午後の恋人たち 新章

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1 藤野さんの日常


 カーテン越しの柔らかな光がまぶたをくすぐる。それで体の中に蓄積された眠気はどこかへ退散してしまう。ぱっちりと目をあけて、優は布団をはねるように起き上がった。習慣にしたがって勢い良くカーテンを開ける。秋の朝日が、寝室兼勉強部屋という日本人の学生には珍しくもない狭い部屋で踊り回った。
「んーっ、いい天気!」
 それを全身に浴びて伸びをする。既に体が動き出す準備を整えている。布団の中でくだくだと粘ろうとするなど、朝のこの貴重な時間を浪費するものだと思う。この部屋は二階建てのここ藤野家の中で、二階の北東角なので陽光を楽しむには午前中しかない。寝起きがいいのは自慢の一つだ。足取りも軽やかに、優は顔を洗いに洗面所へ向かった。
 顔は洗顔フォームで洗うだけ。冬場にリップクリームを使うくらいはするが、基本的に化粧はしない。高校生になったのだからそろそろ習慣にしてみようかとの女心もあるのだが、しかしその決心はつかなかった。眉も元のままだが、しかし細く吊りあげ気味にしてみても自分には似合わないような気がする。日焼けは夏場に自然にする程度で、そろそろ白くなりつつある。時代はナチュラルピュアだ、多分。
 一度部屋に戻ってライトブルーのパジャマを脱ぎ、白のブラウス、青いプリーツスカート、臙脂のリボン、そして白の三つ折りソックスの制服を身につける。ブレザーは後で着る。それから今度は、丁寧に髪を梳かした。光を浴びると綺麗に天使の輪が浮き出る黒髪は、美容院でいつも肩に届かない程度のショートヘアにしてもらっている。そのつもりはないのだが、しかし人には良くおかっぱと言われる髪型だ。自分では毎朝今のように、前髪に少し手を加えるなどしているつもりなのだが。
 これで身だしなみ完了、学生鞄は昨夜のうちに教科書を入れるなど、準備は済んでいる。そうして一階に下り、居間に入った。藤野家ではここで食事をとる。元々この家に、居間と食堂を分けるような余裕はない。優自身高校に進学してから、ようやく狭いながらも個室の主となったのである。妹の恵と愛は共同部屋、末っ子である弟、栄は両親と一緒に寝ている。収入があるようになったらすぐに独立するつもりだ。大学には行くつもりだが、それも下宿はまず無理だと承知している。
「おはよー、お父さん、お母さん」
 既に食卓についている父親、光男と台所に立っている母親、直子に挨拶する。朝食をとる順番は基本的に出かける順番だ。食品製造会社に勤務する光男の職場は電車を乗り継いで約一時間、優は学校まで電車で一本約二十五分である。恵と愛はそれぞれ近所の公立中学校、小学校に通っているのでもっとゆっくりできる。直子は栄を保育園に送ってからパート先のスーパーマーケットに向かう。
「ああ」
「おはよう、優」
 新聞を読んでいる光男は生返事、直子が挨拶を返した。できあがっている料理を自分で配膳して食卓につく。
「いただきます」
 塩鮭、豆腐とわかめの味噌汁、それから浅漬けに白いご飯。和朝食の定番中の定番に、優は緑茶ではなく牛乳を添える。牛乳はなるべく採るようにする、それが小学校高学年以来の習慣だった。緑茶が嫌いということはないし、牛乳が死ぬほど好きというほどでもない。成長に良さそうだからだ。「前へならへ」をする際に腰に手を当てなければならない体格を気にしてのことである。
 朝の食卓は、少し会話に乏しくなる。別に仲が悪くもないのだが、成り行きでそうなってしまう。高校生になった今、父親とはどんな話題をもって良いやらわからなくなってきたのだ。時々「勉強はどうだ」などと聞かれて「平気だよ」と答える、その程度である。元々あまり口数の多い人ではない。
 愛などはまだ何気ない会話をしているが、恵もそろそろ同じように感じていると本人から聞いた。直子とは今でも友達と同様良く話すが、しかしこの時間帯は家族六人分の弁当を作るのに忙しいので挨拶を交わすのが精一杯だ。三姉妹がそろうと逆にそれこそかしましくなって、栄が肩身の狭い思いをする。
 食事をとる速さは、多分同世代の平均的な女の子より速い。太っていないくせに量もやや多めである。燃費の悪い体質、とは自他ともに認める所だ。太るのを気にする友人達はうらやましがるが、本人としては気にいらない。会話も少ないので、食事はさっさと終わってしまった。妹達が起きてくる前である。
「ごちそうさまでした」
「はい」
 食器を片付けてから自分用のエプロンをつける。弁当作りを手伝って食器も洗えるだけ洗っておく、それが優の日課だった。直子もパートがあるし栄の面倒も見なければならない。栄が生まれるのに前後して、家事は毎日手伝うようになった。
 もっともただ単純に負担をしているつもりは毛頭なく、弁当の献立はかなり彼女の好みに左右されている。妹二人の抗議の合唱、栄の何か言いたげな視線もものともせず、「好きなものが食べたかったら自分で作らなきゃ」とうそぶいている。夕食も優が作る場合には、食べたい物しか作らない。もっとも好き嫌いがないので、気分次第で色々な物ができる。妹のおだてに乗ってやったり、弟のお願いを無条件で聞いてやったりもする。
 そうしているうちに出かける時間が近づいた。歯を磨いてから一度弁当を手に部屋に戻り、ブレザーを羽織る。鏡で身だしなみの最終チェックをして、弁当を入れた鞄を持った。
