午後の恋人たち 新章
5 玲奈と昭博さん
帰宅した玲奈は、やや遅い夕食を終えてから机に向かい、受験参考書を数ページこなした。進学を考えている高校三年生としては、まあ当然である。ただそれほどせっぱ詰まってはいない。学校教育を受けるようになって以来真面目に勉強しているので、追い込む必要があまりないのだ。
元来高い学力水準を誇る北条坂高校の中でもトップクラス、「暗記の女神」の称号は伊達ではない。その二つ名が示す通り、記憶力に恵まれているので一度覚えたことは忘れない強みもある。
比較的苦手なのは数学だが、これも公式などはほぼ全て把握している。当然、平均と比較すれば良い成績だ。テストなどで問題を解く段になると丁寧にやりすぎて、時間が足りなくなってしまうのだ。最後まで解いた問題が間違っていたことはほとんどない。
「できました」
予定していた範囲を終えると、玲奈は口を開いた。独り言ではない。その声に応じて、ノートの脇に盆が差し出される。砂糖とミルクたっぷりの紅茶、卵とバターを贅沢に使ったクッキー、玲奈の好みを良く承知したメニューである。
「ご苦労さん、答え合わせるよ」
昭博はそう言って、ノートを取り上げた。別冊の解答例と照らし合わせて丸をつけて行く。その間、玲奈は一休みである。彼女の味覚を快くくすぐる紅茶を飲みながら、昭博に肩を寄せた。
つきあいだしてから、そろそろ一月になる。昭博が玲奈の部屋をこうして訪れる形で、交際が続いていた。蜜月真っ盛り、と言うには波瀾がなかった訳ではないが。
何しろ序盤でつまづいたのである。毎日でも、玲奈は昭博に会いたがった。昭博としても会えるのは嬉しいし、家が近所だから実行するのに困難を感じはしない。しかしそれを続けていては彼女の勉強に支障をきたすのでは、と不安になったのだ。
お互いを想う気持ちが交錯して、やがて衝突してしまった。恋人同士になってから早くも一週間後、電話越しに喧嘩になったのである。なまじ相手を身近に感じているものだからお互い遠慮がなくなる。より多くを求めてしまう。「ちょっとは頭を使え」「もう私のことを愛してはいないのですね」と不毛なやり取りの末、玲奈が泣き出してしまった。その日は昭博が慌ててこの部屋まで来て仲直りをして、それを確かなものとするために泊ることにまでなった。
半同棲生活が始まったのが、それからである。大体週に二、三回、昭博が泊りに来ている。いっそ住むことにしては、と玲奈が提案したが、自宅を空家にしたくないので昭博は断っている。玲奈もそれ以上を望みはしなかった。
ここまで深い、ある意味行きつく所まで行ってしまった仲だけに、昭博としてはあまり他人に見られたくはなかったのだった。涼馬と優が誤解しているようないわゆる「清く正しい」交際をしていたのなら、恐らくもっと胸をはって、手をつなぐくらいはしていただろう。
半ば押し切られるようにそんな生活を始めることになった昭博であるが、元来他人に迷惑をかけるのを嫌うし何より相手は最愛の玲奈である。いくら彼女が望んだこととは言え、負担になる気は全くなかった。それで彼女の勉強を手伝うことにしたのである。学年が一つ上だし中でもトップクラスの学力を誇る、その彼女に教えるのはさすがに無理だったが、こうして答え合わせをしたりお茶を淹れたりと、できる限りのことをしていた。
その気持ちは玲奈にも伝わっている。ここで成績を落としでもしたら、昭博は責任を感じてまた距離を置こうとするだろう。それではお互い悲しい思いをする。二人のために、玲奈は密度の濃い勉強を心がけ、気合を入れていた。ただ昭博が甘えさせてくれる所に関しては、できる限り甘えるようにしているのだった。
「そう言えば、昭博さん」
