王都シリーズV
王都家出人調書


Y 魔術師


 最早退路はない。周囲は明らかに敵意を持った、自分たちよりはるかに数の多い男たちが取り巻いている。自分の身を守るだけならまだしも、マーシェはティアやストリアスを守ると約束したのだ。流血をためらってなどいられない。
「仕方がない。我が家伝の豪剣の切れ味、己の体で試してみたい者だけかかって来い!」
 マーシェが抜剣する。それは先程ストリアスに突きつけられたものだったが、こうしてほかの人間が持っているものと見比べると特徴がよく分かる。角ばった輪郭の無骨な代物だが、手入れは行き届いており刃先がきらめいている。何度も戦場で使われ、その衝撃に耐えて来たのだろう。元はもっと肉厚だったものが、使われるごとに研ぎ直されて今の形状になったと思われる。まず間違いなく、それで命を落としたものがいる。
「試し斬りにはいい機会か。ノーマ卿よりいただいた名剣だ、やられた奴は光栄に思え!」
 応じて抜かれたタンジェスの剣は長くやや細身だ。刃全体が、鏡のように磨かれて美しく輝いている。一種美術品のような姿だったが、そこに秘められた剛性をストリアスは見て取っていた。剣術の知識はあまりないが、その種の金属材料に関してならそれなりに詳しいのだ。職人が丹精込めて打ち上げた一品だが、こちらはまだ一度も人の血を吸っていない、新しい物のようだ。だから形が崩れていない。
 ティアはやはりしゃべらない。しかし彼女が力の限り戦う決意であることは、気の流れから良く分かった。元々依頼をもちかけたのは彼女である。それに応じて集まってくれた人々に、けが人を出すつもりはないのだろう。
 そしてストリアスにも、言葉はなかった。ただ、その意味はティアとは全く異なる。それは、苦い無力感のあらわれだった。
 魔術師は概して、神官はもちろん一人の騎士よりも戦力としての価値がはるかに高い。接近格闘戦に持ち込まれると弱いが、それ以前に極めて遠距離から広範囲に攻撃を加えることができるためだ。特に今のように防壁があって容易に接近を許さない状態なら、一方的な攻撃が可能である。
 魔術師としては平均的あるいはそれ以下としても、攻撃能力は攻城用の大型投石器さえ上回る。しかも投石器と異なり自分の足で簡単に歩けるから、機動力とそれに支えられた戦術的に高い柔軟性を持つ。その他の騎士や、兵士とうまく連携が取れれば、何十倍という敵にも対抗できるだろう。
 それを、ストリアスは知っている。魔術の使い方だけでなく、その危険性も十分に教わった。感情に任せて振るってよい力ではないと、繰り返し戒められた。
 その禁忌を、彼は破ってしまった。結果が現在のこのありさまである。痴情のもつれと斬って棄てられてしまえばそれまでのことで暴走し、そしてその原因が絶たれるや生きる気力もなくなり、ついでのように魔力も失ってしまった。
 魔力の喪失は心理的な要因によるものだ。それは改めて指摘されるまでもなく、自分で十分に承知している。そして今、それが必要になっていることは頭では分かっている。しかしそれに向けて、意識を集中させることができない。かつての自分は何故ああも懸命になれたのか、それが思い出せなかった。
「えい!」
 苛立ちを吐き出して、棒を握り締めて手薄そうな場所に立つ。そのときふと、闇の向こうに何かを感じた。
「マーシェさん?」
 自分でもそれが何か判然としないまま、問いかける。彼女はにやりと、笑った。
「黙っていてください。ちょっとの間だけです」
 そして近くにだけ聞こえるような声で告げる。タンジェスはそれを聞きつけて、彼女と同様の笑みを浮かべた。
「遅いよ全く」
 そして再び身を乗り出して挑発を始めた。
「おら、どうしたちんぴらども! ぶっ殺してやるからとっととかかって来いや! だんびら見せつけられたとたんにそのざまか! タマの取り合いする度胸もないくせに、この俺に喧嘩を売ってんじゃねえぞ!」