「行ってきまーす」
 階段を降りてそのまま玄関を出る。父親は既に出勤、妹二人が起きているので母親と三人の声に送られた。

 体育館にバスケットボールの重い音が響く。ボールをついている優の前には、自分よりほとんど頭一つ背の高い女生徒が立ちはだかっていた。しかしこれは、あながち相手だけの責任とは言えない。確かに彼女は平均を上回る身長の持ち主であるが、しかし優の身長は平均よりかなり低い。百五十センチをわずかにではあるが割ってしまっている。バスケットボールのゲームでは勝負にならない身長差、と優は思っていなかった。そうでなければ、リバウンドを取った味方にパスを要求したりしない。かつ、それで実際パスが回って来ている。
 とりあえずドリブルをしていてボールをさらわれる危険が少ない。上下するボールの上限が低いせいだ。後は運動能力の問題である。
 瞬発力にものを言わせてフェイントをかけてから一気に抜き去る。体育館履きが連続して悲鳴を上げるが、それが滑りやすい体育館専用の履物の仕事である。そこから加速してゴールに接近する。
 ただゴールエリアまでまだ距離がある。スリーポイントシュートライン上に、二人の敵方女生徒が立ちはだかっていた。ゴール下の攻防で圧倒的に不利な背の低い人間が得点するには、スリーポイントシュートを狙うのが最も効率的だ。現にゲーム開始から二回ほど、それを決めている。パスが回ってくるのも、味方がそれを期待しているからだ。
 が、期待と予測通りに動いたのではゲームにならない。ライン付近でシュートを打つように減速すると見せかけて、再びドリブルで抜き去った。相手は優の突破力を失念している。後は無防備なゴールがシュートを待っている。ジャンプしつつ軽く放ったボールが、吸い込まれるようにゴールに入った。
「イェーイ!」
「やった!」
「優、偉いっ!」
 味方の歓声、拍手に手を振って答える。ただそれで気を抜いたりはしなかった。ゲーム時間はまだ十分に残っている。張りきって、優はゲームを続けた。
 そうして一時間目の体育が終了、数人の友人と連れ立って、優は体育館を出た。
「ふうーっ、あっつーい」
 手で顔をあおぐ。汗があごから落ちていた。この状態なので、まず向かうのはシャワー室である。渡り廊下を歩いて行く。
「あれだけがんばればそれは熱くもなるって、十四対八で勝ち、しかもその内十得点を自分で叩き出したんだから。一人で五人に勝ってるのよ」
 クラスメイトの有紗が飽きれた声を出す。優は笑って言い返した。
「だってどうせやるんだから、思いきりやらなきゃ楽しくないじゃない」
「そう思ってるのはあんただけよ。朝っぱらからこれだけ動かなきゃならないなんて、考えただけでもうんざりする。せいぜい肯定的に考えて眠気覚まし、と言いたい所だけど結局疲れて眠くなるのよね。その点残り五時間あくびもせずに授業を受けるあんたの元気はどこから出てくる訳?」
「えー、別に、普通だと思うけど」
「絶対に普通じゃない。大体ね、優ったら」
「あ、澤守先輩」
 優は途中から話を聞いていなかった。前から歩いてくる背の高い男子生徒に気を取られている。スポーツバッグを持っているので、二時間目が体育なのだろう。
「やあ藤野さん、おはよう」
 さわやかな笑顔で手を上げる。優は思いきり頭を下げた。
「おはようございますっ」
 つられて直接男子生徒とは面識のない有紗まで頭を下げてしまう。ただ相手は彼女を知らなくとも彼女は相手を知っている。澤守涼馬(さわかみ りょうま)、二年生。この北条坂高校の生徒会長だ。
 それだけでも学校一の有名人になる条件は十分なのだが、この少年の場合その他信じられないくらい有名になる条件を多数備えている。成績は学年トップ、スポーツも万能で、生徒会活動に従事しているため特定の部活には所属していないが、様々な部からいまだに声がかかる。両親ともに大学教授、世界的に有名なヴァイオリニストを兄に持つ。何より印象的なのがその容姿で、体格はモデル並の身長と足の長さ。顔は繊細さと精悍さを併せ持つ、そんな美貌だ。
 文句なく、女子学生の憧れの的である。フリーの女子学生全員が彼のファンであるなどとまことしやかにささやかれ、彼氏持ちでもファンを続けて仲がギクシャクするものは一人二人ではないという。
「今まで体育だったんだ。ええと、今の時間はバスケかな」
 若々しさの中にもどこか落ち着きのある、気品があるとでも形容すれば良いような声だ。それだけでくらっと来る女子生徒もいるし、優もその気持ちは十分に分かる。そうならないのは、一応慣れているからだ。もっともやり過ごして平静を装う要領を覚えただけであって、無感動になったわけではない。
「はい」
 身長差が相当あるので、近くで会話をすると優がかなり見上げる形になる。逆に涼馬としては顎を引いている。
「試合結果は?」
「十四対八で私達の勝ちです」
「だろうね。君の得点は?」
「十です」
「さすが」
「でも先輩なら二十点くらいいつも普通にいれてしまうでしょう」
「そうだけれど、僕の場合は身長で強引に押し込んでいるだけだし、それにみんなが僕にボールを回してくれるだけだから。藤野さんの方ががんばっていて立派だと思うよ」
