王都シリーズW
王都怪談


8 浴場の少女たち


 やがて、ささやかだがそれなりに楽しい晩餐が終わる。その頃合を見計らっていたらしく、入室してきた使用人が片づけがけら、五人に現在の状況を伝えてくれた。寝室の支度は男性用の三人部屋、女性用の二人部屋とも既に終了、望むならいつでも就寝できる状態にあるとのことである。また、湯浴みの準備もあるという話だった。
 丁寧に労をねぎらう言葉をかけて、マーシェはその使用人を下がらせた。そしてティに向き直って、声をかける。
「湯浴みができるそうですよ」
 そうですよも何も、今しがた一緒に聞いたばかなのだけれど…。
 その真意を測りかねつつも、しかし別に嘘偽りがないことも明らかなので、一応ティアとしてはうなずいておいた。ただ、そのついでに自分としては十分不思議そうな顔をしていたつもりだったのだが、相手はその疑問に構わず自分の勢いで続ける。
「せっかくですから、ご一緒しませんか」
 はい?
 思考が、完全に空白になっていた。そのかわりか、何か暗い色をしたものが何度も視界をよぎる。それが自分のまばたきだと気がついたのは、やや時間がたってからである。
 ま、まずい。固唾を飲まれている。さりげないふうを装いつつも、残る三人が全員なすすべもなく様子を見守っている。
 マーシェから視線を外せないまま、ティアは鋭敏な感覚でそれを察知していた。
 そして声をかけたマーシェはというと、ただ彼女をじっと、輝きを浮かべた深い色の瞳で見つめている。時間的な面から考えて、彼女も瞬きをしているはずなのだが、しかしティアにはそうしている様子が何故か感じられなかった。
「…分かりました」
 結局、何故かその視線に負ける。明らかに弱々しく、答えるティアだった。
 無口であるため誤解をされやすいが、実の所小さな声でしゃべることは珍しい。何しろ話す以上は重い口をあえて開いているのだから、その場合にはそれなりの自信があるのだ。そして限られたものを無駄にしないよう、なるべくはっきり話すよう努力している。
 そもそも話す機会が人並外れて少ない、そのうえその中で小さな声を出す場面がごく限られている。つまり小声のティアという本当に希少なものを、この時居合わせた人間は知ることとなった。
 しかし、マーシェはそのありがたみに、全く気がついていないようだった。そもそもそれがありがたいものであるかどうかを、深く考えなければそれまでではあるが。
「ありがとうございます」
 疑いようもなく嬉しそうな笑みを浮かべてから、マーシェはティアの手を取った。その温もりが、何故かティアを動けなくさせる。そうしてしっかりと確保をしてから、マーシェは別の所へと視線を向けた。
「そこでだ、タンジェス」
 至極、というより気味が悪いほど機嫌が良い。普段のきびきびとした彼女のそれよりは、むしろ猫なで声に近かった。
 まさか彼も一緒にとは言いはすまい。しかしそもそも二人で、という申し出自体予想外なのだからあるいは、いやでも、とはいえ…などと、ティアの思考は混乱を極めるばかりだった。
「混浴とあらばボクが黙っちゃいない!」
 しかも悪いことに、この場には思考どころか事態そのものを混乱させようとする輩がいる。今更わざわざその名に触れる必要は、恐らくない。ともかく彼は、力の限り名乗りを上げた。
「黙れ」
 しかし瞬間的に撃破された。
 その一言で済んでしまうほど、本当に簡単に、彼は退場を強いられたのだった。ティアの手を取ったままという不自然な態勢のまま、不可思議なまでの柔軟さを発揮して、マーシェの足が伸びている。素晴らしい勢いで跳ね上がったそれは、相手の腹部に確かに食い込んでいた。なおおそろしいことに、マーシェは表情を変えていない。つまり笑顔のままだ。
「ほ、本気で…?」
 性根から落ち着いている、あるいは淡々としているストリアスが、呆然とつぶやく。そうせざるを得ないほどの勢いで、ディーの体は吹き飛ばされていた。
「がふっ…!」
 壁にその華奢な体が叩きつけられる。そのわずかに後に、意味を成さない声が聞こえてきた。さらに少ししてから、ずるずると体躯の崩れ落ちる音がする。
