午後の恋人たち
Z 日曜日はデート日和


 昭博は玄関先の鏡で身だしなみを確認した。
 Tシャツはイラストと英単語がいくつかプリントされた物。この種の品は気をつけていないと恥をかく事がある。安売りで買ったりするとスペルミスがあったりして情けないし、メタル系バンドの商品で日本語訳すると恥ずかしくてとても町を歩けない内容が表記されている物もある。デザインが気に入ったからといって、うかつに買ってはいけない。曲がりなりにも英語教育を数年間受けてきたからにはそれ相応の注意が必要である。例えば「Bitch」ブランドのシャツを着るからには「ああ、ビッチというのは英語で売女という意味ですよ。転じて女性に対する罵声ですね。有名なサノバビッチ、という言葉はSon of a bitchが詰まった物で、売女の息子、つまり今度は男性に対する罵声となります。あまり上品な人間の使う単語ではありませんね。所でそれがどうかしましたか?」と言ってのけるくらいの教養が最低限なければならない。それも知らずに着ていたら、ただの間抜けである。
 この朝昭博が選んだ物には「Knight Of The Terror」とある。訳せば「恐怖の騎士」と言ったところだろう。多少不穏な内容ではあるが別段恥ずかしい物でもない。スペルも合っている。実は昭博としては文字の方はどうでも良くて、猛り狂う馬に乗った人影、というイラストの方が気に入っているのだ。
 その上にジャンパーを羽織る。日中はまだTシャツだけでも何とかなる季節ではあるが、念のためである。それにこのジャンパーは海軍航空隊仕様だとかで、デザインがすっきりしている割にポケットが多く、何かと便利である。軍用品だとアーミー(陸軍)の物が一般的でこれもポケットは多いが、ごつごつするし色もくすんだ緑の物がほとんどだ。海軍用品の街中でも目立たずに着られるさりげない所が昭博は気に入っている。スカイブルーの胴体部の胸の部分には六枚のそれぞれ色の違う翼を持った鳥が描かれ、「Six Wings」と記されている。それが部隊名なのだろう。
 下半身はごく普通のジーンズ、一応メーカー品であるが特にレアモデルではない。流行を追うのは嫌い、正確に言えば流行に振り回されるような軽薄な人間と見られるのが嫌いなのだ。ソックスも国内スポーツ用品メーカーの物である。
 一通り確認を終えてから、スニーカーを履いてきっちり紐を絞める。これも普段から使っている物であるが、元々質の劣る物を履いているつもりはない。手入れもきちんとしている。
 最後に財布を持っている事を確認して昭博は玄関を出て鍵を閉めた。そう言えば、「行ってきます」という挨拶をしなくなってからずいぶんたつな、と思った。
 私鉄の駅まで歩く。行き交う人影も少ない日曜の朝の町を吹き抜ける風が、妙に心地良かった。商店街もまだシャッターの閉じている店が多い。たださすがにこのあたりまで来ると、駅から出て来ているらしい人の流れにすれ違うようになる。
「休日出勤とはご苦労な事だ」
 無感動につぶやいて、昭博は駅の正面に視線をやった。かなり距離があるが、見知った人間なら背格好から何とか判別できる。それに都市部の駅前ならいざ知らず、この住宅街の中心にあるような駅の前で立ち止まって人を待っている人間など二人も三人もいるとは考えにくいから、そこで待っていてくれればすぐに分かるはずだ。
「…ん」
 そして案の定、そこにたたずむ一つの人影を見出す事が出来た。全体的に白っぽい服を着た、髪の長い女性、まず間違いないだろう。それを確認してから腕の時計を見やる。八時二十三分、この地点から駅まで歩いて二分、予定通りだ。近所だからやろうと思えば正確に三十分に合わせる事もできたのだが、相手の性格を考えて五分前に着くつもりでいた。彼女なら多分、早めに来ている。その読みは外れてはいなかったようだ。
 人待ち顔できょろきょろとしていたらしいその人影は、やがて視線を固定して昭博の来る方向へと歩いてきた。動作の様子からして一応早足で歩いているつもりらしいのだが、しかし中々接近してこない。すたすた、という形容のふさわしい動作の出来ない体質のようだ。ひょこひょこ、とことこ、そんな様子で一生懸命、楽しそうに歩いてくる。相手が来ると分かっているのにそれが待ちきれないらしい。段々相手の様子もはっきりと分かって来る。何となく苦笑しながら昭博は、仕方なく自分も歩調を速めようとして…何もないところでけつまずいた。
 実は接近してくる人物が全くの別人であったとか、そのようなご丁寧につやまで入ったベタい落ちはつかない。それは確かに玲奈だった。しかし昭博は転倒を防ぎ、かつさりげなさを装うのにかなりの努力を必要とした。
「おはようございます、昭博さん」
 駅から少し離れた所で、二人は出会う事となった。まずは少々息を切らしぎみで、しかし元気良く弾んだ声がかかる。返答はやや出遅れた。
「ああ、おはよう」
「ちょっと歩き方がおかしかったようですが、大丈夫ですか」
「別に。ちょっと出っ張ってだだけさ」
 道路行政には失礼な話だが、とりあえず道のせいにした。しかし彼の視線は玲奈の首から下をさまよって、けつまずいた理由を無言の内に示している。
「どうですか」
 玲奈はこう言った。昭博が自分の服を見ていると分かったらしい。その上で、論評を求めている。しかしその聞き方自体からして、自信の程がうかがえた。少しでも不安材料がある時に自分の服をじろじろと見られたなら、絶対に「変ですか」となる。この言い方であれば、まず「いいでしょう」と言っているに等しい。しかし昭博の返答は微妙だった。
「そうだな…何と言うか…」
 かなり考え込んでしまう。「似合っているよ」と言っておくのが社交辞令だし無難な所であるが。
「何でしょう」
 期待を顔いっぱいであらわして、上目使いに再度問い掛ける。仕方なく、昭博は思ったままを言う事にした。とりあえずけなす発言ではないつもりだ。
「ウエディングドレスみたいだ」
 何となく、そうなのだ。ごく当然のごとく、その白いワンピースは似合っている。彼女のためにデザインされた物ではないかとさえ思えるほどだ。しかし全ての生地を純白で統一しておいてリボンやレース、フリルでアクセントをつける、その作り方がウエディングドレスを思わせるのだ。もちろん本物に比べればずっと簡素だし、頭を飾るヴェールも肘まであるような同じく白の長手袋もない。スカート丈も引きずるほどある訳もない、常識の範囲内だ。しかし、である。言うなれば夏用のウエディングドレス、そんな気がするのだ。
 そのような姿の人間が自分めがけて急いで来るものだから、昭博は転びかけたのだ。映画「卒業」のワンシーンか、と思えるほど現実離れした光景だった。せめてそのロケーションが見慣れた商店街ではなく、草原や海岸であった方がまだ説得力があったかもしれない。
「え…」
 直接には否定も肯定も表さない言葉を受けて、玲奈は少し考え込んだ。その意味を咀嚼している。止せばいいのに、である。元々意味などない、見たままを言っただけなのだが。そして彼女はとある結論に達し、わたわたと意味もなく手を振った。
「や、やだ、昭博さん。急にそんな事言われても…」
 そむけた顔が見事に赤い。少し大きめに開いた襟から除く首筋までそんな様子である。ここはこれ以上コメントしない方が無難だな、と昭博は察した。意味もなく喜ばせてしまっては悪いし、かといってこれから二人で出かけようとする相手に喧嘩を売って良い事など何もない。せっかく連れ出して、玲奈も貴重な時間を割いてくれたのだから楽しんでもらいたい所だ。
「さ、行こうか」
 それこそすたすたと、昭博は歩き出す。出かける先が遊園地だからごく普通の服にしたのだが、連れとの釣り合いを考えればもう少しおしゃれをしても良かったな、とそんな事を考えていた。
「え、あ。ま、待ってください」
 飼い主において行かれた子犬のように、玲奈も慌てて歩き出した。

 日曜朝の下り線はさすがにラッシュではなかったが、しかし極端に空きもしていなかった。休日出勤、あるいは定休日が別の日にあるらしいサラリーマン達、出かけるそばから少々疲れた様子の父親と元気な子供達、それをほのぼのと見守る母親、という家族連れ、そしていかにも山に出かけるような服装のおばさんの集まり、とそんな人々が乗り合わせている。とりあえず座席は空いていなかったので、昭博と玲奈の二人は扉の前あたりにたたずんでいた。

