午後の恋人たち 新章

4 手塚さん登場


 北条坂高校近辺に痴漢が出没する、そんな話がこのころ現実のものとなっていた。以前から、というより女子生徒のいる学校の場合、その種の話は珍しくもない。共学校なので女子校ほど頻発はしないが、しかし絶無になることもなかった。ただ、今回は警察がパトロールを強化するほどの事態のようで、学校にも注意を呼びかけるよう通知が来ていた。
 生徒会としても校内に被害者がいないかと内々に調査したり、この件に関するプリントを配布したり、さらに担当教員と協議したりと様々な活動を行なわなければならなかった。また、年中行事としては北条坂高校最大のものである文化祭がそろそろ迫ってきており、それに関する下準備も並行して進めている。
 結果として、幹部役員の帰宅時間は遅くなってしまう。事態が事態なだけに極力夜間に及ぶのは避け、あるいは男子生徒のみが残って作業に当たるなどの措置をとっていたが、それでも女子の帰宅時間も夕方に及ぶことがしばしばあった。
「駅まで送ろう」
 夕日と影、赤と黒に染まった廊下、生徒会室の鍵を閉めながら涼馬がそう声をかけた。
「でも、先輩のお宅は駅とは反対方向でしょう。そこまでご迷惑はかけられません。大丈夫、一人で帰れます」
 優は涼馬の住所を知っている。徒歩で通える距離にある、この学校の裏手だ。訪問した経験はないのだが、学生名簿等を見れば分かる。覚える必要性は特になかったのだが、それは彼女の個人的な事情というものだ。それにそもそも、そこまで知っていなくとも人並みの注意力があれば、彼が自分たちの使っている正門から登下校をしていないとは分かるものだ。
 心遣いはありがたいが、そのような無駄足もさせられないと思う。優はかぶりを振ったが、涼馬は引き下がらなかった。
「そうも言っていられない。女子の一人歩きは避けるように、と原稿を書いたのは君自身だろう。生徒会からそれを破ってどうするんだ」
「わたしは特別ですよ。合気道の有段者だって、お忘れですか。もし変なのが出て来たって、警察に突き出してやりますから」
 何となくガッツポーズをしてみせる。しかしその動作は、むしろ彼女の腕の細さを強調するようにも見えた。
「詳しくは知らないが、合気道は様々な武道の中でも特に実際の争いを嫌うのだろう。僕が一緒にいることで無用の争いが避けられるのなら、それに越したことはないよ」
 痛い所を突かれた。まともな武道なら必ず無用の暴力を戒めるが、中でも合気道は護身術としての役割を重視し、やむを得ず戦う場合になっても相手を負傷させることを避けるなど、その傾向が強い。自然、反論が苦しくなった。
「でも、痴漢を野放しにするわけには」
「それは警察の仕事だよ。女子高校生のすることじゃないな。そんなことをしたらご両親も心配なさるだろうし、僕だって心配だよ。お願いだから、大人しくしてくれないかな」
 とどめに涼馬の「お願い」とあっては完全に優の負けである。元々心底勝ちたいと思っていたかどうかとなると、本人にさえ怪しい。
「さあ、帰ろう」
 微笑んでから、優の歩調を考えてかゆっくりと涼馬が歩き出す。内心の嬉しさを隠しながら、優はそれについて行った。
 下駄箱を過ぎて正門へ、お互い適当な話題を探しているようで、相手の言葉を待っているようで、無言だった。そして正門が見えた所で、二人同時に声を上げた。
「先輩?」
 夕闇の中、門柱のかたわらに、一人の女生徒がたたずんでいた。その白い肌は夕日に染まり、青のブレザー、スカートは形容しがたい色になっている。長い髪が緩やかな風に揺れ、舞っているようにも見えた。
 一瞬、見る者に我を忘れさせるほど美しい少女だ。顔の造りは触れれば壊れそうなほど繊細で、それでいて柔和さも感じさせる。中背だがほっそりとした体躯は、それ自体芸術品のようだ。
 三年生の深澄音玲奈、その名は涼馬も知っているし、言葉を交わしたことも一度や二度ではない。昨年度は定員二名の副会長として、生徒会の中核メンバーを構成していたのだ。校内の女子生徒の中では、特に親しい一人であるといってよい。
