王都シリーズV
王都家出人調書


U 捨て子


 古い建物だ。王都施療院を初めて見たストリアスの印象はそんなものである。恐らく、先入観を持たずにそこを見た多くの人間は同様に感じるだろう。古さ以外に目立った特徴がないのだ。確かに年代の跡が見て取れるが、清掃が行き届いているらしく汚れているようには見えない。一方で、古色蒼然…と形容すると違和感がある。質素を旨とする院の思想がそのまま現れているのか、あまり荘厳な建造物でもなかった。
「あっ、ティア、お帰り。どこへ行っていたの」
 その門前を掃き清めていた神官が明るい声をかける。彼女と同年輩の少女だ。
 施療院には女性の神官が多い。元来この運動を興し、大陸各地に施療院を築いたのは偉大な聖女であり、また数百年に渡る時間の経過によって衰退していたものを近年復興させたのも、女性であるためである。歴代の院長も女性が大半を占める。宗教界においては男性の勢力が強い一般の神殿に対抗するものとなり、更にはここまで知識階級に属する女性が集結している組織も他にないため、社会全体の中でも女性の意見を代表するものの一つであるとみなされていた。
 そんな中の少女二人であるが、どうも対照的だなとストリアスには思えた。気さくな声のかけ方の相手に対し、ティアは相変わらずだ。ちらりとストリアスを見やって、彼を連れに行っていたのだと示す。そもそも相手がティアの外出理由を知らなかったことから判断して、彼女は例によって黙ったままここを出て来たのだろう。
「これは、ようこそいらっしゃいました」
「お邪魔致します」
 とりあえず必要な儀礼だけを満たして、ストリアスは中に入ることにした。ただ、その際横に並ぶティアに対して、箒を持った少女が耳打ちする。もちろん彼に聞こえないようにする動作なのだが、別に声自体が聞こえてなくともその後の展開から内容を察することはできた。
 いたずらっぽい顔をしてささやいた相手に対し、ティアが素の視線を返す。それで相手は後退した。
「冗談よ、冗談」
 大方「恋人?」とでも言ったのだろう。しかしティアは歯牙にもかけなかったらしい。まあその方が楽なのだけれど、とストリアスは考えた。もし万が一、彼女が動揺でも示そうものなら疲れてしまう。
 そしてそもそもそこに人などいなかったかのように、ティアは自分の調子でことを進めていた。少し立ち止まり、目を細くする。普通の人間であればそれだけしか分からなかったであろうが、魔術師として訓練を積んでいるストリアスには彼女が何をしているのか分かった。彼女の「気」が拡散している。神官として養った第六の感覚によって、周囲の状況を探っているのだ。
 若いのに相当な術の使い手だな、とストリアスは感じた。神官の中には外傷をたちどころに癒すなど、法術と呼ばれる特殊な術を操る事ができる者がいる。その際必要となるのが「気」の力なのだ。気が強ければ強いほど、術の威力も強くなる。気と神官の信仰心とが融合して神に働きかけ、奇跡が起きる…とするのが神殿の一般的な見解である。魔術師の間ではこれと異なる解釈が有力なのだが、ストリアスはあまりそのような研究分野に興味がなかった。
 ただ、魔術を使う上で最も基礎的な素養も、気を操る才能なのである。大雑把には、魔力すなわち気力であると言って良い。その力を研ぎ澄まされた精神によって変換し、超常の力を発動するのだ。もちろん魔術師として、ストリアスは研究の傍ら日々気を操る訓練を積んでいた。
 つまり法術と魔術はその源を同じくしている。そのためある程度なら、元魔術師である彼にもティアの力のほどが分かるのだ。気の力で周囲を捜索する、これは直接見ることのできない範囲まで知覚できるので便利なようだが、実際の所そうでないことがほとんどだ。大概の人間は栄養さえきちんと与えていれば、教えなくとも自然に視覚、嗅覚、聴覚、触覚、そして味覚の五感を操ることを覚える。
 しかし気による第六感は、先天的な才能のある限られた人間が、さらに訓練を積んでようやく身につけるものなのだ。本来使えるようになっていないものを使おうとするのだから当然無理がある。その知覚は基本的に漠然としたものであり、更にその漠然とした印象を得るのにさえかなりの集中力を必要とする。はっきり言えば目と耳、その補助として足を使って辺りを調べた方が余程早く、正確で、楽な場合がほとんどである。
 それでも彼女がそうやって気の力を使っているのは、そもそもその力が強いため得られる情報が比較的正確であり、また日頃から力の使用に慣れることによって更にそれを高めようとしているのだろう。
