午後の恋人たち 新章

15 夜の路上


 派手な、目立つ格好をしているから痴漢に遭う、そんな考え方をしている人間が少なくない。しかしそれは概して誤解である。
 卑劣な犯罪者が狙うのは当然、弱い人間だ。襲いかかっても抵抗したり大声を上げたりしない、脅迫しておけば犯行の後も警察に訴えない、そう見える大人しそうな人間に、痴漢は目をつける。


 このとき背後から迫る足音に気がついてようやく振り返ったのも、そんな少女だった。しかしもう、遅い。
 男は素早く距離を詰め、抱きすくめながらナイフを突き付ければ相手は身動きが取れなくなると、彼はこれまでの経験から知っていた。
「動くな。大声を出せば殺す」
 少女の温もりと、かすかな香りが両腕の中に納まる。少女を絶対的な支配下に置く興奮に、体中の血が燃え上がる。この瞬間のために危険を犯している、それは生きている実感に等しかった。相手はかなり小柄で、それだけに一層男の嗜虐性を刺激する。
「っ!」
 彼女はかすかに抗うように身じろぎする。そんなことをしても無駄だ、お前は俺のされるがままだ…。
 それが彼にとっては、最後の幸福な妄想となった。
「てえいっ!」
 天地が逆転し、固く冷えたものが背中を強打する。そこまでされても、男には自分がどうなっているのか理解できなかった。その間少女は、男が辛うじて握っていたナイフを蹴り飛ばす。鋼鉄の輝きが、夜の中に消えて行った。
「てめえっ!」
 投げ飛ばされた。ようやくそう悟った男は立ちあがりざまに殴りかかる。極度の興奮状態のせいか、痛みを全く感じていない。その拳を、少女はバックステップでかわして距離を取っていた。
 夜の中でさえ艶やかな黒髪が翻る。あどけない顔立ちのその黒く大きな瞳には、しかし強い意志の光が宿っていた。人間は見かけによらない、この少女の芯は相当に強いのだ。投げ飛ばした手つきの鮮やかさから見て、武道の経験者であるのだろう。
 しかし男は、構わず更に殴りかかった。いくら相手が技量に優れているとはいえ、体格が違い過ぎる。少女の背丈は彼と頭一つ違うのだ。力でねじ伏せられる、今やられたのは不意を突かれたためだ、そう信じずにはいられない。そしてそれが、最後のミスになった。
 無駄の多過ぎる、勢いに任せた素人の殴打、それは彼女にとって格好の餌食に過ぎない。見切ってかわし、態勢が崩れかかっているのを利用してそのまま引き倒す。更に関節を固めて動けなくさせるまで、数秒とかからなかった。
「大人しくしなさい! 下手に動くと肩が外れるわよ!」
 ただの脅しだと思って男が逃れようとするが、結局は痛みに無様な声を上げるしかなかった。
「っあっ! ゆ、許してくれ、ほんの出来心で」
「常習のどこが出来心よ。警察に突き出してやるんだから、観念しなさい」
「た、頼む。いや、お願いします! 逮捕なんてされたら俺の人生めちゃくちゃです、反省します、もうしません。ですから」
 心底済まなさそうに、涙声で訴える。しかし取り押さえている側に、慈悲をかけるつもりなど全くなかった。相手が自分より弱いと確信して襲いかかっておいて、自分の立場が弱くなったとたんに這いつくばって許しを請う。それを卑劣と言うのだ。
「言い訳なら警察か裁判所でゆっくりすれば」
「くそっ」
 物理的にも精神的にもてだてを失って、男はひとまず観念したらしい。そうして動きが止まった所へ、騒ぎを聞き付けて駆けつける者があった。
「藤野さん!」
 見慣れたブレザーに長身を包んだ少年が、その状況に一瞬言葉を失う。少女、優は男を取り押さえたまま笑顔を返した。
「澤守先輩」
「これは」
「この男が痴漢です。さあ、警察に突き出してしまいましょう」
「あ、うん。そうだね」
 学校に戻る途中何か争っているような物音を聞き、急いで走ってきたものの既に片がついている。まず涼馬としては、拍子抜けしてしまった。
「ガキが、何も知らないくせに。痴漢ってのは現行犯じゃなきゃ逮捕できないんだぜ。突き出した所でどうにもならんよ」
 男が毒づく。しかし溜息とともに、反論するものがあった。
