午後の恋人たち 新章

6 玲奈×××××××崩壊


 北条坂高校には切手研究会分班、というクラブがある。名前からして妙な団体だ。分班ではない切手研本体は、無論切手の収集、研究をその活動内容としている。当然、名が態を表しているのだ。しかしそこから「分」かれた「班」が何をやっているのか、それだけでは判然としない。実際、在校生の約半数はその活動内容を知らなかった。
 そのくせ、規模は実動数十人単位、他部との兼部、幽霊部員を含めれば三桁に達すると言われる。部室も持つ、文科系では最大のクラブである。当然、本来の切手研よりも大きい。
 玲奈に恋人がいると知った翌日の昼休み、涼馬はこの切手研分班部室を訪れた。クラブの一員だからではない。生徒会長として、そして玲奈の友人としての立場からである。
 ノックして中に入ると、涼馬と同じ二年生を主としたクラブの中心メンバーがほぼ勢ぞろいしていた。三年生の先代部長の姿も見える。大体どのクラブでも、三年生は夏休みあけには引退して受験に専念する。
 十人入ると狭く感じる、各クラブに割り当てられる部室とはその程度のものだ。そしてその狭い部屋には、活動内容を示すような物が何一つ見当たらない。かといって、活動がいい加減なクラブにありがちな、私物で溢れているという状態でもない。不自然に殺風景な部屋だ。
 その理由から、涼馬は良く知っている。切手研分班とは学校、生徒会との関係でつけられた事実上の偽名で、その実体は「玲奈様ファンクラブ」である。構成員は男子のみだ。秘密組織であるため、何かのきっかけでその正体を知らない人間に踏み込まれても証拠を握られないよう、この部屋には何も置かれていないのである。
 その起こりは無論二年前、彼女がこの北条坂高校に入学したときにさかのぼる。彼女はその美貌から一躍学校一の有名人になり、人気を集めるに至った。これで彼女が人格的に劣っていればそれも一時の熱狂で終わり、むしろ顔だけ良くて性格の悪い女と酷評だけが残されていた所だ。しかし誰にでも優しく素直な性格、優秀な成績によってその人気は不動のものとなった。
 深刻な暗闘が始まったのはその頃である。誰が彼女に告白するかはもちろん、彼女と何気ない会話を交わすことさえ競争の対象となった。ただ、これをいつまでも続けていれば彼女の前で醜態を晒しかねない。それを憂いた人間たちにより、一学期の終わりには一応の紳士協定が成立し、二学期初頭にはクラブが成立した。中心メンバーに当時の切手研部員がおり、名義を貸したため表向きの名称は「切手研究会分班」となった。
 これが「玲奈様ファンクラブ」の起源である。当初は彼女が一年生だったので「玲奈ちゃんファンクラブ」だったのだが、二年目、下級生が部員として加わってきたために「玲奈さんファンクラブ」となり、そしてとうとう今年は勢いで「玲奈様ファンクラブ」になってしまった。
 その活動方針は「玲奈様に平穏な学校生活をしていただき、その笑顔を拝見する」である。彼女個人に対するアプローチは行なわず、あくまで影ながら見守るのが、そのスタイルだった。これまで玲奈に共学の学校生活で恋人ができなかったのは、一つにはこのクラブのおかげ、ないしこのクラブのせいである。もっとも理由の大部分は、本人の性格による所なのだが。
 ちなみに、玲奈が二年生のときに生徒会副会長になってしまったのも、このクラブの暗躍、または活躍があればこそだった。事件の発端は、彼女の人気を妬んだ恐らくは女子生徒の誰かが、玲奈本人に無断で立候補届を出したことである。面倒ごとを押しつけてしまえと、そのような目的であったと推測される。ファンクラブとしては犯人を探し出しての報復も真剣に検討したのだが、玲奈が友人に対して「そう望む人がいるのでしょうから、私は頑張ります」とコメントしたため方針は完全に決まった。ファンクラブの影ながら、しかし全力の支援、そしてその他男子生徒の圧倒的な支持のため、対立候補が現れることさえなく信任投票が行われる運びとなったのである。
