午後の恋人たち 新章

21 小さな勇気


 布団の柔らかさと、そして適度な重みがむしろそれがそこにあるという安心感を与えてくれる。優もその寝ている状態が嫌いではなかったが、あまりいつまでもぬくぬくとはしていられない。手早く着替えて朝食をとって、それから弁当作りや皿洗いなどを手伝わなければならない。今日の弁当には何を入れようか、冷蔵庫に利用できそうな残り物があっただろうか、とそんなことを考えながらかけ布団をどけ、体を起こす。
「んっと」
 そしてはたと、首をかしげた。目の前に広がっている光景が、明らかに自分の部屋ではない。最大限整理整頓の努力はしているものの狭いことはいかんともしがたい、そんな藤野家二階北東隅とは、明らかに様子が異なっていた。広々と落ち着いたたたずまいだが、やや殺風景にも見える、そんな和室である。
 まだ夢の中にでもいるのかと思って、何となく髪をかきあげてみる。しかし状況に変化はない。そこでふと、別のことに気がついた。着ているのがパジャマではなく、胴着だった。通っている道場で、何かの拍子に眠りこけてしまったのだろうかとも考えたが、あそこにはこのような部屋はなかったはずだ。
「気がついたかな」
「わっ!」
 別に大きな声でもなかったのだが、寝起きに横から話しかけられて、優は半ば飛び上がってしまった。そうすると、相手も慌ててしまう。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「あ。さ、澤守先輩」
 優としては、その秀麗な顔を見ただけで余計に落ち着きを奪われてしまう。しかしそこから引き出された錯綜したイメージの集合が、やがて彼女に現状に対する答えを与えてくれた。
 彼に負けたのだ。それも「あっけない」ほど簡単に。何と話してよいのか、そもそもどんな顔をすべきかも分からず、優はうつむいた。ただ、そうしてから、負けた人間がぺらぺらと喋るべきではないとも思えた。
 それを見取ったのか、涼馬はどこか独り言のような調子で話し始める。
「別に隠しているつもりはなかったのだけれど、話す機会がなかったね。僕はここで、剣術を習っているんだ」
 それは、少なくとも始める直前までには、優も察していた。しかしながら、あれだけ完璧に決まっていたはずの投げ技を一瞬で返すとなると、剣術や剣道などではなく、柔道かさもなければ優自身がやっているような合気道など、投げ技を使うものに相当通じていなければならないはずだ。優も自分にかけられた技がどんなものか分かっていれば、返したり外したりできないことはない。
「いわゆる古流剣術だけれど、ここの師範の菅原先生は単に古いものを伝えるだけでない、もっと『古い』形の剣術、というより戦闘術を模索しているんだ。剣を使うことだけにこだわらずに、鍔迫り合いから投げ技につなげたり、あるいは足を払ったり、そういう白兵戦で最も有効な手法を研究している。だから僕たちも、剣さばきだけではなく無手の体術もある程度一通り教わっているんだ」
 つまり、何でもあり。それは最も原始的な勝負の方法であると同時に、最近流行しているいわゆる総合格闘技に通じるものがある。その剣術版、とでも言えば良いのかもしれない。優の頭は、とりあえずそれを理解した。感情は相変わらず混沌としているが、それでも頭はある程度働いているようだ。
「藤野さんが知っている中では、僕の他に岸宣、いや宍戸がここで教わっている。彼は僕よりセンスがあると思うけれど、最近は特に真面目にやる気がないらしくて、今は僕の方に分があるんだ」
 とりあえず聞こえている、ということを示すために、優はうなずいた。そして冷静になって思い返してみれば、自分がどうやって負けたのかも理解できる。万能の技、というものはありえない。優がかけた投げ技にも、当然返し技がある。相手の技の種類を見切った上で適切な返しを行うのは簡単ではないが、例えば優ほどの技量があって、あの自分の技がかけられると分かっていたなら、恐らく涼馬と似たような手段で反撃しただろう。
 涼馬の言いたいことはひとまずこれで終わりらしい。会話が途切れてしまう。それも気が重いので、優は口を開いた。
「手塚さんは」
「敏捷で反射神経に優れているのは確かだけれど、僕にも彼のことは良く分からない。いざとなったら何をするか分からない切れがある一方で、精神面はむしろ強靭で安定している。菅原先生も、この前一度来たことがあるだけの彼をずいぶん気に入っていたよ」
 褒めすぎに聞こえるおそれがあるので口には出さなかったが、彼はある種の天才なのだろうと涼馬は思う。そして彼自身、自分が強いことを無意識的にかも知れないが分かっているから、これまでひるまずに喧嘩をしてきたのだろう。
「なるほど」
