午後の恋人たち 新章
8 昭博…
昭博を襲撃するつもりらしい玲奈様ファンクラブの人間たちを追って、涼馬は継谷高校の最寄駅で電車を降りた。商店街に囲まれる、どこにでもあるような私鉄の駅だ。寄り道をしている最中の、継谷の高校生がそこかしこに見える。不案内な町をそのままうろうろする気もないので、涼馬は駅前の交番に足を向けた。外に立っている警官に声をかける。
「済みません、僕と同じ制服を着た高校生が何十人か、ここで降りたと思うのですけれど、ご覧になっていませんか」
「ああ、はい。見ましたよ。商店街をあっちの方へ進んで行きましたけれど、何かありましたか」
気さくで親切な人なのか、笑ってそう教えてくれる。しかし涼馬としては、安心できなかった。警察の介入を受けるなど最悪の事態である。
「あ、いえ、別に。大したことではありません。僕がはぐれただけですから。ありがとうございました、失礼します」
ここで余計な問題を起こすとさらに洒落にならないので、丁寧に礼を言ってその場を後にする。警官はその後姿を不思議そうに見送った。
付近ではあまり見かけない制服姿が数十人、さすがに目立つ。目撃情報をたどって行けば、追跡はそれほど難しくなかった。しばらくしてやや寂れた感じのする商店街裏の神社で、目指す人々を発見した。しかし問題は、その中に昭博も含まれていたことである。完全に取り囲まれている。
「確かに僕が手塚昭博ですが、何のご用でしょうか」
その声が聞こえてきた。数十人全員に聞こえるようにしているのか、少し声が大きい。ただ落ちついた様子だったので、涼馬はしばらく状況の推移を見守ることにした。彼がうまく立ちまわって、話し合いで解決してくれるのならそれが最良だ。ファンクラブ員は全員が昭博に注目しているので、涼馬は隠れなくても見つかる心配がなかった。
「今すぐ深澄音先輩から手を引け。そうすれば見逃してやる」
剣道部の水田が木刀に手をかけ、脅迫する。昭博は手を広げた。
「ちょっと待って下さい。見逃すって、一体何の話ですか」
「とぼけるな。お前が深澄音先輩をだましていると分かっているんだ。それだけでも許しがたい所を、大人しく手を引くのなら今回だけは見逃してやろうと言っているんだ。さあどうする」
昭博は少し、呼吸を整えた。
「確かに僕は深澄音さんとおつきあいをしています。しかしだますなんてしていません。彼女自身に聞いてみて下さい、それで分かるでしょう」
「あの人はまだ、だまされている事に気がついていないんだ。そうでなければ継谷に通っているお前みたいな頭の悪い奴に…」
確かに厳然として、入試のレベルは継谷より北条坂の方が高い。しかしそれで人間の価値を測るようなやり方に、昭博は反発を覚えたようだ。
「僕を悪く言うのはこの際構いません。我慢はしますよ。でも、彼女まで非難するような言い方は止めてもらえませんか。頭の悪い人間にだまされたって、それこそ彼女が馬鹿みたいじゃないですか」
的確な反論だ。それで相手が返答に詰まった所に、昭博が追い討ちをかけた。
「あなた方が彼女を大事に思っているとは良く分かります。でも、いやだからこそ、ちょっと待ってもらえませんか。確かに僕はそんな大した人間じゃありません。彼女に釣り合うとも思っていません。でも今、現に彼女と付き合っているのは間違いなく僕なんです。優しい人ですから、僕の身に何かあったら必ず彼女が悲しみます。今ここで僕をどうにかしても、誰も喜びませんよ。彼女は僕が大事にします。もし彼女が僕に愛想を尽かすような時が来れば、その時僕は潔く諦めますから、それで黙っていてはもらえないでしょうか」
情理を尽した説得だ。しかし、結局役には立たなかった。
「やかましい! 俺達の深澄音先輩を奪ったお前は絶対に許せない!」
