王都シリーズV
王都家出人調書


X 士官学校生 U


 歓楽街を出て、雑多な店が混在した区域を抜ける。方向は北だった。南側に大きな川があるこの王都は、そちら方向にごく緩くだが傾斜している。北側、都市の最も高い位置にあるのは宮城であり、周囲には貴族の館、さらにその他騎士や、富豪の館が多い。
 これは単に立地条件が良いせいもあるが、万一この王都で敵軍と干戈を交えることとなった場合、そのように高い塀や複数の建物を有する館は宮城を守る臨時の砦として使えるためだ。役所の分館なども、王宮等と連絡が便利なため基本的には北側にあるものが多い。
「誰か金持ちの酌でもさせる気なのか…」
 その地理を思い出しながら、マーシェはつぶやいた。戦術研究、実習の素材として、最重要拠点であるこの街の様子は概ね記憶している。そこへ、ストリアスが付け加えた。
「おびき出す気なら、幽霊屋敷街かも知れませんよ」
「ええ」
 ティアが少し不思議そうに、二人を見やった。基本的に行動範囲が下町、南側なので、北側にはあまり縁がない。うなずいてから答えたのはストリアスである。
「前の戦乱で持ち主が没落したり建物が損傷したりして、空家になったままの貴族の屋敷が複数あるんです」
 ストリアス自身は、王都の地理に関してさほど詳しくない。ただ、そもそも勤めていた魔術研鑽所も北側の一角にあり、距離的にさほど遠くない。噂を聞いて超常現象でもないものかと同僚と一緒に見に来たこともあるのだが、実際に幽霊が出ることも、その他何かが起こるわけでもない。ただ打ち棄てられた建物が並んでいるだけの場所だ。
「夜盗などの拠点になるといけないので、定期的に巡回が行われてはいるはずですが、普段は基本的に無人ですよ、あそこは。確かに、秘密裏にことを運ぶにはうってつけの場所のひとつです」
「さすがにお詳しいですね」
 士官学校生ともなると治安維持状況にも詳しいのか、とストリアスは感心した。ただ、返されたのは苦笑である。
「ええ、まあ。あの近所に住んでおりますので」
 実は近所であるのを良いことに友人たちと組んで肝試しに来たことがあり、いくら空家であるとはいえ他人の敷地への無断侵入を見咎められないよう、警備状況まで下調べをしたことがあるのだ。無論、言う必要がなければ、黙っている。
「ああ、そうなんですか」
 別段不思議がるでもなく、ストリアスはうなずいた。ティアも小さくうなずいて、また周囲への警戒を始める。
 やがて、レンと連れの男は「幽霊屋敷街」に達した。レンもそこが何と呼ばれているのか知らないらしく、何気ない様子で男に連れられて進んでゆく。これまで全く警戒した様子がないところを見ると、その男も噂を知らないのかもしれない。
「どうします?」
 難しい顔をして、マーシェが立ち止まる。完全に他の人通りが途絶えたので、距離をさらに広げた方が良い頃合ではあった。
 ストリアスもティアも、答えなかった。ティアは目をつぶって動きを止めている。彼女に話しかけようとするマーシェを、ストリアスは無言のまま手で制していた。
「誰か、います」
 やがてティアがつぶやく。彼女の視線は、ぱっと見たところでは誰もいない屋敷へと向けられていた。
「人数は分かりますか」
「近くだけで四、五人以上。その他にも、いるようです」
 神官の直観力は普通の人間をはるかに上回る。それを信頼して、マーシェは考え込んだ。わざわざ待ち伏せているとすれば、それは相応の戦闘力を持った人間である可能性が高い。いくら自分の腕に覚えがあっても、複数の人間を同時に相手取るのはよほどの天才か、ただの馬鹿のすることだ。
「迂回してみましょう。うまく行けば、待ち伏せを出し抜けます」
 このあたりの地理にはかなり詳しい。一度見失ってもまた追いつける可能性は十分にある。それならば、ストリアスにもティアにも異存はなかった。このまままっすぐ行くと、不穏当な気配の中心に突っ込むことになる。
