王都シリーズV
王都家出人調書


W 士官学校生 T


 表がいつもより騒がしい。それでストリアスは目を覚ました。昨日エレーナに身だしなみを注意されたので、とりあえずそれを整えてから店先へと向かう。エレーナが店にいるだけならうるさいとは感じないので、恐らく誰か別の人物がいるのだろう。
「おはようございます」
 とりあえず妥当な挨拶をしておく。エレーナがいつものきびきびとした声で応じた。
「おはようございます」
 それで少し、目が覚める気がする。そしてもう一人、声をかける者があった。
「おはようございます」
 全く同じ言葉であるのに、受ける印象は全く違う。こちらはどこまでも穏やかで感じは良いのだが、しかしその分これから仕事をしようと張り切らせる類のものではなかった。
「あ、おはようございます…若旦那」
 芸もなく同じ挨拶を繰り返し、更にぎこちなく付け加える。しかしそうして当然の相手だと、ストリアスは考えた。三人目の人物はこの茜商会の主、ファルラス=ミストだ。妻子を連れて別荘で休養していたはずだが、帰ってきたのだろう。
 若旦那、という二人称は本人の希望によるものだ。エレーナが言うような「旦那様」では堅苦しい、そう主張しているのである。歳の近い自分からそう呼ばれると、老けて感じられるから嫌なのかもしれない、とストリアスは見ている。本来「若旦那」とは、「旦那」または「大旦那」と言うべき店の主がいる場合にその息子などに対して使われる呼び方なのだが、ファルラスはその言わばあだ名が気に入っているようだった。
「昨日は大変だったそうで」
「あ…いえ。結局ティアさんには怪我一つありませんでしたし」
「あなた御自身の安全も考えて下さいね。この際人道は云々しませんが、それを抜きにしても商いの上で人死にが出たのでは私どもの信用に関わります」
 温和そうな顔をしているが、言っていることは現実主義の極みだ。しかし妙に優しくされるよりも、その方が今のストリアスには楽だ。
「それは、気がつきませんでした。以後気をつけます」
「そうして下さい」
「以後とおっしゃいましたが、これからも捜索を続けるお積もりですか」
 エレーナが口を挟む。それでストリアスは、今の状況を整理し直した。ファルラスが帰って来たのなら、捜索の体制も変わるはずだ。問いただす視線を受けて、エレーナがすぐに答える。
「既に専門の調査員を手配致しました。予想される襲撃に対しても、それを独力で回避できる方々です」
「じゃあ僕はもう必要ありませんか」
「あなたさえ良ければ、私としては継続してもらいたいですね。事情を知っている人間が加わっていた方がはかどるでしょう」
 ファルラスが話を引き取ったが、しかしエレーナは良い顔をしなかった。
「そうなるとストリアス様に護衛をつけなければなりません。しかしこれ以上経費をかけるのはいかがかと」
 元々無収入の仕事である。やればやるほど赤字が広がるばかりだ。経理を預かってもいる人間が渋い顔をするのも無理はない。しかし事業の所有者は、実に楽観的だった。
「例の件の黒字がありますし、何とかなるでしょう」
「そんな調子ではいずれいくら収入があっても足りなくなります」
 エレーナの語気が強まった。その勢いに、ファルラスがあっさり折れる。
「それでは、経費のかからない方法を試してみましょう」
「それならもう何も申し上げませんが…」
 エレーナの言い方は突き放しているのではなく、本気で心配しているようだ。そんな都合の良い方法があれば苦労はしない。ストリアスも同感だったが、しかしファルラスは笑うばかりだった。
 そのファルラスが「経費のかからない方法」を当たりに行ったのが昼頃である。午前中までに揃えられていた護衛の傭兵を一人伴っていた。残りの傭兵は茜商会で警戒に当たる。ティアが跡をつけられて商会の位置も相手に知られている以上、やむを得ない措置だった。その代償として、かかっている経費は相当なものであることは間違いない。エレーナがこれ以上の出費に眉をひそめるのも無理はないが、同時にファルラスがいっそ開き直っているのも分かる気がした。