 自慢すべき所はいくらでもあるくせに、嫌味のない性格だ。基本的に誰にでも優しい。欠点のないあたりが端から見ていて腹が立つこともある、強いて言うならそれが欠点。そんな少年である。
「いえ、わたしは別にそんな、がんばっているだなんて」
 もっとも優としては、腹など立たない。素直に嬉しくなってしまう。しかし次の瞬間、間の抜けた声を上げてしまった。
「あっ」
 不意に優は一歩退いた。気がつくことがあったのだ。というより、分かっていて当たり前のことを失念していた。うかつと言うほかない。
 体育の授業の後でまだ着替えを済ませていないのだから、当然ながら体操着姿である。そしてこの北条坂高校指定の夏用体操服は、下がブルマなのだ。
 恥ずかしい、蒸れる等々の理由で現に着用する女子生徒から嫌われ、多くの学校から急速に姿を消しつつある代物だが、優個人としては特にこれが嫌いでもなかった。動きやすさと肌の露出とは両立が難しいので、彼女のように動くのが好きな人間にはぴったりとしたブルマも捨てたものではない。蒸れるというのも昔ながらの生地の話であり、今彼女が使っているものは通気性もそれなりに良いのだ。
 それに「指定」とはいっても、この学校の場合着用を強制されるわけではない。生徒指導がルーズなのだ。春や秋でも肌寒ければジャージで構わないし、ショートパンツなど部活のトレーニングウェアなどを使う者もいる。それに便乗して、体育会系でなくとも気に入ったスポーツウェアを用いる生徒も少なくない。有紗などはそのくちである。
 つまり嫌なら別のものにするだけでよいので目立った反対運動も起きず、結果として以前のままになっている。とやかくいう人間もいないではないが、あくまで少数派だ。
 さらに、この学校には女子生徒にとっても、ブルマ存続を積極的に支持する理由が一応ある。「体育の授業でブルマを使っていると、恋愛の成功率が格段にアップする」という、正体不明の伝説がささやかれているためだ。さすがに頭から信じ込んでいる人間はいないだろうが、根強く言われ続けているので全くのでたらめだとも受け取られていない。信じられている、というよりは、信じたい、と思われているのかもしれない。そう物事がうまく行く手段があるなら、それに越したことはない。

 というわけで、ブルマ姿の優は太ももをさらしている。もっとも「太」ももといっても余計な肉付きのない、まるで少年のように引き締まった脚である。つまり女性らしい丸みには乏しい。正直な所、本人としてはあまり魅力的だとは思っていないのだ。だからこそ男の目を気にせずにいる面もあるのだが、今この場でだけは、何気ない視線が痛くさえ感じられる。
 それに何しろ激しい運動をしていた直後なのだから、汗まみれである。本人や同様に体育をしていた有紗は気づかなくとも、普通に近寄ってきた人間なら臭いに気がつくに違いない。そう思うと、頭にかっと血が昇ってしまった。あの涼馬に自分の汗のにおいなどかがれては、恥ずかしくて死んでしまう。
 ただならぬ様子に、涼馬も少し慌てる。同じく一歩出るが、しかし前に出るのと後ろに下がるのの違いに加えて元々歩幅の差が大きい。距離がだいぶ縮まった。
「どうしたの」
「な、何でもありません、何でも」
 さらに二歩後退、そして激しく首を振る。それまで頬を伝っていた汗が飛んだ。
「つ、次の授業がありますから、それでは」
 小走りに、優はその場を立ち去ってしまった。視界の隅に涼馬の顔が一瞬だけ捉えられたが、その表情までは読み取ることができなかった。
「あ、うん。また、生徒会室で」
 その声が、優に追いすがっていた。
 シャワーとは言っても休み時間がそれほど長くもないので本当にシャワーから出るお湯で体を流すのみ、ボディーソープを使ったり、ましてシャンプーをしている暇などない。女子担当の体育教師は男子に比べて多少早めに切り上げてくれるのだが、それでも不満の出る所である。
「いいよなー、優は。あの学校の憧れの的、澤守先輩と親しく会話ができるんだから。あたしも生徒会に入っとくんだった。って、あたしじゃ副会長選挙で落ちるか」
 隣のシャワーを使いながら有紗がぼやく。この北条坂高校の生徒会は会長一名、副会長二名、委員六名が中核となって運営され、副会長一人と委員のうち半数は一年生から選出される。会長に関して規定はないが、しかしこれまで一年生で就任した前例がない。三年生は基本的にOB扱い、二年の時に役についた者が進級した後は次期役員の選挙を一学期の早いうちに取り仕切って、それで引退。受験勉強に専念する者が多い。優はその一年生代表の副会長なのだ。
「別に。ただの世間話じゃない」
 言いながら、汗を流そうと体を撫でる。認めたくはないが否定のしようがない事実として、「ぺったんこ」である。きょうび小学生でも彼女より発育の良い女の子は少なくない。これではどうもと、しみじみ思ってしまう。
「話するだけでも幸せ、っていう子だっていくらでもいるのよ。生徒会の二年の、大森さんだっけ。あの人は会長目当てに入ったって有名な話でしょ」
「まあね。でも会長は困っているだけ」
「そんな所か。あんたみたいに普通の距離を取って、真面目に活動をしてくれる人ばかりなら、会長さんも楽だろうに」
「うん」
 優の返事は、やや力強さを欠いていた。
「しかしあれだけかっこいいのに、恋人とかいないのかな。まさか男に興味があるとか」
「好きな人はいるみたいよ」
「お、生徒会内部からの新情報ね。スクープになる。誰、誰?」
