王都シリーズW
王都怪談


6 騎士と、未来の騎士


 タンジェス、ジューアの二人がひとまず支度を整えるために別室へと移動する。その間に、残るティア一行は広間の脇へと動いていた。演武をするなら上座の正面で、両者が対峙することになる。そしてタンジェスは、挑戦する側を演じる人間だ。それを計算した上で、マーシェが男爵配下誰に言われるでもなく、彼に近くなるであろうその場所へと仲間を案内していた。知識さえあれば、作法も便利なものなのである。
 左右の序列を含めて、上座下座の知識は始めから持っている。その上で、ティアはそんなマーシェへと視線を向けていた。
「彼なら大丈夫です。うまくやりますよ」
 変な信頼関係よね。正直な所、ティアはそう思う。
 口ぶりからして、マーシェさんはタンジェスさんを全面的に信頼してる。でも、タンジェスさんのマーシェさんに対する評価は、なんだかかなり微妙。能力は認めてるみたいだけど、人格に対してはどこかにものすごく根深い不信感がある。そういえば、普段騎士志望にしてはかなり温和なあの人が、この前はマーシェさんに対してずいぶん怒っていたみたいだし…。
 普通、信頼関係って相互に成立するはずよね。相手を信じるから、自分も信じてもらえる訳だし。まあ、一方的に信頼するっていうこともないではないだろうけど、それは信頼する側が騙されているってことよね。でも、マーシェさんがそれほど知的に劣っているとは絶対に考えられないし…。
 ティアの疑問の視線は、変わらない。その意味を、ストリアスがやや取り違えて、マーシェに問いかけた。
「槍に関しては、タンジェスさんのほうがうまいんですか」
 ファルラスから、タンジェス自身の発言として、マーシェの方が力は上だと聞いている。そのためマーシェが敢えて彼に役目を譲った理由を、そう勘ぐったのだ。それまでのいきさつからして、ジューアがそう明言する以前にも、槍の相手をさせられる可能性は高いと考えるべき状況だった。
「いいえ。自慢になるので言わずにおきましたが、私が彼に劣る科目は、何一つとしてありません」
 しかし彼女はすかさず、しかも力説する。彼女はしばしば大きなことを言うが、それは実力という確かな根拠を伴っている。その事実を、ティアもストリアスもある程度承知していた。それに、もし事実と異なることを言っているとすれば、もう一方の当事者であるタンジェスに確認を取れば、簡単に嘘だと露見してしまう。そこまで迂闊な嘘をつくような人間ではないはずだ。つまり彼女がそう言う以上、現実的にそうに違いない。
 信頼関係についての疑問については、どうも簡単に分かりそうにないので、ひとまず置くとする。そこで、ティアとしてはなぜ、マーシェが技量に劣るはずのタンジェスに相手役を譲ったのか、その理由を探ってみることにした。
「それでもなぜ、彼にやらせるか、ですか?」
 しかし、探るよりも早く答えてくれる。いやに早い、と思いつつ、ティアはうなずいた。そしてそれを不思議がるでもなく、マーシェは続ける。
「簡単なことです。それは私が女だから、ですよ」
 それはそうだけれど。何が言いたいのだろう? 少なくともマーシェさん自身や私は、疑いようもなく女性だと思っているのに。まあ、女だてらに士官学校に入っているくらいで性格も男勝りだから、中には大女だとか男女だとかお嫁にいけないだとか、口さがないことをいう人もいるかもしれないけれど。
 …今私、ひどいこと考えたかしら? まあ、ともかく。
 内心の揺らぎまでは分からないまでも、マーシェはティアの表情から疑問は読み取ったようだ。小声でつまり他の人間に聞こえないようにしながら、説明を続ける。
「ストリアスさん、それからタンジェス自身。後は…そう、ファルラスさんもそうですね。その皆様のように、女だから、あるいは男だから、そんな事実を『些細なことだ』と片づけで行動できる男性は、実の所そう多くないのです」
 ティアははっとする。一方、名前に挙げられたストリアス自身は、その内容を理解できず、少しであるとはいえ驚くばかりだ。男だから女だから、などということは彼にとって些細なこと、というより、考慮に入れることさえ珍しいのである。そこまで意識しないこと自体が希少、それが現実であるのだが、何しろ意識していないので本人としては良く分からない。
「世間の多くの男性は、女だから、あるいは男だからという事実にこだわります。もし、まず女である私を制したとしても、勝ったという実感は得られないでしょう。状況が許すならばその後で、もっと強いはずの男であるタンジェスに勝負を挑むはずです」
 一応仮定はしているけれど、内心では実際にやりあったら自分が絶対に勝つって思ってるわね、マーシェさん。口調が滑らか過ぎて白々しい…。
 やや硬いティアの視線に直面して、また自分でも聞きようによっては不遜だとの理解は本人にもあったらしく、すぐにつけ加える。
「逆に万が一にですけれど、私が勝ってしまえば、ジューア卿は内心、それも深い所でお怒りになるでしょう。何しろ女に負けたということは、表面的にはともかく、男性社会にとっては大きな汚点になります。あの方ならいずれ挽回する機会もあるでしょうが、しかしそれまでは、『女に負けた』という、本人にとっては汚名をかぶらねばなりません」
