午後の恋人たち 新章

22 収拾のつかない終章


 完璧に構成されたように思えた、いや、完璧であるがゆえに意識さえされていなかった二人きりの空間は、しかし簡単に砕け散った。少なくとも涼馬と優の二人の空間は、ガラス細工のように繊細で、美しく、そして脆かったのだ。
「きゃ!」
 押し殺した、そしてどこか頓狂な、しかし紛れもない悲鳴が上がる。涼馬も優も、その声の主を良く知っている。玲奈である。その一声で、急展開した事態をぶち壊しにするのにはこと足りていた。
 普段であれば、年上とはいえ彼女の天然ボケは微笑ましく思えていたものだ。しかしながら、よりにもよってその瞬間に、である。二人とも、一瞬殺意さえ覚えた。とっさに手の届く距離に彼女がいたなら、危なかったかもしれない。しかし幸い、彼女がいるのはどうやら障子の向こう、廊下であるようだった。かすかに、そこで人の動いている気配がある。
 しかし、そこで二人とも一つの疑惑にたどり着いた。よりにもよって肝心なその瞬間に、ではなく、その瞬間だったからこそ、動きがあったのではないか。つまり彼女は、中の様子が分かる状態にあったのではないか、ということだ。
 軽くうなずきあった次の瞬間、二人はその障子に飛びついた。そして勢い良くそれを開ける。建てつけが良い上に手入れも行き届いており、障子は小気味良く滑っていい音を立てた。
 優が寝かされていたのは、道場を兼ねる菅原家の建物の客間である。庭に面しており、その庭は基本的にその客間からの見栄えが最も良いように造られている。
 そこで、主の旭が掃除をしていた。落ち葉の季節、竹箒を使っているその和服姿は中々様になっている。また、門下の岸宣も竹箒を手に別の場所を掃いていた。さらに、蔵人や彩亜がそれを手伝っている。
「ねえ、師範。一つよろしいでしょうか」
「何?」
 これぞ武人のあるべき姿、とばかりに彼は落ち着いた様子を保っている。しかし構わず、涼馬は質問した。
「ここの庭、四人で掃除をしなければならないほど広かったでしたっけ」
 そんなはずはない。涼馬ら門下の誰かあるいは旭自身が日頃から、気がつけば掃除をしているので、一度に四人がかりでやる必要は極めて乏しい。そもそも四人でやるほどの道具がないのである。箒を持っている旭や岸宣はともかく、蔵人、彩亜は彼らの前でちりとりを持っているだけという、まるで小学生のようなことをやっていた。
 それに岸宣は、そもそも掃除などやりたがる柄ではない。旭がとやかく言わないのをいいことに、可能な限りさぼっていた。掃除も修行の一環とされているが、師範の旭自身がまだ修行をやり足りていないようで、無理には門下生にやらせないのである。確かに彼自身、他の流派へ行けば師範どころか師範代ですらない、ただの門下生でもおかしくない年齢ではあった。
「私もそう思うのだけれど、今日は先輩や岸宣が珍しく是非にと言うのでね。せっかくこう人が集まるのも珍しいし、やってもらうことにしたんだ」
 旭はさらっと、流した。止せ馬鹿、という蔵人、そして勘弁して下さい、という岸宣の、無言の威圧を完全に無視して、である。
「ほう、確かに、珍しいこともあるものですね」
 切れるように冷たい視線で、涼馬は宍戸兄弟を眺めやった。どうやら彼等、そして彩亜は、客間に聞き耳を立てていたらしい。旭がそれをやっていたかどうかは、涼馬としても良く分からなかった。少なくとも、黙認していたことは確かである。兄弟子ではあっても開業医としてそれなりに時間を取られている蔵人よりも、可能な限り鍛錬の時間を取っている旭の方が強いのだ。本人が言うとおり掃除をしていたのなら、当然様子をうかがっている人間たちは目に入っているはずである。
 ただ、話はそれで終わらない。今度は別の所に視線を転じる。
「それは分かったとして、昭博は何をやっているの?」
