午後の恋人たち 新章
10 真昼の密談
涼馬に忠告された通り昼休みに、優はブラックリストに乗っている手塚昭博の正体を確かめるべく、彼とごく親密な交際をしている玲奈の教室を訪れていた。
「深澄音先輩、少し相談に乗っていただきたいことがあるのですが、お時間をよろしいでしょうか」
「あ、はい」
少し戸惑いながら、玲奈は答えた。これからクラスメイトと一緒に弁当を食べようという、そんなタイミングだったのである。
「行って来たら? 玲奈」
「そうそう、せっかく可愛い後輩が頼りにしてくれるんだし」
「あたし達は三人で食べるから」
普段は玲奈と一緒に昼食を囲む女生徒たちが、そう優を後押しする。玲奈としても頼られて悪い気はしないので、立ちあがった。
「優さん、お昼ご飯はもう?」
「いいえ、まだですが」
「でしたら、ご一緒しましょう。場所は、そうですね。そうそう、この前お話しした中庭のベンチで。優さんもお弁当ですよね」
「はい」
「ではそこで待っています。皆さん、今日は済みません」
「いいのよ、そんなこと。さ、早く行きなさい。結構込み入った話みたいだし」
「はい、それでは」
二人が立ち去ってから、玲奈のクラスメイト三人は机を引っ付けて顔を寄せた。
「なんだろうね、あの玲奈に相談だなんて」
「勉強、じゃないわよね」
「あんなにせっぱ詰まって? それは有り得ないでしょ」
「そうよねぇ。するとやっぱり、こっち?」
三人は同時に、ぐっと親指を突き出した。体を寄せているので、そうしても外から見えはしない。よほど接近しない限り、会話の内容が外部に漏れないのも同様である。
「あの二人って、生徒会つながりだよね」
「うん。すると狙いは」
「涼馬君」
声が重なる。仲の良い三人、ではある。
ちなみに三人ともある種涼馬の「ファン」ではあるが、だからこそ干渉するつもりはない。遠くから見守って、愛でて、そして彼が幸せになろうとするならそれを素直に祝福することこそが、「ファン」のあり方だと思っている。
そのくらいの余裕、あるいはおおらかさがなければ、玲奈の親しい友人でいることは難しい。玲奈自身に遠ざけるつもりはなくとも、嫉妬心が強ければ美貌の彼女とはつきあいづらいし、気ぜわしい人間では彼女のゆったり加減が癇に障ってしまう。
もっともその自覚が明確に三人にあるわけでもなく、ひそひそ話はますます盛り上がる。
「うわあ、もしかして修羅場? 涼馬さんは私のものですっ! いいえ、先輩はわたしのですっ! って。怖ぁ」
「馬鹿、違うわよ。だってこの前、恋人ができたってあれだけ嬉しそうに言ってたじゃない。一つ下の男の子だって」
「あぁ、そうだった。あまりに現実離れしたできごとだったから、記憶回路から抜けてた」
「便利な脳味噌ね」
「何よその言い方」
「まあまあ。それより、修羅場じゃないとすると相談の内容は?」
「澤守先輩をどうしても恋人にしたいんですけれど、どうしたらいでしょう? かな」
「賛成」
「んー、そりゃ難しい質問よね。だって難攻不落のあの涼馬君に挑む訳だから」
「今まで何人の女どもが玉砕したことか」
「物量作戦じゃ効果がないわ」
「とりあえずお守りは必須よね」
「ブルマ? それはどーよ? まあ気休めにはなるだろうけれど」
「玉砕覚悟の特攻にはそんなものも必要なものよ」
「なるほど。でも大体あの話って、二年のあの、何て言ったっけ? 眼鏡かけてる子」
「宍戸君でしょ。確かに彼、そんなこと騒いだあげく涼馬くんに蹴られたらしいけど、でもあの話って、あたしたちが一年のときに聞いたわよね」
「うん。つまりまだ中学生か、さもなければもっと子供だった彼が、年上の高校生を操って流させたという極めて低い可能性を排除すれば、発信源は別の人間のはずだわ」
「謎は深まるばかりよねえ。と、いけない。閑話休題」