 そして主が商会に戻って来たのは昼下がりである。移動時間を考えれば、用事そのものにかけた時間はそれほど長くなかったらしい。
「お帰りなさいませ。ご首尾のほどは」
 まずエレーナが尋ねたのは、彼の顔色からうまく行ったかそうでなかったのか判断がつきかねたためだ。
「収穫がなくもない、その程度でした。タンジェスさんに当たってみたのですが、今勉強の遅れを取り戻しておかないと次の試験が危ないとかで。せっかく復学したのに落第では洒落になりませんしね」
「なるほど。それで、なくはないとおっしゃいますのは?」
「タンジェスさん曰く自分より腕が立つ、そういう方を紹介していただきました。授業が終わったらこちらにいらっしゃるそうです」
「授業…やはり学生さんでいらっしゃいますか」
「はい」
 エレーナは顔で危惧を表明した。ファルラスはいつものように笑ってそれを受け流す。
 タンジェス、その名前には聞き覚えがあった。先日施療院の院長から聞かされた、彼を倒した青年の名だ。丁度会話が途切れたこともあって、ストリアスは聞いてみることにした。
「一つ気になったのですが、よろしいでしょうか」
「何をです?」
「あの時、僕が気絶した後、誰がどうやってあの人形を破壊したんですか。例え僕が死んだとしても動くよう、設定したはずなのですが」
 ストリアスが神殿に乱入した時、切り札として使ったのがそれまで研究していた古代魔術師の遺産、魔術人形である。人形とは言っても体高が彼の二倍はある巨像だ。材質は岩石に類似したもので、静止した状態のものを破壊するだけでも容易ではない。しかも動いているものを、となると大出力の魔術を叩きつけるか、あるいは強力な法術で強制的に魔力を解除するか、さもなければ投石器でも使って巨大な岩石を叩きつけるか、とにかく尋常の方法では不可能だ。
 これまでの完全な無気力状態では気にも止めなかったことだが、少しでも考えればその事態の凄まじさに気づかされる。もしタンジェス=ラントがそれを行ったとなると、恐るべき達人だ。昨日の覆面の男の一件と言い、人間の力を見直したほうが良いのかもしれないと思える。
「古の魔術師の遺産は、何もあの魔術人形だけではありませんよ。伝説の魔剣は、いとも簡単にあれを切り裂いていました」
「伝説の魔剣? まさかあの、王家伝来の剣かノーマ卿の佩剣ですか」
「はい、後者です。あの方がわざわざ神殿までお越しになって、必要になるだろうからと置いて行かれたのです。一時とは言え騎士が愛剣を手放すとは、全く大胆な御仁ですよ」
 ファルラスの台詞の後半を、ストリアスは聞いていなかった。
「そうか、なるほど。あの男も院長も認める人が作った物の威力は、やはり凄まじいものなんだな…。しかし一体どんな原理で動いているんだろう…」
「あまり悔しそうではありませんね。あの魔術人形は、あなたにとって大切なものだったのではありませんか」
 その台詞が自分へ向けられたものだと認識することさえ、かなり遅れた。そこで自分の考えを整理しないまま返答することになる。
「あ…? え、ええ、そうですね。自分でも、不思議です。いや…資料は全て破棄してしまいましたが、あれについては限界まで調べましたから。時間さえかければ多分、再現することも不可能ではないと思います。例え形はなくなっても私の中にはあります。だから、惜しくはないのかもしれません」
「ほう…素晴らしいですね。現在よりもはるかに進んでいたと言われる魔術師の遺産を、復元できるのですか」
「模倣は、少なくとも原型を作るより簡単です。それだけのことですよ。発想をする必要がありませんから。ただ、今の僕達には模倣すべきものさえ多すぎて、そのうちのわずかな部分を検証するのが精一杯ですが」
 これまでになく口数の多いストリアスに、ファルラスは笑いかけた。
「なるほど。どうやらあなたも、自分自身の根源からは逃れられないらしい。それだけ研究熱心では、魔術師は廃業できそうにありませんね」