「あ、澤守、どうしたんだ」
「もしかして、入部希望か? うんうん、お前も二年目にしてようやくあの人の魅力に気がついたか。そういえば最近、前にも増して綺麗になったもんな」
「生徒会長のお前がいてくれれば心強いよ」
 知り合いが少なくないのでこんな流れになる。しかし涼馬は、済まなさそうにかぶりを振った。
「今日は皆さんにとって辛いことを言わなければなりません」
 上級生もいるので丁寧な言葉を選ぶ。内容の不吉さもあいまって、部員全員が居住まいを正した。
「どういうことだ」
 文字通りの代表者として、現部長が尋ねる。涼馬は呼吸を整えた。
「このクラブの解散を勧告します。学校内での無意味な争いを防止する事に貢献するとあって、僕を含め、生徒会の男子としては活動を黙認して来ました。しかし本来、クラブ活動としてファンクラブ、それも校内の女子生徒を目的とするものを認めることはできません。最近は下級生に対する圧力も見られるなど、黙認の限界を超えています」
「何を馬鹿な、俺達は何もしちゃいない。証拠でもあるのか」
「ないよ。今の所は僕の私的な勧告だからね。ただ、従ってもらえないのなら生徒会の正式な会議の場に出す。いや、そんなに大仰なことをしなくても、先輩本人にここの存在を伝えるだけでもいい。それで構わないかな」
 部員達は二の句が告げなかった。秘密組織は強いようで弱い。白日のもとに晒されただけで崩壊する。溜息混じりに、涼馬は続けた。
「堅苦しい話しを抜きにすれば、もう止めにしたらどうかといいたいのです。女子のほぼ全てに活動を隠している、それに誇りを持てますか。やっているのは詰まる所お互いの足の引っ張り合い、それで満足なのですか。OBの方もいらっしゃるし友人も複数参加している、それで今までは遠慮して来ましたけれど、そろそろ見ていられなくなりましたよ」
 全校生徒の半数が活動内容を知らないとは、つまり女子のことである。ファンクラブの存在には薄々気づいているものも少なくないようだが、その全容までは知らない。
 逆に男子生徒は影ながらの勧誘活動もあって、涼馬以下多くの生徒が知っている。ただメンバーでないものであっても、知り合いの多いメンバーの立場を考えて、女子に対しては口を閉ざしていた。その文字通りの暗黙のルールを、涼馬は破ろうとしていた。
「余計な世話だ!」
「例え誰が何と言おうと、続けて見せるぞ!」
「俺達の女神は誰にも渡さない!」
  激しい反発が巻き起こる。その気持ちが純粋なだけに、涼馬はやり切れなくなった。  人間が人間の所有権を主張すべきではないとの某氏の正論をひとまず置くとすれば、彼等の女神はもう人手に渡っている。しかもそれを心の底から喜んでいるのだから。意図しない、あるいはそれだからこそ残酷な事態というものも、あるものだ。
 最近綺麗になったと言っていた人間もいたし、涼馬自身そう思ったが、しかしその根源的な理由は一つしかありえない。恋は時に、女の子の魅力に磨きをかける。
「少しあの人を理想化しすぎてはいませんか。遠巻きに眺めていただけのあなた方と違って、一緒に生徒会活動をして来た僕には分かります。確かに深澄音先輩ほどの魅力的な女性は中々いないでしょうが、それでも感情を持った普通の人間なんですよ」
 恋愛感情だってある、しかしそれを今直接口に出すのははばかられた。このごく遠まわしな言い方で分かってくれればとも思ったのだが、それは涼馬の甘さの反映でしかない。
「それはお前の目が節穴なだけだ」
「部外者に俺達の思いは分からない」
「どうせ女に興味のない奴だからな。あれだけ持てておいて付き合いもしないなんて、どうかしている」
 話の方向がずれてきて個人攻撃が始まる。涼馬は腕組みした。
「何があっても解散しないつもりですか」
「当然だ!」
 異口同音、即答である。瞬間、冷たい声が漏れた。
「本当でしょうかね」
 生徒会長澤守涼馬と言えば温和で知られている。しかしこの時、その印象は完全に裏切られていた。恐ろしいほど攻撃的な響きが、聞く者の心臓を正確に突き刺す。一瞬で沈黙が広がった。