 彼は客間脇の廊下に立っていた。態勢としては、涼馬に背中を向けている。そしてその腕の中に、玲奈がいた。膝と背中の辺りをそれぞれの腕で支えて抱え上げている。涼馬自身はそのような会話があったと知るべくもないが、先ほど彩亜が言った「お姫様だっこ」の状態である。玲奈は大人しく、彼の腕の中で丸まっている。
 少なくとも涼馬と旭の会話の間、昭博はその態勢を維持していた。一見した所細身のようで実はかなりの腕力、と見えるところだがそうではないことを、涼馬と優は理解している。
 無論そうするために昭博には相応の腕力が必要になるし、また玲奈のほっそりした体の重量は見かけ以上に軽いのだろう。しかしそれ以上に、最も大事なのはバランス感覚だ。どれほど軽いとしても少なくとも数十キロに達する人一人の体重を、腕だけで支えることはできない。腕から肩、背中から足腰に至るまでの筋肉にかけて、要するにほぼ全身に重量から発生する負荷を分散させるセンスが鍵になる。そのセンスがあれば、一見した所いわゆるマッチョマンでなくとも、ある程度重い物を持ち上げられるものだ。
 そして、必要なものがもう一つある。それは持ち上げられる側の、持ち上げる人間に対する信頼だ。下手に持ち上げられる側が身動きをすれば、どれほど持ち上げる側のバランス感覚が優れていても、そのバランスが崩れてしまって意味がない。無意識的な身じろぎさえ、微妙な平衡を簡単に崩してしまうのだ。大男が力づくで持ち上げているのならともかく、平衡感覚でやっているのなら持ち上げられる側には心からの信頼、あるいはそれに代わりうるだけの運動神経が必要になる。
 そしてこの時、玲奈はしっかりとしがみついていて動かない。彼女に曲芸的なセンスがあるとは、とても思えなかった。
 優としてはちょっと、正直な話うらやましい。別に昭博をどうこう思っているわけではないが、好きな人にそこまで体を預けられるということが、羨望の対象になっていた。
「スキンシップ、かな?」
 そして昭博は、そう言いながら玲奈をそっと下ろした。少なくとも、その背中に疲れたような様子は見えない。
「今日立会人をしてもらったことには、僕は心から感謝しているよ。でも、よりにもよって今、ここで?」
 それは絶対にない。同じ年代の少年である涼馬には、それが何となく分かった。
「俺だってどうかと思ったけどさ。こいつ意外とわがままでね」
 昭博は人のせいにしてしらばっくれた。背中を向けたままである。例えば玲奈に矛先を向けるなど、追及の方法は他にもある。しかし涼馬は、一言だけ言った。
「ふうん」
 どんな理由があれ、女性を責めるのは涼馬の趣味に合わない。例え昭博を直接攻撃するにしても、昭博自身が何の罪悪感も覚えない一方で、彼女が申し訳なく思う、ということもあるだろう。
 恐らく玲奈は逃げ遅れたのだ。旭や蔵人、岸宣、それに彩亜は非常に優れた運動能力の持ち主である。何かの拍子に玲奈が声を上げてしまってから障子が開けられるまでの間に、掃除をしていたと装うことなど簡単だ。
 しかし玲奈は違う。慌てて逃げようとはしただろうが、そうするとかえって滑るなどして、結果的に行動が鈍ってしまう。そういう人なのである。昭博はそれを抱え上げて逃げようとしたのだろう。彼が覗きをしていたかどうかは定かではないが、少なくとも彼女を見捨てて逃げなかっただけ偉いと思った。そこまで推測がつけば、涼馬としてはもう十分である。
 それに、まだすべきことがある。涼馬は最後に、昭博、玲奈とは反対側の廊下に視線をやった。
「兄さん、逃げたって無駄だよ」
 どうしてよりにもよって今、この場所にいるのだろう。こそこそとこの場を離れようとしている肉親に、涼馬は釘を刺した。
「何が?」
 まるで何事もなかったように、表面上はさわやかな笑みで、彼は振り返った。直接の面識はないものの、その顔は優も知っている。澤守静馬、世界的ヴァイオリニストとも呼ばれる、涼馬の実の兄である。その顔立ちの繊細さは弟に良く似ている。しかし涼馬のような精悍さは見られない。あくまで繊細さで統一された、ある種芸術品のような美貌である。背丈は長身の弟よりは低いが、旭などよりは高いようだ。
