王都シリーズV
王都家出人調書


V 闇に棲む者


 猛暑にさいなまれることも、また極寒に襲われることも少ない。激しい乾燥、あるいは湿気とも縁遠い。大陸中央部の平原に位置し、内海にほど近い王都はそうして気候条件に恵まれている。
 しかしこの日、ストリアス=ハーミスは恨めしげに太陽を見上げながら額の汗をぬぐっていた。別に暑い訳ではない。
「ふう…疲れたな。慣れないことはするものじゃない」
 歩き回ることも含めて、体を動かすのは苦手だ。これまでずっと、椅子に座って本を読んだり文章を書いたりする生活を送ってきたストリアスである。魔術研鑚所の研究者の中には座り続けの日々が災いして腰痛を患っている者も少なくないが、しかしこれまでストリアス自身にそのような症状はなかった。内心自分の若さに感謝したものだが、しかしどうやら甘かったらしい。
 依頼を受けてから二日、とりあえず脚を使って頑張ってみたつもりだ。初日は実質的に午後からだったし、気を張っていたのでそれほど苦にはならなかった。この日も午前中は体に溜まっている疲労を意識しながらも、何とか精神力で乗り切ってきた。しかし午後を過ぎて夕方になると、もう危ない。上がらない成果が、それに拍車をかけていた。
 最近レンに男ができたらしい。それは家の近所を聞き込んだだけですぐに耳にすることができた。問題はその後である。まず手がかりがそれしかなかったためその男の線から探ることにしたのだが、そもそもその男が誰なのかが分からない。近隣、あるいは職場に関連した人間ではないかと当たってみたが、見込み違いだった。
 手繰り寄せるべき糸が途切れてしまって、後は本当に手探りでしかない。男と連れ立っている時には大体酒が入っていたとの話を聞きはしたが、しかしどこで飲んでいるのか分からずに、そのあたりにある酒場を一軒ずつ聞いて回るしかなかった。
 見ず知らずの人と何度となく話をする、それにも精神的に疲れてしまう。別に人間嫌いのつもりはないのだが、しかしあまり社交性のある人間でないとは自覚していた。昔からそうなのだ。本質的に直感力が強く、その分他人のごく些細な不快感にも敏感に反応してしまう。その自覚があったから、限られた人としか接触することのない職場を選んだのだった。
「…と言っても、止めるわけにいかないしなあ。自分で言い出したことだし…」
 独り言は、孤独な人間にしばしば見られる癖である。それは知っているのだが、別に直す気もない。誰に迷惑をかけている訳でもないのだから。しかしここで今自分の直面している問題を投げ出してしまうと、色々と迷惑がかかる。一つ肩を回して気分を変えて、もうしばらく脚を使ってみることにした。酒場に人が入るのは夕刻から、つまりこれからが本番だ。
 そうして繁華街を歩く。薬品慣れしているので酒精そのものの臭いはあまり気にならないのだが、しかし人間の体臭と一体となったそれはどうしても気持ちが悪い。それに脂っこいものが苦手な彼にとって、肉や魚を景気良く焼いて客を誘っているのもあまり好感が持てなかった。
 げんなりして気が萎えそうになるのを何とかこらえながら、歩いて行く。しかしそれも、突然の中止を強いられた。
「おい、兄ちゃん、ちょっと来いや」
「はい?」
 いきなり肩を掴まれて、そのまま訳も分からずに路地裏へ。どうにか冷静さを取り戻して相手を見直した所、それは柄が悪そうとしか形容のできない二人組だった。一人が自分の体で人目を遮りながら、もう一人がストリアスの胸倉を掴む。
「なあ兄ちゃんよ、何でもグレスさんの事嗅ぎまわってるそうじゃねえか」
 凶悪な面相でそう聞いてくる。以前の自分ならこれですっかりびくついていただろうなと、ストリアスは自分でも奇妙に思うくらい冷静に考えた。
「何のことです?」
 言いがかりだろうかと思って口を開く。しかし言い終えた頃には、自分自身の考えを訂正していた。今時分が探している、レンにできた新しい男の名前が、「グレス」なのだ。間抜けなことにこの男、まだ分かっていなかった名前を教えてくれた結果となったらしい。しかしその幸運を喜んでいる暇はなかった。
「しらばっくれてんじゃねえや!」
 勢い良く動いた平手がストリアスの頬を打つ。これは痛い。さすがに痛いのは歓迎できなかった。しかし相変わらず、相手が一向に恐くない。
「これ以上余計なことを嗅ぎまわると、こんなものじゃ済まないぞ。お前も命が惜しいだろう」