「なあ、澤守。一つ聞いていいかな」
 それを辛うじて破ったのは、先代の部長である。年かさで、また部長に推されるだけあって他の部員より人ができており、これまで怒鳴ったりはしていなかった。
「何でしょう」
 涼馬もひとまず落ちつく。話し合いで解決するのならそれに越したことはない。
「何故、今なんだ」
「何がですか」
 緊張をはらむ質問に、涼馬はしらばっくれた。話の流れは分かっている。だから答えたくはない。
「何故今この時期に解散させようとするんだ。それは確かに俺達は問題の全くない集団じゃないよ。俺の解釈では必要悪だし、俺自身二年半やって来て後悔はしていないがね。ただ、その寿命ももう長くはない。後半年、彼女が卒業してしまえば組織が残ったとしても活動は立ち行かなくなる。今まで黙認されてきたもう一つの理由は、どうせ長続きはしないと分かっていたからだろう」
 寂しそうに元部長が語る。涼馬はうなずいた。要するに、やっきになって潰してしまわなければならないほどご大層な集まりではないのだ。それを見透かしていたから先代の生徒会長などは放任を決め込んでいたし、また涼馬も基本的にはその方針を踏襲していた。
「もう半年で終わるんだ。それを何故今から潰そうとしなければならない。待てない理由は何だ」
「聞きたいですか?」
 切り返しが早い。相手は言葉に詰まった。
「本当に、聞きたいですか」
 今度はゆっくりと念を押す。危険な雰囲気が充満する中、涼馬は薄く笑った。
「いえ、聞きたくなんてないんでしょう、先輩。確かにおっしゃる通り、今になってこんな事を言い出したのには理由があります。状況が大きく変わりました。そして、先輩はその理由に薄々気づいていらっしゃる。でもそれを自分からおっしゃらないのは、言葉に出してしまって僕がそれを認め、事実として確定するのが恐いから、違いますか」
 もう、言葉はおろか首を振る余力さえ、残っていなかった。
「もう一度言います。解散して下さい。このままでは誰のためにもなりません。深澄音先輩のためにも、あなたがたのためにも」
「俺に決定権はないよ。とりあえず俺は抜けるから、後の事はお前等で決めてくれ」
 よろよろと、しかし逃げるように、元部長は立ち去ってしまった。後には淡々とした涼馬と、呆然たる現役部員達が残される。
「どういうことだ?」
「何なんだ、一体」
 しばらく部員同士で話したすえ、結局視線が涼馬に集中する。涼馬は小さく首を振った。
「賢明な判断だと思うよ。見習った方が無難だ」
 上級生がいなくなったので言葉を崩す。しかし案の定、相手は納得してくれなかった。
「澤守、説明しろ」
「そっちだけで話を進めるな」
「聞いても後悔するだけだよ」
 事実をもって脅迫する。しかしその恐ろしさが、相手には分かっていない。
「玲奈さんのためなら、どんな事でも後悔はしない!」
「そうだ!」
「ふう。そう言うだろうと思っていたよ。じゃあ言おう。断っておくが、別に僕は悪意があってこんなことを言う訳じゃないぞ。いずれどこかで分かるから、今してしまおうと思っているだけだ」
「もったいつけるな、早くしろ」
「分かった。恋人ができたそうだ」
 務めて淡々と、涼馬は語った。相手を傷つけないための配慮だったが、これはしかし言い方が少々軽過ぎた。相手の頭の中で、うまく意味がつながらない。
「誰に?」
「深澄音先輩に」
「何ができたって?」
「恋人」
「何をいきなり、そんな冗談を」
 ここまで丁寧に教えてやって分からないのだから仕方がない。涼馬は事実の重みというものを叩きつけた。
「昨日のことなんだが、夕方校門の所であの人に会ったんだ。ほら、この所痴漢が出るって問題になっているから、僕は送って行こうかと声をかけたんだよ。迎えが来るからと言って断られたけれどね。それで誰が来るかと聞くと、恋人だって言い出したんだ。それも嬉しそうに。確かに君達に言われるまでもなくあの人は綺麗だと思うけれど、あの時の笑顔ほど魅力的な表情はほかにないと思った」
