午後の恋人たち 新章

2 澤守くんの日常


 穏やかな旋律に乗せ、切ない恋心が歌い上げられる。ごく身近な人、仲の良い友人。それだけにその関係を壊してしまうことが恐くて告白する事ができない。テーマとしてはありふれたものであるが、それだけに普遍的に人の心に訴えかけるものがあった。
 その曲に揺り動かされて目を覚ます。それが涼馬の習慣だった。起きる時間に動き出すようミニコンポのタイマーをセットしてあるのだ。他にも何曲か試してみたのだが、これが最も自然に起きられる。基本的に寝覚めが良いので、あまり大きな音を出す必要がないのも理由の一つである。
 ベッドから起きだすとごく軽くストレッチをして体を完全に動かせるようにする。そして洗顔、整髪、着替えと一通りの身だしなみを済ませてからダイニングに入った。ごくいつもの朝が始まっていた。
 キッチンに立っていたのは背の高い中年の男性である。涼馬は首を傾げたが、それだけだった。予想に反する事態ではあるが、そう驚くほどでもない。
「あれ、父さん。今日は当番だったっけ」
「違うがね。母さんの論文が今煮詰まっているから。刺激するのは賢明とは言いがたい」
 涼馬の父、澤守辰馬が苦笑しながら振り返った。うなずいて、涼馬が席につく。
「なるほど、喧嘩を売るくらいなら朝食くらい作った方がいいよね」
「朝食くらい、なんて言うな。自分で作ったこともないくせに」
「仕方ないよ、作れないんだから」
「作る努力をしたこともないだろう。それではいつまでたっても身につかないぞ」
「別にいいよ。兄さんだってそうだったんだし」
「全く、育て方を誤ったな。ここまで親に反抗的とは」
 憮然とした顔をわざわざ作りながら、エプロン姿の辰馬は配膳を行っていた。これで国立大学の教授とは、他の人間にはにわかに信じられないだろう。しかも先祖をたどれば三河譜代、旗本であるという。世が世ならお殿様と呼ばれた身分である。
 正確に言えばこの澤守家が成立したのは明治維新後、分家である。士族が窮乏した時代、旧旗本も本家を守るのが精一杯で次男以下を養う余裕はない。以前ならどこか後継ぎのいない家に養子にでも出されるか、無為徒食のまま一生を終わらせるのだが、そんな時代ではなくなってしまった。かと言って、仮にも旗本の家に生まれた者が食うや食わずの暮らしをするとでもなれば家名に傷がつく。
 そこで開祖沖忠が選んだのが教員の道だった。当時の士族がいわゆる士族の商法で没落して行ったのは有名な話であるが、無論全員がそうなった訳ではない。何とか新時代に適応する者も少なくなかった。代表的な就職先が軍人、警官、官吏、教員などで、その意味では沖忠の選択はむしろ平凡と言える。直接国家に関わる軍人や警官、その他官吏は薩長閥の勢力が強く、旧幕臣系の人間としては他に道がなかったのかもしれない。
 ただ旗本としての誇りが、普通の教員に甘んじる事を許さなかったらしい。職業に貴賎はないだとか、人にものを教えるのはそれだけで立派な仕事だとかいう現代の論理は江戸時代の価値観を引きずった人には通用しない。代を重ねるうちに、帝國大学教授を輩出するまでになった。
 以後代々、学者の家柄である。現当主の辰馬まで、全員が私立、国公立の別があるにせよ大学教授を務めている。辰馬本人が言うには他に選択肢がなかったとかで、日本近世史の教授になった。
 外部からは凄いといわれる人物である、とは息子の涼馬にも分かっている。しかし家族として接する分には、多少恐妻家の入った普通のおじさんである。社会的な地位は高いかもしれないが、そんなもの家族には関係ない。経済的には確かに平均以上の収入があるものの、それが家族を潤すかとなるとそうでもないのだ。
 とにかく、学問に金を使ってしまう。絶対に全ページコピーを取った方が安価であるに違いない研究書、資料で家が埋まっている。当人も著作をするが、専門的な研究書など学会の狭い範囲でしか読まれないので印税も大した額にならない。その上その研究書を誰が最も買っているのかと言えば、他ならぬ自分自身なのである。師匠筋に当たる教授、逆に弟子に当たる学生、研究者、そして仲の良い教授に自分の著作を配る。定価ではないとはいえそれも無料ではなく、印税がかなりの部分が食われてしまうのだ。これは学会の習慣なので仕方がない。
 そのくせこの前、いい加減家が手狭になったと言って書庫を増築してしまった。これでは金がたまるはずもない。
 母親、理沙子も大学教授、こちらは私立大学で英文学を教えている。共働きなので経済的に余裕が…とならないのが澤守家の財政事情である。学問に対する金の使い方は、夫以上に荒い。原書を日本で手に入れようとすると相当な額になるし、更にフィールドワークとして頻繁にイギリスへ出かけてしまう。大学が出張旅費を出してくれる範囲では物足りないのだ。増築した書庫も半分はこの人のためのものである。