 しかしそんな涼馬の目からさえ、この赤い光と闇の中で、玲奈の姿は一種異様にさえ見えた。彼女が存在しているというそれだけで、日々自分たちが通っているはずのこの学校の風景が、完全に現実感を欠いてしまっている。
 二人がしばらく見詰めていても、彼女にそれと気づく様子はなかった。しきりに門の外を気にしている。その神秘的というよりも極めて人間的な動作が、二人の自失を回復させるきっかけになった。
「先輩、こんにちは」
「あ、涼馬さん、優さん、こんにちは」
 ふっと振り向いて、あでやかな笑顔を見せてくれる。優は頭を下げた。
「こんにちは」
 その言葉の歯切れが少しだけ悪い。複雑な気分だった。
 少なくともこの人自身を嫌っている訳ではない。むしろ逆だ。美貌や成績の良さを鼻にかけない、いまどき珍しいほどの善人なのである。時折妙に抜けている部分もあるが、それも微笑ましい。好き嫌いでいえば、好きの部類に入る。
 しかし、もし涼馬がこの人に友人以上の好意を抱いていたら、と考えるだけで落ちつかなくなるのだ。非の打ち所のない容姿、誰にでも優しい性格、最高レベルの成績、とカップルにしたらこれほど似合いで、しかも様になる一組はこの学校にこの二人以外にあり得ない。そもそも涼馬としても、これだけの人を悪く思っているはずはない。玲奈と涼馬が前年度はそれぞれ二年生代表と一年生代表の生徒会副会長、という事情は、生徒会に在籍しているだけに、優もよくよく承知している。
 今の所この二人が恋人として交際している様子はないが、しかしいつどうなるかは誰にも分からない。優が嫌いなのは、自分自身でさえ行き過ぎていると感じられるその嫉妬心だった。純粋な好意ならば、片思いの人に別に好きな人がいてもその関係を応援し、祝福できると思う。しかし今の優に、それはできそうにもなかった。
「これからお帰りですか」
「ええ」
「よろしければ駅までお送りしますよ。丁度藤野さんを送って行く所ですから」
 優の気持ちを置き去りに、上級生達の会話が続く。しかしここで、優の予想外の流れに入った。玲奈はにこやかに、しかし間違いなく、首を横に振ったのだ。そしてその直前の瞬間には、彼女の視線は優をとらえていたようだ。
「お気持ちはありがたいのですが、お迎えを待っていますので。私のことは気にせずに二人でお帰りになってください」
「えっ?」
 二人して玲奈の顔を見詰める。そのため二人とも、互いの顔がわずかにほころんでいることには気づかなかった。
「お迎えというと、穴戸先生ですか」
 涼馬は玲奈の家庭の事情を多少は知っている。正確に言えばそもそも、彼女の後見的な立場にある外科医、宍戸を以前から知っているのである。兄、静馬がこの学校に在学していた際、彼はその一学年上にいたそうだ。つまり涼馬にとっては、何年も前のことになるとはいえ一応先輩、OBにあたる。
 無論同じ学校に通っている以上優にとってもOBという事情は同じであるが、学年が離れすぎているのでつきあいはない。涼馬も兄の存在をきっかけとしていなければ、知り合うことはなかっただろう。もっとも涼馬と玲奈が知り合ったのは涼馬の高校入学後であり、共通の知人がいることにお互い少し驚いたものだ。
 そのようなやや特殊な状況から得られた予備知識の上に立った推測は、しかしあっさり否定された。
「いいえ、違います」
「ではお手伝いさんが」
「いえ、今日はお休みです」
「ああ、ご両親がお帰りになっているのですか」
「いえ、この前ちょっと帰ってきましたけれど、またすぐ海外へ。今はフランスだと思います」
 間の合わない会話だ。しかもそれを玲奈がわざとやっていると、残る二人は察した。普通の流れでは否定した後にはっきり誰が来ると言うものだが、それが一向にない。いくら玲奈でも気づかぬうちにそうするほど抜けてはいないはずだ。そしてどこか、嬉しそうなのである。
「では、どなたがいらっしゃるのですか」
 多分こう聞いて欲しいのだな、とは分かった。しかし何故そうしたいのか、その理由は洞察力のはるか彼方にあった。
 夕日の中でさえはっきり分かるほど恥かしそうに頬を染め、しかし本当に嬉しそうに、玲奈は笑った。優はもちろん、涼馬が記憶している中でも最高の笑顔だった。
「私の、恋人です」
 長い長い一瞬が通り過ぎた。秋の風が涼しかった。