「うん」
「さっきはどうしたんですか」
「何が」
「自分のことを『僕』って言っていたでしょう。言葉使いも丁寧でしたし」
涼馬と優との会話の間中ずっと、昭博はそんな喋り方をしていた。それが彼の地ではないと、少なくとも玲奈は良く知っている。
「そりゃ初対面だからな。猫くらいかぶるさ」
丸をつけながら、昭博はそう答えた。元来礼儀は守るたちだ。それに玲奈との関わりもある。
まず深澄音玲奈という人が、非常に丁寧な話ぶりの人である。こんな生活をするようになっても、昭博に対するですます調は変わらない。一度昭博も「普通に話していい」と言ったのだが、却ってしゃべりにくそうになるので結局元に戻させた。
昭博としても丁寧な話ぶりを不快に思っている訳ではない、むしろ礼儀正しい中にも自分に対する親密な気持ちが感じられて、彼女を好きでいる数多い理由の一つになっているくらいだ。それでももし彼女が無理をしているのならそれは良くない、と配慮しただけなのである。
原因は、育ちが良過ぎる所にあるらしい。実の両親を「お父様、お母様」と呼ぶ家庭が現実にあると、昭博はこの前初めて知った。玲奈と一緒に彼女の両親に会ったので間違いない。短期だが帰国していた時に引き合わされたのである。
正直な所会いたくはなかった。男にとって恋人の両親など、基本的にはそんなものである。しかし玲奈本人がその前に「恋人ができました」と母親に力一杯電話で報告していたのでネタは上がっている。そこで「娘がお世話になっているそうで、一度是非ご挨拶したいと存じます。つきましては四人分の予約をイタリアン・レストランに取っておりますので、ご都合がよろしければいらして下さい。気鋭の若手シェフが営む気さくな店ですので、お気軽にどうぞ」などと言づてられては昭博に選択肢など残されていなかった。
二、三発殴られるのは仕方がないとして、しかし刺されるのは困るなあ、ナイフとかフォークとかあるし。かといって他ならぬ玲奈の親御さんを返り討ちにするわけにもいかない。などと思いつつ招待に応じた昭博であったが、会食は終始和やかな雰囲気で進行した。「これからも娘をよろしくお願いします」などと頭を下げられて「いえ、こちらこそ」と芸もなければ意味もない返答もしたものだ。ただその時は、「泣かせたらただじゃ置かないぞ」というオーラのようなものを父親の方からはひしひしと感じたが。
「そう言えば君の両親と会った時だって、自分の事は『僕』で通していたはずだぞ。君の事を『玲奈さん』とか呼んでたし」
昭博がその時のことを思い出している間に、玲奈は猫の着ぐるみをかぶった彼、あるいはネコミミをつけた彼など、訳の分からない光景を想像、いや妄想していた。なおたちの悪いことに、彼女はそれを可愛いなどと思い込んでいる。おかげで返答までに、意味もなく時間がかかってしまった。
「あの時とは事情が違いますよ。涼馬さんは昭博さんと同い年、優さんは一つ下です」
話を元に戻すと、玲奈は非常に育ちが良いために他人に対しては基本的に丁寧語でしか話せないのだ。幼い頃からそれである。例えば昭博のようなぞんざいな言葉使いは日本語として当然理解できるが、しかし不慣れなために自然には使えない。昭博が女の子言葉を使おうとすれば無理が出るのと一緒である。
その丁寧さから多くの人から好感を持たれる玲奈であるだけに、もし彼女の付き合っている人間が礼儀知らずであれば、相当悪い印象を与えるだろう。自分はともかく彼女までそう思われて、学校で肩身の狭い思いなどさせられない、そこで慎重になったのだった。
「分かっているけどね。でも相手がよっぽど子供じゃない限り、始めの内は礼儀を守った方がいいだろう。俺はそう思うけど」