 どうも、演技の部分があるらしい。彼の機嫌が非常に悪いことはほぼ間違いがない。そのある意味うさ晴らしをしているような部分があったので今まで見落としていたのだが、その極めて攻撃的な言動には他にも理由があるようだった。
 ストリアスとティアは目を見合わせる。マーシェは改めて、念を押して口を閉じろという身振りをして見せた。
 ちんぴら連中は感情的には十分に挑発に乗っているが、タンジェスの罵声は一面では図星のようで、抜き身の長剣を振りかざした相手に向かってゆくほどの度胸はないらしい。そして彼らを先導すべき傭兵たちは、相手の言動に不穏なものを直感していた。いくら地の利のある場所に立て篭もっているとはいえ、異常なまでの強気ぶりだ。まるで、自分たちをそこにひきつけておくのが目的のようだ、そう思い至った。
「もう遅い。とっさにここに逃げ込んだにしては嫌に準備万端だったと気づくべきだったな。諸君らは文字通り、我々の庭に誘い込まれていたのだよ」
 そしてマーシェは一段高くなった部分に上って、それを演壇代わりにして胸を張る。声をかけられた人間たちが振り向いたその先には、既に数十人が武器を構えていた。四人が立て篭もっている建造物を取り囲む男たちを、さらに包囲するような状態だ。
 年齢は一様に若く、そして全員が剣を帯びていることから、素性は概ね分かる。タンジェスやマーシェと同じ、士官学校の学生だろう。
「ここは士官学校の演習庭だ。当直学生権限として、諸君らをまず不法侵入の嫌疑で拘束する。抵抗は無益だ、大人しく投降しろ」
 包囲した学生の一人が宣告する。それ自体は実に立派なものであったが、タンジェスは苦笑していた。
「よく言うよ。当直をさぼって抜け出していたくせに」
「我等が士官学校は、幽霊屋敷街の外れにあると言うわけです。何しろここも、元はまわりと同様の大きな空家だったそうですからね。この建物は訓練用の模擬城跡兼倉庫です。説明する暇がなくて、不安にさせてしまったことをお詫びいたします」
 マーシェはストリアスとティアに対して丁寧に頭を下げた。ただ、その顔は笑っている。敵を欺くにはまず味方から、だったのかも知れない。
 鉄鋲やたいまつなど、物が置いてある場所に二人が詳しくて、そしてそもそもそのようなものが備え付けられていて当然である。彼らはおそらく、何度もこの建物で訓練をし、またここから必要な資材を運び出しているのだから。
 教えられてしまえば、簡単なことである。主不在となった貴族の館なら、そもそも敷地も建物も大きいから大勢の人間が学ぶ学校に改装しやすい。衛兵詰所などの防御防犯施設はほぼそのまま訓練施設にも転用できるし、広い庭は現在この訓練用地になっている。それが没落貴族などの屋敷の跡である「幽霊屋敷街」に接しているのも、ある種当然のことだ。マーシェは相手の誘い込みを、とっさの機転で逆用したのだろう。
「分かって、いました」
 ただ、そもそもティアは欺かれていなかったらしい。マーシェが腰に下げた袋を指差して、首を振る。たいまつの光に照らされて、その下の方に口のようなものがついていると見て取ることができた。その口の周囲には白い粉が付着している。そこからこぼれたらしい粉が、マーシェの移動していた範囲に転々と落ちていた。
「ああ、なるほど」
 何かの都合で場所を変えなければならない場合に、後を追う仲間のための目印にするためのものだ。粉はかなり粒子が細かいようで、踏まれても掃かれても跡が残る。これを頼りに、あの店で深夜に合流するはずだった学生たちが、ここまで追って来たのだろう。
 士官学校の敷地に入ってしまうと木々が茂って暗いため目印はあまり役に立たなくなるが、そこまで来るとこの模擬城跡で派手に火を焚いて暴れまわっている人間がいれば、間違いなく気がつくはずである。タンジェスは単に頭に血が上って無茶をしていたのではないということだ。先程援軍の当てがない篭城は意味がないと言われたが、全くその通りだったのである。
 自分の気の回らなさ加減に、ストリアスは少しだけ呆れた。ただ、それで万事解決であれば、不満はない。自分自身の魔力も、自分のようなそれを使うべきでない人間が取り戻さずに済むなら、それに越したことはないだろうと思える。