「しかしそれでは、失礼ですがタンジェスさんがもし最初に負けた場合、それならばマーシェさんにと挑んでくる可能性はありませんか」
 論理的に考えれば、マーシェとタンジェス、このどちらが先にやるかどうかについては意味がない。相手であるジューアは二人の客観的な力量について情報を持っていないのであるから、彼としては現に勝負する以外に、その優劣を確かめる手段はないためだ。
 それゆえタンジェスを制したとしても、マーシェの方が強いのではないかという疑念は残る。それを解消するためには、結局彼女と戦ってみるほかないはずだ。
「ないではないですが、しかし可能性としては、それほど高くないでしょうね」
 もしそもそも男が女より一般的に優れているなどと考える非論理的な傾向のある人間なら、女が男に譲ったというその事実をもって、納得することが多い。その行為は、男性が女性より優れているという彼の大前提に合致するためだ。そして万が一タンジェスが完膚なきまでに叩きのめされたとしても、事前にマーシェが彼に譲ったという事実があれば、その結果に満足せず彼女にまで挑みかかってくるという可能性は極めて小さい。
 一方論理的な人間であると仮定するなら、そもそも男女の別を過度に意識するとは考えにくい。それは詰まる所不合理な行為であり、仮定自体と矛盾するためだ。
 以上を、マーシェは淡々と説明した。
 ずいぶんきめ細やかに配慮をしているのね…。正義感が強いし実行力も人一倍だから、そういう不合理に対しては正面切ってぶつかっていくとばかり思ってたけど。うまく男を立てるって、どちらかというと「女らしい」ことを期待されている人間の知恵だわ。
 そんな意外な一面を知って、半ば驚いたティアはマーシェを眺めやった。そしてマーシェは、苦笑してから付け加える。
 その不思議そうな顔に気がついたらしく、マーシェは小さく苦笑してからつけ加えた。
「何しろ周りは男ばかりですのでね。時にはこちらの実力を思い知らせてやることも必要ですけれど、しかしいつもそれではきりがありません。馬鹿でなければ、あしらう方法は自然と覚えますよ」
 ティアは感心して二度ほどうなずいた。
 さすが、将軍を目指していることはあるわね。物事に正面からぶつかっていく勇気と、無謀な好戦性とを履き違えてはいない。偉い偉い。
 …って、あれ? その割にはこの人、突貫精神に溢れているというか、いざとなったらやたら燃えているというか…。もしかして、分かってやってる?
 ティアは慌てて首を上げたが、確かめる機会は与えられなかった。マーシェはすでに、別のことに意識を向けている。
「その点…いや、この話はまあいいでしょう」
 タンジェスとジューアが再び姿を現す。見習いである士官学校生も含めて、元来武官の服装はそのままでもある程度戦えるようにできているので、準備にはそれほど時間はかからない。その顔を見たとたん、彼女は自分から振ろうとした話題を打ち切ってしまった。
「あの中身、本物ですね」
 二人は先端に布を厚く巻きつけた、一見した所長い木の棒を手にしている。全体の長さは、タンジェスの身長を何割か上回っている、という程度だ。
 しかしその先端の布の中身を、ストリアスは魔術師特有の能力で見通していた。もっとも、そのような超常能力がなくとも、先端が鉄であるのか、そうでないのかはある程度外見から判断できる。
 その見極めをするのも、武官として必要な素養である。だからマーシェは、自信を持ってうなずいた。
「ええ。刃は落としてあるかもしれませんが、最低限鉄材は入れてあるはずです。刃のついている先端方向に重心が偏っている、というのが一般的な槍の重要な特性ですから、それを外してしまうと訓練としての価値が落ちてしまうんです。一応周りを綿で来るんでその上から布を巻いているので、触れた程度では危険はありません」
「しかしそれだと、もし何かの間違いで頭とかに当たったら…」
 いくら柔らかい素材で覆われているとはいえ、本体が硬質でそれなりの重量があるものが、勢い良く人体に当たれば重傷は免れない。しかも槍の長い柄というのは、その勢いをつける効果がある。命に関わる危険は多分にあるはずだ。
 ティアはそれを心配して表情を曇らせる。ストリアスも同感だったので口を開いたのだが、しかしマーシェは簡単にうなずいた。
「危ないですよ。一般の兵卒にさせない理由は、それも考えてのことです。もっとも、我々が普段使っている木剣でも、当たり所が悪ければ結果は同じですから。もう一度繰り返しますけれど、大丈夫、彼ならうまくやります」 
 剣であれば、真剣であってもある程度素材が均質なので、訓練用には木製のもので概ね代用できる。マーシェたちが普段使っているのも、木剣である。しかし激しい訓練に耐える固い木材で人の頭を殴ったらどうなるか、見習いでも武官であればその結果を理解していて当然だ。どこまでやれば人を殺せるのか、その力加減まで分かっていて一人前である。