ただし、玲奈に言う必要のないことである。手塚昭博とは、そういう少年だった。
「そうですか」
とりあえず彼女が納得している内に、昭博は話題を切り替えた。
「それよりも、と。全問正解だよ。いつもながら感心するね、ほんと」
文字通りの「丸つけ」であった。バツが一つとしてつかない。完全な解答である。玲奈が顔をほころばせ、より一層身を寄せた。
「昭博さんがいるから頑張れるんですよ」
「別に。実力だろ」
表面上無感動に言いながら、昭博は顔を背けた。
実はこの少年、照れ屋である。ストレートに好意を表現したり、あるいはされたりするのが苦手なのだ。出会った時からそんな傾向はあったが、玲奈としてはつき合って行くうちに解消されるものと思っていた。
しかし現実として、今なおごく些細なことにためらったり動揺したりする。今日は帰り際に手をつなごうとしただけで慌てたほどである。恋愛以外に関しては人一倍度胸が座っているだけに見ていて微笑ましく、玲奈は可愛いと感じている。
ただ、本人に面と向かって「可愛い」とは言わない。玲奈の価値観の中で「可愛い」は「優しい」や「かっこいい」と並ぶ褒め言葉なのだが、当人はそれを賞賛どころか侮辱とさえ感じるらしい。照れるのではなく本当に気分を害してしまう。一度そうと知らずに失敗して、怒鳴られたことがある玲奈だった。
それでも彼女はストレートに好意を表現するのが好きだし、照れる昭博は見ていて飽きないので、彼が困るのを承知でしばしばそうしていた。今回もそれを企む。
「ねえ、昭博さん。全問正解でしたから、ご褒美を下さい」
「え、ごほうび? そんなこと急に言われたってさ」
「大丈夫、何の用意もいりません」
目を閉じて、少し顎を上げながら昭博に顔を近づける。彼もそれで彼女の意図を了解したが、しかしすぐには応じようとしなかった。
「良くそんな恥ずかしい真似ができるよな」
閉ざされた視界の向こうで、昭博が文句をつける。しかしその声には明らかな揺らぎが感じられた。あと一押し、玲奈は更に顔を近づける。
「んっ!」
目を閉じていると睫毛が驚くほど長いと良く分かる。軽く突き出された唇は昭博が知る限りルージュなど引いていないが、しかし綺麗な桜色だ。そんな様子を正面から、そして至近距離で見せられて、昭博はどぎまぎとした。この美しさにはいつまでも慣れない。
時折、これが夢なのではないかと思える事さえある。玲奈は信じられないほど美しいくせに、それを鼻にかけるところがない。むしろ親しみやすい人懐っこい性格で、昭博に対してはスキンシップを求めてその千金の価値ある唇を自ら差し出しさえする。都合の良過ぎる事態だ、と昭博はそう感じるのだ。
しかしこれは紛れもない現実だった。口では何のかのと言っているが、しかし夢かと思えるほどなのだから嬉しくないはずがない。ほとんど操られるままに、その可憐な唇に自分の唇を重ねた。
軽く、触れるだけの口付けだった。それが二人の習慣である。ディープ・キスも知っているが、それは特別な場合だけだ。普段はそれで十分なのだ。
「ふふっ、これでまたがんばれます」
温かく、瑞々しい弾力があって、そしてどこかいい匂いのする唇がほころぶ。昭博はそれに目を奪われて、それから慌てて外した。
「ったく」
「ふふっ」
笑いながら、玲奈は勉強に戻った。「がんばれます」は世辞でも冗談でもない。やる気を十分にもらっている。邪魔をしないように、昭博も何のかのと言うのを止めた。
それで昭博が何をやっているのかというと、やはり勉強であったりする。玲奈が真面目に勉強をする脇で、遊ぶ気になれないのだ。彼女が今手をつけていない参考書に目を通す。