 そしてマーシェは別の道を走りだした。このあたりは敷地の広い家が多いので、迂回するとなるとかなり大回りになる。速度を上げなければ追いつけない。体を鍛えている彼女にとってみればまだ全力ではないようだったが、しかし日頃運動に縁のないストリアスはかなりの苦行を覚悟した。息が切れる前に迂回路が終わることを願うばかりだ。
 ただ、その後ろ向きの予想はすぐに裏切られることとなった。彼自身の息も切れないうちに、後ろの方が騒がしくなって来たのだ。さらに、前からもばたばたという複数のあわただしい足音がする。他に音源のない街路でしかも高い塀に反響しているから確かではないが、しかし一人や二人ではなさそうだ。
「やはり待ち伏せか」
 マーシェがしてやった、という笑みを見せる。恐らく、おびき出そうとしていた相手が急に動きを変えたので慌てて行動をはじめたのだろう。もっとも自分たちよりはるかに数が多いらしい相手に対し、笑ってばかりもいられない。すばやく周囲に視線を走らせて方針を決め、ストリアスとティアに耳打ちをして位置を変えさせた。二人には塀を背に立たせて後ろから襲われるのを防ぎ、自分はその前に立ってかばう。
「何か御用かな、こんな夜更けに大の男が大勢で」
 鞘に左手を添えながら、右手を軽く浮かせる。抜剣まではしないが、これは抜き打ちの技に自信を持っているためだ。下手に抜いてしまうと当然相手を警戒させてしまうが、これならば奇襲効果が期待できる。先程ストリアスはその動作が見えなかったのを隙を突かれたからだと分析したが、そもそもそれ自体が十分に速いのである。
「ちょっと顔を貸してもらおうか」
 野太い声で答えたのは、大柄な男だった。いかにも強面で、手には剣を下げている。
「この刻限に若い女を誘うのにその台詞とは、少々無粋ではありませんか、剣士どの。今時士官学校の野暮天でも、もう少しましな言葉を選びますよ」
 マーシェの口は笑みを浮かべているが、目には全く油断がない。からかわれた男は明らかに気分を害していたが、すぐには攻撃してこなかった。うかつに踏み込めば手痛い逆襲を受けると、察知したのだろう。
 変わりにとでも言うべきか、答えたのはその背後にいた男たちである。こちらはちんぴら風の連中だ。
「へへへ、面白いこと言うじゃねえか、姉ちゃん。それならちょいと小粋な、楽しい所へ連れてってやるよ」
「そうそう、綺麗な着物も着られるし、毎日酒が飲める」
「それに稼ぎもいいぜ」
 下品な笑いが重なる。一人一人はマーシェと比べれば体格的にも劣る、一対一では喧嘩を売る気にもならないだろう男がほとんどだ。ただ、何しろ数が多い。二十人ほどもいる。それに混じって何人か、マーシェと正面から対峙している男の他にも傭兵らしい人間がいた。総体としては、ティアやストリアスを一応計算に入れても、とても正面から戦って勝てる数ではない。
「教養がないとは悲しいな。こんな時にも今時誰もだまされない文句しか言えないか」
 それでも、マーシェはへつらいはしなかった。口ぶり、それに状況から判断して、相手は女性を水商売や、あるいはもっと苛酷な環境で働かせて、その上前をはねているような連中だ。妥協する気など、絶対になれない。
「何だとこのアマ! 下手に出ればつけ上がりやがって!」
「今の態度のどこが下手に出ている! 礼儀を一から勉強し直せ!」
「いい加減にしろ!」
 不毛な口論に陥りかけたのを製したのは、マーシェの正面の傭兵である。ただ、それも別に彼女に好意的な理由を持っているからではなかった。
「下らん時間稼ぎだ」
「ばれたか」
 ここは「幽霊屋敷街」の外周付近に当り、人通りがないとも限らない。もたついて見咎められたら、まずいのは取り囲んでいる側である。
「恨みはないがこれも食い扶持のためだ。少々痛い目を見てもらうぞ」
 抜かれた鋼の刃が鈍く光る。マーシェも剣に手をかけたが、こちらはまだ抜きはしなかった。
「鍛えた技を敢えて自ら汚すものに、語るべき言葉はないな」
 そして相手を睨みつける。生じた均衡は、しかし彼女自身がすぐに破った。
「今だ!」
 取り囲んだ男たちが状況を飲み込むその前に、マーシェが背後にかばっていた二人の姿が消えた。彼女の正面の男は、ともかくマーシェだけでも制圧しようと剣を振るう。だが、それはむなしく空を斬った。