 なおも胸倉をつかまれたままなので、呼吸が苦しい。しかしそんな状況でも、ストリアスが相手の言葉に受けたのは恐怖でも憎悪でもなく、感銘だった。脅迫というのはそれを受ける人間にとって自分の身が可愛い、それを守りたいから成立するのだ。だから今の自分は恐怖を覚えていない、それが理解できたのは一つの収穫だ。そこで淡々と告げる。
「…命なんて惜しくない」
「いきがってんじゃねえぞ、てめえ!」
 はったりだと思ったのだろう。それはまあ、常識的な判断だ。そんなものにひるんでいたら脅迫は成立しない。男はいきなり短刀を抜くと、それをストリアスの首筋につきつけた。刃の冷たい感触が、少し気持ち良い。
「ナメた真似し腐ってるとばらすぞ、こら」
 血走った目で睨み付けて来る。後で目元に疲れが残らないのだろうかと、ストリアスはそんなことさえ考えていた。ただ、それでは会話が成立しないので別のことを言う。
「…本当に殺す気があるのなら、そこじゃないな」
 そして右手をあげて、胸倉をつかんでいるのと短刀をつき付けているのと、二本の手を避けながら自分の首筋に指を当てる。
「頚動脈はここだ。ここを刺すといい。ここなら多分、確実に殺せるよ。人間って意外としぶといから、ほかじゃあ死に切れないかもしれない」
 医術の心得はないが、魔術師としてストリアスにも多少解剖学的な知識はあった。ただ、それほど興味がなかったのでどこをどのくらいどう切れば人が死ぬのか、詳しくは良く分からない。
「何だ、お前…」
 異常な反応に、一瞬相手の動きが止まる。ストリアスはなおも続けた。
「他に確実に殺せる場所って言ったら、やっぱり心臓かな。ここにある。ただ、いくら僕の胸板が薄いと言っても肋骨があるからね、それをきちんと避けて、しっかり刺さないと駄目だ。後は…そう、首の後ろ。ここには主要な神経が通っているから、刺したりすると大した出血もないのに人が死ぬ。あ、君達には神経と言っても分からないかな? 神経というのは動物の…」
「て、てめえ!」
 自分自身の感じているものが何かさえ分からないまま、男はストリアスの胸倉から手を放す。そして両手で短刀を握り締めて、勢い良く突き出した。
 深々と、ストリアスが背後にしていた建物の壁板に短刀が突き刺さる。いい加減に伸ばされたままの髪が、何本か落ちて行った。それを残念がったのではないが、しかしストリアスは小さくため息をつく。
「それにしても、本当に僕を殺していいのか? 僕は今言った通り殺されたって困らない。自分が生きているか死んでいるかなんて、僕にとってはどうでもいいことだから。でも君達はどうだ? レンさんが行方不明になったのは自分自身の意志らしいからって官憲の捜査はされていないけれど、僕が死んだらさすがにそうはいかないぞ」
 短刀を持っている男のみならず、その脇にいる男の動揺まで感じ取れる。殺すという脅しも、要ははったりだったのだ。人を殺める覚悟がこの二人にはない。少し刃物をちらつかせればひ弱そうな男一人すぐに屈服させられると、そう確信していたのだろう。 その鼻を明かせるかと思うと、この状況も悪くない。


「…ああ、そうか。僕がここで殺されればいいんだ。そうすれば後は官憲の本格的な捜査が始まる。ついでにレンさんも見つかるだろうね。こんな僕でも少しは役に立てる。さあ、どうしたんだい?」
 まだ自分の首筋に当てられたままの刃に、ストリアスはそっと手を掛けた。そして自分自身の方へと力を入れる。この二人が自分の死体を前に狼狽する、その光景を想像するだけで心底楽しかった。
「ほら、どうした。殺さないのか?」
 少年時代から一貫して本の虫だったストリアスの腕力は、男性としてはかなり弱い部類に入る。自分の方向へ力を入れたところで、短刀が背後の壁に刺さったままである以上致命傷を負うはずもない。しかし多少ぐらつきはしたせいで、一瞬だけ冷たく鋭い刃が首の皮膚を裂く。きちんと研いでいないな、とストリアスはそんなことまで考えた。
「やばいぞこいつ。いかれてる…」
 後ろに控えている方の男がそう警告する。短刀を持っている男も、明らかに顔色が悪かった。
「覚えてろ! この借りは必ず返す!」
 結局、力一杯振り払われる。そして二人は雑踏へと姿を消して行った。
「また死にそこなったか」
 首筋を拭って、指先についた血を眺めながらため息をつく。しかしそれも、別段深刻なものではなかった。