「はいはい。涼馬くん攻略について。それならやっぱり、最終兵器の投入しかありえないんじゃない?」
「最終兵器? 何にする?」
「そりゃもう」
「これでしょ」
三人が三人、スカートを捲り上げる動作をして見せた。
「んー、しかしそれで落ちるかな? 何しろ涼馬君だし」
「えー、それで落ちなきゃ男じゃないよ」
「だってさ、今までそうした人間がいないって保証ある?」
「あ、そうか。可能性十分あるわよね」
「実は食っては捨て食っては捨てしてるとか」
「そっちの可能性は低いと思う。正直。さすがにそれなら誰かがそんな話を聞いているはずよ」
「そうよね。するとその鉄の意志を打ち砕くとしたら、切り札にもう一枚上乗せしないと」
「援交しまくってテクニック抜群にしとくとか」
「男心が分かってないわね、あんた」
「えー、そうかなぁ」
「不潔に思われるに決まってるじゃない、そんなの。あたし達だって正直な話そういう友達持ちたくないでしょ」
「とりあえずあたしは、自分がやらない分には平気だけど。人それぞれじゃない?」
「あ、そう?」
「でもそれは今回の作戦の眼目から外れるわよ」
「あ、いつから作戦になったんだっけ」
「難攻不落とか玉砕とか言い始めるからよ。話戻すけど、色仕掛け作戦は責任感の強い人間にしか効果ないんだって。そうじゃなきゃ食われて終わり、違う?」
「そりゃそうだわ。あ、そうか。援交しまくってるのなら、別にやり捨ててもいいかって思うわよね」
「そういうこと」
「やっぱ出血大サービスよ、ここは」
「アレの最中にするの? マニアック過ぎない?」
「馬鹿、マニアックはあんたよ。出血大サービスっていうのは…」
「わたしの初めてをもらってください、でしょ」
「そう、そこで攻めなくちゃ駄目よ」
「で、し終わったら責任とって下さい、と。それで行けるか」
「するとこまでもってければオッケーよ。涼馬君はそれで捨てられるような責任感の弱い人間じゃない」
「そうそう。あの子間違いなく初めてだと思うし」
「うん。あれは絶対そうよね、間違いない」
「ああ、これでまた一人の少女が大人への階段を登って行くのねぇ」
「あははははは、何よそれ!」
などと言いつつ、この三人の中に経験者はいなかったりするのであった。北条坂高校は、そういう学校である。
自分たちがどのような噂をされているのか当然知ることもなく、玲奈と優は中庭のベンチで昼食を囲むことになっていた。しかし優としては、どう切り出して良いものかまだ迷っている。まさかあなたの恋人は凶悪な人物です、と正面から行く訳にも行かない。
「あら、優さんのお弁当、綺麗ですね。これはお母様が?」
しかし玲奈はのんきなものである。優の弁当を覗き込むなどしている。しかし実際、彩りも豊富な実に食欲をそそる逸品に仕上がっている。
「あ、ええ、まあ。半分は自分でやりますけど」
「わあ、すごいです。うらやましいですよ」
「そんな、大したことないですって。これは慣れですから」
「うーん。私も少しはがんばっているつもりなのですが、まだやっぱり足りないのでしょうか」
「それは、先輩ご自身で?」
この際お返しとばかりに相手のものを見やる。確かにあまり、見栄えのするものではなかった。料理としてはそこそこきちんと作ってあるようなのだが、弁当にするにはもうひと工夫が要求される。詰め方に失敗すると全体のバランスが崩れてしまうし、冷めると見た目の悪くなったり、あるいは味そのものが怪しくなるおかずも少なくない。そのあたりの考慮が必要になるのだ。これは作り慣れている人間のものではないな、と優にはすぐに分かった。確かにまだ、修行が足りない。
「あ、いえ、それが。私ではないんです」
玲奈がはにかんで笑う理由は、優にはちょっと想像もつかなかった。
「では、お手伝いさんが?」