 しかし…と昭博は思う。偶然か必然か定かではないが、アベック、カップルらしき人間は見当たらない。自分たち以外には。サラリーマンらしき人々が友好的とは言いがたい視線をちらりと向けて、そして外して行く。「こっちはこれから仕事だというのに、まったく近頃の若い者は…」と、そう言う事だろう。
「違う、これは違うんだ」
 と切実に否定したかったのだが、もちろんできるはずもない。よしんばした所で、服装から気合の入りまくっている連れが横にいる現状では、説得力のかけらもない。諦めて、その連れと会話でもすることにした。
「そう言えば、なんでサンパラダイスなんだ。行き慣れているだろう」
 少なくとも昭博は行き飽きている。小学校の低学年くらいまでなら親につれて行くよう良くせがんだものなのだが、自力で行けるような年齢になってみるとどうしてあれほど行きたがったのかさえ良く思い出せない。そういう場所だ。
 しかし玲奈は笑って否定した。
「いいえ、行くのは初めてですよ。だから楽しみです」
「どうして」
「あそこは一応一人暮しが出きるようになってから引っ越したんです。両親は長い間家を空けることが多いですから、あの家に私一人が住むのもかえって不便ですし」
「なるほどね…」
 本宅が別の、この沿線ではない場所にあると昭博は納得した。やはり資産家の娘であるらしい。ただそもそも遊園地に行きたいと言うそのセンスには今一つ納得できないのだが。とりあえず次に話すべき事も思いつかず、昭博は窓の外に視線をやった。延々続くのではないかとさえ思える住宅街が流れて行く。
 相手の視線がそれ、沈黙が流れる。それを玲奈は特に不満には思わなかった。出会い頭に、じろじろと服を見られたのだ。今度は自分が観察する番だと思う。ジャンパー、Tシャツ、それからジーンズ、ごくありきたりの服装だ。髪も念入りにセットしただとか、そのような様子はない。梳かして、後は髪の癖に任せてある、そのような感じだ。もう少しおしゃれをしてきてくれてもいいのではないか、とも思うのだが、それは仕方がない。あまり何やかやと着飾るのが嫌いな性格なのだろう。実際「着飾った昭博」というものを一瞬想像してしまって、玲奈は笑い出して昭博に気取られないようにするのに苦労した。
 それから、昭博の横顔を見る。例によって不機嫌そうな、しかしいつもの昭博だ。せっかくの日なのだからもう少し楽しそうにすれば良いものを、と思うのだがこれは彼だから仕方がない。もしかしたら照れているのかもしれないのだが。そんな事を考えて、しげしげと眺めているうちに、玲奈は自分の胸の高鳴りを自覚していた。
 朝起きてから今の今まで、余計な事を考える余裕などなかった。寝不足にならないぎりぎりの範囲で早起きをして、てきぱきと洗顔、朝食を済ませる。それからごく丁寧に、一片の乱れもないように着替えを済ませ、そして髪をかえって痛んでしまわないように気をつけながらもかなり根気良く念入りに梳かした。昨夜のうちに用意した持ち物を全て持って家を出たのが八時前である。昭博は五分程度早く来ていると予測していたが、実際はほぼ三十分前に待ち合わせ場所に着いていたのだ。何かあったらいけない、と慎重に慎重を期しているうちにそうなってしまった。
 それならば待っている間いくらでも考え事ができそうなものだが、そうでもない。確かにあれこれと考える事はあったが、それは昭博が今日の約束をうっかり忘れてしまっているのではないかだとか、あるいは寝坊して時間通りに来ないのではないかと言うようなそんな心配ばかりだった。その後実際に昭博の顔を見た後には嬉しさが先に立って、他の事は一切思考の舞台から駆逐されていたと言う次第である。
 が、今は一通り事が順調に運んでいる。この線のどこかで車両故障でも起きない限り目的地には着くし、まさかこの日曜日に遊園地が休園しているとも思えない。それに何らかのアクシデントが起きたとしても、一人ではないのだから退屈はしないと玲奈には思える。
 今日はどんな顔をして昭博に会えば良いのだろうか。昨日はそんなことばかり考えていた。もちろん答は決まっているのだが。最高の笑顔、それ以外にありえない。しかしそこまで考えただけであっという間に顔が激しく火照ってくる。とても笑ってなどいられないし、相手の顔を正視できない。小さくなって、うつむくしかなかった。相手の視線が自分に向いていたら、逃げ出していたかもしれない。これを出会い頭にやったら間違いなく何らかの不快感を与える事だろう。
 しかしうつむいたらうつむいたで見える物がある。ジャンパーの袖から、手が出ていた。当たり前だが。玲奈の目から見ると、やはり少し大きな手だった。男性らしく骨格がしっかりしていて、しかしそれでいて必要以上に無骨ではない。繊細さとは言わないまでも十分な器用さを感じさせる。想像よりもやはり実物を見たほうが、もちろんずっと現実感がある。それを見ているだけでも、体が火照ってくるようだった。
 自分でもその不毛さに気がついたので、玲奈はとっさに事態の解決を図った。とりあえず視界から想像力を無意味に刺激する物を排除してしまえば良い。さすがに逃げ出す事は出来なかったので、彼女は体の向きを変えた。
「…ん?」
 視界の隅で捕らえていたのか、足音を聞いたのか、それとも空気の流れを肌で感じ取ったか、ともかくも昭博は彼女が自分に背を向けてしまった事に気がついた。
「どうした」
 まずはその背中へ声をかける。
「え、いえ…別に…」
 返答は明らかに動揺していた。見るからに体が固くなっている。そちら側になにか玲奈の興味を引くものがあるとか、そのような可能性を昭博は排除せざるを得なかった。どうやら自分のほうを向いていたくないらしい。
「何か俺、気に障る事でもしたか」
「ぜ、全然、そんな事ないです」
 背を向けたまま首を振る。かなり妙な光景だ。昭博はというと首を傾げていた。
「ならいいけど…もし何かあったら、遠慮なく言ってくれよ。じゃなきゃつまらないだろう」
 ぼそぼそと言ってみる。すると玲奈が、恐る恐ると言った様子で振り向いた。
「昭博さん…」
「なに?」
「何か…たくらんでます?」
「何だそりゃ」
「だって、何か、すごく優しいですから…」
 昭博は一瞬だけ目を見開き、そして相当に険悪な表情を作った。
「なんだ、虐めて欲しいのか。断っておくが俺の虐めは本格的だぞ。小学五年の時に喧嘩を売ってきた奴の机に朝一番でカッターナイフからステーキ用のフォークまで、刃物という刃物を可能な限り突き刺しておいたことがある。勉強机が針山みたいになっていて、子供心にも中々壮観だと思ったものだ。それを見たそいつが精神的に参って学校を休んでくれたものだから、自宅に持って行ってやるプリントには剃刀、給食のパンには縫い針を入れてやった。とうとう鉄格子のある病院に入院して、仕方がないから棘の実に見事なサボテンを見舞いに持って行ってやったんだ。そう言えば奴はどうしているっけな。それきり会ってない、今思えば懐かしい思い出だよ。それから…そう、中二の時だ。クラスに嫌な女がいてさ、俺のところまでなんだかんだと言ってくるものだからそいつの食い物に下剤を入れたんだ。あの頃って一番、そういうことに訳も分からず神経質な時期だろう。学校ででかい方する奴なんて一人もいなくてさ。ま、案の定授業中にこみ上げてくるものがあったらしいんだが、その時何故か近場のトイレの鍵全部に細工がしてあってね、閉まらないようになっていたんだ。どこの誰だか知らないが悪質な悪戯をする奴がいるもんでね…」
「ふええ…優しくして下さい…」
 いじめとか嫌がらせとかそういう問題ではない。玲奈はほとんど泣きそうになった。それを確認してから、昭博は真顔で言った。
「分かった。じゃあ優しくする」
「お、お願いします…」
 話が不穏な方向に向かったものだから、玲奈の顔から赤みは綺麗になくなっていた。少々青ざめはしたが。やり過ぎを反省して、昭博は弁解する事にした。
「言っておくが、今言った事全部実行に移した訳じゃないぞ。やってやろうかと思った事もあるけど」
「あ…そうですよね。良く考えたら女子トイレの鍵全部壊したらその時点で大騒ぎになりますし…」
「それ以前に男が女子トイレに入っている現場を押さえられた時点でアウトだよ。あと入院するほどの重症患者なら精神病院の側でも見舞い品なんて厳重にチェックする。主に自殺防止用だけどな。それ以前に入院直後なら面会謝絶だがね」
「…じゃあ、どこまでが本当なんですか」