「ええっ! 先輩に恋人ですか!」
 そして涼馬の第一声は、取りようによっては極めて失礼な発言だった。「あなた程度の人間に恋人なんてできるはずがない」悪意で解釈すればそんな内容にもなる。しかし玲奈は、素直にはっきりと答えた。
「はい」
「それは」
 涼馬はなおも驚いている。それにさえ、玲奈は嬉しそうだった。涼馬の内心としてはこうである。確かに彼女の美しさは万人の認める所で、校内にファンクラブまであるが、彼女自身がそれに気づいていない。そういう人なのだ。少なくとも涼馬の知る限り、玲奈の精神は恋愛に向いていない。涼馬自身彼女の美しさは重々承知していたが、しかしなまじ親しくなった分その精神のありようが分かって、恋心の対象にはならなかったのだ。
 その彼女が、嬉し恥かし乙女の恋心をあらわにしている。はっきり言って驚かずにはいられない。
 優としても驚いている。玲奈に決まった相手がいないと思えばこそやきもきしていたのであって、取り越し苦労もいい所だ。しかし必要以上に驚く涼馬には、不満が残る。まるで彼女に恋人がいることを残念がってでもいるかのようだ。
「どんな方ですか」
 とりあえず適当に聞いてみる。あるいは優としては、玲奈が強力すぎるライバルになる可能性を完全に排除したかったのかもしれない。しかしそれを半ば聞かずに、彼女は顔を輝かせた。
「ええと。あ、来たみたいです」
 細く長い指が示したのは、北条坂である。黒い人影が駆け足で登ってくる。朝には遅刻しそうな生徒が息を切らすこの坂を、あまり苦にはしていないようだった。
 やがてそれが、詰襟の学生服を来た少年であると分かる。髪も少し長めの、黒だ。彼は最後までペースを落とさずに坂を登りきり、そしてそのままの勢いで敷地内に入ってきた。
「昭博さん」
 玲奈が弾んだ声をかける。すると彼は…通り過ぎてしまった。
「あっ」
「はっ」
「えっ?」
 目を丸くする二人、そして少年も驚いたようだった。さして勢いを殺しもしないまま、上半身を勢い良くひねって反転する。そんな事をすれば転ぶ、と涼馬も優も心配したが、しかしかれの平衡感覚はかなり優れているらしい。別によろめくでもなく、ざざっと音を立ててスニーカーを滑らせてバランスを取る。そして軽い足取りで戻って来た。
「下駄箱の所で待っているって言ってなかったっけ」
「すみません、待ちきれなくて」
「え、遅刻したか?」
「いえ、時間ぴったりです。私が勝手に待っていただけですから、お気になさらず」
「そう、ならいいけど」
 玲奈の声からは相手に対する愛情、そして会えた嬉しさが溢れんばかりだ。対する昭博と呼ばれた少年は、彼女と比較すればずいぶんと落ちついている。クールな、と形容するのが似合うかもしれない。声の調子が、今かすかに吹いている風のようだ。ただ、そんな中にもどこか優しさが感じられた。
「涼馬さん、優さん、こちらが先程お話しした昭博さんです」
 誇らしげに胸を張って、玲奈が自分の恋人を紹介する。彼は素早く開けていた襟を閉め、一礼した。
「初めまして、手塚です」
 意外に普通の人だな、それが涼馬と優に共通した第一印象である。あの深澄音玲奈の心を射止めるなど、どう考えても常人ではないとばかり思えていた。涼馬以上の超美男子か、凡人の理解を超えた天才か、次元の壁を打ち破るような情熱家か、あるいは意外な所で筋肉の塊のような大男か。
 しかし今、現に二人の前にいるのはごく普通の高校生だった。ボタンまで黒い詰襟、持ち主がさぼっているらしく校章はつけられていないが、この近辺ではそう珍しくない形のものだ。私鉄で数駅離れた所にある公立校、継谷高校の制服だと涼馬は記憶している。
 背格好は中肉中背。作りに破綻した部分は見られない、つまりそこそこの顔をしているが、しかし涼馬ほど人目を引きそうでもない。やや吊り気味の目がどこか猫を思わせる、そんな容貌だ。


 今時の高校生にしては礼儀正しいが、しかしかしこまってもいない。つまり少なくとも今見た所では、とにかく普通なのだ。これくらいの条件を満たしている生徒は北条坂にも少なくない。外見からその魅力が分かる、そんな型の人間ではないようだ。玲奈がその内面に惹かれているとしたら、どうしてそこまで接近する間柄になったのか、それはそれで興味が尽きない。