 今の自分に魔力がないことさえ失念して喋っていた。確かにこれでは、魔術師としての道を捨ててしまうのは難しいだろう。そしていくばくかでも生の感情が呼び起こされている分、今の自分に触れられるのが嫌で、話をずらすことにした。
「院長と同じことをおっしゃいますね」
「ああ、あの方には以前ずいぶんとお世話になりましたから。影響されているんですよ、きっと」
「ほう…」
 そうして雑談をしているうちに、手配された調査員たちがやって来た。人数は三人、それぞれもちろん顔立ちは違うのだが、どこか印象に残らない様子が共通している。彼等はストリアスから必要な情報を引き出し、役割を分担してからまた街中へと消えていった。その後は彼等及び護衛に雇った傭兵に関しての事務処理、更にはファルラスの留守中に溜まっていた主の決裁が必要な件についての処理などをして時間が過ぎて行く。
 徐々に傾いた日ざしが、赤みを少しずつ強める。そんな折、店主がつぶやいた。
「さて…そろそろいらっしゃる頃ですね」
「あ、そういえば若旦那、士官学校の学生さんって、こちらを手伝うほど時間に余裕があるんですか」
 魔術研鑚所にいた頃のストリアスは、昼夜の別を問わず研究に没頭していた。それは他の魔術師達も同様である。
「人それぞれだそうです。夜間戦闘訓練だとか、あるいは長期行軍訓練などを除けば、授業や訓練そのものは概ね午後には終わります。ただ、学力も実技も相当に高度なものを要求されますから、午後以降も自主的に努力をしないと落第するおそれが少なくないそうです。しかし苦手分野は人それぞれですから、それを補うのに画一的な授業をしても仕方がないのでしょう」
「なるほど」
「そもそも一から十まで教えられないといけないような人間は、指揮官に向きませんよ。自分で何が必要かを考え、計画を立て、そして実行する才能がないと。学生さん達に対してはまず、それが試されているのでしょう」
「確かに。じゃあ、これから来るのは不足するものを補う必要のない優等生、という訳ですか」
「ええ、そのような見方もできますね。ただ、あの方はあの方なりに、ご自分に足りない点を補うおつもりのようです。そうでなければこの一件をお引き受けにはならなかったでしょう。無償であること自体お気になさってはいらっしゃらないようでしたが、本来は学業が第一ですからね」
「足りない点というと、それは…」
 ファルラスが手で制す。しかしストリアスが言いさして止めたのは、それ以前に入ってくる人の気配を感じ取ったからだった。
「失礼致します。マーシェ=クラブレン、参上しました」
 元気良く入って来るなり、背筋を伸ばして敬礼する。その仕草は、学生というよりもう一人前の騎士のようだった。長身で体つきもしっかりしている。濃い眉と輝く瞳は、意志の強さと知性の高さの双方を表しているように見えた。
 そのように見れば、むしろそれは思い描いていた通りの姿だった。しかしまず、ストリアスは驚かずにいられない。
 瞳を飾る睫毛は長く、唇は健康そうな色に輝いている。その面差しは、相当に整ったものだった。そして艶やかな長い髪を三つ編みにして、後ろにたらしている。ほぼ間違いなく、女性だ。
 最後に胸元を確認しようとして、ややためらってしまう。そんなストリアスの動揺を彼女は視界の隅で見て取ったようで、その唇に微苦笑を浮かべていた。彼女にしてみれば、良くあることなのだろう。

 とりあえずそれには構わず、店主が頭を下げる。
「お呼び立てして申し訳ございません」
「いえ、お気になさらず。それよりあまり悠長に構えていられる事柄でもないようですし、早速本題に」
「はい。こちらが先程お話した、当商会の者です」
「ストリアス=ハーミスと申します。よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
 早速本題に…と言ったマーシェであったが、当然流してしまうべき初対面の挨拶で、彼女は少し首を傾げた。じろじろ見たことに対し気分を害したのではないかと不安になって、ストリアスは謝ろうとする。しかし彼女が気にかけていたのは、別のことだった。