 個人的には夫ほどの強烈な出自は持ち合わせてはいない。ごく普通のサラリーマン家庭の娘である。しかし半ば成り行きで学者になってしまった夫に比べ、女性の社会進出が今より難しい時代に学問を志して成功させてしまったことを考えれば、かなり芯の強い所がある。夫とは学生時代に知り合ったとのことであるが、興味がないので涼馬は詳しい事情までは聞いていない。
 母親としてはまず優しい人で、父親がかなり遠慮している事には疑問を感じるのだが、これにはこのような回答がある。「お前は母さんの本当の怖ろしさを知らない」これは辰馬だけのコメントではなく、長男静馬も同じことを言っている。もちろん本人のいる所でではないが。
 その兄、静馬は世界的に有名な若きヴァイオリニストである。それは確かに凄い。その才能は涼馬も認めている。ただ世間の人が思い描くような人格の持ち主ではないと、涼馬は知っているのだ。
 ヴァイオリン奏者となると何となく高尚なイメージがあるが、しかしそれが演奏者の人格を保証するなど絶対にあり得ない。無論天才ヴァイオリニストで人格者、という人も少なくないだろうが、少なくとも澤守静馬はそんな人ではないのだ。ただ好きなことをやっていてたまたまそれに才能が適合していただけ、もし本当に面白いと感じるものがバイオリンではなくエレキギターであれば間違いなくバンドでもやっていただろう。ある種芸術家らしいと言えば芸術家らしいのだが。元々学者一家でいきなり音楽家になってしまうあたり、変わっていると言えば変わっている。
 それに少々女性関係に問題がある。それはまあ恋愛は自由だし結婚するまで手を握るのもだめ、などとは涼馬も考えないが、しかしとかく長続きしないのだ。少なくとも十人以上、付き合いのあった女性の顔を涼馬は思い出せる。名前を聞いただけ、となるとその何倍にもなる。静馬本人は振られているからそうなってしまうと主張しているのだが、そんなもの信用できないし、振られないような相手を選ぶくらいできるだろうと涼馬は思う。とりあえずもてるのだから。
 さておき、その澤守家の問題児も一応仕事はまじめにしているようで、海外を飛び回っている。つまり留守がちで、今も家を空けているのだ。
 そんな家庭である。肩書きは立派かもしれないが中身は普通だ、と涼馬は思っている。そこで育った自分自身普通の高校生、それが自己認識だ。無論異常な人間はえてしてそれに気づかない、という一般論も承知しているが。
 トースト、ベーコンエッグ、サラダ、牛乳の朝食を終えて一応食器を片付ける程度の事はする。そして歯を磨いて制服のネクタイを締め、ジャケットを羽織って鞄を取れば出かける準備は完了である。
「行って来ます」
「ああ、行ってらっしゃい」
 父の声に送られて、涼馬は学校への道をたどった。
 徒歩で十五分、体力と足の長さにものを言わせて走れば五分もかからない。それが涼馬に北条坂高校を選ばせた最大の理由である。学力的には最高レベルの進学校に行くことも不可能ではなかったのだが、電車で一日一時間以上往復する分を勉強に回した方が有益だと判断した。元来北条坂高校の学力レベルも十分に高く、進学成績もかなり良い方だ。卒業生には著明人も少なくない。澤守辰馬、静馬親子もその中に入っていたりするが。
 方角の関係から裏門を使い、校舎に入る。教室に入ったのがいつも通りの八時二十分、家が近い人間に限って時間ぎりぎり、あるいは遅れて来たりするものであるが、涼馬はそのような悪癖とは無縁だった。何をするのにも、なるべく決められた時刻の十分前にはそこについているようにしている。そして席につかないうち、挨拶もそこそこに声をかけられるのもいつものことだった。
「澤守、悪い。今日の数学の宿題、ちょっと見せてくれないか」
「ああ」
 席で鞄から出した教科書、ノートを机の中に移し替えながら数学のノートを取り出す。朝一番で頼み事をしてきた生徒は、喜んでそれを受け取った。
「お、澤守のノートか。俺にも見せろ」
「あ、それ俺も」
「あれ、お前さっき、宿題はやって来たって言ってなかったか」
「自信ないんだ。答え合わせはしておきたい」
「こら、合っている保証なんてどこにもないぞ」
 涼馬は一応そう断ったが、半ば相手にされなかった。
「そんなこと言って、間違ってたことなんて一度もないじゃないか」
「そうそう、たまに分からなくて空けてあるけど、そんな問題はもう誰にも分からないし」
「そうでもないよ。志望を理系に絞っている人にはもうさすがに勝てない」
「駄目駄目、あの連中のノートは見たってまるで分からないよ。略が多いし字は汚いし」
「って、喋ってる時間ないぞ。これ一限なんだから」
「あ、俺平気。答え合ってたから」
「こいつ…」
 そうこうしているうちに始業時間、涼馬はノートを回収して席についた。生活指導その他にあまりうるさい学校ではないので、出席を取るだけのホームルームの後すぐに授業である。
 一限数学、初老の教師が前回の復習を兼ねて出しておいた宿題を生徒に当ててくる。どうやら生徒のレベルに合わせて当てる問題を決めているらしく、おおむね滞りなく黒板に正解が並んだ。涼馬のノートも功を奏している。その後、新しい問題が黒板に書かれた。
