王都シリーズW
王都怪談
5 かつての武人
四人が呼び出されたのは、大広間である。大事になりつつあるなと、ティアとしては思わずにいられなかった。
大広間、とはいっても小規模部隊が拠点としている建物の中での話だ。院長のお供で王宮に出入りすることもあるティアの目からすれば、それほど広いとも感じられない。かつての大貴族の館を流用した学校で生活するタンジェスやマーシェ、そして同様の建物で働いていたストリアスも同様だろう。また、男爵位を有する貴族の館としても、恐らく見劣りする部類に入る。
しかし、である。逆に考えると、そこはこの「狭い」社会における、紛れもない中心地なのだ。男爵以下の主だった人間にしてみれば、部隊としての公式行事を行う、つまり重要な職務執行の場である。一方末端の使用人であっても、いや、あればこそ、そこでの動向に自分の身柄が直接左右されることになる。王宮の内部が一般庶民にとって全く預り知らない世界であることを考えれば、この館における大広間の存在意義の濃密さは、凄まじいというほかない。
皆がそれとなく、あるいはあからさまに、注視する。そこはそんな場所だった。生来の無口さのおかげで目立つことのあまりないティアとしては、正直な所あまり居心地の良い環境ではなかった。目立つことが苦手、というよりも、慣れていないのでどう対処すべきか判断に困るのだ。
「実は自分で気になるほど、皆きちんと見てはいないものですよ」
ティアが身構えたのを悟ったらしく、ストリアスがそっとささやく。やや投げやりな考え方だという気がしないでもなかったが、しかし肩肘を張らない彼らしくあるようにも思える。それに、魔術師という否応なしに注目される存在だったという経歴を考えると、それなりの説得力があった。
軽くうなずいて、助言に対する感謝を示す。うなずきが普段より小さかったのは、自分がまだ視線を気にしている表れだ。それは分かっていたが、しかし今更訂正することもできなかった。
「ええ。まあ、あれほど人目を気にしないというのもどうかを通り越して、凄いとは思いますけれどね。いくら職業柄とはいえ」
それに関する話はすればするほど緊張するだけだ。そう配慮してくれたのか、ストリアスは話題を変えた。正面やや右手、上座の脇を、苦笑しながら軽く示す。そこではディーが、竪琴をかき鳴らしていた。
技術的にはそこそこ、例えば先程墓地で聞いた鎮魂曲ほどの「深さ」は感じられない。下女達の部屋で演奏していたときも同様だったから、それが彼本来の実力なのだろう。
しかしその演奏ぶり自体は、実に堂々たるものだ。悪い意味での緊張感はまるでなく、指先が緩やかに、弦の上を踊っている。事情を知らなければ、男爵に古くから仕えている楽士としか思えなかったことだろう。
…何、この人。ストリアスさんの言うとおり確かに目立つのが仕事の人だから当然なのだけれど、度が過ぎるとかえって不自然よね。なんだか、吟遊詩人以上に度胸を必要とする人が、それを隠すためにそうしているみたい。でも、そもそもわざとらしい所が多すぎるから自分の印象すら信用できないし、そもそもそこまで常に堂々としている身分って、考えられないわよね。
いや、一応、実は世の中にそういう人もいるのだけれど、それだけはありえない。何しろそれは「王族」とか、「英雄」とか、そういう世界だもの。彼を不当に貶めるつもりはないけれど、あの方々は別格よね…。
戦乱の時代からそれほど年月が経過していないだけに、現在そのように呼ばれる人々は本当の傑物揃いだ。単に誰かの血を引いているだけ、あるいは才能をもっていると装っているだけの人間が生き残れる状況ではなかったためである。そしてその本物のうちの一人、王族と英雄と、二つの要素を兼ね備える院長の身近に仕えているティアとしては、彼らと普通の人間との違いを身にしみて知っているのだった。
必要以上に気になるのは、注目を集める必要がある職業柄、彼がそう演出しているからだろう。自分にそう言い聞かせる形で割り切って、別の、そしてもっと重要であるはずの人間を見据える。
でも、意図的にそうしなければならない時点で、問題は相当深刻だわ。貴族とか将軍とか、そういう要するに偉い人は上座、注目せずにいられない場所にいるはずなのに…。
何とみすぼらしい人だろう。
それが正直な、感想だった。
ついこう考えちゃうから、うかつに口を開けないのよね。考え方とか感じ方とか本当にきついから、思ったことを全部言っていたら大事になるわ。でも、だからと言って口からでまかせもできないし…。
沈黙を守って、さらに表情も消しながら、ティアは第一印象を補正すべく細部まで観察してみることにした。
落ち着いた色合いでまとめられた略装…あの光沢は絹地かな? 審美眼は確からしいわね。まあ、それが本人のものか、それとも着せられているだけかまでは分からないけれど。ともかく男爵の身分には相応だわ。
でも、問題は着ているあの方本人。本人より服のほうが目立っている、服に着られている人は結構見るけれど、装いのよさを人間が殺しているなんて本当に珍しい。その点を考えれば、逆に目が離せないわよね。いい服っていうのは要するに似合う服のことだから、容貌に合っていない訳ではないのだけれど…。