レベルが違うのは確かなのだが、昭博の学力も極端に劣ってはいない。参考書を読んでも全く歯が立たなくはなかった。基本的に、やらなくてもそこそこできるタイプである。宿題と試験前日の一夜漬けだけの学業で、少なくとも赤点を取ったことがない。
そもそも現在通っている高校を選んだのも、最も近い公立校だからというそれだけの理由で、可能な限り努力した結果ではない。努力を尽くせばどこまで伸びるかは、昭博自身も知らないのだ。この前まで、それに興味もなかったが、玲奈とのつき合いによって心情が変化しつつある。彼女にも話してはいないが、しかし漠然とした目標もできつつあった。
それからしばらくして、昭博が玲奈の様子を眺めやった。少々疲れている。時計を見ても、そろそろ遅い時間だ。
「玲奈、風呂でも入ってもう寝たら? 沸かしてあるからさ」
「あ、はい。いえ、でも昭博さん、お先にどうぞ。私が入ると長くかかりますし」
遠慮ではなく、玲奈のバスタイムは本当に長い。この部屋は二人で使っていてもまだ広いと感じるのだが、しかし風呂場が広いのには満足していた。元来好きなのである。それに髪が長いのでこれを洗うとなると相当の時間が必要になる。それに昭博との交際を始めて以来、以前にも増して入念に手入れをするようになっていた。
対する昭博は鴉の行水派である。人並みの衛生観念はあるので、毎日風呂に入ってきちんと体を洗う。しかしそれ以上の意味は見出さない性格である。湯船にとっぷり浸かって満足の溜息を漏らすとか、そういうことはしない。体が温まったらさっさと出る。自然、所要時間は短いのだ。
「長いんだから先に入って来なよ。君の場合出た後でも色々としなきゃならないんだから。寝る時間が遅くなっちまうぞ」
「でも、お客さんを差し置いて先には入れません。私はこの問題をやっていますから」
「そんな遠慮するなよ。かえっていづらくなるぞ。とっとと入って来い、受験生」
こうなるとお互い強情である。二人とも他のことに関しては決して頑固ではない、柔軟な思考と思いやりの持ち主だが、こと相手が絡むと半ば人が変わってしまう。しかしこれで喧嘩を始めてしまっては情けない。一度やらかしただけに、二度三度と繰り返すのは避けたい所だった。
「あ、それなら」
一つ妥協案を思いついた玲奈が口を開く。ごく単純な折衷案があったのだ。その表情が明るいので、昭博も聞く態勢に入る。
「どうする?」
「ええと」
一度は昭博の目を捕らえた視線が、ずるずると降りて行ってしまった。うつむいたその頬が赤い。それで昭博はピンと来た。
玲奈はある種小犬のような人なつこい性格である。特に昭博に対しては、触れ合ったりじゃれあったりするのが好きで、今日も涼馬や優の目をはばからずに手をつなぎたがっていた。昭博が嫌がりさえしなければ、腕を組んだりしたい所なのだ。どこへ行くのにもぴったりとくっついていたい、素直にそう思っている。
一度こんなこともあった。初めて喧嘩をして、結局昭博がこの部屋に来たときだ。なだめすかしてようやく泣き止ませて、何とか仲直りをした所、玲奈は泊って行って欲しいと望んだ。一人だと寂しいのだと言う。それで夜がふけるまで二人よりそって、取り止めのない話をしたり、あるいはただ黙って互いの温もりを味わったりした。
そして寝る時間になると、その辺のソファーで適当に寝ようとする昭博に、玲奈が「一緒に寝ましょう」と言った。この時の昭博は、意外に積極的なのだなと思って喜んだものである。昭博が遠慮していたのは、ストレートにやっては嫌われるかと心配していたからに過ぎない。