「何も知らないのはあんただよ。現行犯逮捕ってのは別に警察じゃなくてもできるんだ。今この状況が、まさにそれだよ。このまま交番にでも連れてってやれば、ちゃんと留置場にぶち込める。犯罪やるんならそのくらいのことは覚えておけ」
 行動をともにしていたものの、脚の長さの差でわずかに涼馬に遅れた昭博である。妙に詳しいなと、涼馬も優もやや不審の目を向けた。しかし昭博には気にした様子もない。
「さて、さっさと行こうぜ。涼馬、そっちを押さえてくれ」
「分かった」
 優に代わって少年二人が男を両脇から押さえ付ける。相手が代わったので男は抗ってみたが、それはいわゆる無駄な抵抗だった。涼馬も昭博も、すかさず後ろ手の態勢に持って行ってしまう。両腕の関節をあってはいけない方向に曲げられかけて、先程以上の痛みを感じただけだった。優は少なくとも相手が重症を追わない程度のやり方をしていたのだが、少年二人、特に昭博にはそのような配慮がかけている。単純計算で苦痛は二倍以上だ。
「ま、重傷を負っておくのも悪くはないさ。刑務所にぶち込まれても、負傷してるのなら待遇はちょっとはましだ」
 情容赦のない昭博の脅迫である。優にはもう、この少年が一体どういう人物なのか全く理解できなくなっていた。始めは玲奈の優しい恋人、次は凶悪な暴力事件の犯人、かと思いきや玲奈とはやたらいちゃいちゃしており、そして今は鋭利な刃物のように冷たい。印象が二点三転している。
「あれれー、もう終わりってこと?」
「ま、こういうこともありますよ」
「一件落着か」
 更に三人。彩亜、岸宣、大隈である。彼等にしてみればほとんど骨折り損、彩亜などは明らかに不満そうだ。しかしさすがにこれからもう一度騒ぎを起こそうと考えは考えなかったらしい。
「警察呼ぶ?」
 携帯電話を取り出して示す。しかし昭博は小さく首を振った。
「近くに交番があるって話だったよな。それならそっちのほうが早いよ」
「商店街の外れです」
「ならそれで」
 出来合いの集団の割に、チームワークは良い。痴漢を連行する態勢は素早く整った。一応安心した所で、涼馬は顔を横に向けた。
「藤野さん、怪我はない?」
「大丈夫です。あ、蹴り飛ばしたナイフがそのあたりにあるはずなんですけれど」
「はいはい。っと、これですね」
 ハンカチを使って自分の指紋がつかないようにしながら、岸宣がナイフを拾い上げる。涼馬ほどではないが少し背の高い彼の手に握られても、相当大ぶりに見えた。
「あんなものを。本当に、怪我がなくて良かった」
 涼馬は改めて安堵の溜息をつき、優に心配そうな視線を向ける。優はくすりと笑った。
「心配していただけるのは嬉しいですけれど、大したことありませんでしたよ」
「う、うん」
「涼馬、代わろう」
 優の方ばかり見ている彼を不安に思ったか、大隈が連行役の交代を申し出た。ややためらったものの、結局涼馬はそれを受け入れる。長身ではあるがむしろ細く見える涼馬に代わって、見るからに体育会系の大隈に腕を掴まれて、痴漢もすっかり諦めて歩き出した。
「後手に回った挙句君にまで危ない目を見させてしまうなんて、本当に済まない」
 連行している人間たちのペースに合わせてゆっくり歩きながら、涼馬は深々と頭を下げる。優は慌てて首を振った。
「そんな、わたしのことは気にしないで下さい。わたしはもともと、囮を引き受けるつもりだったんですから」
「その気持ちはありがたいけれど」
「なら、素直に受け取って下さい。今日は無事に終わったんですから、それでいいじゃないですか」
「うん。それでも僕は、藤野さんに危ない目に遭って欲しくないよ。そもそも藤野さん、こんな時間まで学校で何をしていたんだ」
 夜間の女子生徒の一人歩きは良くない、それは彼女が誰よりも承知しているはずだ。それを忘れてしまうほど、迂闊な人間でもないはずである。
「ええ。あの、本当はもうちょっと早く帰るつもりだったのですけれど、忘れ物を捜しているうちに遅くなってしまって」
 うつむいて弁明する優に、彩亜がちらりと視線を向けた。