 日常の訓練でさえ危険と隣り合わせ、そんな世界の住人にとっては、これも何ということはない出来事だ。そして別に、それをそうでない人間に理解してもらおうとは思わない。戦場の危険を知ることさえない、そんな安全な世界へ民衆を置くことこそ、武官の使命であるはずだからだ。そのためマーシェの言葉は穏やかで、そして熱がない。
 ただ、いたずらに不安をあおっても仕方がないので、つけ加えることにした。
「それに、始めうち何本かは、申し合わせの上で行うはずです。さすがに、お互いの力量を現に知らない状態で、無制限にするのは危険ですからね」 
 一度出て行ったのは、その申し合わせをする時間をとるためでもあったはずだ。しかし、ティアの不安そうな視線は消えない。隠し立てをしても仕方がないので、マーシェは白状した。今の彼女自身の発言内容で完全に安心するのは、はっきりいえば迂闊だ。それが分かっていなかった訳ではない。
「申し合わせをしたものが終わって、双方それで良いと判断すればそこまでです。しかしそうでなければ、特にこの場合ジューア卿が満足なさらなければ、その後は予告なしでの打ち合いになります」
 つまり、実戦に近い。それを認めた上で、この際だからとマーシェは続けた。
「恐らく、後者になる可能性のほうが高いでしょう。申し合わせはその後に危険がないよう、あらかじめある程度双方の技量を確かめておくという意味もありますから」
 申し合わせの段階までなら、そこそこの技量を持った人間であれば相手を務めることもできる。しかしこの場合、ジューアが求めているのはその程度ではあるまい。
 どうも話しすぎているような気がしないでもない。元来おしゃべりは嫌いでないのだが、しかし今は話が別だ。そんなことを感じながら、マーシェはまたも、結論に戻った。
「申し合わせが終われば、どちらか技量の高い方がうまくやります。少なくともタンジェスには危険がなく終えるだけの力がありますから、彼が勝っているのならそれでよし、ジューア卿に分があるなら彼以上に成し遂げるでしょうから、問題はありません」
 いつの間にか、戦いの曲が止んでいる。伴奏は論外として、声援さえも本物の戦いを印象付けることにおいては価値のない、むしろ余分でしかないものだ。そのことを、奏者は良く知っているようだった。
 打ち交わす武器の響き、時に高く時にかすかな足音、気合の声と荒い息遣い、それから、最後の一瞬に訪れる破砕音。それこそ、真の戦いの調べに他ならない。好むか好まざるかは個人の趣味の問題だが、しかしいずれにせよその意味を受け止められないような感受性では、どんな音楽を聴いたところで不毛だろう。
 上席であるヴォート、それから互いに礼をしてから、身構える。最早語るべき言葉はない。戦いとは本来間に何ものをも介在させないものだから、「始め」の合図も必要ない。機が熟したと感じた瞬間、そのとき始めるだけだ。申し合わせがないなら先にそう感じたほうが仕掛ける。そしてあるのならば、そう決められた方が素直に先手を打つか、あるいは受けて立つ方が隙らしきものを作って攻撃を誘うかである。
 静止した状態に目が慣れてしまう。あるいは自分はその、焼きついてしまった残像を見ているのだろうか。ティアがそんなことを考えた、そのさらに一拍後に、タンジェスがようやくその場を離れた。
 堰を切って溢れ出る水さながら、勢い良くそれでいて滑らかに、タンジェスが動き出す。そして、彼の槍先はそれよりもはるかに早い。滑らかさは、その体の力が無駄なく武器に伝わっている証拠だ。
「ふうっ…!」
 ごく短い呼気は、大きな唸りにかき消される。投石器でも使ったのではないかと錯覚するようなものが、ジューアの顔面に襲い掛かろうとしていた。
 完全に手加減なしだ。いや、あるいはしているつもりなのかもしれないが、直撃すれば危険であることに何ら変わりはない。今まで彼が怪我をすることばかり心配していたが、どうやら別の心配もしなければならないようだ。
 受け止める側が一つ間違えば、彼は人を死なせてしまいかねない。いくら双方合意の上の訓練であるとはいえ、そうなってしまった場合その結果はあまりに重過ぎる。
 そうなればそもそもの目的、噂の真相を突き止めることも非常に困難になる…とは、ティアもストリアスも実はこの時考えていなかった。そんな余裕など、ない。
「はああっ!」
 普通の人間には止めるどころか見切ることさえ容易ではない。その一撃を、ジューアが凄まじい気合の声とともに弾き返していた。力任せの荒業に見えるが、彼も人間離れした怪力の持ち主ではない以上、あれほどの勢いを単に腕力だけで返せるものではない。運動の方向性を確実に制御している。技量をも鍛え上げた上で、初めてできる芸当だ。
「てやあっ!」
 対するタンジェスも、その程度でひるみはしない。防がれたとはいえ、自分の態勢を崩されるまでにはいたっていなかった。それならば、むしろ守勢に回っている相手を攻め続ける、好機であるとさえ言える。弾かれた状態から無理をせず、そのまま斜め下へと打ち下ろした。狙うのは胴、もし刃のついた状態で生身に食い込めば、内臓をばら撒くことになるだろう。そして例え相手が鋼鉄の鎧を着込んでいたとしても、打撃力で態勢を崩せる。
 鋼鉄の槍身そのものの重さを加えた一撃、それをジューアは自分の槍の柄で受け止めた。わずかに後退して、威力を吸収している。