「ちょっと応用だが、まあ教えた事を使えばちゃんとできる。少し時間をやるから考えてみてくれ」
 そんな前置きをしてから、教師は置いてある椅子を使って一休みである。問題は凹凸のある図形の回転体の体積を求める、積分だ。見るからにややこしい問題を前に、大半の生徒が手をつける前から諦めてしまった。ただ、涼馬は少数派に属する。
 確かに易しい問題ではないが、しかし極端に高度な数学的センスを必要とするものでもない。まず与えられた図形を軸に沿って回転させた際にどのような立体ができるかをイメージし、それをもとに積分公式を当てはめて行く。そこから先は計算を機械的に処理して答えを導き出すだけだ。重要なのは最初の想像力、その後は注意力と根気さえあれば正解にたどり着く。
 ノートに一通りの解答を書いて、もう少し楽のできる解法がないかと調べてみる。そうしている内に、教師が立ちあがった。
「さて、それじゃあそろそろ誰かにやってもらおうか。澤守、できるか?」
 大体こういう応用問題を当てられるのはクラスでせいぜい四、五人、できるに違いない人間と決まっている。授業時間を無駄にして余計な労力を使うのが嫌、そんな教師なのだ。指定範囲を終わらせられないと補習などしなければならない、それを避けている。
「はい」
 涼馬もできているつもりなので逆らわない。ノートに書いてある通り、整理して数式を書いて行った。
「良し、合っているな。積分なんてものは大体こんなもので…」
 終わったところでそう評され、解説が始まる。そのようにして一時間目は過ぎて行った。
 二時間目は体育、涼馬のクラスの男子は今日グラウンドでサッカーである。普通なら仲の良い友人と連れ立って体育館下の更衣室に向かう所だが、今日は少し思う所があって誰かに声をかけられる前に教室を出た。
 すると案の定、体育館へと続く渡り廊下の辺りで一時間目の授業を終えた一年生の集団とすれ違う。その中で、涼馬は知り合いを探していた。努力の甲斐があって、体育の授業で張り切ったらしく顔を赤くして、汗を浮かべた女子生徒を見つける事ができた。小柄で顔立ちにもまだあどけなさが色濃く残る。藤野優、この北条坂高校の生徒会副会長だ。涼馬が会長を務めているので知り合った、言ってみれば仕事仲間である。
「あ、澤守先輩」
 クラスメイトらしい女子と話していた彼女であったが、涼馬が声をかける前に気がついた。
「やあ藤野さん、おはよう」
「おはようございますっ」
 元気良く頭を下げる。つられて隣の子まで頭を下げてしまっていたが、涼馬はあまり気に留めていなかった。
 礼儀正しくて好感が持てる、それが藤野優という少女に会った多くの人が受ける第一印象だろう。そしてその好印象が裏切られることがまずない。真面目でよく気がつき、生徒会の仕事にも熱心だ。成績も優秀だと、学年の違う涼馬の所にまで噂が届く。それでいて極端に頭の固い人間でもなく、明るく活発な性格だ。その小さな体に収まり切らない元気の程は、今この汗を流した様子を見れば良く分かる。
 容姿も中々に可愛らしい。確かに小柄でTシャツとブルマの体操服姿を見てすぐに分かってしまうほど細い体をしている。お世辞にもグラマーとは言えない。しかしつぶらな瞳と少し下がり気味の眉、すっきりとした鼻筋に小さな口をして、柔らかい輪郭をおかっぱの髪が飾っている。そんな愛らしい様子の顔立ちには、むしろそのような体つきの方が似合っているように思えた。つい抱き上げたり頭を撫でたりしそうになる、そんな親しみやすい印象を与えるのだ。
 しょうもないとは分かっているが、例の「ブルマ伝説」の存在にちょっと感謝してしまう涼馬だった。無駄な肉のない太ももがあらわなのが実に良い。理性ではいけないと分かっていても、涼馬も健康な男の子であるので、可愛い女の子が相手だと余程気合を入れていないとついそういう所に目が行ってしまう。
「今まで体育だったんだ。ええと、今の時間はバスケかな」
 格好を見れば何をやっていたか分からない方がどうかしている。そしてカリキュラムは一年二年で変わるものではないから、去年自分のクラスの女子が何をやっていたか覚えていれば推測するのは容易だった。
「はい」
 うなずいてから輝く真っ直ぐな瞳で見上げてくる。涼馬はクラスの中でも一二を争うほど背が高く、逆に優は女の子の基準からしてもかなり小柄である。近くで話すとお互いかなりの角度がつく。涼馬はつい腰をかがめようかと思ってしまうのだが、相手が可愛そうなので止している。
「試合結果は?」
「十四対八で私達の勝ちです」
 優が小さな胸を無意識にそらしている。それが微笑ましくて、涼馬は笑いかけた。
「だろうね。君の得点は?」
「十です」
「さすが」
「でも先輩なら二十点くらいいつも普通にいれてしまうでしょう」
 信頼を込めた目で見上げてくる。涼馬は苦笑してしまった。
「そうだけれど、僕の場合は身長で強引に押し込んでいるだけだし、それにみんなが僕にボールを回してくれるだけだから。藤野さんの方ががんばっていて立派だと思うよ」
 そうやって褒めてみる。するとさらに、優は顔を赤らめた。性格まで可愛らしい、と涼馬は思っている。