それはそうである。所詮は嫉妬で動いているに過ぎない。理屈は役に立たない。そろそろ限界かと涼馬が出て行く事を決断した、その時だった。
「いい加減にしろよ、お前等」
その声が誰のものなのか、一瞬、聞いている人間には誰も分からなかった。涼馬も含めて、である。ざらついたような、乾いた声だった。
「玲奈と同じ学校だし、彼女の立場を考えて下手に出ていたが、これまでのようだな。話し合うだけ無意味だ」
昭博だった。それまでそこに立ち、そして今そこに立っている人間を同一人物として認識するのなら、だが。まるで別人だった。声の質だけではない、表情からして全く違う。周囲の人間全てへの嘲笑と、そして敵意がむき出しになっていた。温和で理知的な、玲奈の恋人にふさわしい少年の面影は最早どこにもない。猫の皮をかぶっていた虎が本性をあらわした、そんな印象だった。なおも昭博の言葉は続く。
「たわごとも大概にしろ。俺が誰と付き合おうと、そんなものは俺の勝手だ。玲奈自身や、あるいは彼女の両親から何か言われたのなら多少気にもするが、お前等にとやかく言われる筋合いは全くないね。そもそもお前等、北条坂の生徒じゃないか。声をかけたりする機会なら、この前からいくらでもあったはずだ。気があってもものにできなかった臆病者に、彼女を渡すなんてできないね」
「やはりあの純真無垢な先輩をだまして、絶対に許せない!」
突然の豹変に圧倒されながら、何とか水田が反論する。反応は、寒気のするような嘲笑だった。
「彼女がこの程度の嘘にだまされるたまかよ。お前等みたいな脳味噌の足りないクズじゃあるまいし。大体彼女が純真無垢だって? 笑わせるなよ、腹が痛くなる。何なら教えてやろうか? 俺だけしか知らない、彼女の純粋無垢じゃない部分を!」
凄まじいほどの邪悪さが、あたり全てに吹き付けていた。ファンクラブの人間に共通する幻想を鋭敏な感覚でとらえた上で、それを完全に叩き潰したのだ。
「きっ、貴様あぁああああっ!」
水田のみならず、ファンクラブの全員が顔面に血管を浮かび上がらせる。ひるまず、昭博は宣告した。
「彼女は俺にとって何より大事な人だ。誰にも渡しはしないし、こんな所でくたばって彼女との暮らしを終わらせる気もない」
おいおい、こんなときにこんな所で愛の告白かよ。などと、誰も言えなかった。例え言ったとしても、一笑に付されただろう。それは照れの介在する余地すらない、心底からの言葉だった。それをなお、昭博は搾り出す。
「邪魔する奴は容赦しない。この人数差だから手加減もできないから…」
目をつぶって、開く。その瞬間、何かがはじけた。
「殺すぞ。死ぬ覚悟のある奴だけかかって来い」
「殺気」というものを涼馬もその他の人間もはじめて実感した。昭博の言葉に嘘偽りは全くない。かかってくる人間は本当に殺す気だ。それが直感で分かる、分からざるを得ないほど、その気迫が凄まじい。
「何をっ!」
水田が木刀を振り上げた。いくら相手が殺気を放っているとはいえ、武道の経験者だし武器を持っている利点は大きい。勝算はある。
「そこまでだ!」
涼馬は素早く、対峙する昭博と水田の間に割って入った。叫びによって生じた一瞬の隙を、見事に利用している。二人が気づいたときには、長身の体躯がその間にあった。
「澤守!」
水田が呆然とし、昭博は沈黙を選ぶ。涼馬は静かに、しかし良く通る声で全員に語りかけた。
「たった一人をこんな大人数で取り囲んで木刀を振り上げるなんて、どうかしているぞ。この人の言っている通り、誰のためにもならない」
「うるさい! こいつは深澄音先輩をだまして、そして、そして」
常軌を逸した光がその目にちらついている。それでもなお、涼馬は話し合いによる解決の道を探った。