「『覗くなよ』とか言うのは冗談として陳腐で面白みに欠けるため却下」
 力を失ってゆく人体を、横目ではあるが確かに、彼は一瞥している。しかしそもそもディーが介在したやり取りがまるでなかったかのようにして、タンジェスはマーシェの呼びかけに応じていた。しかも冷たい声で、腕組みまでしている。
 そしてマーシェも、それを当然のこととしているかのように受け入れる。
「本題のついでくらいなら差し支えないだろうと思ったが、君がそう言うのならあえて強行はすまい」
「そうか、ならいい。あと、余談をしているうちに、そもそも本題についても了解したぞ」
「まだ何も言っていない」
「聞くまでもないさ。安心して入って来いよ」
 軽く表情を崩して、タンジェスは促した。少なくともその件に関しては、無条件に受け入れるつもりであるらしい。その何気ない言い方に、マーシェもうなずく。
「そうか。ならそうさせてもらおう」
「うん。あとそこ、そろそろ立ち上がったらどうだ。見た目力一杯蹴られてるようでも、やられた本人なら分かるだろ。寸で止めて、それから怪我がない程度に押してる。吹っ飛んだように見えるのは、自分で床を蹴ったからだ」
 そして彼は、再び冷たい表情になる。崩れ落ちたままの人間をそうやって見下ろす、一瞬だがそんな、危険な構図が生まれていた。
「な、何でそこで邪魔するんだよう! せっかく今から血糊を使おうと思ってたのにっ!」
「なら今使っとけ」
「ぐはあっ!」
 ディーが勢い良く立ち上がろうとして、そして再び、今度はタンジェスに蹴られて、どぎついまでに赤いものが飛ぶ。さすがに今度は、同情する人間が一人もいなかった。ティアに至っては、そもそも自分が先程、心配すべきときにそうしていなかったと、この時になってようやく気がついたほどである。
「ったくもう。それに乗って蹴ったふりをするマーシェもマーシェだが、それにしたってふざけすぎだぞ。血糊なんて、一体いつ用意したんだよ」
 半ば以上無理やり、また倒れているディーを助け起こす。タンジェスにしてみれば、マーシェが本気で蹴り飛ばしたらもっと危険なことになると、初めから分かっていたのである。
 そもそも実戦なら、一撃で致命傷になる可能性の高い頭部か、地味だが移動能力を奪うことにより確実に戦闘力を削ぐ脚部を狙う。特にディーの場合、彼の背の方が低いという位置関係上、頭が実に蹴りやすい位置にあるのだ。
「基本的に常備。だってこういうものって意外な所で使わなきゃ意味がないから、準備をしているって悟られるような動作はできないもの。っていうか君だって、けっぱぐってくれたじゃないか」
 実に健康そうな様子で、ディーが自慢げに説明してから抗議する。タンジェスはすげなく応じた。
「その血糊の袋だけをな。しかし良くできてるなあ、これ。どうなってるんだ」
 服のポケットから、真っ白な布を何気なく取り出す。そして壁面に付着した液体に押し当てると、赤い染みが広がった。
 その光景に、その手ぬぐいが非常時には負傷者の応急処置に転用しやすいものであると、ティアは気づかされる。丈夫で吸湿性に優れ、また手ぬぐいとしてはやや大きめの軍用品だと、例えば持ち主の他にマーシェなどは分かっていた。
「ひみつー。ばれちゃったら商売にならないもの」
 歯を見せて笑って、ディーは答えない。そもそも期待していなかったのか、タンジェスはしげしげと手元の赤い染みを眺めた。濃すぎでどこか影を帯びた赤、どう見ても流れた血の色である。実の所、致命傷になるおそれの強い動脈からの出血はもっと鮮やかな色をしているのだが、あまりにきれい過ぎるため現実感を欠いて見えることさえあるという。タンジェス自身重傷を負った経験はあるのだが、夜のことであったためそれをはっきり見たとはいえなかった。
「口に含むことを考えると、粘り気は麦粉か米糊か、ともかく穀物だろうな。染料も何か、そういうもののはずなんだが…それにしてもこの色合いは文字通り見事だな。渇くまで、見た目だけならまるで区別がつかない」 
