午後の恋人たち 新章

13 もつれる感情


 味噌汁の豊かな香りが嗅覚をくすぐり、健康な少年の食欲を刺激する。具は豆腐とねぎがいいな、と涼馬は思いながらダイニングに入った。キッチンには母親の理沙子が立ち、父親辰馬は既に席についている。いつも通りの朝の光景だ。
 学問における専門は理沙子が英文学、辰馬が日本史なのだが、料理の趣味は逆であったりする。理沙子が和食系、辰馬が洋食系を作ることが多い。辰馬曰くいくら和食が好きでも食べ飽きると辛い、理沙子曰くイングランドに長期滞在するからには現地の人間を当てにしない方が良い、とのことである。
 平和な朝の光景だ。とりあえずニュースでも見ようかと、涼馬はテレビのリモコンに手を伸ばした。実は涼馬も新聞を読みたいのだが、辰馬が握っているからにはしばらく諦めなければならない。隅から隅まで実に丁寧に読む。専門ないしそれに関連する記事を切り抜くなどは当たり前、何の興味があるのか、若い女性のファッションについての記事にもしっかり目を通しているようだ。基本的に情報に関して貪欲な人である。
「涼馬、ちょっと」
「うん?」
 その父親が、今日に限って新聞から目を話して声をかけてきた。それだけでも疑問に思う所へ、辰馬は更に開いたままの新聞を涼馬に手渡す。嫌な予感を覚えながら、涼馬は目を通した。いわゆる三面である。
 それは小さな記事だった。四コマ漫画の下、余ったようなスペースに短い文面が記されている。普通であれば見過ごしてしまうようなものに、しかし視線を釘づけにせざるをえなかった。
「以前から痴漢が出没する北条坂高校周辺であったが犯人は一向に逮捕されず、警察の捜査能力ないし意欲に疑問がもたれており…」
「とうとう新聞沙汰になっちゃった、か」
 噂は以前からあった。しかし具体的に犯人が特定された訳でもないので、学校や生徒会としては注意を喚起するなどの穏当な対応に終始していた。しかし小さな記事とはいえ全国紙で報道されたとなると、騒ぎが大きくなる。
「こうなるとOB会も騒がしくなる」
 辰馬が溜息をつく理由を、涼馬は察していた。
「父さん今何の役員だったっけ」
「この前副会長にさせられてしまった。会長は勤め先の相談役も退いてもう何年にもなるご老体だから、校長や理事長と交渉するとなると私の仕事になってしまう。教授なんて名前だけ立派で余計な仕事を押しつけられる、割に合わんな」
「それよりPTAが大変よ。OB会なんて直接の影響はないけれど、娘を持つ親だったら一大事だわ」
「母さんも役員だったよね」
「婦人部代表。うるさく言うのは母親の方が圧倒的に多いから、苦情は全部こっちもちね」
 大学教授も色々と大変らしい。しかし今の涼馬にとって、それはどうでも良いことだった。
「あまり上の方で騒がれると生徒としては困るよ。まあ学校が休みにでもなれば喜ぶ人も少なくないだろうけど。できるだけ抑えるようにしてくれないかな」
「それは私だってヒステリックに騒ぎ立てるつもりはないけれど、放置していいなんて思ってないからね」
「いくら頼りないと言っても、これは警察の仕事だよ。僕等が変に動いて警察ともめたりしたら、もっとややこしくなる」
「しかし警察も批判されてはいそうですかと捜査体制を整えられれば苦労はないだろう」
 両親から言われて、涼馬としても考え込まざるをえなかった。痴漢はもちろん許せない。目の前にいるのなら迷わず警察に突き出している。しかし下手に生徒会長である自分が動いて、不安が増大でもすれば却ってまずい。
「むずかしく考えなくていいわよ。まだ高校生なんだから。まずあなた個人が何をすべきか考えて。ややこしくなったら、それはもう私達が何とかするから。私達はあなたの判断を信頼しているから、この際地位でもなんでも利用してやるわよ」
 理沙子がそんなことを言う。けしかけられているとしか感じられず、涼馬はむしろ慎重になった。
「母さん」
「同じ学校の女の子が、それも大勢困っているのよ。それを見捨てるような薄情な息子を、私は育てたつもりはないけれど」
 反論は許されていないらしい。涼馬は表情を改めた。
「じゃあ、とりあえず一つお願いがあるんだけど」
「うんうん。何でも言ってちょうだい」
「味噌汁を沸騰させるのは止めてくれるかな」
「え? あ? ああああぁっ!」
 こうなると既に味噌の風味も出汁の旨みもきれいに吹き飛んでいる。結局涼馬はまずい味噌汁を黙って飲んでから自宅を後にした。