「事情は僕なりに知っている。元々ファンクラブにこの人のことを告げたのはこの僕だ。もう一度言う、止めるんだ。この人を選んだのは、他の誰でもなく先輩だ。そこから先何かあったとしても、それも先輩の意志だ。それを尊重するべきだと、そうは思わないのか」
「うるさい、そこをどけ! どかないのならお前も」
「どかない。君を傷害事件の犯人にはしたくないよ。今ならまだ間に合う、退くんだ」
「やかましい! 例えどんなことになろうと、俺はそいつを絶対に許さない!」
「それなら彼の前に、僕が相手をする。力づくでも止めてみせるぞ」
涼馬の手がゆっくりと上がる。水田はかぶりを振った。
「馬鹿を言え。お前は確かに剣道でも俺と互角の腕を持っているが、それはお互い竹刀を持っていればの話だ。勝ち目はない」
「そう思うのなら、やってみるといい。素手の相手だ、簡単なんだろう」
涼馬が挑発する。水田の忍耐心ももう、限界だった。木刀が振り上げられようとする。その殺傷力は、真剣とさほど変わりはない。腕や足を直撃すれば骨が折れる。頭部であれば頭蓋骨が陥没する。岸宣が死人がでる、と言ったのは冗談でもなんでもないのだ。
木刀の先端が跳ね上がる、その刹那を、涼馬は見逃さなかった。手がのびてその先端をつかむ。
「なっ!」
当然、剣道の試合や練習ではそんなことは絶対に起こらない。動揺する相手に対し、涼馬は冷静に説明した。
「剣道が全く実用にならないものだとは言わないが、自分の使う武器の特性は把握しておかないとそのままでは使えない。その動きは本来真剣を前提にしたものだから、例えば今のように先端をつかまれると想定していないんだ。ちゃんと刃がついていればあり得ないからね。木刀や竹刀を実戦に使おうと思ったら、相手から距離の遠い上段か何かに構えるべきだよ。少なくとも今みたいな正眼は、絶対にまずい。それに剣道使いは剣を振り上げる癖がある。試合で認められる有効にはそれが必要だからね。動きを読んでつかむのは難しくない」
「は、放せ!」
水田が木刀を振り回そうとするが、先端を押さえられていてはそれもできない。涼馬の声は、なおも冷たかった。
「と言われて放す馬鹿はいないよ。試合なら反則だけれどね。そして、試合でなければこういう技もある」
いきなり木刀をつかむ手を引くと、涼馬は前に出ていた右足を蹴り上げた。引っ張られて態勢を崩した水田の手に革靴のつま先がめり込む。木刀が水田の手を離れ、涼馬の手に収まった。
「君は剣道なら僕と互角の実力を持っているが、素手で僕に勝ち目はない。もう止めるんだ」
自分で言った通り、涼馬は木刀を振り上げる。蒼白になりながら、水田は引き下がった。しかしまだ、ファンクラブ員は何十人といる。
「言っておくが、武器を持った人間とそうでない人間の戦力差は圧倒的だ。怪我をしたくないのなら君達もこれ以上馬鹿な真似は止めるんだ」
「イヤアッ!」
そう言うとなると、今度は武器を持った、剣道部の一年生二人が襲いかかってくる。それも同時だ。しかし涼馬は、それに対してさえ慌てなかった。素早く位置を変える、それだけで同時攻撃が崩れた。もともと連携しての攻撃など普通の剣道では習わない。試合も練習も、必ず一対一である。そこに出来た隙を逃さず、時差をつけてそれぞれの木刀を弾き飛ばした。
「それまでだな」
「こいつだけは!」
叫び声が上がる。涼馬の背後だ。振りかえると空手部員の渡辺が昭博の至近にいる。
「逃げろ! そいつは空手を!」
計三人の攻撃に対処するため涼馬はさりげなくそれなりの距離を移動しており、すでに昭博を完全にかばえる位置からは離れてしまっている。間に合わないと判断して、叫ぶしかなかった。しかし昭博はその通りにしない。回し蹴りを放とうとする相手に正対する。空手を一通りやっている人間なら、訓練を積んでいない人間を骨折させるくらい簡単である。
