午後の恋人たち 新章

7 それぞれの蠢動


 昼休み、食事を終えた優は図書館に来ていた。普段なら友人とおしゃべりをしたり、校庭で遊んだり、生徒会室で仕事をしたりと色々あるのだが、今日は何もする気になれなかった。
 体を動かすのが好きだが、優は読書も嫌いではない。むしろ今時の高校生としては読書量はかなり多い。小説中心だが、ミステリー、恋愛、ファンタジーとそのジャンルは広い。勉強がてら洋書のペーパーバックを読んだりもする。小遣いが多くはないので、学校の図書館、近所の図書館ともに常連である。
 しかし今日はそれもしない。閲覧室の椅子に座っている。薄暗い書架とは対照的に、閲覧室は南向きに窓が広く取られているため、昼間は光が溢れるようだ。ぽかぽかと暖かく、学校有数の昼寝スポットとして知られており、現に今もそう利用しているものが何人かいた。しかし優はその仲間に加わる事もなく、ただ光を眺めている。
「ここ、よろしいですか」
 彼女を現実に引き戻したのは、そんな声だった。隣の席に手を置いている。まだ空席の方が多いにもかかわらずそこを選ぶ、やや不審な行動だ。自然、顔が上がる。
「深澄音先輩」
 いつどう見てもきれいな人だ。光に包まれた彼女を見ながら、優はそう思った。後光だといわれても不自然ではない。
「あ、どうぞ」
 一瞬の自失から立ち直り、優は慌てて椅子を引いた。軽く会釈して、玲奈がそこにかける。
「珍しいですね、お一人だなんて。優さん誰にでも好かれますから、いつもは必ず誰かと一緒ですのに」
「そんなことありませんよ。誰にでも好かれるというのはそれこそ先輩では」
「私は他の人より行動が遅いですから。それにいらいらする人も少なくないみたいです」
 相変わらずにこにことしながら、しかし玲奈はかぶりを振った。のほほんと生きているようで、しかし深い知性を持った人なのだ。
「そうですか。あの、それで何かご用でしょうか」
「あ、はい。用事と言うほどでもないのですけれど、でも優さんにお話したりお聞きしたいことがあって。でも、何から始めましょうか」
 もちろん涼馬との間についてなのだが、しかし直裁的に聞いて良い問題でもない。慎重にやれと昭博に釘を刺されている。腹の探り合いには本質的に不向きな玲奈としては、中々切り出せなかった。もちろんそう言われても、優としては困ってしまう。
「ええと、そうですね。では、生徒会活動に関して。最近、うまく行っていますか」
 少し考えた末の結論が、これである。これならば一般的な話題で、かつ涼馬が出てこないとはまず考えられない。優は大きな目を更に丸くした。
「えっ? それは会長がしっかりした方ですから、特に問題もなく」
 実際優としては問題を感じていない。何もかも順調、などと行くはずもないとはもちろんだが、それは予測の範囲内だ。多少の問題を抱えつつもそれを処理して行く、それが現実だろう。そんな状態に対してとやかく言う人間は、現実を知らないか精神のありように問題がある。ただ玲奈も生徒会の経験者だし、ゆがんだ精神の持ち主では絶対にない。他人に対して優しい、あるいは甘いとも言える人だ。その彼女が見逃し得ない重大問題を自分たちが見過ごしていたのか、と不安になる。
「いえ、あなた方の能力に疑問を感じているのではないんです。涼馬さんも優さんも、凄くしっかりした人ですから。ただ、ちょっと」
「何でしょう」
「言いにくいのですが、人間関係としてうまく行っているのかなと、ちょっと不安になったもので」
 言っている途中から玲奈は後悔していた。聞いている優の表情は悲痛とさえ言えるものだった。
「それは、わたしがいけないんです。せっかく澤守先輩が色々と優しくしてくださるのに、わたしが生意気ばかり言って…」
 生徒会には二人以外にも構成員がいるのだが、しかしこの時点でもう彼等は彼女達の考えから消え去っていた。そんなものである。
「いえ、別に。涼馬さんが気分を害しているようには見えませんでしたよ」
 やや慌てて、玲奈が否定する。それでも優の表情は曇ったままだた。
「だといいのですが」
「だって、気分を害していたのならわざわざあなたのために反対方向の駅まで来たりしませんよ」
「それは、澤守先輩は優しい方ですから」
「優しいにも限度がありますよ。もし涼馬さんにとってあなたが嫌いな、あるいはどうでもいい人だったら、あの場であなたをよろしくお願いします、と私達に言ってそれでおしまいです。やっぱり大事な人だと思っているのではないでしょうか」