 簡単な相槌の後、沈黙。涼馬は待っているのかもしれない。そう思って優は、気が重いながらも呼吸を整えた。この期に及べば結局の所、非が自分にあったことは百も承知である。涼馬は痴漢をとらえようとしたあのとき、友人たちの中では考えうる限り最強の布陣で臨んでいたのだ。優が加えられなかったのは、実力的に劣っていると彼には分かっていたからに過ぎない。その配慮すら分からず、腹を立て、そして一度諭されてなお立ち向かって行ってしまうほど、彼女は子供だったのだ。
 しかしそれだけに、自分のしたことの愚かさ加減が嫌というほど分かっているから、口に出してそれを認めるのが辛い。ただ、だからといって自分を責めようとしない涼馬に甘えてしまって、この場をなあなあで済ませてしまっては、後々もっと気分が悪くなるに違いないとも分かっている。さすがにそこまで、子供になることもできない。今、心を決めるしかなかった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
 迷いを断つためにいっそ勢いをつけて、そして手をついて深く頭を下げる。見えてはいなかったが、しかし優には涼馬が首を振っているのが気配で分かった。
「別に謝って欲しくて、今日来てもらったわけじゃない。ただ、分かって欲しかっただけなんだ」
「はい」
 優は頭を上げない。もう合わせる顔もないから、彼が立ち去るまでそうするつもりだった。生徒会副会長としての仕事は最後まで果たすつもりだが、それで終わりだ。あるいは任に堪えられずその途中で他の人間と代わる、という結果になるかもしれない。人間関係に破綻をきたして役員が途中交代する、という前例もこれまでないではなかった。形式的な任期よりも実質的な運営の効率をとる、そんな校風である。
 そしてゆっくりと、沈黙が流れる。やがて今度は、涼馬が呼吸を整えた。
「実はあともう一つ、聞いて欲しいことがあるんだ。いいかな」
「はい」
 声の調子が変わった。責めるのではもちろんなく、また諭すのでもない。むしろ正反対に、自信を欠いている。そうでなければ、精神的にも圧倒的な優位にある人間が、「いいかな」などと前置いたりはしない。それはすっかり気落ちしている優にも分かったが、しかしその先は全く判然としなかった。だからそのまま、顔を上げられずにいる。
「こういうときにこんなことを言い出すのは、その、変かもしれない。いや、変なのだろうけれど」
 まくし立てたかと思えば、しどろもどろになる。とても冷静な人間のする話しぶりではない。優は恐る恐る、そしてようやく、顔を上げてみた。
「あっ…!」
 目が合う。それは至極当然な成り行きであるはずだ。優が体を上げる動作をし始めたときから、涼馬にも明白だったはずである。しかし彼はその時になってようやく、はじかれたように体を引いていた。しかも目を大きく見開いて、男にしては色白な顔を赤くしている。いや、それは「男」というより「男の子」と形容した方が良さそうな、危ういほど無防備な顔だった。


 自分自身で呆れるほど幼い、そんな彼女と彼は、一歳違いでしかないのだ。分かり切っていたはずのそのことを、優はなぜか今、ようやく認識したような気がした。
「何でしょう。遠慮なさらずにおっしゃってください」
 少し笑みさえ浮かべてたずねる。自分がまだ子供だと思い知ったからこそ、少しずつでも大人になろうと思える。大人ならただ自分の非を認めて反省するだけでなく、何らかの形で償いをして責任をとるべきだ。相手が何かを望んでいるのなら、それを受け入れることにする。
「あ、いや、その」
 しかしそう言われるとかえって引いてしまうこともある。涼馬はさらに、口ごもるばかりだった。そこでもう一押し、というよりも、もう一引きしてみる。
「そういう約束があったわけではありませんけれど、この際『負けた方が勝った方の言うことを何でも一つ聞く』、と考えていただいてもいいですよ」
 もしそんな約束があったとしたら、それは極めて古典的な賭けだ。しかしながら、優は古典が嫌いではない。「語学の女王」の称号の由来となった成績には、英語と現代国語だけでなく、古文、漢文も含まれる。
 そしてとうとう、涼馬は黙り込んだ。真っ赤になって、今度は彼がうつむいている。その後ようやく会話の能力を取り戻したのは、深呼吸をしてからだった。
「そんなふうに言われると、かえって話しづらいんだ。とりあえず、聞くだけ聞いてくれればいいから」
「分かりました」
 優はひとまず、正座をしなおす。そして涼馬はというと、もう二度ほども深呼吸をしていた。
 しかしここの空気がそうするに値するほど新鮮かどうか、少々疑問に感じないでもない優だった。日本家屋だから極度に機密性が高くはないだろうが、ともかく一応ふすまや障子は全て閉じられている。どれほどの間意識を失っていたのか今の所分からないが、少なくともその間彼女自身と涼馬と、二人がこの中で呼吸をしていたはずである。どうやら涼馬は、それにも気がついていないらしい。
 それからようやく、決心したのか彼は優を見据えた。