 そしてその後退は単に防御的な運動ではなく、態勢の変化をも意味していた。それまで前に踏み出していた右足を下げて、体の向きを変えている。柄が敵手の槍先を防いだのは、むしろそこから派生した円運動の、自然な帰結のように見える。
 ジューアの防御により再び重い衝撃音が走る。しかしそれに気を取られていたものは、肝心の瞬間を見逃すことになった。響きが終わるその前に、タンジェスの頭部にはジューアの槍が突きつけられていた。
「相手の間をおかない攻撃を、柄で返してからしとめる。槍術としてはごく基本的な型ですね。槍の初歩はとにかく突いて敵を寄せ付けないことですが、しかしさすがにその程度では『術』と呼べません」
 マーシェが落ち着いた声で説明する。彼女としては、やはりそれだったか、という感想を持っているのだろう。そしてそう言い終えてから、やや心配そうな視線をティアと、そしてストリアスに向けた。
 反応が全くないので、聞こえていないのだろうかと不安になったようだ。ティアにはそこまで、分かっていた。つまり当然、聞こえている。ただ、反応できなかったのだ。何と評したらよいか、それ以前に自分がどうその行為を評価すべきなのか、それが分からない。危ないことをして好ましくない、という感覚がまず生理的にあるのだが、しかしそれだけで済まされないことは当然理解している。
 その複雑な表情を読み取ったのか、マーシェは再び広間の中央、対峙する二人へと視線を戻した。既に、二度目の手合わせが始まろうとしている。それから注意を外してまで、わざわざ語って聞かせることはない。そう思ったのだろう。
 それから暫く、五度目の手合わせが終わるまで、彼女は黙っていた。
 黙っていたのは、彼女ばかりではない。館の主も、広間に詰めている兵士達も、そしてその様子をうかがっている召使い達も、言葉を発しようとはしなかった。口数の多すぎる吟遊詩人でさえ、口を閉ざして、そして竪琴を置いている。
 声を発しているのは、対峙している二人のみ。しかしそれも、意味を成す言葉ではない。ただ気合を込めている、それだけだ。その凄まじいまでの緊迫感が、居合わせた全ての人間の口を塞いでいるようだった。
「終わりですね」
 二人が最初の位置に戻ったのを見届けて、マーシェがつぶやく。ようやく何か言ってくれた、とティアは一瞬そう思ってから、軽い自己嫌悪に襲われた。一体誰が、普段この中で最も無口だというのだろう。いや、何しろ無口なので、現に言いはしないのだが。
 それに、その「終わり」がまた新たな局面の始まりでしかないと、すぐに分かった。別に手合わせが終わったのではない。申し合わせたものが、終わったのだ。
 タンジェスもジューアも、軽く汗をかいている。しかしそれは疲労というよりも、十分に体が温まった証拠だ。両者の体躯が、先程より一回り大きくなったようにさえ見える。
 さらには静止していながらも、現に手を合わせていたとき以上の気迫が溢れている。ここまで来ると特に修行をしていなくとも多少勘の鋭い人間であれば感じ取れるので、取り巻く人間のほぼ全てがそれに圧迫されていた。
 ふう…。なまじ感覚を鍛えているから、こういうときの息苦しさは人一倍だわ。せめてもの救いは、ここにもう一人同じように感じてくれる仲間がいるということだけれど…。
 ティアはちらりと、ストリアスを見やる。しかし彼の目は、虚ろだった。視線は一応広間の中心に向かっているが、さらにその先を見ているようでもある。
 別のこと考えてる。もう、どういうつもりよ…。 
 肩を落としてから、ティアは槍を持った二人に集中することにした。
 そんな彼女の気のゆらめきを、傍らにいたストリアス本人が感じ取れないはずがない。少なくともティアが期待したとおりに感覚が鋭敏であるのは間違いがないのだし、また、彼女の様子に慣れつつもある。神官として修行を積んでいることを差し引いても、基本的に安定した彼女の気配は、むしろ身近なものになりつつあった。だから、わずかとはいえ、それが妙に揺らぐのは察せられるのである。
 ただ、ストリアスも超人ではないので、その理由までは定かではない。ずっと彼女を観察していたのならともかく、見破られたとおりそれまでは、この場と完全に別のことを考えていたのだ。気がついたときには既に後の祭り、というよりも、そもそも自分が原因だったと判断する根拠すらない。
 目の前のジューアとタンジェスの演武と同様、今自分が考えても仕方がないことだ。ストリアスはそう割り切ることにした。だからこそ、別の思考に集中していたのである。タンジェスを、そしてティアを信頼して、彼らに任せるべきことはそうすれば良い。そして彼らの及ばない部分へ自分が力を注いだ方が、有益なはずだ。
 そして集中力は人一倍なので、そうしようとすれば周囲の状況に左右されることなく、自分の思考に没入することができる。そんな隔絶したありようが誤解を生むことがあるとは承知しているのだが、それも性分だと割り切っている、ストリアスだった。
 また、始まるようだ。それはストリアスにも分かっている。気の状態を察知できるため、その瞬間の読みはマーシェよりも正確なほどだ。精神状態がさらに攻撃的になる、それが気の変化となって現れるためである。ただ、やはり見る必要を感じていないので、そのまま考えを続けている。
