午後の恋人たち 新章

20 勝敗


 優はこの日、岸宣の案内で指定された場所にやってきた。学校の裏手の、大きな日本家屋である。普段表側の坂を下った所にある駅から通学している彼女にしてみれば、あまり縁のない場所だ。
 門構えといいそこから見える内部の風情といい、「何々流道場」などと大看板のかかっているのが似合いそうな、そんな造りの家だった。恐らく以前は武家の屋敷であったのだろう、そう思える。しかしただ、そこには「菅原」と、住人のものらしい表札だけがかけられているだけだ。
 ここを指定したのは、涼馬である。彼がこの場所とどういう関係なのか、最近は特に話をしていないから良く分からない。ただ、今それは、どうでも良いことだった。
「ご足労をいただいて恐縮です。私はここの人間で菅原旭と申します。スポーツ医学を研究している都合で、このような所を致しております」
 律儀にも出迎えたのは、優の知らない若い男だった。ただ、その両脇にいる人間なら面識がある。立会人を頼んだ手塚昭博と、そしてその交際相手である深澄音玲奈だった。
「御手数をおかけして、申し訳ありません」
 知らないだけに、優は深く頭を下げる。初対面の相手に対して礼儀を失するつもりはない。旭は、笑った。
「いえ、お気になさらず。私はこういう機会も嫌いではありませんから」
 そんな彼に、昭博はわざとらしくため息をつく。旭は苦笑して、昭博に話をする機会を譲った。彼はつまらなそうに、ことを進める。
「余計な話は、一通り片がついてからでも遅くはないでしょう。案内は、玲奈もできるな。場所はさっき教えてもらっただろう?」
「はい。とりあえず支度部屋へどうぞ」
 意外に繊細な気配りをするものだな、と優は思った。この場合、支度とは着替えなどのことである。そんな所へ男性に案内をされるのは、何となく女としては気恥ずかしいものだ。内部を知り尽くしているであろう旭よりは、さっき知ったばかりの玲奈のほうが気楽である。そこで玲奈に連れられて、前庭を越えて玄関を入り、廊下を進んでゆく。
「澤守静馬さん、という方をご存知でしょうか」
「ええ。澤守先輩のお兄さんで、世界的に有名なヴァイオリニストだとうかがっています」
「はい。あの菅原先生は、静馬さんのご友人なのだそうです。お二人とも、私たちの学校の先輩とのことです」
「なるほど」
 とりあえずどうでも良い、と思っていた疑問は解けた。涼馬は兄のつてで、ここを選んだのだろう。それならば、学校から程近い所にあつらえ向きの場所があったということも説明がつく。
「こちらです。終わったら、声をかけて下さい。その場所までご案内しますから」
「わざわざ申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず。今は、全力を尽くすことだけを考えて下さい」
「ありがとうございます」
 部屋に入った優は、言われた通り集中することにした。礼を言うのも、謝るのも、後でいくらでもできる。しかし手合わせだけは、一度きりだ。
 ブレザーを脱ぎ、臙脂のタイを外す。それから靴下、スカート、と、優の身支度は手早い。それも脱ぎ散らかすのではなく、きちんと畳んで行く。そして白いブラウスも取り払われて、優は半裸になった。
 どうやらここは女性用の支度部屋であるらしく、小さめだが鏡台が置いてある。それで優は、今更ながら自分の姿を確認した。丸みを帯びた輪郭、大きくつぶらな目、その一方で手足は細く、胸や腰の肉づきも薄い。
 これでは子供のように見られても仕方がない、とは誰より自分が承知している。しかし少なくとも、涼馬にはもう、そうは思わせない。その固い決意とともに、優は胴着をまとい始めた。

 涼馬はわずかに遅れて、菅原邸に到着した。門の所で待っていたのは、岸宣である。
「挨拶その他、余計な話は片がついてからでいい。と、立会人どのが言っていました」
「そう、分かったよ。ありがとう」
 軽く笑って、涼馬は中へ入ってゆく。その荷物を、岸宣は見咎めた。
「着替えを忘れたんですか」
 涼馬が今手に持っているのは学生鞄一つだった。彼は教科書、ノートを学校に置きっぱなしにしたりしないので、そこに服を入れる余裕はないはずだ。
「必要ないと思って。どちらが勝つにせよ、勝負がすぐにつくのは多分間違いがない。それに実際に何かあった場合に、胴着を着ている可能性ってほとんどないと思うよ」
「確かに」
 涼馬の一撃がまともに入ればそれだけで優はかなりのダメージを受け、逆に優の技がきちんと決まればそれで彼女の勝ちになる。それを、涼馬も岸宣も承知していた。
「ま、止めはしませんよ。好きにして下さい。あなたは良く温和だとか言われますけれど、根っこのところでは本当に頑固ですからね。止めたって聞かないんですから」
「分かっていてくれればそれでいい」
 涼馬はまた笑う。言い返されるのを予期して身構えていた岸宣は拍子抜けしてしまい、一瞬言葉がなかった。
「藤野さんにも、分かってもらうよ」
 そして涼馬は正面を向いて、笑みを消してつぶやく。自分で言った通りとやかく言ってももうどうにもならないので、岸宣はうなずきを返した。