「何?」
 その意味を正したのは、優本人ではなく涼馬である。何故かそうしなければならないような気がした。
「別に、何でもないよ」
 実際何も考えていなかったのか、それとも隠しているのか、彩亜は淡々と首を振る。少なくとも涼馬には、ここでこれ以上追及するてだてはなかった。
「さて、それじゃあちょっと代わってくれ。」
 交番の赤いランプが見えた所で、昭博が岸宣に声をかける。前科者予備軍の彼としては、警察に関わり合いたくないのだ。
「うん、じゃあこれをよろしく」
「これも頼む」
 涼馬と大隈が木刀を預ける。凶器の類を持ち歩いていると怪しまれるので、交番に入る前にそうする手筈になっていた。
「それではこれもお願いしますね」
 痴漢を押さえるのを昭博と代わった岸宣が、いつの間にか長さ数十センチもある鉄パイプを手にしていた。どうやらブレザーの背中あたりに隠し持っていたらしい。
「おいおい」
 さすがの昭博があきれたという顔を隠せない。優も目を見張っていた。しかし当の岸宣は済ましている。
「日本の製管技術は優秀ですよ。確かな強度と適度な重量、白兵戦用の武器としてこれほどふさわしいものも珍しいんですから」
「そうじゃなくて、そんなものブチ当てたら死人が出る」
 昭博は昭博で、感覚がずれている。普通背中にそんな物を隠し持っている点に驚かないかと、優は内心ツッコミをいれていた。涼馬や彩亜は分かっていたらしく、苦笑を浮かべて見守っている。
「大丈夫、迂闊に頭部に当てるほど間抜けではありませんから」
「あぶねえ奴だな」
「お互い様です。さ、早く。私だってこんなものを街中で見せびらかしたくないんですから」
「分かった分かった」
 木刀二本、鉄パイプ一本、さらに元から所持している特殊警棒。職務質問をされたらそれこそまず間違いなく捕まる装備を持たされて、昭博は別方向へと歩き出した。しかしその歩き方たるや堂々たるもので、不審なそぶりはむしろ微塵もない。
「あ、あたしもいいでしょ。結局関わってないんだし」
 前科者予備軍としては昭博にさほど劣らない彩亜が離脱を申し出る。当初の予定であれば、彼女は被害者役なので一緒に出頭しなければならない所だった。大人しくしていれば深層の令嬢で十分通るのでそうするつもりだったのだが、やはり本来なら警察との関わり合いは避けたい。今は優という立派な被害者がいるのだから、彩亜がわざわざ出て行く必要はないのだ。
「そうだね」
「じゃあまた。終わったらあたしの携帯に電話して」
「分かった」
 岸宣にウインクをしてから、彩亜は長い脚を動かして昭博の後を追った。

 交番に痴漢を突き出して、その後本署で被害者および関係者として事情を聞かれる。しかしそれでも、全員が予想していたよりも早く片付いた。土台複雑な事件ではないし、高校生を深夜まで拘束しておくのも問題がないとは言えない。簡単な聴取の後、後日必要が生じれば改めて事情を聞くため各人連絡先を伝えた後、解散である。もちろん当の痴漢は厳しい事情聴取のうえ、とりあえず留置場に放り込まれるらしい。
「お疲れさーん」
 本署の外では、予め岸宣から連絡を受けていた彩亜と昭博が待っていた。彩亜は既に、北条坂の物から本来のそれに服装を戻している。景気の良い声を上げる彼女に対し、昭博は小さく、しかしゆっくりと頭を下げた。まるで刑務所から出てきた人間に「その筋」の人が「お勤めご苦労様でした」とでも言っているようだと、涼馬は妙なことを考えてしまった。
「一件落着ってことで、駅前で軽く祝勝会でもしてかない?」
 彩亜がそう誘う。涼馬は一応駅の方向へ歩き出したが、それは承諾のサインではなかった。
「僕らはともかく、藤野さんを家に返さないと」
 そちらが優の帰宅コースになる、それだけである。自分のせいで水を差しても悪いので、優としては一応異を唱える。
「家には遅くなると、さっき電話をしておきましたけれど」
「だからと言って必要以上に遅くしてもいいとはらなないよ。警察の人も遅くなるといけないからって解放してくれたんだし」