ああ、そうか。生気が感じられないんだ。目が完全に、死んでしまっている。どれほど重い病にかかっていても、生きる希望さえ失っていなければ、ここまでにはならないものね。余命少ないと諦めのついてしまっている、どんな老人よりもひどい…。
…って、あれ? そもそもこの人、そんな年だったっけ? あの戦乱の時代にひとかどの武人、ということは当時それなりの腕力を持っていたはずよね。すると年齢は多く見積もっても中年、今は初老がせいぜいのはずだわ。
確かにそれなりの年月はたっているわけで、幼児だった私が今は一応一人前の神官になっていたりもする。でも、失礼な言い方をすれば若くないって、要するにその急速な時間の流れに取り残されるっていうことよね。
心の老いが、外見上の年齢を上げているのかしら。…いえ、年齢を重ねても元気な人だってたくさんいるのだから、「老い」と考えるのが間違えかも知れない。
つまりは単純に、衰えている。それが、年寄りのまがい物になっている。そういうことだろうか…。
ティアの見たところ、ヴォート=ブレアン男爵とは、そういう人物だった。
ああ、これは駄目だ。そんな落胆の気配が、士官学校生二人から伝わってくる。背筋を伸ばして表情を引き締める、そんな取り繕った外見が、むしろ痛々しい。
総責任者がこれでは、いくらジューアなどの部下が頑張っても、どうしようもないだろう。さらに、二人が感じているのは、そんな諦めに留まらない。諦め切れないものが、二人の背中に見えざる力となってのしかかっているようだ。
ひとかどの武人、それは二人にとって目標とすべき人物像の一つであるはずだ。究極の理想である騎士の中の騎士を目指すのならば必要な通過点であるし、また理想どおりになる可能性は決して高くないことを考えれば、終着点かもしれない。いずれにせよ、それを目指して、二人とも日々努力している。
もし二人の努力の報いが「あれ」だったら…やりきれないわよね、やっぱり。でも、二人ともそう簡単に挫折するような人だとはとても思えないし、そっとしておこう。騎士として自分の中で解決しなければならないことだろうから、神官の私が口を出しても仕方がないし。
一人で納得したティアは、考えを切り替えることにした。
神官は何をしているのだろう。それが同じ神官の身分を有する人間にとって、最大の関心事だ。
それはもちろん死者に祈りをささげるのも大事な仕事だけれど、遺された人に安らぎと生きる力を与えるのも同じくらい大事。確かに簡単ではないけれど、そういう現場に立ち会うことの多い私達は他の人の支えになってあげなくちゃいけない。
それでも男爵の心があそこまで荒廃しているということは、この場には神官がいないのよね、きっと。近くには住んでいるはずだけれど、男爵とは疎遠なのよ、うん。そのはず…。
そう思いながらティアは念のため、視線を周囲に走らせた。
そして、見えざる「何か」が、彼女の両肩にのしかかってくる。
いたのだ、神官が。それも部屋の奥の隅の方に、である。
一見した所目立たない控えめな位置だが、その意味を神官であるティアが見誤るはずもない。地上の権力と距離を置くのが神官の建前であるから、このような場所ではみだりに首座に近づいたりはしないものなのだ。神に仕える身にあるものを尊重するという騎士の配慮を無碍にしない範囲で下手に回る、それが神官として心得ておくべき儀礼である。
この場合、脇に退いているとはいえ奥、つまり上座に近い場所にいる時点で、扱いとしては最上だ。規模ははるかに大きくなるが、国王と院長がそろって公式行事の望む際の院長の位置なども、ほぼ同様であることが多い。王族でもあるのだからもっと上座にとなだめすかす大臣、貴族のお歴々を、表面上丁寧に応対しながらも事実上完全に無視して、院長は奥の隅にいるものなのだ。
極度に女性が苦手な某近衛騎士が、彼としては懸命の努力で「それ以上下がるのは勘弁して下さい。国王陛下の面子が立ちません」と視線で懇願していなければ、完全に末席まで行っていることだろう。
人に同情している場合じゃないわね…。一体どういう人がそこでのうのうとしているのかしら。
表情を消す努力を放棄して、ティアはじろりとその人物を見やった。
…なんだろう、この違和感。以前どこかで会ったかしら。いや、違う。私は話すのが苦手な分見聞きするのはしっかりしているから、同じ神官であっているなら覚えているはず。
とすると…ああ、そうか。直接会ったことはないけれど、似たような傾向の人を二人も知っているからそう感じられるのね。二人とも、とてつもない力を持った戦士。一人はノーマ=サイエンフォート卿、もう一人はあの方と互角に渡り合ったという、覆面のあの男…。
二人とも、気を読ませなかったわね。そして今、この人もそう。あの人間離れした人たちなら精神面でも防御が固くて当然だけれど、神官がそこまで身構えているって、どういうこと?
