を消耗していたのかもしれない。それで睡眠を取った後だから、寝過ぎの後のだるさはなくむしろ爽快感すらあった。ただ体にへばりつく汗がそれを損ねている。全力で自転車をこいだ後で着替えもせずに寝たのだから仕方がない。
 とりあえずシャワーを浴び、着替えを済ませてから昭博は外に出た。少し用事がある。もっとも、それが出来るかどうか、自分には分からないのだが。
 つたをからませた陰鬱な建造物、宍戸外科医院に昭博は迷わず着くことが出来た。なじみのない道であったが、しかしそれでも近所と言えば近所だから大きく道をそれることもなかったのだ。土曜日の診療時間は…ちょうど端の方に書いてあるのでつたに隠れて良く見えない。一体これは、何のために生やしてあるのだろうか。
「おや、何かありましたか?」
 看板を眺めていると横合いから声がかかった。眼鏡をかけた若い男だ。昭博はすっと目を細める。見知らぬ人間からなれなれしく声をかけられるのを、彼は好まない。どうせろくなことではないのだから。が、ふと気付いた。ここの主、宍戸医師だ。白衣を着ていないと本当に、ただの若者にしか見えない。
「いえ、大した事じゃないです。診療時間も終わったようですし、また来ます」
 昭博はそう言って頭を下げた。医師は書籍が入っているらしい紙袋を抱えており、どこか外出先から帰ってきたところと見える。つまりもう、休みに入っているのだ。
「構いませんよ。入ってください。確かに本来の診療時間は終わりましたが、どうせ今日は特に用事もありませんからね」
 気さくに笑って、宍戸は扉を開けた。そう言ってくれるのにさらに断るのも剣呑だから、昭博は中に入ることにした。他人の善意を無にするほどみっともない行為も珍しい。
 内部、少なくとも待合室から診察室にかけては無人で、宍戸は歩きながら電気をつけて行った。人のいない病院と言うのも、中々不気味な物である。夜の学校に匹敵する、あるいはそれ以上かもしれない。
 診察室に入ると宍戸は昭博を普段通り患者用の丸椅子に座らせた。白衣に着替えはしていない。ただ手を洗って道具を準備している。
「実際白衣なんて物には着ている人間が医者であると示すためにあるんでして、別にあれ自体が清潔という訳じゃないんです。確かに毎日洗って取り替えていますけれど、この服だってそうですからね。それとまあ、自分の服を汚さないために着ていると、そんな所です。本気で滅菌しようと思ったら数分おきに洗浄しなければならないですし、そもそも人間その辺の雑菌にやられるほどやわじゃないですよ。むしろ多数の患者を診察している医者の白衣なんて、普通の人の服より危険度が高いかもしれない。特に内科の先生は。もちろん手術用の服はきちんと滅菌されていますがね」
 能書きはたれているが、手も休んでいない。やがて準備が整ったようで、彼は昭博の前に座った。
「さて…と。この前一週間後に来て下さいと言って、まだそれだけ経っていませんよね。何かありましたか。そう言えば昨日、若い声で手塚と名乗る人が電話をしてきたそうですし」
「いえ、昨日の用はもう片付きましたから。ただちょっと、明日出かけるので一度診てもらったほうがいいかと思ったっていう、それだけのことです。ご迷惑をおかけします」
「慎重ですね。まあしかし、そのくらいの人が増えてくれればありがたいですよ。急患が減りますから。昨日、電話越しに悲鳴が聞こえませんでしたか?」
「ええ、かなり叫んでいましたね」
「まったく、馬鹿が多いですよ。その辺でシンナーを売ってあげく喧嘩沙汰になるんですから。しかも私がせっかく懇切丁寧に治療しているというのに文句ばかりで」
 とりあえずここはかかりつけにはすまい、と昭博は決意した。構わず宍戸は話し続ける。話好きの人間に違いない。
「所であきひ…いえ。いけないいけない、誰かの口調がうつってしまいそうですよ。手塚さん、用事と言うと、やはりあれですか」
 医師が意味ありげな笑みを浮かべている。昭博は、一言。
「は?」
 苦笑してから、宍戸は言い方を変えた。
「さっきそこで玲奈ちゃんに…ああ、これも深澄音さんと言った方がいいでしょうか。とにかく彼女に会ったのですけれどね、浮かれていましたよ。明日デートだって」
「デート?」
「はい」
 昭博は医師を睨みつけたが、しかし実はこれに他意はない。別の理由で視線を鋭くして、そしてその先に宍戸がいただけである。やがて昭博は息をついて目を伏せた。