 普段よりやや早足で学校まで歩き、教室に向かう。そして目的地に着く直前で、呼び止められた。
「涼馬」
 眼鏡をかけた中背の少年、岸宣が立っている。その背後には、剣道部の大隈が大柄な体躯をたたずませていた。
「おはよう」
 この二人が顔をそろえている時点で、涼馬は用件を察した。二人とも涼馬とは親しいが、お互い同士は面識がある程度のはずだ。偶然以外の理由でこの二人が一緒にいたのを、今の所見た覚えがない。
「おはようございます」
「おはよう」
「今朝の新聞のこと?」
「ええ。少し時間をいいですか」
「うん。とりあえず始業までなら」
 涼馬の主導で、三人は資料室の前までやってきた。人通りのない場所でしかも見通しが利く。いつもの手軽な密談場所である。
「まず言っておくけれど、僕としては騒ぎを起こすのはどうかと思っている」
「もう十分に大騒ぎですよ。これ以上手をこまねいているのは得策ではありません」
 釘をさそうとした涼馬に、岸宣がすかさず反論する。仕方なく、涼馬は大隈の方を見やった。
「君も同意見なんだね」
「ああ」
「これは学生の総意ですよ」
 岸宣は力説するが、涼馬として全面的には信用できない。この少年は騒ぎの中心にいたがる癖がある。ただ、口数こそ少ないものの、大隈は本気であろう。軽々しく動くような人間ではない。
「それで、何かの手を打つとしたら、どうするつもりなんだ」
「話は簡単です。相手は単独犯のようですし、私達の手で取り押さえて警察に突き出してしまいますよ」
「危険が大きい。怪我人でも出したらどうするつもりだ」
「出さないように最大限努力しますよ。必要なら大隈さんの他にも武術の心得のある人に何人か声をかけますし」
「駄目だ、と言ってもやる気だな」
「ええまあ。とりあえず止めてくれなければ文句はつけません。もちろん協力して欲しいんですけれど」
 涼馬はもう一度、二人を眺め渡した。外には痴漢、内部では学生同士の対立、とでもなれば事態の収拾がつかない。大隈も岸宣も、それぞれ体育会系と文科系の学生に一定の影響力を持っている。
 それに本来、涼馬としても二人に心情的に反発しているのではなかった。実は岸宣や大隈以上に、真っ先に行動する性格である。しかし生徒会長の立場上、二人よりも慎重にならざるを得なかったのだ。状況がこうなれば対応は決まりである。
「分かった。協力しよう」
「ありがとうございます」
「澤守がついてくれるなら安心だ」
「ただ、僕個人としては協力するけれど、生徒会を動かすつもりはないからね」
 そこまでしてしまうと問題がおきたときにただでは済まなくなる。それが涼馬としてのけじめのつけ方だった。しかし岸宣が微妙な表情を作る。
「全員に協力してもらう必要はありませんが」
「何?」
「できれば藤野さんにも力を貸してもらえないか、と思っているのですよ」
「確かに彼女も武道の有段者だけれど、女の子の力を借りなくてもいいんじゃないか」
 ほとんど反射的に、涼馬が反論する。岸宣は苦笑して自分の考えを述べた。
「そういう古いフェミニズムも、私は嫌いではありませんけれどね。魚をとる方法は大体二つ、網を張るか一本釣りか。大掛かりに網を張ると警察や学校、そもそも相手に察知されかねませんから、ここは餌を使って釣り上げたい所なんですが」
「囮か」
 くっきりとした形の良い眉がひそめられる。岸宣は小さくうなずいた。
「女子柔道部や空手部で、しかも一定以上の技量の人は『いかにも』な感じですから向こうも近づいては来ないでしょう。その点藤野さんなら、と思ったんですよ。涼馬から彼女に口をきいてもらえませんか」
 言い終わらないうちに、彼は前言を翻すことにしたようだ。極めてあっさりと引き下がる。涼馬の顔色を見たらしいが、そもそも駄目で元々、のつもりでいたのだろう。
「いや、やっぱりナシにします。彩亜を使いましょう」
「彼女か」
 涼馬はそう答えたが、その名前に心当たりのない大隈が首をかしげる。涼馬は軽く説明した。
「岸宣の知人で、相当腕が立つ。君も素手ではかなわないだろう」
「ほう」
 大隈は素直にうなずいたが、どうやら「知人」が「男女交際の相手」を意味していることは察したようだ。気を使いすぎるのを、岸宣はくすくすと笑って眺めている。本人としては特に、少なくともその事実を隠す必要を感じていないのだ。何が笑われているのは分かったが、涼馬はひとまずそれを無視して向き直る。
「しかし岸宣、君はそれでいいのか」
「何がです?」
「彼女ならまず心配はないと思うが、それでも危険が全くないとはいい切れないんだぞ」
「そんなこと、私の決める問題じゃないですよ。彼女が危険と判断すれば自分で話を断ればいい。乗って来たのならその後は彼女の責任です。私は別に、彼女の保護者じゃありませんし」
 彼にしては珍しく、少し首をかしげてから続けた。
「先輩でもありませんからね」
「そう、か」
 これ自分が言えることもない。涼馬は頭を切り替えた。
「それなら話を進めよう。あまり人数を増やすと学校側に勘付かれる。とりあえず参加するのはこの三人と彼女、それから、もう一人かな」
「もう一人? 彩亜一人でも大概の相手は何とかしますし、我々もついていますが」
「四人なら二人組を二組作れる。単独行動は危険だよ」
 不測の事態に対応するには複数行動が望ましい。例えば警官など、事件現場では原則として最低でも二人以上で行動をする。四人なら、二人組が相互に支援できるチームを作れるのだ。
「なるほど、誰にします?」
「剣道部の人間で良ければ引っ張ってくるが」
「この際校外の人間がいいだろう。その方が足がつきにくい。僕に一人心当たりがあるから、任せてくれないか」
「ええ、涼馬がそう言うのでしたら」
 むしろ犯罪者的な思考に、岸宣は満足したようだった。とりあえず合理性があることは確かなので、大隈も反論はしない。
「そうだな」
 そして結局始業時間のぎりぎりまで、三人で話をする事となった。

