午後の恋人たち 新章

18 できることとできないこと


 優との会談後、まとわりついてくる玲奈をかなり強引に駅に押し込んで予備校に向かわせてから、昭博は商店街を逆戻りし、さらに北条坂を登った。目的地は高校ではなく、その先である。初めて行く場所だが、あらかじめ住所を聞いて地図を調べておいたので、迷わずにつくことができた。
「へえ。今時都内にも、こんな建物があるんだ」
 塀は白壁で、門は要所を鉄材で補強した木製、それらの上には瓦が載っている。純粋な和様式の作りだ。敷地は普通の住宅より、はるかに広い。そこだけ見ると寺のようでもあるが、母屋の屋根はあまり高くないし、それらしい装飾もない。昔の武士か何かの邸宅、あるいはそれを模したものだろう。そのどちらかは、昭博には分からない。門が開け放たれているので、それは中の人間の「入っても良い」という意志表示だと思うことにした。
 これだけの広さがあると、かなり大声を出さない限り門の辺りから呼びかけたのでは母屋までは声が届かない。本来これはその場に門衛など誰かが常時詰めている、それを想定した造りなのだ。インターフォンでもあれば話は別だが、それらしいものは見当たらなかった。とりあえず、母屋まで行くしかない。
 しかし数歩を踏み入れたところで、昭博はさっと横に視線を転じた。
「ああ、済みません。門が開いていたもので勝手に入ってしまったのですが、ご迷惑でしたでしょうか」
「いえ、お気になさらず。インターフォンをつけていないのですから、そうなさって当然です」
 中の雰囲気に良く似合う、着流しの男だった。年のころは二十代半ば、背丈は自分より上だが涼馬ほどではない、昭博はそう見た。いつの間にか、その場にたたずんでいる。そして静かな様子のまま、問いかけた。


「どんなご用件でしょう」
「澤守君にお会いしたくてうかがいました。ただ、今はお忙しいようですし、終わる時刻を教えていただければそれまで暇を潰して、また参ります」
 涼馬がしているという習いごとの場所を、昭博は玲奈から教えてもらっていた。
「そうですか」
 着流しの男は、少し考えてからまた口を開いた。
「丁度良い機会かも知れません。どうも今日の彼は、集中力を欠いています。このまま続けさせても、本人のためにもならないでしょう。折角来ていただいたのですし、今日彼はこれで早退ということで」
 昭博は少し考え直した。年の頃からして涼馬にとっては兄弟子に当たるほどの人だと思っていたのだが、口調から判断すれば指導に当たる立場の人間だ。師範代、という所だろうか。
「先生がそうおっしゃるのでしたら、お言葉に甘えてよろしいでしょうか」
 そこで試しに、「先生」という言葉を使ってみる。もしそれが本当なら問題はないし、そうでなくとも不快感を覚えさせる可能性は高くない。そこまで計算してのことであったが、相手はあっさりと応じた。
「もちろんです」
 そう言いながらも、彼はすぐには案内をしなかった。
「少し、よろしいでしょうか」
「何でしょう」
「涼馬のご友人ということは、そちらも何かこの種のご経験がおありなのでしょうか」
「え? いいえ、僕は特に何も」
「そう、ですか。勘が良いようですし、体つきもしっかりしているので、てっきりそうだと思ったのですが」
「ははは。失礼ですが、それは勘違いですよ。僕は本当に、学校で習う程度のことしかやっていませんよ」
 土台昭博は、何か習い事を真面目にやるような性格ではない。授業の一環としてなら、留年させられても面倒なのでそれなりにやる、その程度である。だから笑ってしまったのだが、相手はあくまで真面目だった。
「ちょっとしたことを教えられるだけでも、相当なものを身につける人がいます。センスがいい、あるいは才能があるとは、そういうことです。そのセンス、才能さえあれば、体は無意識のうちにある程度でき上がってきます。しかしそういうものを始めから持っている人間は、本当に少ないのです。私が教えている中では涼馬ともう一人、その程度ですよ。しかもそのもう一人の方は、今日はさぼりです」