 壁などを背にした相手をうかつに勢い良く攻撃しようとすると、かわされた場合に武器をその壁に叩きつけてはじかれたり、あるいは刺さってしまって抜けなくなったりして、大きな隙を作ることになる。慣れた人間なら、それを見切って武器を扱うものだ。その分威力が弱まるおそれもあるが、相手は背後から襲われない代償として、後退するという選択肢を放棄している。決して不利というほどにはならない。
 しかしその予想を裏切って、マーシェは後退していた。塀と塀との間にもぐりこむ。それは二つの屋敷の間にできた、人一人通るのがやっとの隙間だった。材質や形状が似通っているため、夜目ではそれが別々の塀だと気がつきにくい。しかも三人は自分たちの体を利用して敵の視線をさえぎり、隙間の存在をごまかしていた。まずティアとストリアスを先に行かせて、最後にマーシェはそこに滑り込んだのである。
「このアマ!」
 図られたと悟ったちんぴらの一人が後を追おうとする。逃げる相手を甘く見た彼は、次の瞬間手痛い反撃を食らった。狭い隙間に入って動きの鈍った瞬間、待ち構えていたマーシェに鞘に入ったままの剣で殴り倒されたのである。結局抜剣しなかったのは、この狭い空間では自由に剣を扱うことができないためだ。剣と鞘と、二つも長いものを身に着けていては動きが相当制約される。
「馬鹿が!」
 剣を収めながらその場で動けなかくなった男を情容赦なく突き飛ばし、さらに踏みつけて傭兵は先に進んだ。マーシェの狙いはただでさえ狭い所に障害物を作って敵の行動を阻害する所にある。わざわざ助け起こしなどしていたら、その目論見にまんまとはまることになるのだ。踏まれた男はさらに後続の仲間たちにも踏みつけられ、マーシェにやられたよりもむしろ深刻な負傷をすることになる。
「マーシェさん、行き止まりが!」
 一方逃げた三人も、何もかも順調にというわけには行かなかった。程なくストリアスは、自分の前を進むティアのさらに先に、三方を塀に囲まれた狭い空間を見出すこととなった。
「正面の塀を乗り越えて! 両脇の壁が足場になるから!」
 後ろを警戒しながらマーシェは叫ぶ。ティアはその言わんとするところを理解はしたが、実際にやろうとするともたつかざるを得なかった。彼女が着ているのは変装のためのゆったりした女物の服であり、階段はおろかはしごですらないところをよじ登るには邪魔になることおびただしい。
 ストリアスはとりあえず、手を貸すことにした。
「きゃあ!」
 それが、これまで彼が聞いたことのある中では最も大きなティアの声だった。とりあえず彼女の体を押し上げようとして、力いっぱいお尻に触ってしまったのである。
「ごめんなさい、でも早く!」
 しかし恥ずかしがっている場合ではない。何よりまず不意の接触から逃れようとする反射が良い方向に働いたのか、ティアは程なく塀の上に立つことができた。そしてさらに、ストリアスが上るのを引っ張り上げてくれる。暗い中でも彼女が赤面しているのがはっきり見て取れた。
「先へ」
 そして、半ば突き飛ばされる形で乗り越えた向こう側へ入れられてしまった。一瞬怒ったかと危惧せずにいられなかったが、そうでもない。単にそこにいられては邪魔になると、そう考えただけらしい。塀の上に立ちながら、意識を集中させて気を整えている。
「ふうっ!」
 ティアが短い息を吐いた瞬間、閃光がほとばしった。間を置かずに男の怒りの叫びが上がる。攻撃法術を使ったのだ。
「ありがたい!」
 二人が塀を登る時間を稼ぐべく、近寄ってくる相手と格闘していたマーシェも、その隙に塀の上に躍り上がった。両脇の壁を蹴るようにした、一瞬の早業である。
「ティアさんを手伝って!」
 さらにそのままの勢いで、マーシェは内側に飛び込む。言われたとおりストリアスがティアに手を貸している間に、彼女自身は足元の物をつかみ上げていた。
「そらっ!」
 ちょうど塀のすぐ向こう側に落ちるように投げてやる。次の瞬間、またしても怒りの叫びが上がった。暗くて判然としないが、おそらく大きめの石か何かを投げつけたのだろう。普通の状態であれば簡単によけられる程度のものであっても、暗い中でちょうど塀をよじ登ろうとしているときに投げつけられては、たまったものではない。