「家にも連絡をよこさないで、どうしていきなり日本に帰って来て、こんな所にいる訳?」
 涼馬は不機嫌に、問いただした。しかし相手もさるものである。さすがは一回りほど年長のはずの兄と言うべきか、少なくとも一見した所は平然と返す。
「こんな所って、旭とは昔からのつきあいだし、今日は蔵人さんもいるって聞いたからさ。家には後からいくらでも挨拶はできるし、父さんだって母さんだって、細かいことは気にしないじゃないか」
「正確に言えば兄さんが帰って来るかどうかも、あの人たちにとっては細かいことだけれどね」
 しかし涼馬も負けてはいない。少なくとも彼も以前の、一回り年齢の違う相手にいいようにからかわれていた子供ではないのだ。
「まあそうさ。僕だって別に二十いくつにもなって、親に細かく気にかけてもらおうとは思わないよ」
 静馬はあくまで平然と返す。「ああ言えばこう言う」とはこのことであろう。涼馬は敵意に満ちた視線を突き刺したが、彼はそれに構わず突如歩き出した。そして立ち止まったのは、場の成り行きについてゆけずただ立ち尽くしていた優の前である。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。涼馬の兄で、静馬と申します。弟が大変お世話になっているようで」
 口調は日本的な謙譲の美徳を保ちながら、動作はむしろ欧州の貴族的な、誇り高い優雅さを見せている。そんな礼法だった。
「あ、いえ、こちらこそ。藤野優です。私こそ、先輩には大変お世話になっております」
 優は慌てて頭を下げる。静馬はそれを、優しい眼差しで眺めやっていた。しかし涼馬の疑念は、ここでより深いものになっている。もしかしたらこの兄は、どこかから弟が恋の悩みを抱えていると聞きつけて帰国したのかもしれない。そのくらいやりかねない男だ。
 そして次の瞬間、彼は意外な所に視線を転じる。
「ねえ、岸宣君」
「何でしょう」
 岸宣と涼馬が以前から友人づきあいをしているのは、そもそも二人の兄同士が親しい友人だからだ。それだけに、岸宣と静馬の間にも面識はそれなりにある。ただ、ここで自分が呼ばれるとは、岸宣も思っていなかったらしい。やや不思議そうに応じている。
「学校、今でも体操服はアレなのかな」
「アレです。正確を期せば一応、と言わなければなりませんけれどね。強制ではありませんから。ただ少なくとも、ここにいるお二人はまぎれもなくアレですよ」
 吹き出すのをこらえる表情で、岸宣は説明した。指示語の多すぎる話しようだったが、静馬には十分通じている。
「ほう、ほう。じゃあ、『例の伝説』は?」
「もちろん残っていますとも」
 岸宣は涼馬と優をちらりと眺めやってから、続けた。
「当分なくならないんじゃないですか」
「ふふん、なるほど。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「澤守先輩、そろそろその辺にしておいたほうがいいと思いますよ」
 静馬に対してそんなふうに口を開いたのは、旭である。涼馬の姓ももちろん「澤守」だが、弟のほうは旭にしてみれば当然ながらずっと後輩だ。
「相変わらずつれないなあ、旭は」
「涼馬一人なら何とかできないこともないですけれど、手塚さんもいっしょに怒らせると、私でも止められません」
 旭は微妙な笑みを浮かべながら、顔で軽く昭博を示した。
「え、手塚さんって?」
 想定外の要素に、余裕綽々という静馬の態度に始めてほころびが見えた。彼が目にしたのは、玲奈をかばうようにして立つ、いやに目つきの鋭い少年である。「ガンを飛ばす」とはどういうことか、その見本のようだ。無論そこに、自分の知らない少年がいることを静馬も気がついてはいた。しかしその時と、印象が全く違う。静馬は無論、彼が玲奈の交際相手であることなど、知る由もなかった。彼女に関してセクハラ的な発言があれば、怒るに決まっている。