だから玲奈の待つベッドにもぐり込んだとき、昭博には少なくともすぐに睡眠を取る気など全くなかった。これは非難のしようがない。むしろ若い男が女と一つのベッドに入って、何も思わない方が女性に対して失礼だ。そして彼を迎えた玲奈はとろけるような笑顔を見せると…そのまま寝入ってしまった。
しばらく、昭博は何が起こったのかさえ理解できなかった。そしてようやく理解したその後も、かなり長い間呆然としていた。つまり彼女は文字通り、「いっしょに寝」たかっただけなのだ。添い寝をして欲しいということだった。やり切れない気持ちだけが、この時の昭博に残されたかに思えた。
しかしその直後、すやすやと眠る彼女の顔を見て感情が改まった。彼の服をそっとつかんで、すっかり安心しきって眠っている。無限の信頼とそれの源泉である愛情、それに応える決心を昭博は新たにした。そして彼女を軽く抱いて夜を過ごした。眠れはしなかったが、それでも満足だった。
つまり玲奈とは、そういう人だ。ごく小さな所からも昭博との触れ合いを求めている。だから今、風呂の順番をどうするのかに関して、昭博には分かるような気がした。恐らく自分から言い出すのが恥かしいのだろう。だから昭博は、男である自分自身の口から話を切り出す。
「一つ思いついたんだが」
「は、はい」
「いっそのこと一緒に入らないか」
「ええっ!」
はっとして玲奈が顔を上げる。驚きと、羞恥と、そして隠しようもない嬉しさが見えた。図星だったらしい。それで一気に畳みかける。
「ここの風呂広いしさ、一緒に入ろうぜ」
「でも、そんな、恥かしいです」
つまり、そういうことだ。本心として昭博と一緒に入って洗いっこをしたいとか、そんな願望がある。しかし同時に、そんなことをしてははしたない、恥ずかしいという乙女の意識もあるのだ。その葛藤を、昭博は巧みに切り崩して行った。
「そう? だって、ねえ」
日本語としてはほとんど意味がない、二人にしか通じない言葉をつかう。しかしそれだけに、少なくとも玲奈に対しての威力は絶大だ。
立場、勢いとは面白いもので、こういう流れになると主導権を握るのは昭博である。いちゃつくのは恥かしくても別のことはそうではない、そんなものだ。
「で、でも、一緒にお風呂に入ったことはありませんよ」
至極もっともな反論、しかし昭博は動じない。
「そりゃ、何事も初めてはあるさ。な、入ろうよ。良ければ洗ってあげるから」
「ええと、昭博さんが、そう言うのなら」
相手が求めるのだから仕方がない、彼女の羞恥心を満足させるためにはそんな理由が必要だった。しかしまだ陥落はしない。上目遣いに昭博を見やる。
「でも、昭博さん、変なことしません?」
「君が嫌がるならしないさ」
嘘偽りの最大のコツは、それを必要最小限にとどめることである。土台事実に反する以上、やればやるほど発覚する危険が大い。そうなればその他の発言の信憑性も失われてしまって、元も子もない。その点を、昭博はきちんと承知していた。
「嫌に決まっています!」
一方の玲奈は、それが良く分かっていない。おっとりした彼女にしては不自然な大声を上げる。昭博は黙って、うなずいた。そしてしばらく待つ。
「もう」
やがて子供のいたずらを許容するような、そんな笑みを玲奈は見せた。
「嫌ですからね、いたずらは」
一つ釘を刺すが、しかしこれは一緒に入ること自体に対する了承のサインでもある。昭博は笑って、彼女を風呂場に連れて行った。
が、脱衣場の手前で止められてしまう。それが全面的な拒絶ではなく、「ちょっと待っていて下さい」というものだったので、大人しく待つことにした。欲をかき過ぎるのは失敗の元である。
やがて玲奈のお許しが出たので中に入る。彼女は胸から太ももの辺りまでに、大き目のバスタオルを巻いていた。それが見られただけでも十分だ。人間関係にはそのくらいの余裕が欲しい、などと昭博は偉そうなことを考えたりもする。