「申し訳ありません」
 マーシェは笑って、もう一度今度はストリアスに対してだけ謝った。
「ああ、言っておくけれどね。下手に抵抗しない方が無難だと思うよ、本当に。士官学校生の何がいけないかって、習ったことを現に試してみたくてうずうずしている奴が多すぎるってことだ。袋叩きくらいならまだしも、手加減を間違って殺されるなんてことになったら、嫌だろう?」
 タンジェスは身を乗り出し、そして抜き身の長剣を持ったままで、器用に腕組みをする。たいまつの明かりから逆光になったその瞳には、冷たく乾いた淡い光が浮かんでいるようだった。目の前の敵ばかりでなく、もっと大きな範囲の何かを距離を置いて見据えている。そんな気がした。そしてそれが、あの夜に遭遇した覆面の男と似ているように思う。
 命のやり取りに慣れた人間が、そうでない人間を見る目だ。ストリアスはその直感が、間違いのないことのように思えた。何故なら他ならぬ彼自身が、あの少年と生きるか死ぬかの戦いを繰り広げたのだから。それも二度も。他の誰も、そして本人でさえ見てはいないであろう目の輝きの変遷を、彼は知っている。先程は忘れていても、今の彼を見ていては思い出さざるを得ない。取り返しのつかないことをしたのだ、それもまた、思い出さなければならなかった。
「今すぐ武器を捨てれば悪いようにはしない。無駄な抵抗をしなければ、レンさんの引渡しを条件に開放してもいい。しかし捕虜交換にしては数が多すぎるから、どうしても抵抗するなら多少間引く気になるぞ」
 一方マーシェが始めたのは、典型的なアメとムチ型の脅迫である。こちらの方が目に見えた効果があり、いまや取り囲まれる側となったちんぴら、ごろつきには明らかな動揺が広がった。
 傭兵たちはさすがにあからさまな反応を示しはしなかったが、しかし不利は十分に悟っていることだろう。元々さほど他の連中を戦力としてあてにはしていなかったとしても、壁や楯代わりになるとは思っていたはずだ。
 それに傭兵というのは単に金銭でしか雇い主とつながっていない分、捕虜、人質としての価値が低い。そのため不利な戦局で抵抗し、戦局の挽回や脱出に失敗した場合、最も情容赦なく殺戮の対象になる。実力もないのに潮時かどうかの判断ができない人間は、傭兵として長生きはできない。
 もう一押しで崩れる。それを、居合わせた誰もが察していた。
 その時だった。
「武器を捨てるのは貴様らだ、ガキども」
 林の奥から野太い声が響く。そして姿を現したのは、中年の男だった。彫りの深い顔立ちは整っていると言っても良いものだったが、しかし同時にどこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。眼光も鋭い。
 そして、その傍らには一人の女性の姿があった。レンだ。濃い化粧をしたその顔が、恐怖に引きつっている。首筋には、短剣が押し当てられていた。それを持っているのは、先程まで彼女と一緒に歩いていた男である。
 ティアが息をのみ、マーシェが歯噛みする。とっさに口を開いたのは、タンジェスだった。
「その人は元々そっち側の人間なんだろう? 人質にはならないな」
「ふん。そういうことはまず、仲間同士で相談しておくんだな」
 男は口をゆがめると、傍らの手下に合図した。短剣が動く。
「止めて!」
 ティアの制止も通じない。レンの首筋に、うっすらと血の跡が残った。
「貴様!」
 マーシェの憎悪に満ちた視線も、意に介されなかった。むしろにやついてさえいる。
「もう一度だけ言う。武器を捨てろ。今度は脚の腱でも切ってやろうか? 商売物だから耳や鼻を殺ぐ訳には行かないが、足なら逃げ出す心配がなくなる分、却って好都合だ」
「くっ」
 マーシェは剣を放り投げた。彼女はこういう類の男を最も軽蔑しているが、それだけに何をするか分からないとも思っている。タンジェスもやがて、大事にしているらしい剣を未練がましく足元に置いた。
