午後の恋人たち 新章

12 小休止なある日


 深まる秋もここの所やや足踏みしているような、妙に温かい午後だった。放課後を迎えた高校の廊下を、優は友人達と一緒に出口へ向けて歩いていた。今日は生徒会室には行かない。優自身時間がないのではないのだが、何かの用事があるとかで涼馬が会室に姿を現さない日なのだ。あまり中で仕事をしてしまうと涼馬と一緒になったときにすることがなくなってしまい、間が悪くなることがある。それを避けるためだった。話をするために通ってはいるのだが、微妙な所だ。
 雑談に笑いさざめきながら歩いていると、前方から大きな荷物を抱えた男子生徒が歩いてくるのに目が止まった。大小のダンボール箱を重ねていて、視点の低い優からはその顔は見えない。しかし彼女には、それが誰なのかすぐに分かった。身長と手足の長さは見える。それで十分だ。あれだけ足の長い人はこの学校には一人しかいないと、優は確信している。
「澤守先輩、その荷物は?」
 友人達をうっちゃって駆け寄ると、それはやはり涼馬だった。
「ああ、藤野さんか。資料室まで持っていくように先生に頼まれたんだ」
「手伝います」
「僕一人でも大丈夫だよ。藤野さんは友達と一緒なんだし」
「あ、じゃあみんな、わたしはここで」
 とっさにそう言うと、友人たちの反応も早かった。
「あ、そう。じゃーねー」
「がんばってー」
「また明日ね」
 むしろ歩みを速めて立ち去ってしまう。どうやら気を効かせてくれたらしかった。
「はい、手伝います」
「うん。じゃあ、この上の奴を。実は前が見づらくて困ってたんだ」
 遠慮しつつも嬉しそうに、涼馬は答えた。とりあえず優は、涼馬が示したダンボールを取り上げる。しかしそれはずいぶんと軽い。おまけのようなもので、涼馬が持っている物の方がはるかに大きく、重そうだ。
「先輩、重いですよね」
「重いけど、これを藤野さんに持たせるわけには行かないし」
 合気道をしているため幼い外見ほどか弱くはない優であるが、これは筋力を鍛える類の武道ではないので、男勝りにたくましくはない。体格による制限の範囲内である。涼馬でも重いと言うような荷物を持とうとするのは、無謀だ。そもそもダンボールに回すだけの手の長さが不足しているかもしれない。
 涼馬がそのまま歩き出したので、優もそれについて行った。資料室は生徒会室の隣である。長く持っているとまず腕が疲れてしまうため、涼馬の歩みは普段よりむしろ速い。優がついて行くには、小走りでなければならなかった。並んで歩く場合には、涼馬がずいぶんペースを落としているのだと思い知らされる。
 それでもなんとか作業を終えて、二人は生徒会室で一休みした。資料室には椅子がないうえに埃っぽく、休むに休めないためである。生徒会室なら優がこまめに掃除をするので、基本的に快適だ。
「ふう。さすがにちょっと疲れたね」
 秋にしては温かい事もあって、軽くであったが涼馬の額には汗が浮かんでいる。優はポケットからハンカチを取り出した。レモンイエローの生地に控えめながらフリルのついた、女の子らしい物だ。
「先輩、汗を拭いて下さい」
「あ。い、いや、いいよ。ハンカチ、持ってるから。藤野さんのを汚す訳に行かないし」
 少しどぎまぎとしながら、涼馬は自分のハンカチを取り出した。ダークブルーにワインレッドのライン、十代半ばの少年が使うにしては少し落ちついたデザインである。
「そうですか」
 残念そうにしながら、優が自分のハンカチをしまう。緊張感をはらみながらどこか甘い、奇妙な空気が流れていた。
「あ、先輩。今日は用事はよろしいのですか」
 しかしそれに耐え切れなくなって、優が話題を振る。涼馬は腕時計を見て眉を上げた。
「時間があると思って引き受けたけど、そろそろ行かなくちゃ駄目だね。手伝ってくれてありがとう」
 涼馬が一つ息をしてから立ち上がる。優は別れの挨拶をしかけたが、ふと涼馬が鞄を持っていないことに気がついた。普通は持って帰るはずだ。
「先輩、鞄は?」
「あ、職員室だ。それじゃあ」
「お疲れ様です」
 駆け出す涼馬を、優はそう言って見送った。そして何となく生徒会室を見渡すと、机の端にハンカチが置かれたままであることに気がついた。当然ポケットにしまった自分の物ではない。