「それがどうした!」
相手がモーションに入る直前、昭博の足が小さく、しかし素早く動いた。神社の境内の砂が跳ね上げられる。渡辺の目を直撃した。
「ぐっ!」
ひるんだ隙に、砂を蹴って浮いた足が更に跳ね上がる。それは狙いをたがわず、相手の股間にめり込んだ。
「!」
最早表記不可能なうめきが上がる。この痛みは男にしか分からない。しかしそれでもなお、昭博は攻撃の手を緩めなかった。
「おらあっ!」
組み合わせた手が体をくの字に曲げた相手の後頭部を打ち据える。地面に這った渡辺の手を、靴の踵が踏みつけた。骨がきしむ。
「止めてくれ! それ以上やったら、そいつは空手が!」
同じ空手部の志木が叫ぶ。異様な笑みが昭博の唇を彩った。白い歯が光る。
「止めちまえばいいのさ。この程度の子供だましに引っかかるくらいなら、勝負自体に対する才能がない。これから続けたって時間の無駄だ。それにさっき言っただろうが。死ぬ覚悟のある奴だけかかって来いと。空手を止めるくらいなんだ、手の一本くらいどうした!」
力の限り、昭博の靴底が叩き付けられた。悲鳴に骨の砕ける鈍い音が混じる。
「貴様あっ!」
飛びかかった志木も、しかし昭博に倒された。魔法のようにその手に現れた特殊警棒が、その鼻柱を打ち据えたのだ。武道の経験者でも、達人と呼ばれる域に達していない限り凶器による不意打ちなど避けられはしない。さらに昭博は念を入れて、態勢の崩れた志木の膝に蹴りを入れる。膝骸を砕いて歩行を困難にし、確実に戦闘力を奪っているのだ。
彼自身の言葉を援用するなら、彼は「勝負」に対してとてつもない才能がある。戦場に放り込んでもそのまま生き残るのではないか、涼馬にはそんな気がした。
「馬鹿は死ななきゃ治らないか?」
特殊警棒が光を浴びて輝く。凄絶な姿が、どこか美しかった。
「もう止めるんだ、現実問題でも君達に勝ち目はないぞ」
まだ柔道部員と、中国拳法の経験者が残っているし、何より数が圧倒的に違う。しかしそれでもなお、涼馬はそう警告した。実際、流れが二人に傾いている。
「そ、そんな奴を深澄音先輩の恋人にしておいていいのか。それにそいつは俺達の仲間に怪我をさせたじゃないか。何でかばうんだ」
「元はといえば全て君達が悪いだろう! いい加減にしろ! これ以上駄々をこねるようなら僕にも考えがある。水田、それに一年生の二人、この一件、田中先生に報告しようか」
剣道部の顧問の名を持ち出す。これは完全な脅迫だ。
「そんな、そんなことをされたら、俺たちこれから剣道が…」
「止めてしまえっ! 憧れの人を取られたくらいでその男を袋叩きにしようとするために使う武道なら、さっさと止めてしまえ! 社会の毒にしかならない!」
木刀が風を切る。思わず、怒鳴られた全員が後ずさった。武道は、そこで得られた力の濫用を必ず戒める。そうでなければ、単なる凶器にしかならないからだ。涼馬はそれを知っていた。
「他の連中もだ! 暴行事件なんて酒や煙草の比じゃない。一度で退学になったっておかしくないんだぞ。良くて無期停学、留年決定だ。それを覚悟しているのなら、さあかかって来い」
温和で知られる生徒会長の、いつにない激しさを前にファンクラブ員達は完全に気圧されていた。
「悪ふざけは終わりだ。道を空けてもらおう」
もう一度木刀が空を切ると、自然と人の列が割れる。そこへ、涼馬は歩き出した。
「さあ、行こう。僕は君にも、これ以上僕の学校の生徒に暴力を振るって欲しくないんだ」
振り返って昭博に告げる。昭博もうなずいて、特殊警棒を収めた。
「あんた等に義理はひとかけらもないが、しかしこの人には助けられたからな。一応忠告しておこう。警察に通報しようなんて思うなよ。つかまるのはお前等だからな。日本の警察は意外に優秀だ。口裏を合わせたって、すぐにばれるぞ」
