午後の恋人たち 新章

3 二人の感情


 教室を喧騒が包む。それも今日最後の授業終了直後であれば、むしろ当然のことだった。
「優、じゃあね」
「ばいばーい」
「うん、また明日」
 部活に行く友人を見送ってから、優は生徒会室に向かった。今日は特に会合もないし、涼馬もこの曜日には何か用事があるとかで顔を見せない。ただ、一人で帰って家でぼうっとしているよりはそこにいたほうが良い、そんな判断である。
 軽く掃除をしてから机に向かう。取り出したのは数学の教科書、ノート、参考書一式である。勉強なら家でしても良いのだが、しかし妹二人と弟一人がいる。端的に言って、うるさい。時間があるならこちらの方がやりやすいのだ。図書館などと違って、周囲に気兼ねをする必要もない。
 幾何学的、ではなく幾何学そのものの直線と曲線の群れ、優はそれと睨み合っていた。実の所、数学はあまり得意ではない。特に図形問題は苦手である。努力はするので落第点は取らないにせよ、しかし語学の成果の上がり具合と比較すればかんばしいとは言えなかった。「語学の女王」の称号も裏を返せばそんなものだ。
「うう。何でこんなのやらなきゃいけないのよ」
 この辺り、いくら他の教科の成績が良くても考えることは普通の学生と一緒である。文学部への進学を希望しているので、この高校を出てしまえば使う機会もないと思われる。しかしできれば国公立大学に、と考えているので開き直って捨ててしまえないのが優としてはつらい所だ。国公立だと文学部であっても、受験には理系がある程度必要とされる大学がほとんどである。
 まずとりかかった問題にもたついていると、扉がノックされた。
「あ、はい」
 と返事をする間にそれが開かれる。非礼な客、ではなく優同様普段からこの部屋を使っている人間だった。均整の取れた長身が姿を現す。
「やあ、こんにちは」
「え、先輩、どうして」
 優が腰を浮かせた。今日は来るはずのない、涼馬だ。彼女が驚いているのに驚いた、とそんな顔をしている。
「いや、暇だから」
 ちょっと聞くと極めて明快な返答だが、しかし良く考えてみると直接に意味は通っていない。暇なら何故他でもないここに来たのか、その説明を欠いている。暇を潰せる、もっと面白い場所はこの学校の周辺だけでも少なくないはずだ。しかし優にそうと気づく余裕はなかった。
「あの、今日は何かご用があるのでは」
「うん、普段はね。今日はたまたま先生が用事で出かけていらっしゃるから、時間が空いたんだ」
 涼馬の視線が優のついている机に向く。視点が高いので、優の肩越しにそこに何が広げられているのかがほとんど見えた。
「あ、勉強していたんだ。邪魔だったかな」
「えっ!」
 一瞬、優の体が反射的に隠そうと動いたが、しかしもう遅い。諦めるしかなかった。
「あ、いえ」
「邪魔なら出て行くよ。これという用事があるわけでもないから」
 先輩にそう済まなさそうな顔をされると、優としては首を振るしかなかった。
「いえ、そんな」
「そう。じゃあ居させてもらうよ」
 それでも遠慮したように、涼馬は長机の隅の方に腰掛けた。優にならってか、同様に教書、ノートを取り出す。学年が違うから当然内容も違うが、しかし科目は同じ数学だった。
 優としてはこの前涼馬がせっかく学力について感心してくれたのだから、苦手を知られるのは嫌だった。しかし今から隠したのでは余計に不自然だ。仕方なく、気取られないように続けるしかない。
 HBの芯が中性紙の上を滑る、その乾いた音が軽快なリズムを刻む。涼馬は詰まるどころか、ほとんど考え込みもせずに問題を解いている。ちょっと振り返ってそれを確かめてから、優は自分の問題にとりかかった。こんなものをすらすら解いて行く人間の頭の構造が理解できない。そんな余計な考えにより、さらに集中力が削がれる。
 ためしに補助線を引いてみる。が、事態は好転しなかった。そうすると今度はその線が邪魔に見えてくる。結局消しゴムをかけた。別の所に線を引いて、やはり消した。次第にノートが汚くなる。段々腹が立って来た。
 また涼馬を見やると、むしろ楽しそうな横顔を見せている。聞こえないように小さく溜息をついてから、優は再び自分の課題にとりかかろうとした。しかし視線を感じたらしい涼馬と目が合ってしまう。
「進んでいないみたいだね。やはり出ようか」
 大バレである。自分の動揺を、優は自覚していた。
「いえ、別に先輩のせいでは」
「うん?」
 ちょっと体を動かして、涼馬は優のノートを覗き込んだ。努力の跡、そして上がらない成果が明らかになる。
「あまり得意じゃないみたいだね」
 残念そうに、彼はそう言った。その言い方がむしろ、優の自尊心や羞恥心を強く刺激する。彼にだけは、知られたくなかったのだ。だから返答しなかった。いや、できなかった、と言った方が正確かもしれない。
「少し手伝おうか」
「いえ、結構です。自分でやりますから」
 親切な申し出にもつい固い口調で反発してしまう。それでも涼馬は、優しく笑ってくれた。
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮なんてしてません」
 言えば言うほど冷静でなくなって行く。そうするとあくまで落ちついている相手が腹立たしくなってきた。
「藤野さん、僕が何か気に障る事をしたかな、だったら」
「できる人にはできない人間の気持ちなんてわかりませんよ!」
 自分でも分からないうちに怒鳴っていた。一瞬、脳が赤熱している。そしてそれが冷めると、大きな後味の悪さだけが残された。どう考えても悪いのは自分だ。確かに涼馬にも配慮の欠ける部分はあったが、しかしそれに対する過剰な反応は明らかに単なるひがみだ。