 そうして時間を稼いだ間に、マーシェは逃亡を決め込んだ。連れの二人を先導しながら進んでゆく。どこかの邸宅の庭なのか、木々が生い茂っていた。
「足場が悪いから気をつけて」
 実際どういう植生をしているのか、悪意があるのではないかと思えるほど歩きにくい。特にティアの足取りは目に見えて遅くなった。彼女自身もたついているわけではなく、強引に突破しようとしているようだが、それでも頻繁に服のすそに枝やら何やらが引っかかってしまう。
「まっすぐ進めば建物があります。行けば後のことは分かりますから」
 先導を断念して、マーシェは二人の後ろについた。追いすがってくる敵を打ち払うしかないようだ。木々の間であれば、少なくとも全周囲から打ちかかられることはない。
「誰かいるっ!」
 しかしストリアスも、そのまますぐに進むことはできなかった。そろそろ視界が開けようかという場所で待ち構える者がいる、その気配を察したのだ。しかもそれは、何かざらつくような敵意に満ちている。数日前に出会ったあの覆面の男が、どこか思い出された。
「誰だ?」
 ただ、彼はストリアスのかすかな声を聞きつけると姿を現した。長身の青年だ。長剣こそ手にしているものの、声の調子がもっと若く、明らかにあの男とは異なる。

「あなたは!」
 夜の中に浮かび上がる姿とその声に、ストリアスには覚えがあった。とっさに名前が思い出せなが、しかし確かに複数回会ったことがあるはずだ。
「タンジェスさん」
 ティアにも覚えがあるらしい。その声で、ストリアスも相手の素性を思い出した。士官学校の学生、タンジェス。ということは、マーシェの学友である。ストリアス自身とは、奇妙な因縁かもしれない。
「え? ど、どちらさま?」
 しかし当のタンジェスは、むしろ混乱を深めているようだった。そこでストリアスもティアも、自分が変装をしているのだと思い出す。しかも二人ともまだ暗い木々の中である。多少会ったことがある程度の相手を識別できる状態ではない。
「タ、タンジェス?」
 そして追いついて来たマーシェも、驚きの声を上げた。一方の彼は彼女の声ならすぐに識別できるらしい。ただ、そこには聞いている人間が不安になるほどの敵意が込められていた。
「マーシェか。一体」
 目つきも恐い。この夜の中で、そこだけぎらぎらと輝いているようだ。
「話は後だ! 追われている!」
 それは正論中の正論だったが、しかしどこかにごまかしているような響きもあった。タンジェスは胡散臭そうな顔をしたが、しかし迫る多数の人間の足音を聞き取ってもいた。
「他の連中は?」
「多分もう少しかかる」
 マーシェは腰に下げた袋に軽く手を触れた。ストリアスやティアには分からなかったが、タンジェスはその意図を理解した。
「なら、とりあえず『城跡』で時間を稼ごう。俺が二人を先導するから、君は後ろを守ってくれ」
「分かった」
 手早く話をまとめて、四人は動きだす。少し方向を変え、木々の外周を回るようにしてたどり着いた先には、奇妙にごつごつとした外観の建物があった。タンジェスはそこに、ストリアスとティアを引き入れる。
「そこの道具を使って火を熾して下さい、そうしたらそっちにたいまつがありますから、それを点けて」
 勝手知ったるらしく、タンジェスは素早く指示を出した。他に展望もないので、ストリアスもティアも言われた通りにする。ストリアスが火を熾している間に、ティアがたいまつを持って来てくれた。
「一本じゃ足りません。できるだけ多く」
 ティアが手にしたものを横目に見ながら、タンジェスが指示を修正する。彼自身単にそうしているばかりでなく、窓を閉めてそこに支えを当てるなど忙しく動いていた。さらにやや遅れて入って来たマーシェは、その入り口をあたりにある物を使って手早く塞いでしまう。
 そしてマーシェとタンジェスは、火のついたたいまつを持って階段を駆け上がり、屋上にそれを掲げた。さらにストリアスとティアも屋上に招き入れ、その階段も塞ぐ。その間に、ストリアスらを追って来た者達はその建物を取り囲んでいた。ただ、入り口を塞がれてしまったのでにわかに手出しができないでいる。
