午後の恋人たち 新章
17 黒幕の嫉妬
手塚邸を出た岸宣は、そう歩かないうちに立ち止まった。
「済みましたよ。途中経過はさておき、とりあえず説得には成功しました」
「ありがとうございます」
この日三度目、彼に対して深々と頭を下げたのは玲奈である。彼女は別に何があるでもない路地に、立っていた。
「いや、なに。私としては、自分が直接関わる文化祭である以上万全を期したいですからね。バックアップをしてくれるはずの中枢があの状態では、正直不安です」
先ほどそれに関して言ったことに嘘はない。だから素直に続けた。
「先輩こそ、お忙しい中お気遣いをいただいて恐縮です」
実の所岸宣も、いくら文化祭がらみとはいえ男女の中に割りこむのに関しては消極的だった。端からからかうのは楽しいが、だからこそ深入りは好ましくない。そんな彼の背中を強力に後押ししたのは、受験で何かと大変なはずの玲奈だったのだ。彼女がこの日二度目に深く頭を下げたのは、岸宣が涼馬と優の関係に介入するのを承諾した際である。
「いえ。いくら引退したとはいえ、私にとっては最後の文化祭ですから」
玲奈には玲奈の思い入れと、そして思い出がある。岸宣は小さくうなずいた。
「そうおっしゃらず来年もまた、その時はOGとして堂々と、いらして下さい」
「そうですね」
笑ってうなずいてから、玲奈は話を変えた。
「その時には、どうして昭博さんがお二人の仲を取り持つのに適任なのか、教えていただけますでしょうか」
彼女は、そもそも何故涼馬と優の関係がギクシャクしているのか、その理由を知らない。岸宣は相談を受けた際、昭博に相談をしてみるのが良いということ、そしてその際には事情を知らない玲奈が介入をすべきではないということしか、教えていなかった。
「さあ、それは手塚さんが決めるべきことですから」
岸宣個人としては、痴漢を捕まえた一件について玲奈に対して全て話してしまって構わないと思っている。ただ、昭博ならばそれを嫌がるだろうと思うのだ。
「それより、先輩。先輩は、いずれ今日の件の真相を教えてあげないといけませんよ」
今日岸宣がここまでやってきたのが玲奈の差し金であることを伏せる、それが彼女の意向だった。受験を控えた身で他人の世話を焼いていると、昭博が心配する。それを考えてのことだ。
「あら、私には選択権はないのですか」
「残念ですが。いや、幸いにもと言うべきか、先輩は人が良いですから、嘘をつくのがあまりうまくありません。最後までつき通すのは、難しいでしょう」
「はあ」
自覚はあるらしく、彼女は力なく笑った。その様子が面白いものだから、ついからかってしまいたくなる。
「私だったら、そういう嘘をつく彼女には『お仕置き』しますよ」
「お、『お仕置き』って、例えばどんな」
「そうですね、例えば…」
案の定、あからさまに動揺する彼女に、岸宣は耳打ちをした。
「そ、そんなこと、いけません!」
動揺がさらに広がる。もう空はすっかり暗くなっていたが、幸い街灯のおかげで真っ赤な顔をはっきり見て取れた。都会は便利だ。
「いや、気分を害するのは私ではなく手塚さんですから、私にそう言われても困ります。別のやり方を思いつくかもしれませんし、思いとどまるかもしれません。ただ、こう言っては何ですが、あの人は何もせずに笑って済ませるような性格でしょうか」
「やられたら、やり返すタイプです。それも倍以上にして」
玲奈はすっかりうなだれてしまった。そしてはっと顔を上げたと思うと、彼女にしては珍しくまくし立てる。
「そ、そんなことになったらどうしましょう」
「あー。まあ、ばれたらその時は、素直に謝ってしまうのが一番ではありませんか、人として」
さすがにかわいそうになってしまったので、真っ当な台詞になる。これが彼を知る他の人間であれば「お前がどうなんだ、人として」と切り返されるだろうが、そこは玲奈であった。彼女は素直にうなずき返す。
「そ、そうですね」
「まずい状況になったら、先手を打って『どんなお仕置きでもされますから、許して下さい』とでも言っておけばいいんですよ。普通の神経を持った男なら、そうまで言われて本当に無茶はしません。そしてもし万が一ひどいことをするようなら、そういう男とは別れた方が身のためです」
「そんな! 昭博さんは私の運命の人です」
「どさくさ紛れに壮絶な台詞を吐きましたね」
一瞬でもそれを放置すれば凄まじい圧力に押し潰される、そう直感した岸宣はすかさず毒を吐いた。結果彼は勝利を収めて、玲奈の方が恥ずかしさに身悶えをすることになる。青くなりかけていた顔が、また赤くなった。
「はは。この分でいくと例の伝説、案外本当かもしれませんね」
「で、伝説って、何でしょう」