「それは、あの人流の冗談なんじゃ…」
「そういう冗談に縁のない人だと、君達も知っているだろう。そもそもそのすぐ後にその恋人がやってきたよ。礼儀正しくて謙虚でよく気がついて、さすがに先輩の人を見る目は確かだと思ったね」
「おい、ちょっと待てよ。お前いつも裏門から帰っているだろう。あの人は電車通学だから表門だ。でたらめを言っているんじゃないのか」
「普段はね。ただ、昨日は副会長の藤野さんを送って行かなければならなかったから。結局彼女と合わせて四人で駅まで行ったよ。なんなら彼女に確かめるか」
「彼女はお前の一番の部下だろう。信用できない」
「僕はともかく、他の人まで悪く言うのは止めてくれないか」
 涼馬の語気がややや強まった。本筋とは関係のない所で、しかし相手が反論に詰まる。そこで一気に、とどめに入った。
「そこまで疑り深いのなら、いっそ先輩自身に確かめてみるか。あの人自身の口から聞くのか、『恋人がいます』と。多分嬉しそうに教えてくれるよ。それともあの二人が仲良くしている現場を見なければ気が済まないかな。ちょっと遠慮がちに手をつないで、微笑みながら歩いている様子なんて、ほとんど芸術的でさえあるよ」
 玲奈様ファンクラブはここに崩壊した。活動のドグマから叩き潰されたのだ。それは誰だって、玲奈と仲良くなりたい。しかしそう望むものがあまりに多く、他人に先を越されることを恐れたがために誰も彼女に必要以上に近寄れない状況を作ってきた。それがクラブの正体である。しかし先を越すものが、現に出てきてしまった。存在価値がなくなったのだ。
 根が断たれた、これは圧力をかけるよりはるかに効果がある。ただ効果のありすぎる、言わば劇薬であるだけに涼馬は最後の手段と考えていた。この後行き場を失った連中がどこへ向かうのか予測がつかない。しかしもう、後戻りはできなかった。
「じゃあ、僕はこれで」
 反応もなくした人々を残して、涼馬はとりあえずこの場を後にした。今ここで、できる事は何もない。
 しかし涼馬は、そのまま自分の教室に戻りはしなかった。足を向けたのは切手研分班室にほど近い、新聞部室である。
 中では数名の部員が話をしていた。雑談、にしては雰囲気が固い。編集方針についての会議らしい。その中に、涼馬は目的の人物を発見した。
「岸宣、ちょっと顔を貸してくれないか」
「はい」
 そう言って彼は顔を貸すべく放り投げてくれた。涼馬はそれを胸元で受け止める。頭は禿げ上がり、彫りが深く睫毛の長い、目の虚ろな顔である。近くでみると相当に気持ちが悪い。
「都合が悪いのなら後にするよ」
 涼馬が投げ返すのを、岸宣がひょいと受け止めた。マネキンの首である。
「いえ、別に。そういうわけですから、後はよろしくお願いします」
 首を元の場所にしまってから、彼は席を立った。
「何のためにあんなものが置いてあるんだ」
 人のいない場所に移動しがてら、涼馬は聞いてみる。岸宣は不思議そうに返した。
「何のためにって、今あれの正しい使い方を見たばかりじゃないですか。実際使ったのはあれが初めてですけれどね」
「ネタのためだけにそんなものを常備するな」
「もうちょっと高校生活を楽しみましょうよ。あなたは少し、いえ、少なからず物事を硬く考え過ぎです」
「余計なお世話だ」
「はいはい。さて、この辺ならもういいでしょう。何事ですか」
 廊下の行き止まり、資料室前の壁に、岸宣は寄りかかった。それで涼馬は、玲奈とそのファンクラブの状況について説明する。
「ふうん。あの人にもようやく春が来ましたか。ま、かなり高い確率でそのまま一生春になりそうな人ですし、今くらいが丁度良いのかもしれませんが」
 皮肉っぽい感想だが、この男の皮肉はいつものことだ。むしろ口調には優しさが感じられる。ひねくれ者の心さえも開かせてしまう、玲奈とはそういう人だ。元々古い知り合いであるらしい。
「ファンクラブには同情しないんだね」