例の冷たい視線で全員をひとなでする。この時組織的にも、玲奈様ファンクラブは壊滅した。
それを見て取って、涼馬は最後に助け舟を出すことにした。
「怪我人、医者に見せたほうがいいな。ただ、事件だって分かればそれこそ警察沙汰になるから、知り合いの病院を紹介するよ。北条坂のOBだし、僕の名前を出せばとやかく言わずに治療してくれると思う。そういえば場所も、ここからそんなに遠くないはずだ」
いざというときに医者の知り合いは本当に心強い。財布の中に名刺代わりの宍戸外科医院の診察券が入っていたので、それを手近な一人に投げ渡した。
そして二人は、その場を後にした。
「おかげで助かったよ。ありがとう」
とりあえずその場を離れながら、昭博が礼を言った。さっきの彼の様子がはったりではなく、むしろ初対面の時の様子が偽りであると、涼馬は確認した。多少和らいだにせよ、鋭い様子が消えてはいない。これが地なのだろう。
「いや、君を助けるつもりで来たが、しかし逆になった。危うく僕の学校から死人が出る所だった。結果的に来たことは正解だったけれどね」
「仕方がないさ。あの人数で袋叩きにされたら、俺が死んでいたよ。俺はあんたみたいに手加減してあの場を切り抜けられるほど強くはないからね。手加減せずにやってびびらせてってやり方をするしかない。それで死人が出るのなら、そりゃしょうがないよ」
ぞっとするような笑みがこぼれる。涼馬は思わず身構えた。この相手は、他人の生命を虫けら同然に考えているとしか思えない。特殊警棒を隠し持っていることと言い、明らかに危険な人物だ。それを見て、昭博は苦笑した。
「別に、今身構えなくたっていいじゃないか。あんたがどう思っていようと、俺は助けてくれた相手に喧嘩を売るほど恩知らずじゃないよ。そもそもそうする理由がないだろう」
今度は温かみのある笑みだった。その落差が、理解をますます難しくさせる。
「君は、一体」
「自己紹介はしたはずだよ。手塚昭博、継谷高校の二年生。で、まあ、こう言うのは気恥ずかしいんだが、玲奈、いや深澄音先輩と言った方がいいかな、とつきあってる。そんな所かな。あ、敬語外してるけど、別にいいよね。タメだし」
「それは別に気にしないが、僕が言いたいのは」
「あ、これのこと?」
流れるような手つきで特殊警棒が滑り出て、そしてまた袖に消える。昭博はこの扱いに、明らかに習熟している。
「身の回りにちょっと、話の通じない人が多くてね。自衛のためだよ。別に自分からこれを使って誰かに襲いかかるとか、そういうことはしていないから」
「深澄音先輩とつきあうようになってから?」
「あー、いや、前からだよ」
隠しようもない不審の目がむけられる。昭博は肩をすくめて、話題を変えた。
「それより、今日のことは玲奈には黙っていてもらえないだろうか」
「過去は知られたくない、か?」
涼馬は迷っていた。この目の前の少年と玲奈を一緒にしておいて良いものだろうかと。本来それは玲奈自身が決断すべき問題であるとは重々承知している。しかし、平然と人を殺せると思える人間が、その正体を隠して接近しているとしたら、あまりに危険過ぎる。涼馬も剣道部員を平然と退けるだけの技量を有しているから、先ほどの昭博が本気だったと良く分かるのだ。
「いや。彼女は知っているよ。俺がこういうものを持ち歩くような人間だって。何しろ初対面の時これを振りまわしていたからね。ただ、今日みたいなことがあったって知ったら、彼女が悲しむ。全面的に今の連中が悪いんだけど、でも彼女なら自分のせいだって思うだろう。今この大事な時期に、余計な心配をかけたくないんだよ」