「そこの女、ちょっとでも妙な動きをしたらこいつの命はないぞ。せっかく助けようとした相手を、みすみす死なせることもないだろう?」
 そして何とか術を使って状況を打開できないものかと様子をうかがっていたティアも、行動を制限される。どうも身分を見抜かれているようだ。
「私が代わりに人質になる。レンさんを放せ」
「いえ、私が」
 マーシェとティアが進み出る。相手は満面の笑みを浮かべた。
「いい心がけだ。素直な女は嫌いじゃないね。それなら二人とも、下りて来てもらおうか」
「人質なら一人で十分だろう」
 すぐに口を挟んだのはタンジェスである。他の学生たちも一斉にうなずいたり、賛同の声を上げたりした。
「黙れガキども!」
 いきなり怒声が上がる。そしてまた、男はにやにや笑いを浮かべた。そうやって、脅迫したり甘言を弄したりすることに慣れている、そんな人間なのだろう。
「色々とかぎ回られてこっちはだいぶ迷惑したんでな。侘び料を体で払ってもらうぞ。なに、見れば二人とも中々の上玉だ。一月おとなしく働けば帰してやらんこともない」
 いかがわしい店で働かせる、ということだ。学生たちの間から各所で怒りの声が漏れる。そんな中で一人が指摘した。
「それは誘拐だ。官憲に訴えればただではすまないぞ」
「ふん。やれるものならやってみな。お畏れながら、どこそこのなにがしが捕まって男にあれやこれやをされている、とな。そこらじゅうのさらし者になるぜ」
 とっさに反論できる者もない。例えばマーシェのように誇り高い人間がそのようなめにあわされたら、自殺するかもしれない。ティアのような神官は戒律によって自殺を禁じられているが、非常に高い倫理観を有しているだけに、それはそれで安楽とは言いがたい生を歩むことになる。
 そこへさらに、追い打ちがかかった。
「少し世間って奴を知っておくべきだな、学生さんとやら。こっちはこっちで女の居心地には十分気を使っているさ。一度何かの事情で店を出て行っても、すぐに戻っていてまた働かせてくださいって泣いて頼み込んでくる女はいくらでもいるぜ」
 例えどんな事情があっても、そのような所で働いていた経歴を持つ女性に対する世間の目は冷たい。結果他に働き口もなく、また以前と同様の方法で生きてゆくしかなくなることも少なくない。学生たちにとっては聞いたことがある、という程度の状況を、男は良く良く知っているのだ。
「分かった。今からそっちへ行く」
 マーシェとティアが、表情を消して階段を降り始めた。それを見た男が、嘲笑混じりに告げる。
「さて、士官学校の学生の皆様。恐れ入りますが、あの入り口の障害物をどかしていただけますかな。あれでは淑女のお二人が通れませんのでね」
 学生たちは殺意のこもった視線を集中させたが、程なく言われた通りに動き始めた。
「ああ、そこのお前! お前だけは動かなくていいぞ。どうもお前は油断がならない」
 しかもそうやって動きを止められてしまったのは、タンジェスである。不承不承、城跡の上に留まることとなった。
 同じ学生が作った障害物だけあって、学生たちはその排除の仕方も十分習っているらしい。さほど時間もかからず、とりあえず人一人通れる程度の道が作られる。そこを、ティアとマーシェは進むこととなった。
 何のかのと、慰めの皮をかぶった下品な嘲笑がごろつきたちから二人に浴びせられる。二人ともただ正面を向いて、それに対して反応をしようとはしなかった。
 恐らく、いつか隙を突いてレンを奪い返す気だ。二人の後頭部を見下ろす形となったタンジェスはそう考えていた。二人とも、大人しく言われるままになるような人間ではないことだけは確かだ。
 しかし相手も侮りがたい人間だ。特にマーシェやティアのような、根の正直な人間が思いもよらない卑劣な手段をとりかねない。そんな邪悪な印象を受ける。今二人を引渡してしまうと、取り返しがつかないことになるかもしれない。とはいえ、手元にレンを無事に取り戻し、かつマーシェやティアの安全も確保する手段など、持ち合わせていなかった。そんなものがあるとしたら、それは超常的な力に他ならない。