「所でお名前をうかがったことがあるような気がするのですが、以前どちらかでお会いしたことがありましょうか」
 個人名が伏せられたとは言え、どうやら噂が流れてはいるらしい。ストリアスはとっさに答えに詰まったが、しかしどうにか切り抜ける方法を思いついた。
「いえ、お会いするのはこれが初めてだと思います」
 嘘はついていない。そして幸い、マーシェはややあった間を思い出すための時間であると勘違いしてくれた。
「そうですか。失礼しました。それでは…」
 以前会った人間を忘れている、という非礼を回避したかっただけらしい。すぐに具体的な話に入ってくれたので、ストリアスはそのままそれに従った。
 ファルラスからは大雑把にしか説明する時間がなかったとのことなので、まずストリアスの口から詳細を話す。そこでファルラスやエレーナから付け加えることも特になく、これからどう動くかについてへと話題が移った。
 茜商会がまた新たな来客を迎えたのは、そんな折である。入って来て頭を下げはするが、口を開いて挨拶はしない。極度に無口な性格、だからこそ、その人以外ではありえないと思える。
「…これは、ティアさん、こんにちは」
 そう挨拶をしながら、しかし今は相手の無言を勘ぐらずにはいられない。昨夜は完全なショック状態に陥っていたのだ。一晩で回復したと判断するのは安易と言わざるを得ないだろう。
 一方マーシェは、ごく基礎的な挨拶から始める。
「お初にお目にかかります。マーシェ=クラブレンと申します。今日から、ティア様のご依頼の件に関して、お手伝いをさせていただくことになりました」
 ティアはもう一度、無言のまま頭を下げる。彼女の性格等についても説明はしてあるので、マーシェは特に不思議がりはしなかった。
「御覧の通り若輩者ではありますが、腕には多少なりとも覚えがございます。ですから安心して成果をお待ちいただければ、あり難く存じます」
 士官学校生は事実上の騎士見習で、礼儀作法も騎士にふさわしいものを教わることになる。聖職者に十分な敬意を払うのもその一環だ。その意味でマーシェの言葉使いは特に奇異に感ずべきものではないが、しかしそこにはそれだけではない気遣いがあるようだった。
 だが、ティアは彼女のその真っ直ぐな瞳を正面から見据えた末、小さく首を傾げた。単純に任せることはできない、という意志表示らしい。さすがのマーシェも鼻白んだようだ。一瞬言葉がない。そもそも女性の身で戦士として相当の力を身につけている以上、いくら自分では若輩と言っていてもそれにふさわしい自負があると見ていい。まず間違いなく、不快がっている。
 さてどうしたものか、と臨時雇いを含めて茜商会の三人はお互いに視線を走らせた。しかし三人ともに、とっさに妙案は思いつかない。そもそもそんなものがあるなら、まわりを見る前に実行に移している。
 結局事態を打開しようと試みたのは、それを招来した当のティアだった。さすがにまずいと思って、言葉が足りなかったのを反省したらしい。
「私も、ご一緒します。お力添えに感謝します」
 つまりマーシェの力を疑っていた訳ではなく、待っていて欲しいと言った部分を否定したかったのである。今度はマーシェが困惑する番だった。
「それは…」
 茜商会の一同を見やる。すかさず口を開いたのは、ストリアスだった。
「昨夜はずいぶんと怖い思いをなさったはずですが、もうよろしいのですか」
「不覚は取りません。…二度と」
 小さな声だったが、そこに揺らぎは全く感じられなかった。表情に出しはしないが、彼女は彼女で自分の力量に対して強い自負があるのだろう。施療院の院長から、若手随一とされるほどの才覚の持ち主である。
「しかし…」
「この際判断は、現に動かれるお二人にお任せします。私どもとしてはご依頼主のご意向も、直接これに関わる方々の意見も無視はできません」
 ファルラスが判断を放棄する。エレーナは明らかに何か言いたげであったが、彼女としては雇い主の意向に逆らう気がないらしく、結局黙っていた。
「どうしますか」
 そして最終的に、ストリアスの判断も似たようなものだった。初対面のマーシェに意見を求める。