「迷惑になるから、言わない」
「うん。さすがに会長秘書だけあってガードが固いけど」
「誰が?」
「あんたよ。いつもくっついてサポートしてるからそう呼ばれてるって、知らないの」
「どうせ有紗が呼んでるだけでしょ」
「まあ、それはいいとして、と。会長の好きな人って、深澄音さんでしょ」
 優の返答はなかった。
「図星ね。大体生徒会関係者からの情報ってことなら見当はつくよ。昨年度生徒会副会長、地下組織ながらファンクラブまで存在すると言われる北条坂高校最高の美少女。容姿端麗、成績優秀、体育は全くできないけれどそのあたりが男の保護欲をそそるという凶悪ぶり。あの会長と深澄音さんなら、確かに憎たらしいほど絵になるカップルだわ」
「別に見かけで似合ってるからそう思っているわけじゃないわよ」
「なるほど、確かなネタがある。でも言わない、と。まあいいけど。っと、いけない。そろそろ行かないと間に合わない。ちんたら話している暇なんてないんだった」
「次は出欠が厳しいからね。行こう」
 二人とも慌てて着替えを済ませ、授業に向かう事となった。

 二時間目、体育の後なので当然眠い。教師によってはここで遠慮なく眠らせてくれる人もいるのだが、しかしこの時間の担当はそうは行かなかった。寝ている現場を発見しよう物なら即座に難しい問題を当ててくる。そこでみな、懸命に寝るのを耐えることになるのだ。もっともそのしわ寄せはもっぱら次の数学の時間に来ると言われているし、それにどれほどがんばっても睡魔に勝てない時もある。
 現に今、優は「これはもう駄目だな」という状態の男子生徒を横目で捕らえていた。ぐらりと傾いては元に戻る、を繰り返している。一応背筋を伸ばした状態でも、しかし恐らく意識が既に飛んでいる。机に突っ伏さないことに全力を注いでおり、授業など聞いてはいない。そんな様子だ。男子のバスケットボールは女子より更に激しく、張りきる者は大概全力を使ってしまう。彼もその一人だ。そして、わずかな余力も使い果たして力尽きた。
「おい、倉田、倉田。ちょっと隣、倉田を起こしてやってくれ」
 教師に言われて仕方なく、隣の生徒が寝てしまった倉田を揺り動かす。それですぐに、彼もはっとして背筋を伸ばした。
「は、はい。なんでしょうか」
「ああ。このinstrumentとはどういう意味だ」
 ほっとした表情が浮かんだ。以前テストに出た、要は知っている単語だったのだ。
「楽器、です」
「その意味もある。ただ、この文脈では通じない。外交交渉の場で楽器をやり取りする事になる。微笑ましい光景だが。藤野、どうだ?」
 今度はきちんと起きていた優にぱっと当ててくる。しかし彼女は慌てなかった。いつものことだ。
「文書、という意味になると思います」
「その通り。いつもながら良く調べてある。結構結構」
 教師は二度ほどうなずいた。優が日頃予習を欠かさず、また本来語学が得意だと知っているのだ。授業を進行させたいときなど、良く彼女に当ててくる。
「倉田も寝ているものだから、てっきり藤野くらいやっている余裕をアピールしているものとばかり思ったんだが、違ったようだな。済まなかった」
 教師は意地悪くそんなことを言ってから授業を再開する。同情の視線が集まる中、倉田は沈んでいた。

 何やかやと、しかし結局はいつも通りの授業を終えて、優は生徒会室に向かった。学生の自由自主を重んじるこの高校では生徒会の影響力が強い。とは言え、生徒会室が広い訳ではない。中央に長机、その他教室で使うのと同じ机が二つ、椅子が数脚、資料の棚、それで終わりである。専任の役員九人が集まっただけで窮屈になり、会議などは他で行う。詰まる所生徒会の資料が他の場所にまぎれ込んだりしないようにする、そのための場所だ。ついでに場所が空いていれば雑用に使う、その程度である。
 会室の鍵は、開いていた。鍵を普段持っているのは会長と一年生副会長であるので、これは中に涼馬がいることを意味している。学校側が保管している鍵を使うことはほとんどない。用事があっても鍵を持っている人間を呼ぶのが普通だ。鍵を持っていないほかの役員などからはもっと合鍵を増やしては、という声も時折出るが、しかし学校側の許可が下りない。元々それほど強い要求でもないので、許可を取ろうとするところまで行かないのだ。資料があるだけの、別段面白くもない部屋である。わざわざ努力してまで来る所ではない。
 身だしなみを確認し、一つ呼吸を整えて、優は扉ノックしてから開けた。小さい方の机で何か仕事をしていた涼馬が顔を上げる。
「やあ藤野さん」
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。いつもご苦労様」
「いえ、先輩の方こそいつもいつも。それで、今日は何を?」
 歩み寄ってみると雑多な書類が山積みになっている。
「体育祭の残務整理だよ」
 例年二学期初頭に行われる北条坂高校名物の一つである。名物になるだけ大規模だが、その分運営側の仕事は多くなる。優は眉をひそめた。
「それは他の人がいるときに、一緒にやっておけば良いのでは…」
「そのつもりだけど、役割分担をするのにも最低限整理をしておかなければならないから。本来なら書類ができた時点で整理ができているはずなのだけれどね」
 涼馬は苦笑して山をかき回した。
「みんな競技の方に熱中しちゃいますからね。手伝いましょう」