「当然でしょう。臆病には当然の報いですよ。周囲の目やら何やらを気にして告白もできない弱者は踏みにじられても文句は言えませんって」
 今度は笑って、しかし悪意むき出しである。どうやら心の底から嫌いらしい。つきあいが長いので、こういう時には相手も一歩も引かないと分かっているのだが、涼馬はつい反論した。
「そこまで言う必要もないんじゃないのか。あのクラブに関してはともかく、言わないでいること自体に罪はないだろう。誰に迷惑もかけないんだし」
「そりゃまあ、あなたみたいに告白されまくって困っているなんて、極端な例外もいますけれどね。普通は違いますよ。告白されるのは滅多にないチャンスです。生殺与奪、付き合うも付き合わないも告白された側の自由ですから。それだけ大事なものを相手にあげられないって、それはつまり相手よりも自分が可愛いってことなんじゃないですかね。振られるのが恐くて。そんなもの本当の好意じゃありませんよ。ただの一人よがりです」
 黙り込む涼馬を見て、岸宣は口調をやや改めた。
「ま、相手が人妻だとか、そういう場合は黙って身を引いた方がいいでしょうけれどね。人として。それより、本題に入りましょう。私に用事って、何をしでかすか分からないファンクラブの連中の監視と暴発防止、そんな所ですね」
「ああ」
「分かりました。引きうけますよ。元々あの連中は嫌いですし、深澄音先輩は古いなじみですから。新聞部の若いのにも声をかけておきます」
「済まない」
「いいんですよ。あなたなら黙っていても借りを返してくれますしね」
「忘れることにするよ」
「まあそう言わずに」
「考えておこう。それで、何かあったら僕に知らせるようにしてくれ」
「はい。ああ、でも私一人で片をつけられるようなことでしたら、こっちで何とかしておきますよ」
「それはできれば避けて欲しいな。君は何かと騒ぎを大きくする」
「それはひどい誤解です。私はジャーナリストを目指しているんですから」
「ジャーナリストとしての君は尊敬に値するが、しかし目立ちたがりの欠点を克服しないとな。つい傍観者ではなく主役になりたがる」
「考えておきますよ」
 岸宣は表面上あっさり非を認めて、そのまま話題を変えた。どうやら反省する気が全くないらしい。
「そうそう、深澄音先輩の恋人について、詳しく教えてください。情報が少なくては動きが取れません」
「名前は手塚昭博。継谷高校の生徒だと思う。詰襟でボタンも黒だったから」
「襟に校章がついていませんでしたか。継谷なら葉が二枚合わさったマークのはずです。ボタンにも同じ模様があるはずですけれど」
 都立継谷高校、通称は継高である。ちなみに北条坂高校の校章は二重の正六角形。古来の名称を用いれば「亀甲紋」なのだが、この呼び名は最近あまり人気がない。束縛されているような気がするのだ。何となくだが。
「校章はつけていなかった。ボタンまでは見なかったよ」
 相手の情報通ぶり、観察力に感心しながら涼馬は自分の見た範囲を伝えた。彼にしてみれば頼りない情報源なのだろうが、しかし岸宣に落胆した様子もない。
「多分間違いないとは思いますけれどね。一応先輩本人にそれとなく確かめておきましょう。隠したがっているとか、そんな様子はなかったんですね」
「逆だね。あれは見せびらかしたかったとしか思えない」
「あの人がですか? 信じられないですねぇ」
「僕も自分の目を疑ったよ」
「個人的な興味も沸いてきました。どんな人があの先輩をそこまで変えたのか、見逃したとあってはジャーナリスト魂の存在を疑われます。それに継高の手塚って、どこかで聞いたことがありますよ。それが何だったのか今は思い出せませんけど、何かの有名人じゃないでしょうか」
「見かけは普通だったよ」
「そこで終わってしまうか、更に好奇心を刺激されるかが普通の人とジャーナリストの分かれ目です」
「なるほどね。しかし今から将来の目標が決まっているなんて感心するよ」
 何となく漏れた感想であったが、しかし岸宣は切れ長の目を少し見開いた。