「あ、えーと」
「昭博、君さえ良ければ身内の恥は身内で片をつけるけれど」
 涼馬が両手をほぐす。彼に向けて、昭博はうなずいた。
 さてどうしようか、そんな内心を現さないようにしながら、静馬はあたりを見渡した。文武両道の弟と違って、彼は運動はからきしである。正面切っての格闘となれば、まず間違いなく負ける。舌先三寸なら分があるのだが、この場合どうも聞く耳を持っていなさそうだ。
 そうなると、誰か味方を作ってしまうのが上策だ。旭を引き込めれば万全だが、どうもそこまではしてくれる気配がない。やむなく次善の策として、宍戸兄弟にさりげなく視線を送ってみた。
 蔵人は静観の構えを崩さない。しかし岸宣が、反応した。
「ねえ、涼馬。久しぶりに我が母校の諸先輩方が顔をそろえたのでふと気がついたんですが」
 涼馬はというと、完全に無視。しかし少なくともこの二人の間でそのようなことは珍しくないので、岸宣は構わずに続けた。聞こえてはいるはずである。
「例の伝説、発生時期はちょうど静馬さんや師範がうちの学校に在籍していらっしゃった頃ではないでしょうか。少なくとも我々が入学したときには既に存在していましたし、かといって女子全員がはいていたほど昔なら、あのような伝説は成立しません。師範は何か、ご存知ではありませんか」
「さあ。私は上級生から話を聞いただけだから」
 旭は知っていると顔に書いておいて、しらばっくれた。うなずいて、岸宣は再び涼馬に向き直る。
「あるいは自然発生的なものなのかもしれません。しかしもしそれが人為的なものだったとしたら、流した人間はあんな話を皆に信じ込ませることができるほど知力と話術に優れ、同時にいたずら好きな人間ですよ、きっと。それに恐らくは、噂の温床になりやすい女子の多くと親しかった人間のはずです」
 所詮悪党の共闘などこんなものである。危なくなったらすぐに裏切る。岸宣は涼馬がまだ、覗きをした自分に対しても怒っていることを察知していたので、その矛先をも静馬に向けさせることにしたのだ。他にもその条件に当てはまる人間はいるかもしれないが、この場面でそう言うとなると、当てはまるのは静馬一人になる。犠牲者が一人で済むなら、それに越したことはない。
「この…」
 さすがに怒り心頭に達して、涼馬はもう言葉もなく実の兄の方へと重い一歩を踏み出した。しかしその前に、旭が立ちはだかる。
「まあまあ落ち着いて。君のお兄さんは岸宣などと違って頑丈ではないのだから、本気でやったら殺してしまうよ」
 少なくとも涼馬は、師匠と自分との間の力の差をわきまえるくらいの冷静さはまだ保っていた。旭を彼単独の実力で排除することは不可能に近い。
「分かっています。それなりの所でやめておきますから、先生にはご迷惑をかけません」
「重傷でも十分迷惑だよ。我々には急患の診療義務があるんだから」
 その言葉に、蔵人も大きくうなずいた。医師であるということは、医療行為をする権利を有するだけでなく、一定の義務を負っていることをも意味する。例えば飛行機の中などで急病人が出た場合、そこに医師が同乗していれば、専門外であっても一応診察を行うのはこのためだ。
 臨床医ではなく研究畑の人間である旭としては、できるなら経験に乏しい診療はしたくない。一方まさにその道のプロである蔵人は蔵人で、遊びに来ておいて仕事をするつもりは全くない。そんな所らしかった。
「だから我々のいない所、例えば家に帰って、ゆっくりやってくれないか」
「分かりました。失礼しました」
「いや、分かってくれればそれでいいよ」
 旭は朗らかに笑った。いずれけが人が出ると分かっているのを放置するのが医師としての倫理、というより人としての道に反していないかどうか微妙な気もしたが、誰もその件については何も言わなかった。被害者確定、かに見えた静馬自身でさえもである。彼は抗議するより有効なこの場の切り抜け方を、とっさに考えていたのだ。