「はっ!」
 最初と同様、先に仕掛けたのはタンジェスだった。ただ、今度は頭部や胸部などへの致命打を狙わず、ジューアが槍を構えたその右腕を突いてきている。利き腕への攻撃は成功すれば確実に戦闘力を奪うし、これを下手にかわそうとすると槍を持つ姿勢を崩すことになり、反撃が困難になるか、あるいは本来守るべき胴がおろそかになる。見掛けは地味だが実戦的な技だ。
「ふんっ!」
 しかしそれを、ジューアは簡単に払う。手元を攻撃してくるだけに、油断してさえいなければ手首を返すだけで無理なくに返せる、ある意味それだけの攻撃だったのだ。
「っしゃあああっ!」
 そしてそもそも、攻めに回っているタンジェス自身、単純な防御に回る気などかけらもない。払われたことを奇禍として、というよりむしろそれを予定したらしく、次なる攻撃に移る。
 先端が払いのけられた、その勢いは嫌が応にも反対側に伝わっている。その反動を生かして払われた槍の石突、槍の穂先とは完全に反対側の部位が、ジューアの顎めがけて襲い掛かった。
 先端部、つまり刃があるべき部位と同様、その反対側にも負傷を回避するための布が巻かれている。ティアはこの時ようやく、その事実に気がついた思いだった。無論見えてはいたのだが、ほとんど注意を払っていなかったのだ。
 それを、ジューアは槍を水平に構えて受け止める。そうして再度弾かれたのにもひるまず、タンジェスはさらに石突で攻撃を仕掛けた。しかも今度は左手を離し、右手だけで振り回すことで、両手持ちの際と動き方を完全に変えている。
 両手でさえ重いはずの槍が、まるで鞭ででもあるかのように軽々と舞う。大胆かつ華麗、そんな形容さえしたくなる変化で、今度は横なぎにした。
 それに比べれば、両手で槍を持ったままのジューアの動きが、ずっと鈍い。防ぐのがやっとにさえ見えた。
 しかしその印象が鮮明なうちに、状況が変わっていた。タンジェスが手首を返して、再び穂先で攻撃を仕掛ける。それを見計らって、ジューアが短く、しかし鋭く槍を叩きつけていた。
 まだ片手持ちをしていたため、タンジェスの槍が簡単に弾かれる。そしてその機を逃さず、ジューアはがら空きになった胴へと突き込んだ。
 タンジェスは体をさばいてそれをかわしたが、胴が無防備になった状態はそのままだ。ジューアの槍は、そのわき腹へと襲い掛かった。突き込みが、鮮やかに薙ぎ払いへと変わっている。
「ふんっ!」
 しかし、それも成功はしない。ほとんど手品か何かのようにそこへ現れたタンジェスの槍の柄が、ジューアの槍先と衝突していた。それも先程のように簡単に弾かれることもなく、確かに防いでいる。いつの間にか、彼は両手持ちに戻していた。
「ぬうっ!」
「くっ!」
 まだタンジェスの姿勢が万全ではない。力で押し勝てば、押し切れる。そう判断したらしく、ジューアはそのまま力を込めてゆく。実際タンジェスにはそれをかわしたりさばいたりするだけの余裕がなかったので、力技で押し返そうとした。
 結果、両者の動きが止まる。微妙に足をさばいたり槍の向きを変えたりして攻撃の機会をうかがうものの、両者ともにわかにはその状態を脱することができなくなっていた。
 歯を食いしばり、睨み合う二人の顔を、汗が流れ落ちてゆく。いくら先程の申し合わせでの演武の間に十分体が温まっていたとはいえ、単にそれから今まで激しい運動をしただけであれば、ここまでの発汗は考えにくい。二人とも、高度に精神を集中させている証拠だろう。その面では、やはり実戦と何ら変わるところはないらしい。
「む」
 今まで沈黙を守っていたマーシェが、ふと声を漏らす。変化は、その瞬間に起こった。
 力比べでは埒が明かない。そう判断を切り替えたのか、ジューアが後退する。押し勝ったそのままの勢いで、タンジェスがそれを追い込もうと槍を振り下ろした。
 それを、跳ね上がったジューアの槍の石突が迎え撃つ。申し合わせなしの演武が始まって以来、彼が石突を使ったのは初めてだった。遠心力を加えた一撃が、単に押し込んだだけのタンジェスの槍先を、完全に払いのけている。
 そしてジューアは再び鮮やかに槍を回転させて、穂先をタンジェスの喉元へと突きつけた。対するタンジェスも、その間に石突を相手の腹へと押し当てている。しかし後者がわずかに遅かったな、とティアは感じていた。
 それからやや間を置いてから、タンジェスが槍を下げて後退する。それに応じて、ジューアも槍を引いた。
「参りました。良い勉強をさせていただき、お礼を申し上げます」
 始めの位置に戻ってから、タンジェスがどこかほっとした笑顔で負けを認める。対するジューアは、軽くうなずいてから首を振った。
「いや、私が貴君ほど若かった頃には、とても今ほどの技量は持ち合わせていなかった。こちらこそ修行の必要性を改めて思い出させていただけたよ。礼を申し上げる」
「恐縮です」
 そんなやり取りを、マーシェがどこか冷めた目で見守っている。結局タンジェスが負けたことが不快だったのだろうかと、ティアはいぶかった。
