午後の恋人たち 新章

9 新たな日常


 空気が硝子のようだ。固く、冷たく、そして危うい。篭もった自分の呼吸音だけが、聴覚を支配する。格子状に区切られた狭い視界の先には、自分の喉元を狙う剣があった。
「一本目!」
 その声が、静寂を叩き壊す。正面から突っ込んできた相手を、涼馬は迎え撃った。
 剣道の授業、今日は試合形式である。相手は剣道部員の大隈、涼馬に匹敵する身長の持ち主で、腕力、持久力など基礎的な能力もほぼ拮抗している。
 しかし技量が違う。涼馬が剣道をやっているのは週一時間のこの授業だけだが、大隈の練習量はその何倍もある。この差が小さくないはずはなかった。これまで何度か対戦しているが、一本取ったことは何度かあるものの、複数本先取制の試合全体として勝ったことは一度もない。もっとも剣道部員以外で大隈から一本取ったことがあるのは、涼馬だけである。生徒会活動をしていなければ、剣道部に入るようしつこく勧められている所だ。
 大隈は猛然と打ちかかってくる。防戦一方になりながらも、涼馬は極力冷静になろうとした。こうやって追い詰めて、相手が焦って動きが荒くなった所へとどめの一撃を叩き込む、それが大隈のやり方だ。これまで何度か一本取れたのは、冷静に相手の動きを見切った時だけである。もっとも対戦成績が、頭で考えただけではうまく行かないことを無言で物語っている。大隈もそう簡単に隙を見せてはくれないのだ。
 しばらく撃ち合った末結局お互い有効打を打てずに後退する。しかし距離を取った所で、戦いが一段落する訳ではない。牽制と、そして気の張り合いが待っている。大隈は剣道部員に特有の、体格の割に高い声を発した。
「らぁらぁらぁらぁらぁ!」
「はっ!」
 気迫で負けないよう声を上げる。明らかに気迫負けしていると見られると、有効打を放ってもそれを一本として認められない場合がある。部外者には奇妙に思われるかもしれないが、それが剣道である。サッカーで手を使うのがいけなかったり、野球のボールはバットで打たなければならないのと同じだ。よくよく考えてみると、それ自体に理由はない。そうしなければならないと昔から決まっている、それだけのことだ。
「澤守先輩っ、頑張って!」
 不意にそんな声が響いた。女の子特有の高い声だ。剣道の授業は基本的に男子のみ、希望すれば女子も受けられるが、このクラスにそういう人はいなかった。声の主は入り口の所から剣道場をのぞきこみ、声援を送っている。
 小柄な体躯にこの高校の制服をまとった少女、おかっぱ頭が愛らしい生徒会の副会長藤野優だ。そこまで見て取って、涼馬は自分の失策に気がついた。