 才能があり、更にそれを生かす努力も欠かしていない。ストリアスは素直に感心していた。それにひきかえ自分は…とさえ思わないのが今の彼だった。
 程なくティアが表情を通常のものに戻し、目でついてくるよう促す。大人しく、ストリアスはその後に続いた。
 結局建物を素通りして外へ出る。庭が薬草園になっていた。別段看板があるわけでもないしティアが自分から説明するはずもなかったが、魔術研鑚所に似たような庭があるのでストリアスにも若干ならいわゆる雑草と薬草の区別ができる。薬にもなるが毒にもなる、そんな植物も見うけられた。どちらかと言えばその種のもの、あるいは人体に使えば毒にしかならないものの方が、魔術師にとっては馴染み深い。
「お帰りなさい、ティア」
 植物に気を取られていたおかげで、別の人物が近づいて来ると気づくのが遅れてしまった。ここでは半ば当然のことながら、それもやはり神官である。白い衣をまとった若い女性、小柄で一瞬ティアよりも年少ではないかとさえ思えたが、しかしティアが相手に対して深々と頭を下げたのでその印象を訂正せざるを得なかった。恐らく彼女より身分が高いのだろう。確かに良く観察してみれば、顔立ちは若々しく美しいものの、少女とは思えない落ちつきが感じられる。
「そちらが『茜商会』にご紹介いただいた方?」
 ティアがこくりとうなずいたのを確認してから、もう一人の神官はストリアスに向き直った。そして優雅に一礼する。
「わざわざ御足労いただいて恐縮致しております」
「いいえ、とんでもない」
 どうもとっさの儀礼的な対応は苦手だ。そんな意味のないことを考えている内に、相手は大きな空色の瞳で彼を見据えていた。
「失礼ですが…ストリアス=ハーミス卿でいらっしゃいますか」
 今日二度目の、絶句。先刻とほぼ同じ理由からであったが、しかし慣れるものではなかった。むしろ立て続けな分衝撃が大きい。今まで自分にさえ無関心だったので気づきもしなかったのだが、自分は神殿に乱入してそこを破壊した犯罪者なのだ。神官の中では特に悪名高いに違いない。
「…どうやら皆様、私のことを御存知のようですね。お詫びのしようもありませんが…」
「あ、いいえ。誤解を与えるようなことをして、こちらこそお詫びしなければなりません。この施療院の中でストリアス卿のお名前を存じ上げているのはこのティアと、ティアにあの日アナクレア神殿にいるよう勧めたわたくしだけです。事件そのものをうわさで存じ上げているものもおりましょうが、お名前が出ないよう手配されていると聞き及んでおります。ですから御安心下さい」
 それでも少なくとも、彼女自身は事件を良く知っているということだ。しかしそこに彼を責めるような様子は全くなかった。少しだけ、喉のつかえが取れる。
「ではどうして、私がストリアスだと…」
「魔術師の『気』は特徴的ですから、隠そうとしていらっしゃらなければすぐに分かります。後は茜商会の関連でかつ魔力を有している方は誰かと考えれば、答えは簡単です」
 神官はこともなげにくすりと笑ったが、しかしストリアスとしてはむしろ驚きを隠せなかった。彼自身が気づかない内にその気を読んでいる、彼より若く見えるが恐るべきと言えるほどの使い手だ。
「あなたは、もしや…」
 若くして強力な法術を操る施療院の女性、ストリアスはその名に心当たりがあった。いや、この王都に住む人間でそれを知らぬ方がおかしい。
「院長です」
 恐らく奇跡的に、ティアが横から口添えした。その声にはわずかに非礼をとがめるような響きがある。実際、ストリアスは自分がとがめられるだけのことをしたのだと強く感じざるを得なかった。
「これは…! た、大変失礼を致しました」
 彼にしてはこれ以上ないほど慌てて膝をつく。強大な法術の力を用いて大陸に平和をもたらした現代の英雄。衰退していた大陸各地の施療院に再び活力を与え、多くの人々を救い、これからもそうするであろう偉大な神官。民衆から集められる尊崇は他のどの聖職者をもしのぐ。それが王都施療院の院長だ。貴族としても「妃殿下」の敬称を奉られる。その人物が自分と年齢のほとんど変わらない若い女性だとストリアスの知識にはあったのだが、しかしそれが実感と連結されるまでにしばらくの時間が必要だった。
 恐らくティアが最も尊敬しているであろう相手と何気なく話していたのだ。彼女が気を悪くするのも無理はない。しかし当の院長は、ひたすらかしこまるストリアスに優しく語り掛ける。