「まあったく、いつもながらの真面目君なんだから。分かったわよ、涼馬はその子を送って行きなさい。あたし達だけで遊んでくるから」
「悪い、明日は朝練だから。帰って寝させてもらう」
 そっけなく、大隈が断った。こと武道に関しては、涼馬以上に固い人間なのである。すると昭博が軽く肩をすくめる。
「んじゃあ、俺もだな」
 涼馬、優、大隈が抜けるとなると残りは彼自身と彩亜、そして岸宣である。カップルと一緒に行動する気はないようだ。しかし当の彩亜が、それに異を唱える。
「彼女ができたからっていきなり色気づいてんじゃないわよ、遠慮なんかしちゃって。あたし達はいつでも二人きりで逢えるんだから、今日くらいは付き合いなさい」
「ま、そういうことですから」
 昭博に視線を送られた岸宣が苦笑してそう答えるので、昭博はもう一度肩をすくめてからうなずいた。
「そういうことか。ま、彩亜がいると退屈だけはせずに済みそうだが」
「そういうこと」
 女王然とした笑みを浮かべて、彩亜が二人を見渡す。どうやら今回活躍し損ねたので、元気が余っているようだった。
 そうして話にひと段落つくと、昭博は軽く息をついて口調を改めた。
「さて、と。それじゃあ藤野さんには今のうちに言っておいた方がいいかな」
「はい?」
 軽くはねるようにして、優は昭博に顔を向けた。ほぼ初対面に近い相手に改まってそんなことを言われてしまっては、やはり驚いてしまう。例えば初対面であっても、彩亜のように見るからにオープンな人間ならそれほど意外にも感じないだろうが、むしろ昭博にはこれまで自然な遠慮が感じられた。それが今、消えている。
「昭博」
 恐らく珍しく、彩亜がはっきりしない声をかける。昭博は一瞬だけそちらに視線を走らせたが、すぐに優に戻した。神経が波立つのを、涼馬ははっきりと自覚していた。つきあいがそう長い訳でもないが、昭博がこう直線的な態度を取るのは良くない兆候だ。そんな気がする。
「あまり無茶をしない方がいいですよ。みんな心配します」
 淡々と、一応礼儀を守って丁寧に、昭博が優に語りかける。その意図を知っているらしい彩亜は、複雑な顔をしてよそを向いていた。優はただ、昭博を見返しただけだった。
「ま、いいですけど。僕にしては珍しく、余計なお世話でしたしね。で、彩亜、打ち上げどこでやる?」
 完全にわざとらしく、昭博はこの話題から引いてしまった。聞かれた彩亜は一応ゲームセンターがいいなどと答えるものの、視線がやや泳いでいる。もう一人の参加者である岸宣も、むしろ涼馬や優の方を気にしているようだった。
 確かに昭博に指摘されるまでもなく、不審な点はあった。それを追及しようかどうか迷っていたが、ことここに至っては後にも退けない。
「藤野さん」
「はい」
 優が顔を上げた。精一杯気を張っているが、それはどこか危うげだった。
「君も彼を捕まえようとしていたのか」
「はい」
 ためらわずに優は答えた。かすかに溜息をついてから、涼馬は質問を続ける。
「危ないとは思わなかったのか」
「でも危ないことは、そちらの方も変わりありませんでしょう」
 観念したのではないらしい。背の高い涼馬を見上げながらも、動揺はしていない。
「変わるよ。彼女には僕ら四人がついていた。君はたった一人で、どうするつもりだったんだ」
「でもうまく行ったじゃないですか。それに失礼ですけれど、四人と言っても澤守先輩や穴戸先輩には本格的な武道の経験はおありでないですし」
 四人のうち武道の経験があるのは、大隈一人のはずだ。岸宣は新聞部の部員だし、涼馬も授業でする以上には剣道の経験がない。優は昭博のことは良く分からないが、しかし少なくとも空手や柔道を本格的にやっている体格でないことは確かだ。
 要は烏合の衆だと、暗に優はそう言ってしまっていた。他ならぬ涼馬であれば事情を理解して労をねぎらい、あるいは感謝してくれる。そのはずだったのに非難されて、理不尽だとしか感じられていなかった。
 名指しにされた岸宣は曖昧に笑うだけだった。しかし涼馬は、真意の読めない視線で見下ろした。