に、しては、下手だ。はっきり言って。今時料理ができなければ女でないなどとは言えないが、料理ができなければ家政婦とは言えまい。
「それが、昭博さんなんです」
「ええっ!」
いきなり問題の人物の名前が、しかも予想もつかない所で出て来てしまった。思わずのけぞってしまう。玲奈は頬を染めてうつむいていた。
「け、けっこう家庭的な方なんですね」
頬を引きつらせながら、とりあえず言ってみる。玲奈は恥かしそうに、しかし実に嬉しそうに答えた。
「いえ。何でも器用にできる人ですから」
「それでもわざわざお弁当って、しかも男の人が。中々ないと思いますよ」
「それが、その。この前冗談で昭博さんのお弁当が食べたいって言ったら、本当に作ってくれてたんです。ちょっと悪いことをしてしまいました」
「ははあ」
そういういちゃつき方をしている訳ですか、という台詞を優は飲み込んだ。
「お優しい方なんですね」
とりあえず自分としての本題を片付けに入る。少なくとも玲奈の話を聞く限り、ブラックリストの人物とはまるで別人のようだ。
「ええ、とっても。勉強を手伝ってくれて、その合間にお茶を入れてくれたりして。そうそう、寝る前に三つ編みを作ってくれたりもするんですよ」
「ほほう」
これはもう、リストが間違っているだろう、絶対。どうやら自分の取り越し苦労だったようだ。そう結論付けて安心した所で、優には別の疑問が浮かんだ。
「あの、先輩。失礼ですけれど、一つお聞きしてよろしいですか」
「はい、何でしょう」
「どうして昭博さんが、寝る前の先輩のそばにいらっしゃるんですか」
「え、それはだって一緒に…」
と、ここまで来て、玲奈はようやく自分の口走ったことの意味に気がついた。その白皙の肌が、顔と言わず首筋と言わず見る間に真っ赤になる。見ていて気の毒だ。
「あ、いえ、別に、責めているつもりはないんですけれど」
さてどうやってフォローをしたものかと、慌てて考える。まず冷静になるのが大事なのだが、しかしこのとき優はその前に口走ってしまった。
「そう言えば先輩は、一人暮しをしていらっしゃるのでしたよね。なら、ええと、仕方ないですよね、うん」
余計に追い詰めたような気もするが、何しろ冷静さを欠いているので判断がつかない。結局玲奈は、うつむいたまま小さく口を開いた。
「だって、一緒じゃないと寂しいんですもの」
今度は優が黙る番だった。他人事のはずなのだが、しかし聞いているだけで恥ずかしい。そしてその沈黙に、玲奈がたじろいてしまう。つまりまた、余計なことを口走る順番が彼女に回ってきた。
「あ、あの、ほ、本当に、一緒にいたいだけなんです。ご飯を食べたり、お勉強をしたり、そ、それからお風呂に入ったり」
この際自爆するのは当人の勝手だ。しかしまるで防ぎようのないテロリズムのようにまわりに被害を与えるのは止めてもらえないものかと、優はそんなことを考えた。彼女の耳まで真っ赤になってしまう。
いくらなんでも「一緒にお風呂」はまずい。反則だ。何しろ玲奈ときたら、今制服越しに眺めるだけでそのめりはりの良さが分かるほどの、スタイルの持ち主である。例え全裸でなかったとしても、そんな女性が若い男と二人で風呂など、最早そもそも本質的に何がいけないのかとっさに分からなくなるほど、問題がありすぎる。
「ま、まあ、お互い好きなわけですし、他の誰に迷惑をかけているのでもありませんから、ね。よ、よろしいのではないでしょうか」
しかし優は、とりあえず流してしまうことにした。あまりに危険なにおいがして、関わってはいけない気がする。
「は、はは。あ、ありがとうございます」
玲奈の返答も良く分からない。そして何とか平穏な形で話をまとめようとするうちに、無為に時間が流れていった。
「うらやましいです」
やがて優がぽつりともらす。基本的におっとりのんびりした玲奈であるが、このときばかりは引きつった笑顔を見せた。