「岸宣君はちょっと勘違いをしているよ。この際僕がふざけて噂を広めたことは認める。でも僕だって、きっかけは上の学年から話が降りてくるのを聞いただけなんだ。ねえ、宍戸先輩」
「何のこと?」
 良い医者はポーカーフェイスを保つものだ、という信条を持っているせいか、蔵人は見事に無表情を貫いた。しかしそれを透過して、涼馬は真相を直感的に見抜いた。
「要するに、宍戸先生と兄さんが共謀して噂を広めたんですね、菅原先生」
「確証はないけれど、この二人ならやりかねないだろう」
 恐らく、退屈でもしていたのだろう。ある日どちらかがいたずらを思いついた。根も葉もない噂を流し、それを周りの人間に信じさせるのだ。どうせだますのだからその噂は、下らなければ下らないほど面白い。そこで彼らが目をつけたのが、当時緩やかな自然消滅の過程をたどっていた女子のブルマだった。そして悪知恵が働くし口も回る二人は、見事に噂の流布に成功した。大方そんな所だと思われる。
 少なくとも彼らがフェティッシュな情熱を持って、ブルマを存続させるべく暗躍したのではないことだけは確かである。そんなある意味での真面目さを、彼らは持ち合わせてはいない。蔵人の方は私生活を見せない人間なのでよく分からないが、静馬は当時から彼女を作っては別れていた。
「本当に、全く…」
 涼馬の握り拳が震えている。いくら自分でも、蔵人と静馬のどちらに飛び掛るか分からないものを止めるのは難しい、旭はそんなことを考えていた。
「今気がついたのだけれどね、涼馬君」
 そして声を上げたのは、蔵人である。ぴっと人差し指を立てる動作に実は隙がない。さすがは一応、旭の兄弟子である。同じことを静馬がやろうとしていたら、その間に殴られていたかもしれない。
「発生したいきさつを私は知らないが、それが今この時点まで残っているというのは、何か人為的なものを感じないか? もし人為だとすれば、それは、知力と話術に優れ、同時にいたずら好きな人間のしわざだよ、きっと。それに恐らく、知っていることを広く校内に伝えることのできる手段を持っている」
 心温まる人間関係である。彼が告発しているのは、実の弟だった。弟が兄を半殺しにしようとしているのとどちらが麗しい兄弟愛かは、微妙な所だ。確かに岸宣ならやりかねないと、涼馬も思う。
「誹謗中傷ですね。我が兄ながら情けない」
 岸宣は言下に否定した。しかし涼馬は、彼のたわごとを聞いてはいなかった。
「この馬鹿兄弟が」
 ぼそり、と一言つぶやく。それが二人をまとめて傷つけるためには特に有効な手段であると、涼馬は知っていた。
「一緒にするなっ!」
「一緒にしないで下さいっ!」
 その反応までそっくりで、お互い嫌な気分になる。涼馬はそこまで、計算していた。
「さて、兄さん。この件は後でゆっくり、話し合おうね。父さんや母さんも交えて」
 涼馬が笑顔でにじり寄る。静馬は何とかできないものかと考えていたが、しかし今の所名案は浮かんでいなかった。
「あーあ、せっかくのいい場面が、ぐずぐずになっちゃったねえ」
 そんな男たちを、彩亜は腕組みしながら眺めていた。それは彼女のせいでもあるのだが、と優は思っていたが、玲奈があまりにすまなさそうに小さくなっているので黙っていた。しかしそれに構わず、彩亜は続ける。
「要するにね。一番大事なのはお互いの、相手を想う気持ちだってことよ。それさえしっかりしていれば大概のことは乗り越えられるし、それが貧弱なら何をやっても無駄無駄無駄。そのくせそういう弱い人間に限って、三々九度やら指輪の交換やらに頼りたがる。そんな上っ面の愛情とやらに警告を発するために、クロ兄は敢えてあからさまにしょうもない素材を選んで、そして岸宣はそれを受け継いだんじゃないかな」
 彼女は北条坂の人間ではないが、恐らく昭博と同じようにして、岸宣あたりから「例の伝説」を聞いていたのだろう。