「あ、先輩ハンカチ忘れてる」
 さすがに涼馬も慌てていて注意が散漫になっていたらしい。それに気がついて、優は何故か嬉しくなった。半ば無意識に手が動いてハンカチを取り上げる。材質は手触りから判断して綿、気取らない涼馬らしい小物だ。
「どうしようかなぁ」
 広げて見ながら思案する。もとの場所に置いておけば明日にでも涼馬が回収するだろうが、そんなもったいない行動は絶対に却下だ。手渡しで返してあげて、自分をアピールするべきである。はいと言ってハンカチを渡すと涼馬は自分の気遣いに笑顔で応えて、その時にちょっと手が触れ合ったりしてお互いどきどきして、と想像がどんどん膨らんで行く。


 今から走って行って追いかけるとなると、全力疾走しなければならない。涼馬は相当急いでいたから、優の足で追いつくのはひと苦労だ。それにそこまで気合を入れて返しに行くほどの物でもないだろう。家に帰り着けば別に必要ないのだから。むしろ不自然な気がする。
 ならば、明日会った時に返せば良い。きちんと洗濯をしてアイロンをかければついでに女の子らしい側面まで見せることができてなお良しだ。それに、それまで涼馬のハンカチを自分の手元に置いておける。
「ふふっ」
 小さな布を抱くようにしながら、優は笑みをこぼした。彼自身を、抱きしめているような気がする。そうしていると次第に、精神的が高揚し始めた。
「匂い、かいじゃおっかな」
 考える前に言葉が口をついて出て、そして聴覚を通すことによって改めて自分の言った意味に気がつく。その瞬間、優は勢いよく首を振った。黒髪がぱたぱたとすべらかな頬を打つ。
「だっ、ダメよそんなの、変態みたいじゃない!」
 まあ、そう考えればそうかもしれない。しかし気になる相手のことをいろいろな面から深く知りたいと思うのは、人間としては当然の欲求でもある。それを否定することもできず、優はハンカチを手放さなかった。しっかりとそれを握り締めたまま、ほとんど睨みつけるようにする。そして彼女の視界はゆっくりと、しかし確実にぐるぐると回り始めた。
 表面的な沈黙と停滞は、数秒だったかもしれないし、あるいは十数分に及んだのかもしれない。とりあえず、日が暮れなかったことだけは確かである。優自身にはその間の時間の感覚が失われているので、よく分からない。
「えい」
 そしてその時何が起こったかは、当然ながら彼女自身しか知らない。そしてそれを、以後誰にも言わなかった。しかし少なくとも、彼女がこの日以来涼馬を嫌いになりはしなかったことだけは、確かである。

 翌日、最後の授業を終えると優は生徒会室に駆け込んでいた。どうしても落ちつかない。主観的には一時間以上待った所で、ようやく涼馬が顔を見せた。二人とも最近ここに来る回数が増えているのだが、本人達にその自覚はない。
「さ、澤守先輩!」
 いきなり大声を上げてしまう。これにはさすがの涼馬も目を丸くした。
「はい?」
「こ、これ、お忘れです」
 丁寧に手洗いしてからアイロンをかけた綺麗なハンカチ、それが勢い良く突き出される。驚いたまま、涼馬はとりあえず受け取った。
「あ、ありがとう」
「それじゃ、失礼します!」
 脇に置いた鞄をつかんで走り出す。動体視力に優れた涼馬も、彼女の顔が真っ赤になっているのを見取るのが精一杯だった。後は呆然と見送るしかない。
「急いでるのに待っててくれた、のかな?」
 やがてぽつりとつぶやく。状況だけを考えればそうなのだが、しかし直感的に違う。ただ、考えても答えが出そうになかった。
「あ、洗濯してくれたんだ」
 ふと手元のハンカチに目が行く。幾何学的なまでに綺麗に折りたたまれたハンカチが、何となく感動的だった。涼馬の母親もいつもきちんとアイロンを当てたものを持たせてくれるのだが、しかしありがたみが違う。本来自分のものであるにもかかわらず、涼馬は思わずそれを顔に近づけてしまった。
「ん。石鹸かな、これ」
 洗剤とは違う気がする。普段の優と、同じ匂いであるような気がした。
「あ、ええと。何をやっているんだろう」
 色白な顔を赤らめながら、あわててポケットにそのハンカチを押し込む。とりあえず落ち着くまで、しばらく時間を置いてから部屋を出た方が良さそうだ。
「まったく」