「お立ち下さい。その敬意はありがたく存じますが、しかしここ施療院の中で堅苦しい儀礼はご無用に願います。皆が皆わたくしに会うたびそのようにしなければならないとすれば、患者の方々に休まる時間が少なくなりましょう」
「はい」
 その声には理屈以上の説得力がある。ストリアスは言われた通りに立ち上がった。
「そう言えばストリアス卿、ご自身のお怪我はもうよろしいのですか」
「あ、はい。お陰様でもうすっかり。治療して下さった方の腕が良かったそうです」
 至近距離から射掛けられた矢が肩に突き刺さり、更にそれによってよろけたため高所から転落、全身に打撲を負った。それが神殿に乱入した代償として彼が被った負傷である。神官の力がなければ今でもまだ腕を肩から吊っていただろう。ただその治療は彼が意識を失っていたときに行われたため、誰がそうしてくれたのかは分からない。
「では、その子を誉めてあげて下さい」
 院長は微笑んでティアを見やった。その場にいたと言っているのだから、彼女がそうしてくれた可能性は高い。言われる前に気づくべきだったと、ストリアスは反省した。
「そうでしたか。その節は大変お世話になりました。御迷惑をおかけしたというのに…」
「…タンジェスさんの、おかげです」
 小さくかぶりを振って、ティアはそれだけ言う。ストリアスとしては首を傾げざるを得なかった。知らない名だ。
「何もお聞きになっていないようですね。タンジェス=ラントさん、あなたを倒した士官学校の学生さんです」
 院長が説明する。無論そういう人物がいることは分かっていたが、しかしその姿を見た直後に彼の放った矢を受けて気を失ったため、とっさに顔を思い出すこともできなかった。
「その方が手当てを?」
「そうではないとは思うのですが、何しろこの子はこの調子ですから、わたくしにも詳しいことは分かりかねます。ただ、少ない口数をわざわざ嘘に費やすような子では絶対にありませんから、いつかお会いする機会があればお礼はおっしゃった方がよろしいかと存じます」
「はい」
 良く分からないが、とりあえずうなずいておくしかない。それに満足したのか、ティアもこくりとうなずいた。
「イクス…」
 そして不意によそを向く。その視線の先、草の陰になるようにして小さな男の子が立っていた。清潔そうな白い服に身を包んでいる。しかしそれに、ストリアスはまず漠然とした不安を覚えた。それに思考が一瞬遅れてついてくる。着せ替えた直後でもない限り、この年頃の子供が屋外にいればどこかしら汚しているはずだ。しかし今目の前に立っている幼子は、きれい過ぎるのだ。
 その感覚を嫌な予感に変えて顔を観察する。やはり、とストリアスには思えた。少年らしい以前に、人間らしい表情が全く浮かんでいない。ティアは誰にも心を開こうとしないと形容したが、心を病んでいると言ったほうが正確かもしれない。

「…そんな目で、見ないで下さい」
 自分がこの時どんな「目」をしていたのか、この時のストリアスには分からない。しかしその声に明らかにとがめる調子を含ませたティアに対して、謝ろうとは素直に思った。
「済みません」
「私ではなく」
 ティアが小さく首を振る。確かに正論であるので、ストリアスはイクスと呼ばれた子供の前に屈み込んだ。
「はじめまして。僕はストリアス。さっきは変な目で見てごめん」
 挨拶をしてみるが、全く反応しない。正面に立っている彼が、見えていないようにも思えた。しかしやがて、少なくとも存在を感知しているとは分かる。イクスはストリアスの前を離れて、ティアの隣へと歩いて行った。やはり第一印象が良くないらしい。
「事情は場所を変えてお話し致しましょう。ティア、イクスをお願いね」
 院長がそう言って長衣を翻す。その動作に優雅さは失われていなかったが、しかしどこか反論を許さない意志が感じられた。残る二人を見習うように、ストリアスは無言のまま彼女について行く。立ち去る彼等を見ながら、ティアはイクスの肩にそっと手を置いていた。
 薬草園から院長が場所を移したのは、応接室らしい部屋だった。清潔が保たれ花が生けられている。調度はそれほど豪華でもないが、ストリアスとしては居心地が良く感じられた。彼に椅子を勧めてから、院長もその向かいに掛ける。
「あの子にとって辛いお話もありますので、こちらに御足労いただきました」
「あ、いえ、院長ともあろう方にこうお手間をおかけして、恐縮です」