淡々と昭博が語る。その横顔に、涼馬は照れ屋としての昭博の側面を見出した。玲奈と一緒にいた時の、あの表情だ。この少年が優しさと冷酷さ、その極端な両側面を持っているのだと、涼馬はどうにか理解した。どちらが偽りでもどちらが真実でもない、それは昼と夜のように分かちがたく、一つの世界を構成している。
「先輩が好きなんだね」
分かっているがとりあえず言ってみる、昭博は頭を掻いた。
「おいおい」
苦笑して答えない。それが何よりの、質問の解答だった。
「分かったよ。先輩にも、誰にも言わない。誰のためにもならないだろうからね。僕だって知り合いから退学者を大量に出すなんて避けたい」
「あ、それと。できれば彼女の立場が悪くならないように、何とかならないかな」
「それはもちろん努力する。ただその前に自分の身の心配をしたらいいのに。また襲われるかもしれないんだぞ」
「何とかなるさ。今回は訳が分からなくて囲まれるなんていうへまをやらかしたけれど、二度とこんなふうにはならないよ。逃げ足は速いんだ」
「だといいけれど。そうだ、念のためにこれを渡しておこう。今日は使う機会がなかったから」
岸宣からもらったスプレー缶を取り出す。昭博が質問したのは、受け取ってからだった。
「これは?」
「熊でも一撃で気絶するそうだ。熊と出会える一番手近な場所がどこか、僕は知らないけれど」
「そりゃ凄い。ありがたくもらっておくよ」
あからさまに危険なものを、さりげなくポケットにしまいこむ。そんな仕草がむしろ似合うと思えた。
「それにしても、本当に彼女思いだね。自分の身の安全よりあの人の立場を心配するなんて」
「止してくれ。俺は自分の身を守る自信があるだけだ」
「ふうん。彼女は俺にとって何より大事な人だ。誰にも渡しはしないし、こんな所でくたばって彼女との暮らしを終わらせる気もない。邪魔する奴は容赦しない。なんて、言っていたよね」
一字一句、正確だったが、昭博自身そうとは気づかなかった。しかし当然ながら、趣旨に間違いないとは気づかざるをえない。
「何でそんな覚えているんだよ」
虚勢の仮面がはがれて動揺が広がる。涼馬は笑った。
「正直な所感心したから、かな。これだけ深く人を好きになれること、そしてそれをはっきり言える勇気、それをうらやましいと思ったから」
そして自分にそこまでの勇気があったなら。
昭博は涼馬の台詞が冗談ではないと気がついて、首を振った。
「別に、俺は他に何も、大事なものを持ち合わせてはいないから」
例えば家族と不和で、肉親を大事に思ったりしないのだろうか。涼馬はそんなことを考えた。昭博はすこし、急いで首を振る。
「あ、いや。何でもない。初対面に近い人に言う話じゃない。忘れてくれ」
「ああ」
それでもう一つ、涼馬も自分の疑問を置いておくことにした。さっき昭博はちょっときわどいことを言っていたが、それがはったりなのか、真実なのか。非常に気になっているのだが、しかしやはり初対面に近い人にする質問ではないだろう。
「機会があれば話すこともあるだろう。別に隠している訳じゃないからね」
「うん」
そしてしばらく無言。お互い共通の話題がどこにあるのか分からないので、やはり話が途切れる。やがて昭博が少し首を傾げた。
「そんなこと言って、あんたにだって気になる子の一人くらいいる」
「な!」
いきなり指摘されて、涼馬は跳ね上がった。それこそ初対面に近い相手だ。それだけで分かるとしたら、異常な洞察力だ。あるいは自分がそこまでわかりやすい態度を取っているのだろうかと思うと不安になった。
「と、玲奈が言っていたけれどね」
ひとまず昭博が落ちをつける。涼馬は呼吸を整えかけて、止めた。玲奈に、いや、誰にも話したことなどない。しかしそれでも少なくとも彼女には分かる事らしい。また鼓動が早くなる。それこそそのあからさまな動揺の様子で、昭博は自分の言葉の意味を悟った。
「どうやら本当のようだ」