「さーね」
「教えて下さい。なんだか不安になるじゃないですか」
「聞いたら聞いたで不安になると思う。実際そんなことは気に食わない奴にしかやらないから安心しろ。そんな奴とわざわざこうして一緒に出かけたりしないから。会わないようにしてそれで終わりさ。嫌だけどどうしてもクラスで顔を合わせるから、仕方なくやっただけだよ」
「うー、ならいいですけれど…」
「そもそも君だってガキの頃は何かやらなかったか、そういう事」
「しないですよ、そんな…」
 結局二人は、小中学校時代の思い出話をしながら目的地までの時間を潰す事になった。

 その名もサンパラダイス駅についたのが九時半過ぎ、開園が十時だからまだ少し時間が余っている。とりあえず窓口は開いていたので二人分の一日フリーパスと、それから玲奈のために園内案内図を買い込んだ。
「で、どれに乗りたいんだ」
 半ば興味なさそうに昭博が案内図を広げる。二、三新しい物もあるようだが、ほとんどが見知った乗り物だ。対する玲奈はうきうきと覗き込んで来る。
「全部です。全部乗ってみて、それから面白いのにもう一回乗ります」
「んー、理屈は間違ってないと思うけど、強烈な絶叫物とかないわけじゃないぜ。そういうのは大丈夫か」
「ええ、平気ですよ」
「ほんとかな…ま、とりあえずやってみれば分かるか。なら、まずはこれかな。入り口に近いし…」
「あ、これは知ってます。この前テレビでやっていました。ぐるぐる回るだけじゃなくてひねったりする物ですね」
「ああ。これは新しいから、俺も乗った事はない。じゃあ決まりだな。まずこっちへ行って…と」
 一通り計画が決まった所で開園時間を迎えた。門が開くと同時に同様に開園を待っていたお子様達が全力で駆けて行き、それを仕方ないといった様子で親が追いかけて行く。玲奈も一瞬子供につられて走り出してしまって、それから連れが付いてこないのに気付いて振りかえった。さすがにその程度の余裕はあるようだが、しかし手足がうずうずと動いている。
「しょーがねーな」
 片足二度ずつ、計四回踵で地面を蹴って、昭博は靴と足の具合を確かめた。全く問題はない。そして構えさえ見せないまま、昭博は急に走り出した。玲奈があっと言う間もなく彼女の脇を駆け抜け、そして先行する子供集団に追いつきそうになる。そこでようやく足を止めて振りかえった
「おいどうした、置いてくぞ」
「あ、ず、ずるいですよ、待ってください」
 結局玲奈は最初のアトラクションまで全力疾走する事になった。昭博は余裕だったが。
「きゃー、きゃー、きゃああああああああっ!」
「…………」
「わあ、わっ、わっ、わっ、わあああ…」
「…………」
「め、目が回ります…」
「…………」
 これだけ叫んでくれれば製作者もマシンその物もさぞ満足だろうというくらい、玲奈はそれぞれのアトラクションで騒いで回る。しかしそれで嫌になる事もなく、次から次へと乗って行く。お陰で午前中の空いている内に、乗り物の半分以上を制覇する事ができた。こんな所で声を出すのは男の恥だ、と確信して乗っている間は終止無言でいる昭博の方がむしろ体力を消耗しているほどだ。結果、彼からこう提案する事となった。
「さて…と、そろそろ飯にしないか。丁度良くあそこに売店があるし」
「あ…もうこんな時間ですか。そうですね。そういえばおなかが空きました」
 昭博は手際良く、売店周辺に据えられている二人分の椅子とテーブルを確保した。
「じゃあ、俺が買ってくるから、君はそこに座っておいてくれ」
「え、でも…」
「いいからいいから。どっちかが場所を取っておかなきゃならないんだし。何がいい?」
「えっと、じゃあ…アップルパイとメロンソーダと…それからソフトクリームのバニラを」
 かなり強烈なラインナップだったが、昭博は返答の前に間を置いただけで論評を避けた。
「分かった。あ、そうだ。待ってる間に髪の毛ちょっと直しておいた方がいいぞ。さすがにあれだけ乗って回ってると崩れるらしいな。鏡とブラシくらいは持ってるだろ」
「え? え? わあ!」
 慌てて鏡を取り出して見ると、やはり乱れてしまっている。強風の元にしばらくいたようなものだから仕方がない。やはり慌てて、一緒に入っているブラシを使う事になった。苦笑してから、昭博は売店に向かう。その背中を見て、玲奈はちょっと手を止めた。
「やっぱり優しいなあ…」
 幸せそうにつぶやいてから、またいそいそと梳かし始めるのだった。
 玲奈用劇甘メニューと、ハンバーガーとフライドポテトにコーラ、という定番メニューに焼きそばを加えた昭博が戻って来たのはしばらくしてからである。さすがに昼時なので混んでいる。
「さて、と。それじゃ」
「いただきます」
 ハンバーガーを大口を開けて頬張り、ポテトをつまみ、そしてそれらをコーラで飲み下して空腹に一区切りをつけてから、昭博はまた苦笑した。
「しかしちょっと驚いたぜ。コースターが傾くたびにばさっとか言って髪が顔にかぶさってくるんだから。視界がふさがれるからそっちの方が恐かったぞ」
「う…それならそうと言ってくれればいいのに…」
「ま、他人にまで迷惑がかかってた訳じゃないから放って置いた。髪だってまあ何とか、常識の範囲内だったから、一休みした時に言えばいいかと思ってね」
「でも昭博さんが…」
「いや、俺は別に。なんかこう…いい匂いだったし」
「ええっ!」
 シャンプー、リンス、あるいはコンディショナーだろうか、実にいい匂いがした。それも黙っていた理由でもあるのだ。正直な昭博のコメントに、玲奈が反射的に両手を上げて自分の髪を後ろにやろうとする。
「止せ、せっかく整えた髪に触ろうとするんじゃない」
「あうう…」
 それで顔の火照りが抑えられると信じてでもいるかのように、玲奈はメロンソーダをすすった。
「恥ずかしがる事ないだろう。臭いだなんて言ってないぞ。ちゃんと洗ってある証拠だろ」
「でも恥ずかしいです…」
「そんなものかね」
「そんなものですよ…」

 自分が風上になっていないかと、玲奈は気になった。と、そこへ轟音とともに突風が吹き付ける。ほぼ同時に、ドップラー効果のかかった悲鳴が通り過ぎて行った。玲奈は髪を押さえ、昭博は顔を上げた。
「ああ、そういえば上のレールはあれだったっけ」
 昭博がつぶやく。売店付近のベンチの上に、何かのレールが設けられているのが見えた。ただ、玲奈がそう気づいた時には肝心の物は走り去っていて、何のレールなのか良く分からない。ただ悲鳴が聞こえたこととすぐに見えなくなってしまった事から判断して、また絶叫系の物である事は確かだ。
「何ですか」
「こいつだ」
 ジャンパーのポケットから案内図を取り出して広げ、その上の一点をポテトの油でちょっと汚れた指で示す。
「サンパラダイス名物、立ち乗りコースター。身長制限がクリアできるようになってから何度も乗ったっけな。俺が良く来ていた頃には一番恐いって言われてたぞ。考えようによっては最初に乗った奴よりやばいんじゃないか」
「まだ乗っていませんでしたね。面白そう…」
 視線がレールを追いかけてはるか彼方へと消えて行った。念のため、昭博が注意を喚起する。
「そこらじゅうに風を撒き散らしてるくらいだからな。実際乗ったら相当風を食らうぞ。長い髪なんて無茶苦茶になるな」
「…また梳かします」
「うん。ちなみに、あれは二列になってるからまた隣に乗ってる人間に髪の毛がかぶさるな」
「一人で乗ってきます」
「隣に知らない人間が乗ったらどうするんだよ。一緒に謝ってなんてやんないぞ」
「うー…」
「ま、食い終わったら一緒に行くか」
 昭博はコーラを飲んだ。やはりこう言うところの物は薄くて炭酸も弱い気がする。
「はい!」
 元気良く返事をしてから、玲奈はアップルパイを食べた。急がないとソフトクリームが溶けてしまう。
 そして、昭博曰くサンパラダイス名物立ち乗りコースターである。園内のおおむね中央部分の上を周回するようにコースが作られ、乗降口もほぼ中心にある。園の中心となるよう設計されたアトラクションだ。近年他にいくつかのアトラクションが新設されたとはいえその人気は衰えておらず、待ち時間も比較的長い。三十分程度だが。食後すぐに乗るには少々重いアトラクションだが、その待ち時間が丁度良いだろう。
「…………」
 列の先を見ながら、昭博は難しい顔をしていた。その隣で、玲奈が首をかしげる。
「どうしました。並ぶのは退屈ですか」