「まあいいかな。せっかく助けてもらったのに、ここで死ぬこともない」
 手がかりが得られた。それを使って、せめて自分を生かしてくれた人達には借りを返しておくのも悪くない。そう考えて、ストリアスは再び歩き出した。

 グレス。その界隈ではその名を聞いた途端、口を閉ざすものが少なくない。つまり一帯を取り仕切るならず者の頭目だな、と脅迫を受けた翌日には見当がついた。
 国王のお膝元であるだけに、この町の治安はかなり良い。その即位以前に暗黒街の首領などと呼ばれ、場合によっては殺人まで取り仕切っていた数名の人間は、既にその罪科に見合った処罰を受けている。
 とは言え大都市である以上、ごろつきだとかならず者だとか、正業についていない人間を完全になくす事は不可能だった。無理に撲滅を図れば、善良な市民の生活まで締め付けかねない。結果、売春の上前を跳ねたり用心棒代をせしめたり、強硬な借金の取り立てを請け負うなどして生活する人間は今なおこの王都に存在する。グレスはその一員、それもかなり有力な人間なのだろう。
 そのような男と関わっていたとなると、レンは愛人にでもされているか、あるいは騙されていかがわしい店で働かされているか、いずれにせよ簡単には連れ戻せない状況にあると予想される。これから努力して居場所を突き止めたとしても、ストリアス一人ではそれ以上手出しができない。
 それにこの朝からずっと、誰かの視線を感じる。確かめた訳ではないが、しかし魔術師として培った直感力は確かだ。尾行や監視といった手合だろう。もっとも文字通りの命知らずを相手に手を出しかねているのか、昨日のような実力行使には至っていなかった。その代わり、陰険な気配が消えることもない。この状況では例え苦労して居場所を突き止めたとしても、それを察知されて別の場所に移されてしまう可能性が高い。かと言って、今の無力なストリアスでは実力で彼等を排除できるはずもなかった。
 手詰まりだ。そう結論づけたストリアスは、ひとまず茜商会に戻ってエレーナの意見を聞いてみることにした。
 そして結局、事情を説明し終えたのが夕刻になってからである。エレーナはまず、厳しい表情で問いただした。
「尾行はきちんと撒いていらっしゃいましたか」
 これは当然の注意であろう。ストリアスも馬鹿ではないので、正直に答えた。
「はあ…。どうやったら尾行を止めてくれるのかと考えていたのですが、その方法が思いつかなくて。結局同じ所を休み休みぐるぐる回っているうちに昼過ぎだったのがさっきになってしまって、それで諦めて帰ってくれたみたいです」
 一瞬だけ、エレーナはむしろその尾行者に同情したそうな顔を見せた。しかしすぐにいつもの凛々しい顔に戻る。
「なら結構です。本題に入りますと、わたくしもストリアス様と概ね同じ結論に達しました。ティア様には申し訳ありませんが、現在の態勢ではこれが限界です。いたずらに先方を刺激すれば、レン様の身に危険が及ぶやも知れません。然るべき人員を動員できるのなら、また別の手段も取り得るのですが」
「旦那様からの手紙の返事はまだなんですか」
「はい。早ければ昨日の晩、そうでなくとも今日の昼過ぎには届くと考えておりましたが、いまだに。決断を迷うような方ではないのですが」
 エレーナにとってもこの事態は予想外らしい。細く濃い眉がわずかにひそめられている。これはもう自分の手に負える問題ではないなと、ストリアスは諦めることにした。
「それならとりあえず、施療院まで行ってこれまでの経過を説明して来ましょう」
「申し訳ありませんが、お願い致します。ただ、それは明日になさった方が良いかと存じます。ストリアス様を疑うつもりはございませんが、しかしもう夜になる時間に、女性の多い施療院をおたずねするのもいかがでしょう。それにあちらの場合、夜分では急病人と間違われるかもしれません」
 少々潔癖過ぎる気遣いのような気もしたが、しかし同じ女性の言うことであるからストリアスは黙って従うことにした。
「昼過ぎから歩かれたのでしたらお疲れでしょう。今日はもうお休みになられてはいかがですか」
「そうですね。お言葉に甘えましょう」
 実際疲れた。肉体的な疲労は溜まる一方だし、今日はずっと監視されていたことで精神的にも良くない。反論するのも不毛なので、奥にある自分の部屋に引き取ることにした。魔術研鑚所で働いていた時には付属の寮で暮らしていたのだが、無期限で資格を停止されている今ではそこにいても仕方がない。ちょうどこの茜商会の建物には空き部屋があるので、主の好意でそこに間借りをしていた。