「大事な人、ですか」
 無意識に動いた優の小さな手が、やはり小さな胸を押さえている。玲奈は微笑んで肯定した。
「ええ」
「あの、でも、それならばどうして人間関係が、と思われたのですか」
 少なくとも涼馬が自分に好意的なら、二人の関係は全く問題ない。優の主観はそうである。そこから論理を進めて行けば、これは当然に発生する疑問だ。
「始めに断っておくべきでしたね。疑問に思ったのは些細なことなんです。心配させてしまって、済みませんでした」
 玲奈がとりあえず頭を下げる。しかし今の優に、そんな事はどうでも良かった。
「いえ、忠告していただけるのはありがたいですから。それで、どうしてですか」
「ええ、少しよそよそし過ぎるかなって、思ったんです」
「よそよそしい、ですか」
「はい。優さんにとって涼馬さんは、クラスメイトの次に学校で一緒に過ごす時間の多い人のはずです。話す機会も特に多いのですし。逆に涼馬さんについても同じことが言えます。それでもう半年が過ぎました。そろそろ慣れ親しんだ間柄になってもおかしくはないでしょう。それにしては二人とも、何だか妙に相手に遠慮しているなあと、そう思ったんです」
「やっぱりわたし嫌われてるのでは…」
「そこに話を戻してはいけませんよ。では逆に聞きますけれど、優さんが涼馬さんに対して遠慮深いのは涼馬さんを避けているから、嫌っているからですか?」
「そんなことありません!」
 大声を出してから、優はここがどこだか思い出した。図書館だ。白い視線が複数、向けられている。
「場所を変えましょう。そう、天気がいいですから、日向ぼっこでも」
 玲奈が席を立ったので、優もそれに続いた。
 そうして移動した先は、中庭のベンチである。男子生徒がカラーボールで野球もどきをしたり、あるいは女子生徒の集団がバレーボールをトスして遊んでいる。それを見るとはなしに眺めながらの話になった。
「さっきは済みませんでした」
「いえ、私に謝ることではありませんよ。それより、良ければ理由を教えてもらえないでしょうか」
「わたしは、澤守先輩を尊敬しているんです。ですから、なれなれしくする事ができなくて」
「私に嘘をつくのは構いませんよ」
 急に笑って、玲奈が言った。一瞬、優の息が詰まる。
「謝らないで下さい。構わないと言っています。誰にだって人に言いたくない事はあります」
 優が沈黙を返したのに対して、玲奈は一つうなずいた。
「でも、もし自分の気持ちに嘘をついているのだとしたら、それは止めた方がいいと思います。確かに涼馬さんはあなたより一つ学年が上ですし、尊敬に値する美点を多く持った人です。尊敬していると言うあなたのその言葉が全くの嘘だとは、私も思いません。でもそれが、本当に主なものなのですか?」
 優としては信じられないほど正確に、玲奈は彼女の内心を洞察している。核心に触れられるのを避けるように、優は聞き返した。
「どうしてそう思うのですか」
「特に難しくもない推論です。涼馬さんを知っている女の子があの人に対して特別な感情を抱くとしたら、それはまず間違いなく憧れでしょう。そして半年間身近に接していたのなら、その気持ちはもっと強くて、純粋で、そして切ないものになっている、そう考えるのは間違いでしょうか」
 答えない。それが今の優にできる唯一の選択だった。そこで玲奈がくすりと笑う。
「なんて、言い方本当はずるいのですけれどね」
「は?」
「優さんの顔を見て、何となく分かったんです。勘ですね。推論はそれを補強するために後から考えました」
「勘で、そんなに簡単に分かってしまうものですか」
 とうとう、間接的にであるが認めてしまう。玲奈は勝ち誇りもせず、済まなさそうに笑った。
「どうでしょう。私も気がついたのはついこの間ですから。ただ、私にだけ分かることだとも思えません」
 目を伏せ、小さな唇を引き結び、そして少し頬を染めている。玲奈はその横顔を、素直に可愛いと思った。
「それを涼馬さんに言ったりしたことはないのですね」
「気まずくなるだけですから。少なくともあと半年、生徒会を続けなければならないのですし」
「涼馬さんが拒絶するのなら、そうでしょうね」
「気になっている人がいるそうです」
「あら、それは初耳です。そしてそれが誰であるのかは聞いていないのですか」
「はい」
 玲奈が小首をかしげる。長い髪が肩の上を流れる様がなまめかしい。自分も髪を少し伸ばしてみようか、と優はふと考えた。