「あ、焦ることはないと思いますよ。優さんまだ一年生なんですし」
言っている当人が焦っている。玲奈にとって、優は可愛い妹のような存在だ。見た目もまだ子供らしさを強く残している。
そもそも玲奈の場合、自分自身をさほど成熟しているとも考えておらず、運命の相手が早めに見つかったものだと感じている。だから自分よりもさらに若い優が、焦って行動して良い結果につながると保障することはできない。
しかし優にはそうは思えない。同じ高校生の玲奈がそうまでとなると、自分がずいぶん遅れているように思えた。それに彼女の相手は高校二年生、涼馬と同い年である。焦るなと言われても、焦る。
「あの、先輩。一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
「あ、はい」
正直な所これ以上の質問は避けたかった。いつまた自爆するとも分からないという自覚は、十分ある。しかしここで嫌と言えない彼女であった。優が普段の元気はどこへやら、またぽつりと聞いてくる。
「へ、変なことを考えてしまうって、変でしょうか」
玲奈は長いまつげを、何度かしばたかせた。さすがに意味が通っていないとの自覚はあったらしく、優はつけくわえるべく口を玲奈の耳元に近づける。元々声の届く距離に人はいないのだが、それでもそうしないと恥ずかしいらしい。玲奈は少しくすぐったがりなのだが、耳たぶに息が吹きかかるのを我慢した。
そして程なく、玲奈は先ほどの言葉の意味をきちんと理解した。そして一言、返答する。
「変では、ありません」
我ながらそれこそ「変な」やり取りだとは承知している。しかしそれでも、小さな声ながらはっきりと、言い切った。土台話の内容がある意味「変」なのだから仕方がない。言明するのもまた恥ずかしかったのだが、真剣に悩んでいる優のために、ここで迷いを見せることはできなかった。そしてさらに、続ける。
「優さんの体ももう、大人になりつつあるんですし。それで好きな人がいたら、そういうことも、おかしくはないと思いますよ」
相手の気遣いがわかる。だから優はうなずいたが、その声に力はなかった。
「ええ、でも、大人って言ってもわたし、胸ないですし」
小柄な体が更に縮こまる。どういうわけかしばしば肩こりになる玲奈としては、慎重な返答を迫られた。
「好きになったらそういうことは関係ないと思いますよ」
「そうでしょうか」
優の視線が、ブレザーを着てなおふっくらとした丸みを見せる部分に突き刺さる。その圧倒的な実力差の前には、一般論などまるで無力だった。
「男の人って、その、やっぱりスタイルの良い人が好きだって聞きます」
「さあ、どうなんでしょう」
今度は玲奈がしらばっくれる番だった。玲奈自身、男の人ってそうなのかもしれないなどと思っている部分がある。何しろいつか昭博の部屋で発見してしまったヌード雑誌の女性の胸は、とにかく大きかった。もっとも小さめの女性ばかり集めた本など、はっきり言えば少々マニアックなのだが、そこまでの事情は玲奈には分からない。
ともかく、その認識をはっきり口にしてしまうのは相手を傷つける可能性が極めて高い。この状況を打開すべく玲奈は、敢えて自ら地雷原に踏み込む決意をした。相手に致命傷を与えるくらいなら、自分が多少傷つくのもやむを得ないと思う。それにもう、恥かしいことをだいぶ話してしまった。その意味ではこわいものなしである。
「あの、優さん。最近になって思うようになったというか考えるようになったというか、とにかくそんなことがあるのですが」
「え、何でしょう」
今度は玲奈が耳打ちを始める。
「男の人って、いえ、少なくともそれが、優しい男の人であればの話ですけれど、大事なのは女性の外見よりも中身、と言いますか」
「はあ」