「私は好きでやっているだけですって。今言ったでしょう、好奇心だって。つまりただ知りたいだけですよ。そうして得た知識を広めるのは自己顕示欲の現われ、あなたの言う目立ちたがりの欠点です。感心されて悪い気はしませんけれど、そうすべきこととは私自身思えませんね」
「うらやましいと言った方が正確かな。僕にはそういうものがないから。どうも最近、こう愚痴ってばかりだな。藤野さんにも同じことを言ったよ」
 涼馬なりに真剣な悩みなのだが、岸宣は肩をすくめた。そればかりは他人には救えない。
「享楽的に生きたらどうです? したい事をすればいいんですよ」
「いきなりそう言われても困る」
「定年後の仕事中毒者じゃないんですから。じゃあまあ、基本に立ち返ってみましょう。人間の基本的な欲求は三つです。一つ、睡眠欲。不足すれば心身ともに衰え、完全にこれを奪った場合数日で発狂、死に至ります。が、涼馬は十分足りてますよね」
「うん、一日八時間」
「寝る子は育つ。次、食欲。水分の採取を三日以上断った場合、生命維持に支障が出ます。栄養分に関しては、貯蔵として皮下脂肪がありますし、最悪の場合は筋肉が分解されてエネルギーに変わりますから、水さえあれば結構長持ちはしますけれど、それでも衰弱は免れません。しかし涼馬の場合、これにも全く問題がありません」
「当たり前」
「見かけより食べていますしね。最後、性欲。満たされてます?」
「おい」
「と言うか、満たされてるなんて言わせませんよ。この前何だかんだ言って結局例の無修正本持っていきましたからね」
「悪かったな。大体あれはもう一年も前の話だろう」
 当時の涼馬は興味に勝てなかった。岸宣は笑う。
「別に悪いなんて言ってませんよ。あるべきものがある、それだけです。逆にない方が心配になります」
 確かにこの友人には志望しているジャーナリストとしての資質がある、と涼馬は思う。固定観念、建前あるいは偽善の先にある本質を突く目を常に光らせている。
「で、この学校にはあなたを慕う女生徒が何十人といるわけで、適当なのを見繕って二、三人、そうしたいのなら全員ものにしちゃえばどうです?」
 が、すぐにこうしてふざけてしまう奴でもあった。
「おいおい」
 涼馬は全身で呆れたと表現したが、岸宣は冷たく笑って応じた。
「大丈夫、どんな法律にも引っかかりませんよ。この学校の生徒ならば当然十八歳以下ですけれど、あなた自身が十八歳以下ですから。淫行条例も買春禁止法も問題になりません」
「そういう問題じゃないだろう」
「じゃあどういう問題が?」
「女性に対する責任とか、考えないのか、君は?」
「避妊は忘れちゃ駄目ですよ、そりゃ。方法はちゃんと習いましたよ、ねえ?」
 正確にいつだったかは忘れたが、性教育の授業で確かに習った覚えがある。
「だから、そういう問題じゃない。した時点で責任が出てくるとは考えないのかと、そう聞いているんだ」
「天然記念物的な道徳観念ですねぇ。佐渡島に保護センターでも作って人工飼育しましょうか?」
「トキか僕は!」
「だってそうでしょう。今時それくらいで責任なんて考える人まずいませんって。大体そう考えるのって、逆に女の子を見下しているんじゃないですかね」
「そんなつもりはない」
「つもりはなくてもそう解釈できるってことです。確かに服を脱げと言うまではあなた自身の責任ですよ。でもそこで服を脱ぐかどうかはその女性の責任でしょう。男がその責任を全面的にかぶるって考え方は、つまりその相手の責任と、それを支える判断力を軽視することにつながりはしませんかね」
 無言の涼馬に、岸宣は眼鏡ごしに、笑った視線を投げた。
「確かにあなたは昔から何でも良くできて、何でも知っていましたよ。何かっていうとみんなあなたの判断を求めた。その判断が間違っていたこともありましたけれど、しかし少なくともあなた以上の判断ができた人間が仲間内にいたとは思えません。今でもそう、生徒会長を立派に務めています。でもその分、責任を背負い込む癖ができちゃっているんじゃないですかね」