「いえ、わたしは別にそんな、がんばっているだなんて」
 素直に喜んでくれるところがまたいい。しかしそれが、一転した。
「あっ」
 急に、声を上げて後ずさる。さっと血の気が引いているのが目に見えて明らかだった。何があったのかと驚きながら、とりあえず涼馬は踏み込んだ。何か彼女が倒れてしまいそうな勢いだったので、そうしたのである。歩幅の差、体勢の違いもあって距離がだいぶ縮まる。
 ふわり、といい匂いがした。それが彼女の汗の匂いであると、半瞬の後に涼馬は気がついた。臭いだとかそんなことは全くない。甘酸っぱい、初夏の風のようなさわやかな香りだった。人工的な香料に頼らなくても、美少女はいい匂いがするものだ。
 しかしまさかそんな感想を表に出すわけにも行かないから、平静を装って尋ねる。
「どうしたの」
「な、何でもありません、何でも」
 顔色がまた急転する。再び朱に染まったが、これは運動のせいではないらしい。視線を落として口を引き結んでいる。理由まではすぐにはわからないが、羞恥の表情だった。激しく首を振ったので汗が飛んでいる。
「つ、次の授業がありますから、それでは」
 か細い声でそう言って、逃げるように立ち去ってしまった。
「ああ、また、生徒会室で」
 そう声をかけるのが精一杯で、後姿を見送った。変な目で見てしまったのが悟られたのかもしれない。そう思うと喉に詰まるような後悔がわだかまる。走っているものだから小さなお尻がゆれている。ついそこにまた目の行く自分が、心底情けなかった。
 それに彼女がブルマ着用ということは、一つの疑念を抱かせる。もし優が例の伝説を多少なりとも信じているのなら、その意味では「彼氏募集中」ということになる。無論、何の気なしにはいている可能性の方がはるかに高いとは分かっている。しかし、誰に気があるのだろうと考えてしまうきっかけになるには、十分だった。
 優の姿が消えてから、涼馬は暗いため息を一つ吐いた。

 そして体育の時間。自ら招いてしまったストレスを発散させるべく、涼馬は走っていた。敵チームのパスミスでこぼれたボールに素早く追いつき、ドリブルして敵陣に切り込む。一人の生徒が立ちはだかったが、足の速さにものを言わせて一気に抜き去った。それでもう追い付けない。
 しかしもちろん、そのまま放っておかれる訳ではない。すぐに別の生徒が進路を塞いで来る。さっきは別段運動をしていない、授業でやっているだけの生徒だったが、今度はサッカー部のしかもレギュラーだと涼馬の記憶にあった。フットワークの良さが違う。スピードやパワーだけなら涼馬としても負けていないつもりだが、さすがにテクニック面では劣っている。これは抜こうとしてもボールを取られる可能性が高い。涼馬は無理をせず、多少引きつけた時点でパスを出した。
 ボールが味方チームサッカー部員の前に綺麗に収まる。経験者が固まると試合にならないので、授業ではバランスを取るためにその種の部員は分けて配置するのが普通だ。今度は彼が華麗なドリブルを見せてボールを持って行ってくれる。それを見ながら、涼馬自身も前へと進んで行った。
 直後、ゴール前で混戦が展開される。大概体育の授業の場合、体力や技術に自信のない生徒は消極的になって守りに回るものだが、この局面では彼等もさすがに動き出して来る。そこに両チームの運動量の多い生徒が加わって過密状態になり、かなり面倒なことになるのだ。普通にシュートを打つこともままならない。涼馬はその只中に入って行く危険を避けて、機会をうかがっていた。
 やがてボールが動くに連れて人の流れがそちらに寄り、わずかではあるが空白地帯が生まれる。サッカー部員同士もお互いのボールを奪い合うことに熱くなってそれに気づいていない。涼馬はその空白に素早く走り込んだ。
「パス!」
 鋭く声を上げて体勢を整える。本来のチームメイトのしつこさに辟易していた味方サッカー部員がボールを蹴り上げた。ゴールキーパーの生徒が慌てて飛びつこうとするがもう間に合わない。ゴールネットが揺れる。それだけしか見えないほど、鋭く強烈なシュートが決まった。
「よっしゃー!」
「ナイス、澤守!」


 味方の歓呼にガッツポーズで応えてから、自陣に戻って行く。今日はもう少し頑張ろうか、と涼馬はそんなことを考えた。
 
 授業を終えると生徒会室に入るのが涼馬の日課だった。生徒会長は確かに楽な仕事ではないが、しかし毎日そうする必要があるほどの激務でもない。集中的にするよりはこつこつする方が好き、その性格がまず第一の理由である。もう一つごく個人的な理由があるが、これは誰にも明かしていない。
 とりあえず処理の必要がありそうなのは、この前の体育祭に関するものだった。本来会計、運営、購買など部門ごとに分けられるべきものが、一緒くたになってダンボールに放り込まれている。これは放っておくとあとで面倒になるので、今の内に取りかかることにした。昨年度末、涼馬の責任ではないが痛い目を見ているのだ。