「そうですか、そういうふうに思っているんですね、彼女は…」
 宍戸が昭博を見やった。医師が患者を見る目では、ないようだ。その手が止まっている。昭博も動こうとしない。そして口を開いたのは宍戸の方だった。普段の口数の多さゆえ、ではない。
「進みたければ進めば良いでしょう。戻りたければ戻ればいい。あなたにはその権利があります。誰にでもそれはあるのですから。ただその場にとどまるのは、少々酷だと思いませんか。選択すること自体は、恐らく義務ですよ」
「分かっていますよ。そのための、明日の約束です」
 昭博自身が意図していたより、この声はかなり大きかったらしい。宍戸は眼鏡の奥の目を少し見開いて、それから診察を再開した。

「ならばもう何も言いませんよ。私はあなたの背中を押してやるほど親切ではありませんし…」
 昭博はもう口を開かない。その間、医師は彼の傷口をためつすがめつして、それからそのあたりを押してみたりした。
「痛みますか」
「いえ」
「そうですか…」
 ここで医師が少し考え込む。さすがの昭博も聞いてみた。
「まずいんですか」
 心当たりは大いにある。負傷して以来、何やかやで安静にしていた覚えがない。医師は苦笑して頭をふった。
「ああ、いえいえ。抜糸しようかなって、考えていたんです。思ったより傷がふさがるのが早くて。私もプロですよ。実際危険な症状を目の前にして、まずいって顔をするほどやぶじゃありません。いい医者ならむしろポーカーフェイスをしている方が危ないですよ」
「なるほど…」
「そうですね…どうせですから、やはり今抜糸してしまいましょうか。これは遅くなり過ぎてもまずいですから。糸を入れたままにしておくと、糸と肉がくっついたりするんですよ。最近は放って置くとそのまま体に吸収されたりする素材もあるのですが、ここで使っているのは伝統的な糸でしてね。何しろあれは下手をすると傷がふさがる前に吸収されてしまって危なくて」
「じゃあ、お願いします」
「分かりました」
 昭博は抜糸をしている手から医師の体全体に視線を移した。確かに、こう余談を並べていれば重症の人間もそうとは気付かないだろう。一種の才能、あるいは努力の結果かもしれない。そんな事を考えている間に、抜糸とその後の消毒も終わった。
「さて、これで私の仕事は終わりです。後はあなたの問題ですよ。まさかここから危険な状態になるとは思えませんが、何かありましたらまた来てください。それから、しばらくの間、そう…後一週間くらい。体調を崩して他の先生にかかる時もその傷のことを念のため言うようにしてください」
「分かりました」
「じゃあ、ちょっと待合室で待っていてください。カルテを書いたり保険の処理をしますから。カルテはともかく、他の事務処理は少しかかりますよ。何しろ慣れていないもので」
「はい」
 言われた通り、昭博は待合室に移った。長くかかるとの事なので覚悟して置いてある雑誌でも見ることにする。病院には珍しく、漫画雑誌の新しい物が置いてあった。医師の趣味かもしれない。この前まで毎週買っていた漫画雑誌を選び、読み始める。やはりかなり話が進んでいるが、何とか分からないものでもなかった。しばらく読んでいるうちに、窓口から声がかかった。宍戸が顔をのぞかせていた。
「忘れていました。保険証を出してください」
「はい」
 医者にかかりに行くのに保険証を忘れるほど、昭博は間が抜けてはいなかった。例の「白い」健康保険証を出す。今日は成り行き上出す機会がこれまでなかっただけである。元々何かのときのために持ち歩いてはいるのだが。
 書き込みをしながら、例によって医師が話し始めた。
「ところで手塚さん、少し面白いアルバイトがあるのですけれど、やってみる気はありませんか。どうせ時間もあるようですし」
「屍体洗いですか。それならやりませんよ」
 医療関係でまず有名なアルバイトと言えばそれである。洗浄液に漬けられて一々浮き上がってくる屍体を棒でつついて沈めるという壮絶な仕事であるらしい。しかも一度すると洗浄液その他の匂いが丸一日は取れないそうだ。給料の高さがその凄まじさを無言の内に、しかし高らかに物語っている。昭博は神経の太さには自信があるから別にやっても構わないとは思うのだが、今金に困ってはいなかった。そもそもどんなアルバイトにせよ働く気が起きない。