 これは社交辞令ではなく、ストリアスの本音だった。元々あまり人付き合いに慣れていない上、こうまで身分の高い相手と一対一で話すのは初めてだ。魔術研鑚所の研究者となった時、そして先日の件で裁きを受けた際に国王と面会した事はあるが、その二回ともほぼ形式的なものであり、また魔術研鑽所の所長が立ち会ってもいた。
「いいえ。神に仕える者として…それ以前に一人の人間として、ティアと同様わたくしもあの子を助けたいと考えております。どんな身分であれここに身を置くものとして、その原点を忘れてはならないのです。そのようなことは他の者に任せ、長たる者として他にすべきことはいくらでもある、とお叱りになる方もいらっしゃいます。しかしこうして病める方と同じ高さの目線を持ち続けなければ、この施療院がある意味も半ばは失われましょう。もちろん陛下がなさるような大所高所からの政策も決して間違いではありませんが、しかしそれでは助けられない人もいるのです」
 諭すように語りかける。忙しい時間を割いて言うのは一人でも多くの人間に自分たちの理念を理解して欲しいからだと、ストリアスはそう感じていた。噂に違わぬ偉大さだな、とも思う。
 真剣にうなずいたストリアスに対して、しかし院長はくすりと笑いかけた。
「…と、大きなことを申しましたけれど、理由の大半はわたくしの性分です。目の前に困っている人がいると、昔同様どうしても自分の手と口が出てしまいます。人間自分の成り立ちから、そう簡単に自由ではいられないようです」
 ストリアスが一瞬以上脱力した様子を隠そうともしなかったのを、院長はくすくすと笑っていた。この人は年齢を実際より多く偽っているのではないかと、ストリアスは一瞬そう疑うほどに、施療院の長は若さを通り越して幼く見えた。
「さて、あまり長い間脇にそれているとティアに怒られてしまいますね。本題に入りましょう。どうせあの子のことですから、本当に必要最低限にしかお話ししていないのでしょう?」
「あ、ええ。あの坊やの名もここへ来て初めて知りました。まだ探さなければならない母親の名前すらうかがっておりません」
「やっぱり…。それではことの始めからお話し致しますね。この際その方が早いでしょう」
 苦笑した表情を引き締めて、院長は語り始めた。
 
 レン=クレスは王都から少し離れた町で生まれ育ったが、駆け落ちをして現在の住まいに移ってきた。しかし長男イクスが誕生した直後に夫が亡くなり、以後織工として細々と母子二人の生計を立てていた。イクスが病気にかかった際などに何度かこの施療院を頼っており、ティア以下数名の神官と顔見知りとなっている。
 そして一ヶ月ほど前の夕刻、彼女は子供の手を引いてここにやって来た。仕事の都合でどうしても二日ほど家を空けなければならず、その間イクスを預かって欲しいという事であった。着替えなど身の回りのものは一通り持たせてあり、また、レンはわずかばかりとはいえ寄付を差し出していた。寄付の方は丁重に断った上で、神官達はイクスを預かることにした。捨て子の面倒を見る事もしばしばであるため、それ程深刻にも考えなかったのだ。そして…レンが再び姿をあらわすことはなかった。
 約束の二日がたった時点でティアが二人の住まいを訪ねたがそこはもぬけの殻、ただ一度は拒絶された寄付と思しき金だけが残されていた。以後今に至るまで、近所でも彼女の姿を見た者はいない。始めの内は母親の帰りを幼いなりに真剣に待ち続けていたイクスであったが、やがて口数が少なくなり、とうとう他人からの働きかけに答えなくなってしまった。辛うじてティアや院長だけには従う状態で、他の神官にもなつかない。
 イクスの世話はもちろん、様々な仕事がある中で時間を割いてティアがレンを探してはみたものの、これまではかばかしい成果は得られなかった。ただ、近所の人が噂をしている所によれば最近新しい男ができたとのことである。一応官憲にも届けは出したが、状況から誘拐などではなく自発的な失踪と見られ、本格的な捜査はされなかった。

 さっきまでティアの相手をしていた反動ではないだろうが、聞いていて実に楽だった。途中で何か聞き返したりする必要がなく、うなずいているだけで話が進む。多分話し好きな人なのだろう。おかげでひと区切りつくと、根本的な問題から先へ進むことができた。
「それでしたらあるいは、探さない方が子供のためにもなるのではありませんか。別に探すのが嫌でこう申し上げるのではないのですが。その、こう言ってはなんですが…」
「イクスは捨てられた、とおっしゃりたいのでしょう」