「いや、別にいい。今は僕が好きでやっているだけだから。いずれ君にも仕事を割り振るよ」
「そんなふうに言って、わたしが手伝わずに見ていられるとでも思っているのですか。今日は道場に行くまでの時間を潰しに来ただけですから、手伝いますよ。さあ、貸してください」
 ちょっときつめに言ってやる。そうしないとこの人は自分で背負い込んだ荷物を下ろそうとしない、数ヶ月の付き合いで優はそれを学んでいた。涼馬の端正な顔がほころぶ。
「ありがとう。それなら、こっちをお願いしようかな。分類は会計と…」
 渡されてみると強烈に数が多い。それでも優は後悔しなかった。好きでやっているのだから。
 しかし、後悔しないとは言っても長時間続けているとやはり疲れが溜まってくる。溜息も出ようというものだ。
「はあ。他の人達も手伝ってくれればいいのですけれどね」
 それから背もたれに寄りかかりつつ伸びをする。涼馬が手を止めた。
「僕にもっと人望があればね、もっと色々と変わって来るけれど。君には苦労をかけてばかりで、本当に済まない」
 真剣な眼差しが優を捕らえる。この人の魅力は容姿より能力より、この眼差しだと優は思っている。一瞬見ほれてから、慌ててかぶりを振った。
「いえ、わたしは、そんなつもりじゃ」
「ああ、ごめん。愚痴になっていたね」
「謝るのは私のほうです。不用意でした。それに、先輩に人望がないなんて、とんでもない」
 相変わらず慌てたまま、優は否定を続ける。行動力があり為すべきことをきちんと果たして行くため、涼馬は強い人間だと思われがちで、実際それでも間違いではない。しかし半面、驚くほど繊細な部分も持ち合わせている。他人に気を使いすぎる。それに気がついている側としては、それこそ気を使わざるを得ない。
「うん、そうだね。とりあえず藤野さんがいるんだから、今みたいな言い方は君に失礼だったね。ごめん、いや、ありがとう」
 そうしてすぐに、相手を立てる形で話をまとめてしまう。そういう人だ。
「はい」
「さて、今のうちに片付けてしまおう」
 そうしてまた書類整理に戻る。結局ただ手伝うのが一番だと思って、優も仕事を再開した。
「終わるとは思っていなかった」
「わたしもです」
 結果、優が学校を出なければならない時刻になる前に、大雑把ではあったが山のような書類の整理が終わってしまった。二人してあっけに取られた後、一緒に笑い出す。
「やってみるものですね」
「全くだ。諦めていては何も始まらない。そうだったよ。ありがとう」
 何か感じる所があるのか、涼馬は優の肩を叩いた。
「いえ、どういたしまして」
「さてと、さすがに今日はもういいな。少し、ええと、そういえば、道場って合気道の道場だよね」
 涼馬が急に話を振る。優としてはやや慌ててしまった。顔に血が上るのが分かる。
「あ、あれ。先輩にその話はしましたっけ」
 実際高校に入ってからは、自分から合気道をやっていると言わなくなった。記憶している限りでは、涼馬の前でそう言ってはいないはずだ。好きでやっているのだが、武道が女の子らしいことだとは、自分自身思っていない。先程成り行きで「道場」と言ってしまったのが悔やまれる。
「うん、直接には聞いていないかな。ただ藤野さんと言えば語学の女王、料理もできて合気道までするすごい女の子だって有名な話だと思うよ」
 語学の女王、とは一学期の中間テストで英語二科目、現代国語、古文、漢文の計五科目全てで学年トップの成績を収めた事からついた称号である。期末でも同様の結果であったので、その評価は不動のものとなっている。しかしそれが一学年上にまで聞こえているとは、優の予想を越えていた。
「それは、まあ、語学は得意ですから。でも、武道なんて、女の子らしくないでしょう」
「護身術だろう。それに藤野さんは、十分に可愛いと思うよ。容姿もそうだけれど、そうやって恥かしがったりするあたりが特にね」
 涼馬が端正な顔をほころばせる。言いようによってはちょっといやらしくも聞こえる台詞であったが、しかしそれをさらっと響かせてしまうのが澤守涼馬という少年だった。動揺を収めきれないまま、優が反論する。
「からかわないで下さい」
「こんな話題で女の子をからかうような人間じゃないよ、僕は。そう思われているとは残念だな」
 再反論は冗談で済まされないような響きを帯びていた。人当たりは柔らかいが、しかし誇りを持たない人間では決してないのだ。失言をしたのは自分なのだから、優としては頭を下げるしかない。
「すみません、言い過ぎました」
「分かってくれればいいんだ」
 涼馬の様子が穏やかなものに戻る。緊張を解いたのか、彼は長い足を組んだ。
「有段者だって聞いているけど」
「ええ、一応」
「初段?」
「二段です」
「それは凄いなぁ。中学を出てそれほど時間もたっていないのに。努力も才能もなければできないだろう」
 涼馬は素直に感心している。しかし優としては恥かしくなるだけだ。
「いえ、道場が近所で、小さい頃からやっているだけですから。それにそろそろ止めようかと思っていますし」
「どうして?」
「体を動かすのは好きですけれど、私の場合それが別に武道でなくてもいいって、気がついたんですよ。これから勉強も忙しくなりますし。先生には今止めるのはもったいないって言われていますけど」
「うん。そういう状況なら、僕はとやかく言わない方がいいか。結局君自身が決めるしかないことだから」