 殺風景、そんな言葉の定義そのままのような部屋だ。寝台と、椅子が一脚だけついた卓、それに箪笥。それだけである。飾るような物は一切ない。そもそも箪笥にも、洗濯に困らない程度の衣類しか入っていない。もっとも、そのあたりについては魔術研鑚所にいた当時から似たようなものである。ただ、ここには大量の本はない。以前は本なしではいられない生活を送っており、寮の自室の床にまで様々な書物が溢れ返っていたのだ。変われば変わるものだ、とは思う。
 夕食は採っていないのでそろそろ空腹ではある。しかしそれよりも疲労感が勝って、上着を脱いだだけで横になることにした。元々食欲はあまり旺盛な方ではない。面倒だったりすると一食抜くくらいは珍しくもなかった。
「ストリアス様…ストリアス様?」
 寝入った瞬間にその声で起こされた。そう感じながらも、とりあえず起きあがることにした。
「はい…?」
「あ…もうお寝みでしたか?」
 よほど寝ぼけた声を出したらしい。呼びかけた人物はそう聞いてくる。はっきりしない頭のまま、ストリアスは返事をした。
「でしたけど、大丈夫。もう起きましたから」
 思考力が完全ではないので言うことに遠慮がない。言ってからそう気がついた。
「そう…ですか。ティア様がおいでなのですが、わたくしがお相手を致しましょうか」
「あ、いえ。今行きます」
 あまり気乗りのしない事ではあるが、しかしだからこそ人任せにするのは良くない。すぐに部屋を出た。
「そのままでお寝みになっていたのですか」
 廊下で待っていたのは、当然エレーナである。ストリアスの姿を見るなり、非難がましいような呆れているような、そんな視線を投げかけて来る。その先で、服が少ししわになっていた。
「はあ…。着替えてきましょうか?」
「お待たせしてもいけませんし、今は致し方ありません。ただ、御髪は少し整えられた方がよろしいかと」
「あ、はい」
 乱れた髪を手櫛で直して、ストリアスは店先に出た。いつもの白い服をまとった少女が、来客用の椅子から立ち上がって深く一礼した。
 彼女を再び掛けさせてから、ストリアスは事情の説明を始めた。最大限誠実にと心がけたが、しかしそれは必ずしも何事も包み隠さずという訳には行かない。相手は聖職者であり、そもそもまだ若すぎるほど若い女性だ。あまり生々しい話を面と向かってするのもためらわれ、レンがいかがわしい店で働いている可能性などについてはぼかして説明した。
 それが終わって、ティアに言葉はなかった。無口なのは彼女の性格だから、と片付けられるのなら楽だ、とストリアスは思う。やがて、お茶を出すなどの作業に終始していたエレーナが口を開いた。
「お役に立てず、申し訳ございません」
 一切、弁明はない。ストリアスもエレーナも、与えられた状況下で全力を尽した。それでもである。そしてそれが正しいように、ストリアスにも思われた。だから頭を下げる。そしてティアは小さく、しかししばらくの間首を振っていた。
「ありがとう、ございました」
 そして最前より一段と深く、頭を下げてから席を立つ。エレーナがどこか諭すような口調で、ストリアスに声をかけた。
「もう遅い時間になりましたし、ティア様を送って差し上げてください」
「そうですね…でも、僕よりティア様のほうが強いと思いますよ」
 彼女はかなりの法術の使い手だろう。その推測を、エレーナも否定はしなかった。
「ええ。しかし女の一人歩きでは、その力を見くびって良からぬ手出しを考える輩も少なくありません。殿方が御一緒であれば、そのような無用の争いを避けることもできましょう」
「かかし代わりにはなりますか。分かりました。上着を取ってきますので、少々お待ち下さい」
 脱ぎっぱなしの上着を取って戻ってくる。そして外に出てみると、すっかり暗くなっていた。自分で思っていたよりも長い間寝ていたらしい。
「お嫌でしたら、ここで」
 少し歩くと、ティアがつぶやくように言う。ストリアスは笑って首を振った。
「嫌がっていた訳ではありませんよ。先ほどああ言ったのは、僕…いえ、私のようにひ弱な男が、ティア様のようにお強い方をお送りしようとしても滑稽でしかないと、そう思ったからです。まあ、エレーナさんの方が先を見ていましたけれど。お役に立てるのでしたらそれでいいと思っています」