 その意味を勘違いしたのか、あるいは何かごまかしたいことでもあったのか、ともかく彼女の視線に気がついたマーシェは口を開いた。
「まず先程、タンジェスが片手で軽々と槍を扱っていたように見えましたけれど、あれは別に彼が怪力だったのではありませんよ。槍は重心が前に偏っていますから、反対側の石突の方が、軽く素早く動かせるのです。動きが派手だったときには必ず、石突で殴ろうとしていたでしょう?」
 おもむろに解説を始める。とりあえず黙っているのが辛かったのかな、とティアは思い直した。マーシェはどちらかといえば、口数の多い性格であると思う。確かに不思議に思っていたし、それで彼女の気が済むならそれで良いと判断して、ティアは首を軽くうなずいて続きを促した。
「それに、槍の石突は金属か何かで補強してあることが多いです。構えていなければ地面につける部分ですから、木のままだと削れてしまいますのでね。それに物によっては地面に突き刺しておけるように、石突も尖らせている場合もあります。だからそちらで攻撃しても十分に殺傷力があります。無論重い部位での攻撃の方が破壊力に優れていますから、あれはあくまで変則的な扱いですけれどね」
 実際、彼女のいう「変則的な扱い」をしているうちに、タンジェスは不利な局面に立たされてしまった。ジューアの技量は、それに惑わされない程度のものだったと、そんな所なのだろう。
「それから終盤の競り合いに入る直前、無防備に見えた状態からうまく防いだのも、右手で石突を扱う軽さの応用です。まず柄をいち早く体の正面に戻して、それと同時に自由に動く左手を伸ばし、衝突する寸前に掴んで、相手の勢いを止めていたのですよ」
 なるほど、である。
 しかしそれにしても、言及が負けを自ら認めた側に偏っているように感じられる。学友をかばっているのかな? ただ、単なる身内びいきと思いやりを区別するのは難しいし、問いただしてよいものかどうか…。
 もっとも、ティアのその迷いを取り払ってくれたのはマーシェ本人だった。疑問に思っていると、気づかれてしまったらしい。どうやらマーシェも、ストリアスと同様ティアの表情を読んで話をするという癖を身につけつつあるようだ。
 確かに、ひいきだと思われても仕方がない。そんな顔でうなずいてから、しかし何故か少しだけ、彼女は考えた末口を開いた。
「勝因を的確に分析できるのなら、それは少なくとも敗者より数段各上ですよ。勝ち方が簡単に分かるものならば、何も苦労はないのですから。そこまでの優位がない人間としては、『勝った方が強かった』、あるいは『運が良かった』などと、分析にはならないことを言うしかありませんし、もし言ったとしても説得力を欠きます」
 それももっともだ。説明されれば、ティアはそう感じるしかない。
 ただ、戦士としては恐らく当然の認識を、それも頭も口も良く回るはずの彼女が言うにしては、やや時間がかかった気がする。結局疑問が残ったが、マーシェはそこにまでは答えてくれなかった。
「ご苦労。しかし少々頑張りすぎだぞ」
 タンジェスが戻ってきた。それに対して笑いかけている。対する彼は一瞬目を見開いてから、苦笑を返した。
「珍しいな。俺より君の評価が甘いなんて。俺としては適度にやったつもりだったんだが」
「無駄な力が入っていた。だから負けたと責めてやりたい所だがな。まあ、結果的にジューア卿の顔も立ったし、今回に限ってはこれで良しとしておこう」
 もし身分としては騎士見習いであるタンジェスが、正規の騎士であるジューアを叩きのめしたとすれば、後者の面目は丸つぶれだ。かといって、下手に手加減をすれば不自然な負け方をすることになり、ジューアその他多くの人間に怪しまれることになる。その二つの可能性を回避したことを、マーシェは評価しているようだった。
「教官や同級生以外に見られてやるなんて珍しいから、ちょっと緊張したかな。俺としては別に、そんなつもりはなかったんだが」
 タンジェスが首をかしげる。マーシェは微妙な顔をしてから、うなずいた。
「そうだろうな。まあ、今その話はいい。疲れているところを悪いが、それよりもすることがある」
「分かっているさ」
 いけない。危うく忘れるところだった。二人のやり取りを聞いていたティアは、正直な所そう思った。
 そもそも今回自分たちがここへ来た目的は、幽霊が出るなどという不審な噂の調査である。しかし命のやり取りに近い演武を見せられて、その認識がすっかり薄くなっていたのだ。
 いくら重い現実が目の前にあったとはいえ、当初の目的、特にこの場合自分の仕事を忘れてしまうのは褒められたことではない。自分を恥じて、ティアは少し顔を赤らめた。誰も見ていなかったのが、唯一幸いである。
 気を取り直して、今後の調査をどうすべきかと考える。そして事件は、まるでそのときを見計らったように起きた。
 突如再び演武が始まった。そんな激しい音が響く。慌ててタンジェスを見やるが、無論彼は身構えてなどいなかった。既に槍を、駐留部隊の兵士に返してしまっている。それはジューアも同様だった。
 手持ちの武器同士よりもずっと重い、何か大きなものが落ちるなどした音だ。とっさの驚きから開放されて、そう考え直す。そのとき既に、ジューアが行動を始めていた。