 先代の生徒会長が涼馬とは逆に集中的に仕事をするタイプで、当時副会長だった涼馬はその激務に付き合わされてしまっている。副会長は二年生にもう一人いたのだが、この人はいかにもか弱い女性なので夜遅くまでの作業を手伝わせられず、涼馬が貧乏籤を引いたのだった。その二の舞は避けたい。
 とりあえず資料を引っ張り出して方針を定め、取りかかろうとした時に会室の扉が叩かれた。返事を待たずにそのまま開かれるので、生徒会役員であると分かる。それにそれ以前から、涼馬にはそれが誰であるのかまで見当がついていた。呼びもしないのに来てくれる奇特な人間は少ないのだ。顔を上げるとやはり、あの可愛らしい顔が戸口に見える。
「やあ藤野さん」
 今朝、彼女が機嫌を損ねていたので、涼馬としてはかなり身構えていた。もし彼女に嫌われでもしたら、後半年会長と副会長の任期じゅう、気まずいまま過ごさなければならない。しかしここで返ってきたのは、いつもの明るい笑顔である。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。いつもご苦労様」
 とりあえずもう、何でもない様子なのでほっとする。優はかぶりを振って、近づいてきた。
「いえ、先輩の方こそいつもいつも。それで、今日は何を?」
「体育祭の残務整理だよ。中々、数が多い」
「それは他の人がいるときに、一緒にやっておけば良いのでは…」
 心配そうな顔になる。涼馬一人が仕事をするのは不公平だと思っているのだろう。別に激務をこなしているつもりもないので、涼馬は苦笑を返す。
「そのつもりだけど、役割分担をするのにも最低限整理をしておかなければならないから。本来なら書類ができた時点で整理ができているはずなのだけれどね」
「みんな競技の方に熱中しちゃいますからね。手伝いましょう。分類の方法は?」
 体相応の小さな手が差し出される。それに大量の仕事を押し付けるのが悪いような気がして、涼馬はかぶりを振った。
「いや、別にいい。今は僕が好きでやっているだけだから。いずれ君にも仕事を割り振るよ」
「そんなふうに言って、わたしが手伝わずに見ていられるとでも思っているのですか。今日は道場に行くまでの時間を潰しに来ただけですから、手伝いますよ。さあ、貸してください」
 語気を強めてもう一度手を差し伸べる。ある種姉か母親のようなやり方で、これではどちらが先輩か分からない。人によっては煙たいと思うかもしれないが、涼馬はそんな優に好感を持っていた。名前の通りの、優しさだと思うのだ。
 結局甘えることにする。
「ありがとう。それなら、こっちをお願いしようかな。分類は会計と…」
 約半分を手渡す。書類として処理する以前に、重量のある塊として相当な量だ。小柄な女の子の細い腕には持つのも厳しい、と見えるのだが、優は特によろめきもせずにそれを持って隣の席についた。意外にパワフルで、それが涼馬としてはむしろ微笑ましい。
 そして黙々と、書類の整理が始まった。一つの仕事をやるとしばらくそれに集中するのは二人に共通した特質である。しかしこの時、涼馬は始めのうちむしろ人並み以下に集中力を欠いていた。本来の自分とは違うと分かっていても、そう簡単に治るものではない。
 横目で優を見やる。仕事に真剣に取り組む様は誰のものであっても美しいが、しかしこの時の涼馬には彼女が特別な存在に思えた。普段は生き生きと輝く目が今は伏せられて、いつになく大人びた雰囲気をかもし出している。手つきも流れるようだ。涼馬の手は、もう止まっていた。
 どうしてこうも意識してしまうのかを考える。それは多分、今朝彼女の匂いをかいでしまったから、そう結論付けるのに長い時間はかからなかった。甘酸っぱい少女の香り、その余韻が神経を昂ぶらせている。今はさすがに直接匂いを感じはしないが、しかしこの広くもない部屋で二人きり。彼女と同じ空気を吸っている。くらくらしそうだった。 そもそもまず、二人きりなのだ。相手を異性として意識し始めれば、健康な男として全くの冷静さを保っていられるはずもない。
 が、しかし涼馬は何とか自分を理性的な方向にもって行こうとした。今の生徒会役員の中で、この子が最も真面目に、純粋に仕事をしてくれる。他のメンバーには大学への推薦に有利なように生徒会の経歴を欲しがるものがいたり、あるいは涼馬に言い寄って来るものがいたりと不純な動機の見えるものが少なくない。そんな彼女の脇で会長である自分が妙な考えに浸っているなど、許されることではない。
 それに優自身に自分がそんなことを考えているなどと、絶対に悟られたくはなかった。彼女は涼馬個人にとっても大事な仲間だ。彼女に軽蔑の眼差しを向けられる、明るい笑顔が見られなくなる、それには耐えられないだろう。
 妄想を追い払うべく、涼馬は手元の資料に集中した。元来そう深刻なものではなかったのか、すぐに文字や数字が意識を満たして行く。今のはただの気の迷いだと、そう思いたかった。
 そしてしばらくして、涼馬の方でもだいぶ処理済のものが溜まってきた所で、溜息が聞こえてきた。優が背もたれを使って体を伸ばしている。