「いくらなんでも身内びいきが過ぎるんじゃないか、それ」
 昭博が乾いた声で指摘すると、彼女は珍しくよどんだ声で応じた。
「そうでも思わなきゃやってらんないわよ、身内なんだから」
「ごもっとも」
 そして昭博も珍しく、彼女に反発しなかった。ただ、立ち直りが早いのが彩亜の長所であるらしい。明るい顔を、優に向けてきた。
「まあ、悩んだり迷ったりしたときに他の人に相談するくらいはありだろうけれど、でも結局は外野のいない所できっちり方をつけないとね。でないと訳分かんなくなっちゃうわ」
 今日の彼女の行動はさておいて、総論としては賛成なので、優は黙ってうなずいた。
「んでね、と。ええと、どこにしまっちゃったかなぁ」
 そして彼女はごそごそと服のポケットを探り始める。質問をしたのは玲奈だった。
「何でしょう」
「お守り。藤野さんにあげようと思って」
「あの、他力本願は良くないと今おっしゃったばかりでは」
「大丈夫。十分実用的だから。ああ、あったあった。これこれ。はい、どうぞ」
 優も玲奈もその意味を測りかねているうちに、彩亜は目的のものを取り出した。それは小さな包みである。別段危険物でもなさそうなので、優は差し出されたものを反射的に受け取ってしまった。
「あぁっ!」
 何と、先に驚いたのは玲奈である。優の方が彼女よりも何倍も、反応速度に関しては優れているはずなのに、だ。それに触発されてようやく、優は手の中のものを改めて見直す。
 何か丸いものが、ビニール製と思しき密閉された包みに入っている。食品あるいは医薬品など衛生を保つ必要があるもの、という優の直感は、それなりに当たってはいた。ただ、玲奈が変に驚いていたことが、イメージの混乱を招いてしまう。そこから立ち直るまでに、さらにもう少し時間が必要だった。そして分かるや否や、優は息を飲んでしまう。
 それは、避妊具だった。コンドーム、という奴である。優が現物を見たのは、いつかの性教育の時間以来だった。
「お前、何渡してんだよ」
 わたわたと、日本製であるらしくごく軽く小さい包みを持て余している優をよそに、昭博が首を振った。さすがにまずいとは思ったらしい。しかしその程度の反応は、彩亜にしてみれば予想の範囲内でしかない。
「常識、って言うかエチケットよ、これ。まさか昭博、生でしてるんじゃないでしょうね。ステディだから性病の心配は少ないにしても、用意もなしに孕ませちゃうのは感心しないわよ」
「するかボケェ!」
 何か怖いものでも見るかのような彩亜に、昭博は情容赦なくツッコミを入れた。ステディ、というのは日本語訳すれば「決まった交際相手」という意味であるが、そこには性交渉のある相手、というニュアンスが含まれている。少なくともやや俗っぽいアメリカ英語ではそうだ。
 一方もう一人の当事者、玲奈は真っ赤になって黙り込んでいる。そういえばこの前この人、「早く赤ちゃんが欲しい」などと口走っていたなと、止せばいいのに優は思い出してしまった。もしかしたらすることはしているけれどしていないかもしれない、などと、自分でも訳の分からない思考が引き出されてしまう。
 さておき彩亜のたわごとを、昭博は一言で切り捨てたのだった。
 しかしそれも、彼女の掌の上で踊っているに過ぎない。今度はさも同情しているような表情を作る。そもそも美貌であるしスタイルも良いし、加えてこの演技力だ。恐らく彼女なら、女優になれるだろう。
「ねえ、確実だって保障はあたしにはできないけれど、EDは治る病気よ。クロにいは専門じゃないけれど、多分専門のいいお医者さんに心当たりもあるはずだから、一回相談してみたら? バイアグラに頼るとか、そういうお医者さんの処方もなしにやるのはやっぱり危ないわよ。愛する彼女のためにもね」
 EDとは、性交渉における男性としての機能不全のことである。まあ確かに、玲奈ほどの美貌の恋人がいるにも関わらず全く手を出す気も起きないとしたら、一度医者にかかっておいた方が良いかもしれない。泌尿器科に行くべきか精神科に行くべきかは、微妙なところであるが。