「さ、入ろうぜ」
元々脱ぎ着のしやすい服を着ているせいもあるが、昭博の身支度はほぼ一瞬である。そこで玲奈を浴室に押し込もうとした。ただその速さが予想外だったようで、玲奈が少し慌て、足を踏ん張る。
「あ、ちょっと待って下さい」
「ん?」
玲奈の拒絶が本心からか、あるいはためらっているのを表しているだけなのか、昭博にはある程度分かるようになっている。今回は前者だ。勢いを押さえて相手の対応を待つ。
「このままじゃ、駄目ですよ」
「何が?」
「髪です。湯船に浸かるんですから」
玲奈は後ろを向くと、髪をまとめて頭にタオルを巻いた。基本的に動作の速い女の子ではないのだが、慣れているためか以外に手早く感じられる。その手つきや、あらわになるうなじなどを、昭博は感心しながら眺めていた。
「はい、できました」
くるりと玲奈が振りかえる。普段は髪で隠されている額や首筋があらわになり、その線や目鼻立ちが強調される。もちろん彼女は、それで魅力が半減するような女の子ではなかった。むしろ昭博がどぎまぎとする。
「あ、うん。じゃあ」
玲奈はにっこり笑うと、昭博の手を引いて自ら風呂場に入って行った。そのまま嬉しそうに、シャワーのノズルを手に取る。
「先にシャワー使いますね」
「ん? ああ」
片手でコックをひねってお湯を出しながら、もう一方の手でその温度を確かめる。普段とは違う装いの彼女を、昭博はただ眺めているばかりだ。
「ふふっ」
不意に玲奈が含み笑いをもらす。昭博がその意味に気づく前に、玲奈は行動に出た。
「えいっ!」
「ぶっ!」
いきなりシャワーのノズルを昭博に向ける。それも真正面からである。避けようもなく、水流が昭博の顔面を直撃した。
昭博はいたずらの常習犯である。かなりしょうもないことを、思いつくたびにやっている。二人きりなので当然なのだが、被害者は決まって玲奈だ。繰り返しやられているおかげで今は、昭博が妙な考えをしている時は顔を見ればまず間違いなく察知できる程になっていた。ただそういうこともじゃれ合いの形の一つであるし、昭博が自分に気を許している証拠だとも考えられるから、察知していても抵抗しない時の方が多かった。
ただ、逆に玲奈が昭博に対していたずらをするようなことは滅多にない。性格的な問題もあるのだが、そもそもどういたずらをすれば良いのか思いつかないのだ。滅多にないだけに、昭博としてはされることになれていない。その油断を、玲奈は的確に突いていた。
「ふふふっ。驚きました?」
シャワーを脇に避けて、玲奈が笑いかける。髪や顎から湯を滴らせた昭博は、全くの無言無表情だった。
「あ、あのう、怒ってしまいました?」
恐る恐る、顔を近づけて聞いてみる。ちょっとやりすぎたかと反省する反面、これくらいで怒らなくてもいいのにな、とも思った。
「百年早いっ!」
昭博がシャワーのノズルを奪い取る。いたずらをした直後ならやった人間も反撃を想定して身構えているから、間を置いて油断させたのだ。やはり技量が全く違う。
「あっ」
武器をなくした玲奈が後ずさる。しかしいくら広いとはいえ、風呂場に逃げ場などない。邪悪な笑みをたたえた昭博が迫る。
「うりゃあっ!」
「きゃあっ、きゃあっ!」
狭い所でなんとか逃げ回ろうとする玲奈に、昭博はたっぷりと湯をかけてやった。因みに、水資源と天然ガスの無駄遣いである。
「ふうふう。疲れちゃいました」
「修行が足りないよ」
ひとしきりふざけあった後で、二人で肩を寄せ合って湯船に浸かった。さすがに湯船も二人で浸かってみると狭い。すぐに昭博が姿勢を変えて玲奈の肩を抱き、玲奈も逆らわずに体を預けた。
「うん、昭博さん」