 距離を取る優しさ、涼馬はそれを心得ている。他人の心に土足で踏み込むなどという真似をしない、そばにいて居心地の良い人間だ。だから自然と好意を寄せられるようになる。しかしそれは同時に、友人以上の親密な関係を形成しない原因ともなっていた。紛れもない学校一の美少年かつ好青年であるが、しかし特定の女性と交際しているとの話が根拠のない噂以上に発展したこともない。
「ええ。あ、そう言えば先輩も剣道は強いって、良く聞きます」
 涼馬が引いたのを好機に、優は話題を転換した。自分の話はしたくないが、話を聞くのは好きなのだ。体育で行われる剣道で、かなりの実力を持っていると知っている。
「初段だよ。剣道ならそんなに苦労しなくても取れる」
 苦笑がちに答える。優はかぶりを振った。
「剣道部の人とやっても負けないじゃないですか」
「見てはないだろう」
 沈着な彼としては珍しいことにちょっと驚いている。対するのは余裕の笑みだった。
「ありますよ。一学期の終わり頃に授業をやっている時の道場の前をちょっと通りがかったので、のぞいてました」
 涼馬は一瞬、顔に手をやった。頭を掻きたかったのかもしれない。
「それは、もうちょっと張りきれば良かったかな。ただあれも身長、腕の長さがものをいう所があるからね。君が見たのはあまり背の高くない人とやっていた時じゃないかな」
「確か、そうですね」
 相手は剣道部員だということ以外にほとんど知らない人間だったので、涼馬にしか注意を払っていなかった。しかし確かに言われて見れば、そうだった気がする。
「別に僕が偉い訳じゃないよ。君のことを誉めるのは、その逆が言えるからだよ」
「でも結果を出せると言うのは、それだけですごいことだと思いますが」
 また、涼馬は苦笑した。普段謙遜したり、困った時に見せるような物とは違う。本当に苦い笑みだった。
「結果か。僕もその結果を望んでいたなら遠慮なく胸を張っているよ。でもそうじゃない。それは僕も人間だからどうせするなら勝ちたい、そう思うし剣道はそれなりに好きだ。でも剣道部で真面目に練習を積んでいる人達に比べれば、そんなに熱意があるわけでもないんだ。都合が悪くなったらすぐに止めてもいいと思っている。そんな人間が勝ってしまったら、ちょっと申し訳ないと思うんだ」
「うーん」
 そんなことを言われると、困ってしまう。土台できる人間の悩みだ、と言ってしまえばそれまでだが、そうも行かない。
「勉強だってそうだよ。それなりのつもりが、気がついたら一番になっていた。このままの成績をキープすれば医大にも楽に入れるらしいけれど、医者になる気も特にない。両親の研究も端から見て面白そうと思えないしね」
「音楽に興味は?」
 涼馬の兄、澤守静馬が世界的に有名なヴァイオリニストだと言う事は優も知っている。
「兄のことだね。確かに好きなことをやって大成して、あの生き方はうらやましいって思っているよ。でも聞くほうはともかく演奏するのはやっぱりそれほど好きじゃないし、第一僕には兄ほどの才能がない。一家に二人も三人も天才は生まれないよ」
「じゃあ、今結果を望んでいることとか、特にないんですか」
「いや、それはあるんだ。将来の夢とか、そんなものじゃないけれどね。いや…できれば将来にもつなげたい、か」
 ごく真剣な光をたたえた瞳が優に向けられ、そして外された。その意味は、優にはちょっと分からない。苦笑を返す。
「何だか分かりませんよ、それじゃあ」
「分からなくていいよ。言っても多分、笑われるだけだから」
 そしてまず自分自身で笑っている。また距離を取るつもりらしい。真剣に、優はそれを詰めた。
「笑いません」
「本当に?」
「はい」
 視線がからみあう。しばらくそうしていたが、やはり涼馬が外してしまった。
「でも言わない。今言うべきじゃないだろう」
「そうですか」
 距離は結局縮まらない。いつものことではある。
「僕の事より、藤野さんは将来の夢とかあるのかな」
「私は、翻訳とか、通訳とか、そういう仕事ができればいいなって思っています」
「ああ、なるほど。そうだよね。成績にも合っているし」
「ええ。ですから結局、好きでやっているんです」
「うん、それがいいよ。翻訳というとやはり英語かな」
「そうですね。でもフランス語もやってみたいなって、思ったりしますよ」
「フランス語か。ドイツ語の方が実用としては使える範囲が広いらしいけど、君が興味を持っているのは文化、芸術関連かな」
「そうですね。パリコレクションは有名でも、ベルリンコレクションってあんまり聞きませんから」
「なるほど」
 そうして時間ぎりぎりまで、優は涼馬と雑談を続けた。元来話をするのは好きな方だし、涼馬がそのような方向に持って行きがちだったので、主に喋っていたのは優である。
「あっと、そろそろ行かないと」
 そして仕方なく立ち上がる。優の通っている道場は護身術を教えるのが中心で、武道をやっているにしてはあまり厳しいことは言わないのだが、しかしだからと言って遅れていい理由にはならない。特に有段者が規律を乱したのでは示しがつかなくなる。
「ああ、もうこんなに経っているのか。藤野さんと話していると時間の経過を感じないね。またこういう機会が持てると嬉しいな」