「ガキじゃあるまいし…ただ何か、忘れているような気がしてさ」
「何をです?」
「それを思い出せれば苦労しないさ。しかし何かの場合には、これだけには乗っちゃいけない気がするんだ。なんだったっけな…。ちっ、昔の事だから思い出せない」
 人差し指で苛立たしげに列を仕切っているポールを叩く。玲奈は深く考えもしなかった。
「気のせいですよ、きっと」
「ああ、そうだな…」
 しかし実際に乗る時まで、昭博の顔は難しいままだった。
 がたがたと特有の音を立ててコースターがプラットホームに侵入する。叫び疲れた人々が出口側に降り、待っていた人間が従業員の指示に従って大人しく安全帯を装着する。昭博と玲奈は、順番の関係上最後尾に乗る事となった。
「惜しいですね。後一つ後ろだったら、一本待ってでも一番前に乗れたのに…」
「大して違わないだろ」
「違いますよ。視界が開けているのといないのとでは感覚が全然。それに先頭と最後尾では先頭にかかる力の方が大きいってテレビでやっていました」
「そんなものかね…」
 そう話しているうちにコースターはゆっくりと発進し、徐々に加速して行く。プラットホームを出ると、風がまた玲奈の髪を弄んだ。
「…思い出した」
 そこまで来て、昭博がぼそりと、しかし苦々しげにつぶやく。
「何をですか」
 これから楽しもうとしている玲奈はそもそも昭博が何かを気にしていたと言う事さえ忘れていた。昭博は不吉な予言でもしているかのように言葉を続ける。
「こいつに乗っちゃいけない場合だよ。玲奈、スカート押さえてろ」
「はい? 何故ですか」
「こいつは風と格闘しながら人が通っている上を通り過ぎて行く訳だ。そこで今君が着ているみたいな長めのスカートの人間が乗っていると、どうなると思う?」
 次第に昭博が早口になる。玲奈はまだ、事態の深刻さに気がついていなかった。
「どうなるんですか」
「しかも今日の君のスカート、実に風をはらみそうだねえ。柔らかそうで、いい感じの生地だよ。マリリン・モンローって知ってるかい?」
「それはもちろん知って…」
 玲奈の口が凍った。それまで安全帯を掴んでいた手が彼女にしては信じられないくらいの速さで下に下りる。
「と…止めてください」
「そんなことできる訳ないだろ…」
 がくん…とコースターが一時動きを止める。玲奈はほっとしたが、もちろん彼女の願いが聞き入れられた訳ではなかった。頂点に達し、勢い良く滑り出すための準備に過ぎない。
「わ、わ、わ…きゃああああああああああっ!」
 ひときわ高い悲鳴が上がった。白いワンピースのスカート部が、何かの旗のように風に舞う。昭博は黙って耐える事にした。
「な、なんで教えてくれなかったんですか!」
 一段落した所で玲奈が難詰調で喋る。目の端に涙が浮かんでいた。
「だから忘れてたって言っただろ! 俺はスカートなんてはかないんだから、覚えてる方がおかしい!」
 怒鳴っているが別に怒っている訳ではない。単にそうしないとコースターの轟音で聞こえないだけである。
「そんな…い、嫌あああああああああああっ! な、なんでこんな物がずっと残っているんですか!」
「多分スカートでこれに乗るっていう迂闊な奴がほとんどいないからさ!」
「やめて、やめて、やめて!」
 可愛そうだとは思ったが、今の昭博にはどうする事もできない。下の道を通り過ぎる人が、ひときわ大きな悲鳴を上げている玲奈を見てくすくすと笑っていた。とりあえず下着が見えているとか、そう言う事はないらしいので我慢する事にする。が、しかし周回している事によって向きを変えたコースターのせいで、相対的な風向きが変わってしまった。当然、まくれあがる方向も変わる。ほとんど反射的に、昭博は手を伸ばした。玲奈の下着を他人の目に晒す事など絶対にできない。何となくだが…。玲奈が前のほうを押さえているので、必然的に後ろである。
「きゃあ! あ、昭博さんどさくさに紛れてどこを触っているんですか!」
「馬鹿、押さえてないと丸見えになるぞ! 言っとくけどお尻なんて触ろうとしてないからな!」
「そ、そこ、太ももですよぉ…」
 長い数分間だった。疲れた。
「…とりあえずもう、今日あれに乗るのはよそうな」
「…そうですね」
 しかもあれだけ騒いだのでその場にいられず、逃げるように立ち去らなければならなかったので余計に疲れている。玲奈がまた髪を直している間、昭博は周囲を見渡し、案内図を広げて現在位置を確認していた。入り口から最も遠い奥まった部分、つまりは外れと言った所である。そして一つの建物を指差した。
「それにしばらく絶叫マシンに乗る気がしないぞ。あれにでも入らないか」
「ええと、ミラーハウス…ですか。そうですね。少し歩くのもいいでしょう」
 少し古びた建物に看板がかかっている。ミラーハウス単独の建物ではなく、ぬいぐるみやら何やらを売っている店も付属している。
「じゃ、そう言う事で」
「はい」
 ひとまず落ちついた足取りで、二人は中に入っていった。
 鏡の迷宮。無限の果てへとくねりながら伸び、やがて薄闇へと消えて行く通路。そこをさまよう数限りない自分自身。不思議な空間だ。しかしドレスにも見える白いワンピースを着た少女は、奇妙にそこに溶け込んでいた。白い影が現れては消えて行く。
「鏡の国の玲奈…かな?」
「はい? 何か言いましたか」
「いや、別に。この時間は空いてるなと思っただけさ。見た所俺達しかいないし、声も聞こえない」
 昭博は鏡で自分の姿を確認する。ごく普通の、どこにでもいるような格好をした少年。自分はどうしても外の世界の人間のようだ。
「ええ、そうですね。ええと…こっちですね、昭博さん」
 玲奈は玲奈でこの状況を最大限楽しむつもりである。実に可愛らしく着飾った自分とそれについてくる昭博、それが何十組と見えると言うのも中々いい気分だった。が、調子に乗っているうちに前方不注意になる。頭の中で鈍い音が響いた。
「あっ…」
 ミラーハウスのお約束、激突である。しかもこれは痛がっている自分を嫌と言うほど見せつけられるので腹が立つ。しかし玲奈の場合、元々歩く速さが非常に遅いのでダメージはそれほど深刻ではなかった。
「ほらほら、気をつけてないとそう言う事になるんだ。せっかく綺麗な顔に生まれついたんだから大事にしろよ。こういう所には怪我をしない方法ってのがあるんだ。ゆっくり歩いて手を自分の歩く方向に出しておけば安全に出られるものさ」
 苦笑しながら昭博が前に立つ。彼自身、子供の頃に出る速さを競ってこの中で走って回り、正面衝突をやらかした経験がある。その時は本当に、しばらく動けなかった。
 手を前にかざしながら歩く彼に、玲奈は大人しくついて行く。しかし彼女は半ば上の空だった。さりげなくではあったが、昭博は確かにこう言ったのだ。「綺麗な顔に生まれついた」と。自然、その「綺麗な顔」が緩んでいた。
 二、三回鏡やガラスに手を突く事があったものの、昭博はほぼ順調に進んで行く。
「ほらな。こうしてやってればこんな所なんて別になんでもないんだ」
 が、この油断が事故の元である。話しかけようと振りかえり、しかし立ち止まらないと、ぶつかる。結構、大きな音がした。
「…………」
「…………」
 ここで玲奈は不審の目で相手を眺めやっている訳ではない。かける言葉が見当たらないのだ。こういう時は自力での復活に期待するしかない。
「…言い忘れてた。もっと安全な方法があったっけ」
「…何でしょう」
「前を歩く人間を犠牲にすればいいのさ。ほら、行くぞ」
「あ、昭博さん危ないですよ…」
 結局、かなり強引に昭博は迷宮を突破した。
 それからまたいくつか、まだ乗っていない乗り物系のアトラクションをこなして、二人はミラーハウスとは別の隅の方へ移動していた。そこで昭博が不敵な笑みを浮かべる。
「ここまで着たら行く所は一つしかないな」
「嫌です、お化け屋敷なんて」
 言い終えるか終えないかの見事なタイミングで、玲奈は自分の意見を表明した。固い拒絶の意志がにじみ出ている。さすがの昭博も言葉に詰まる。
「…まだ何も言ってないじゃないか」
「このあたりでまだ入っていない所といったら後はあそこだけじゃないですか」
 白い指がきっぱりと、ふざけているのではないかと思えるほどおどろおどろしい建物を示していた。どこか宍戸外科医院に似ている気がする。いや、あの病院がお化け屋敷を模しているのかもしれない。
「そうだったっけ。しかしどうせ来たんだから一回くらい入ってみてもいいだろう」