「閣下、様子を見てまいります」
 一応ヴォートに許可を求める台詞を口にするが、そもそも制止されると考えていないのだろう。相手が軽くうなずいたときには、既に歩き出している。その横へ、マーシェが並んだ。
「ご一緒してよろしいでしょうか」
 調査に当たる人間としては当然の判断だ。ティアも迷わず、それに続くことにする。部外者が介入することにジューアはやや難しい顔をしたが、結局折れた。そもそも不審な噂の解明に協力して欲しいとティアたちを招いたのが、他ならぬ彼である。むげにするいわれはない。
「どうぞ。当直の者は持ち場へ、非直の者、非戦闘員は追って指示するまで各自の部屋で待機せよ。ヒーム様、男爵閣下をお願いいたします」
 簡単に承諾してから兵士などに指示を与え、さらに部屋の奥へと声をかける。それに応じて、例の神官がゆっくりとうなずいた。「ヒーム」という名前なのだと、とりあえず分かった。どうも当てになるのかどうか疑問の残る人物だが、ジューアがああ言っている以上口出しもしにくい。とりあえずは、そのまま任せるしかなかった。
 そしてひとまず、足早にその音がしたと思しき場所へ向かう。その過程で、ジューアの表情は次第に険しくなっていた。
「この先は…もしや、男爵閣下のお部屋ではありませんか」
 その顔色を見て、マーシェがたずねる。主の居室というものは基本的に館の中で最も条件が良く、かつ警備がしやすい場所に作るものだから、初めて来る建物でも大体場所の推測がつく。城砦の中には侵入者を迷わせるために意図的に複雑な構造をしているものも少なくないが、それを見破りながら主要部分にたどりつくだけの能力が、攻城戦では求められるのだ。マーシェはそのための訓練を受けている。
 ジューアは答えず、ただその部屋の扉を開けた。鍵はかかっていない。
 やっぱり男爵の部屋ね…。
 ティアはそう思いながら、マーシェと顔を見合わせた。間取りや調度の配置は先程訪れたジューアの部屋と同様、つまり一人暮らしの騎士向けという簡素なものだ。彼の部屋に行っていなければ、平の騎士の部屋だと勘違いをしてもおかしくはない。ただ、調度品などがジューアのものより若干高価なように見えるので、男爵の部屋だと推測がついた。
 このような部屋に住んでいるとなると、妻子はいないらしい。妻については離別や死別、子供であれば独立や結婚など、様々な理由が考えられるが、とにかくここで同居していないことは確かである。
 しかし、今はその家族構成を詮索している場合ではない。そのことを、何よりもまず先程の大きな音の発生源が物語っていた。
 書棚が倒れている。それも、幅は長身のマーシェが両手を広げても届かないほど、そして高さは背伸びをして辛うじてもっとも上の棚の本に手が届く、という大きさのものだ。個人の部屋へ置くものとしてはまず、最も大きい部類に入るだろう。これより大きいとなると、余程読書好きの人間の書斎に置かれているか、あるいは図書館などにある、書架と呼ばれるものになる。
 しかも、中にはかなりの数書籍が入れられていたらしい。今はそれが、付近の床一面に散乱していた。
 全体としての重量は、相当なものがあったはずだ。ここまで重いとなると、それだけにそう簡単には倒れないだろう。何かの弾みで自然に倒れるということはもちろん、誰かが意図的に倒したと考えても、生易しいことではない。壁に接する形で置かれていたようなので、下手に力をかけて倒そうとすると、誰よりもまずその人間が棚の下敷きになる。死んでも不思議ではない。
「原因が何にせよ、尋常なことではありませんね。もし誰かが悪意を持ってこれを引き倒したとするならば、それはそれで大きな問題です」
 マーシェが深刻な顔で口を開く。ひとまず怪奇事件だという可能性を除外するとしても、それならばこの館には男爵の居室に侵入して内部を荒らす人間がいるということになる。これはこれで憂慮すべき事態だ。
「うむ…。と、マーシェどの、とりあえずこの棚をもとへ戻すのを手伝っていただけないだろうか。事件そのものを隠すことは難しいが、しかしこの有様を皆が見たとあっては動揺がさらに広がる。今のうちに片付けておきたいのだが」
「承知しました」
 まずは棚を立て直さなければ片付けのしようもない。ひとまず棚の上に落ちている本をよけてから、マーシェとジューアの二人は棚を持ち上げた。ティアもそれを手伝おうとしたのだが、身長が足りない。
「ティア様、それよりもそこの本をどけていただけませんか。このままではそれが邪魔になって、うまく置けません」
 棚の傾きがもう少しで完全に元に戻る、そんなときにマーシェが障害物に気がついた。そもそも本棚が収まっていた、その床の上に、今は一冊の本が落ちている。
 遅れればその分だけ二人に、重い棚を支え続けるという作業を続けさせることになる。ティアはうなずきながら、手早くそれを拾い上げた。しかし立ち上がったときに、少しよろけてしまう。かなり分厚い書物だったのだ。
「ふう…これでよし。後は本を戻すだけですけれど、ジューア卿、本の配置など覚えていらっしゃいますか」
「いや、さすがにそれは。今はとにかく入れることを優先させて、整理は後で落ち着いてから、誰か他のものにさせよう」