 涼馬ももう、笑ってはいなかった。怒りを抑えているのか、表面的には無表情に優を見据えている。今まで以上に強い羞恥心が、優の顔を真っ赤に染めていた。
「ご、ごめんなさい。わたし、ごめんなさい」
 相手の顔を正視できない。ただでさえ小さな体を更に縮めて、ひたすら謝罪する。しばらくして、溜息をついてから、涼馬が声をかけた。
「反省した?」
「はい」
 大概のことなら笑って許す彼がそう言っている。これは相当に気分を害しているに違いない。優は泣きそうになっていた。
「それなら態度で示してもらおうかな。座りなおして」
「はい」
 何をさせる気なのか、意図が読めない。しかしどんな事でも受け入れなければならない、と優はそう思った。姿勢正しく椅子にかけ、その背もたれに涼馬が手をつく。何故か妙に、優の小さな胸は高鳴っていた。
「ええと、ああ、この問題なら補助線を引く必要はないよ。図に描かれている線だけ使えば解ける。ちょっと考え過ぎたね」
 いきなり問題の解説だ。思わず優が振り向く。
「はい?」
「ほら余所見をしない、問題に集中して」
 厳しい声とともに、肩越しに伸ばされた涼馬の指先がノートに写された図を叩く。一応そこに視線を向けはしたものの、優は問い続けた。
「あの、何を」
「何をって、分からないかな? 勉強を教えるんだ」
 実に明快かつ当然の答えが返って来る。しかしますます分からなくなるだけだ。
「どうしてそんな、急に」
「言ったじゃないか、反省を態度で示してもらうって。これはペナルティーだよ」
 ペナルティー、和訳すれば罰、悪事に対して与えられる不利益な取扱いである。従って、利益を与えられたのならそれはペナルティーではない。
「あの、勉強を教えていただいたのではペナルティーになるどころか…」
「なるよ。君は僕に教えられたくないんだから。逆に僕は教えてあげたい、これはもう立派なペナルティーだし、被害者に対する償いにもなっている。これよりうまい解決法はないよ」
 いたずらぽいと形容できる涼馬の声を、優は初めて聞いた。優自身より一つ年上で、体格も良く何より落ちついている。普段の彼はごく大人びた印象を与えるだけに、新鮮だった。
「そう、ですか。そうですね。じゃあ喜んで…ではなく、謹んで教えていただきます」
「そうそう、殊勝な心がけで結構だ」
 二人してしかつめらしい顔をしてからくすくすと笑い出す。それから、二人一緒での勉強が始まった。
 優しい声で、丁寧に涼馬が説明して行く。図形を示す手が、やはり自分よりずいぶんと大きいと優には思える。それに並んで座っていると、肩の位置からしてかなり違う。ただそれ以上に、あれだけ理不尽に反発してなお優しく接してくれる彼の人格的な大きさを、優は感じていた。緊張による鼓動の速さが次第に胸の高鳴りへと変わって行く、それを抑える事ができない。
 何となく、初めて出会った時の事が思い出された。

 優が入学して間もない頃のことだ。学生自治が広く認められ、文化祭、体育祭など様々な活動を行なう生徒会に興味があって、優は会室を訪れた。とは言っても熱意があるというほどでもなく、副会長にまでなるつもりはなかった。文科系クラブの活動にでも参加しようという、その程度の意識である。
 昼休み、入学直後の学校案内で場所だけは知っていた部屋の扉を叩く。「どうぞ」との声に応じて扉を開けた所、中にいたのは一人の少年だった。
 一見してはっとするほど、容姿が良かった。背が高く、手足が長い。ブレザー、スラックスという本来欧米人のために作られた服が良く似合う。目鼻立ちは繊細だが、弱さのようなものはみじんも感じさせない。内側からあふれ出る生命力に輝くようだ。
 思わず息を呑んで立ち尽くしてしまう。何か言わなければと考えれば考えるほど、言葉に詰まる。そんな彼女に、彼は微笑んで椅子を勧めた。
「時間に余裕があるならお掛けになってください」
「は、はい」
 ぎこちなく腰掛けて定規でも当てられたように背筋を伸ばす。ちなみに某国軍だと新兵の姿勢を矯正するために実際に金属棒を服の背中に入れたりする。それはさておきくすりと笑って、少年は言った。
「それで、ご用件は?」
「あ、ええと、その」
「もしかして生徒会役員への立候補ですか」
 うまく言葉がつげなくて、優はこくりとうなずいた。何故そう分かるのかと不思議がる余裕もない。
「嬉しいですね、そう積極的な人がいるとありがたいですよ。僕は澤守涼馬、生徒会の副会長です。次の選挙で多分会長になると思いますが」
「そうですか」
 芸のない返答だ。しかもこの時、優はもう一つ失敗している事があった。
「そちらのお名前は?」
 相手が名乗ったら普通は自分も名乗るものだ。慌てて、優は答えた。
「あ、失礼しました。藤野優、と申します。一年一組です」
「ありがとうございます。それで、説明に昼休み一杯かかったりするので、さっそく本題に入りますね」
「はい」
 文化祭、体育祭と目立った活動の少なくない生徒会だが、日頃行なっているのはクラブ、部活間の調整、文集の作成など地道な活動が大半である。それを過不足なく説明してから、涼馬は内情を話しはじめた。
 例年一年生副会長はなり手がなくて困る。確かに入学直後から副会長にまでなろうとする人間が奇特なのだ。立候補者が出なくて、平の委員を選出した後その中から一人決める、という手段に出ることも少なくない。そこで申し訳ないが副会長を引き受けてくれないかと、そんな話の流れになった。説得する時間を考えて、涼馬はすぐに本題に入ったらしい。ここで、優は迷いもせずに引き受けてしまった。頼まれると断れない性格ではないが、半ばぼうっとしていて正常の判断力があったとは言いがたい。そのまま立候補者名簿に記名してしまう。