苦し紛れに玲奈が話をそらす。岸宣としても戻されては困るので、応じた。
「ああ、やっぱり。先輩は知らないんですね」
北条坂高校の人間であればほとんど誰もが知っているであろう「例の伝説」、しかし玲奈はその、数少ない例外のようだ。
「意中の人と結ばれるというちょっとした恋のおまじない、のようなものです」
「何ですか、何ですか」
興味津々である。しょうもないことを頭から信じ込むことが危惧されるこの性格だから、知っているはずの周囲の人間誰もが教えるのをためらい、とうとう今日まで来てしまったのだろう。
「知りたいですか?」
「ええ、もちろん」
「教えてあげません」
「えー、どうしてですか?」
岸宣は腕組みする。
「今先輩が、誰か手塚さん以外で狙っている人がいるのなら話は別ですが」
玲奈が意味を理解するまで、数秒を要した。
「ああ、いえいえ、そんな、とんでもない。私はもう、ねえ」
もう一回のろけをぶちかますのは辛うじて、こらえてくれた。
「そういうことです。今のあなたには必要のない話ですよ。まあ、あなた自身に対して教えても実害はありませんが、それを手塚さんに知られてあらぬ疑いをかけられても困ります。仕返しを百倍にしそうな気がしますからね」
「はい、分かりました。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ」
「あのう、それでは、岸宣さん。うまく行った恋が長続きするおまじないとか、ご存知ありませんか」
さすがの彼も、少し呆れて肩をすくめた。
「さあ、生憎と。思うんですけれど、先輩。お姫様が魔法やおまじないの力を借りられる時間っていうのは、限られているんじゃないですか。シンデレラの魔法は十二時まで、今のおまじないの効果は卒業するまで、です。何しろ学校に伝わる伝説ですからね。出てしまえばもう、効果はありません」
それは多分、恋が冷めるまでの時間を暗示しているのだ。ほとんど出任せの台詞であったが、ふと岸宣はそう思った。
「はあ」
ただ、今の玲奈にそれは分かるまい。普通に、魔法とはそういうものかと感心しているようだ。だから岸宣は、少しだけ笑った。
「魔法がさめたら後は、お姫様はとっ捕まえた王子様を自力で確保しなければならない。持って生まれた自分の魅力と、そして努力で。まあ、そういうことなんじゃないですか」
ちなみに例の話のツッコミ所は、十二時以降もなぜかガラスの靴だけは魔法が解けずに残ったという点である。岸宣はついでに、そんなことを思い出していた。
「そうですね、頑張ります」
そして玲奈は、笑い返した。それは多分、例のしょうもない伝説よりも、はるかに強力な魔法だ。
それを認めてから、岸宣は辞去の挨拶をした。少々長話が過ぎたと思ったのだ。もう一度深々と頭を下げてから、玲奈は昭博の家へと入ってゆく。その嬉しそうな気配に、岸宣はもう一度肩をすくめた。
「さてさて、あんなしょうもない伝説を作った『悪い魔法使い』が、現状を知ったらどんな顔をするでしょうね。げらげら笑い出すか、あるいはさすがに唖然とするか」
岸宣は、そもそもの原因となった人間が「悪い」ことを全く疑っていない。そして彼は、慣れた足取りで街路を歩いて立ち去った。
駅から学校までの間にある甘味処は、玲奈の行きつけの店の一つである。マスコミュニケーションで紹介されるほど有名ではないが、良質の素材を使った菓子は地元で根強い支持を受けている。菓子は持ち帰りもできるが、中にある喫茶スペースで作り立てを食べるのが通というものだ。
ただ、優はこれまでその店を利用したことがなかった。上等な分商品価格がやや割高で、財布の中身が学生として標準またはそれ以下だと、二の足を踏まざるを得ないのである。学校の関連としては、教師たちがささやかな贅沢を楽しむための場所だとも聞いている。
席は和風調のテーブルと、純和風の座敷に分かれている。この日優を待っていたのは、テーブル席にかけていた人物だった。
「お呼び立てして申し訳ありません。お忙しい中、わざわざありがとうございます」
立ち上がって、丁寧に頭を下げる。顔に見覚えはあったし、そもそも玲奈から話を聞かされた際に誰の用件かもきちんと教えてもらっている。しかしそれでも、どこか違和感のある人物だった。手塚昭博である。
「ああ、いえ。今日は取り立てて用事はありませんから」
これは社交辞令ではなく、事実である。そろそろ文化祭が近くなっているが、さすがに毎日は仕事がない。今日は特にトップである涼馬に別の用事がある日なので、そのまま他の人間も解散してよいことになっていた。元々涼馬と優で、そう急がずに間に合うよう余裕を持ってスケジュールを組んでいるのである。岸宣以下の企画担当など熱心な人間はまだ学校に残っているはずだが、それはまた別の話である。