「承知しました」
 一応聞いてはみたが、しかし実の所安堵しているマーシェだった。完全に整理して元通りにするとなると、さらに重労働だ。本質的に几帳面な彼女自身としても不本意ではあるのだが、とりあえず深く考えずに、入りそうなところから順に入れていったほうが楽である
 その取り掛かりとして、彼女はまずティアが持っている本を手に取った。重く大きいものを先に入れておかないと、後半で棚の上など置きづらい場所に置かざるを得なくなり、非効率だ。
 しかし、彼女はすぐにそれをしまおうとはしなかった。くっきりとした眉をひそめている。表紙には「典礼大鑑」と記されていた。
 そしてその表紙に、大きな傷ができている。痕跡が直角になっていることから判断して、どうやら棚が倒れた際その角によってつけられたらしい。
 やがて作業を再開させながら、マーシェはどこかいいわけめいた口調で、手が止まった理由を説明した。
「ああ、いや。少々昔のことを思い出してしまいました。子供の頃に嫌々これを覚えたことがありまして」
 宮廷に出入りする人間にとっては必須とされる、儀礼の教科書である。必要な部分をかいつまんでだが、ティアも読んだことがある。膨大な事項を実に詳細に解説した、名著といえば名著なのだが、その分頭から覚えようとすると退屈極まる。そのため貴族諸侯や騎士階級の一部、一説によれば大部分から毛嫌いされている書物の一つだ。
 同じく散乱した本を片付けながら、ティアはくすりと笑ってしまう。
 タンジェスさんに言わせれば優等生のマーシェさんにも、苦手はあるのね。それ自体悪いことでもないのに、言い訳のような口調だし。
「それは、私も習うべきもの全てを好んではいません。嫌いな勉強もありますよ。私はあの頃から今まで一貫して、女官でもお妃でもなく、騎士になりたかったのです。しかし当時覚えなければならないとされていたのは、所作にせよ装いにせよ、おしとやかな女性向けのものでしたから」
 自分に苦手があるという、そもそもその事実を恥じているらしい。もっともそうやって、問題点を素直に受け止めることこそ、優等生の優等生であるゆえんなのだろう。しかも努力を惜しんではいない。話している内容からして、マーシェは何のかのと言いつつも、騎士階級の女性にふさわしい行儀作法を身につけているようだ。
 何となく、微笑ましい。ティアは素直にそれを表情にして表した。結果、マーシェは照れたのか話題を変えてしまう。
「それにしてもこれは、高価な本ですよ。せっかくのものが傷ついてしまって、もったいない。中身が無事なのが不幸中の幸いですけれど」
 ティアが確認した傷を、マーシェも見取っていた。しかし彼女が幸いと言っているように、本文そのものまでには損傷が及んでいないようだった。これならぐ、装丁を変えることでそれなりの状態を保てる。
 それにしても、育ちが良いせいか物に対する執着が少ないマーシェが、珍しく物質的な損失を残念がっている。
 意外と愛書家…とか言ったら失礼か。文武両道を重んじる人となり、と評価してあげるべきよね。
 そう判断してから、ティアはもう一人の様子をそれとなくうかがった。
 傍らのジューアは、あくまで淡々と片づけを続けていた。距離から考えて話が聞こえていないはずがないのだが、しかし全くの無反応だ。
 宮廷式の儀礼など、この狭い社会でやってみたところで何の意味もない。何しろほぼ全員が身近に生活しているのだから、堅苦しい行儀作法をした所でその奥にあるものが簡単に見通せてしまう。無理に頑張ったところで、むしろこっけいなだけだ。その現実を見据えているようである。
 彼が黙々と作業をしてくれるおかげか、次第に棚が本で埋まってゆく。その題名をさりげなく目で追ったティアは、疑問を感じ始めていた。
 さっきの「典礼大観」に始まって、「普通」の本が多すぎる。辞書に事典、王国の地理所や歴史書。貴族なら当然持っているべき教養に関するものばかり。その他に突出した傾向や分野がなくて、持ち主の個性が全く見えてこないのがかなり不気味…。
 例えば昔名を馳せた武人だというのなら、兵学や戦史、あるいは武術に関する本が一杯あっていいはずなのだけれど…。それもあまりないわね。まあ、ないではないけれど、むしろ全般的に武芸を重んじるこの国の貴族としては、少ない方だと思う。
 以前とは違うのだから処分した、とも考えられるけれど、大量の蔵書を整理するのもそれはそれで大変な仕事だし。正直な所、今のあの人にそこまでのことができるとは考えにくいわよね。
 単に男爵の衰え、無気力では済まされない何かがここにある。台を使わないと手の届かない棚の最上段以外が全て埋まって自分にすることがなくなった時点で、ティアはその正体を考えることに集中していた。
 その分、大事なことを考えるのを忘れていた、そう彼女自身が気づいたのは、かなり後になってからである。一方マーシェは、そのことに始めから気がついていた。そもそも、自分以外の人間が気づかないよう広間を出て以来一貫して振舞っていたのである。

続く


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