 それでも、それはそれで良いのではないか。昭博はそう思う。才能があると言われても、昭博にとってそれは、必要がなければすたれて当然のものでしかない。例えばこの着流しの男や、あるいは涼馬のようなこだわりはないつもりだ。しかしまさか喧嘩を売るつもりはないので、曖昧に笑って答えなかった。
「ああ、失礼しました。つい余計なことを言ってしまいまして」
「いえ、ためになるお話でした」
「ははは。そうおっしゃっていただけるとありがたいですね。それでは涼馬を呼んで来ます」
「お手数をおかけします」
 昭博は頭を下げたが、それを上げならが少し、足の位置を変えた。相手はそれを見て微笑する。その視線は、その直前に昭博の左手へ注がれていた。
「何でも、ありません」
 聞かれる前にそれだけ言って、彼は母屋の方へと歩いていった。その背中が、昭博にはずいぶんと大きく思える。彼が見ていたその場所に、昭博は半ば習慣によって特殊警棒を忍ばせているのだ。恐ろしいまでの勘、あるいは観察力である。だから昭博は、涼馬が来るまでその場に立っていた。
「お待たせ」
 しばらくして、既に帰り支度を済ませた涼馬が、まずそう声をかける。昭博はただうなずいて、聞いている旨を示した。
「とりあえず、先生からの伝言を先に済ませていいかな」
「ああ、何?」
「見学でも何でもいいから、気が向いたらいつでも来なさいって。ただまあ、ここは毎日やっているわけじゃないから、いつ来ればいいかは僕に聞いてくれ」
「分かった。後でそう伝えてくれ」
「うん」
 そして少し、間が開く。それを埋めたのは昭博だった。
「なるほど、あれはここで習っていた訳だ」
「ああ、うん。そうだよ」
「で、まあ、用件なんだけど」
「なに」
 そしてまた、間があった。
「さっきね。藤野さんに会ったんだ」
 涼馬は返事をしない。昭博は構わず続けた。
「柄にもなくお説教をしたよ、大人になれってね」
「藤野さんは何だって」
「素直に聞いてくれて、最後には分かったってさ」
「そう。ならいいけれど」
 無感動に見えるのは表現を抑えている結果だと、昭博は思った。
「ま、あんたがそう言うのなら、俺はもう何も言わなくていいかな。俺はやっぱり、彼女よりはあんたの方がまだ大人だと思うし」
「そんなことはない。ああいう風になってしまうなんて、僕もまだまだ子供なんだ」
 昭博は吹き出した。そして相手が気分を害する間も与えずに、謝ってしまう。
「ああ、悪い。藤野さんと反応が同じようなものだったから、ついね。結局性格は根っから似てるんじゃないのか、あんたと彼女」
「そう、かな」
「多分。だから普段は気が合うし息も合うけれど、キレる場面もほとんど変わらない。そんなところじゃないかな。そんなに親しいわけでもないのに偉そうな言い草だけど」
 良く知らないからこそ、先入観のないものの見方ができることもある。客観的な視点に立ちやすいということだ。
「いや、自分では気がつかなかったけれど、多分そうなんだろう」
 涼馬は笑った。よどみのない、綺麗な笑顔だった。これを見せられたら、特に優などは一ころだろう、昭博はそう思う。
「分かったよ、ありがとう。もう大丈夫。あとは僕一人で…いや、僕達で何とかできると思う」
「そうか。じゃ、俺はもう帰るよ」
 所詮は涼馬の言う「僕達」の問題だ。それ以上とやかく言う気は、昭博にはなかった。深く頭を下げる涼馬に手を振って、その場を後にした。
「やればできるじゃん、俺でも」
 少し歩いて声の届かない距離になってから、空に向かってつぶやく。しかしそんな彼の自己評価は、早くも翌日には裏切られるのだった。

 その日の夕方、昭博は学校の宿題を片付けていた。無論好き好んでやっているわけではないが、やって来なかったことによりうだうだと教師から説教をされたりするのはもっと嫌いなのである。真面目な友人に見せてもらうという方法もあるが、他人に対して借りを作ったり、あるいは借りがあるのにそれをすっかり忘れたりすることも好きではない。