「このガキ! 男なら下りてきて勝負せいやコラ!」
 ちんぴらの一人がそう言って挑発した。タンジェスは火の点いたたいまつを投げ下ろして、返答に代える。しかも思い切り、相手を直接狙う軌道で。殺意があったと誤解されても文句は言えないし、あるいは本当にあったのかもしれない。一応狙われた側が慌てて避けたので実害はなかったが、とりあえずタンジェスの頭に「平和的な解決」とか、「時間稼ぎの交渉」とかいう選択肢は全くないように見えた。
「あぁ? ヌルイこと言ってんじゃねえぞこの虫けら野郎。相手をして欲しいんだったらテメエで登って来いよ、オラ! 一対一でやるならいくらでも相手をしてやる。その度胸も腕力もない虫けらの分際で一人前の口を叩いてんじゃねえぞ! どうした虫けら、頭の中まで虫けらで言い返せないか虫けら! このケラチョがぁ!」
 柄、悪い。非常に。これではどちらが悪党だか分からない。士官学校というのは武術と軍略に長けているだけでなく礼節もわきまえた一人前の騎士を養成する所である、という話であるし、現にマーシェの言動を見ているとそれが間違ったことではないと思える。それが台無しである。
「なっ、何だとコラアッ!」
 一瞬あっけに取られて、その後どうにかそれだけ言った相手に構わず、タンジェスはストリアスに向き直った。
「あ、恐れ入りますが、ちょっとそちらの方の、お耳を塞いでおいていただけますでしょうか」
「は?」
 今度は実ににこやかに、それこそ礼儀正しく、要請する。突然のことに完全に対応力をなくして、ストリアスは反応できなかった。それは、「そちら」と言われたティアも同様である。
「ですから少し、そちらの淑女に私の言っていることが聞こえないようにしていただきたいのです」
 意外に根気強く、タンジェスは同じ内容を表現を変えて繰り返した。何か恐いものを感じて、ストリアスは言われた通りにした。ティアも大人しく、耳を塞がれている。
 そして、タンジェスは改めて建物を取り囲んでいる男たちに向き直った。
「この………野郎! 大方その……の………がすくみあがって手も足も出ないんだろうが! 一人前の…………持っているならさっさとかかって来い! それとも貴様ら………が………な………か? まあ、そんな大勢でたったの三人を追い回している連中なんて、所詮………だろうがなあ! あははははは!」
 ストリアスはティアの耳を塞ぐ手に、もう少し力を込めた。
 それはそれは、壮絶な内容であった。できれば自分自身としても聞きたくなかったので、多くの単語を意図的にかつ即座に記憶から抹消している。複数の単語が一応教養人であるストリアスなら絶対に言わないであろうものであったし、中には理解不能な語彙さえあった。その意味を推測することは、自分の品性に照らして避けたいと思う。ただ、それが人として、特に男性としての色々な意味での尊厳に、重大な侮辱を加える発言であることだけは確かだった。
 少なくとも、それをティアに聞かせない配慮をしたことが、タンジェスとしてみれば最低限の品位を守ったつもりなのだろう。
 自分のようにそもそも自分自身を棄てている人間、あるいは少なくとも「男」であることを棄てている人間でなければ、そんなことを言われて不快感を覚えないはずがない。
「この!」
 思ったとおり効果はてきめんで、暗がりの中でもはっきりと男たちの顔に怒気を見ることができた。しかも怒りのあまりとっさに言葉がない。ただ、中の一人が言葉の代わりに実力行使をすることを思いついたようで、先程タンジェス自身が投げつけた、まだ火の点いたままのたいまつを投げ返した。
「甘いわボケカス!」
 中々正確な狙いで自分に向かってくるそれを、タンジェスは足蹴にしてはじき返す。再び落ちたたいまつは、危うく別の人間の頭を直撃しかけた。位置関係上、下にいる人間の方が圧倒的に不利なのである。
「ああいう人だったのか」
 自分たちが敵意を持っている人間たちに取り囲まれている、という状況をストリアスは一瞬忘れそうになった。