それはもちろん修行をしているのだからやろうとすれば私にも簡単だけれど、普段はそうしないのが常識じゃない。基礎的な能力が高いんだから、そうしているだけで雰囲気がとてつもなく悪くなるって、知らないはずがないのに。
それとも気の方面の修行は全くしていないのかな? まあ、きちんとした信仰心があれば神官にはなれるから、そっちの才能が全然ない人もいることはいるし…。いや、でも、それにしては防御に隙がないわよね。才能がないならどうしても揺らぎが生じるものだし。
うーん…考えても分からないし、少し様子を探ってみようかしら。よし…。
その精神の集中を悟って、傍らから、小さな声が漏れた。
「ち…」
ちょっと待って下さい、と言いたかったのだろう。やっていることばかりではなく、その目的まで見透かしているのだと思われる。
でもごめんなさい。もう間に合わない。
ティアは迷わず続けた。集中した精神の力を、一定方向のみへと圧縮して開放した。
気で、圧迫したのだ。
いつかある人物が、自分自身の気に関して「一人を狙うなどと器用な真似はできない」と言っていた。そして実際、彼の気の扱いよう極めては不器用だった。と、形容することも決して間違いではない。持てる力、それも並の神官や魔術師をはるかに凌駕する規模で、かつ明確な殺意を感じさせる。そんな精神力を問答無用で全周囲に拡散させて叩きつけていたのだ。その凶暴性を、強いて器用かどうかの基準で判定するのなら、極めて不器用だ。
しかし、ティアは彼とは違う。人間が立ち並んでいる中から正確に一人を、狙うことができる。
別に自分が優れているのではない。その意味は、ティアが誰よりも承知している。「あの男」が、尋常でない剣技を会得した余技として気を操っているのと異なり、ティアの気の技量は神官としての本業だ。そこで負けてしまっては、立つ瀬がない。
だからこそ、その気の力が相手を捕らえていることに、ティアは疑いを覚えていなかった。修行を積んでいない人間であっても、多少の勘を持っていれば、異変に気がつくはずだ。
「やりすぎです」
そして真っ先に反応したのは、ストリアスだった。ティアにだけ聞こえるよう、そっとささやく。
彼女の気は彼に向けられたものではなかったが、感づいたのも無理はない。彼は神官と同じく、あるいはそれ以上に気を操ることに長けた、魔術師だ。傍らを通り過ぎてゆく強い力に、反応しないほうがおかしい。
そして、相応の修行を積んでいない人間であっても、生まれつき勘の鋭い人間なら、その異変に気づく可能性がある。特に、少なからぬ人数が常識を超えた事態に不安を覚えているというこの場の状況を考えれば、目に見えない力を行使することは不安を助長する結果につながりかねない。
「すみません」
一応謝りつつ、ティアはその対象から目をはなしはしなかった。それにストリアスも、たしなめはしたがその相手が気になってはいたようだ。声をかけたのも、反応があって然るべき、その瞬間がかなりすぎた後である。
結果は、あくまで無反応。それをティアだけでなく、ストリアスも見届けていた。
「さて、どちらでしょうね。本当に気づいていないのか、あるいは、気がついていないふりをしているのか」
そしてそんな、彼の声が聞こえてくる。
ち、ちょっと! 言っている内容は確かにそのとおりだけど、分からないように探りを入れてるのに口に出したら元も子もないじゃない!