「初めまして、澤守です」
「藤野です」
 しかしとりあえず好奇心を脇において、二人とも礼儀を守った。
「涼馬さんが今年の生徒会会長で、優さんは副会長なんですよ」
「君が去年は副会長をやっていたんだよね」
「はい。涼馬さんは去年、もう一人の副会長だったんです」
「何だか引け目を感じますね、進んで仕事を引き受けるような真面目な人に囲まれると」
 昭博はやや苦さのある笑みを見せた。涼馬も苦笑を返す。
「そんなことはないですよ。成り行き上仕方なく、でやっている部分も少なくないですから」
「仕方ないと思いながら仕事をするのが真面目なんじゃないですかね。好きでやっていることなら誰だってさぼったりしませんよ」
「はあ、そういう考え方もできますか」
「さて、それより早く帰りませんか。あまり遅くなると特に女の子は困りますから。最近このあたりは危ないそうですし。まあ、僕のせいでひき止めちゃったんですけれどね」
 少し申し訳なさそうに、昭博は自分から始めた雑談を切り上げた。異論の出しようがない発言であるので、三人ともうなずく。ただ、それからどうするかについて少しもめてしまった。
「澤守先輩、深澄音先輩とは駅まで一緒ですから、こちらの方もいらっしゃるようですし、送っていただかなくても大丈夫です。わざわざ反対方向に付き合せてしまうのは申し訳ありませんし」
「僕の手間なんて気にしなくていい。送ると言ったからには最後までそうさせてもらうよ」
「本当に、そのお気持ちだけでも私は十分嬉しいですから」
 お互い同士気を遣うのは立派だが、しかし度が過ぎると滑稽だな、と昭博は思った。端で見ているとどうも、涼馬は送りたがっているように見えるし優も悪い気はしていないらしい。ただ初対面の人間の行動に口を挟むほどお節介でもないので、黙っていた。
 その代わり、玲奈に視線を送って判断を求める。放っておくとまた長くかかりそうだ。昭博は自分自身を、気が短いと思っている。のんびり屋の玲奈は論外としても、真面目で忍耐強い涼馬や優に比べれば、短いことは確かである。
 彼女はうなずいて口添えた。
「涼馬さんがいてくれると心強いですよ。ですから申し訳ありませんが、ご一緒して下さい」
 優の言い分の方が理屈は通っている。しかし玲奈は何故か、涼馬に肩入れした。我が意を得た涼馬が笑ってうなずく。
「そうですね。たまには一緒に帰ろう、藤野さん」
「はい」
 優が小さくうなずいて、四人は歩き出した。横一線で歩けるほど北条坂の歩道は広くはないので、昭博、玲奈が前、涼馬と優が後ろにつく形になる。
「しかし僕の立場がないよ、玲奈。こっちの人がいると心強いだなんて、僕はそんなに頼りにならないかな」
 道すがら昭博がぼやいたが、あまり深刻な響きはない。半ば冗談、半ばは話題作りである。それが分かっているのか、玲奈も軽く返す。
「あら、そんなことありませんよ。昭博さんを本当に頼りにしています」
「本当かなあ?」
「本当ですよ。ただ昭博さんは、その、『私の』ですから、何かあった場合には優さんにもついてあげる人がいないと」
 夜目にも分かる色白な頬を赤く染めて、玲奈が詰襟の袖から伸びる手を掴もうとする。しかし昭博は、手を引っ込めてしまった。なお諦めない彼女に対して、さりげなくではあったがかわす動作を続けている。
「『僕』の所有権を主張するなよ」
 実に立派な、正論である。日本国憲法は物に対する所有の権利を保障している一方で、人間が人間を所有すること、要するに奴隷を明確に禁じている。よってこれは、現代の所有権についての理念を端的に言い表しているのだ。
 が、しかし。倫理政経の授業で多少は憲法やその背景の思想を習っているとはいえ、高校生の彼にそんな知識のある可能性はごく乏しく、意識に至ってはまずありえない。単純に、照れているだけだ。
 そして玲奈は彼の、解釈によっては高尚な発言を、一発で否定してのけた。
「だってぇ」
 完全な甘え声である。日本語としての意味は、それ以上特にない。気を悪くした様子さえ、全くなかった。それに昭博は一言たりとも反論せず、ただ自分の手をポケットの中に入れてしまっただけである。