 それで少し、時間が余ってしまった。説得が多少は難航するものと踏んでの時間配分だったのだから、快諾されると逆にそうなってしまう。妙な間が、発生してしまった。
「済みません、普通に気の利いた話もできない面白みのない人間で」
 涼馬が謝る。優は慌ててかぶりを振った。
「あ、いえ、とんでもない。その、真面目なんだと思いますよ」
「そう言っていただけるとありがたいのですけれどね」
 苦笑しつつ首をかしげてしまう。話題を作る必要を感じて、優は一つ疑問に思っていたことを口にした。
「あの、そう言えば、いつもそういう話し方をなさるのですか」
「え、何がですか?」
「いえ、凄く丁寧だと思いますけれど。わたしは後輩ですからそうなさらなくても」
「ああ、今は特別ですよ。友人相手に丁寧語を使ったりはしません。ただ藤野さんとは初対面ですから。多分長い付き合いになるでしょうし、追々丁寧語は取れて来ると思います」
「そうですか。あ、でも、もしよろしければ今からでも構いませんよ」
「そう、ですね。それでは、ええと」
「はい」
「あ、はは。何を話して良いやら分からないですよ」
「済みません、急に変なことを言ってしまって」
「いえ、僕が悪いんですよ。藤野さんが謝ることではありません」
 手を振りながら、涼馬は少し時計を見やった。
「ああ、そうやっている間にそろそろ時間ですよ。教室に戻らないと五時間目が始まってしまいます。特に一年生の教室はここから少し遠いですから」
「はい、それではこれで失礼します」
「これに懲りずまたいらして下さい」
「懲りるなんてとんでもないです。また、お会いするのを楽しみにしています」
「ありがとうございます。それではまた」
「はい、それでは」
 実の所、それからのことは優は良く覚えていない。気がつくと自分の部屋でベッドに腰掛けていた。意識をどこかにやったまま午後の授業を受けて、さらに電車に乗って帰宅する離れ業までやってのけたらしい。人間、うまくできているものだ。
 それが優にとっての涼馬との出会いだった。
 その後、優は無事に生徒会副会長に選出された。立候補者が一人だけであったため、信任投票の結果である。
 生徒会役員になってから、当然のことであるが涼馬に関しては様々なことが分かるようになってきた。格好良くて真面目で優しくて礼儀正しくて、そのイメージは変わらなかった。分かり始めたのは彼の周囲に関してである。
 信じられないくらい綺麗な女性がいた。優から見れば二級上の三年生、前年度のもう一人の生徒会副会長、深澄音玲奈だ。噂には聞いていたが、それを上回る美貌の持ち主だった。女の優がしばらく見ほれてしまうほどである。
 そして、彼女と涼馬が親しげに話している場面をしばしば見かけた。すらりと背の高い涼馬と中背でほっそりした玲奈、並んでいると呆れるくらい良く似合う二人だ。話の内容まで立ち入ったことはないが、少なくともただ仕事仲間とも言えない親しさがあるようだった。この前も優は、図書館で一緒にCDを選んでいる二人を見かけている。そしてそれを見ていられず、優はその場を立ち去った。
 それから、涼馬が想像以上に人気があるとも知った。告白は日常茶飯事、超古典的な下駄箱ラブレターも少なくない。以前から涼馬と親しくしているという先輩が笑いながら教えてくれた所によると、バレンタインデーには大きな紙袋が一杯になるそうだ。
 しかし一番に衝撃的だったのは、委員の一人が生徒会室で涼馬に告白するのを目撃したことである。各クラスに配布したチラシの余りを持って行った所、やおら扉が開いて顔見知りの女子生徒が飛び出して行った。二年の大森聡子、顔と名前は一致しているが特に親しくもない、優にとってはその程度の人だ。しかしその時の悲痛な表情は、多分一生忘れられないと思う。
 中では涼馬が立ち尽くして、うつむいていた。優の姿を認めると無理に笑顔を作る。
「ご苦労様。重かっただろう」
 このころには既に涼馬は丁寧語を外して話している、その程度の間柄にはなっていた。
「いえ、大したことありません。こう見えてもわたし、見かけより力があるんですよ」
 ぎこちなく、冗談とも何ともつかない返事を返す。涼馬はうなずいて、そして黙ってしまった。
「振ったんですか?」
 沈黙と、そして別の何かと、それに耐えきれなくてつい問い掛けてしまう。顔色を変えた涼馬を見て後悔したが、もうどうにもならない。
「良く、分かったね」
 極力平静に答えようとしている、その様子が痛々しかった。
「わたしも、女ですから」
「そう」
 そして、再び沈黙。しかし今度は涼馬の方が耐えきれなかったらしい。
「どっちに転んでも傷つけてしまう。仕方がなかったんだ」
「お付き合いなさっている方とか、いらっしゃるのですか?」
 自分は残酷だな、と優は後で思った。今出て行った、明らかに傷ついた様子の人など、どうでも良かった。
「いや、ただ気になっている人が一人いる。その人をぱっと忘れて彼女とつきあう、そういう自信は僕にはないよ。この際謙遜しても仕方がないからはっきり言うが、僕のことを好いてくれる子はたくさんいる。その中でたった一人を選ぶとしたら、周りの状況ではなく僕自身の気持ちに従わなければならない、そう思っているんだ」
 それが誰なのか、優には聞く勇気がなかった。恐らく聞いた所で教えてくれはしない、気まずくなるだけだ。
「そうですか。そうですよね」
「ああ。僕のために生徒会に入ったと言っていたけれど、そう言われても、困るよ」