 穏やかな笑みで涼馬も話を締めにかかる。嬉しい台詞だが、しかしそれで調子に乗ってはいけないと優は思っている。この程度の社交辞令をさらっと言ってのけるのが、澤守涼馬なのだから。ちょっと深めに頭を下げる。
「はい。それでは、失礼します」
「うん。道場の方、がんばって」
 笑顔に送られて、優は生徒会室を出た。
 校舎を出て振りかえると、涼馬が窓際で手を振っているのが見える。もう一度頭を下げて、優は足早に歩いて行った。

 胴着、袴に身を包むと自然に気が引き締まる。武道をやっていると大概そのような心境になるものだが、しかし優はその例外に属していた。少なくとも身支度を整えただけでは、良い意味の緊張感とは無縁である。少し前までは立派な多数派の一員だったのだが、状況が変わってしまった。
「徹っ、準備運動だからって気を抜くんじゃないの。実際やったときに怪我するわよ!」
「美樹、由美、胴着が崩れてる。もう一回着なおして」
「秀俊、回りにいたずらしない!」
「え、なに、美樹? 着方分からなくなっちゃった? しょうがないなあ。ほら、貸して。でもちゃんと覚えなきゃ駄目だからね、もう小学校に入ったんだから」
「って、徹っ! 見てないと思ったら大間違いよ! ちゃんとやりなさい!」
 まず大声を上げる。優にとっての道場の時間はそのようにして始まるのだ。小学生とそれ以下の指導を担当する、この道場では一番若い「先生」である。元々中学生になったあたりから先輩として小学生の面倒を見ていたのだが、この四月からは本格的に教えるようになっていた。
 事情は次のようなものである。極端に苦しい訳ではないにせよ、子供四人を抱える藤野家の家計は元来決して楽ではない。両親は決して表には出さないが、しかし優が私立の北条坂高校に通いだしてからはさらに厳しくなっているはずだ。それを察して、そろそろ興味の薄れてきた合気道に関しては中学で止めようと思っていた。月謝がもったいない。
 しかしそのような事情を伏せて道場主に辞める相談だけをした所、せっかく才能があり、これまで努力もして来たのに今止めてしまうのはもったいないと引き止められ、月謝を取らない代わりに小学生の指導を担当して欲しいと言われた。元々道場主は優の両親と付き合いがあり、その縁で優が合気道を始めたのだから、家計の事情も把握していたのだ。多少未練もあったので、結局引き受けた。
 小学生、あるいはそれ以下の子供たちにとって、武道の基本である型などは面白いものでもない。彼等にとってみれば準備体操のような感覚である。しかしこの型を正しく身につけなければ上達はおぼつかないし、この時期に変な癖をつけてしまうと後になって修正するのは容易でない。武道における技の習熟以上に指導者の資質が試されるのだ。しかし優は、多少強引ながらも子供たちをうまくまとめて必要な事を覚えさせる能力に長けていた。妹の世話をして、小学校低学年のうちには自然と身についた才能である。
 一通り型をやった所で高学年の生徒は実際の技の練習に入る。この段階では技術的に未熟で危険だとする声もあるのだが、しかしそろそろやっておかないと面白みが分からなくて止めてしまうこともある。優自身も始めは技が決まるのが面白くてのめり込んで行ったので、この方針には基本的に賛成である。
「先輩、お願いします」
 優自身にも相手がつく。男の子で小学校高学年にもなると、努力の成果を試してみたくてたまらなくなるのだ。相手をしてくれる有段者はけっこう人気が出る。それに他の有段者達は大半が小学生の相手をするには背が高過ぎて、使える技が限定されてしまうとの事情もあった。
「はい、お願いします」
 礼をしてからすぐに構えを取る。もっとも合気道の場合身構える、というより自然体を心がけるものだ。無造作につかみかかった優に対して、教えた通りにその手首を取ってくる。そのまま、優は体の力を抜いて相手の動きに任せた。ふわりと体が回転して、背中から畳に落下する。ごく綺麗に、技が決まっていた。この程度の相手なら完璧に受身が取れるので、痛いとも思わない。
「いい感じよ。凄く正確に入ってきてる。後はまあ、やっぱり素直過ぎるかな。普通の人相手なら全然問題ないと思うけど、ちょっと勘のいい人ならタイミングとか分かるから」
「分かりました。気をつけます。ありがとうございました」
 一人終わるなり別の少年がやってくる。初めの子はごく素直に教わりに来たが、今度は目に挑戦的な光が溢れている。優はやや挑発するように腰に手を当てた。
「今日も本気で?」
「もちろん、お願いします」
「はい、お願いします」
 一礼してから自然体で立つ。先程よりもさらに気を抜いた感じだ。この相手に関しては、そのほうが良いと知っているのである。そしてゆっくりと脚を動かし、微妙な距離を保って相手を誘い出す。
 微笑して、挑発した。何度も相手をしているので、ちょっとした表情の変化だけで十分意志が伝わる。しかしそれでも、乗って来ようとはしなかった。この少年はすぐに突っかかってくる癖があったのだが、どうやらそれは反省しているらしい。まずは合格、そこで優は攻めにかかった。
 右のフェイントから左手に切り替えて襟をつかみにかかる。相手は中々に速い動作でその手を取ろうとしたが、優の手はそれより更に速く動いて相手の意図を達成させなかった。
 本気で、とはこのような意味である。優自身まだ全力を出してはいないが、どれほど切れのある技を出してこようとそれにかかってはやらないのだ。手加減されるのを嫌う、少年らしい心に合わせてやっている。