 そして一同は、板張りの広間に集まった。床の間と神棚があり、昭博がその前、つまり上座に座っている。やや違和感のある光景であり、本人も居心地が悪そうだが、立会人という立場上今回は仕方がない。本来の師範である旭、さらに彼よりも年長である蔵人は、その両脇に控えていた。
「さて。今日は合気道の有段者である藤野さんに、実践的な護身術を教えてもらうことになりました。どうせですから相手は、大柄で一見した所強そうな澤守君にしてもらいます」
 昭博が淡々と挨拶をする。しかし話が当初とまるで違う。優も涼馬もはっとして顔を上げた。
「何か?」
 昭博は、相手が不審そうな顔をすることこそ不思議だと、そんな顔で二人を眺めやった。旭、蔵人の二人は、無表情を保っている。さらに彼らを見守っている玲奈や岸宣、彩亜にも動きはなかった。つまり二人以外の人間全員が、昭博の口上を黙認しているのだ。
 沈黙の中で、やがて優も涼馬も昭博の意図を理解した。その名目が通るのなら、無用の闘争を戒める合気道の精神にも反しない。つまり優を気遣ってのことなのだ。
 だから優は、黙って深く、頭を下げた。口に出して感謝の意を表したいところであるが、それではせっかくの気遣いが台無しになってしまう。これからも合気道を続けていくかどうか、それも決めかねていたが、ともかくその好意は尊重したかった。
 涼馬も、了解したとの意味で頭を下げる。
「やるのは一回。今回はそれで十分でしょう。どちらかが負けを認めるか、明らかに勝負がつくかした時点で、終わりとします。生命に危険を生じる攻撃や、目突きなど回復のできないおそれがある攻撃は禁止としますが、限界の判断は各自に任せます。今日はお医者様が二人もいらっしゃって、もしもの場合にこれほど心強いのも珍しいですけれど、まあ、あまり無茶はしないで下さい」
 当事者の同意を得て、昭博は淡々と話を進めた。自分たちに話が及んだときだけ、旭や蔵人はうなずいている。それ以外に動きはなかった。
「後は、そうですね。その他卑劣なやり方について、僕は特に禁止しませんが、各自の誇りに応じて自制してくれるものと思っています」
 こう言われてなお卑劣な手段を取れるのは、パニックなどによって思考の一貫性が破綻してしまった人間か、さもなければ良心が頑丈にできていて傷つかない人間だけである。涼馬や優なら、そのどちらの心配もほとんどない。もっともこれはそもそもこの二人に関しては言わずもがなのことであって、昭博自身がかなり頑丈な良心を持ち合わせているが故の、取り越し苦労である。
「僕からは以上ですが、何か質問はありますか」
 沈黙が否定を表す。重大な危険行為以外は禁止しない、かなり本物の喧嘩に近いやり方だと承知の上である。それだとやはり、かなりの危険が残るということも知ってのことだ。昭博は一つうなずいた。
「では、お願いします。始めの合図とかはしません。お互いタイミングを見て、始めて下さい」
 勝負とは本来、そういうものだ。合図もゴングもない。いつ仕掛けるかも、勝敗を分ける重要な要素である。
 涼馬も優もそれを承知して、ゆっくりと立ち上がった。どちらからともなく、すべるように距離を取る。