 少し考えて、結局ティアは返答を避けたようだった。そして話を変える。
「『様』は、いりません。私は、若輩です」
「え? ああ、ええ。ティア…さんがそう言うのなら、それでいいでしょう。五つは歳が離れていますしね」
 わずかに開きかげんの目で、少女が見つめて来る。どうやらもっと若いと思っていたようだ。
「中身が幼いので、あまり大人に見られないようですね。もう二十は過ぎているのですが」
「…そんな」
 つもりはない、と言いたいらしい。しかしストリアスにしてみれば、そうまで真に受けてもらうつもりがそれこそなかった。自分自身そう思っている部分がないではないにせよ、大方は冗談である。自分が童顔であることも承知している。真面目過ぎる相手に合わせて、真面目に謝ることにした。
「済みません。ただの冗談です」
「そうですか」
 そうしてティアは、素の表情に戻った。つまり気分を害した様子はない。もっともその印象があっているのか否か、ストリアスに確証はないのだが。
 しばらく、無言。エレーナがティアを送らせたのは、一つには落胆した彼女を少しでも元気付けるためなのではないかと思うのだが、しかしストリアスに適当な話題は思いつかなかった。
 ただ、少なくとも今ティアはそれを気にしてはいないらしい。また、話題が変わった。
「一つ、お聞きしたいのですが」
「何でしょう」
 それから次の言葉が出るまで、ストリアスは三拍ほど数えた。
「命を賭けるほどに、あの方を愛していたのですか」
 彼女にしては、比較的長い台詞。その表面は陳腐にさえ聞こえる話題であったが、しかしそれがごく生々しい意味を持っていることをストリアスはもちろん理解していた。とっさに返答はできない。
「その時の僕は、そう信じていました」
 他の何にも替え難い人がいた。それを奪われた時、若くして得た地位も名誉もかなぐり捨て、そして負傷によって消耗した体を引きずったまま、その人を奪い返すべく逃亡者となった。結婚式に乱入するも肩を射抜かれ、頭部を強打して意識を失った。その時まで、怒りや悲しみはあっても決して後悔はしていなかった。
「今は…違う?」
「愛という言葉の定義をひとまず置くとしても、良く分かりません。今あの時の感情を思い起こそうとしても、あの形容しがたいものの何分の一も再現できませんから。もう分析することもできませんよ」
 今でも後悔はしていない。ただ、怒りや悲しみもない。虚脱感、そんなあるのだかないのだか怪しいものだけが漂っている。
「人を愛する一つの形だと、あの時私は思いました」
 少女がぽつりとつぶやく。それがストリアスにとって初めて聞く、自分自身が引き起こした事件についての評価だった。
 事件以来彼に関わった全ての人間が、それについての言及を避けた。彼を直々に裁いた国王も、ストリアスに申し開きをする意志がないと確認した後、具体的な処分の内容を言い渡しただけで非難は一切しなかった。それがそれぞれにとっての優しさだと、ストリアス自身も承知している。
「お優しいですね」
 かすかに笑って、それだけ答える。そこに苦味はなかった。ティアはやや大きく首を振った後、また沈黙に落ちた。
 王都施療院は、中心街をやや外れたあたりに位置している。療養に欠かせない静寂を得るため、また救いの手を差し伸べるべき貧しい人々にとって身近な場所であるためだ。だからそこに近づくにつれて灯火は薄れ、夜の闇が深く濃くなって行く。その挟間で、ストリアスはふと立ち止まった。
「…遠回りをした方がいいようですね」
 視線を感じる。昼間の間ずっと感じられた、あの悪意を含んだものだ。闇に紛れて実際に見えはしないのだが、しかし肌がぴりぴりとする程だ。同じく、あるいは彼以上に勘の鋭いティアも小さくうなずく。振り返った彼女であったが、しかしそこから歩き出そうとはしなかった。
「こちらも…」
 背後からは複数の足音。とっさにストリアスは両脇を見渡したが、壁が広がるばかりだった。横道にそれて逃げることはできない。
「待ち伏せか…」
 茜商会を出たときには確かに監視の目はなかった。ここに至るまでそれとなく警戒していたのでそれは分かる。恐らく、ティアが跡をつけられていたのだろう。
 他に寄る辺がないレンの行方を探すとなると、息子であるイクスが身を寄せている施療院の関係者である可能性が高い。だからグレスはそう当たりをつけてそちらにも監視の目を向けていた。ストリアスはまだ姿の見えない相手の行動をそう推測した。