「でしたら是非、ご一緒しましょう」
 実にあっさりと、肯定である。前向きというのか楽天的というのか、ともかくこういう人間がいると話が進みやすいことは確かだった。ストリアスには自分が研究以外のことに関しては基本的に後ろ向きの人間であるという自覚があるし、ティアはそもそもどこを向いているのか分からないことが多い。
 ティアはこくんとうなずいた。話はこれで決まりである。

 とはいえ、いくら前向きに努力しても成果の出ないこともある。ストリアス、ティア、そしてマーシェによる捜索では、二日ほど取り立ててこれという手がかりを見つけることができなかった。他の調査員からそれらしい人物がいるという報告があり、ファルラスからその話を聞くことになったのは、三日目の夕刻である。
「場所はこちらに。ティア様にはまず、その人物がレンさんかどうかの確認をお願いいたします。こちらで直接その方の顔をご存知なのは、あなただけですので」
 差し出された紙片を、ティアとストリアスで確認する。紙そのものが粗末な割に内容は詳細だった。場所は歓楽街の一角らしい。
「向こうに見つからないように注意して下さい。もしばれると、場所を移されてしまう可能性があります。エレーナさん」
「はい」
 エレーナはうなずいて、包みを取り出した。中に入っていたのは、女物の服である。
「このような場所でそのお召し物は、少々目立ちすぎるかと存じます。こちらにお召変えられてはいかがでしょう。大きさはこれで良いはずですが、違うようならお申しつけ下さい。多少であればすぐに直せますので」
 確かに歓楽街で神官の衣装はまずい。念の入ったことに、服一式にはヴェールもついていた。顔を見られずに済む。
 ティアはうなずいて、着替えのために奥へ入っていった。
「僕はどうしましょう。一番面が割れていますよ」
 女性がヴェールで顔を覆っていてもそれはさほど奇異でもないのだが、男の覆面はそうではない。却って目立ってしまうおそれが強い。
「ストリアス様はこちらへ」
 万事抜かりはない、という顔でエレーナが手招きする。そしてしばらく後、ストリアスは感心しながら鏡を眺めることとなった。
「へえ…自分の顔じゃないみたいですよ」
 髪を黒く染めた上で油を使ってなでつけ、さらに眉も同じ色で太目に描いた。頬には少し影を入れて、輪郭を細く見せている。エレーナもやや満足そうな様子をのぞかせている。作業中、変装ですかと聞いてみた所、ただの化粧の応用だと答えた彼女だった。
「ええ。これで親しい方や、変装を見抜く特殊な才能がある相手でなければ、少しの間ならごまかせます」
「申し訳ありません、遅れました!」
 マーシェは謝っていても元気が良い。大きな声を上げながら入ってくる。首を振ったのはファルラスである。
「いえ、ちょうど良い頃合ですよ。それより、手紙でお願いした件の首尾はいかがでしょう」
「概ねうまくいきました。ただ、できれば時間帯としては夜明け前が望ましいのですが、こちらの都合を考えますと深夜にせざるを得ないかと」
「深夜なら上々ですよ。ご苦労様でした」
「はい。ええと…そちらの方は?」
 マーシェが指し示したのはストリアスである。本人とエレーナはこらえたが、ファルラスは笑いだした。
「えっ?」
「ストリアスさんです」
 いつの間にかそこにいたティアが、まだ事情の飲み込めていないマーシェに対して一見した所無感動に説明した。
「え…あ、ああ! なるほど」
「揃いましたね。それではお三方」
 表情を引き締めながら、ファルラスが三人を見渡した。
「さて。首尾よく行けば、この件はとりあえずひと段落です。ティア様だけは母子の問題にこれからも関わってゆかねばなりませんが、それは成功の暁にゆっくり考えれば良いことです」
 ティアがうなずくのを確認して、ファルラスは続ける。
「つきましてはまず、ティア様とストリアスさん。既に重々ご承知のこととは存じますが、今夜は戦闘が発生するおそれが極めて高くなっています。お三方の中でその種のことに関して最も素養があるのはマーシェさんですから、その場合にはそちらの指示に従って下さい。異論を唱えるくらいなら構いませんが、それでもマーシェさんが判断を変えないようならそれは命令です。よろしいですね?」