 後ろ二人はもう、呆れるを通り越して感心してしまっていた。玲奈は体力的にはか弱い女の子だが、意志は決して薄弱ではない。無意味に他人を頼ったりせず、自分でできる範囲はきちんとこなすし、それを越えるならば礼儀正しく他人に助力を求める。そういう人だ。少なくともこれまで涼馬と優が見て来た中では。
 そこから考えるともう、ほとんど別人である。学校、特に生徒会という学生としては一応公的な場と、プライベートな場での態度が別というのなら、まあありえない話ではないと納得したかもしれない。しかし目の前にはこうして自分たち二人がいるのだし、ここは天下の往来でもある。恋愛というものの計り知れない力を思い知らされるばかりだ。
 優は少し、自分が涼馬に甘えている様を想像してみた。涼馬は昭博の百倍以上(優の主観的基準による)甘え甲斐のある人だから、さぞかし幸せな気分でいられるに違いない。
 きゅっと、その手を握ってみる。大きいが、決していかつくはない。指が長く、男性にしては色が白い。肉づきが薄く少し骨ばっているようにも見えるが、むしろそれによってバランスの取れたきれいな手だと優は思う。そしてその指先に、掴まれたことに対する動揺がはっきりと表れていた。ぴくりと、反射的に逃げるような動きをする。
 今時街中で、手をつなぐどころか抱き合ったりキスをしたりというカップルが珍しくもない、とは涼馬も重々承知だろう。ただ謹厳な彼ならそれを恥ずかしがるだろうとも、優は知っているのだ。そもそも人目もはばからずいちゃいちゃべたべたとするような人間を、彼女が好いたりはしなかっただろう。
 しかし、いやだからこそ、する価値がある。どうして価値があるかは良く分からないが、とにかくだ。
「駄目、ですか?」
 背の高い彼に対して、上を向いて顔の正面をあわせるのではなく、上目づかいに見上げる。端正なその顔を、今は正面から見ることができないのだ。結局辛うじて見える形となった彼の目は、一瞬だけ彼女の方を向いたと思うと、すぐに泳いだ。その周囲が、既に赤くなっている。
「いや、その、駄目じゃないけど、恥ずかしいかな」
「でも、だって」
 相手が動揺しているのだから、放すのが道理だ。しかしどうしても、すぐにはそうすることができなかった。そして、彼女がどうにかその決心をする前に、涼馬が柔らかく握り返してくれる。
「分かったよ」
 笑って、ほんのささいなわがままごと優の全てを包み込んでくれる。そんな大きさのある人だ。体格だけではなく、精神的な面からも。だから、ずっとそうしていたくなる。
 涼馬は少し、優が自分に甘えてくる様を想像してみた。優は小さくて可愛らしい、玲奈の百倍以上(涼馬の主観的基準による)甘えるのが似合うから、さぞ幸せになるに違いない。
 不意に、きゅっと手を握ってくる。小さくて柔らかい。しかし決して単純な子供の手なのではなく、白くほっそりとした、美しい手だ。古い表現を借りれば、白魚のような、といった所か。そんな無害な動作に、しかし涼馬はびくりと反応してしまう。
 今時街中で、手をつなぐどころか抱き合ったりキスをしたりというカップルが珍しくもない、とは優も重々承知だろう。しかし生真面目な彼女にとってはそれも、恥ずかしさを乗り越えてためらいながらもようやくしたことに違いない。そもそも人目もはばからずいちゃいちゃべたべたとするような人間を、彼が好いたりはしなかっただろう。
 だからこそ、こうする価値がある。せっかく彼女が自分から、勇気を出してくれたのだ。
「駄目、ですか?」
 恐る恐る、そんな上目づかいで見上げてくる。その目元は、黒髪の間からようやく見えるような状態だ。とにかく愛らしいばかりに、恥ずかしさもひとしおで、涼馬はすぐに目をそらしてしまった。自分でも情けなくなるほどの動揺で、うまい台詞が出てこない。
「いや、その、駄目じゃないけど、恥ずかしいかな」
「でも、だって」
 名残惜しそうにしながら、しかしやがて優の指先が離れようとする。それでようやく、涼馬は自分に素直になれた。そっと、その触れたら壊れそうな手を握り返す。
「分かったよ」