 尾行を許してしまったティアの失敗を責める気にはなれない。ストリアス自身は先日危険な目にあって警戒していたから、不穏な視線に気がついたのだ。もし監視を受けているだけであったなら、勘になにかが引っかかっていても気のせいで済ませていただろう。それより今は、この状況をどうにかしなければならない。
 前に六人、後ろに四人。いずれも柄の悪そうな顔が並んでいる。しかしその全員が、ただのごろつきという訳にはいかないようだった。三人が長剣を腰に帯びている。戦闘を生業とする者、傭兵だろう。
「僕らに手を出しても君達が損をするだけだと、そう言わなかったかな」
 先日有効だった脅迫は、しかし今意味を為さないようだった。見覚えのある顔をした男が、鞘から短剣を引き抜く。
「確かな証拠がなければ捕まりはしないさ。お優しい国王様のおかげで、今の裁判はそうなっている」
 容疑者に対して日常的に行われる拷問は、今や過去のものとなった。善政とはそのような側面も有している。その恩恵に、この連中はあずかろうとしているらしい。
「なるほど、ね…」
 もとから話し合いの余地はない。そして脅迫のタネも最早持ち合わせていなかった。残された手段は限られている。全員が戦う姿勢を取らないうちに、ストリアスは行動に出た。
「ティアさん、逃げて!」
 不意をついて正面の男をかわして、前にいた中では一番弱そうな男に体当たりを食らわせる。腕力沙汰の経験など全くないストリアスであったが、この場は思い切りのよさがものを言った。二人の男がもつれ合って崩れ落ちる。
「こいつっ!」
 その背中に、長剣の鞘が打ち込まれた。直接に打撃を受けた部分のみならず、全身に灼熱間が走る。体当たりを食らった男の隣にいた傭兵が、それ以上の抵抗を排除しようとしたのである。剣を抜かなかったのは殺意がなかったためではなく、抜いてから切り付けていたのでは遅くなるためだ。その混乱で、立ち塞がっていた人の列が乱れる。
「逃がすかよ!」
 この状況ではもう、ストリアスが自力で逃走することは不可能だ。残るティアに向かって、ごろつきのひとりが立ちはだかる。しかしそれは、必ずしも賢明な行動ではなかった。
「…!」
 勢い良く少女の手が翻る。まだそれが届く距離ではないとたかをくくっていた相手は、そこから溢れ出た光に弾き飛ばされた。
 攻撃型の法術だ。無口な神官は取り囲まれてから何もしていなかったのではなく、それを使うために気を集中させていたのだ。素養のない人間には何も分からないが、ストリアスはそれを察していた。それを使えば少なくとも彼女一人はこの場を切り抜けられる見込みがあると計算して、力技に打って出たのだった。
「なっ…」
 突然の攻撃にごろつき達がひるむ。正面の敵を排除したこともあり、ティアの前には敵の空白が生じていた。
 そこから逃げてくれ、早く。倒れたままのストリアスの思いは、しかしあっけなく裏切られた。ティアはその場を動こうとせず、代わりにストリアスを殴り付けた傭兵に対して第二の攻撃を放つ。のけぞってそれをかわした傭兵は、結局無様に尻餅をついた。
 それからようやく、ティアが脚を使う。ストリアスに歩み寄って彼を助け起こし、それから逃げようとする。しかしそれは遅過ぎた。その間既に敵は包囲の態勢を立て直している。
「馬鹿なことを…」
 殴られた痛みに構わず、ストリアスは言い捨てた。敵の全員が、もう武器を構えている。
「できません」
 強い調子で、ティアは非難を突っぱねる。夜の中にあっても輝くような瞳で取り囲んだ男たちを見渡しているが、しかし集中させていた気は二度の攻撃でほぼ使い切ってしまったようだった。次の術を使うためには、まだ時間がかかる。
「長引かせるな。さっさと済ませるぞ」
 無傷の傭兵二人が剣を振り上げ、残りの人間は二人の退路を断つ。自分の命を捨ててなお死ぬ前にこうも悔いが残るかと、ストリアスは鈍く光る鋼の刃を見ながら考えていた。
 そして…血しぶきが上がった。
「ぎゃあああああああっ!」
 ティアが上げたにしてはずいぶんと耳障りな悲鳴が響く。ストリアス自身はまだ斬られていない。そして、そこには一人の男が立っていた。