「何でせっかく遊びに来てまで恐い思いをしなければならないんですか」
「絶叫マシンだって同じだと思うけど」
「違いますよ」
「うーん…ここのお化け屋敷は今時珍しい、人が驚かしてくれる所なんだぜ。他の所がワンパターンの機械仕掛けになっちまってる中で、ここだけが職人芸を見せてくれるんだから」
「…余計嫌です」
「ふむ…」
 昭博は腕組みして玲奈を眺めやった。こころもち足を開いて、下げた両手が握り締められている。正攻法では無理だと判断して、彼は戦術を変えた。
「つまり、恐いから嫌なんだろ」
 返答はない。しかしこれは肯定のしるしだろう。昭博は組んでいた腕をほどいて人差し指を立てた。
「なら恐くなければいい訳だ」
「それじゃお化け屋敷じゃありませんよ」
「まあ聞いてくれ。君があそこを恐いって思っているのは、おどかされるって分かってるからだろ。具体的な危険があるわけじゃない」
「…そうですね」
「だから、おどかす側の人達は平然とあの中にいられる訳だ。おどかしてやろうと身構えているから全然恐くない。暗くてもおどろおどろしい音が流れててもね」
「ええ」
「つまり、おどかしてやろうという気構えさえあれば全然恐くない訳だ」
「誰をおどかすんですか」
「決まってるじゃん、お化けだよ。人をおどかそうと身構えている奴が、一番おどかしやすいんだ。まさか自分がそんな目にあうとは思ってないからね。逆にこっちは絶対におどかされると分かっている。面白そうだとは思わないか。こう言う事他の場所じゃ絶対にできないからな」
「お化けの人がかわいそうじゃありませんか」
「たまにはいい経験だとおもうけど」
「…仕方がありません。昭博さんがどうしてもと言うのならついていきます。でもあまり無茶はしないで下さいね」
「よし」
 不穏な笑みを浮かべたまま、昭博は勇んで中に入っていった。実に済まなさそうに、玲奈は後について行く事になった。
 内部は実に定番通りのお化け屋敷だった。足元が見えるかどうかに抑えられた照明、ひゅーどろどろ、のあまりにお約束な効果音、そして狭い通路。時折ろくろ首などの妖怪変化がスモークとともに顔を出し、墓から亡者が這い出てくる。人間がおどかしてくれるとは言っても、やはり大部分は機械仕掛けのようだ。
 普段の玲奈であればびくびくものの所であったであろう。そろそろ十八にもなるのだから仕掛けはわかっているが、血みどろの生首だとか、踊る骸骨だとかは作り物と分かっていてもいきなり見せられて気持ちの良い物ではない。ホラー映画などを好き好んで見る人間の神経は彼女には理解できない。スプラッターなどは論外である。
 しかし今、彼女の心臓は確かに早い鼓動を刻んではいたが、それは恐怖から来るものではなかった。言われた通り、こちらがこれから人をおどかすのだと覚悟していると一向に恐くない。ただ緊張感だけがある。 
 横目で昭博の様子を確かめると、こちらは緊張さえしていないようだった。むしろ鼻歌でも歌い出しそうな表情である。
 バン! とそんな音とともに不意に通路の脇が開いた。そして何かが飛び出してくる。
「グヲオオオオオオオオオッ!」
 それは両手を突き出して、真っ直ぐに玲奈に向かって来た。こう言うところで男女の二人連れがいた場合、まず間違いなく女の方に向う。親子連れなら子供だ。悲鳴を上げてくれなければアトラクションとして存在しないのだ。大体、隠し出口の所にのぞき穴があるか周辺に暗視カメラが設置されていて、あらかじめ通る人間をチェックしている、そういう仕掛けである。
「わっ…」 
 玲奈は驚いたが、それだけだった。友人にいきなり後ろから肩を叩かれた、その程度の感覚だ。目の前の物を冷静に観察する余裕さえある。血みどろの甲冑をまとった、落ち武者をイメージしたコスチュームらしい。中々良くできている。そして自分があまり驚かなかったことに対する相手のわずかな不満を、見て取る事ができた。アベックならば、多少大袈裟に驚いて男の方にすがりつく女もいるのだが。
 しかしこの時、昭博の姿は既に玲奈の隣にはなかった。見失ってしまった。落ち武者役の人も、同様であるらしい。玲奈を驚かす事に全神経を集中していたのだろうから。そして…。
 すっと、昭博が落ち武者の背後の闇から姿をあらわした。いつの間にか、いや落ち武者が玲奈を驚かし、そしてそれに失敗している間に背後に回っていたのだ。そして相手に気づかれる前に、手にしていた何かを相手の顔にかぶせる。それから凄まじい声が上がった。
「ウワアッ!」
 はっきり言って、ひどい。視界をふさがれた上に大声を上げられて、驚かない神経を持っている人間のほうが異常である。首から下だけで、落ち武者の驚きがはっきりと見て取れた。そしてその体が崩れ落ちる。死んではいないが、どうも腰を抜かしてしまったらしい。
「逃げるぞ」
 一声かけて、昭博は駆け出した。
「わ、ずるい!」
 玲奈もつられて逃げ出した。
 念のためお化け屋敷から距離を取って、二人はベンチで一休みした。
「な、別に恐くなかっただろ」
「別の意味で恐かったですよ。はあはあ…。ここまで来る間、怒られはしないかと心配で。ふうふう…」
「平気だよ。あそこで悲鳴が上がるなんて当たり前の事なんだから。誰も気づきゃしない。っと、何か飲み物でも買って来ようか。何がいい?」
「ええと…じゃあ、ロイヤルミルクティーを」
「おっけー」
 実に機嫌良さそうに、昭博は自動販売機へと歩いて行った。困った男である。自分が知っている限りでは一番楽しそうだ、と玲奈は思った。しかしそう言えば、先ほど落武者の頭を覆った物は何だったのだろうか。布の類であることは間違いないが、しかし今の昭博はそれらしい物をもっていない。
「はいロイヤルミルクティー」
 世界最大の清涼飲料メーカー日本法人の牛乳三十パーセント入りミルクティー、缶ジュースとしては玲奈のお気に入りである。どれほど甘いかはもはや説明の必要もあるまい。
「ありがとうございます。所で昭博さん、さっきあの人にかぶせた物は一体なんだったのですか」
 缶を振って開けようとしながら聞いてみる。昭博は自分用に買ってきたスポーツドリンクを開け、それを一口飲んでから口を開いた。もったいつけている。
「分からないか」
「分かりませんよ」
 自分が特にその答を必要としている訳ではない、こういう場合はむしろ素直に負けを認めるのが得策である。成功する可能性が高いし、失敗しても致命的な損害にはならない。
「これだよ、これ」
 笑って、昭博は「Six Wings」のジャンパーを指差した。
「あの場でとっさにそれを脱いでかぶせて、そしてここまで来る途中に着なおしたという事ですか」
「正確に言えばお化け屋敷の中にいる間にジャンパーはもう元に戻してた。気がつかなかったかい」
「私は逃げるのに必死でしたよ。それに暗かったですし。本当に、すごい所で知恵が働きますね」
 とほほ、と言いたげに玲奈が溜息をつく。昭博はまた楽しそうに笑った。
「まったくだ。昔から悪戯の天才と呼ばれていたが」
「もっと建設的な方向に使えないんですか」
「さあ。俺はまだ十七だからね。そう建設的な事はできないし、しようとも思わない」
「じゃあ、将来の夢とかは」
「別にないねえ。高校も考えがあって行かなくなった訳じゃないし」
「でもそれじゃあ、ご両親が心配なさるでしょう」
「それはないと思うが。いや、あるかな」
 昭博はふっと玲奈の手元を見た。缶がまだ開いていない。
「何やってんの」
「いえ、ちょっと…開かないんです」
「非力だなおい」
 玲奈の手から缶を無造作に取り上げてわしわしと振る。タブに指を引っ掛けて力を込めると、簡単に開ける事ができた。
「ほら。どこが難しいんだ」
「爪が痛くて…」
 付け根に淡い色の半月状の部分があって、主要な部分はピンク色、そして先端部は白い三日月を描いている。尖らせたり四角くしたりという特殊な加工はしていないが、しかし綺麗な爪だ。縁が美しいカーブを描いている所を見ると、ちゃんと切った上で更にやすりをかけているのだろう。確かにこれは、どう考えても力を込めるのになれた人間のすることではない。
「普段どういう暮らしをしているんだ」
「私ですか。いえ、別に、普通に…」
「多分それ普通じゃないぞ」
「そんな事はないと思いますけれど…」
 そう話している間に昭博はスポーツドリンクを飲み干してしまった。しかし玲奈の缶にはまだだいぶ残っていたので、こう提案する事になる。