「少し、今度は涼馬さんが優さんに遠慮する理由を考えてみましょうか」
「あ、はい」
 急に話の流れが変わる。優は少し、ついて行き損ねた。
「基本的にはむしろ気さくな人のはずです。弱みを握っているだとか、一度何かまずい事があっただとか、優さんの感情を傷つけてはならないような事情は…」
「もちろんありません」
「はい。そうすると残る可能性は一つかないように思えるのですが」
「何でしょう」
「分かりませんか」
 玲奈は思わず笑ってしまった。ここまで言えば分かりそうなものだ、と思う。しかしそれは優の機嫌を損ねただけだった。語気が強まる。
「先輩!」
「は、はい。単純過ぎる推論かもしれませんが、優さんが涼馬さんに遠慮するのと同じ理由で、涼馬さんは優さんに遠慮している、と考えられないでしょうか」
「?」
 頭の中で、うまく意味が通っていないようだ。玲奈は微笑しながら説明した。
「そう考えると全てつじつまが合うんです。元々今この学校で涼馬さんと話す機会の一番多い女子は多分優さんです。つまり一番親しくなる可能性が高いでしょう。そしてあなたが気になっているから他の女の子は受け入れられず、そしてあなたに対しては変に遠慮してしまいます。でももし告白して拒絶されたら半年間も気まずい思いをしなければなりませんから、あの人ほど勇気も決断力もある人が言い出せないんです。ただ、自分の気持ちに嘘はつけませんから、遠回しに構ったりはします。私はそう考えているのですが」
 分量の多い台詞を、玲奈はゆっくりとしゃべった。その間ゆっくりと、優の心の中に玲奈の言葉の意味が染み渡って行く。顔の紅潮のし方も緩やかに進行したが、しかし限度を知らなかった。
 これまで片想いだとばかり思っていた。しかしもし二人とも相手を意識し、ただ拒絶される事だけを恐れているとしたら…。
「で、でもそんなことが、本当にあるんでしょうか」
 薔薇色の未来図を前に、理性がむしろ警告を発する。返答はあっさりしたものだった。
「それなら、確かめてみましょうか」
「え?」
「優さんが確かめるのが最良だと思いますけれど、それができないのなら私がそれとなく聞く方法もあります。優さんも話してくれましたし、聞き出すのは難しくないかもしれませんよ」
 顔を上げて口を開きかけ、そしてうつむいて口を閉ざす。そんな動作を、優は何度か繰り返した。やがて出た結論は、こうである。
「それは、私が何とかしなければいけないことだと思います。すぐに行動する勇気もありませんけれど、でもなんとか自分の力で確かめて行きます。先輩のお気持ちはありがたいのですが、しばらくは見ていてください」
 一つ一つ、自分の気持ちと言葉を確かめるように話して行く。玲奈は笑ってうなずいた。
「それに…」
「?」
「それに、もしかしたら両想いかもしれないって、そう思うだけで幸せな気分なんです。もう少しこのままでいたい気もします」
 両手を膝の上で合わせてつぶやく。玲奈はもう一度うなずいたが、やがて小さくかぶりを振った。
「私の考えが正しければ、さっきまでの優さんと同じ理由で涼馬さんも苦しんでいます。あまり長引かせてはいけませんよ」
「はい、頑張ります」
「いい返事です」
 目的を達したので、玲奈は少し腕時計を気にした。おとなし目の、彼女の細い手首やブレザーの袖に良く似合うデザインだが、しかしそのムーブメントはスイス製の最高級品だ。価格で言えば下手なロレックスなど目ではない。両親から去年の誕生祝として贈られたものである。こういう物をさりげなく使いこなすのが、本当の上流階級だ。金ぴかの宝飾時計をつけて喜んでいるようでは、所詮成り上がりに過ぎない。
「あ、もうこんな時間です。速いですね」
「えっ? あ、本当です。全然気がつきませんでした」
 優も自分の時計を見る。文字盤が大きくて見やすい、防水仕様の物だ。平凡な大量生産品だが、中学校の入学祝に買ってもらって以来、優の宝物の一つとなっている。
「今日は何だか楽しかったです。またこうして、本音でお話する機会があるといいですね」
「はい。今度はわたしが先輩のお話を聞く番です。愚痴でも何でも聞きますよ」
「うーん、今は特に不満がないので、どうでしょう。昭博さん凄くいい人ですから」
「分かりました。そうしてのろけているのを聞いていればいいんですね」
「あう」
 一本取られた玲奈であったが、やがて優とくすくす笑い出してしまった。