 それを中断させたのが、階下の電話の音である。気分転換にでもなるかと思って、昭博は立ち上がった。
「何だ?」
 この家の電話は、勧誘等を除けば基本的にあまり鳴らない。学校の友人とは会って話をすれば済むし、玲奈が相手でもほぼ同様だ。土台話し好きとは言えない性格であり、彼を知る人間ならそのあたりも承知しているはずである。携帯電話も持っていない。
「はい、手塚です」
「玲奈です」
「ああ、なに?」
 聞き慣れた相手の声に、肩の力を抜く。ただ、玲奈はやや緊張を保っているようだった。
「涼馬さんと優さんのことなのですが」
「ん? 仲直りしたんだろ」
 少し相手の声の調子が気にかからないではなかったが、しかしそれ以前に昭博にとっては涼馬と優に関しては解決済み、という先入観があった。その二人の名前が出た時点で、自分の耳で聞いたその場の感想ははるか遠くへ押しやられてしまう。しかし玲奈はそれを、引き戻そうとした。
「あ、ええと、その。それが、今度実際に手合わせをしてみて決着をつけることになったそうで」
 昭博は、少し自分の聴覚神経のできを疑った。少なくとも、彼にとっては自分自身の五感よりも彼女の方が信用できるのかもしれない。
「悪い。もう一回、言ってくれるかな」
「はい、それでは。涼馬さんと優さん、今度実際に手合わせをするそうです。それでどちらが強いか、はっきりさせようということで」
 昭博はそのあたりの物に八つ当たりをしようとして、止めた。所詮それらは彼の持ち物である。ほかの人間がかかわっているからといって、その人間のために壊してしまうほどの価値はない。
「ざけんなよ、あの連中!」
 しかしだからといって怒りがおさまりはしないので、とりあえず吐き捨てた。玲奈が慌ててなだめに入る。
「あ、昭博さん、しかし」
 しかし、当の昭博はそれを聞いていなかった。そこでさらに毒を吐く。
「あーもう、どうして水に流して『手打ち』ってことでそのまま丸く収められないんだよ」
「いえ、あの、昭博さん。総論にはもちろん心から賛成ですが、『手打ち』という表現はどうかと」
 ごくごく珍しいことに、この際玲奈がツッコミだった。彼女は紛れもなく平和主義者なので、和平を意味する事柄に関しては基本的に好意的である。しかし、玲奈は「手打ち」という単語を、「その筋」に関連した文脈でしか聞いたことがなかった。
「やかましい」
 結局玲奈に八つ当たりをして、昭博はようやくやや冷静さを取り戻した。
「やっぱり慣れないことはするもんじゃないな。全くの逆効果か」
「いえ、そんなことありません。昭博さんは頑張りましたよ。何をもめているのか私には分かりませんが、仲直りをするために白黒をはっきりさせるのだそうです」
「それだから体育会系は始末が悪いんだよ。灰色のままうやむやにしちまえばそれで済むんだからさ」
 また怒りがぶり返してきた。玲奈としてはまあまあと手でも使ってなだめたい所だが、生憎と電話である。
「お二人とも、昭博さんには申し訳ないと思っていらっしゃるそうです。それで私を通じて、謝っておいて欲しいとのことでした」
「はいはい、分かりましたよ。俺はもう知らん。勝手にやってろと伝えておいてくれ」
「あのう、実は」
 聞いているだけで恐る恐る、という様子がありありと分かる。普段の昭博ならそんな彼女に対して決してそうはしなかっただろうが、このときばかりは苛立たしげに吐き捨てた。
「まだ何か?」
「そのことに関して、昭博さんに立会人をしていただけないかということなのです。非礼は重々承知ですが、中立的に冷静に物事を判断できる方として是非に、と」
 昭博が絶句した。元々口の減らない人間がそうなってしまうのだから、その感情の動きは察するに余りある。玲奈はびくびくしていたが、少なくとも彼の平静を保とうという努力はまだなくなっていなかった。ややあったが、とりあえず彼が質問する。
「それは、どっちが言い出したんだ」
「あ、はあ。それが、どうもお二人とも同じことを考えていたようで」
 正直な所、玲奈も驚いた。今日、ほとんど間をおかずに彼女を訪ねた二人は、これまたほとんど同様の内容を話したのである。が、わずかに後にもっと驚くことになる。