「ええと…こうしてただ座っているのも時間がもったいないですね。全部回ろうとすると意外に時間がかかりますし。どこかへ行きましょうか」
「って、言ったって。歩きながら飲むなんてみっともないし、それ持ったままじゃ乗り物にも乗れないだろ」
 昭博ならともかく、今の玲奈の姿では歩きながら缶ジュースをあおるなどという姿はまるで似合わない。それに不器用な彼女の事だから下手をしたらこぼしてしまって大惨事になる。それに缶ジュースを持ったまま何かに乗ろうとしても、係員に止められるだろう。止めてもらえなければ、例えばジェットコースターの場合そこらじゅうに甘いミルクティーをばら撒いてしまう事になる。が、そのくらいの事は彼女も考えていた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり座っていられるものがあります」
「どれ?」
「あれです」
 太陽を模したような巨大な構造物がゆっくりと回転している。二人はそれを見上げる形になっていた。
「観覧車か。確かにあれならゆっくりできそうだ」
「では行きましょう」
 昭博が空き缶をごみ箱に入れ、二人は観覧車に向かった。
 基本的に待ち時間のない乗り物である。他の物と違って常に人を受け入れている事もあるが、極端に人が集まる事もないためでもある。余程全体的に混んでいない限り、時間が余ったら乗るためにある、あるいはこの二人のように一休みするために乗る、そんな物だ。実際箱一つ分待っただけだった。
「しかしふと思ったんだが、これってそもそも何のためにあるんだ」
 じわじわと登って行く小さな箱の中で、昭博が言った。二人がけにしては狭い、しかし一人で座るには広い半端な広さの座席にだらりとかけながらである。ただ、この半端な広さが恋人同士には絶妙の間合いとなる。付き合い始めの、お互いにちょっと遠慮のある二人であれば向かい合って座ればいいし、付き合いが深くなってくれば片側に二人で密着して座る事もできる。実に考えられて作られたものだ。昭博もそれは知っているが、本来の用法ではないはずだ。
「それは書いた字の通り、そのあたりの風景を見るためでしょう」
 向かい側に座った玲奈が常識的な答えをする。昭博はなおも首を傾げた。
「この辺なんて見て面白いとも思えないが」
「そうでもありませんよ。じきに分かります」
 ちょっと意味ありげに笑って、玲奈はミルクティーを飲んだ。そして自分達の乗っている箱が四分の一周、つまり高さとして半分に達した所で腰を上げる。
「もう見えてもいいはずなのですけれど…」
 そう言いながら、ある一方向を視線で探している。昭博も気になって身を乗り出した。
「何がだ」
「ええと…やっぱり無理なのかな。お天気はいいのに…」
 ガラスに額を押し付けるようにして、熱心に見ている。昭博もその隣に顔を寄せた。
「だから、何? 探してやるよ。二人で探した方が早いだろ」
「分からないのなら教えてあげません。驚かせてあげたいですから」
「んー…?」
 観覧車も終わるのを待っていると長いが、何かをしていてそれが成功しないとごく短い。数分とはそのくらいの時間である。そろそろ頂点に差し掛かろうというときに、玲奈はようやく目指す物を発見した。
「ほら、あれですよ、あれ。あそこです」
 子供のようにはしゃいである一点を指差す。しかし昭博は彼女が何を見つけたのか、とっさには分からなかった。目を細めながら、地平線付近とおぼしき所を見やる。
「何だよ。指されても分からないよ」
「あの一つだけ飛び出ている建物です。見覚えがありませんか」
「っと…」
 程なく、玲奈が何を指しているのかは分かった。周囲の建物からは群を抜いている高層建築だ。確かに見覚えがあるような気もするが、しかし何なのかはまだ分からない。
「なんだっけ」
「もう…。ザ・タワーですよ。私の部屋です」
「…そうか、あれか! するとあの辺に俺の家もある訳か」
「そうですよ。ここからあれが見えると聞いていたのが、ここに来ようと思った理由の一つなんです」
「なるほどね…」
 そこが見えなくなるまで、二人は肩を寄せていた。
 観覧車の後まだ乗っていない物を潰して行く。そして気がつくと、あたりは暗くなっていた。玲奈が当たり前の事をしみじみとつぶやく。
「やっぱりもう、秋なんですね」
 昭博も反論はしない。しかしさすがに、彼はもう少し現実的だった。
「そうだな。さて、どうしようか。営業時間はもう少しあるはずだけど、夜になると涼しいを超えて寒くなってくるぜ。ここから帰る時間も考えなきゃならないし。何より腹が減ってきた」
「ええ。ではそろそろ帰りましょうか。でも一つだけ、最後に乗りたくてとっておいた物があるのですが、よろしいですか」
 あれほど楽しみにしていたのだし、今日一日はしゃいでいた。だから彼女はもう少し粘るのでは、と昭博は覚悟していたのだが、あっさりと引き下がってくれた。
「ああ、構わないよ。それで、どれに乗るんだい」
「あっちです」
 何故か玲奈は具体的な名前を挙げなかった。昭博はそれで、自分に迫っている危険に気づくべきだった。いや、正確に言えばもはや避けようもない危険と言うべきだろうか。既に彼は、「構わない」と承諾してしまっているのだから。どうせ避けられないのなら気がつかないほうがまし、という考え方もできるが、それは微妙な所である。
 とことこと玲奈は歩いて行く。ついて行く形となった昭博は、首を傾げていた。
「まだ乗ってない奴なんてあったっけ」
 しかも更に条件が加わる。最後にとっておきたくなるほど面白そうな物、そのような物は記憶になかった。まあ、一風変わったセンスを持つ玲奈の事だから自分が気づいていないような些細な物を取っておきにするかもしれないが、と昭博は思っている。
「ありますよ。私がここに来たかったもう一つの理由が」
「へえ…」
「所で昭博さん…」
「あん?」
 それまでむしろそこはかとない自信さえ感じさせていた玲奈の口調が、急に恐る恐ると言った感じの物に変わった。それを昭博は敏感に感じ取っていた。まるで出会った当初の口ぶりだ。
「もし本当に寒くなってきたら…」
 そう言いながらむき出しの自分の腕に指を触れさせる。昭博は目で続きをうながした。そして彼女の視線が昭博の胸から目へと動いた。
「そのジャンパー、当てにしてもいいですか」
 聞こえるか聞こえないかの声でそんな事を言う。返答は、肩をすくめながらであった。
「別に寒くて着ている訳じゃないからいいけどね。あんまり似合いそうにないからすぐに返してもらうぞ」
「はい、ありがとうございます」
 極端に嬉しそうに、ではなく、むしろ穏やかに玲奈は笑った。
 そして、昭博はその直後に引きつっていた。顔だけでは済まない。全身で引きつっている。
「もしかして…あれ?」
 指し示す指が、腕ごと震えている。しかし玲奈は平然としていた。
「はい」
 無情にも肯定してくれる。
「すいません、玲奈さん。あればっかりは勘弁してもらえませんか」
 動揺のあまり、何故か丁寧語になっていた。それでも玲奈は許してくれない。
「嫌です。乗ります」
「じゃ、俺はここで待ってるから…」
「駄目です。さっき昭博さん私をお化け屋敷に引きこんだでしょう。今度は私の番ですよ」
「いや、しかしこれはあまりにも…」
「お化け屋敷とおんなじです。あれは恐いと思うから恐い物。これも嫌だと思わなければ全然平気ですって」
「うう…」
 負けた。

 ぐるぐると回りながら、昭博は自分の中の何かががらがらと崩れて行く音を聞いていた。立ち乗りコースターと並ぶサンパラダイスの伝統的な名物、華麗なメリーゴーランドである。最近あまりはやらない代物であるので、ここより規模が大きい物は少なくとも日本には存在しない。メルヘンの結晶である。白馬に乗った玲奈は実に満足げであったが、それで射殺された騎馬武者のように黒馬の上に横たわった昭博が慰められるのかというと、そんな事は一切なかった。

 サンパラダイスの客を当てこんだ出入り口脇のファーストフードで夕食を済ませ、それから電車に揺られる。玲奈はその間早くも遊園地の思い出話などを始めていたが、昭博はと言うと無言に近かった。彼がようやく普段通りに話すようになったのは、最寄駅についてからである。
「今日は楽しかったです」
「そいつは良かった。一日潰してもらった甲斐があったよ。…寒くないか」
「平気です」
「そうか」