ティアはかなり慌てて、彼を見返した。もっとも、その動作は、事情を分からない人間の目からすればふと傍らにいる人物に視線をやった、その程度のものである。元々、感情表現が激しい性格ではない。そしてそれを、ストリアスは承知していた。
「大丈夫。誰にも聞こえてはいませんよ。今はちょっとした魔術を使っていますから」
ああ、言われてみれば確かに。口を動かしてはいないわね。というかそもそも、内容を信用するなら「言う」と表現していいか微妙だけれど。ともかく魔術の発動する気配は感じられるし。
でも、自分がそうやって察知できるということは、もしかしたら向こうの神官にも分かるはずよね。相手にストリアスさんの魔術師だという正体を明かしてしまうことにはならないかしら。
視線でその不安を伝えると、彼は正確に読み取ってくれた。
「ご心配なく。この術は目標以外に内容が分かる類のものではありませんし、対象をごく近くに絞っていますから、魔術の気配を目標以外の人間が知るためには、彼自身がこちらまで気を張り巡らせていなければなりません。多少訓練を積んだ人間なら多少不審に思うかもしれませんが、それを確かめようとすればこちらへの接触を余儀なくされます。向こうが何かに感づいて私に探りを入れようとするなら、そこを捕まえてください」
ティアはわずかにうなずいて、了解の意図を示した。ストリアスは挑発として、敢えて魔術を使っているのだ。それも、とりあえず気を叩きつけてみた彼女に呼応してのものである。批判する余地は、少なくともティア=エルンにとって一切ない。
そして、相変わらず、反応はなかった。その神官はただ、うつむいてその場にたたずんでいる。まるで、彼自身が亡霊か何かのように、だ。
まさか…。その疑問を、ストリアスはすぐさま、それだけに簡単に、確かめることにしたようだ。
「タンジェスさん、周りに気づかれないように答えて下さい」
ごく近い範囲以外には聞こえないような、かすかなささやき。しかしそれが、実際にそのようなものでないと、ティアにははっきりと感じ取れた。ストリアスの気は、相手であるタンジェスと、そして自分自身にのみ向けられている。その指向性が、直接対象となっており、かつ気の素養がある人間には分かる。
そしてタンジェスは、何気ない風を装ってストリアスに視線を向けた。魔術であるかどうかはともかくとして、その言葉が自分自身に対してのみ向けられている、それは余程勘の鈍い人間でなければ分かるはずだ。その程度の感覚がなければ、恐らくことばそのものを感じ取ることができない。逆に、実はティアにも分かるようにされている、とまで分かるためには、相当鋭敏な感覚が必要になる。
視線を向け、それでいて声を出さない時点で、自分の意図どおりに反応している。「何でしょう?」という意志表示だ。そう解釈したストリアスは、さらに魔術を使って彼とティアにだけ伝わる方法で続けた。
「そこの神官の方なのですが」
敢えて、方向性さえ指定しない。曖昧な表現をする。
もし彼が、この場にいる神官をティアしか認識できないのならば、彼女に注意を向けるはずだ。「そこ」というよそよそしい表現に疑問を感じるかも知れないが、ともかくその前提の上で神官がティア一人しかいない以上、そうするしかない。
一方、彼がティア以外に神官を認識しているのなら、方向性は難しくない。ストリアスが彼女の個人名を知っている以上、その呼び方は「ティアさん」になるはずだし、その事実を彼は聞いているはずだ。それを前提にすれば、今口にしたような回りくどい表現は、別の人間を指していることになる。
そして、彼の意識は、間違いなくその神官に向けられた。そのよどみのない気が、はっきりと感じ取れる。
「あの方が何か?」
ごく狭い範囲にのみ聞こえるよう押し殺した、そしてやや迷惑げな反応が返ってくる。
無理もない。彼にしてみれば、ごくなんでもない事実に関して、わざわざ人目を引いてまで確認を求められているようなものだ。状況がどう転ぶか不分明な現状では、不必要な注目を避けたいに違いない。
しかしそれこそ、ストリアスが待っていた、典型的な反応のうちのひとつだった。
「いえ…。見た所なんでもないならそれで結構です。私の気のせいでしょう」
状況の全てを説明しているには程遠い。しかし、嘘を言ってもいない。見えているか、否か、それこそが今最も必要としている情報だった。そして、タンジェスには明らかに、見えている。
それさえ分かれば十分だ。念のため彼がそれ以上行動に出ないようごまかしておいて、ストリアスは魔術の使用を終えた。あまり術に集中しすぎると、何か話しかけられた際とっさに反応できない。ほどほどにはしておくべきである。