「はあ。他の人達も手伝ってくれればいいのですけれどね」
 涼馬は彼女を見やった。
「僕にもっと人望があればね、もっと色々と変わって来るけれど。君には苦労をかけてばかりで、本当に済まない」
 何故か少し驚いてから、優は勢い良く首を振った。
「いえ、わたしは、そんなつもりじゃ」
「ああ、ごめん。愚痴になっていたね」
 苦笑して首を振る。つまらないことを言ったものだ。気の効かない人間だと、こういう時にはつくづくそう思う。相手の気持ち一つ明るくできないのでは、何にもならない。
「謝るのは私のほうです。不用意でした。それに、先輩に人望がないなんて、とんでもない」
 優はまるで自分自身のことのように、懸命になって言ってくれる。気を使ってくれているのだ。これ以上そうさせても悪いから、涼馬は表面上でも立ち直ることにした。
「うん、そうだね。とりあえず藤野さんがいるんだから、今みたいな言い方は君に失礼だったね。ごめん…いや、ありがとう」
「はい」
 なおも不安そうに、大きな目で見つめてくる。これ以上は不毛だと判断して、涼馬は切り上げる事にした。
「さて、今のうちに片付けてしまおう」
 一時であっても会話を拒絶するために書類に視線を落とす。それで優も、仕事に戻ってくれた。
「終わるとは思っていなかった」
「わたしもです」
 やがて二人して、間の抜けた台詞をはく結果になってしまった。どういう訳かはかどって、ダンボール一箱分の書類がなんとか整理されてしまったのである。どちらからともなく笑みがこぼれる。
「やってみるものですね」
「全くだ。諦めていては何も始まらない。そうだったよ。ありがとう」
 半ば衝動的に、涼馬は優の肩を叩いていた。
「いえ、どういたしまして」
「さてと、さすがに今日はもういいな。少し、ええと、そういえば、道場って、合気道の道場だよね」
 少し話がしたかった。そのきっかけを、涼馬は先ほどの優自身の言葉に求める。
「あ、あれ。先輩にその話はしましたっけ」
 また急に顔を赤らめる。どうやら女の子で武道をやっている、と言う事に恥じらいを覚えているらしい。しかしそんな辺りに、むしろ涼馬としては女の子らしさを感じる。
「うん、直接には聞いていないかな。ただ藤野さんと言えば語学の女王、料理もできて合気道までするすごい女の子だって有名な話だと思うよ」
 嘘偽りなく、有名な話である。ここしばらく、生徒会関係者には学校有数の有名人が多い。無論生徒会に所属していればそれだけ名の知れる機会は多くなるが、それだけでは有名人とは言えない。先代の生徒会長はただ適当に仕事をこなす、何がやりたくて会長に立候補したのかも良くわからない人で、関係者にならともかく一般の生徒には印象が薄い。特に今の一年生はほとんど顔を知らないだろう。
 現三年で一番の有名人と言えば前年度の二年生副会長、深澄音玲奈だ。学校切っての美貌もさることながら、歴史、地理など暗記科目でほぼ間違いなく満点を叩き出すその神憑り的な成績から「暗記の女神」の称号を奉られる、そういう人だ。しかもこの前の三年生向け実力テストでは、元来良い方だった英語や数学、国語の成績まで上げて来た。本人曰く「今回は頑張ったので」である。普通の生徒の目から見れば全く信じられない人である。ただ、体育の際の微笑ましいまでの鈍臭さからも有名だったりする。
 二年生では言わずと知れた澤守涼馬自身。しかし本人としてはその有名さなど意味のないものだと思っている。
 そして一年生藤野優、語学系五科目全てトップの成績から与えられた称号が「語学の女王」、本人が語らなくても他の一年生や教師たちを経由して二年生にも知れ渡っている。そんなものである。それにつれて色々な評判が立つ。調理実習ではクッキーから味噌汁まで完璧なものを作るし、体育をやらせれば小柄な体からは信じられない活躍を見せる。そして合気道の有段者。顔立ちも愛らしい。これで有名にならないほうが無理というものだ。さすがにまだ上二人ほどに強烈に知れ渡っている訳ではないが、知り合いとして注意して聞いていれば色々な情報が入ってくるのだ。
「それは、まあ、語学は得意ですから。でも、武道なんて、女の子らしくないでしょう」
 やはりそんなことを気にしている。涼馬は笑みを誘われた。確かに合気道は習熟すれば十分に強力な武術であるが、他のものほどの腕力は必要としない。誤解を恐れずに言えば女性向きである。涼馬は彼女の心をほぐそうとこころみた。
「護身術だろう。それに藤野さんは、十分に可愛いと思うよ。容姿もそうだけれど、そうやって恥かしがったりするあたりが特にね」
 しかしこれは、あまり成功はしなかった。いよいよ顔を真っ赤にした優が、目だけを向けてくる。
「からかわないで下さい」
 とっさに涼馬は、訂正する必要を感じた。やはりどうもうまく行かない。とりあえず軽い人間だと思って欲しくなかった。つい語調を強めてしまう。
「こんな話題で女の子をからかうような人間じゃないよ、僕は。そう思われているとは残念だな」
「すみません、言い過ぎました」