 重い声が重なる。生徒会の仕事を引き受けてまで自分に近づこうとした彼女の思いに応えられなかったこと、その彼女とこれからも生徒会の中では顔を合わせて行かなければならないこと、色々考えているのだろう。
 優は涼馬がいなければ、少なくとも副会長にはなっていなかった。だからこの時、自分の気持ちに一つ鍵をかけた。

 出会ったときから数えればもう半年になる。何も言えない春も楽ではなかったが、しかし会えない夏はそれ以上に辛かった。楽しくない夏休みは初めてだった。
 そして秋、春と同じ季節が来ると思っていた。豊かな実りも、優にとってはどうでも良いことだった。
 しかし今、涼馬がいつになく近くにいる。誰にでも向ける親切心の結果かもしれない。あるいはただの気まぐれが現れたのかもしれない。それでも、優は幸せだった。

 涼馬は真剣に問題に取り組んでいる優の横顔を眺めていた。一対一で勉強を教える場合、余程できが悪いか不真面目な生徒でない限り、教える側はそれほど忙しくはない。だからそんな暇もできる。
 そもそも今日、この顔を見にここへやってきたのだ。いつもにない時間が空いて、もしかしたら会えるかと思った。可能性は高くない、期待はしていなかったのだが、彼女はここにいた。
 勉強をしていたので邪魔にならないように自分も勉強を始めた。今日はそれだけで良いと思ったのである。ただ、彼女が苦労していたようなので手を差し伸べようとして怒りを買ってしまった。自分の気遣いが足りなかったと涼馬は反省している。
 しかしその後何とか、強引な理屈をこじつけて彼女に勉強を教える運びになった。自分自身うまくやったものだと思う。彼女の機嫌を直して、かつ近くにいられるのだから。
 並んで座ってみると、本当に小柄な少女だった。背の高い自分が比較対象にならないと涼馬は承知しているが、しかしそれを計算に入れても多分まだ小さい。高校生用の椅子に深く腰掛けるとかかとが浮いてしまう、それが微笑ましかった。骨格が華奢で、余分な肉もついていない。これで合気道の有段者なのだから、努力の程がうかがえるというものだ。
 顔つきにも幼さが強く残る。目がつぶらで、大きく、小さな唇がふっくらとしていて、輪郭が丸みを帯びている。肌には染み一つない、赤ん坊のようだ。本人は怒るかもしれないが、愛くるしいと形容できる顔立ちだ。
 時折質問したり、教えられたことに対して発せられる声も可愛らしい。礼儀正しく、はっきりとした話し方をするからその意味ではむしろ大人びていると言える。しかしそれでもなお、高いトーンと柔らかな響きによって、どこか甘えているようにも感じられるのだ。
 ふわり、といい匂いがする。体育の後などではないから汗の匂いではない。顔を近づけているから分かる、髪の匂いだ。整髪料などの強い香りではない。近くに寄らなければ分からない、それだけに貴重な、恐らくはシャンプーやリンスの匂いだ。つややかに光るショートヘア、この髪質なら少し伸ばしても見栄えがするだろうが、全体的なバランスとしては短いままのほうが似合う気がする、そんな髪である。
 可愛い女の子だ、本心からそう思う。それだけに、こうして近づけたことが素直に嬉しかった。

 涼馬にとって優との出会いは、それほど衝撃的なものではない。次期生徒会選挙に出馬してくれる奇特な人間がいないかと、昼休みに期待もせずに待っていた所へ扉を叩いてくれた。だからその嬉しさはあったという、その程度である。
 初めて見た時は、本当に高校生かと思った。制服の真新しさから新入生であるとはすぐに分かったが、しかし小柄で顔立ちも幼い。可愛らしいと思えるだけに、その印象がますます強くなってしまう、そんな外見だった。
 しかし話しぶり、特に敬語の使い方などはしっかりしていてその辺りはむしろ今時の高校生以上、真面目で礼儀正しい子なのだなと思った。ただあまり自分から積極的に話してはくれなかったので、大人しいのかもしれないとも感じている。
 その印象がすっかり変わってしまったのが優と出会った翌日、ちょっとした事件がきっかけだった。
「済みませんね、うちのカメラマン休みになっちゃって」
 新聞部の部員、眼鏡をかけた少年が済まなさそうに頭を下げる。普段なら手も一緒に振る所だが、今は重く、かつ高価なカメラを持っているので涼馬は首だけ振った。
「病欠なんだろう? 君のせいでもその人のせいでもない。謝ることはないさ」
「そうですけれどね。こう大事な時に使えないのでは困りますよ」
 大事な時、とは写真を撮る必要がある時である。これから部活・クラブオリエンテーションが行なわれるのだ。各部活、クラブが新入生に対して様々なアピールを行ない、入部を勧誘する行事である。どこも気合を入れて行なうのである種お祭り騒ぎになる。北条坂高校の、言わば名物の一つである
 そのようなものだから、校内紙や学校発行の文集などに写真を載せる必要がある。載せる必要があるのだから撮らなければならない。例年は生徒会から新聞部に撮影を依頼していた。写真部というものはないので、撮影ならここである。鉄道研究部、天文部なども良く写真を使うのだが、彼等に任せようという意見はやはりない。
 特に今年は涼馬の親しい友人である穴戸岸宣という少年が新聞部に所属しているので、彼を通して依頼を行なった。例年のことでもあるし、高校入学以前からのつきあいなので快諾が返って来る。しかし当日になってアクシデントが生じてしまった。予定していたカメラマンが風邪を引き込んでしまって、学校に出てこられなくなったのだ。