「お使いにならないのですか」
 優はその間涼馬から視線を外さなかったが、視界の彼以外の部分に何があるかも見取っていた。板張りの広間の隅の方には、木製の大きな棚がしつらえられている。そこには木刀が複数置かれていた。
 皆そのことについて触れないようにしている印象を受けるが、恐らくここは剣術の道場だ。それも古流剣術、と言われるやや特殊なものだろう。竹刀や防具など、現在一般的になっている剣道で使われるような道具は見当たらない。
 真剣と比較すればかなり軽量の竹刀を用い、競技人口が多いため試合の機会が多く、それについてのルールも整備されている。そのため概して技術的な洗練さを身につけやすい。それが江戸時代以降の平和な時代に発展した、剣道の特徴である。
 一方いわゆる古流剣術は色々な流派があるから一概に考えることは難しいが、戦乱の時代の影響で荒々しいながらも殺傷力の高い、当時としては実践的な技を伝えている所もある。もしこれを身につけ、しかも武器を持った人間が相手となると、極めて危険だ。
 涼馬が剣道に関してそれなりに強いのも、これを習得していると考えれば説明がつく。その一方で剣道部員に対して分が悪いのは、形式が本来涼馬が習っているものと合わないからだろう。
 危険を承知で優が一度促したのは、それでも勝ち目がなくなりはしないと判断したためだ。合気道には武器を持った人間に対処する技も色々とある。むしろ武器を持つことを前提にした武道をしている人間が素手では、彼にとってかなり不利のはずだ。
「必要ないよ」
 しかし涼馬は、軽く首を振った。さすがに、素手の優に対して武器を使う気になれないのだろう。また、素手の訓練を積んではいなくとも、武道をやっている以上身ごなしには一定の自信もあるものと思われる。
「そうですか」
 優はもう、何も言わないことにした。そこまで自信を持っているのなら、逆に言えば自分が過小評価をされているのなら、それを思い直してくれれば今はそれでいい。
 構えを取らず、自然体でいる。合気道の基本を、優は忠実に守っていた。対する涼馬は拳を作って両腕を上げ、ボクサーのような構えを作る。しかし何となく、優にはそれがぎこちないように見えた。
 ただ、ぎこちなくともこうして正面から相対すると、彼の潜在的な能力の高さが良く分かる。単に背が高いばかりでなく、腕や脚がすらっと長い。モデル的な、北条坂高校の女子生徒の憧れの的となっている体躯であり、優の見方も今までは似たようなものだったが、それは技の届く範囲が極めて広いということも意味していた。踏み込んで手を伸ばす、その距離が自分の倍はあるのではないかとも思える。
 無駄な肉はほとんどついていないだろう。脂肪はもちろんだが、余計な筋肉も恐らくない。例えばボディービルダーのような、見栄えはするが体重が増すばかりで素早い動きには逆効果、そんな体つきではない。むしろ細身にさえ見える、引き締まっていながら柔軟な体躯だ。
 今さらではあるが、体格面では圧倒的に彼女に不利だ。しかしそれでも、自分にはこれまで修練を積んできた技術がある。それを信じてやるだけだ。そうしなければ、相手が仕掛けてくるのを見切って技をかける、そのための高度な集中力を維持することができないのだ。迷いやおそれは、技の冴えを驚くほど簡単に奪ってしまう。
 ただ無心に、相対する。どんな衝撃に対しても瞬時に反応し、受け流す。そんなさざなみ一つない水面のように、心静かに。
 涼馬は慎重に距離を測っている。相手の力を利用する、その合気道の特性が分かっているのか、うかつに踏み込んでは来ない。しかしその足さばきは、守りに入った人間のものではなかった。少しでも隙があったと見れば、即座にかかってくる気だ。
 目を見れば分かる。優が初めて見る、力強く鋭いまなざしをしている。優としては超常的な力はないつもりだし、またおのずとそれが感じ取れるような達人の域にもかなり遠いのだが、涼馬の気迫が肌に触れているように思えた。張り詰めていて、そしてどこか、重たい。
 聞こえる息遣いは彼と自分のものだけ。立会人を含めて、周囲の他の人間はもう意識に入ってこない。その呼吸を合わせる。人間の体は、息を吸うときより吐くときの方が力を出せるようにできているものだ。だから多少なりとも運動神経のある者なら、無意識のうちにでもまず必ず息を吐きながら動いてくる。そのタイミングを合わせるのだ。それが食い違うと、優は相手の攻撃に合わせた返し技をかけることが難しくなり、そのまま力負けする公算が大きくなってしまう。
 息を吸って、吐こうとする。まさにその瞬間だった。
「ふうっ!」
 短い息とともに、長身がさらに爆発的に膨れ上がったように見える。凄まじい勢いで接近する、その遠近法上の効果を越えて大きく感じられた。
 しかしそれだけに、動きは極めて直線的だ。単純な突進、その先へと延ばされた右腕には優一人を弾き飛ばすのに十分すぎるほどの力が乗せられているが、それを逆用されれば涼馬でも大きな痛手となることは免れない。
 唸りを上げるようなその手首を、鍛え上げられた動体視力で見切って掴む。しかしその勢いに逆らうことなく自分は体を回転させ、さらに屈み込んだ。後は涼馬自身の突進力が、優の動きによってわずかに方向を乱され、彼の体を放り出すだけだ。それは小柄な人間が大柄な人間を相手にするにあたっては最も有効な部類に入る投げ技の一つであり、また優が得意とするものだった。
 そのまま、涼馬の両足が床を離れるのが分かる。畳敷きではなく板張りの場所で投げ技など受ければ、ただではすまない。そこで相手が頭から落ちたりしないような技を選ぶだけの余裕が、このとき優にはあった。
 勝負あった、その時確かに、彼女はそう思った。その結論自体は、結果的には間違いではない。その瞬間、長く良くしなる、鞭のような物が彼女の首に巻きついた。
「かはっ…」
 呼吸が、と思ったときにはもう遅い。暗転した世界の中で、完璧に決まっていたはずの投げ技の態勢が崩れ、そのまま自分の体が倒れてゆくのが、ひどく緩慢に感じられた。
「あっけないものさ。強いってのは」
 妙に高い所から、立会人の声がする。それが手塚昭博という名前の人物であると、なぜか後から認識した。
「手塚さん」
「お願いします」
「はい」
「優さんっ!」
 そしてそんな声が続く。その質と内容を考えれば誰が何を言ったか分かるはずなのだが、どうも整理して考えることができなかった。そしてそのまま、意識が闇に堕ちてゆく。ただなぜか暖かくて、不安ではなかった。


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