「面」
 その声とともに、涼馬の面が乾いた音を立てる。竹刀が見事に、直撃していた。しかし有段者らしい強烈な衝撃はない。声にも全く気合が入っていなかったし、どうやらかなり手加減したようだ。それは確かに、武道の心得のあるものとして、完全によそ見をしている人間を思い切りぶっ叩く気にはなれなかったのだろう。
「面あり、一本」
 それでも審判役の教師、剣道部の顧問でもある田中が呆れ声とともに宣告する。打突の威力、気合以前に、懲罰的な意味を込めたようだ。
「あっ」
 口を覆って、優が固まる。化学の実験を終わらせて課題を提出して教室に帰る途中に道場脇を通りがかり、涼馬の姿を見てつい声を上げてしまったのだ。しかし結果は、このていたらくである。
 しかし涼馬は怒りもせず、気にするなと身振りで示してから相手に向き直った。大隈は「おいおい」と目で言っている。
「二本目」
 教師も気の抜けた様子で、試合の再開を宣告した。その刹那だ。
「せやあああああっ!」
 強烈な気合とともに涼馬が突進する。踏み込みとかそういうレベルではなかった。不意をつかれつつも鍛え上げられた反射で大隈がそれを迎撃する。両者の竹刀がぶつかり合って高い音を立てた。
 しかしそれでも涼馬の勢いは止まらない。竹刀を絡め合うようにして、二人が接近する。通常の技を放って有効とされる間合いではない。後退しながら攻撃を叩き込む、引き技の間合いだ。相手が単純に突進しているため、大隈はそのまま退いて行けば攻撃圏に入ると判断した。
 そして…大隈の体は吹き飛ばされていた。防具も含めると八十キロに近いその体躯が、背中から剣道場の床に叩き付けられる。喉に突き刺さった竹刀が、上を向いて揺れいてた。
 沈黙が道場の床に降り積もる。その中で、田中教諭は大隈に歩み寄った。
「生きてるよな」
「何とか」
 喉に竹刀が刺さったまま、大隈が上体を起こす。見ていた他の生徒達がざわつく中、田中は涼馬の竹刀を引きぬいた。防具である面の中で、喉を守る部分と顔を守る金具の間に挟まって、刺さったように見えたのである。それをおもむろに涼馬に返しながら、口を開く。
「澤守」
「はい」
「竹刀離し、反則一回」
 淡々と宣告されて、涼馬は思わずうめいた。
「あ」
 剣道の試合では、竹刀を手から離したり、場外に出たりすると反則になる。反則二回で一本取られるのと同じ扱い、試合は通常の二本先取制であるから、既に一本取られている涼馬はもう一本取られるか、あるいはもう一回反則をするだけで負けになる。仕切りなどない場外に出ないように気をつけながら、自分より技量の勝る相手と試合をするのは非常に困難だ。ちなみに大隈は、倒されてから立ち上がるまで、一貫して、根性で竹刀を手放してはいない。
「大体あの至近距離で片手突きを出すなんて、普通じゃないぞ。牙突零式か? 声は出てないし、有効打突部位も外してるし」
 腕は確かだが、しかし妙な知識のある先生だ。接触の瞬間左手を離して小回りを良くし、右手だけで退こうとする相手の喉元に突きを叩き込んだ。涼馬のその攻撃を、彼はしっかりと見ていたのだ。大隈が吹き飛ばされたように見えたのは、後退しようとする自分の勢いに攻撃が加わってバランスが崩れたからであって、涼馬が怪力だからではない。
「いや、ちょっと」
 とっさにやってしまったことを、涼馬はごまかした。
「ま、いいが。今度からは気をつけろよ。大隈、行けるか」
「面が緩んでいるので、直させてください」
 強烈な衝撃で、大隈の防具があるべき場所から完全にずれていた。このままでは試合にならない。
「ああ」
 大隈が面を直すまで、試合は中断である。見守る生徒たちがざわつく中、涼馬は姿勢を正してそれを待った。優の事が気になったが、しかし振りかえりはしない。
「始め」
 準備が整った所で、田中が宣告した。再び緊張感が道場の空気を満たす。
「はぁあああああーーっ!」
「ふうっ」
 激しい相手の気合に対して、涼馬は短く息を吐いただけで済ませた。正直な所、打撃以外の際に声を張り上げるのはあまり好きではない。
「せやあっ!」
 先ほどの突きを無意識に警戒してか、大隈は遠い間合いからの攻撃を仕掛けてくる。風を切り唸りを上げる竹刀を、涼馬の竹刀が小さく、しかし鋭く払った。そして相手が防御に転じようとするのを全く考慮にいれず、全力でただ一箇所を狙って叩きつける。
「メーーーーーーンッ!」
 気合、剣運、体さばき、全てが完璧だった。竹刀が真上から吸い込まれるように、しかし恐ろしい勢いで大隈の面を捉える。乾いた、しかし重厚な音が道場に響き渡った。確信とともに、涼馬は大隈の脇を抜けて振り返り、構え直す。これも必要な形式だ。
「面あり、一本!」
 田中が宣告した。道場内が沸き返る。まだ試合が終わった訳ではない、涼馬の不利は変わらないが、それでも一本取り返したのだ。
「先輩!」
 優の声がする。明るく弾んだ、元気に満ち溢れた彼女らしい声だ。今度こそ涼馬が振り返ろうとした、その時だった。大隈が膝をついてそのまま崩れ落ちる。それでも竹刀は、握ったままだった。
「おいおい、どうやったら竹刀で人が倒れるんだよ」
「飯綱だ飯綱、纏飯綱だ」
 皆好き勝手な事を言いながら、涼馬は黙って、とりあえず大隈の介抱を始めるのだった。