わざわざひそひそと話す必要もない、ありきたりの一般論のようだ。だから優は肩の力を抜いたのだが、それはこの場合早とちりに他ならなかった。そのままの態勢で、玲奈はさらに続ける。
「つ、つまりはその、どういう体質が良いかと、いいますと…」
「ぶっ!」
無防備な優の聴覚神経に、とんでもない内容が流れ込んで来た。とても昼の日中から、それもおしとやかで知られる女生徒が学校で話すような内容ではない。
しかしそう聞いてみると彼女の声のトーンは甘く優しく、ある種のつやっぽさが漂っているようでもある。耳たぶにかかる吐息も熱い。男がそんなささやきを受けたらもう、その瞬間にノックアウトだろうと思えるし、女の優でもおかしくなりそうだ。
「それで、そうでないとしてもこれは一般論と申しますか、なのですが…」
「は、はい」
しかもその話は、結構長時間に渡って続くのだった。腰が砕けてしまわないよう、優は逆に背筋をのばしてがちがちの状態で聞いている。
「と、私は思うんですよ」
そして最後に、玲奈は自分に実体験があるのかどうか微妙な結び方をした。
それまでの間に、優の顔は赤くなったりぱっと希望に満ちた明るい様子になったりと、忙しい。昼休みの中庭のことであるからそれを奇異に思う人間も結構いたのだが、しかしあからさまにひそひそ話をしている所へ正面から詮索にやってくる馬鹿も周辺にはいなかった。
「本当に、申し訳ありませんでした。変な相談をしてしまって」
一通り話が済むと、優は深々と頭を下げた。玲奈が身を切る思いで打ち明けてくれたであろうことがいくつもあったのだ。このことが昭博に知られでもしたら、かなり気を悪くするに違いない。それでも自分を思って話してくれた彼女に対して、感謝で一杯だった。
「いえ、いいんですよ。お役に立てれば。あ、それからもう一つ。いえ、一番大事なことがあります」
「はい」
相手があらたまっているので一瞬背筋を伸ばしかけてから、優はもう一度自分から耳を近づけた。念の入ったことに、玲奈はそこへ自分の手を添える。
「涼馬さんを信用していないということではないのですけれど、それでもものごとには万が一、ということがあります。そして予防というものは、万が一のことを考えて行うのが望ましいのです」
「は、はあ」
突如始まった初歩の危機管理論に対し、とりあえずあいまいな返事をするしかない。玲奈は一つ息をして、覚悟を決めたようだった。
「ですから、赤ちゃんができてしまわないような準備は、しておいた方がいいですよ」
そして元の姿勢に戻る。優は、体を微妙に傾けたままだった。
やってしまった。完全に固まってしまった後輩を見て、玲奈はそう思わずにいられなかった。次第に自分自身も恥ずかしくなってくる。ただ、「一緒にお風呂」までしておいて、いわゆる「身の危険」という奴を感じていないほどには、さすがの玲奈も能天気ではない。自分がうら若い女性であり、一方で相手が健康な男性であることは良く分かっている。もっとも、だから嫌いになるとか、そのような流れではないのだが。
ただ、そのままでいるうちに、今度は心配になってきてしまった。言ってはいけないことだったかもしれない。もしかしたらまだ体が子供を作れるまででき上がっていないのでは、などと余計なお世話以外の何ものでもないことまで考えてしまう。「はい。一応、万が一、念のため、気を、つけます」
唐突に、優が口を開いた。何よりまず自分の心配が杞憂であったらしいと分かって、玲奈はほっとする。しかしすぐに、さらに居心地が悪くなった。たった一瞬優が自分に向けた視線、それで十分だ。無論彼女も追及しては悪いと思っているので、すぐに目をそらしてくれる。ただ、そこから先が続かない。一体この状況からどう、話を変えれば良いというのか。