 ともあれ彩亜は、「少なくとも避妊をせずに性交渉はしていない」というニュアンスかもしれない昭博の発言を、「性交渉をする気もない」という意味に、曲解していた。当然、昭博は怒る。男としてそればかりは、やむを得ない。
「お前いい加減その口閉じろよ」
「やーだよー、だ!」
 やりあって負けるとは思っていないのだが、しかしこの場合逃げた方が相手の反応が面白いに違いない。昭博が凶器を取り出すその前に、さっさと逃げを決め込んだ。とんとん、と、あたりにあるわずかな突起を利用して上へ登ってゆく。例えば玲奈のように状況の認識に時間がかかる人間にしてみれば一瞬で、彩亜は屋根の上に上がっていた。
「ここまでおいでー」
 わざとらしく手を振って見せる。やろうと思えば昭博もそこまで登ることはできるのだが、同じレベルで争っても仕方がないと考えることにする。そこで一言、言った。
「お前、パンツ見えるぞ」
 まあ、わざわざスカート姿の彼女が自分で上に上ったのだから、仕方のない成り行きではある。特に彩亜のスカートは、少なくともデザインされた際に想定されているより明らかに短かった。現状としては辛うじて、見えていないという状態だった。ただむろん、そのふとももまではあらわになっている。しかし彼女はひるまない。
「ははん。ものを知らないわね。『見せパン』っていう、見せるためのパンツ、あんた知らないの? 出回りだしたのだいぶ前からよ」
 実際の所人によっては、いくらそのためのものであってもスカートの中を見られるのは恥ずかしい。しかしそこで引いてしまっては負け、というのが彩亜の考え方である。むしろ堂々と、そこに立っていた。
「知るか! 誰がそんな汚いもの好き好んで見るかよ。さっさとしまえ!」
 昭博は昭博で、ここでひるんでは負けであると承知している。すかさず言い返した。
 以後舌戦が続くかに見えたがしかし、それを意外な人が制した。
「あ?」
 昭博が振り返ろうとする。しかしその人物は、それさえも許さなかった。ただ、彼の耳を上へ向けて引っ張る。
「痛い、痛い、痛い!」
 昭博は思わず、爪先立っていた。
「痛いってばさ、玲奈!」
 玲奈が昭博の耳を、結構本気で引っ張っていた。優はそれをただ呆然と、そして彩亜は面白そうに眺めている。
「痛くしていますから、当然です」
 表面上無感動に、玲奈は応じた。これもある程度当然の成り行きとして、昭博は気分を害している。
「何? 何だよ急に」
「他の人のスカートの中を見るなんて」
 押し殺した調子で、しかしそれだけに深刻に聞こえる声を発している。正直な所昭博は、呆れた。
「あのな、おい」
 ここが彼と彼女と二人きりの空間であったなら、誤解を解く時間は十分にあったであろう。しかしそこは彩亜である。当然妨害にかかる。
「ほーれ、ほれほれ」
 ストリッパーでもそこまでするか、という勢いで踊って見せる。ポイントは単純に見せるのではなく、見えそうで見えない、の危ういバランスを保つことだ。実の所彼女が通っているのは都内有数どころか全国有数のお嬢様学校で、その制服を見るだけで興奮する人間もかなり多いのだが、そのスカートを惜しげもなくひらひらさせていた。すその広がりを巧みに計算し、まずいと判断される場合には脚を使ってうまく隠す。
「ちったぁ黙ってろこの…! って、だから玲奈、耳を引っ張るなってば!」
 別にこれという鍛錬をしていなくとも、あるいは天性の才能などなくとも、標準的な男性としての運動能力があれば、玲奈の一人くらい簡単に振り払えるはずである。しかし彼は、いつまでも玲奈に耳を引っ張られているのだった。
 もう、収拾がつかない。
 一体自分は、何を思い悩んでいたのだろう、本当に。優はそんなことを、ただぼんやりと考えていた。


前へ 小説の棚へ エピローグへ