 私鉄の駅からならば昭博の家の方が近い。私鉄ができて以来のやや古い住宅街にあるためである。玲奈の部屋があるザ・タワーは私鉄とJRのほぼ中間、最後まで開発されていなかった場所だ。結果、二人はまず昭博の家の近くへやってくる事となった。
「…ちょっと寄って行ってくれないか。少し話しておきたい事があるんだ。茶でも出すから」
「あ、はい。分かりました」
 声をかけられて、玲奈はほとんど反射的に答えてしまっていた。昭博の口調はどこか有無を言わさない所があったのだ。街灯に照らされた彼の瞳が、冷たいような温かいような、どこか矛盾した印象を与えていた。そして気がつくと、彼は玲奈の少し先を歩いている。今日一日、彼が自分の歩調に合わせてくれていたのだとこの時知った。
 玲奈が昭博の家を訪れるのはこれで六回目になる。しかし夜、中に昭博がいない状態を見るのは初めてだった。明かりが全く見えない、やはり空家のような印象を受ける。そんな中で、昭博は玄関灯もついておらず、街灯からも死角になっている玄関の鍵を器用に開けていた。そして中の明かりをつけて行く。
「さ、入ってくれ」
「はい」
 例によってリビングに通される。昭博は自分の発言に従ってかキッチンで紅茶を入れる準備を始めた。玲奈も座らずに声をかける。
「やりましょうか」
「いや。座ってなよ」
「でも…」
「いいから」
「…もしかして、信用していないのですか。確かにここへ来ていきなりカップを割ってしまった事もありますけれど…」
「そんなんじゃないよ。今日は客だと思っているから。俺に用があって来てもらったんだし」
「はあ…」
 優しいようであるが、同時に他人行儀でもある。玲奈は少し身構えて、紅茶ができるのを待つ事となった。
 そして二人分の紅茶が運ばれてくる。玲奈にあわせて、ちゃんとミルクと砂糖が多めに添えられていた。
「…まあまあかな。大して良し悪しが分かる訳でもないけど」
 自分で淹れたものを味わって、昭博は評した。玲奈が砂糖を入れるのもそこそこにたずねる。
「それで、お話というのは…」
「うん…ちょっと込み入った話でね。今何から話そうかと考えているんだ。ちょっと待ってくれ。呼びつけといて悪いが」
 昭博は自分のカップから視線を上げさえしなかった。
「いえ、お気になさらず」
 この後、玲奈が自分の紅茶を飲み終わるまで無言が続いた。
「そうだな…やっぱり始めから説明した方がいいだろうな。そうしないと多分、全部片付かない」
 独り言とともに、昭博は立ち上がった。玲奈は恐る恐る、それを見上げる。その顔には、表情がなかった。
「ちょっとついて来てくれないか」
「はい」
 訳も分からないまま、玲奈も立ち上がった。昭博は階段を上って行く。そして着いたのは、玲奈が一度だけ見た事のある和室であった。両親の部屋であるらしい。非常に片付いた、しかしその分生活感のない部屋だ。この前は昭博が入ることを拒絶したのでちらりと見ただけであったが、今彼は彼女に入ってくるよう促していた。そうして入ったは良いが、何をして良いのか分からない部屋だ。
 その中で、しかし昭博は確かな目的意識を持って行動しているようだった。部屋の隅の、棚のような物に歩み寄る。そして初めて、玲奈はそこにある物が仏壇であると気がついた。漆黒に塗られた箱である。部屋の中にそれがあることがあまりに自然で、その存在さえ感じさせなかったのだ。元々そう大きな物でもない。昭博は蝋燭に火を灯した。
「花くらいは供えるべきだろうな、やっぱり」
 つぶやきながら線香に火をつけ、供えてから鐘を叩き、手を合わせる。玲奈はそれを困惑しながら眺めていた。昭博が振り返ったのはややしてからである。
「親父と、お袋だ」
 その言い方があまりに無感動だったので、玲奈はその意味を理解するのにしばらくかかった。奥に真新しい位牌が二つ、並んでいる。
「えっ…えっ…」
「何だかんだ言われたり、同情されたりするのも面倒だから黙ってた。俺が夏休みに入ってすぐ、二人で久しぶりに夫婦水入らずの旅行をして、そこで事故に遭ってね」
「えっと…それは…」
「何も言わなくていいよ。社交辞令なら言って欲しくないし、本当の気持ちがあるならそれは言わなくてもわかる」
 機械的に、昭博は続けた。玲奈は立ち尽くすしかない。しかしやがて、すべき事を思いついた。
「お線香…あげていいですか」
「ああ」
 こう言うときにとっさにかける言葉を探し当てられるほど、玲奈は口巧者でも世慣れてもいなかった。沈黙の中に鐘の音だけが響く。そして昭博が声をかけた。
「…下に移ろう。ここはあまり、話をしやすい場所じゃない」
「はい」
 蝋燭の火を消して、そして明かりも消す。闇の中で二人分の線香のかすかな光だけが見えた。
 玲奈はあの「白い」保険証を思い出していた。基本的に家族単位で使用することを想定した物であるから、記名欄に一人分しか名前がないとどうしても余白が大きくなる。それが白さの正体であったのだ。昭博しか使わない物であるから彼が持ち歩いていても構わない。いや、もし何かの時に彼が持っていないと、所在が分からなくなって面倒な事になるだろう。そういう事だった。
 居間に入ってソファーに着くと、昭博はやはり淡々と話し始めた。
「相続だとか、保険金だとか色々と面倒な話になってね。祖父母は亡くなってるか遠くに住んでいてしかも体を悪くしているかで、親父の弟、叔父夫婦がまあ後見って話になった。横浜に住んでるからね。しかし連中、この家や預金口座の名義を自分達の方に書き換えようとしてたんだ。俺に黙って、書類や実印やら持ち出してた。仕方がないからなんとか自分で弁護士を探して、取り返そうとした。君がCDを持って来てくれた時に電話をかけてきた人だ。連中ほど欲の皮が突っ張っているつもりはないけど、ないと暮らして行けないからね。あの先生はそう簡単には行かないかもしれないって言ってたけど、弁護士が出てきた時点で叔父夫婦はあっさり引き下がった。元々裁判沙汰までやれるほど度胸の据わった人達じゃなかったんだよね。俺をガキの頃から知っているから、それなら簡単にだませると思っていたらしい。でまあ、多少あの先生に相談料は払ったけど大体金や土地家屋の方は元通りになった。ついでに後見もあの先生にしてもらうことにした」
 昭博が悲しむ様子も怒る様子も見せないので、玲奈は黙って聞いているしかない。話は続く。
「夏休みは結局、何もする気がしなかった。漫画も何も買わなかったし。君がこの前気にしてたのはその事だろ。餓死する気もなかったから食い物だけは適当に買って食ってたけどね。金だけはあるから。悲しいとか寂しいとかよりも、ずっといい加減な夢の中にいるみたいなそんな気がしてた。現実感がないんだ。気がついたらまたひょっこり親父もお袋も帰って来るような気もしていたしね。そうしているうちに二学期が始まって…あ、そうそう、一応高校には通ってたんだ。少なくとも一学期までは割ときちんと。それで学校に行ってみたら、みんな両親が死んだ事は知ってた。慰めてくれるやつもいたし、放っておいてくれる奴も居たよ。どっちかと言うと放っておいてくれる方が嬉しかったけど。ただ仲原とか真田とか、あのアホとしか思えない連中もいてね。俺が多少の金を自由にできるって知っていたから、たかったりせびったりしてくるようになった。断るとうざったい事をしてきてね。別に大事とも思わなかったけど、わざわざ学校に行くのも面倒になった。何しろ二人分の保険金って馬鹿にならない額でさ、無茶な使い方をしなけりゃ俺一人が一生食ってくには困らないんだ。だからもう、勉強したってそんなに意味はない。少なくとも俺は将来、就職のために勉強してたんだから。それで学校にも行かなくなって、暇な時はその辺をほっつき歩くようになった。そんな時に仲原達とたまたま出くわして、からまれて、殴り合いになって、そして君と出会った」
 ゆっくりと、玲奈はうなずいた。学校の帰りに商店街を歩いていて、裏路地から聞こえてくる何かの音が耳に止まった。半ば好奇心で覗いてみると、それは彼女がこれまで見たことのない激しい流血沙汰だった。逃げ出さなかったのは、足がすくんでいただけだったのかもしれない。しかし止めなければならないと思った事も確かである。そして結局、彼に助けられた。それが彼女にとっての出会いだった。
「分かっていたとは思うけど、始めは鬱陶しいと思ってた。自分でも気がつかないうちに気が立っていたんだな。でも段々ここに人がいてくれることがありがたく思えるようになってきたよ。勝手な話だがね。あの日から止まっていたこの家の、そして俺の時間がまた動き出したんだ。ここはもう、お袋が家事をしたり親父がごろごろしたりする所じゃない。君が笑ったり、立ち働いたり、それからちょっとどじをしたりね」