 やや安定しない雰囲気の中で、それでも授業は行われて行く。一通り午前中の授業を消化して昼休みを迎えると、涼馬は同時に客を迎えることとなった。
 本日三人目の客は、わずかに息を荒くして頬を紅潮させていた。どうやら自分の教室からこの教室のすぐ手前まで走ってきたらしい。藤野優である。
「先輩、お話が」
「場所を変えよう。会室でいいね」
 皆まで言わせず、涼馬は立ちあがる。呼吸を整えながら、優はついてきた。生徒会室に入って扉を閉めたところで、涼馬は口を開く。主導権を握るためである。
「今朝の新聞の事件?」
「はい。生徒会としても何か手を打つべきだと思います」
 迷いのない視線を向けてくる。しかし涼馬は、まず空とぼけた。
「女子生徒に注意を促して、先生やPTAと連絡を取って、僕らとしてはもうできるだけの事はしたよ」
「いいえ、もっと積極的に行動しないと、根本的な解決になりません。早く犯人を捕まえて動揺を収めるべきです。今日一日、わたしのクラスではほとんど授業になりませんでした」
 考えること、正確に言えば実行にまで突っ走るような人間の頭の中身は基本的に似通っているらしい。自分でそれに手を染めておいて、彼女には頭ごなしに駄目だとも言えない涼馬だった。
「藤野さんなら秘密は守れるね」
「え? あ、はい」
「実は有志で痴漢を捕まえようという話を進めているところなんだ。だからしばらく、僕たちに任せてもらえないかな。生徒会として動いてしまうと騒ぎが大きくなるし」
「先輩の他にはどなたが?」
「岸宣、いや、穴戸と大隈。他に二人くらいかな」
「ずいぶん少ないですね」
「多くしても学校や警察に知られて、止められるだけだからね」
「ええ。でもそれだけの人数で捕まえられるでしょうか。相手はいつどこに出るのか分かりませんし」
「餌を使って一本釣り、だそうだ」
「囮ですか。それならわたしが」
 勢い込む優の言葉を、涼馬は珍しく遮った。
「いや、いい。もう別の人を手配しているから。君の手を煩わせる必要はない」
「誰をです?」
「君の知らない人だ。この学校の生徒じゃないから」
「そんな! これはこの学校の問題です。私達の手で何とかしましょうよ」
「できるだけ安全を期したい。僕にはその方が大事だ」
「わたしでは不足ですか」
 自分の思いが伝わらないのがもどかしい。二人とも苛立ち始めていた。しかし同時にそれを相手に叩きつけられもせず、何とか冷静さを保とうとする。
「そうは言わないが、彼女は場慣れしているから」
「でしたら、囮でなくても構いませんから私にも手助けをさせて下さい。確かに喧嘩とかはした事ありませんけれど、穴戸先輩よりはそういう時に頼りになると思います」
 穴戸岸宣は新聞部のメンバー、つまり大隈のように武道をやっているなどとの話は聞いた事がない。しかし涼馬は何故か、一瞬だけ冷たい視線を返した。ただそれも、優に気取られない内に普段の優しげなものに戻す。
「そもそも後輩に危ないことはさせられないよ」
 涼馬は切り札を出した。理由ではなく感情的な面で押し切る。確かにそう言われては優として反論のしようもない。しかしそれだけに、優には大きな不満を残した。
「先輩!」
 結局この人は自分を子供だとしか見てくれていない。優としてはそう受け取れてしまう。彼女の中で何かに、罅が入った。
「僕はちょっと用事があるから」
 彼女の怒気ははっきりと感じ取れる。しかし涼馬には、そこまで言うのならばと前言を翻せなかった。これ以上の論議は不毛と判断して立ち去ってしまう。優は見えなくなるまで、その背中に視線を突き刺していた。

続く


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