 真面目で責任感の強い頑張り屋、何事も自分でこなして行く優が自分にだけは甘えてくれる。普段とのギャップが大きいだけに、それは脳がとろけるほど魅力的な仕草だった。幼い容姿、甘い声、小動物的な愛らしさで保護欲求を強烈に刺激する。逆らうなど不可能だった。
 そして、二人の視線が交錯した。現実の巨大な壁が、そこに横たわっていた。無言のまま、慌てて、二人ともあらぬ方を眺めやる。相手の実体を計算に入れていない、つまり妄想は、気づいてみると虚しいだけだった。極限まで寒いはずなのに、どこか「うすら寒い」と形容したくなる、そこまで貧しく感じられる思考だ。前を歩く二人に見せつけられているだけに、余計に惨めになった。
「ところで、生徒会って学園祭の運営もやったりするんですよね。いつになるんですか」
 昭博が話題を変える。玲奈に甘えられる自分というものを見られたくなかった、との理由ももちろんある。しかしそればかりではなく、何となく後ろに流れるまずい雰囲気を察したのだ。人間関係の調整に長けているかどうかは微妙な所だが、少なくとも勘は良い。
 渡りに船、であったらしく、涼馬は表面上落ち着いていながらも、しかしどこか飛びつくようにしてその話に乗ってきた。
「僕達の学校では文化祭と言うのですけれど、十一月の半ばです。あと一ヶ月と少しですね」
「ああ、ずいぶんと遅い時期にやるんですね。もう寒いんじゃないですか」
「そうなんですけれど、九月に体育祭もやっているもので。準備期間を考えると仕方がないんですよ」
「なるほど」
 北条坂高校の文化祭について、涼馬が主に話して玲奈が時折補足する、そんな話をしながら、四人は坂を降りて行った。
 ちなみに開催時期がなぜそこになっているかについては、主要行事の感覚を開けるという他にも諸説ある。例えば肌寒い中ダンスパーティーなどのイベントをすることにより男女の密着度を高めるだとか、あるいは炭酸のジュース類などよりも販売単価の高い暖かい食べ物や飲み物を売ることにより利益を出す、といった気候的な説明によるものもある。
 ひどいものになると、役員による打ち上げの際最早恒例となっている、誰かをプールに叩き込むというイベントの際スリルを増すためだ、などというものさえある。
 ちなみに去年は、涼馬が会長を情容赦なく叩き込んだ。本来重大なミスをした人間に対するペナルティーだったらしいのだが、そんな適任者がなければ会長などの最高幹部を犠牲者にすることになっているのだ。しかしまさか、会長に次ぐ地位にあるとはいえ玲奈を放り込む訳にも行かず、また次期会長就任が確実視されている涼馬自身がやるとなると、二年連続この犠牲者が涼馬になってしまう可能性が高い。つまり彼としてはやむを得ない措置だったし、ダイブする会長自身、結構楽しそうだった。
 秋の日は急速に落ちて行く。駅につく頃にはすっかり暗くなっていた。それだけに駅舎や、その周辺の大規模商店の明るさがまぶしい。少し先を歩いて、昭博は時刻表を確かめた。
「電車すぐ来るみたいだ。僕は切符買ってくるよ」
「あ、なら、私も行きます。優さんとは反対方向ですし」
「そう。じゃあ、僕達はこれで失礼します」
「さようなら、また学校で」
 ゆったりとした玲奈と、俊敏そうな昭博が二人揃って、つまり息のあった動作で頭を下げる。そして彼らは昭博の分の切符を買って、改札をくぐった。一度涼馬と優に視線を向けて、もう一度また同じタイミングで頭を下げてからホームへと向かう。
 その際、玲奈の指がそっと昭博の指に絡みついた。少し驚いて、昭博が指を引っ込める。ちらりと今来た方を気にして、それから困ったような視線を彼女に向けた。人前で手をつなぐことにさえ照れを感じる、そんな性格のようだ。先ほども、辛うじてそれを回避していた。
 対する玲奈はもう周りなど見ていないらしく、不満そうに、そして少し悲しそうに昭博を見返している。一度入り込むとそのまま突き進む、そんな側面があるらしい。
 結局、短い無言のやり取りの末折れたのは昭博だった。ほとんど恐る恐る、という様子で手をつなぎなおす。玲奈の顔にぱっと華やいだ笑みが浮かんだ。
 仲良く二人手をつないで、玲奈と昭博は優と涼馬の視界から消えて行った。
 涼馬と優は、しばらく声も出ない。完全に同時ではなかったが、その間に二人とも、「例の伝説」に考えが行っていた。