 新聞部の規模はそれ程大きくはない。はっきり言えばそこまで人気のある部活でもないのだ。カメラをうまく扱える人間は現在二人、うち一人は勧誘活動に必要である。それでも岸宣は腕の良い方の一人を回してくれていた。今からもう一人を貸せ、とはとても言えない。岸宣自身は文章書き専門、ノンフィクション作家志望とかで写真は普通の素人レベルだし、今回大量に新入生を獲得するのだと意気込んでいるのでこれ以上の協力は難しい。
 一方、この時間涼馬自身はそれ程忙しいこともなかった。生徒会も役員への立候補を呼びかけるが、こちらは当時の会長以下三年生に任せておけば問題はない。委員の間からは副会長の二人、つまり玲奈と涼馬を並べておいたほうが有効だと主張する声もあったのだが、涼馬は断ったし会長も相手にしなかった。
 結果、新聞部から機材だけを借りて涼馬が自分で撮影を行なうことになったのである。カメラに関しては完全に素人だが、この際誰がやっても同じだ。操作の極端に難しい、型の古い機種ではないので使い方くらいは分かる。
「いずれ埋め合わせは必ずしますから。それじゃあ」
「ああ、勧誘頑張って」
「どうも」
 丁寧に一礼して、岸宣は新入生獲得のために足早に立ち去って行った。
「さて」
 涼馬も歩きだす。岸宣とは反対方向、とりあえず運動部が勧誘を行っている体育館に向かうのだ。やはり文科系よりは体育会系のほうが、写真栄えするように思える。
 バレー部が強烈なスパイクを披露し、バスケ部がダンクシュートを叩き込む。剣道部、柔道部がそれぞれ割り当てられた狭いスペースを何とか利用して試合形式の練習を行ない…とそれぞれエースを投入してその妙技を見せていた。体育館は活況を呈している。 
 その脇を抜けて、涼馬は二階に向かった。撮らなければならないと決まった時点で、撮影ポイントをおおむね考えていたのである。この種の写真では撮られる人間がカメラに気づいてしまうと変な意識が始まってわざとらしくなる。二階からならそれほど気づかれもせず、かつ全体を押さえたものが撮れると、そう判断していた。
 ついてみるとやはり、手すり越しに下の様子が一望できる。しかも下の人間は、同じ階にいる人間に気を取られてこちらには気づかない。絶好のポイントだ。涼馬は膝立ちになってカメラを構え、ファインダーを覗いた。ちょっと動かして適当な被写体がないかと物色する。
 その中に、見知った顔があった。昨日知り合ったばかりだが、しかし覚えている。上から見ていても時折他の人間の陰に隠れてしまう、そんな小柄な少女だ。藤野優、次期生徒会副会長に立候補してくれている。あまり興味はないらしく、何となく見て回り、強引な勧誘は謝るようにして断っていた。運動部は似合わないだろう、と涼馬は苦笑する。小柄で華奢だし大人しいのだから。
 最初の被写体は彼女に決めた。なり手の少ない副会長に立候補してくれた、言わば借りがあるから、一枚中心になる写真を写してあげてもいいように思える。何より外見的にも可愛い子だ。どうせならそういう子を、という精神は涼馬にも当然あった。
 この距離なら顔のアップまで撮れる望遠レンズも借りていたが、それではわざとらし過ぎるしそもそも何を撮っているのか分からなくなる。そこで全身が写る程度のものにした。せっかくだから良いものを撮ってあげようと、少しの間シャッターチャンスをうかがう。
「あっ!」
 そんな時、男子生徒の叫びが聞こえた。ダンクし損ねたバスケットボールが弾かれて飛びあがる。それはかなりの勢いで、一年生が固まっている辺りに飛び込む軌道を取っていた。無防備な状態で直撃でも受ければ、怪我人が出る。しかし望遠レンズを覗いている涼馬にはそこまでは分からない。何かあったな、と思う程度である。
 その時、優が跳んでいた。床を蹴り、更にそばに置いてあった椅子の座面を踏み台にして上昇力をつける。綺麗に伸びあがった全身が、生徒の群れから大きく上に出ていた。そして中空で、小さな手がボールを捉える。新品のスカートの裾を翻して着地したが、その音はほとんど聞こえなかった。

 大人しやかな外見とは裏腹に、その小柄な体には強靭でいながら柔軟なバネと、鋭敏な反射神経が秘められていたのだ。彼女は取ったボールをバスケ部の方へ向けて投げ返す。相手の胸元に納まる、教科書通りのパスだった。初夏の風のように新鮮な感動が、涼馬を包んでいた。藤野優とは、そう感じさせる少女だった。
 その優れた運動神経を前に、回りにいた運動部員達が一斉に勧誘を図る。しかし彼女はやや恥かしそうにしてそれを断って行く。そして結局、耐えきれなかったのか体育館を出て行ってしまった。
 涼馬が気がついてみると、フィルムを使い切っていた。ほとんど反射的に、シャッターを押せるだけ押していたらしい。それをしばらく呆然と眺めていてから、彼はようやく自分の仕事を思い出した。何となく気が抜けてしまって、機械的に勧誘風景を撮影してゆく。
 そしてオリエンテーション終了後、岸宣が機材を回収しにやってきた。
「ご苦労様です。うまく行きましたか?」
「あ、いや、素人だからね、自分ではいいものが撮れたかどうかわからないよ」
 いつになく歯切れの悪い返答を前に、岸宣が不審そうな顔をする。しかし詮索はしなかった。
「そうですか。じゃあこっちで現像しておきますから、できあがった物は後でお渡ししますよ」
 几帳面な所があるので受け取った機材を確認する。それでもう一つ、不審な点を発見した。
「あれ。取り終えたフィルムはこれだけですか? 私の記憶違いでなければもう一つあったはずですが。現像漏れとかあると間が抜けますよ」
 当然、最初の一本は渡していない。涼馬のポケットの中である。苦しい言い訳が始まる。