 しかしとりあえず暇になったので、意味のないことを言いながら何となく部屋を見渡す。そこでふと、机の上に学校指定のスポーツバッグが置かれていることに気がついた。と、言うより、そこまで堂々と置かれている物に今まで気がつかなかった方がどうかしているのだが。
「藤野さんの、だな」
 記名欄にしっかりと、見やすい字で書いてある。中身はほぼ間違いなく、体操服だ。
「あれだけ慌ててたから、忘れちゃったんだな」
 苦笑しながらそれを持ち上げる。今から追いかければ間に合うかもしれない。そう考えながらもふと、涼馬の目線はそのファスナーに向かってしまった。正直な話、バッグの中身に興味はある。
「あー、いかんいかん」
 普段まず使わないような言葉とともに首を振る。このままじっとしていては誘惑に負けそうになると判断して、すぐに部屋の外に出た。
「あれ? 今日体育なんてありましたっけ」
 突然声をかけられて、正直な所少しぎくりとする。出くわしたのは、岸宣だった。この男は暇だと、何か面白いものはないかと学校内外の色々な所を徘徊するので、どこにいてもそれ自体は不思議ではない。彼は涼馬のもっているスポーツバッグを見とがめたようだった。クラスが違っていても学年が同じだと、体育などの移動を伴う授業があるかどうかは大体分かる。
「ああ、うん。ちょっとね」
 優の名前が書かれた部分を示すと、岸宣は首をかしげた。
「忘れ物を届けに行くんですか」
「そうだけど、何か」
「小さな親切大きなお世話、ということもありますよ」
「そうかな」
 時にはっきりとした物言いをする人間だと分かっているので、聞きようによってはきつい言い方をされても涼馬は特に気分を害したりはしない。単純に、疑問だったので聞き返しただけだ。
「だってそれ、体操服でしょう? 肌着に近いものですし、そういう衣類を男の手から渡されるって、女の子としては恥ずかしいんじゃないですかね」
 岸宣は岸宣で淡々と説明する。忠告しているのも、そもそも善意があればこそだ。涼馬はちょっと、ため息をついた。なんだかんだといっても岸宣はよく気がつく。それにひきかえ自分は、と思ってしまう。
「そう、かもね。見なかったことにして元に戻しておいた方が無難かな」
「下着の色やその下の色まで知っているような間柄なら、話は別ですが」
「知らないよ」
 ここは忠告に従ったほうが良さそうだ。涼馬はきびすを返したが、当然のような顔をして岸宣がついてくる。とりあえず面白いものを見つけたと思っているらしい。
「それにしても。藤野さんのブルマカッコ使用済みカッコ閉じ、ですか」
「活字表現を口語で使わないように」
 あからさまに気分を害した涼馬に、岸宣は肩をすくめて見せた。
「あれ? 何やら誤解されているみたいですね。少なくとも私は、衣類単体に欲情したりしません。脱がすあるいは着せたままの対象とセットになってこその、衣装ですよ」
「それで?」
 相手の感情表現を完全に無視して、岸宣は続ける。
「でも、市場価値には興味があります。きょうびブルマというだけでも貴重ですよ。その上サイズちっちゃめが、マニア心をくすぐること間違いなしの逸品です。販売ルートは私が確保しますから、利益を折半しませんか?」
「君にしては計画が粗雑だよ。会室で物がなくなったりしたら、真っ先に疑われるのが僕じゃないか」
 生徒会室の鍵を取り出して見せる。生徒でこれを持っているのは涼馬と優だけだ。もちろんこれは別に本気なのではなく、真面目に相手をしても疲れると考えているだけである。
「普通はね。しかし涼馬ならまず大丈夫です。寄せられる信頼を逆手に取った、遠大な計画ですよ」
「ああそう」
 優のスポーツバッグを元の位置に戻し、部屋の鍵を閉める。シリンダー錠なのでピッキングには弱いが、ともかくそのような違法行為に出ない限り、これで中のものを取れる人間はほぼ限られるはずだ。
「まあ、別にいいですけど。藤野さんに頼らなくてもね。正直な話涼馬の体操服の方が、この学校の中では商品価値は高いですし、販路も確保しやすい」
 実際衣類そのものに執着はなさそうな様子で、岸宣は値踏みをする。涼馬は苦笑を返した。
「イヌイットにロックアイスを売ってこそ真のビジネスだって、君は言っていなかったっけ」