「そんなんじゃないですよ。あなたのように生命力にあふれる肉体は、医学の進歩のために使わないと」
「新薬の実験台ですか」
「うーん、当たらずとも遠からずですね。新薬の実験に使うかもしれません。ただ、あれみたいに長期間モニターされなくていいですからわずらわしくありません。ちょっと生きている細胞を分けて欲しいんです」
「…何に使うんですか」
「基本的に細胞分裂系の実験ですね。ここまで癒着が早いならまず間違いなく分裂周期も短いですから。結構重宝すると思います。特に最近は遺伝子をいじったりするのに生きのいい細胞が不可欠で」
「それで結局、何ができるんですか」
「そう…例えば不老の研究とか。癌細胞を除けば人間の細胞には分裂できる回数が決まっています。これが老化の原因の一つではないかと言われています。もちろんこれだけではないのですが。さておき、うまいことこの分裂回数制限を突破できれば、人間は一歩不老へと近づきます」
「そうやって長生きして、何が楽しいんでしょうね。別に俺だって今死のうとは思いませんが、長生きすればするほど大事な人との別れも多くなるじゃないですか」
 昭博は吐き捨てた。宍戸は自分の手元を見て言った。
「全く同感ですね」
「矛盾していますよ」
 医師はまた、にやりと笑った。
「私は死神博士ですからね。長生きすれば幸せになれると思っているような脳天気な馬鹿は大嫌いでして、嫌いな人間が不幸になるのが大好きなのですよ。精一杯長生きして、不幸という不幸を味わって欲しい物です」
「死神博士じゃ天本英世かイカデビルですよ」
 手元の雑誌に視線を落として、昭博は冷静に突っ込みを入れた。マニュアル通りに、医師がこける。
「なんで今時の高校生がそれを知っているんですか」
 この前玲奈相手に不発に終わったのでむしろかっこつけに使ったのだが、見事に失敗した。どうやらこのネタは彼にとって鬼門であるらしい。
「先生だってタイムリーな世代じゃないと思いますけど」
「私の頃は良く再放送とかしていたんですよ。ああ…もしかしてせがた三四郎関連ですか」
「それ以前の社会常識でしょう」
「玲奈ちゃんは知らなかったんですけどね…」
「彼女は普通とは違うじゃないですか」
「はは…」
 結局訳の分からない話をしているうちに事務処理は終わったようだった。治療費を払って保険証を受け取る。
「ではお大事に」
「ありがとうございました」
 昭博が出て行って、病院の中からまたひとけがなくなった。医療器具の冷たい印象とあいまって、ずいぶんと寒いような印象を与える。しかしその中で、医師はしばらく無言のまま考え込んでいた。

 くるり、と玲奈は一回りした。柔らかなスカートが風をはらんで舞い、長い髪が体の周りを遊ぶ。が、しかし止まるのに失敗してよろめいてしまった。
「あ…」
 しかし気を取りなおしてポーズを取る。モデル立ち、あるいは今はやりの胸の谷間を強調するようなポーズではない。両足は真っ直ぐ揃え、手は後ろで軽く組む。そこから少し前かがみになって、顔だけはやや上げておく。玲奈が良く買うファッション雑誌では時折見られる、「可愛らしさ」を追及したポーズだ。
 そして最高の笑顔。
 決まった。彼女はそう思った。その顔に浮かぶ笑みの性質が雑誌の表紙を飾っても全く問題のない微笑みから、徐々に満面のゆるみ切った笑みに変わって行く。美人であることに変わりはないが、しかし写真にして公表するのには少々問題があるかもしれない。ちょっと崩れ過ぎている。
「うふふふふふふふ…」
 こらえてもこらえきれない笑い声が彼女しかいない部屋に響いた。
 傍観者の視線からすれば滑稽、あるいは恐い光景であった。しかし彼女は真剣である。念のために断っておけばさすがに彼女も何もない所でそんな事をしているのではなく、大きな姿見の前でのことだ。もっともいくら鏡があるからといって、今のやり方は少々いれこみ過ぎているかもしれない。これを毎日やっていたら、間違いなくナルシストだ。
 だが。だがしかし、である。少なくともこの日の玲奈にとって、これは必要な行為だった。いくらなんでも日常的にこうしている訳ではない。買ってきたばかりのワンピース、タグもまだついている。選びに選んだ物だ。だがこれも、服を買ったら常にしている事でもない。
 明日は記念すべき「初デート」なのだ。それもあの無愛想な昭博が、傷が癒え切ってもいないうちに誘ってくれた。だから最大限の気合が入っている。まずは一番いい服を着て行こうと思った。