 そして微妙に浮いてしまった腕を、優の手がつかんだ。そのまま流れに任せて押し込む。それで完全に、関節が固められた。
「はい動かない! 怪我するわよ」
「は、はい」
 自分の技がかかったのを相手に分からせてから、優は手を離した。この段階なら痛めたりはしない。
「うかつに攻撃してこなくなったのは良かったんだけどね、結局君の場合まだわたしを倒してやろう、って根性がにじみ出てるから。合気道は守りが基本、それが分からないうちはわたしを投げ飛ばすなんてできないわよ」
「はい。ありがとうございました」
 悔しさを隠し切れない様子で一礼してから、彼も優の前を離れた。甘やかすと突け上がる性格だとわかっているので敢えてこうしているが、しかし確実に成長しているのが教える側として嬉しくあった。
 希望者はまだまだ大勢いる。それなりに充実した時間を優は過ごしていた。

 年少者の指導を終え、優自身が師範から指導を受けてから道場を後にする。家に着くのは八時過ぎだ。父親の帰りが遅い場合を除けば、他の家族の夕食はもう終わっているのでおかずを温め直して一人で食べる。もっとも食べるのが優一人というだけのことで、居間に妹や弟がいない方が珍しい。大概誰かしら、あるいは全員がテレビを見ているのだ。バラエティー中心なのでまず間違いなくうるさいが、優自身もいわゆる下らない番組はそこそこ好きなので一緒になって笑ったりしている。
 食事を終えると例によって食器を洗い、それから入浴となる。今日は体育と道場が重なって、無理をしているつもりはないにせよさすがに疲れている。湯の温もりによって体がほぐされて行くのが心地よかった。湯船でゆっくり手足を伸ばすと、疲労そのものが溶け出して行くような気がする。なお、藤野家の浴室は広いとは言えず、浴槽もそれに見合った大きさであるが、優自身体が小さいのでその辺には困らない。
 満足の行くまで日本人特有の楽しみを味わってから、体を洗いにかかる。運動好きで日焼けする事も少なくないにしては、きめが細かく無駄毛もない綺麗な肌だと思う。それ自体には満足しているが、しかしそこから派生するイメージはあまり好きではなかった。「赤ん坊のようにすべらかな肌」、つまり体質が子供のままなのだと思ってしまう。
 幼い頃から成長の速い方ではなかった。小学校で整列する時は必ず前の方、二度ほど先頭になった事もある。女の子であるから、それ自体には当初あまり劣等感を覚えなかった。チビなどと言ってくる意地の悪い男の子もいないではなかったが、それ以上に「可愛い」と言われるのが単純に嬉しかったのだ。
 しかし学年が上になるにつれ、女の子の体には成熟した女性としての兆候が現れ始める。特に小学生の内は女の子の方が発育が早い。一部例外はあるにせよ、やはり大柄な子から二次性徴が始まるのだった。四年生頃から早くも女性らしい体の体裁を整え始めた同い年の子を、うらやましげに眺めた事もある。
 さすがに六年生に入ると優自身の体にも変化が現れ、目に見えて体形が変わり始めると小躍りして喜んだものだ。しかしこれは、半ばぬか喜びに終わってしまった。いくら何でも一度膨らんだものがまたしぼみはしなかったが、しかし他の子ほどには発育しなかったのだ。まだ高校に入ったばかりだから望みがないわけではないにせよ、厳しい状況にあるとは覚悟している。身長の伸びの方はもう止まってしまったらしい。
 優は泡立てたスポンジを動かす自分の腕を見やった。これも細い。合気道は筋肉をつける類の武術ではないが、しかし有段者にはどうしても見えないだろう。たるみなどないが、女性特有のふくよかさにも欠けてしまっている。太ももも、「太」と言う字を使うのが嫌味に思えるほどで、すっきりと胴体から伸びていた。胸は確かに二つ膨らんではいるのだが、しかしつかめるほど豊かではない。さすがにウエストはくびれてきたが、むしろ痩せぶりを強調してしまっている。それに…。
 そこまで考えた所で、優は頭を振った。自分を追い詰めるだけだ。ざっとお湯をかけて泡を流し、やや荒っぽく頭を洗ってから短く湯船に浸かって風呂を出る事にした。
 風呂上りに髪が乾くまで居間の方で牛乳を飲むなど休んでから、自分の部屋で机に向かう。今日の復習、明日の予習である。他人と比べれば確かに真面目かもしれないが、しかし極端ながり勉のつもりはない。今日は特に見たいテレビもなかったとか、そんな所である。それに全く努力も無しに、「語学の女王」と呼ばれるまでの実績が作れるはずもない。現代国語ならある程度その場でカバーできるがそれでも漢字の書き取りはあるし、古文漢文はそれなりに覚える事も多くなる。まして帰国子女でもないものにとって、英語に関する努力は欠かせなかった。
 そうして途中何回か休憩を挟みつつ一通りの事を済ませ、その後は読みかけの小説を読むなどして時間を過ごす。やがて眠気を誘われて、布団に入った。ごく何気ない一日がこうして終わって行く。ただ優は、暗い天井を見ながらぽつりとつぶやいた。
「もうちょっと何とかならないかな」
 不満が部屋によどむ。しかしそんな事をしていても仕方がないと分かっているから、そのまま眠りの天使のささやきに身を委ねるのだった。

続く


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