「いや。始めのは無駄にしてしまったんだ」
「無駄? 一体何をやったんですか」
 至極当然の疑問である。しかし答えにくそうな涼馬の顔を見て、岸宣は追及しないことにしたらしい。
「まあいいですけれど。涼馬がそう言うのなら相当の理由があるのでしょう」
「うん。そのフィルム代は後で僕が払うから」
「ああ、はい。じゃあ請求書を書いておきますね。それでは」
「うん、また」
 歩み去ろうとして、不意に岸宣が振り向いた。
「あ、一つ忠告なんですけれど」
「ん?」
「こうやって撮った写真、普通のお店では現像してくれませんから、気をつけてください。ことと次第によっては、うちの暗室をお貸ししますよ」
 両手を下げ、レンズを上に向けた姿勢でシャッターを切る、そんな不自然なジェスチャーを岸宣は行なった。しばらくその意味が分からなくて、にやにや笑いを浮かべている彼の顔から何となくニュアンスを察する。
「するかバカ!」
 色白な顔がさっと赤らむ。スカートの下から下着を隠し撮りする動作であると、涼馬は了解した。
「分かってますって。それでは」
 笑いながら、岸宣は立ち去って行った。その後姿を見ながら、涼馬は心が波立つのを感じていた。彼の悪質な冗談は今に始まった訳ではないが、しかし以前の涼馬なら平然と返していた。後ろ暗い所がなかったからだ。しかし今は違う。さすがに彼が言うようなことまではしていないが、しかし方向性は同じである様に思える。
 ポケットには優が体育館を出て行くまで、一連の動作と多彩な表情を捕らえたフィルムが収まっている。贖罪のためにそれを捨ててしまおうという決断は、どうしてもできなかった。涼馬はいつまでも、ポケットの布ごしにそのフィルムをいじっていた。
 彼女が特別な存在として意識されるようになったのはその時からだ、と涼馬は記憶している。あれから色々あった、という形容もできるし、何もなかったとの言い方もできる。
 生徒会室で別の女子生徒に告白されて、その現場を優に目撃されるという事件があった。告白自体は涼馬にとって年中行事のようなもので、そこで色よい返事をしないのもいつもである。平然とそうできるまでにはなっていないが、しかし申し訳なく思うのには慣れている。その程度である。
 ただその現場に優が居合わせてしまったことは、いつも以上の苦痛をもたらした。冷酷な人間に見えただろう。いや、実際冷酷なのかもしれないとも思う。何とか言い訳をしようとして彼女に自分の気持ちを伝えようともしたが、最悪のタイミングだと考えて思い直さざるを得なかった。
 それに相手が生徒会の委員だったことが、涼馬の心に後々重いしこりを残していた。彼女は涼馬のそばにいるために委員になったのだという。そう聞かされたとき、涼馬は戸惑いと、そして確かに不快感を覚えていた。
 生徒会活動は神聖なものだ、などと言うつもりはない。推薦入学を有利にしようと考えてメンバーになる者も少なくないし、涼馬自身それに携わる自分をそれ程偉いとも思っていない。事情は人それぞれだ。しかし会長としての立場から考えれば、告白をされてしまうとその後人間関係がぎくしゃくして取り返しがつかなくなる。運営に支障をきたすおそれが強い、それが不快だったのだ。わざわざ活動を阻害するために入ってきたようなものではないか、とも思えてしまう。
 その場の感情としてはそれで終わりである。しかし後で考えてみて、自己嫌悪に襲われた。涼馬自身、完全無欠ではない。同じ生徒会内部の優を意識してしまっている。できれば告白して、うまく行かせたいとも考えていた。タイミングが違っただけで、考えていることは自分が不快感を覚えた相手と変わりなかったのだ。身勝手もいい所だ。程度の差を考えるのなら自分の方が更に悪質かもしれない。だからこの時、自分の心に一つ鍵をかけた。

 出会ったときから数えればもう半年になる。自分の心を偽る春と、偽らざる心を表すこともできない夏が過ぎた。夏休みは小学校の時から数えて最もだらだらと過ごした。
 そして秋、同じ季節が巡ってくるはずだった。体育祭、文化祭と生徒会会長としてすべき事はいくらでもあったが、それらの仕事に熱意を込めるでもなく、機械的にこなしてきた。
 しかし今、優がいつになく近くにいる。相当に強引なやりかたの結果で、後ろ暗く思える所もないではない。それでも、涼馬は幸せだった。

 優が問題を解いて行く。涼馬の目から見れば少し遅過ぎるような気もしたが、しかし苦手なのだから仕方がない。別に焦る事もない、ゆっくりやれば良い事だ。この時間は、決して不快ではないのだから。
「ええと、これでいいでしょうか」
「うん。そうだね、良し、合っている」
「ありがとうございます」
「やればできるだろう?」
「今のは教え方が良かったんですよ。一人できちんとここまでできるかどうか」
「とんでもない。教えられることは多くても、人に何かを教えたことはないよ。僕は末っ子だしね。うまいはずなんてないさ」
「元々の才能ってあると思います」
「褒めてくれるのは嬉しいけれど。いや、今僕のことはどうでもいい。この回答、字が綺麗で読みやすいし、論理がきちんと詰められている。その意味では完璧だけれど、少し完璧を求め過ぎているかもね。この式と、それからこれ。省いても構わない。君みたいに丁寧に書いていると式の一つを書く時間も馬鹿にならないから、省けるものはそうした方がいいかな。テストの時に見直したりする時間がなくなる」
「はい」
 身を乗り出した涼馬の右手の指が、数式をなぞる。優はシャープペンシルを持つ手が邪魔にならないよう脇へ寄せた。お互い異常なほど集中していて、その分勉強以外のことに対する注意力はほとんどなくなっていた。