 ストリアスはすぐに、ティアもそう時間をかけずにうなずいた。ティアの内心は今ひとつつかめないが、ストリアスは年齢や性別にはこだわらない、合理的な性格である。年下の女の子の命令を受けるように、と言われてもそれが妥当な判断であれば素直に納得できる。
「それではマーシェさん。行動に当っては、あなた方の人命を最優先させて下さい。レンさんを連れ戻すことに失敗しても、恐らくまだ次の機会があります。しかし命だけは、取り返しがつきません。命を賭ける戦いをするのは、立派な騎士となられてからでも遅くはありませんよ」
「…承知しました。私の名と誇りにかけて、無事三人で戻ることをお約束いたします」
 少し間があった。何か不満なことでもあるのかな、とストリアスは感じたが、しかしファルラスは構わなかった。エレーナに細部に関しての説明をさせ、三人は早速出発することとなった。

 まず指定されたのは、とある酒場の二階だった。階下では酔漢の群れが騒いでいるが、上がってみると個室になっており、店に入った際危惧したよりは落ち着いた雰囲気だ。そのはす向かいの店で、レンらしい女性が働いているとのことだった。
 どうせ監視するなら真向かいの方が良いようにも思えたのだが、ついでにその店の様子をうかがってすぐに考え直すことになった。男女が逢引をするための店だったのである。三人ではかなり、入りづらい。二人でも十分に、色々と問題がある。
 そういった点も考慮して、情報をくれた調査員はここを用意してくれたようだ。彼はこれ以上近くうろついて怪しまれる危険を避けるべく、既に立ち去っている。その調査により対象の店には裏口があることが分かっているが、そちらはそちらで別の調査員が見張っている。
「さて…まず言っておきたいことがあるのですが」
 席に落ち着くなり、マーシェが口を開いた。
「何でしょう」
 ストリアスはその言葉で、ティアは顔を向けることで、聞く態勢に入ったことを表現した。それを見て、マーシェは傍らに置いた剣を握り直す。
「先程私は若旦那に無事三人で戻ると約束しました。当然できる限りそうするつもりですが、戦闘となるとどうしても、予測できない事態が起こりえます。やむを得ない場合には、私が敵をひきつけますから、その間にお逃げ下さい」
 真剣な目で二人を見渡す。ここ数日行動をともにしていて十分に分かっていたことではあるが、まっすぐな、接していて実に気持ちの良い性格だ。だからこそ悪いとは思ったのだが、ストリアスは笑ってしまった。
「ああ、それは駄目ですよ」
「は?」
 まさかそのように否定されるとは思っていなかったのだろう。マーシェは彼女なりの精一杯の誠実さを軽く流されてしまって、一瞬怒ることさえできなかった。そしてその間に、ストリアスは苦笑しながら説明を始める。
「こちらの方は味方を見捨てて逃げるなんてまねはしませんよ、絶対に。それが命令だとおっしゃられても、それだけは聞かれますまい」
 ティアはちらりとストリアスを見やってからマーシェに向き直り、こくこくと二度もうなずいた。息の合った連携に直面して、マーシェも困惑せざるを得ない。
「いや、しかし…」
「私もこう見えて、結構命知らずでしね。土壇場であきらめてしまうくらいなら、とうに止めています」
 世間一般で言う「命知らず」とは少し違う。勇気があるとは思わないが、本当に死ぬのが怖くないのだから、自分としても苦笑してしまう。
 ティアはもう一度、そして大きくうなずいた。
 無理もないことだがマーシェは完全に難しい顔で、腕組みをしながら黙り込む。しばらく考えれば分かってくれるだろう、そう思ってストリアスもティアも今以上に何か説得しようとはしない。
 そして、小さなため息が漏れた。
「致し方ありません」
 マーシェの腕が解かれる。残る二人がうなずいた、その瞬間だった。
 短く、鋭い音が耳を突く。二人が気づいたときには既に、マーシェの長剣の切っ先がストリアスの眉間にあった。