 夜に溶けるような、暗い灰色のマントがかすかに揺らめく。顔は、覆面によって定かではない。しかしその奥の目が「ぞっとするような何か」を湛えていることを、ストリアスは感じ取っていた。どこかを斬られたらしいごろつきの一人が崩れ落ちるが、それは視界の外へと消えて行く。
「何だてめえは!」
「わざわざ顔を隠しているというのに、名乗る馬鹿がどこにいる」
 砂漠を渡る風のように、その声は乾き切っていた。ざらついた感触が、聞く者の耳をなぞる。
「ふざけやがって!」
 短剣を手に、ごろつきの二人が突きかかる。その間を、覆面の男はすり抜けた。
「別にふざけてはいないさ」
 新たな血しぶきが闇に消える。肩口と手首と、二人の男はそれぞれの傷口を押さえてうずくまった。
「馬鹿は貴様だ。三対一で、勝てると思っているのか」
 ティアの攻撃を辛うじてかわした男を含めて、三人の傭兵が覆面の前に剣を構えて立ちはだかる。隠した顔で、覆面は笑ったようだった。
「常識で考えれば、全くその通りだな。しかし戦いには時として常識など通用しないと、傭兵のくせに知らないのか」
「やかましい!」
 三つの剣光が覆面の男に殺到する。しかしそれは、彼の予測のうちに過ぎなかったようだ。
 一人目はその長剣を鍔元から叩き折られ、二人目は胴に剣の平を打ち付けられ、三人目は柄頭で頬骨を砕かれた。その全てが終わった後に、ストリアスはようやく何が起こったのかを推測することができた。刀身のなくなった剣、腹を押さえてうずくまる男、口から歯の混じった血をこぼす男、それを目にしてのことである。あるいはその順番は、違ったのかもしれない。しかし見えなかったのだから、分からないものは分からない。
「人間が、ここまで強くなれるものなのか…」
 化物だ。それだけがはっきりと分かる。ストリアスは呆然とつぶやいていた。そしてその直後に、折られて弾き飛ばされた剣の切っ先が落ちて路上に突き刺さる。
「ふん…。他愛のない。かえって勘が鈍りそうだ。やはり首を飛ばしたり心臓をえぐったりしないとな」
 覆面の男は、剣先についた血を払った。それが残った人間の顔に跳ねる。主力である三人の傭兵が軽くあしらわれて、その三人を含めてごろつき達は我先にと逃げ去った。つまり、致命傷を負ったものは一人としていなかった。
 その後姿を、ストリアスもティアも虚脱して見送った。
「ものを知らんな、若いの」
 切っ先の血を振り払ってから剣を収め、覆面の男はそう言った。ストリアスは黙って、その方を向く。
「この俺でさえあの程度の連中相手に全力など出していない。しかし世の中には、俺をはるかに上回る力の持ち主がいる。人間がどこまで強くなれるのか、その答えは、古の魔術師達を見るまでとっておけ」
「古の、魔術師…。あなたは彼等のその力を、見たことがあるのか」
 思わず反問する。これ程の力を持った戦士でさえも認めざるを得ない強大な存在、それに興味をそそられずにはいられなかった。先日施療院の院長も同じ話題を口に乗せていたが、今は驚きが好奇心を誘発している。
「余計なお喋りだったな。やはりどうも、勘が鈍っているようだ」
 覆面の戦士は答えない。自分自身が関わることについて、話す気がないのだろう。あくまで正体を知られないようにする、慎重な男だ。
「…………」
 ティアはじっと、自分達を助けてくれた人物を見据えている。しかしその視線は、必ずしも好意的ではなかった。確かにあまり、善良な人間とも思えない。そして彼女は目を使うだけでなく、気の力を使って相手の様子を探っていた。
「止めろ」
 覆面の奥でぽつりとつぶやきが漏れる。そして、何かがはじけた。
「っ!」
 焼けつくような暴風が叩き付けられる。瞬間、ストリアスはそう感じた。しかし体そのものは全くぐらついていない。埃が舞った様子さえなかった。だが確かに、幻覚ではない事態が起こっている。
「馬鹿な…」
 具体的に何が起こったのか察した時、更なる驚きが全身に広がった。これは「気」だ。それも殺気とでも呼ぶべきもの。攻撃的な精神の力を、覆面の男は叩きつけてきたのだ。その量たるや、気を操るのに長けているはずのストリアスやティアをはるかに上回る。そして、ここまで凶暴な気を、ストリアスは感じた事がなかった。つい先ほどまで彼等を取り囲んでいた男たちの殺気など、遊んでいたとしか思えなくなる。「死」、その何よりも恐るべき存在そのものが、人の形をとって現れているようだ。