「そこまで気が合うならどうしてすぐに仲直りができねえんだよっ!」
 怒鳴り声が耳の反対側へと抜けてゆく。玲奈の聴覚神経は、その後しばらく完全に麻痺した。これが多少のことに罪悪感を感じない人間なら、その前に受話器を耳から離している所だが、そこは「人の話はしっかり聞きなさい」としつけられている玲奈である。まともに食らってしまった。
「あ、昭博さん、何でもしますから、あのう、そのう、落ち着いて」
 とりあえずそうは言ってみるものの、反応以前に相手がそれを聞いているかどうかも分からない。やがて玲奈が聞き取れたのは、こんな一言だった。
「本当に、何でもするのか」
「え?」
「だから、本当に何でもするのかって」
 玲奈は少し、考えた。妙に、どきどきする。
「ええと、わ、私として、できる限りは」
「ふうん」
 今度は昭博が、考える番だった。やがて導かれた結論は、こうである。
「ま、いいや。実際何をしてくれるかは後でゆっくり考えるよ。毒食らわば皿までだ。立会人でも何でもやろうじゃないか」
 玲奈としては不安を感じないでもない。しかしもう、後へは引けなかった。
「お願いします」
「うん。で、場所と日時は」
「昭博さんのご都合さえ良ければ明日にでも。場所は、昨日昭博さんが行った所です」
「あの先生も何考えてんだ、一体」
 大きな造りの日本家屋とともに、一見した所むしろ温和そうな若い指導者の顔を思い出す。しかし彼に異存がない以上、最早事態は動かせそうになかった。現に相対する二人が決着の方法について同意しており、また場所も提供されている以上、昭博が承諾を拒否したとしても、別の人間が立会人にされるだけだろう。
「ともかく分かった。じゃあ、俺は明日で構わないから、学校が終わったらあそこへ行く。二人にそう伝えてくれ」
「分かりました」
 それから二言三言やり取りをしてから、昭博は電話を切った。正直な所、玲奈とおしゃべりをしたい気分ではない。
「さて、どう片をつける気だか」
 昭博には、少なくともどちらが勝つかの結果は見えている。勝負には運の要素がつきものであるとも承知しているつもりだが、あの力の差を覆すためには相当な強運が必要だ。その可能性は、ごく低い。
 しかし本当の問題は、それからなのだ。人間、中々自分の負けを認めにくいものである。一度は負けたとしても、次の機会には勝てると思ってしまう。何事も他人のせいにするような無責任な人間なら敗北を運のせいにしてしまうし、逆に責任感のある人間なら、努力して再戦を期そうとする。涼馬と優は、両方とも後者だ。要するにあとくされが残りやすい、としか、昭博には思えない。
 それを防ぐ方法を、昭博は知らないではない。完膚なきまでに叩き潰せば良いのだ。二度と敗者がはむかったりできないよう徹底的に痛めつけ、さらにその傷が癒えないうちに繰り返し脅迫して体のみならず心にまで傷を負わせてやれば、少なくともそれ以降の争いは防げる。あるいはさすがの昭博も実行に移したことがないとはいえ、止めを刺すという方法もある。
 そんなやり方が「本当の意味での解決」と呼べるものではないとは、何より昭博自身が承知している。ただ、彼としては別にそれで構わなかったので、これまでは必要があればそうして来た。少なくとも彼は、その後決裂して構わないと思っている相手としか、本気での喧嘩をしない。
 しかし今回は、それではまずい。勝敗がついたなら、勝者も敗者もそれを然るべき形で受け入れなければならない。それをするだけの度量が二人にあるのかどうか、昭博としては疑問だった。もしそこまでの度量があるなら、始めから勝負などせずに済ませることができる、そう思うのだ。
「まあいい。もう知らん」
 一つ息を吐くと、昭博は自分が宿題の途中であったことを思い出した。深入りしても不毛なので、まずは自分のなすべきことを片付けることにした。

続く


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