 悲しげな目をしながらも、しかし院長は言い切った。その静かな迫力を前に、ストリアスはうなずくしかない。
「それはティアもわたくしも承知しているつもりです。それに子供はわたくし達大人が想像するよりも余程頭が良いですから、恐らくイクスも気づいています。信じて待ち続けているのなら、ああして心を閉ざしはしないでしょう。もし見つけ出しても帰るのを拒むかもしれない、強引に連れ戻したとしても、また姿を消すかもしれない。それを覚悟の上でも、探さなければならないのです」
「それは…」
「例えどんな人間であっても、子供にとってはたった一人の親なのです。自分を捨てたからという理由で、つまり理屈で割り切って本当に親への情念を断ち切れてしまうとしたら…それはもう人間の心として破滅に近い状態にあるでしょう。理性では生きていても感情で死んでいます」
 今の自分よりなお悪い。そう感じたストリアスは、眉をひそめざるを得なかった。そうしている間にも、院長は話し続けている。
「しかし恐らくそうはならないでしょう。失われたものの大きさに耐え切れずに深い絶望に陥るか、あるいは転換して激しい憎悪にとらわれるか…もちろんわたくし達としては、あんな幼い子にそのような状態になって欲しくありません。特にイクスは敏感なようですし、あの年頃では攻撃性を他人へ向けることもできませんから、憎悪も自分自身へ向かう可能性が高いのです」
「自殺…すると? あんな小さな子供が…」
「ひと思いには、しないでしょうね。確かに小さい子供です。どうすれば人間が命を落とすのか、それは知らないでしょう。その代わり、最悪の場合では衰弱してその力がなくなるまで、自分を傷つけることも考えられます。例えば今の所は食べ物を口に入れてはくれますけれど、それも受け付けなくなるかも知れません」
 最早ストリアスには返す言葉もない。それを見て、院長は締めくくった。
「ですから少しでもレンさんが戻って来る望みがある限り、わたくし達としては諦められないのです。もし見つかったのならできるだけ説得を致しますし、母子二人それからも暮らして行けるよう施療院として一致してお助けして行くつもりです。レンさんが説得に応じて下さらないのなら致し方ありません、イクスはわたくし達で面倒を見ますが、しかしそれは最後の手段だと考えております」
「良く分かりました。私などの及ばない深いお考えがあってのことと、始めからお察しするべきでしたね。生意気なことを言って、申し訳ありませんでした」
「いいえ。特に今回のような敏感な問題に対しては、ただ闇雲にしていただくよりは、納得をした上での方が良いと存じます。ですからこうしてお話できて良かったと思いますよ」
「そうおっしゃっていただけるとありがたいです」
 一つうなずいて、院長は話を変えようとしたようだった。
「ストリアス卿…」
 その呼称の居心地の悪さに、呼ばれた当人が思わず身じろぎする。「卿」とは騎士身分の者に対する敬称だ。彼の名を言い当てた時にもそう呼んでいたが、その時も大きな違和感があったのだ。ただ、他に問題があってそのままにしておいたに過ぎない。
 院長がその動作に対して不思議そうな顔をするので、ストリアスは釈明することにした。
「私はただの平民です。ですから『卿』の称号は…」
「あら、魔術研鑚所で研究に携わる方にはその身分が与えられると、そううかがっておりますが…」
 士官学校を卒業して武官となる者および、王立高等学院で法学などを修めて上級官吏となる者は騎士身分を与えられ、叙勲される。これは基本的に一代限りのものであるが、それでも本人の存命中は他の世襲騎士と同様に扱われるのだ。
 士官学校、高等学院以上の難関王立施設である魔術研鑚所でもそれは同様である。もっともここの場合、学校ではないため卒業の制度がそもそもなく、在職がそのまま叙勲の要件となる。
「は…ええ、まあ。入所してからある程度研究の成果がまとまった時点で叙勲となる慣例なのですが、私はそこまで至っておりませんでしたし…」
 それにその前に不祥事を起こしてしまった。自分一人に関してストリアスは最早気に掛けていないが、これが悪しき前例となって以後これから研鑚所に入る者への叙勲も控えられる可能性は高い。そう考えるとやはり気が重かった。
「そうでした…か。しかし実の所を申し上げますと、今わたくしは正式な資格のありやなしやを考えて『卿』づけでお呼びした訳ではないのです。叙勲に関わらず魔術師である方はそうお呼びする、それが…そう、この国の伝統のようなものです。正式には爵位のないお二方が、そう呼ばれていらっしゃいましたから」