 優がぺこりと頭を下げる。本来悪いのは自分なのに、と思うと涼馬は心苦しくなった。
「分かってくれればいいんだ」
 ちょっと溜息をついて話題の方向をずらす。間を取るために、何となく脚を組んだ。
「有段者だって聞いているけど」
「ええ、一応」
「初段?」
 一応、と言うからには初段であろう。涼馬はそう判断した。日本語の解釈からしてそうである。しかし彼女の返答は、それを裏切っていた。
「二段です」
「それは凄いなぁ。中学を出たばかりなのに。努力も才能もなければできないだろう」
 合気道に関してはあまり詳しくないのだが、十代半ばにようやくさしかかった時点で二段まで取っているなど、そう簡単ではあるまい。しかし謙遜してか、優はかぶりを振った。
「いえ、道場が近所で、小さい頃からやっているだけですから。それにそろそろ止めようかと思っていますし」
「どうして?」
「体を動かすのは好きですけれど、私の場合それが別に武道でなくてもいいって、気がついたんですよ。これから勉強も忙しくなりますし。先生には今止めるのはもったいないって言われていますけど」
 少し言葉の歯切れが悪い。彼女自身悩んでいるようだ。思慮深い所もある。自分が下手に判断をするよりは、と思って涼馬は自分の意見を表そうとしなかった。正確な判断をするためには多くの情報が要る。彼女の判断にとって最も多く情報を持っているのは、もちろん彼女自身なのだから。
「うん。そういう状況なら、僕はとやかく言わない方がいいか。結局君自身が決めるしかない事だから」
「ええ。あ、そう言えば先輩も剣道は強いって話じゃないですか」
 これ以上自分の話題をしたくないのか、やや強引に優がそう振って来た。これはもう、彼女に合わせるしかない。
「初段だよ。剣道ならそんなに苦労しなくても取れる」
 普通の運動神経を持った人間がそこそこ努力すれば取れる、現代日本の剣道の初段とは大体そんなものである。涼馬自身、剣道の段を取るために努力した覚えはない。授業で剣道があって、そのついでに取っただけである。
 しかし優は、何か確信を持って反論してきた。
「剣道部の人とやっても負けないじゃないですか」
「見たことはないだろう」
 確かにそのような事実はあるが、優が知っているとは信じられなかった。クラスどころか学年が違う。しかし彼女は華やかな笑みを見せた。
「ありますよ。一学期の終わり頃に授業をやっている時の道場の前をちょっと通りがかったので、のぞいてました」
 状況が具体的だ。どうやら間違いないらしい。半ば無意識に、涼馬は顔に手をやっていた。ちょっとした癖である。
「それは、もうちょっと張りきれば良かったかな。ただあれも身長、腕の長さがものをいう所があるからね。君が見たのはあまり背の高くない人とやっていた時じゃないかな」
 剣道部員の中にもうまい下手はあるし、それに剣道だと基本的に身長の高く腕の長い人間のほうが有利だ。剣道部員全員と互角に試合ができる訳ではない。しかし見られていると知っていたなら、恐らく勝ちを奪いに行っていただろう。もっともそうやって相手以外に注意を向けていれば、普通は負けてしまうのだが。
「確か、そうですね」
 記憶を探ろうとしてはっきりしない、そんな顔になった。涼馬は素早く、そこに説明を加える。
「別に僕が偉い訳じゃないよ。君の事を誉めるのは、その逆が言えるからだよ」
「でも結果を出せると言うのは、それだけですごいことだと思いますが」
 優はなおも、賞賛してくれる。この全幅と言っても良い信頼がどこから出てくるのか、涼馬には分からなかった。ただそんな彼女には、気を許してつい本心を語ってしまう。
「結果か。僕もその結果を望んでいたなら遠慮なく胸を張っているよ。でもそうじゃない。それは僕も人間だからどうせするなら勝ちたい、そう思うし剣道はそれなりに好きだ。でも剣道部で真面目に練習を積んでいる人達に比べれば、そんなに熱意があるわけでもないんだ。都合が悪くなったらすぐに止めてもいいと思っている。そんな人間が勝ってしまったら、ちょっと申し訳ないと思うんだ」
「うーん…」
 優は考え込むが、涼馬が先ほど答えを出さなかったのと似たような理由で、彼女にも言うべきことは思いつかないだろう。贅沢な悩みだとは分かっている。それだけに自分自身にしかどうにもできない。だから涼馬は、自分の論理を補強した。
「勉強だってそうだよ。やっておかなければならないと思っていたら気がついたらトップ。このままの成績をキープすれば医大にも楽に入れると言うけれど、医者になる気も特にない。両親の研究も端から見て面白そうと思えないしね」
「音楽に興味は?」
「兄のことだね。確かに好きなことをやって大成して、あの生き方はうらやましいって思っているよ。でも聞くほうはともかく演奏するのはやっぱりそれほど好きじゃないし、第一僕には兄ほどの才能がない。一家に二人も三人も天才は生まれないよ」
 仕方のない兄だと思っている節もあるが、それでも身内だし絶対にかなわないと才能を認めてもいる。わざわざ悪口を言おうとは思わなかった。しかしその分、優に対しては難しい答えになってしまっている。