 しかし取っておきの服は、ついこの間着てしまった。それも昭博に会うために、である。その前日、昭博に初めて見せた服が掃除をするためのTシャツという芸のない格好で、そのイメージを打ち消すために一番いい服を着ていったのだが、しかし今思えば早まった行動だったかもしれない。何しろ昭博が、記憶にある限り初めて誉めてくれたほどの出来映えだったのだから。この日がこう早く来ると分かっていれば、恐らく温存した。
 ただ、それを今後悔しても仕方のないことだ。あの時誉めてくれた言葉は本当に嬉しかったのだし。そこでいっそのこと、更に上を目指して新しい服を買うことにしたのだった。
 決断したのが遊びに行かないかと誘われた直後、自転車の上である。「用事」とはこれだったのだ。そして学校が終わると急いで家に帰って着替えを済ませ、外出した。なお、宍戸に出会ったのがこの時である。目的地は私鉄に乗って終着駅の一つ前、その駅前から少し裏手に回った所に行き付けの店があるのだった。店構えはそれほど目立たないが、ワンピースを中心としていわゆる「可愛い系」の服を各種取り揃えてある。メーカーにこだわらず、店主が自分の目で良いと思える物を選んである、そういう店だ。このあたり、玲奈には玲奈なりのこだわりがあるのである。
 最近の流行がいわゆる「ストリート系」にあることは玲奈も良く知っている。クラスメイト等が少し気合を入れて服を選ぶと、そのような服にする者が多い。そうでなくともボーイッシュにまとめたり、ミニスカートにしたりで玲奈に似た趣味を持つ物はごく少数である。
 しかし、玲奈は自分が「トロイ」事を重々、百も承知している。それに活動的な服は似合わないと思えるのだ。実際昭博が見た通りそのような服装でもそう似合わないこともないのだが、ワンピースに比べればその差は歴然である。
 そして、外見的のみならず実際面での問題もある。今特に流行っているプラットフォーム、上げ底などと言われる靴など彼女にはもっての外だ。普通の運動神経を持ち合わせている人でも頻繁につまずいたりするのだから、玲奈では足をくじくくらい日常的にしかねない。危険である。おしゃれは足元からと考えると、これに合わせるような服は使うのが難しくなる。ついでに言うとハイヒールも厳しい。
 ここで玲奈はつまずくたびにそばを歩く人に支えられて…ということにも少々魅力を感じたが、しかし一回二回ならともかく何度もやっていると彼でなくとも怒るだろう。却下だ。
 結局、系統としては例の通りとの事になった。しかしその分、これに関しては吟味に吟味を重ねてある。試着を繰り返して、行き付けの店でなければ店員に顰蹙を買っていたに違いない。現状では恐らく最高の一品だと自負している。結局これだけを買ったのにもかかわらず、家に帰りつく頃にはもう日も傾いていた。
 が、これだけでは終わらない。ワンピースだから胴体部に関してはこれ以上考える必要はない。それもこの種の服の強みではあるが、しかし足元と小物がまだ決まっていなかった。靴下と靴、それにバッグを選ぶのにしばらくかかる。すべてまとめ終えた頃には、窓の外が暗かった。
 それだけに、完璧だと思えた。そのための崩れたような笑みである。もちろん、理由はそれだけではないのだが。玲奈はもう一度ターンして、今度は制動もうまく行った。
「よし…!」
 一つ顔を引き締めてから、服を脱ぎにかかる。何しろ明日のために用意した物だから、今着ているうちに皺を作ってしまったら馬鹿馬鹿しい。掛けるハンガーにも気をつけなければならない。クリーニング店でおまけにもらえるような、針金の物では駄目だ。あれでは肩、首の部分が型崩れする。人間の肩から首の曲線になるべく近い物が望ましい。もちろん一晩でどうなる物でもないのだが、普段から気をつけておかないといざというときに困る。
 上機嫌で部屋着に着替え始めた所で、電話のコール音がする。別にこのマンションの中には彼女一人しかいないのだが、ややあわてて身じまいを整えてから、玲奈は受話器をとりに行った。友人からだったりするとどうしても長くなってしまうので、あまりはしたない格好もしていられないのだ。こうして彼女の夜はふけるのだった。


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