 とてつもなく、速い。剣の運びが全く見えなかった。人間の体の動きなのだから、実際完全に知覚が不可能だとは考えにくい。ただ、ちょうど注意がそれた時に動かれると、意識することが困難なのだ。その間の取り方、いわゆる隙の突き方が、非常にうまいのだろう。
「…!」
 やはり無言のまま、ティアが席を蹴って立ち上がる。しかしストリアスは、それを片手で制した。剣は相変わらず突きつけられたままだ。切っ先が、灯火に照らされて冷たく光る。それに構わず、ストリアスはマーシェを見上げた。もちろん、抜剣と同時に彼女は立ち上がっている。
 鋭い眼光が降りてくる。これに対して上げられる視線は、無感動なものだった。
 マーシェに害意はない。殺気を読むなどという特殊な感覚を働かせるまでもなく、考え、観察すれば分かることだ。元々ストリアスらの身を案じてのことなのだから、ここで危害を加えては行動に重大な矛盾がある。こわい顔をしてはいるが、矛盾が気にならないほど錯乱、あるいは激昂しているようには、とても見えなかった。
 冷静でいれば雑作もないことである。もっとも、凶器を持ち出されてそうしていられる人間は、中々いないのだが。
「…ふう。私の負けです」
 軽く首を振って、マーシェは剣を収めた。座り直してから、頭を下げる。
「浅はかな真似を致しました。誠に申し訳ありません」
「いえ、分かっていただければそれで結構です。何しろ命知らずなもので、気になりません」
「は…そうおっしゃっていただけると恐縮です」
 マーシェも、実際ストリアスが気を悪くしていないのを見て取っていた。謝辞を述べつつも、相手の神経構造に疑問を感じないではない。外見に反して実は修羅場慣れしているのかとも思えたが、しかしそれにしては反応が遅すぎた。
「もうしないで下さい」
 一方ティアは無茶な行動に怒っているのか、珍しくはっきりと釘を刺す。非が完全に自分にあるとは承知しているので、マーシェは確約した。
「はい。誓ってもう、致しません」
「それより、もしあの店にいるのがレンさんだったとして、その後どうするんですか。返せと言って簡単に返してくれる相手ではないことは間違いがないでしょう」
 話が終わってマーシェが先程の疑問を思い出してくれると都合が悪いので、ストリアスは話題を変えた。元々気になっていたことではある。
「ああ、はい。それについてはご心配なく。向こうが強硬手段に出たとのことですし、こちらからある程度実力を行使するのも許されるでしょう。大勢で押しかけた上で交渉します。そのための人間も、深夜にはここへくることになっています」
 交渉、と言っているが半ばは脅迫になるだろう。まあ、向こうは向こうで脅迫や傷害を仕掛けてきているので、いわゆるお互い様である。
「なるほど。それで、どういった方達なのですか」
「訳あって今は申し上げられません。ただ、力量面でも人格面でも、十分に信頼できます」
 下手にごまかすよりましだと思ったのか、マーシェはきっぱり言った。確かに、そのように言われると追及しにくい。
「あ…と。何も頼まずにいると店員に怪しまれるかもしれませんね」
 今度はマーシェが話を変える番、という所らしい。しかし彼女の言う通りでもあるので、品書きを取り出して適当なものを頼むことにした。三人とも飲酒の習慣はないし、そもそも今の状況を考えればそうすべきではないのだが、酒場で酒を頼まないのもおかしいので形式的に一人分だけ取っておく。実際は、残り二人分ということで頼んだお茶を三人で分けた。
 食べ物のほうは手をつけないのももったいないし、ちょうど夕食時でもある。そこでそれを食べながら、はす向かいの店を監視することになった。緊張で喉を通らないということもなく、ティアもマーシェも食を進めている。
 二人とも大物だな、などと考えているストリアスのペースは、彼女たちよりやや鈍い。もっともこれも別に緊張のせいではなく、元々食が細いのである。それに二人のように食べ盛りでもない。
「…あれは?」
 そのような成り行きのせいか、それらしい女性の姿を最初に認めたのはストリアスだった。