 左手に温もりが感じられる。それが何であるか、二人とも少しの間気がつかなかった。バランスを取ろうと優の机についた涼馬の左手の指先が、ノートに置かれた優の左手に重ねられていた。
「あ」
 二人の声も重なる。いつの間にか、触れ合っていた。
 人間、意図しないものに触れた場合、普通は無意識にその部分を引っ込めるものである。生物学で言う反射行動の一つだ。しかしせめて相手がそうするまでのわずかな間はその温もりを感じていたいと、意識して手を動かそうとはしなかった。二人とも。
 だから、二人の手は重ねられたまま。そして視線も、絡み合った。濃密な一瞬が流れる。
 もっと触れてみたいと、涼馬は本心からそう思った。時間的にもだが、空間的にも。手の甲だけでは足りない。彼女の全てに触れたい。つやのある髪、ふっくらとした頬、細い首筋、そして…。
 もっと触れられたいと、優は本心からそう思った。時間的にも、空間的にも。手の甲だけではなく、全身。自分としては劣等感を覚えているどんな場所であっても…いや、むしろそうしてもらいたい。
 その二人の意識の強さが、却って行動を抑制した。一瞬後に理性と常識で考えて、危険な感情だと結論付けざるを得ない。相手にそんな意識がなかったら、間違いなく軽蔑される。
 二人は慌ててそれぞれの手を引っ込めた。
「ご、ごめん! ぼうっとしてた」
「い、いえ! 私のほうこそ」
 あまりにも適当な言い訳をしどろもどろにしながら、次の対応に迷う。二人が少なくとも表面上普通になるまでしばらくかかった。
「そ、それじゃ、次の問題を」
「そ、そうですね。次は…」
 しかし再開された勉強は一向にはかどらなかった。先ほどまでの集中力が完全に雲散霧消している。お互いちらちらと、相手の表情を気にするばかりだ。
 結局どちらからともなくその不毛さに気づき、二人は勉強を諦め、そして相手を避けるようにいそいそと帰宅した。

 涼馬の時間は、結局余ってしまった。潰すつもりが結局妙なことになってしまったためである。自分の部屋に入った時点でまだ夕方にもなっていない。
 普段なら特に勉強をしなくても勉強机に向かう。音楽を聴くのにも、あるいは趣味の本を読むのにも、基本的にはそこだ。自分の高さに合わせた机と、座っていて疲れない椅子を使っているためだ。下手にそのあたりに座ったりするよりは余程楽なのである。それでも同じ姿勢をとりつづけていて疲れたときにだけ、ベッドに寝転んだりする。
 しかし今日の彼は、部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。妙に疲れている。何もする気が起きなかった。そうならば起きているだけ時間の無駄だと、目を閉じる。
 しかし、眠気など一向にやって来はしなかった。普段から十分な睡眠を取り、今日特に激しい運動をするでもなかった健康な肉体は、睡眠など欲していない。そして何より精神が昂ぶって、眠ることを完全に拒絶していた。しばらく寝返りを打った末、諦めざるを得ない。
 仰向けの姿勢で自分の左手を見る。優の温もりを感じた、その手だ。そうしていると様々な彼女の表情が目に浮かぶ。輝くような笑顔、身の締まるような真剣な顔、安らぐような微笑み…それから今日は燃え上がるような怒りを湛えた顔と、そして恥じらいの表情を見る事ができた。どれも涼馬にとっては魅力的に思える。
 しかしそれだけで、彼女の魅力を余すことなく表現する事は到底できない。体も重要なのだ。
 確かに彼女は背も低いし、グラマーではない。特に体型が出るわけでもない制服姿を見ただけで、そう分かってしまう。世間一般で言うような、魅力的な体つきではないとは涼馬自身十分承知している。
 しかし、それに気を取られて彼女を見逃してしまうとすれば、それは愚かなことだ。軽やかで伸びやかな立ち振る舞い、きびきびとした動作、その小柄な体から溢れかえるような生命の輝き、躍動感、動作の端々にそれが感じられる。ただ生きているだけで、舞踊のようだ。ずっと見ていたいと、涼馬はそう思う。
 武道の有段者とはとても思えない細い首筋、華奢な手、すっきりとした美しいラインを描く脚、そして…。
 そこから先浮かびかかった想像を、涼馬は慌てて振り払った。それが男の本能であるとは承知していても、しかし今は自分が嫌になる。考えるだけで真摯に生徒会活動に取り組んでくれる彼女を汚しているようだ。
 涼馬はむくりと起き上がった。どんどん思考の泥沼にはまってゆくようなので、気晴らしに何か別のことでもしようと思い立ったのだ。とりあえず読書か音楽でも、と思い立ってCDの置き場を兼用している書棚を見やる。
 そしてその視線が、ふと泳いだ。気晴らしにと思っているはずなのに、教科書やノートの置いてある場所へ向かう。その意味を悟った涼馬は、どうしてこうも自分を追い詰めるのかと自嘲したい気分になった。
 そこには一つだけ、教科書やノートでない物がある。外見上それはノートだし、現に売られていたときも、そしてそれを涼馬が購入したときも、ノートとしてだった。しかし今は、その用途には使っていない。強いて言うなら、アルバムだ。内容は、涼馬としては見なくても分かる。
 開けば生き生きとした優の表情が鮮やかに現れるはずだ。あの日撮った写真をアルバム状に挟んであるのだ。普通のアルバムにしなかったのは、親にも見られたくなかったからである。それでも写真が痛まないようにプラスチックフィルムをかけるなど、色々と努力している。