「僕以上に冷静な判断力を持っていながら、せっせと僕に責任を押しつけてくれた人もいたしね」
 皮肉を言いつつ、しかし否定はしない。相手はそらとぼけた。
「そんな人いましたっけね」
「まあ、君の言う通りにはしないが、少し肩の力を抜いてみることにするよ」
「そんな所ですか、それじゃあですねえ」
「うん?」
「一番手っ取り早いのはやっぱり生徒会の大森さんでしょうね。一度玉砕しましたけれど、あの人まだ諦めていませんよ。この前水着姿を見ましたけれど、スタイルも中々です」
「だからそういう話じゃないっ! 大体何でそれを君が知っている」
 わざわざ鼻で笑って、岸宣は肩をすくめた。
「見てりゃ分かりますよ、そのくらい。分からないとでも思ってました?」
「う」
 観察力が鋭すぎるのが、友人としてのこの男の最大の欠点かもしれない。しかもさらにこんなことを言ってくる。
「ま、私の一番のお勧めは藤野さんですね。スタイルはあんまりですけれど、ちっちゃくて可愛くて、真面目で元気一杯で。この学校は何かと深澄音先輩が一番人気ですが、私としては彼女も十分引けをとらないと思いますよ。先輩が戦線離脱した以上は文句なしの一押しです」
 涼馬の内心を知ってか知らずかだ。ここで「知っていたのか」などと聞いても「え、何のことです」などと平然と言い放つだろう。そういう男だ。涼馬は聞き流しを決め込んだが、岸宣はさらに構わず続ける。
「あー、そうそう。そう言えば。もし藤野さんが告白してきたら、答えはイエスのみですよ。ノーは私が許しません。前々から言わなければと思っていたんですけれど、ついつい忘れていました」
「君は彼女と親しかったっけ」
 そうではないと思うが、特に情報収集にかけては油断のならない人物だ。涼馬はさりげなく身構えているが、それも悟られているかもしれない。
「ああ、別に。知っての通り、あなたを介して挨拶をしたことがある程度の間柄ですよ。可愛いからかげながらチェックは入れていますけれど」
「その程度にしては目一杯の肩入れだね」
「しらばっくれたって駄目ですよ」
「何が」
「あなただって『例の伝説』、知らないわけじゃないでしょう? もしブルマ着用組の彼女が振られたら、信憑性が大きな被害をこうむるじゃありませんか。それが廃止の遠因になったら、なーんか、こう、寂しいじゃないですか、ねえ? 正直、嫌いでもないでしょう。トキと違ってブルマを佐渡の保護センターに入れるわけには行きませんから、この際絶滅を食い止める努力をしないと」
 頭痛がしてきた。本格的に。
「…じゃあ聞くけど、僕に告白して駄目だった人たちの中に、ブルマを使っていた人は一人もいないのかい?」
 こいつならそれをチェックしているに違いない。その確信は、正しかった。
「真っ先に例として挙げられるのは大森さんですね。まあ、あの人は告白する一月前くらいに短パンから変えたと聞きましたけれど」
「その時点で信憑性は地に堕ちてると思う」
「ふふ。やはり自覚がないようですね」
 音がするほど勢い良く、彼は正面から指さした。
「あなたも既にこの北条坂高校の伝説なのですよ、涼馬。深澄音先輩がそうであるようにね。そして生きた伝説は、語られねば死んでしまうただの伝説より、ずっと強いのです。あなたに告白したところで振られて当然、それはあなたという伝説を補強するだけで、『例の伝説』が弱いという理由になりはしません」
「ああ、そう」
 一々反応しても仕方がない。とにかく流す。
「それにですねえ、大森さんのようなにわかブルマと、藤野さんの正真正銘筋金入りのブルマでは、格が違いますよ。後者の今後の動向にこそ、『例の伝説』の命運がかかっています」
「はいはい」
「大体私に言わせれば、夏場は三年間ブルマを通して来た深澄音先輩でさえ、邪道です。例えどれほどあの見るからにもちもち感のある太ももやヒップラインが魅力的であろうとも。ファンクラブの連中はそれが分かっていません」
 どうしてこいつはさっき彼氏ができたという話が出たばかりの人をネタに、こうも盛り上がれるのだろうとか、そういうことを考えてはいけない。考えた時点で負けである、きっと。