 昭博が笑って、さすがに玲奈も少しむくれた。ただ、昭博はすぐに脱線状態から回復する。わずかではあったが、笑顔だった。
「とにかく、分かったんだ。こうして時間が経っているんだなって。来るものは来る。戻ってこないものは戻ってこない。それだけの事。俺まで亡霊みたいな生活ももう終わりさ。君のお陰だ」
 昭博はそれまで着ていたジャンパーを脱いだ。寒くて着ていたのではないとは先刻言った。一つにはTシャツにジーンズという芸のない格好を避けるため。そしてもう一つには、腕の生々しい傷痕を隠すためだ。抜糸直後の傷痕は、むしろ傷ができた当初よりも痛々しい物がある。開いた口を塞ぐために赤く盛り上がった痕の上に、更に糸の痕が何本か縦に走っているのだから。見るからに物騒だ。しかし今、昭博はそれを玲奈の前に示していた。彼女ならばそれができたいきさつを良く知っている。
「こっちの方も治ったよ。実は昨日、抜糸してもらったんだ。宍戸先生も、もう大丈夫だって言ってた。こっちも君のお陰かな」
「いえ…何もかも、結局は昭博さんのお力ですよ」
 謙遜ではなく、玲奈は言った。人が何かの痛手から立ち直るためには誰かの助けを必要とする、そしてたまたまそこにいたのが自分だったと思うのだ。しかし、事実そうであれ助けになれたのは嬉しく思っている。
「事実はそうかもしれない。でも俺が感謝しているって事は、確かだよ。だから今日、遊びに誘ったんだ。感謝の印としてね。プレゼントとかも考えたんだけど、どうも俺のセンスじゃ君の好みに合うような物は選べないんじゃないかと思ってさ」
「いえ、気持ちのこもった物であれば、何でも嬉しいですよ」
「君ならそう言うとは思ったけどね。しかし自信はなかった。だからって好きな物を何でも買ってやる、じゃあ悪趣味だろ。それで好きな所へ連れて行ってやるって、そういうことにしたんだ」
「正しい判断でしたよ。今日は本当に楽しかったです」
「言われなくったって分かるさ、そのくらい。こっちまで楽しくなってくるくらい、楽しそうだった」
 二人して笑う。それから昭博は、何故か目を閉じた。
「…これで全部だな。話ってのは、そう言う事。その辺でできる事じゃないからさ、わざわざ来てもらったんだ」
「ええ」
 玲奈はもう少し何か言おうとした。とっさに言葉にはできない色々な感情を言葉にしようとして考えていた。しかし、それより前に昭博が立ち上がっていた。
「つまりそういう訳でさ、俺はもう大丈夫だから、もうここへは来なくていいよ」
 そんな言葉を残してキッチンに入って行く。玲奈は五回ほど、まばたきした。
「…え?」
「君だって暇じゃない。いや、俺と違って君にはやらなきゃいけない事がたくさんあるはずだ。受験まで後、もう半年もない。そうだろ」
 薬缶に話しかけている。どうやら二杯目のお茶を淹れようとしているようだ。
「…昭博さん、どうして、昭博さん…」
 混乱した頭が意味もなく彼の名を呼ぶ事を要求する。彼は視線を合わせず、しかし優しく答えた。
「どうして? その理由は今、説明したはずだよ。長々とね。俺はもう、大丈夫だから。今度君は、君自身の心配をすべきなんだ。丸一週間も時間を取らせて済まなかった。今日一日でそれが償えたかどうか、分からないけど」
 呼吸が詰まる。玲奈はようやく、息を吐き出した。
「そんな、急に…」
「急じゃないよ。今三年生だって聞いたときから大丈夫かなって、思ってた。それにこの前鞄の中をちらっと見たんだけど、参考書が詰まってただろ」
 ガスの音が静かに響く。
「でも…」
「でも、何? 今度は俺が君の事を心配する番だと思うんだけど、違うかな」
 玲奈は必死になって、論理の逃げ場を探していた。
「あの…じゃあ…時々、遊びに来るのは…」
「れいな」
 一瞬だけ語気が強まったが、しかしすぐにまた和らいだものに戻された。
「それじゃあ意味がないだろ、おい」
 袋小路だった。昭博はそれを、綿密に用意していたのだ。玲奈の胸の奥に、固い物が詰められて行く。
「…昭博さん…」
「ああ」
「私がここへ毎日来ていた理由が必要だとか義理だとか、そんなものだと本当に思っているのですか」
「何の事だ」
「そんな訳…ないでしょう。私だって馬鹿じゃないんです。受験は大事だって分かっていて、それでもここへ来たくて…」
「もういい」
 制止を、玲奈は聞かなかった。
「だから、あなたにはもう必要がないだとか、私には必要だからだとか、そんな理由で割り切るなんてできません」
「もういいんだ」
「そんな、このままお別れして、それで私がすっきり勉強に打ち込めると思っているのですか。ずるいですよ…。あんなに楽しい思いをさせて、優しくしてくれて、それでお別れだなんて。いっそ冷たく突き放してくれた方が良かった…」
 話が飛んでいた。自分の視界が急速に曇って行く。それが涙だと気がついたのは、あふれる雫が頬を伝って流れ落ちた後だった。
 昭博が玲奈の方を見た。もう来なくていい、と言ってから初めてだった。
「そうだね、ずるいよ、俺は。少なくとも普通にもういいと言ったんじゃ、君が納得しないとは分かってた。君は芯が強いからね。一番確実な方法は、嫌われる事だと思ったよ。今日話したけど、俺ほど人を怒らせるのが得意な人間も珍しいから。君は忍耐力もあるとは思うけど、それでも本気でやれば俺のほうが上手だよ、きっと」
 昭博は叩きつけるようにガスを止め、そしてゆっくりと歩み寄った。
「でもそれができなかった。嫌われたまま…終わるのが嫌だった。だから確実じゃないと分かった上で、きちんと礼をして、全て話して納得してもらう方法を選んだ。今まで君の事を考えてみたいな事を言ってきたけど、半分は嘘さ。気がついたら、君に会うのが楽しみになっていた。だから君にだけは、嫌われたくなかった。君を傷つけたくなかった」
 ソファーから立ち上がれないでいる玲奈の前に、昭博は膝をついた。
「好きだよ、玲奈」
 玲奈は顔を上げて、そして目を閉じた。それでまた、涙がこぼれ落ちた。昭博はそっと、顔を寄せた。
 甘い香りと、味のするキスだった。先程飲んだ紅茶の味と香りか、それとも玲奈自身の物かは昭博には良く分からなかった。それから、涙の痕に唇を落とす。こちらはやはり、塩の味がした。
「ごめんな。泣き出すなんて思わなかった」
「謝っただけじゃ、許してあげません」
 うっすらと目を開けて、玲奈は厳しく言ってやった。少なくとも、そのつもりだった。昭博が優しくたずねる。
「…どうして欲しい?」
「…自分で考えてください」
「そう」
 もう一度、唇を重ねた。先程よりももう少しだけ強く、そして顔だけを近づけるのではなく、相手の体を抱き寄せる。その唇も、体も、温かく柔らかだった。自分の腕の中に、これほどまで感触の良い物があるとは信じられない。
 長いキスを交わして、それから昭博は更に強く玲奈を抱き寄せた。互いの顔がすれ違うようにして相手の肩に乗る。これから彼が言おうとしている事は、目を見て言うには少々恥ずかし過ぎた。
「俺と付き合ってくれないか。俺は学校にも行ってないようないい加減な奴だけど、好きなんだ。君の事が」
「もし…」
「もし?」
「もし嫌だと言ったら、どうしますか」
 昭博は相手の視線から逃げるためにこの態勢を選んだのだが、逆に言えば玲奈の表情をうかがう事もできない。しかし笑っているな、と彼は思った。
「もう一回頼む」
「それでも嫌だと言ったら」
「まだ頼む」
「それでも駄目なら」
「…イエスと言ってもらう方法を考えるよ。まだ分からないけど」
「そうですか…」
 それまで動きとしては常に受身だった玲奈の手が、そっと昭博の背中に回された。
「そこまで言うのなら、お付き合いします」
 消極的な言い草である。しかし女の子の中でも、恐らくは特に非力なその細い手が、しっかりと彼の体を抱き寄せて言葉を裏切っていた。
「ん…」
「ふう…」
 言葉も交わさず、ただ互いの温もりを分けあう。二人はそんな事を長々と続けていた。不器用だけれど綺麗で優しい女の子を自分の恋人にすることができた喜び、口は悪くとも本当に自分の事を思いやってくれる男の子が一緒にいてくれるという嬉しさ、そういったものが、二人の手を放さなかった。


前へ 小説の棚へ 続きへ