 放課後、教室の掃除当番だった涼馬は一通りの仕事を終えると学生鞄を手に取っていた。当番の中に特に親しい者もいなかったので、その場で別れて一人帰ることになる。今日は少し寄り道でもして行こうかと、そんな事を考える。
「澤守先輩」
 少しトーンの高い、甘い響きを帯びた声が聞こえた。はっとして涼馬が振りかえる。
「藤野さん」
 この学校の制服に身を包んだ小柄な少女が戸口に立っている。彼女はいつになく優しく微笑んでから一礼した。半ば吸い寄せられるように、涼馬がその前まで歩いて行く。
「どうしたの」
「いえ、別に大した用事ではないのですが」
 目を伏せて、もじもじと手足を動かす。むしろ毅然とした彼女を良く知っているだけに、涼馬は妙な興奮を覚えていた。調子の良い台詞が口をついて出る。
「何でも聞くよ」
「はい、あの、この前のお礼をきちんとしていなかったなと思ったものですから」
「この前?」
「はい。せっかく勉強を教えていただいたのに、何だかぼうっとしていて、ろくにお礼もしていなかったと、思いだしたんです」
 少し潤んだ、つぶらな瞳で見上げてくる。やや慌てて、涼馬は否定した。
「いや、あれは、僕が好きでやった事だって、その時にも言っただろう」
「でも、きちんとお礼をすべき事だと思いますから」
 もちろん内心では何かして欲しい涼馬である。しかし何をしてくれるのかと、少し気になった。いきなり頬にキスをしてくれたりすると…嬉しい。唇ならなお良し。それどころかいっそなどと、思ったところで妄想を振り払う。いくら何でも現実としてあり得ないし、特に三番目など実際にやられたらむしろ驚いてしまうだろう。嬉しいが。
「この前はありがとうございました。おかげであの範囲はずいぶんと分かるようになりました」
 確かに起きたことは、おかっぱ頭を深々と下げる、それだけである。もちろんそれだけでも、十分嬉しいのだが。
「うん。成果が上がれば何よりだよ」
「それで、なのですが」
 上目遣いに見上げてくる。身長差があるので当たり前のようだが、実は珍しいのだ。普段なら首を上げて顔がまっすぐ向くようにしている。涼馬の心臓は、もうすっかり過重労働を強いられていた。
「うん」
「あの、もし、もしお時間があるようでしたら、また教えていただけないでしょうか」
 味気ないはずの勉強についての会話、それにもかかわらず優の頬がうっすらと朱に染まっていた。
「う、うん」
 うまく返事ができない。うめきに近い声とともに、小さくうなずくのがやっとだった。その意味を誤解したのか、かくりと優の頭が下がる。
「別に、無理にじゃなくていいんです。先輩に無理をさせるくらいなら、私なんてどうでもいいですから」
 聞こえるか聞こえないかの声で、ようやくそうつぶやく。
「そんな事ない! 君に頼られるの、僕は嬉しいよ! 時間だっていくらでもある。だから」
 感情が堰を切ったように溢れ出す。気がつくと、涼馬は両手でしっかりと優の肩をつかんでいた。細い肩に、服ごしにかすかな温もりが感じられた。合気道二段の実力者が、ただ呆然とその手を見ている。
「あ、ごめん。急に」
 慌てて手を離し、ついでにもう衝動で何かしないように後ろに回す。優は小さく首を振った。
「いえ、いいんです。先輩なら、その」
 優の手がつかまれた部分をさする。男の腕力で思い切りつかまれて痛いはずだが、その手つき、目つきはいとおしげでさえあった。ある種妖艶ささえ感じさせる。
「藤野さん…」
「先輩…」
 呼びかけに応えて、優がゆっくりと顔を上げる。二人とももう、自分が何をしているのかさえ明確には分かっていなかった。


 がん、という音がしたのはそんな時である。見れば男子生徒が、教室の机につまずいていた。
 異物感のある沈黙が流れた。
 そして二人ともここがどこだかようやく思い出した。教室だ。いつ誰が入ってくるかも分からない。慌てて、飛びのくように離れる。
「あ、あの、それじゃ、わたしはこれで」
 顔を真っ赤にしたまま、優は素晴らしい勢いで走り去っていった。手の中から逃れた小鳥を、涼馬は呆然と見送るしかない。そして、無粋な音を立てた男子生徒の方を見やった。いつの間にか、教室にはこの二人しかいなくなっている。
 眼鏡をかけた少年、岸宣だった。物凄く済まなさそうな顔をしている。ただ彼が眼鏡に手をやると、その表情は掻き消えていた。