この場には、男爵とジューア、そして今のところ名前の分からない神官以外、重要と思しき人物は見当たらない。後は兵士が居並んでいるだけである。まあ、元来人数が決して多くない組織であるし、それ以上は多すぎるのかもしれない。
そして、やや遅い感じもあったが、ともかくも彼は口を開いた。
「おいでいただいて恐縮です、神官どの。私はヴォート=ブレアン、この部隊の長を務めております」
応対そのものには、特に不審な点もない。ただ、彼のうつろな様子は相変わらずである。それがかえって不気味と言えば、不気味だ。
「お招きに預かり光栄です、男爵閣下。わたくしはティア=エルンと申します。施療院の末席に連なる者です」
ティアの応対が型どおりである主な原因は、もちろん彼女の無口さである。とりあえず決まった儀礼を暗記する知力はあるので、基本的にそれに頼っているのだ。ただ、今のうちはそうしておいた方が無難だとの判断もある。もっと口数の多い人間でも、慎重であるべく言葉を選ぶべきだ。
「ほう。施療院ということは、あの御方の下にいらっしゃるのですか」
「はい」
「ご壮健であられますか」
「はい。お恵みを持ちまして」
「それは何よりです」
ティアは精一杯やっている。しかし聞いていていたたまれなくなる、空疎な会話だ。傍らにいるマーシェはそう思う。
ティアが師事する院長は王族でもあり、貴族社会の中枢にある人物だ。辺境の平民ならまだしも、男爵位という立派な貴族身分を有し、またまがりなりにも王都郊外に在住する人間が、その動向を全く知らないはずがない。日常の些細な出来事ならともかく、病に臥しているかどうかくらいなら、例えその事実が伏せられていても、それとなく聞こえてくるものである。
無論、興味がないのなら世間のどんな事実も耳には入ってこない。あるいは聞いたとしても、じきに忘れてしまう。ヴォートの状態は、そんなものなのだろう。ただ、そうである以上始めから、健康状態を尋ねる必要などない。
その現実を完全に無視した、単に「会話をした」という事実だけが残る、完全に儀礼だけのやり取りだ。それは無論、煩雑な儀礼を逐次守るのも貴族諸侯の役目ではあるが、その制約の中でも機知を効かせるのが貴人の嗜み、というものである。
それに、ヴォートのような戦中派にとってこそ、院長は特別な存在であるはずだ。彼女の治療で一命を取り留めた騎士、兵士は数知れない。あの戦乱の時代を現国王の下戦い抜いた人間は誰しも、自分自身あるいは親しい戦友が彼女に命を救われたとさえ言われる。それゆえその戦いを勝利に導いた国王に次いで、将兵の尊崇を集める身なのである。神官という立場上政治や軍事に対する無用な介入は避けているが、その影響力は計り知れない。
これは本人にとってだけでなく、危険な兆候なのではないか。マーシェにはそう思えてきた。これでは騎士が最低限持っているべき、国王に対する忠誠心もあるかどうかも、怪しいものだ。それは国王を頂点とする組織である国家の中で、大きな問題の火種となりかねない。一個人ならともかく、小なりとはいえ一部隊の長がそれでは、いざというときそこに所属する人間、さらに関係する周囲の人間に被害を与えるおそれがある。
そんな不安をよそに、ヴォートはゆっくりと話を進めた。
「わざわざのご足労、痛み入ります。どうかここに眠る者達のために、お力をお貸し下さい」
「はい」
「ありがとうございます」
やはり、この人にとって興味の対象は死せる者達だけであるらしい。ここで話が途切れてしまった。ティアの口数が少ないのも原因ではあるが、この場合ぺらぺらとしゃべりかけるほうがかえって不自然だ。
さて、どうしよう。そんな空気が客人たちの間には流れかけたが、迎える側にはさすがにそれを何とかするすべを心得ているものがいた。ジューアである。
「男爵閣下。少々客人の方々にお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「うむ」
何をさせる気なのかしら。不安だけれどでも、あの沈黙に耐え続けるよりはましよね…。
ティアでさえ、そう思っていた。だから正直な話、この申し出にはほっとしている。
多少なりとも歓迎する雰囲気を感じ取ったらしく、彼は速やかに続けた。
「そちらのお二方は、高度な武術の訓練を受けている士官学校の学生でいらっしゃるとのこと。その腕前を、ご披露願いたいのです」
マーシェとタンジェスは、顔を見合わせた。