とうとう、ある意味、玲奈がキレた。少し苦笑した後で、それを限りなく優しく、穏やかな笑みに変え、語り始める。
「本当は私は、早く昭博さんの赤ちゃんが欲しいんです。もう半年もすれば卒業ですし」
「は? し、進学はなさらないんですか?」
その種の事柄について他人がとやかく言うべきではない、と優が認識したのは全て言い終えてしまった後だった。しかしそれでも、玲奈に気分を害した様子はない。ただ、そのままの表情で首をかしげる。少し色の淡い、つややかな髪が肩を流れた。むしろ彼女にとっては、それについて語ることそれ自体が何より喜ばしいのだ、と、優には感じられた。
「するつもりですけれど、大学なら休学しても問題が少ないと聞きますから。それに大学を出ても多分、すぐに家庭に入ります」
長い髪から、かすかにリンスの匂いがただよってくる。その様子に、優はぞくりと来た。男だったら抱きしめる衝動に駆られただろう。その香りに限らず、彼女の何気ないしぐさなど、存在を示すすべての兆しに対して。何となくそう思う。
昭博は一面では幸せ者だが、しかし実は彼も無意識のうちに玲奈に捕らえられているのではないかと、ふとそう思えた。しかしもちろん、それはここで言えるような話題ではない。自分から語る材料のない優は、黙って聞くしかないのだ。そして、玲奈はそれを、まるでごく些細な、あるいは当然のことであるかのようにつけ加えて言う。
「赤ちゃんができたら、昭博さんももう迷わないと思いますし」
彼女は幸せそうに自分の腹部を撫でている。しかしそこに、膨らむ兆候は微塵も見られなかった。あくまで細い、小柄で肉付きの薄い優でも感心してしまうようなウエストだ。もしあったとしても、自分はそれに気がついた瞬間以後敢えて見ないようにしただろう、優にはそう思える。
優は顔を引きつらせないよう苦労したあげく、失敗していた。もっとも玲奈本人はそれに全く気がついていない。確かに優も実際妊娠してしまえばなりふり構わないだろうが、それを相手に迫る手段として考えたことは一度もない。普通に考えれば危険が大き過ぎる。しかし玲奈は、その壁を意図すらせずに突き破っているのだ。
結局優は、そのまま昼休みを終えることとなった。そのままふらふらと教室に戻って、五時間目の授業を上の空で聞いていた。
五時間目後の休み時間、涼馬は優を訪ねていた。彼女の杞憂ではないかと思いつつも、やはり結果は気になる。報告は聞きたい所だった。
六時間目が教室移動であるらしく、テキストを抱えて出ようとしている一年生を捕まえて優を呼んでもらう。どこかふらりとした様子で、彼女はやってきた。
「どうだった、深澄音先輩は」
廊下の隅に連れ出して聞いて見るが、返答は実に彼女らしくないものだった。
「ええと、やっぱり私の勘違いだったみたいです。本当に、何と言うか、こう、幸せそうでした。リストの方が間違っているんだと思います」
歯切れも要領も悪く、視線が浮わついている。涼馬としては当然、具体的な説明を求める所だった。
「幸せそうって、どんな?」
「先輩もお弁当だったのですけれど、それはあの手塚さんが作ったものだそうで。嬉しそうに食べていましたよ」
「弁当を? うーん、そういう人だったのか。他には何か?」
「他には、その」
少なくとも、男性に向けて女性が話すことができるような情報が全くない。実の所玲奈は他のことに関しても触れていたのだが、もちろん過激な話題の方が印象に残る。
「特に、何でもありません」
説得力のかけらもない説明だ。涼馬は首を傾げたが、しかしそれ以上どう聞けば良いかも分からなかった。
「あ、ええと、授業があるので、これで失礼します」
そしてしばらくもしないうちに優が逃げるように立ち去ってしまう。とにかく、いたたまれなくなったのだ。
もちろんそんなことが涼馬に分かるはずもない。彼女をただ、見守るしかなかった。
続く