「急いでいるので用件から。ファンクラブの連中、動き出しましたよ。色々言いたいことはあるでしょうし、私から言いたいこともあるのですが、しかしね」
「今からか」
 涼馬の顔つきも変わる。それに満足したように、岸宣はうなずいた。
「はい。荷物を持って下さい。歩きながら話しましょう」
 言ってからまず自分が歩き出す。涼馬も自分の中に残っている何かを振り払ってそれに続いた。
「さすがに彼等にとっても一大事だったようです。今まで何のアプローチもしなかった連中が五限後の休み時間には行動に移っていました。深澄音先輩本人から手塚さんの名前と学校を聞き出して、今殺気立って体育館に集まっています」
「あの人もどうしてそう気軽に教えるかな」
「何しろ春ですからねぇ、いや、今は秋ですけど。ともかく責められませんよ。それより危ないのは、体育館に集まった連中が木刀を持ち出していることです。このままじゃ下手をすれば死人が出ます」
「木刀だって? この学校でそんなものがあるのは剣道場くらいだろう。剣道部員は何をしていた」
「その剣道部員が荷担しているんですよ。水田と一年が二人ばかり。それに空手部の渡辺、志木、柔道部の笛吹、それから応援団の杉村が中国拳法を習っているって話でしたね。後は素人ですが、でも人数が五十を超えています」
「冗談じゃないぞ。学校始まって以来の不祥事になる。まさかこんなことになるなんて」
 彼等に昭博の存在を教えたのは涼馬自身だ。判断が甘かったのかもしれない、そう思える。その内心を見透かして、岸宣はかぶりを振った。
「涼馬の判断は正しいですよ。深澄音先輩があの調子では、今日ではなかったとしてもいずれ必ず発覚します。その時監視の目をかけていなかったら、本当にまずいことになっていました。悪い膿は今のうちに出してしまうしかありません」
「だといいが」
 二人が体育館に着いたときには、しかし既にそこに人の姿はなかった。
「駅だな」
「そのようです」
 北条坂を駆け下りる。それでも涼馬も岸宣も、息を切らせはしなかった。
 しかし駅前にも、それらしい集団は見当たらない。岸宣が顔をしかめる。
「くっ。追いつけませんでしたか」
「行き先はわかっている。継高の最寄駅だ。どうせ彼等だって手塚君の正確な所在はつかめていないはず、まだ間に合う。追うぞ」
「あ、ごめんなさい。私今日、ここまでです」
 と、いきなり、岸宣が両手を上げた。涼馬の肩が落ちる。
「何だって? 何故また」
「いや、それは」
「さっきは自分が片をつけたいようなことを言っていたじゃないか。どういう風の吹き回しだ」
「祖父が急病なものでして」
「僕の記憶が正しければ、君のお祖父さんは三人以上いる事になるな。二回葬式に出ているはずだから」
「実は私の母は養女でして、今度は実父の方なんです」
 言い訳大魔人ここにあり、涼馬は溜息をついた。
「デート?」
 とりあえず核心を突いてみる。岸宣の動きが、綺麗に止まった。少し間があってから、口を開く。
「分かります?」
「普段と様子が違うし」
 そしてもう一度、彼は返答までに間を空けた。
「済みません」
 涼馬は首を振った。下手にすっぽかすと後が恐い。そういう彼女だと、涼馬も承知しているのである。
「仕方がないさ、デートなら。彼女は大事にしないとね」
「何だか素晴らしく棘のある言い方ですけど」
「気のせいだよ。まあいい、僕だけで何とかできないとも限らない。一人で行ってくるよ」
 一つ溜息をついて切符を買う。岸宣がポケットから何かを取り出した。
「済みません。代わりと言ってはなんですが、これを持って行って下さい」
 スプレーであるとは分かる。しかしラベルも何もなくて、用途がなんなのかはっきりしない。
「これは?」
「これで熊でも一撃で気絶します」
 笑って親指を立てる。涼馬は肩をすくめた。
「今度この東京で熊と遭遇できるスポットを教えてくれ」
 しかし言いながら、そのスプレーを受け取る。
「調べておきます」
「じゃあ、また明日」
「お気をつけて」
「ああ」
 特に気負いもせずにそう言うと、涼馬は私鉄の改札をくぐった。岸宣はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。待ち合わせの場所はこの駅前、そしてその時間までは、まだ数分ほどあった。

続く


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