「なんで」
 興味があったから聞いたのでは、断じてない。その方が早く終わると思ったからだ。どうせ聞かなかったら、本人が「なぜなら」などの接続詞を補うに違いない。
「物にはそれぞれ本来の用途というものがあります。目一杯汗をかいてこその、ブルマそして体操着じゃないですかっ!」
 さすがにきりがない。涼馬は強制的に話を打ち切ることにした。後はその、タイミングをうかがうだけだ。
「何しろ先輩は走る前に転びますからね。あれでは宝の持ち腐れです。それに冷え性の気がありますから、着用期間が極めて短くていけません。その点藤野さんは少なくとも入学以来ブルマ一本、もしかしたら真冬でも披露してくれるかもしれませんし、余すところなく使い込んでくれます。すなわち、彼女こそが言ってみればブルマ・オブ・ブルマ! その愛すべきブルマのために今こそ、起てよ国民っ!」


「貴様は彼女持ちだろうがっ!」
 一見した所熱弁を振るっている岸宣に、涼馬は前蹴りを叩き込んだ。長身の体重を限界ぎりぎりまで長い脚に乗せた、極めて危険な技である。まともに食らった岸宣は思い切り吹き飛んだすえ、壁面に叩きつけられた。
 そう、この男はこれでも立派につきあっている相手がいる。それもお嬢様学校に通う美人だ。気の強い所はあるが、そういう性格が好きという男にはむしろたまらないだろう。涼馬自身、何度も会っているので間違いない。
 要するに、例えば昭博などと同様人もうらやむ身分なのである。ブルマだなんだと騒いでいるのも、たちの悪すぎるおふざけに過ぎないはずだ。
「だ、だって…彼女の学校はショートパンツですから」
 歯を食いしばってうめきながら、岸宣はずるずると背中を壁に引きずりながら崩れ落ちた。
 そろそろ失念しそうな状態だが、ここは密室でも荒野の一角でもなく、休み時間の学校の廊下である。その中では人通りは少ない方だが、絶無ではない。話の内容まではともかく、二人がいるということは良く見える。現に今も、目撃者がいた。
 生徒会長の暴行事件、そんなふうに大事になりそうなものだが、実際には目撃者の全てがそのまますたすたと歩き去った。これも一種の年中行事なのだ。
 二人がまだ一年生だった頃だ。悪ふざけの過ぎる岸宣に対し、涼馬が凄まじい勢いの蹴りを叩き込んだことがある。周囲の人間の脳内が一瞬漂白されたが、すぐに岸宣がけろっとした顔で立ち上がったのでその場は何事もなくおさまった。要は手加減をしていたのだ、と考えられたのである。その後もたまにだがそんなことがあるので、みな慣れっこになってしまったのだ。
「購買で売ってるんだから、それを彼女にでもはいてもらっておけ」
 もっとも涼馬としては、毎回全力でやっているつもりだ。今もそうである。岸宣が死なないのは、単に彼が爬虫類的な丈夫さを持っているからに過ぎない。
「風流心のない人ですね。それじゃただのコスプレです。リアルじゃありません。例え現役女子高生だったとしても、ね」
 そして案の定、何事もなかったように起き上がってしゃべり始める。涼馬がもう挨拶なしに立ち去ろうと思った所で、岸宣は急に表情を変えた。
「ねえ涼馬。少し何か、焦っていることでもあるんですか」
「何をいきなり」
「いえね、普段のあなたなら、何か行動を起こす時にはもう根回しを終えていると思うんです。今日の場合ならファンクラブに乗り込む前に私に話をつけて最悪の場合の対策を整えておくとか、そんな所ですよ。ま、些細なことですけれどね」
「僕にだって不注意もあるさ。買いかぶりだよ」
 心当たりはあったが、涼馬は答えなかった。午後の授業開始を告げるチャイムが鳴る。
「ではまた」
「うん」
 軽く挨拶して二人は分かれ、そしてそれぞれの教室に向かった。その際、岸宣はふと涼馬に視線を向けたが、結局何も言わなかった。

続く


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