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げて、昭博は優のために椅子を引いてやった。呼ばれたのを承諾したのだから、彼女としてもとりあえず大人しくそこに座る。そして、玲奈は立ったままだ。昭博が軽く首をかしげる。
「なに?」
「私の分は、引いてくれないんですか」
傷ついた、という顔で抗議する。昭博は髪に手をやったが、そのまま下ろした。頭でもかきたかったのだろうが、ここが食べ物を扱う店なので思いとどまったらしい。
「外して欲しいんだけれど」
「え? でも、もうお汁粉、頼んでしまいました。どこで食べれば」
「まだ空いてる席あるからその辺で食べててくれ。大体、メニューも見ずにどうやって注文したんだよ」
「覚えていますから」
実は彼女が素晴らしい記憶力の持ち主であると、昭博は今思い出した。彼の記憶力はその程度である。常連の店なら恐らく、新しいものがない限りメニューの全てを覚えている。
「それはさておき、同じ集まりなのに別の席を使うって、マナーが良くありませんよ。ここは四人がけですし」
「うるさい黙れ。よく来てるんならそのくらいの融通は利かせてもらえるだろう。ほら行った行った」
「うー」
意味のないうめきを残して、玲奈はすごすごと別の席に着いた。大声を出さない限り会話は聞こえない距離だが、二人の様子が見える位置である。
「申し訳ありません。お見苦しい所をお見せして」
「ああ、いえいえ」
昭博は丁寧に謝った。優としては、とりあえず慌てて首を振る。ただ、少しつけ加えたくはなった。
「あの、でも、あんなに邪険にすることもなかったのではないでしょうか。おつき合いしている方が他の女と内密の話をするとなれば、それは誰だって不安になります」
正確に言えば、嫉妬する。今の玲奈の言動は、男女の機微に精通しているとは言い難い優の目から見ても明らかな、嫉妬だった。玲奈ほどの誰もが認める美人が、自分のような人間にそんな感情を抱くのかと知ると、優本人としては少々驚いてしまう。
「いや、ほめられた接し方じゃないとは分かっているつもりですけれど、でも甘やかしても長引くだけですから」
もう一度済まなさそうに、昭博は笑った。気分を害した様子はない。これ以上踏み込んでも不毛かもしれないと、優としても気がつかざるを得なかった。
「それで、ご用件とは何でしょう」
「と、その前に。注文は決めましたか。僕はまだなのですが」
昭博がメニューを指差す。ここでは「お品書き」というらしく、そうその上の方に記してあった。無論玲奈と同時に決められるはずもなく、優はまだ、そもそもこの店に何が置いてあるのかも把握していない。
「いいえ、まだです」
「そうですか。支払いはこちら持ちですから、ご遠慮なく」
昭博がそういいながら、「お品書き」を渡してくれた。そう言われると却って高いものは頼みにくい。ここが多少割高であるとはいえ、無駄遣いをしない優の財布には、少なくとも自分の分を払っても困らないくらいの余裕はあるのだ。
そこでふと見てみると、玲奈が頼んだお汁粉が比較的安価なものであったので、とりあえずそれにしてみる。昭博はその選択について何か言いたげであったが、結局論評を避けて自分は葛餅を注文した。
「それで用件なのですけれど、実の所大したものではありません。半分は、今頼んだものが来るまでに済んでしまうと思います」
注文を受けた店員が奥に引っ込むのを見ながら、昭博が告げた。優はその意図が分からないながらも、とりあえず聞く態勢にはあるということを示すためにうなずいて見せる。
「先日は、失礼なことを言ってしまって申し訳ありませんでした」
そして突然、その言葉とともに机に額をつけそうな勢いで頭を下げる。優はただ、ただでさえつぶらな目をさらに丸くするばかりだった。
「あの、その、何を?」
「『無茶をしないほうがいい』だなんて、自分みたいないい加減な人間が、きちんと武道をしている人に対して言うべき台詞ではないですよね。お詫びします」
それは、あのときの台詞だ。あれ以来、優にとって何よりも大事なものが、おかしくなってしまっている。
「どうもああいう場面だっただけに気が立ってしまっていたようで。申し訳ありません。やはり修行が足りていない、いやいや、全くしていないとあの有様です」
昭博は苦笑交じりにつけ加えた。ただ、そう言われると彼以上に、しかもことが終わったあとで冷静さを失っていた自分の至らなさを反省させられる優である。