 その日の放課後、涼馬と優は生徒会室で会っていた。まず優が心配そうに口を開く。
「先輩、あの方は大丈夫でしたか」
「大隈のこと? 彼なら次の授業には普通の顔をして出てきたよ。一度倒れているのに無理な運動をして、気を失っていただけだから。元来頑丈だしね」
「でも、気を悪くしたりしませんか?」
「武道家らしく良くできた人だからね。試合でやったことだから、一本とられた自分が悪いって、笑って言っていたよ」
「ならいいのですが」
 涼馬に不都合がなければ、実の所優としては全く問題を感じないのだった。表情を明るくして話をつないで行く。
「本当に凄かったです。後で聞いたのですけれど、大隅さんって剣道部でも一番強いそうじゃないですか。その人を圧倒していたんですから」
 剣道に関する知識はあまりない優だが、しかしあの動きが素晴らしいものであったこと説明されるまでもない。しかし涼馬は苦笑してかぶりを振った。
「半分はまぐれと勢いだよ」
「でも、もう半分があるのでしょう」
「うん。まあ、この前もうちょっと張り切れば良かったって言ったからね。だから今度は頑張ってみたよ」
 照れくさそうに、涼馬は視線を逸らした。優の大きく丸い目が、さらに見開かれる。確かに覚えている。以前優が涼馬のしている剣道の試合を見たことがあると告げた時に、彼はそれならもうちょっと張り切れば良かったと言った。その時は社交辞令かと思ったのだが、しかし今日現に、優の目の前で素晴らしい力を発揮している。
「あの、じゃあ、わたしが見ていたから…ですか」
「そうだね」
 返事まで、少し間があった。そしてそれに対する反応も、やや時間がかかっている。
「わたしのために?」
「うん」
 色白な涼馬の頬が、少し赤く染まっていた。かなり照れているらしい。優は自分の胸の高鳴りを押さえることができなかった。この人は自分に好意を持ってくれている、確かにそう思える。
「わたし、嬉しいです」
「そう」
 そっけない返答は、しかし余裕のなさの現れだった。自分の一方的な好意、張りきりに優が戸惑うのではないかと思っていた。しかし横目でちらりと見た彼女の顔は、言葉を全く裏切ることもなく嬉しさではちきれそうだった。それが、涼馬の平常心を完全に奪い去っている。この状態ならいっそこの場で自分の思いを打ち明けて、とそんなことを考えてしまう。
「あの、先輩?」
「ん、あ、何?」
 少し近づいて来た優に声をかけられて、涼馬は現実に戻って来た。極力平静を取り繕う。
「またちょっと、数学で分からなくなった事があるのですけれど、教えていただけませんか」
 可憐な口から発せられたのは味気ない話題、しかしそれは二人に異様な興奮をもたらしていた。いつの間にか優が不自然なほど接近している。息が吹きかかるような距離で、彼女はお願いをしているのだった。まるで恋人がおねだりをしているような…。
「うん、もちろん、喜んで」
 肯定的な返答が無意味に連続する。その成り行きで、二人は数学に取り組むことになった。好きな人がそばにいてくれる、その日常が続いて行く。そんな今の状況が嬉しいだけに、事態を急転させるおそれのある決断を下せずにいる二人だった。