「もうちょっと明かりが欲しい所だが…」
 周囲に目をやりながら、マーシェがつぶやく。繁華街とはいえ、夜に人間の顔を識別するのは容易ではない。
「間違いありません」
 ティアがつぶやくように、しかし確かにそう言ったのは、その人影が店の中に入っていった直後だった。一瞬、内側からの明かりに顔が照らされたのだ。ティアが知っているよりずっと濃い、商売女風の化粧だったが、しかしそれでも顔立ちははっきりと分かった。
 真正面の店ではないことが、この場合は幸いした。真正面では顔が明かりに照らされた時点で、完全に後ろを向かれてしまう。
「後は真夜中を待つばかり、ですね」
「このまま何事もなければ」
 ここへ来て、マーシェは慎重だった。
 そしてしばらく後、彼女の心配が的中したことを、ストリアスもティアも思い知ることになる。次にレンが姿を現したとき、彼女は明らかに出かける様子だった。供をするかのように、ちんぴら風の男が一人ついている。
 ここで見逃しては元も子もない。三人は急いで店を出た。
「ちょっと嫌な感じがしますね。まるで見せびらかしているようです」
 一定の距離を置いて歩きながら、マーシェがつぶやくように言う。ストリアスは首をかしげた。
「何かの罠、ということですか」
「確証はありませんが。大体、見た所水商売をしているようですが、そんな女性がこの時間帯に外出するものでしょうか」
「私も水商売には詳しくありませんけれど、そう言われてみれば同感ですね」
「尾行として好ましくはないですが、致し方ありません。お二人とも私のそばを離れないで下さい」
 マーシェの指先が、剣の柄をなぞった。
「分かりました。なら、我々も周囲に気を使っておきます。これでも結構勘の鋭い方ですから、何かあれば分かりますよ。マーシェさんは前に集中してください」
「承知しました。少しでも不審な動きがあったら、すぐにお願いします。三人そろっての無事を最優先させる以上、すぐに走って逃げることになるかもしれません」
「分かりました」
 言いながら、あらためて周囲の気配をうかがう。今の所、不穏な感じはない。ただ、今歩いているのは繁華街である。人通りもまだかなりある。この状態で特に敵意だけを感じ取るのは非常に困難だ。
 もっとも、どれほど敵意があっても、この人々の中で具体的な行動に出るのは容易ではない。この近辺である意味身動きが取れないのは、お互い様である。
「ティアさん、尾行されているという感覚…気の流れは、分かりますか」
 今のうちに、彼女に確かめておく。その辺の事情をマーシェに深く突っ込まれるとまずいので、小声である。ティアは少し首をかしげた末、それを横に振った。そこで自分自身が尾行された際の様子を説明する。
「刺さるような、ざらつくような、それでいてねっとりとまとわりつくような、大体そんな感じです。人通りが少なくなったら、それに注意してみて下さい」
 素直に、深く、うなずいてくれる。ストリアスは付け加えることにした。
「あなたはあの院長が折り紙をつけるほどの方です。才能は僕などよりもずっとあります。だから、ええと…」
 自分の口下手さがもどかしい。襲撃を受けそしてあの覆面の男と出会った翌日以来、ティアは表面的には平静を保っている。動揺を示したのは、その夜だけだ。しかしこの間それとなく襲撃に気をつけていたストリアスが何より感じ取っていたのは、何となく張りつめた彼女の気配だった。多分どこかで、おそらくまずは平静を装うところで、無理をしている。
 頑張れ、とでも言ってやれば良いのかもしれない。しかし今、彼女は十分すぎるほど頑張っているとも思える。これ以上そうしろと言うのは、過酷な要求になるかもしれない。
 何か別の言葉を、と思ったのだが、しかしとっさに出てこなかった。まず話す内容を整理すべきだったと悔やまれる。
 そして彼女は、笑ってうなずいた。やはり口を開きはしなかったが、今はそれが最良であるようにも思われた


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