うっとりとした様子で、肌の触れ合う部分を確かめるように玲奈が身じろぎする。昭博は肩を撫でるとともに、もう片方の手で玲奈の手をつかんでいた。その手が優しく握り返される。
「あったかいです」
「それは、風呂だから」
「そうじゃなくて、昭博さんが、あったかくて、ふわふわして」
「気持ちいい?」
「気持ちいいと言うか、私、幸せです」
酔っているようだった。目がとろんとして、頬が上気している。動作もいつも以上に緩慢だ。場の雰囲気に、酔わされているのだろう。美人は酔った様もまた美しいものだ、とかいう台詞がどこかにあったな、と昭博はそんなことを思い出していた。同時に、酔わせているのが自分だと思うと心の中全てが満たされたような気分になる。
「玲奈が幸せなら、俺も嬉しいよ」
「じゃあ、いっぱい幸せにならなくちゃいけませんね」
「はは」
しばらく二人していつもと違う感触を楽しんでから湯船を出る。あまり長いと間違いなくのぼせるだろう。
「昭博さん、洗ってあげます」
幸せを体一杯に貯め込んだためか、湯船を出た玲奈は元気だった。既にボディーソープを含ませたスポンジを握っている。
「ああ、じゃあ頼むよ。後で君も洗ってあげるから」
さりげなく、昭博は自分の立場を確保しようとした。玲奈は少しためらったが、やがてこくりとうなずく。
「では後ろを向いてください」
「ああ」
まずは背中から。泡だったスポンジと、そして添えられる細い指先の感触が気持ち良い。
「やっぱり昭博さんも男の人ですね。こうしてみると、背中が広いです」
「そうかな」
玲奈の手つきはあくまで優しく、こするというよりなでさするようだ。少しくすぐったくもある。昭博が自分でやるよりずいぶん丁寧でもあったので、意外に時間がかかった。もちろん、退屈はしなかったが。
それから今度は玲奈の背中を流す。それ以外の部分を極力バスタオルで隠そうとする彼女にはじめのうち苦戦させられたが、順調に進みだすと彼女は彼女で嬉しそうだった。
結局二人が風呂場を出たのは、彼女の長い髪を洗ってからである。当然、かなりの時間がかかっている。
「自分でできることは自分でやれっての」
そんなことを言いながら、昭博はタオルで彼女の髪を拭いてやっていた。
「だって、甘えるの好きなんですもの」
玲奈は悪びれない。この場合、表面的にはともかく本質的に理屈が通っていないことを言っているのは、昭博の方だ。
「ったく」
いらだたしげに息をつくが、その手つきはあくまで丁寧である。彼が自分のつややかな髪を気に入っていると、玲奈自身良く知っていた。だからさらに追い討ちをかける。
「昭博さんだって、私に甘えていいんですよ。私は、甘えられるの好きですから」
「誰がするか」
身も蓋もない返答である。しかし玲奈は、くすくすと笑っていた。しかもさらに、調子に乗る。
「では、今度は三つ編みをお願いしますね」
髪が長いので、寝る前に何らかの形でまとめておかないとめちゃくちゃになる。それは昭博も知ってはいた。ただ、もちろん普段なら自分でやる。
「あん? 俺にやれってか」
「はい」
「うまくできるわけないぞ、やったことないんだから」
「お願いします」
この場合、勝敗を決したのは気合だった。昭博は彼女の背後に回りってから、二人で鏡を見ることができる位置に移動する。
「変なふうになっても知らないからな。ええと、こうでいいのか?」
「あ、そうそう、上手ですよ」
昭博の手先の器用さが功を奏し、予想以上に良い感じで三つ編みができあがってゆく。具体的なやり方は、見るとはなしに見ていたうちにある程度覚えていたようだ。
「ねえ、昭博さん。あの二人、お似合いのカップルだと思いませんか」