入学試験の時点で、既にそれなりの腕前を持っていなければ合格できない。それが士官学校だ。しかも教師陣は先の大戦を生き残った中でも特に技量優秀な、一流の戦士をそろえている。その中で、マーシェは同学年中最高級の実力者だし、タンジェスもそれにわずかに劣るとはいえ、上位集団の一角だ。自信はそれにふさわしいものを持っているし、何度かの戦いを経験してそれを証明することもできた。
しかし、何しろまだ学生、騎士の見習いであるので、人に見せるほどのものがあるとは考えもしなかったのだ。むしろここへ来る前、熱心にマーシェがノーマに教えを請おうとしたように、見せてもらいたいことの方が山ほどある。
困惑、というよりほとんど呆然としている二人を見て、ジューアは小さく首を振った。
「そう難しく考えていただかなくて結構だ。ここでは本来なら男爵閣下自らが兵らの訓練に当たるのだが、ここ最近閣下の体調が思わしくない。それゆえ今は私が代理を務めているのだが、小部隊ゆえ演武の相手にも事欠く状態なのだ。不躾な頼みで恐縮だが、是非協力をいただきたい」
要するに、そこそこ戦うことができれば十分ということだ。それならば、何とかなるだろう。マーシェもタンジェスも少し肩の力を抜くことにした。
武術の訓練で最も大切なのは、当然ながら現にやってみることだ。体に染み付くほど繰り返し練習した技でなければ、命をかけた戦いにおいてとっさに、しかも有効に繰り出すことはできない。一々やり方を思い出していては、その間に殺されてしまう。
ただ、この種の訓練だけだと、効率が悪い場合もある。教える水準を教えられる側にあわせざるを得ないので、どのような戦い方が理想なのか、それが見えにくいのだ。しかも現に自分が武器を振るっている状態がどのようなものであるのか、そうするのがやっとである未熟な人間が、自分自身で把握することは中々難しい。
そこで時には、優れた技量を持つ人間同士が、要するにお手本として、現にやって見せることも必要なのである。それに、こうした演武には、見ている人間の士気を高める効果もある。教えられる側が単なる観客になってはまずいが、しかし訓練の一環としてやる価値は十分にある。
しかしどうやらこの場には、ヴォートとジューア以外に、兵士達の手本になれるような人間はいないようだった。騎士身分を有しているのは見た限りこの二人だけのようだし、平民でも優れた技量を有する、要するに猛者とでも形容できる兵士も見当たらない。つい先ごろ徴兵された、という風情の若い兵士ばかりだ。そしてヴォートがあの有様では、ジューア一人で努力するにしても限界があるというものである。
それに、相手役を務めるのであれば、教える人間ほどの技術は必要ない。熟練した技を披露する必要があるほどの攻撃、防御をして見せて、そして演武をする双方にとって危険でないように振舞う、それができれば十分である。もっともその十分という域に達するのも、そう簡単ではないのだが。
学生二人はもう一度視線を交わす。そこに、迷いはなかった。むしろ何かを確認しているようでもある。その結果、小さくうなずいたのはタンジェスだった。
「それでは、わたくしがお相手をいたします。よろしいでしょうか」
「うむ。ただ、兵らの範とならねばならぬゆえ、剣術ではなく槍術でのお相手をお願いしたい。それでよろしいか」
一般の歩兵が使う槍は、騎兵用の長槍よりは短いが、長剣よりはかなり長い。腕力さえあれば技量が低くてもそれなりの威力を発揮し、技術が伴えば長剣を制すると言われる。つまり武器としては高い価値を有しているため、どこの国でも歩兵にはまずこの種の槍を装備させる。
ただし、これは騎兵への装備に向かないという欠点がある。騎兵ならばまずそのための長槍を装備するものだし、その補助武器としては用途の広い長剣があるからだ。要するに歩兵のための槍は、中途半端なものとなってしまうのである。扱い方についても騎兵槍や長剣と異なるため、使いこなすためにはまた別個の訓練が必要になる。
そのため騎士あるいはそれを志望する人間の場合、その扱いに習熟しているという保証はない。騎乗での戦闘が、主なものとなるためである。戦場に赴く場合、槍術に相当な自信でもない限り、徒歩用の槍は所持しないものだ。
それでも、タンジェスは迷わず答えた。
「結構です」
「うむ。それではお願いいたす」
ジューアにも不満はないようだ。これで、話が決まった。ディーがにわかに、早い調子の戦いの曲をかき鳴らす。しかしそれに対して、対峙することが決まった二人の人間は全く注意を払ってはいなかった。
続く