「本当にそう思ってるの?」
「どういう意味でしょう」
「そう。それなら今後、無茶はしない方がいい。彼は君より強い。それが分からないような技量なら、いずれ必ず怪我をする」
 低い、その分重々しく響く忠告だった。街灯に照らされた優の顔が、一瞬蒼白になる。
「涼馬」
 なだめるように岸宣が声をかけるが、しかし何の意味も為さなかった。二人とも他人の声など聞こえていない。
「澤守先輩に何が分かるんですか!」
 怒鳴ってしまってから、優自身がはっとする。相手は彼女自身が誰よりも好いている人だ。それ以前に尊敬する先輩でもある。しかし彼女に、それを撤回する時間は与えられなかった。
「分かるよ。この五人の中では僕が一番弱いが、それでも君は僕にも勝てない。例えお互い素手であってもね」
 改めて、否定。それも間髪を入れなかった。後悔によって消えかかっていた優の怒りは、再び激しく加熱されざるを得なかった。
「ご冗談を」
 心のどこかでいけないと思いながらも、皮肉っぽく反論する。顔立ちが幼く、可愛らしいだけに、優のそんな表情はひどく毒々しい。それを見ても涼馬は淡々と、首を振った。
「こんな冗談は言わないよ」
「冗談でなければただの思い上がりです」
 涼馬の眉が引きつる。岸宣が何か言おうとしたが、しかし別の人間の方が早かった。
「じゃあ、俺たちはもう行こうぜ」
 不自然に編集されたテープを聴いてでもいるかのような、話の流れにそぐわない口調と声、それは昭博のものだった。
 岸宣も彩亜も、自分たちに向けた言葉だとは分かったのだが、とっさに反応できない。そもそも発端を作ったのは昭博自身なのだから、以下の話をなかったことにでもしたかったのだろうか。言われた二人はそんな疑問を持ちながら、互いに目を合わせていた。
 ただ、次の瞬間彼がそんな後悔をする人間ではないことを思い知らされる。
「下らない」
 低いつぶやきは、はき捨てられたものだった。それをそこにいた四人全員が、はっきりと聞き取っている。
 先ほどまでの涼馬と優の言い争いの要点は、つまり誰が強いかというそれに尽きる。しかしそれは、実際にやってみなければ分からない。最終的に実力で決着をつける気がなければ、強さに関する言い合いなど机上の空論でしかないのだ。その気がない以上二人の口論は、自分が怪我をする度胸もないくせに虚勢だけは一人前、そんな不良同士の口喧嘩と次元が変わらない。複数の人間を文字通り叩きのめし、自分が「強い」ことを証明して相手を実力で黙らせて来た昭博にしてみれば、確かに下らない議論だった。
 それならば現に勝負してみて決めればいい、と言いたいところだが、武道は無用の闘争を硬く戒める。そうしないと意味のない暴力が横行してしまうからだ。昭博のようにしがらみがなく、ある意味自由な人間とは話が違う。ただ、それならば始めから、自分の力を誇示するような議論をするべきではない。そうしてしまった時点で、力による威嚇という形で戒めから逸脱しかかっているのだ。武道をたしなむものとしては失格か、あるいは少なくとも反省すべき行いである。
 昭博がそこまで武道というものを理解した上で水を差したのか、あるいは単に不毛な論争を嫌ったのか、それを確かめるすべは、すぐになくなった。彼は立ち去ってしまい、仕方なく岸宣も彩亜も簡単な別れの挨拶をしてから後を追って行った。
「失礼しました。それから、失礼します。ここからなら危険もないでしょうから、一人で帰れます」
 少なくとも優が反省させられたのは確かである。深々と頭を下げてそれだけ言って、足早に歩いて行った。
 涼馬はそれを追えなかった。彼も反省し、同時に後悔もしていたのだった。元々大きいとはいえない後姿がさらに小さくなってやがて消えてゆくのを、黙って見送るだけだ。いつの間に風がこんなに冷たくなったのだろうと、もう何日も前に気がついていいはずの疑問に、何故か今行き当たっていた。

続く


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