目を閉じて、髪に伝わってくる感触を味わいながら、玲奈がつぶやくように言った。こういう時間に他人の話題が出るのは初めてだった。
「ん。一緒に帰ったあの二人か。どうかなぁ」
とりあえず顔は覚えている。二人ともなかなか見られた顔ではあった。もっとも女の子の方が玲奈と比べて見劣りするのは仕方のない所だが、というのが昭博の感想である。しかし二人を並べてみると、やや懐疑的になる。
「身長が違い過ぎるだろう。男の方は多分百八十を超えているし、女の子はあれ百五十そこそこなんじゃないのか。特に気にしなかったけど、女の子の身長は男の肩にもかからないだろう」
言葉を選ばなければノッポとチビ、凸凹コンビである。それを内心認めているらしく、苦笑しながら、しかし玲奈はかぶりを振った。
「私が言いたいのは外見のことではありませんよ。恋人同士になる人だったら、もっと内面までつながっていないといけないでしょう」
「そんな所まで初対面で分からないよ。まあ二人とも、わざわざ生徒会なんてやるくらいだから、そういう所で気があうんじゃないのか」
「うーん、ただ真面目だけじゃなくて、二人とももっと全人格的に好きになっているのだと思います」
「だからそこまでは俺には分からないってば。まあ君が言うんだからそうなんだろうけど。それで、その幸せな二人がどうかしたのか」
「ところがそれが幸せではないんですよ。両想いではあっても、お付き合いはしていないんです。どうも二人とも、相手の気持ちに気づいていないみたいで」
「ふうん。まあ、そういうこともあるか。それで、君としてはくっつけてあげたい訳だ」
「はい」
やわらかな彼女の髪を撫でながら、昭博は少し考えた。
「お節介になりはしないかな。それはつまり二人とも自分の気持ちを相手に隠してるってことだろう。それぞれ何か事情があるんだよ。その判断には、他人が余計な口出しをしないほうが無難だと思う。本人達が自分で何とかするんじゃないんじゃないか」
真剣な返答であったが、玲奈はくすくすと笑い出してしまった。
「何がおかしいんだ」
「だって、その他人の余計な口出しがなかったら、今私達はこうしていなかったのかもしれないんですよ」
玲奈が昭博の指先をくすぐる。
「なんで?」
「昭博さん、遊園地に行く前の日、穴戸先生の所に行ったでしょう」
「ああ」
「あの後先生が、私の所に電話をくれたんです。昭博さんが私から離れようとするだろうけれども、それは私を思ってのことだから勇気を持ちなさいって。そう言ってくれました。その覚悟がなかったら、あの時私がああできたとは思えません」
玲奈も見ていないのに、昭博は眉を半ば意図的に吊り上げた。
「都合のいい人だな。俺に肩入れする義理はないとか言っていたぞ、あの人」
「私には義理があるみたいですよ」
「へ理屈」
「まあそう言わずに。感謝しなければいけませんよ。それとも、私といるのは嫌ですか」
「あのな」
「私は幸せです、とっても。ひとりじめするのが何だか悪くて、できるなら誰かに分けてあげたいと、そう思うんですよ」
「いい子過ぎるよ、君は」
少し手を止めて、昭博は彼女の頭を撫でた。玲奈は嬉しそうに、撫でられるに任せている。
「分かったよ。そこまで言うなら好きにするといい。でもうかつに首を突っ込むのは危ないから、慎重にな。それから、他人にかまけて自分の問題をおろそかにするんじゃないぞ」
「はい」
少し説教臭い、しかも昭博は玲奈よりも一つ年下だ。それでも頼もしくて、玲奈はそう言う昭博が好きだった。こうしていると安心する。
「できあがったらもう寝るぞ」
「はい」
何もしていない玲奈も、そして単純作業をしている昭博も、眠気を感じ始めているところだった。
続く