「僕は君のことが好きなんだ、藤野さん」
 さすがに、いい加減呼吸だけは整っていたらしく、その口調ははっきりしたものだった。優の耳はそれを正確に聞き取っている。
「えっ?」
 しかしそれなのに、なぜか彼女は聞き返した。理性ではきちんと認識しているはずの意味が、感性には全く浸透してこないのだ。
「だから、好きだよ、藤野さん」
 もうやけになっているらしく、涼馬はためらわずに、また表面的には照れもせずに言い切った。優はその光景を、ぽかんと眺めている。
「うそ…」
 そして口をついて出たのは、そんな言葉だった。涼馬ががっくりと肩を落とす。
「いや、あの。別にだからどうこうして欲しいとかはこの際言わないけれど、頭ごなしに否定されても」
 それは確かに困るだろう。普通そんなふうに言われたら、応じるか、拒絶するか、あるいは保留するか、少なくとも相手の発言が真実であることを前提として反応をするものである。拒絶の意志表示として相手の発言の真実性を否定する、ということもあるが、この場合は明らかにそれには当てはまらなかった。優は単純に、驚いている。彼女自身の思考のどこかが、今自分が口を開けたままの間の抜けた顔をしていると、気がついているほどだ。
「だ、だ、だ、だっていきなり、何故こんなときに!」
 パニックに陥った際の人間の反応は様々だが、優はそういう場合攻撃的になる傾向がある。いわゆる「逆ギレ」を起こしやすいタイプである。もっともそれをはっきりと認識している人間は、両親などごく少数だ。
「ぼ、僕だって、いいタイミングじゃないとは分かっているけれど、今言わなかったらもう、機会がないと思ったから」
 涼馬は優の内心を察していた。もし自分が同じ立場だったら、そう考えれば簡単に思い至ることだ。もう合わす顔もない、そんな空気の中で、告白などできるはずもなかった。
「あの」
 優はとっさに口を開いて、そして後が続かない。しばらく意味もなく、開閉を繰り返していた。
「えっ? あっ! ふ、藤野さん!」
 そしてにわかに涼馬の顔色が変わる。今度は一転して青くなっていた。まだ自分としては何も明確な反応をしていないはずなので、優は首をかしげる。
「はい?」
 ぽたぽた、と言うよりはぱたぱたと、軽い音が彼女の膝の辺りでする。反射的に視線を落とすと、そこには水滴が落ちたらしい跡があった。
「あれ?」
 正体を確かめるべく良く見ようとするが、うまく行かない。視界全体が急速にぼやけて、曇ってゆく。
「あれ、あれ?」
「き、気に障ったのなら謝るから、何でもするから、だから、だから泣かないで」
「わたし、泣いてる…?」
 この前涙を流して泣いたのはいつだっただろうか。思い出せないほどの以前以来の、涙だった。涼馬にはもうなすすべがなく、ただおろおろしている。
 そして、軽い衝撃とともに涼馬の長身がひっくり返った。優よりもはるかに強いはずの彼が、彼女の体当たりをまともに食らったのである。
「ふ、藤野さんっ?」
 隙だらけの状態からまだ立ち直れていない涼馬は、そのまま優に乗っかられてしまっている。今度はその顔に、彼女の涙が落ちた。
「わ、わたしなんかで! あんなに馬鹿で、子供で、スタイルだって全然だし、それに、それに嬉しいって言わなきゃならないのに、こんな泣いて、弱くて…」
 二滴、三滴と落ちる。涼馬はそっと、彼女の髪を撫でた。彼女は抱きつこうとして、一方で涼馬の態勢があまりに不安定だったために、倒されてしまったらしい。
「君が、好き。僕は藤野さんが、好き」
 それが何か、魔法の呪文であるかのように、涼馬は繰り返しつぶやいた。そして、彼女を跳ね除けないように慎重に起き上がる。そのために背中に回された手に、彼女は抗わなかった。
「僕だって、弱いよ。ずっと前からそう思っていたのに、最近はみんなにきっと藤野さんも僕のこと好きだって言われていたのに、言い出す勇気がなくて。それに…」
 つやのある髪が何かをはじく。その感触に、優は流れる涙をぬぐわぬままはっと顔を上げた。
「泣いて…る?」
 涼馬が涙を流したのは、いつ以来なのだろう。優はそれを、呆然と眺めていた。
「うん、泣いてる。おかしいよね、僕、男なのに」
 しかし彼は、涙を流しながらではあったが、笑ってもいた。優は彼の広い胸に、そっと顔をうずめた。
「私も、好き。私も、先輩が、好きです」
 それからはもう、言葉にならない。ただ、お互いのぬくもりを分け合っていた。
 どれほどの時間がたったのだろう。やがて二人は、そっと体を離した。しかしそれは、気持ちの高ぶりがさめたことを示すものではない。むしろ逆に、もっと先を求めてのことであった。
 わずかな会話をも必要とせずに、目を閉じた優に涼馬が顔を近づけてゆく。肌にかかる熱い吐息さえ、心地よい…。


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