 イヌイット、とはアラスカなどアメリカ大陸の北極地方に住む民族である。昔は「エスキモー」などと言ったものだが、これは差別用語であるとして現在公式には用いられない。
 ともかく、この男なら舌先三寸で何でも商品にしてしまいそうだ。もっとも、実は家がそれなりに裕福なので、現にやりはしないだろうが。今商売を云々しているのも、ある種のゲームとして楽しんでいるに過ぎない。
「ああ、ですからこれこそ真のビジネスですよ。購買に行けば新品を安価に手に入れられるこの学校の生徒に対して、物質的にはほぼ同じ、むしろ中古のものを高値で売る。大事なのは付加価値です。まあ、それを理解してもらうためのセールストークも時には必要ですが」
 ちなみにイヌイットにロックアイスを売りたいのなら、全地球規模の環境汚染、特に海洋、河川の汚染に関して注意を喚起した上で、そのおそれの少ない高山の水系から取ったミネラルウォーターで作った氷を商品にすると良い、というのが岸宣の主張である。その他販売戦略は色々あるようだが、涼馬は聞いていなかった。
「まあ、頑張って。それじゃあね」
「はい。ではまた明日」
 にこやかに手を振って、岸宣は涼馬を見送った。そしてその背の高い姿が見えなくなってからつぶやく。
「あそこまで言っているんですから、いい加減気づいても良さそうなものですけれどねえ。ま、もてるのを鼻にかけたりしないのが美点といえば美点ですか」
 口に手を当てて、くすりと笑う。その彼に、背後から一人の少年が近づいていた。それが誰かを確認する必要もなく、岸宣は口を開いた。
「首尾はどうです?」
「上々ですよ」
 そう言いながら、新たに現れた少年はデジタルカメラを見せた。手馴れた様子で操作して、撮影データを表示させる。それは、先ほどまでの涼馬の表情をとらえたものだった。全てベストショットとまでは行かないが、しかし本人に気づかれていないことを考えれば上出来というべきだろう。
「また腕を上げましたね」
「いえいえ、先輩の誘導がうまいんですよ」
「思えば長いつきあいですからねぇ」
 涼馬を隠し撮りしたものを売りさばく、それがこの二人の言わばアルバイトだった。顧客は無論、涼馬ファンの女子生徒である。ただし涼馬本人にばれる危険性が高いので、優など彼と親しい人間はその中には含まれていない。
 他にも似たようなことをして、個人的に楽しんでいる人間はいるようだ。しかしそうやって得られるのは大概、穏やかな笑みばかりである。しかし岸宣が関わると多彩な表情を引き出せるため、人気が高い。今こうして遭遇したのも偶然ではなく、実は必然なのである。
 ただ、涼馬も知っている通り、岸宣は金銭にはさほど執着していない。いつばれるかというスリル、そしてばれたときに起こるであろう危機を乗り切るスリル、それが楽しくてやっているだけなのだ。だから気が向いたときにしかやらない。もっともそれが希少価値を生み、涼馬人気を煽っている側面があるとも、知らないではない岸宣だった。
「それでは、後のことはいつも通りに」
「分かりました」
 写真担当の彼が画像を処理して見本を作製した後、営業担当兼任の岸宣がそれを宣伝する。それが作業の基本的なパターンだ。宣伝には電子メールも用いるため、オリジナルの情報を扱いやすいデジタルカメラの方が便利である。やるからには徹底的に、それが彼のポリシーだ。
 まあ、彼は彼で優という本命の相手と少しずつながらも仲良くなっているようだ。自覚はないようだが、二人でいる時間が以前より確実に増えている。このまま行けば、そのうち本人たちを含めて誰もが認める恋人同士になるだろう。だからそれまでに涼馬ファンにささやかな幸せを振りまいても、ばちは当たるまい。そんな理由をつけて、岸宣は自己正当化をしている。
 当事者たちよりもはるかに、この件に関しては見通しの効いている岸宣である。しかし彼とても神ならぬ身である以上、二人の行く手にまた新たな障害が待ち受けていることは知る由もなかった。
 しかしさておき、今日も本人のあずかり知らぬところで、涼馬の写真が飛ぶように売れてゆくのであった。

続く


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