 最後のページにあるのは、中空に舞い上がってバスケットボールに手をかける一人の少女だ。全身の力がボールにかかる手の一点に集約される、その様子が良く現れていた。翼がなくとも人間は飛べる、そんな印象を与える。最高の瞬間を捕らえた一枚である。偶然の産物であるが、しかしこれならば写真展に出しても恥かしくはない、と涼馬は思っている。ただ、これを他人に見せたことは一度もない。撮影方法に問題がない訳ではないのも理由だが、自分で独占したいがためだ。
 そしてその裏に、もう一枚の写真がある。これはノートをめくっただけでは分からない、最後の写真と重ねて、隠してあるのだ。
 それは、表の写真の直後、ボールを持って着地した瞬間を捕らえたものだ。片足は床についているが、もう一方はまだ浮いており、体重の全てが床にかかりきってはいない。音もなく、柔軟に着地しようとするその様子を現す、これはこれで面白い写真である。
 何故わざわざそこまで隠し立てしているのかというと、優のスカートが大きくまくれ上がってしまっているためだ。最大限高く跳ぶために足を上げ、更に落ちて行く際に風をはらんでしまう。結果、着地の前後には小柄なために多少長めになっているスカートが、完全にもち上がっている。
 少なくとも、下着までは見えていない。白く伸びやかな脚があらわになっているという程度である。つまり露出度だけを考えれば、ブルマのほうが見える部分は大きいだろう。それは分かっているつもりでも、今の涼馬には何とも色々な意味で衝撃的な一枚だ。あの時彼は上から撮影していてその状態であるから、同じ高さからなら下着が見えていたかもしれないという危うさは形容しがたいものがある。
 それに高性能のレンズとフィルムが、肌のきめ細かさを見事に写し取っていた。それでいて、すらりとした脚のラインも同時にとらえられている。
 この写真の存在に涼馬が気づいたのは、撮ってからしばらくたってからのことだ。フィルムをその日のうちに現像するのは、行動が見え透いているようだと感じられたために避けていたし、写真ができあがった後もしげしげと眺める機会はあまりなかった。気がついた後は、一人で意味もなく慌てたあげく、結局今の場所に収めている。
 見もしないでそこまでしっかり覚えてしまっている自分に、涼馬は軽い頭痛さえ感じ始めた。部屋でじっとしていること自体、間違いなのかもしれない。そう結論づけて、とりあえず外出してみることにした。
「あら涼馬、お出かけ?」
 玄関まで来た所で、母親の理沙子にそう声をかけらる。今さら引き返しても挙動不審なので、涼馬はうなずいた。
「うん。ちょっと散歩でもね」
 理沙子は少し首をかしげた。うちの息子に散歩なんて趣味があったかしら、という所だろう。実際あまりしたことがない。どうせやるならランニングだ。ただ、彼女は不意に何かに納得したように首を縦に振った。
「たまには普段と違うことをしたくなる気分になるときもあるわよね」
「ああ、うん。そうだね」
「そうそう。それじゃあ散歩のついでに、もっと違うことをしてみる気、ない?」
 嫌に明るい笑顔だ。涼馬は肩をすくめた。
「買い物だね。何?」
 全くの無抵抗さに理沙子はむしろ失望したようだったが、とりあえず自分の意図を引っ込めはしなかった。
「特売なのよ。メモはこれね。あと費用」
 ややこの家からは遠いスーパーマーケットのチラシに丸がつけられ、レシートの裏にリストが並んでいる。走り書きだが、見慣れているので涼馬になら読める。
「分かったよ。じゃあ、行ってくるね」
 気分転換にはちょうど良さそうだ。涼馬はそのまま外に出た。理沙子はすっかり広くなったその背中を見やったが、しかし何も言わなかった。気を変えられても困る。おかげで涼馬は邪魔をされずに歩き出せた。やや冷たい風が、少し心地よかった。

 優が帰宅すると、珍しくこの日は家に誰もいなかった。少し早い時間のため両親はまだ帰っておらず、妹二人はどこか友達の家にでも出かけていて、弟は近所の公園で友達と遊んでいる。そんな偶然もあるものだ。ただ、人がいないのをいいことに、何か仕事を済ませてしまおうとは、今の優にはどうしても考えられなかった。
 少々型の小さいものだが、女の子の部屋なので優の自室には姿見が置いてある。それ程おしゃれに気を使うたちでもないので、優は必要は感じなかったのだが、両親、特に母親が頑張って買ってくれたものだ。実際もらった時にはずいぶんと嬉しかった。確かにそう立派なものではないが、小柄な優であるから全身が問題なく写る。
 そしてその前に、彼女は立っていた。第一ボタンまできちんと留めたブラウスの胸元を、綺麗に結ばれた臙脂のリボンが飾る。青いブレザーもボタンを全部留めている。一日履いていたスカートでさえ、そのプリーツにほとんど乱れはなかった。靴下は白、三つ折りにしてある。まっすぐで艶やかに黒い、加工の施されていない髪には櫛がきちんと入っている。
 誰がどう見ても、優等生の姿だ。生徒会の副会長を務め、語学に関しては特に優秀な成績を収める、と聞けば皆が納得するだろう。しかしそれを眺める優自身は、抑え切れない興奮を覚えていた。心臓がどうしようもなく高鳴っている。目が潤み、頬が上気している。
 それをしっかり見て取って、優は下を向いてため息をついた。
 駄目だ。変なことばかり考えてしまう。そのくせ、その「変なこと」に向いている体型だとは、どうしても思えない。澤守涼馬という少年にはもっと知的で、清楚で、スタイルが良くて、お淑やかで、そんな女性がふさわしいと、優は素直にそう思ってしまう。
 とりあえずふて寝でもしようと決めたが、その前に台所まで行って、牛乳を飲む優だった。

続く


前へ 小説の棚へ 続きへ