「いいえ。こちらこそお見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。私はそれこそ、修行が足りません」
例え相手が誰であれ、挑発的な言動に応じるべきではなかった。そう思うと心底情けなくなる。何故ああなってしまったのか、自分では分からない。
ただ、昭博はそれを察していた。
「まあ何ですよ。確かに十五とか十六とかで、修行ができあがっている人間はいないと思いますけれどね。でも、もう高校生なんだから、単に子供だと片付けられない時期には来てるんじゃないですか。例えば殺る気さえあれば、別に武道を習っていなくても人一人殺すぐらいできる訳です」
どうしてこの人の「やるき」の発音はしっかり「殺る気」に聞こえるのだろうと、優は一瞬余計なことを考えた。しかしともかく、鈍器で手加減せずに殴ったり、あるいは寝ている頭を蹴ったりすれば、何の心得もなくとも人は殺せる。小学生でも高学年になれば、その程度は可能だ。むしろ近代的な武道というものは、殺さずに相手を制する技術を教えるか、さもなければ殺す可能性のある技を必要な範囲で禁じている。
「ええ」
「だから、たとえ相手が自分より年上で、しかも頭の良さそうな人であっても、少なくとも自分の得意なことに関しては自信を持って、それに関して自分は大人なんだからって思っていれば、頭にきてもそれを表に出さずに済むこともありますよ。それがいいことかどうかは、保障できませんけれど」
昭博の視線が、ちらっと玲奈の方へ動いた。なるほど、彼は年上の恋人とつき合っている。のほほんとしていても、少なくとも成績は良い。そこから学んだのだろう。
「あら。深澄音先輩が、手塚さんを怒らせたりするんですか」
優には玲奈が誰かに喧嘩を売っている場面など、想像できない。まして相手は、べたべたにほれているらしい恋人だ。しかし昭博は肩をすくめた。
「いらいらさせられる時はありますよ」
「トロいですからね」の、一言を、優はとりあえず飲み込んだ。玲奈本人には聞こえないだろうが、いくら昭博としては同じ感想を持っていても、他人からつき合っている相手の悪口を言われれば腹が立つかもしれない。
「はは」
曖昧に笑いながら、呼吸を整える。そして深々と、頭を下げた。
「今日はわざわざありがとうございました。私こそ、お礼を申し上げなければなりません。おかげで目が覚めました」
「いえいえ。こちらにもしがらみとか、色々ありますからね。お気になさらず」
「はあ」
優の目には手塚昭博という人間、誰よりもとらえ所がなく、ある意味では自由に見えるのだが、そうでもないらしい。ただ、余計な詮索はしないことにした。
「それで、ご用件のもう半分とは」
「ああ、はい。お詫びのしるしに何かおいしいものでもご馳走しようかと思いまして。彼女に聞いたらこの近辺ではここが一番のお勧めだそうなので」
「そこまでしていただいては…」
「払うのは彼女ですから、お気になさらず」
昭博は悪びれない。そして視線を転じた。
「さて、内緒話はもういいでしょう」
「そうですね。実は何となく、さっきから頭の後ろがちくちくする気がするのですが」
「さすがにいい勘をしてますね」
今、玲奈が座っているのは優の後方だ。振り返らなければ見えない位置である。それでも、穏やかでない気配を感じずにいられなかった。
向かいに座っている昭博なら、玲奈の様子は見える。彼は苦笑して、彼女を手招きした。しかし反応はない。
「すねるか、普通」
昭博は口の中でつぶやいたつもりだろうが、優はそれを聞き取っていた。
「私は一人で食べますから、手塚さんは向こうにいらしてください」
「そう、ですね。僕みたいな人間が別に何か面白い話ができるわけでもなし」
「盛り上がったらかえって話がややこしくなりますよ」
「ですね。ではお言葉に甘えて、失礼します」
身軽に立ち上がって、昭博は玲奈のほうへと歩いていった。
頼んだお汁粉が運ばれてきたのが、ちょうどその後である。味わってみると小豆の香りを抑えられた甘みが引き立てていて、中々のものだった。伊達に値が張ってはいないと思う。昭博が何故、先ほどその注文に対して微妙な顔をしたのか良く分からなかった。
そして優がお汁粉を食べ終わって席を立つ。その間に昭博がうまく立ち回ったのか、あるいは元々玲奈という人は怒りの持続しない性格なのか、彼女の機嫌はすっかり直っているようだった。昭博に彼女の手で葛餅を食べさせる、つまり世に言う「あーん」をやろうとして、嫌がられている。邪魔をする気は全くないので、気づかれなくても構わないと思いながら軽く会釈だけをして店を出た。
「ふう」
そこは見慣れた商店街だ。ただ何となく、空気が澄んでいるような気がして、深めに息をした。