 一瞬の自失から覚め慌ててティアを見やると、その顔は夜目にも明らかなほど蒼白になっていた。震えもはっきりと見て取れる。無理もない。あれほど凄まじいものをまともに浴びたのだ。しかもその種のことに関する彼女の感覚は、常人よりはるかに鋭い。恐怖にとりつかれて崩れ落ちても驚きはしない。むしろ辛うじてであっても立っていられる事が、彼女の気丈さを表していた。
「こっちは正体を隠しているんだ。そう探りを入れるのは困るな。気まぐれで助けてはみたが、無駄な手間を増やしただけか」
 既にマントの下に隠された剣に、再び手がかかっている。それを察したストリアスは、ティアと男の間に割り込んだ。
「ほう…一人を狙うなどと器用な真似はできないから、同じものを感じているはずだが。…死を恐れないか」
 わずかではあったが初めて、男が感心した様子を示した。しかしそれを、素直に喜べもしない。
「生憎とね…」
「覚悟を決めた人間の目とも見えない。単に自分を捨てているにしても、珍しいな。相当に自棄的な人間でも、大概最後の瞬間には震え上がるものだ」
 男が一歩を踏み出す。剣術のことはストリアスにはほとんど分からないが、少なくともより危険な状況になったのだろうとは十分に推測がつく。ティアの後ずさる足音が聞こえたが、ストリアスはその場に立ったままだった。
 そのせいか否かは定かではないが、男もそれ以上進んで来ようとはしない。
「しかしそうしてそこに立った所で何になる? そこの神官が逃げる時間を稼ぐことさえできないぞ」
「時間稼ぎにはなるかと思ったんだけれど、所詮僕にはかかしが関の山か」
 肉の薄い肩を、ストリアスはすくめた。確かに完全にすくみ上がっている今のティアでは、例え多少の時間を与えられたとしても逃げ切れはしないだろう。それにもしストリアスに以前の通りの魔力があったとしても、この男の圧倒的な力の前には全く歯が立たない。そう直感できる。
「でも、話し合うことはできる」
 そこまで達観していながらなお、自分でも分からない理由からストリアスは食い下がった。男の声に、嘲笑う響きが篭もる。
「何を話す? 俺は問答無用で君達を斬ることができるんだぞ」
「そう言って、実際いつでも斬れるのに、そうしようとしない。さっきの連中に対してもそうだった。敢えて理由の憶測はしないけれど、あなたは人殺しを避けている。話し合う余地はそれなりにあると思う」
 淡々とストリアスは論理だてる。男は声の調子を無機的なものにして問いかけた。
「なら、どうする」
「もし無事に帰してくれるのなら、僕は今日のことについて自分の胸にしまっておくと約束するよ。この子にもそう言い聞かせる。これだけ恐い思いをしたんだ。言うことは素直に聞いてくれるだろう。正体を知られたくないあなたにとって、悪い話ではないと思うけれど」
「口約束が何になる」
「もし約束を破ったなら、あなたはその時こそ僕らを殺すだろうね。だからそれこそ必死で、約束は守るよ」
 土壇場では意外に弁が立つものだと、ストリアスは自分自身に感心していた。しかし剣に手をかけておきながら、何のかのと言いつつもここまでこちらの話につきあう相手も珍しいような気がする。
「心は既に死んだに等しい人間の『必死』など、信用できないがな」
 覆面の奥の目が、にやりと笑ったようだった。そしてそれがふと泳ぐ。
「…厄介なのが来た。これまでだな」
 マントの中には何も入っていない、そう見えるほど軽い動作で男は身を翻した。早足で歩き出すが、途中で首だけ向けて来る。
「別に今見たことは話しても構わないぞ。どうせそうした所で、何の役にも立ちはしないのだから」
 暗い灰色のマントが闇に溶ける。もちろんストリアスは、それを追おうなどとは考えもしなかった。
「どうやらもう、大丈夫なようです」
 ティアはゆっくりと、そして小さくうなずいた。その彼女を呼ぶ声がする。あれだけの力を持った男に「厄介」と評される相手。それが他ならぬ施療院の院長であることに、ストリアスは疑いを抱いていなかった。
「ふう…」
 小さなため息が漏れる。そして、少女の体が崩れ落ちた。安心して、気が抜けてしまったのだろう。ストリアスは慌ててそれを支えようとしたが、動作が遅れたために覆い被さって抱きすくめるような格好になってしまった。それでもティアは、別段抵抗らしい抵抗もしなかった。


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