「いや、まあ、人間誰しも不機嫌なときがあるものでして…。普段は我々学生の中では特に温和な方なんですけれど」
 学友が大暴れしている間、何やらこそこそもそもそと動いていたマーシェはそう弁明した。どうも彼が極端に荒れている理由に心当たりがあるらしい。
 彼女自身、タンジェスの問題発言をしっかり聞いているはずだが、とりあえず細かい内容については自分の中で聞かなかったことにしているようだ。
「なめてんじゃねえぞ!」
 怒り心頭に達して進み出た複数の男が、しかし次の瞬間すぐにひっくり返る。足の裏を押さえて悲鳴を上げていた。
「何だ?」
「さっきこれを撒いておいたので」
 しれっとした顔でマーシェが示したのは大ぶりの鉄の鋲である。それも尖った部分がそれぞれ別の四つの方向に突き出している。これなら適当に投げておくだけでも、必ずどれか一つの先端が上を向く。うかつに踏みつけようものなら足を傷つけ、動けなくなることは間違いない。どこから持ち出したのか、極めて厳重な防犯か、さもなくば城砦の防衛にしか使われないような存在自体が陰険な代物だ。その分普通に撒いていれば見咎められることは間違いないが、タンジェスが派手に動いている間隙を縫ったらしい。意外に姑息な手段も嫌いではないようだ。
「き、汚ねえぞテメエ!」
 少なくとも口は負傷していないので、足を押さえた男の一人が罵る。タンジェスはそれを冷笑した。
「そんな台詞はせめて、大勢の男で罪もない女性を追い回すなんていう卑劣な行為を止めてから言うんだな。こっちは負けられない戦いをしているんだ。貴様等などに対して使う正々堂々なんて、始めから持ち合わせていない」
 実力行使でも、口先でも、ただのごろつき、ちんぴらでは勝てそうにない。それを悟って、傭兵の一人が前に出た。先程マーシェとも相対した、おそらく男たちの中では指導者的な人間なのだろう。
「若造の割には良く口が回る。しかし負けられないと言っておきながら負けたのでは様にならんぞ。いくらそこに立て篭もっていても、この人数相手ではいつまでももたせられまい」
 頭数だけで考えても数倍の差がある。それにこの建物はそれなりの広さがあり、たった四人で多数の襲撃を払いのけるには却って大きすぎる。一斉に襲い掛かられたら、手の回らない部分が出る可能性が高い。そのことを、男は正確に見て取っていた。
「ただのごろつきが何十人集まろうと、ものの役に立つものか」
 言い返したのはマーシェである。それに構わず、男は続けた。
「どうだ、若いの。俺たちは別に、お前の命に用事があるわけでもない。何も見なかったことにしてそこを立ち去れば、お前は見逃してやらんこともないぞ。援軍の当てがない篭城は意味がないと、知らないのか」
「下種が。貴様と同じ基準が当てはめられたと考えただけで腹が立つ。誰がそんな誘いに乗るものか。まず貴様から殺してやるから、さっさとかかって来い!」
 自分で言った通りまた怒りだした。もう手がつけられない。それを却って好機と見たのか、相手は挑発した。
「そこまで言うなら仕方がない。降りて来るか塞いだ入り口を開けるなら、勝負してやらんこともないぞ」
「誰がその手に乗るか。そうした瞬間に袋叩きにするつもりだろうが。貴様が上がって来い貴様が。この俺が貴様のようなどこの馬の骨ともつかない輩と戦ってやろうといっているんだ。ありがたく思って少しは努力しろ」
「えらそうなことを言って、上ろうとしたとたんに何かするつもりじゃないだろうな」
 階段などを使わずにどこかを上ろうとしている時は両手がふさがるため、ほぼ完全な無防備状態だ。だからこそ、いま四人がいるような高い位置は有利なのである。例えばようやく上りきったかという瞬間に蹴落とされでもしたら、ひとたまりもない。
「まあそう言わずに上がって来てみろよ」
 どうもその気十分だったらしい。あまり説得力のある反論ではなかった。
「らちがあかない、やっちまえ!」
 さすがに相手も交渉を中断することにした。そもそもあれだけ暴れていたタンジェスを相手にちょっとでも交渉をする気になったその男の冷静さに、ストリアスとしては感心しそうになったくらいである。