 不意に出てきたその話の意味を、しかしストリアスは正確に理解していた。一度は魔術を志したものとして、その存在を知らぬはずがない。古の二人の魔術師、彼等はその秘術を用いて永遠の若さを手に入れ、生後数百年を経てなお存命である。彼等は天変地異さえ操ったという。
 実在を疑われるような人々だが、しかしこの二人の活躍がなければ今この国はなかったかもしれない。少なくともその功績を認めた現国王が、魔術禁令の廃止に踏み切ることがなかったとは確かである。
 ストリアスにとってみれば偉大な先達であるが、しかし直接の面識はない。それは所長を含む全ての研鑚所の魔術師も同様である。二人ともそれ以上人間社会に関わることを望まず、姿を消しているのだ。ただ、ともに大陸に平和をもたらした英雄の一人として、院長とは互いに良く知る間柄のはずだ。
「それでは、やはり私にはその呼び方は不釣合いでしょう。私はもう、魔術は使えないのです」
 多分以前の自分ならその話を熱心に聞きたがっただろうな、とストリアスは自分自身を冷めた目で眺めていた。その彼を見詰める目は、あくまで控えめな優しさを湛えている。
「事後のあなたの処遇についてはノーマ卿よりうかがっております。魔術を封じる術がかけられたとは、聞き及んでおりません。そもそもあの法術は力の弱い魔術師にしか効果がないとのこと、あなたのような本来強い魔力を持った方にはかかりますまい。とすれば原因は精神的なもの、でしょうか」
「まず間違いなくそうでしょう。しかしもう、私としてはそれで良いのです。魔術を使ってしたいことが、もはやありませんから」
 なぜ以前の自分にとって魔術の研究そのものがあれほど楽しかったのだろう、そこから考えてしまうのが現状だった。
「その力を取り戻すことがあなたにとって幸いかどうか、それは誰にも分からないでしょう。しかし自分自身の根源から逃れることも、簡単ではありませんよ。そう…今のイクスと同じように」
 幼児と同列のような言い方をされても腹は立たない。理性が院長の言葉は正しいと肯定している、それだけだった。
「ストリアス…」
 院長はもう少し言葉を重ねようとする。しかし彼女は、すぐにその口を閉ざしてしまっていた。次いでばたばたと足音が聞こえて来る。やや眉をひそめながら、院長は立ち上がって頭を下げた。
「急な患者さんのようです。申し訳ありませんが今日の所はこれで失礼を致します。何かありましたらご遠慮なく、またわたくしをおたずね下さい」
「院長様! 表に重傷の…」
 扉を叩きもしないまま、一人の神官が飛び込んで来る。門前で掃除をしていた少女だ。軽く会釈をしながら、院長は歩き出す。
「今行くわ。状況を説明して」
「二階建ての家の屋根から落ちたそうなんですが、激しく吐血をしています。呼びかけに応答はありません」
「それから?」
「骨折が一目見ただけでも二箇所、それ以上は確認していません」
「頭部外傷の有無も確認していないのね」
「はい」
「それなら…」
 扉を開け放したまま、二人は廊下の先へと消えた。しばらく驚くことも忘れていたストリアスであったが、やがてゆっくりと立ち上がる。
「さて…行くかな」
 これ以上ここに留まっていても仕方がない。とりあえず必要な情報は得られたし、ストリアスは捜索を始めることにした。院長の話を聞く限りでは、できるなら急いだ方が良さそうだ。
 ただ、とりあえず表に回るのは避けた。騒ぎが聞こえて来る。医術の知識のないストリアスが行っても邪魔になるだけだろう。だから裏口を探して庭に出る。
 イクスは相変わらず、そこに立っていた。何をするでもなく、何を見ているでもない。ただ、ティアの姿は見られなかった。恐らく彼女も、怪我人の手当てをしているのだろう。ストリアスはもう一度、少年の前に屈み込んだ。
「お母さんを探してみるよ。必ず見つかると僕には約束できないけれど、できる限り頑張るから」
 反応はない。別に期待もしていなかったので、ストリアスはそのまま立ち上がった。
「じゃあね。また来るから」
 裏口があるならそちらの方だと見当をつけて歩き出す。イクスはその背中を見送りはしなかった。ティアが窓越しにちらりとそこに視線を送っていたが、すぐに自分の仕事を思い出して歩き去った。


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