 そして、二人はレンの目の前に立つこととなった。彼女はどうして良いか分からないらしく、目を逸らしている。一方二人の背後には、それぞれ一人ずつ傭兵がついて長剣を突きつけていた。とても、そのままで劣勢を挽回できる状態ではない。
「レンは放してやれ。子持ちの年増女より、若い方がよほど役に立つ。色々とな」
 いやらしい笑みを浮かべて、男は手下に告げた。レンはよろよろと前に出る。恨みがましい視線を彼に向けはしたが、それも長いことではなかった。
「ふふん。まあ、そういうわけだ。いい勉強になったろう? 若いうちは色々経験しないとな。なあに、金さえ払えばこの二人にだっていつでも会わせてやるぜ。仲良くするといい。それも人生勉強だな。ははははは」
 勝ち誇った笑い声が響く。殺意に満ちた視線が集中したが、しかし彼はそれを意に介しなどしなかった。元々恨まれることには慣れている、そういう稼業だ。
 夜の闇の中を何かが走った。そうと気がついたのは、ごく少数の人々だった。
「今だ!」
 その叫びがあってもまだ、事態を理解したものは少ない。しかしタンジェスは、そのとき既に動き出していた。なるべく自分の近くにと置いておいた抜き身のままの剣を拾い上げる。
 ティアとマーシェに剣を突きつけていた二人の傭兵は、ともかくそれぞれの相手を人質として確保しようと動いた。しかしその瞬間、嫌でも気づかざるを得ない。手にした感触が異様に軽い。長剣が、二本とも鍔元から折れていた。
「たあっ!」
 激しい気迫とともに、マーシェがその身を躍らせる。全身の力を込めた拳をくらって、さっきまで彼女に剣を突きつけていた傭兵は見事に吹き飛んだ。
「ふうっ!」
 そして静かな気迫とともに、ティアが今まで密かに蓄えていた力を一度に解放する。それだけで、彼女に剣を突きつけていたもう一人も弾き飛ばされた。
「こいつっ!」
 先程までレンに短剣を突きつけていた男が、再び彼女を人質にしようと手を伸ばす。しかしそうした彼に待っていたのは、自分の肩に長剣が突き刺さるという事態だった。
 吹き出る血しぶきに彩られてなお、あるいはそれだからこそ美しい、やや細身だが長く、良く磨かれた鋭利な刃が光る。
「使え!」
 その声が誰のものか確認する必要も感じずに、マーシェはその剣を引き抜いた。持ち主が詳細を語らないので定かではないが、王都屈指の剣客、ノーマ卿から譲り受けた名剣だとのことだ。自分で握るのは初めてだが、しかし長らく使って来た愛剣のように手になじむ。剣身と柄と、重量の均衡が非常に良く取れているのだ。もちろん、元来十分な腕力と技量がなければそうとは感じられない。
「さあっ! 折角だ、誰か相手をしてもらわねば気がおさまらん。かかって来ないなら私から行くぞ」

 振りかざされた長剣に対して、さっきまでこの場を支配していた男は見る影もなく後退する。しかしそれに代わって、彼女の前に立つ者があった。
「ふん。別にこいつに立てるほどの義理もないが、しかしこうまでやられっ放しで引き下がった腰抜けを、今後雇う馬鹿もいないだろう。この際だ、相手になってもらう」
 まずマーシェと対峙し、そして戦闘の間指導者的な立場にあった男だ。それだけに、自分なりの誇りを持っているのだろう。雇われる人間を誤ったと誰よりも彼自身が感じているだろうが、しかしそれを口に出しはしない。自嘲的な笑みを浮かべながら改めて剣を構える。
「良かろう。ティアさん、レンさんをお願いします」
 相手から視線を外さないまま、マーシェが告げる。ティアは彼女に見えていないのを承知でうなずいて、レンの手を引いて後退した。
「はは。やっぱり、ストリアスさんでしたね。変装のせいでちょっと分かりませんでしたよ。お久しぶり、と言うほど、あれから日がたってはいませんか」