「いいですか?」
 と、不意に間近で声が上がる。そこでようやく、ストリアスは自分がティアの耳を塞いでいたままであったことに気がついた。
「ああ、済みません。もういいです」
 この二人の妙な会話の間に、残り二人はさすがに機敏に動いていた。マーシェは撒かれた鉄鋲を避けながら接近してくる敵に対し、残りの鋲を投げ下ろしている。一方タンジェスは、マーシェが鋲を持ち出したのと同様どこからともなく甕を引っ張り出していた。どうもここは、ある種倉庫のような所らしい。二人とも詳しいところを見ると、彼らが普段から利用しているのだろう。
 そしてそれの蓋を開け、掲げてあったたいまつを近づける。程なく、甕の口からも炎が吹き上がった。中身は油、それも燃えやすい灯火用のものだ。そしてその状態で、見せびらかすように頭上に掲げる。その炎に照らされた彼の顔いっぱいに、不穏当な笑みが広がっていた。
「ち、ちょっと待て殺す気かあっ!」
「死にたくなかったらちゃんと避けろ!」
 下からの抗議に対しひどいことを言いながら、その甕を投げ落とす。割れて飛び散った油が、一度に燃え上がって炎の壁を作った。
 滅茶苦茶をしているようだが、火が収まらないうちはそこからの攻撃が不可能な、ある種の防壁になる。戦術眼はしっかりしているようだ。すると先程までの暴走ぶりも一種の戦術としての演技で、実は冷静なのかもしれない。もっとも、冷静であるのにあそこまでやるとなると、それはそれで人格そのものに問題があるような気もする。
 この事態に対してややぼうっとしがちなストリアスを見咎めたらしく、マーシェは指示を出した。
「そこに棒がありますから、上がってくる奴をつついて追い払って下さい」
 マーシェが示した先に、木製の棒が複数かけられていた。派手にたいまつを焚いているので、はっきりと材質まで見ることができる。そしてその脇には、似たような形状だが先端に覆いのかぶせられたものがあった。槍だ。刺し殺すつもりはなくとも、そちらの方が威嚇にはなる気がする。
「槍もありますけれど」
「それは腕力と技術の両方がないと扱えません」
「分かりました」
 確かに、言われてみればその通りである。当然ながらストリアスには槍術の心得などないし、重い鉄の武器を操る膂力にも欠ける。ただ振り回すだけなら木の棒のほうが良さそうだ。
 それを持って開いている場所へ向かう。見下ろしてみると、ちょうどそこには男が二人取り付いていた。
「あれ?」
「や、やあ」
「お、おう」
 見覚えのある顔だった。いつだったかストリアスに刃物を突きつけ、脅迫した二人である。
「どうも、お久しぶりで」
 儀礼上、そう挨拶する。二人が薄笑いを浮かべた瞬間、ストリアスは二人を叩き落しにかかった。挨拶をする程度のことはして良いように思えたが、少なくとも、彼らに協力する理由は持ち合わせていないのだ。腕力面では一対一でも向こうに圧倒的に分があったろうが、場所が悪すぎる。程なく二人とも追い払われた。
「このガキが!」
 その反対側では、とうとう上ってくるものがあった。指導者格ではないが、傭兵の一人だ。手には既に抜き身の長剣が握られている。散々苦労してすっかり血走った目で、一見する所無防備な少女を睨みつけた。
 が、それが油断というものである。彼女が彼に向けて軽く手をかざした瞬間、その体は大きく弾き飛ばされていた。
「うわ、飛んだよ」
 衝撃音にさそわれて横目で見やったタンジェスがつぶやく。飛ばされた体は、さらに次の瞬間下方の地面に叩きつけられていた。
「加減、できません」
 ティアのつぶやきは、あるいは言い訳なのかもしれなかった。やりすぎた、という顔をしている。ただ、程なくその男は勢いよく立ち上がった。頑丈で、しかも根性は十分にあるらしい。今の所四人とも相手を殺す気はない。しかしそれを続けていては、やがて追い詰められるだけかもしれないと思い知らされることとなった。


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