 軽くステップを踏みながら床を掃き、それから拭き掃除に移る。生徒会室の掃除は自分の仕事だと、優は自負していた。決まりとしては常任の委員が持ち回りですることになっているのだが、しかし広くもない部屋の事だ。優が汚れたなと感じた際に一通りの作業をするだけで、全て済んでしまう。そのような仕事を引き受けるのは、基本的に苦痛とは感じない性格である。
「ふーんふーんふーん、ふふふふふふふふふん♪ ふふふふーんふーんふーん、ふふーふふふふふふーん♪ ふーんふーんふーん、ふふふふふふふふふん♪ ふふふふーんふーんふーん、ふふふふうーん♪」
 むしろ鼻歌混じりに楽しんでやっている。基本的に物が綺麗になるのは好きなのだ。それに最近は、ここで涼馬と会うことが多い。気合も入ろうかというものだ。そのために最近は、朝に掃除をするようにしている。
 そこへノックの音が響いた。少々乱暴だが、しかしすぐには入ってこない。生徒会の人間ではないようだ。
「はい」
 扉を開けると、立っていたのは生徒会担当の教師だった。担当教科は体育、主に柔道、それらしいずんぐりした体躯の人である。
「藤野か。朝から掃除とは、熱心だな」
「いえ、私は好きでやっていますから」
 どうやら鼻歌は聞かれていないらしい。優は内心ほっとした。音痴のつもりはないが、しかし聞かれるのはやはり恥ずかしいものだ。
「それより先生こそ、朝からどうなさったんですか」
「ああ、これを返すのを忘れててな」
 太い手に、黒いファイルが収まっている。優には見覚えのないものだった。
「とりあえずそれがなくて困った覚えはありません。そう急がなくても良かったのではありませんか」
「いや、それがなあ。半年ばかり持ち出しっぱなしで、この前教頭からとがめられたんだ。管理がなっていないって。だからまあ、あの人に見つからない内に返しておこうとそういう訳だ。黙っててくれよ」
「はあ」
「それじゃ。この現場を押さえられてもまずいからな」
 教師は自分の言う通り、さっさと立ち去ってしまった。それが何のファイルかも、教えてくれていない。外面にはそれらしい表示もなかった。
「何だろう」
 せっかく掃除をしているのに、そのあたりに物を放り出すのは不本意だ。とりあえず整理して片付けるために、優は中身を確認した。
 内側にも題は見られない。ただ、高校生らしい人間の写真と、その他履歴らしいものが並んでいる。どうやらプライバシー侵害になるようだが、好奇心もあって優は記述の確認を始めた。
「万引き、恐喝、暴行…ブラックリストじゃない、これ」
 確かに外側のファイルも黒い。いわゆる非行少年の資料を集めたものだ。その容姿は様々で、気合を入れて髪を染めている者もいれば、一見お坊ちゃん風の者もいる。男女比も一対一に近い。さすがに暴行とか恐喝とか、そういった前歴を有している女子はほとんどいないが、それでもいるにはいる。最近はそんなものなのだな、と、優は妙に感心してしまった。
 前科、補導歴等はその人間にとって通常最も知られたくない秘密の一つだ。つまりプライバシーの中でも重大な部類に入る。これは憲法が保証する、法律の保護に値する権利であると最高裁判所が認めてもいる。それを思いきり、優は侵害しつつあった。秘密にされると知りたくなるのも、人情である。
「ふうん、なるほど。つまりこの学校の周りの危険人物リストって訳ね、これは」
 良く見ると、ファイリングされている人物のほとんどの在籍高校あるいは住所が、北条坂高校周辺のものであった。そこからの結論である。結論を得てなお、更に読み込んでしまう優だった。当初の目的は完全に吹き飛んでいる。
「わ、これは凄いわ。特殊警棒を用いた傷害、全治三箇月一名、一箇月六名、他負傷者多数。で、逮捕されてないし。大庭工業高校裏番?」
 中でもひときわ凄まじい経歴を持っている人間があった。他は大概暴力事件に関してもいわゆるオヤジ狩り、袋叩きなどの群れた犯行なのだが、この人物だけは単独で、しかも複数の人間に重傷を負わせている。しかも何を目的に凶行に及んだのか、その記述も欠けている。まるで暴力そのものが目的のようだ。危険過ぎる。
「名前は、手塚昭博。継谷高校。写真は普通っぽいのにねぇ。あれ?」
 思考がつながるのに、三秒を要した。
「あーっ!」
 ファイルを抱えて、鍵をかけるのも忘れて、優は生徒会室を飛び出した。
「藤野さん、どうしたの?」
 そう声をかけられるまでほとんど時間が経過していない。涼馬の教室である。
「先輩、ちょっと」
「うん」
 涼馬も優が、下らない用事で二年の教室に駆け込んでくるような人物でないことは十分に承知している。しかしさすがに不審がりながら、引きずられるように廊下に出た。
「先輩、これ見て下さい」
「ブラックリストか。あの先生、ようやく返してくれたんだな。これがどうかした?」
「この人ですよ、この人」
「手塚昭博。彼か」
 存在は知っていたが、しかし内容を詳しく見ることもなかったものだ。北条坂の生徒が他校の生徒といざこざを起こしたり、あるいは事件に巻き込まれたりすることはあまりない。この前の昭博本人と玲奈様ファンクラブとの一件は、極めて例外的なものである。だからあまり必要を感じていなかったのだ。
 しかし涼馬としては、先日の昭博の様子を見ているだけに、まさかというよりやはりという気がする。そのくらいやりかねない人間だ。空手部の渡辺、志木はそれぞれ全治一箇月以上の重傷を負っている。診察した宍戸医師は、転倒による負傷などとカルテに記していた。
「まずいと思いませんか、深澄音先輩、こんな人とつきあってるんですよ。しかもあんなに信頼し切って」
 優が力説する。しかし涼馬は慎重だった。
「うん、でもどうだろう。あの人もそれは納得づくなのかもしれないよ。確かにちょっと普通と違う所があるけれど、でも頭の悪い人では絶対にないし」
 先日暴行の様子と、直後の恋人を気遣う様子を見ている。一概に危険であると、断定する事はできなかった。
「先輩、恋は盲目なんですよ。こういう時は周りの人間がしっかりしないと」
 説得力がないようなあるような言いようである。迷っている涼馬は押し負けてしまった。
「そうだけど」
「わたし、深澄音先輩に確かめて来ます」
「藤野さん、ちょっと待って。微妙な問題だから慎重に、他の人に知られないようにね。今から行ったんじゃ不自然だよ。昼休みにでもしないと怪しまれる」
 優はもどかしそうな顔をしたが、しかし結局うなずいた。
「分かりました」
「そろそろ授業が始まるよ。教室に戻った方がいいね」
「はい。それでは失礼します」
 必要以上の急ぎ足で立ち去る少女の後姿に、涼馬はつぶやいた。
「深澄音先輩ばかりが盲目とも言えないけど。僕も動いた方がいいかな」
 もう一度昭博に会った方がいいかもしれない。そうも思えるのだった。

続く


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