 そしてタンジェスは、苦笑しながらマーシェの剣を拾い上げていた。下では事態の混乱をそのまま表すように士官学校生と傭兵、ごろつきその他との間で乱闘が始まっていたが、彼はすぐにそれに加わるつもりはないらしい。
「は、ええと、その」
 言うべき言葉が見つからない。ストリアスは何となく、マーシェやティアの方を見やった。
「ああ、あいつなら大丈夫ですよ。この中では一番強いですから。横槍を入れようとしても迷惑になるだけですし、万一負けるような相手なら、その時は大人数で何とかするしかありません」
 マーシェと相手の傭兵は緩やかに円を描くように動き、互いの隙をうかがっている。ストリアスとしては正直な所その心配をしていた訳ではないのだが、しかし少なくともタンジェスの言う通り、横から手を出して良い状況ではいことは確かなようだ。
「僕は…」
 謝罪しなければならない、そう思っている。先の事件の際、ストリアスは彼に重傷を負わせているのだ。その後逆に重傷を負わされたが、それは自分が問題を起こさなければ起きなかった事態だと承知している。ただ、当のタンジェスはその表情の意味を誤解していた。
「ああ、大丈夫。魔術を使ったことはちゃんと秘密にしておきますから。そう、ティアさんに頼んで、あの人が法術を使ったことにでもしておいてもらいましょう」
 彼が気にしたのは、ストリアス自身がこの瞬間忘れ去っていた、魔術師としての身分についてだった。現在無期停職の身であり、本来術を使うことは法に反するのだ。そもそも、さっきまで術を使おうとしても駄目だったことさえ、忘れかけていた。気がついたら、攻撃魔術を使っていたのだ。あるいは何も考えないことこそが、正解だったのかもしれない。
「あ、はあ」
「あ、あの野郎! 待ちやがれ、って言って待つ馬鹿いないか。ちょっと失礼!」
 レンに短剣を突きつけさせていたあの中年の男が、混乱に乗じて逃げようとしている。タンジェスはそれを目ざとく発見していた。そして挨拶が終わらぬうちにこの場から姿が消えてしまう。階段など使わず、直接その方向へと飛び降りていた。
 抵抗している男の一人に乗り上げ、踏み潰すような形で緩衝材代わりにして着地している。その男を捕縛しようとしていた学友が目を丸くするが、タンジェスはそれに軽く謝っただけで先を急いでいた。直接追われていることに気がついた相手は忍び足を止め、全力で走り出す。しかしどうやら、タンジェスの方が足は速そうだ。捕まるのも時間の問題だろう。
 その脇で、マーシェの戦いはにらみ合いから撃剣に急転していた。立て続けの撃ち込みを受け、彼女は後退している。激しく散る火花が、その白皙の顔を照らし出していた。そしてとうとう、木が背中に当たる所まで下がってしまう。
 危ない、と思ったのは、しかしストリアスだけだったようだ。まるでそこで反動をつけたかのように飛び出したマーシェは、相手の繰り出した剣先をかいくぐるようにしてその脇を抜けていた。同時に、なぎ払われた長剣の平の部分を敵の胴に叩き込んでいる。どうやら殺さずに済ませる機会をうかがっていたらしい。崩れ落ちた背中を見下ろすその顔には、単に勝ち誇るだけでない笑みが浮かんでいた。
「何をやっていたんだろうな、僕は」
 やがて学生たちが制圧してゆく、その光景を眺めながら、ストリアスは何となくつぶやいた。そしてそんなつぶやきをもらすこと自体が、今までの気力を失った状態から脱しつつある兆候であると、うっすらと自覚していた。

 その光景を、そしてストリアスをも含めて眺めている男がいた。幽霊屋敷の一つの屋根の上に危なげなく立ちながら、見下ろしている。ただ、大勢が決したのを確認すると、そこから飛び降りた。まるで猫のように足音さえなく、途中わずかな突起などを経由しながら程なく地面に達する。
「何の用だ」
 そしてその近くで待っていた人間に、乾いた声を投げかけた。白いマントが月明かりに淡く輝いている。身分の高い神官の衣装だ。ティアやストリアスがその顔を見たなら、何故ここにと少なからず驚いただろう。施療院の院長だ。供も連れず、夜の街路に立っている。