 そういえば玲奈も、体育の時はブルマ着用だ。別に服が透けるとか下着がはみ出しているとかそんなことはないのだが、彼女の体操着姿ときたらそれはそれは見ものなのである。豊かな二つのふくらみがシャツを押し上げ、足が細いはずなのに十分にむっちりとした感じのある太ももがあらわになる。体型に劣等感のある優でも、こればかりは感心して眺めてしまう。
 涼馬としても来るものがないではないが、正直な所彼女のその服装を見ると、心配してしまう部分が大きい。何しろ運動神経とは無縁の人なので、俊敏に動こうとしただけで足をもつれさせて転ぶし、自分に向かってきたボールを避けられずに直撃を受ける。女性としてより、まるで危なっかしい幼児を見守るような目になってしまうのだ。
 実のところ、これは二つも年下の優でも同様である。他にも同様の人間が少なくないらしく、この前の体育祭の時にはある意味一番の注目の的だった。
 さておきこれで「体育の授業でブルマを使っていると、恋愛の成功率が格段にアップする」という「例の伝説」の信憑性について、新たかつ極めて有力な状況証拠が加わることになる。
 玲奈は学校有数の有名人の一人だし、彼女に告白したいと思う男子生徒などいくらでもいる。その状況下で昭博が告白を成功させたとなると、その威力たるや絶大だ。逆に玲奈から告白をしたと考えても、それまで恋愛に興味のあるそぶりも見せなかった彼女だから、余程のことである。そして今までこの伝説の適用範囲は、何となく学校内に限られると考えられていたのだが、これで他校の生徒にも有効ということになる。
 等々、色々としょうもないことまで考えていた二人はやがて同時に溜息をついた。
「何だか、いいカップルでしたね」
「うん、僕も恋人が欲しくなるよ」
「そう言えば前に、気になる人がいるっておっしゃっていましたよね」
「ああ、あの時か。良く覚えているね」
「ええ、まあ。結局うまく行かなかったのですか」
「いや、結局も何も、何もしていないよ。言い出す勇気がなくて、もう半年になる」
「先輩がですか? 意外です」
「買いかぶりだよ。僕だってうまく行かなかったときのことを考えると恐い」
「そうですか」
 現在涼馬がフリーであるなら、もしかしたら目があると思って確かめてみたのだが、しかし状況に変化はないらしい。そうである以上、優としても現状を維持するしかなかった。社交辞令としては、ここで「先輩ならきっとうまく行きますよ」と言うべきなのだろうが、それは恐くてとてもできなかった。
「そう言えば、藤野さんにはつき合っている人とかいるのかな」
 礼儀正しい優に、返答がない。涼馬は少なからず慌てた。
「ごめん、無神経だった」
「片想いの人は、います。やっぱり言い出すのが恐くて、もう半年もそのままです」
 そしてぽつりぽつりと話す。その一つ一つが、涼馬には重く、痛かった。
「そう」
 てっきり恋愛とは無縁だと思っていた玲奈にも、恋人がいるとそれこそ嫌というほど思い知らされた。そこで確かめてみると、意外なほど正直に答えてくれた。確かにつきあいはない、しかしそういう感情もあるのだという。その対象が自分であると考えるような根拠のない自信を、涼馬は持つことができなかった。これまで優が自分に対して気のあるそぶりをはっきりと示した、少なくとも涼馬としてそれに気がついたことは、一度もないのだから。
「さて。それじゃあ、僕も帰るとするよ」
「わざわざありがとうございました」
「どういたしまして。気をつけて帰るんだよ」
「はい。それでは、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 礼儀正しい、その分吹く風に上滑りするような会話を残して、二人はそれぞれの帰路についた。電車を待つ間のホームも、そして自宅までの間の徒歩の道のりも、それぞれ寒く感じられてならなかった。
 しかし今日のこの出会いによって、事態はゆっくりとであったが確実に動き始めている。それをまだ、涼馬も優も気がついていなかった。

続く


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