少し無反応を置く。しかしここでしらばっくれてもみっともないので、涼馬は黙ってうなずいた。
「人を好きになる気持ちなんて、その人間の性格だとか、あるいは状況だとかに左右されることであって、別に深いからって誉められるものじゃないと思うけどな。うらやましいと思うことがあるとすれば、それはそうはっきり言える勇気、かな?」
淡々と昭博が尋ねる。むしろ距離をとるようなその姿勢が、涼馬を素直にさせた。踏み込んでこられては引いてしまう。
「そうだね」
「別に、俺にだって勇気はない。なかった、と言った方がいいかな。少なくともつきあい始めるまでは。勇気があったのは彼女の方さ。それも周りの後押しがあってどうにか持てた勇気だったそうだ。人間、そんなに強い生き物じゃないよ」
昭博はむしろ、ぼんやりと語った。涼馬はそれをただ、聞いている。
「弱さを認めること、そうして人に頼ることも必要らしい。彼女はそう教えてくれたよ」
「弱さを認めるのも一つの勇気だけれど」
あるいはそれこそが、最高の勇気なのかもしれない。だからか、昭博は笑った。
「まあね。強くなければ生きていけないか」
そして続ける。
「じゃあちょっと勇気の出る話を一つ。気になっているのは昨日の小柄な女の子だ、違うかい?」
涼馬が素直になるまで、それでも少し時間が必要だった。
「あっているよ」
「そう。なら玲奈の考えも結構当たってるかもな。そこまで言い当てたんだから。で、その玲奈が言うには、あの子もあんたのことが気になっているんじゃないかと」
「本当、なのか?」
すがるような目の涼馬を、昭博は突き放した。
「さあ。それはもう、確かめてみなきゃ分からないからね。玲奈を信用するかどうか、それはあんたが決めることさ」
そして肩をすくめた。
「八方ふさがりだね。どこへどう進むのにも勇気がいる。諦めようとしたってそうだ。難儀な話だな」
涼馬はもう押し黙るしかない。昭博は再び肩をすくめた。
「ま、俺はあんまり関係ないから力になるなんて調子のいいことは言えないが、押していくつもりなら玲奈を頼ってみたらどうかな。どういう理由か良く分からないが、協力したいって言っていたぞ」
「幸せだからそれを分けてあげたい」などという恥ずかしい理由を、昭博は口が裂けても言えなかった。
「先輩がそんなことを?」
「ああ」
涼馬は少し考え込んだ。やがて顔を上げて昭博を見据える。
「まず先輩には僕が心配してくれたことについて、感謝していたと伝えてくれないだろうか。学校で直接会う機会もあるけれど、面と向かって言うにはちょっとね」
「だろうね。分かった、確かに伝える」
「それから、やはりこれは僕の問題だから、何とか僕の手で方をつけるように努力すると」
「ああ。ま、それがいいんじゃないのか。玲奈の言う通りだとしたら、あの子も直接言われた方が喜ぶと思う」
「それにこれは女性に対してはオフレコにしてもらいたいんだけれど」
涼馬が笑みを浮かべる。少なくともこの日、彼のそういう表情を昭博が見るのは初めてだった。
「なに?」
「僕だって男だ。男の意地がある」
「なるほど」
昭博は苦笑したが、しかし反論はしなかった。
しばらく会話が途切れ、そして昭博の方が目的地に着いた。昭博の自転車を置いてある場所である。正規の自転車置場でないので法的には放置自転車になるが、しかしそれで撤去されない穴場というものを商店街の近辺にいくつか知っているのだ。鍵も見るからに頑丈そうな、盗難の心配の少ないものを使っている。
「さーて、俺はもう帰るよ。後で改めて今日の礼はするから」
「そんなことは気にしなくていいけれど」
「嫌な物でない限り素直に受け取るのも礼儀ってものさ。それじゃ」
昭博は自転車をこいで去って行った。何となくその後姿をしばらく見送ってから、涼馬も家路についた。
続く