「そんなに恐い顔をしないでよ。別にあなたの邪魔をするつもりはないから」
 降り立った男は覆面をしており、しかも暗がりを選んでいるので目つきも見えはしない。しかし彼女は、臆面もなくそう言った。見えていなくとも、分かることはある。
「それで?」
 男は感情を隠したままの声で再度質問する。特に隠す理由はないので、院長は正直に告げた。
「お礼を言いに来たのよ。この前うちのティアと、それからわたし達の頼みで動いてくれていたストリアス卿を助けてくれてありがとうございます、って。いけないかしら?」
 傭兵三人をほぼ一瞬で片付けてしまった恐るべき剣の使い手、その話を彼女も聞いていた。彼が立ち去った直後に駆けつけたのだから、知らないはずがない。
「礼が済んだら、今度は二人を脅かした落とし前をつける、というわけか」
 少しだけ皮肉に、覆面の男は笑った。院長はそれよりさらに苦笑する。
「まさか。あなたほどの腕の人間が本気になれば、殺気なんて感じさせる前に二人とも死んでいるわよ。言いたくはないけれど、それを叩きつけるなんていうこけおどしに、引っかかった二人の方が悪いわ。わたしも指導者の一人として、反省している所よ」
 今目の前に立っているのは、王都の闇に潜む中で、恐らく最も恐るべき男だ。院長はそう思っている。名だたる剣豪に全く引けを取らない力を持ちながら、虫けらを踏み潰す程度の罪悪感しか持たず人を殺し、闇にまぎれて姿を消してしまう。
 所詮ちんぴら、ごろつきの頭目に過ぎず、手下を使わなければ動けないグレスなどとは格が違う。その気さえあれば、たった一人で彼らを皆殺しにでもできるだろう。
「それならなぜ、わざわざこんな所まで来た。そもそも俺がここにいるという保障なんて、どこにもなかったろうに」
「折角一度は助けたのに、気がついてみたら結局それが無駄になるなんて、嫌でしょう。だから多分、どこかで見張っているんじゃないかと思ったのよ。駄目で元々でやって来たら、そこはそれということ。まあ、現場が二転三転したから、たどり着くまでにちょっと時間がかかってしまったけれどね」
「暇だな、君も」
 男は抑制を少し緩めて、あきれたという感情を表現した。
 院長の眉がぴくりと動いたが、自制する。とにかくこの男はたちが悪い。自分の感情表現さえ、交渉の道具にしかねない人間だ。ここで相手の挑発に乗っては、折角相手の意図を読むことに成功してできた、心理的な優勢が逆転されかねない。
「図星でしょう」
「さあな。何にせよ無駄足だ。俺は礼などいらんし、あの日も今日も、気まぐれで動いているだけさ。これからもな」
 そして男はまた闇の中に溶け込むように消えてゆく。彼自身、この場ばかりは劣勢だと感じていたのかもしれない。もっとも下がるべき時を見誤らない判断力と、その際逃げたなどという批判を恐れない胆力は、やはり侮れないと院長は思っていた。
「そう。じゃあまた、あなたの気が向いたら会いましょう。おやすみなさい」
 彼女としても、そろそろ潮時だ。本来多忙な身なので、暇だとか言われたのが本当は痛い。半ばふざけて丁寧に頭を下げてから、男とは逆に明るい方へと歩き出した。
 ティアや、そしてタンジェスが、いずれ決着をつけなければならない相手かもしれないとは承知している。しかし今はまだ、その時期ではない。来るとすればそれは、かなり遠い先だろう。力が違いすぎる。余計なおせっかいだと言われようとも、むざむざ返り討ちにあわせる気は彼女にはなかった。
 相手がこの場は引き下がったのは、戦いによって騒ぎが大きくなり、人目につく結果になるのをはばかったに過ぎない。英雄、勇者などと呼ばれ、殺し合いをしない神官でありながら並の騎士よりは余程強い彼女でも、できるのは他人が来る時間を稼ぐ程度に過ぎない。本気で彼と戦えば、倒されるのは自分だ。院長はそう感じている。
 ともかくもこれでひとまず、この事件の終息が決まることとなった。


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