「じゃあ、今結果を望んでいることとか、特にないんですか」
 そろそろ困った彼女は、そんなことを聞いて来た。もちろん涼馬も人間だ。希望くらいある。それのない死んだような人間だと心配をかけたくもないし、きっぱりと否定した。
「いや、それはあるんだ。将来の夢とか、そんなものじゃないけれどね。いや…できれば将来にもつなげたい、か」
 曖昧な言葉をつなげながら、つぶらな瞳を見据える。彼女はまばたきした。どうやら分かってはいないらしい。
「何だか分かりませんよ、それじゃあ」
「分からなくていいよ。言っても多分、笑われるだけだから」
 とりあえず自分で言っていておかしくなる。馬鹿なことをしている。しかし優はそれで気分を害するでもなく、問い詰めてきた。
「笑いません」
「本当に?」
 真剣に問い返す。もし自分の希望が笑いもせずに受け入れられたなら、それは素晴らしい事だと涼馬は思っている。
「はい」
 そしてあくまで真剣に、優は見返してくる。涼馬は長い時間をかけてそれを眺めていたが、やがて目を逸らした。それを言う資格は、恐らく自分にはないのだ。
「でも言わない。今言うべき事じゃないだろう」
「そうですか」
 うつむいてしまう。今日何度目か、ややぎこちなく話題が変えられた。
「僕の事より、藤野さんは将来の夢とかあるのかな」
「私は、翻訳とか、通訳とか、そういう仕事ができればいいなって思っています」
「ああ、なるほど。そうだよね。成績にも合っているし」
「ええ。ですから結局、好きでやっていると言う訳です」
「うん、それがいいよ。翻訳と言うとやはり英語かな」
「そうですね。でもフランス語もやってみたいなって、思ったりしますよ」
「フランス語か。ドイツ語の方が実用としては使える範囲が広いらしいけど、君が興味を持っているのは文化、芸術関連かな」
「そうですね。パリコレクションは有名でも、ベルリンコレクションってあんまり聞きませんから」
「なるほど」
 そのような話題で、しばらく話をしていた。自分が話をしてもさして面白くはならないので、なるべく優が話すように持って行く。それを嫌がりもせず、彼女は時間の許す限り付き合ってくれた。やがて時計を気にして立ち上がる。
「あ…っと、そろそろ行かないと…」
「ああ、もうこんなに経っているのか。藤野さんと話していると時間の経過を感じないね。またこういう機会が持てると嬉しいな」
 自分で言っていて作り物めいた台詞だとは思うのだが、しかし紛れもない本心だった。ただそれが、彼女に通じたかは分からない。やや深く一礼したので表情を見ることもできなかった。
「はい。それでは、失礼します」
「うん。道場の方、がんばって」
 それでも笑顔で、涼馬は彼女を見送った。今はそれでいい、そう思うのだ。
 少しして、涼馬は窓際に立った。普段自分では使わない正門が見える。そして、そこには少女の後姿があった。見慣れた制服、少し短くした髪、遠目にも小柄と分かる体躯、間違いなく優だ。少し急いでいるらく、足取りが速い。しかし直感的に見ていると分かったのか、急に振り向いた。
 手を振って見送る。すると優は深々と一礼して、それから立ち去って行った。
「…さて、僕も行くかな」
 これから更に仕事を見つけてする気にもなれないので学生鞄を取り上げる。そこでふと、気がついた。
「一緒に帰れば良かったか」
 呆けた自分の頭を一つ叩く。しかしすぐに、その頭を振った。どうせ一緒に行った所で、そもそも使う門から反対方向だ。会室を出てすぐに別れることになる。肩をすくめながら、涼馬はその場を後にした。

 別段用事も思いつかなかったのでまっすぐ家に帰る。入ってみると、既に夕食の支度が始まっていた。作っていたのは母親、理沙子である。
「あれ、何か仕事の方が忙しいんじゃなかったっけ? 論文を煮詰めてるって、朝父さんが言ってたけど」
「分かってないわね。完全に煮詰めてしまえばできあがりってことでしょう。後はもう手直しして終わり、めどはついたわ」
 いたずらっぽい、若々しい笑顔で振りかえる。この人もいい意味で教授には見えない。
「なるほど」
 テーブルに置いてあった夕刊に目を通す。また凶悪な少年犯罪が起きた、不良グループ同士の抗争で死人が出たとのことである。喜ぶべきではないのはもちろんだが、しかし涼馬にとっては基本的に他人ごとだ。北条坂高校はごく穏当な校風で知られている。
 やがて夕食の支度が整い、家族三人での食事となった。両親が大学関連の話を始めたので涼馬は黙って食べて、そして部屋に引き取った。
 軽く予習をして、その後風呂に入って、それからは何となくぼうっとしていた。CDがかけられているが聞いてはいない。やがてそれも不毛だと思って、早めに寝てしまう事にした。しかしそうすると、中々寝つけない。
「もうちょっと何とかならないかな…」
 寝返りを打ちながら、涼馬はそうつぶやいていた。

続く


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