 液状のものを何かの袋に入れ、それを必要なときに破って中身を出す。それが血糊の基本的な使い方だ。そのため使うときには何か袋を破る、鋭利なものが必要になる。
 ただ、例えば針や刃物を体に忍ばせるのは危険なうえ、誤って破いてしまう可能性も高い。かといって手などに仕込んだ道具を使うとなると、体そのものを傷つけて嘘では済まなくなるおそれもある。
 その点、口の中であれば安全性とともに隠蔽性を確保できる。歯で噛み破ることができるし、また口そのものによってその動作を隠せるのだ。手法としては理想である。後は口の中に入れて安全なものを、入手することができればよい。
 もっとも、その確保が中々難しい。口に入る食紅の類は、大概血とは色合いが異なっている。人間、そうそう血の色そのものの物を食べたがったりはしないものである。かといってそれ以外の、絵画などで使う鉱物系の顔料には有毒なものが多い。武官として必要であるために、人の生き死にに関わる、あるいはそれを装う類の知識があるタンジェスだった。
「要はちょっとした工夫さ。ま、普通は思いつかないけどね」
 偉そうに、ディーはそれだけ言う。それを聞き流しながら、ストリアスはその赤いものの製法を考えていた。
 恐らく、原料は鉄を主体とした鉱物だろう。そうでなければ、ここまで鮮やかな色合いは難しい。そして原料の選別や製法を間違えなければ、安全性も確保できる。後は生々しさが出るような、深い色のものを少し加えるだけだ。赤みを帯びた米などを使えば、粘りも出せて手間が省ける。
 ただ、その製法に関する知識が、どこにでもあるものではない。ストリアスの心当たりの中で現在それがあるのは、魔術研鑽所だけだ。古の魔術師達の遺産である。つい十年ほど前まで魔術の使用が禁止されていたため、他の場所に魔術師が記述した書物などはほとんど残っていない。
 恐らく、ディーはそのかすかな名残を、叙事詩などと同様口伝という形で知っているのだろう。受け継ぐ人間の記憶に依存する口伝ならば証拠が残らないので、弾圧される可能性は低い。
 もっとも、それは彼が魔術師であるということを意味するものではない。封印されていた膨大な知識の中には、魔力を必要としない技術なども少なからず含まれている。それをストリアスは理解していた。
「さーて、それじゃ…って、あれ? ティアとマーシェは?」
 自慢はもう十分だと感じたのか、ディーが辺りをきょろきょろと見回す。しかしそのとき既に、二人の姿はなかった。
「とっくに出てったよ」
 すかさず、タンジェスが告げる。血糊を云々している間に二人は、さりげなく部屋を抜け出していた。
「なにいいいっ! じゃあもう、お風呂入ってる頃じゃないか。ボクとしたことが!」
 余計な騒ぎを避けるため、ディーが別のことにかまけている間にさっさと用事を済ませてしまう。そんなマーシェの配慮がわからないではない彼だった。問題は、それが分かっていてなお諦めない所である。
 気づくや否や、走り出そうとする。しかしその瞬間、タンジェスが彼の襟首を掴んでいた。そしてそのまま、片手で吊り上げてしまう。タンジェスが鍛えているせいもあるが、ディーの体重は男性としては相当軽いのだ。
「な、何すんだようっ!」
 宙に浮いてしまった肢をばたばたとさせながら、ディーが猛烈に抗議する。タンジェスは怒るよりむしろ呆れて、諭していた。
「覗きに行くと分かっているものを、止めないはずがないだろう」
「偽善者ぁ! 君だってほんとは見たいくせに!」
「別にそう言われても心が痛まないね。覗いたらぶっ殺されるのが落ちだぞ」
 いやに重々しい言葉に、さすがのディーがやや反応をかえた。もっともそれも、別に怖れているのではなく、あくまで興味本位だ。吊られたまま、尋ねる。
「何かあったの?」
「どこかの馬鹿がな、学校の共同の風呂場を覗こうとしたんだよ。どこから聞きつけたのかは分からないが、監視の死角をついた進入経路だけじゃなくて、時間によって女性専用に変わるって所まで知ってたらしい」
 規律正しい寮生活を送っている士官学校の学生達にとっては、いつでも入れる浴場など必要ない。全員がそれぞれ指定された時刻に入浴することになるため、男女がかち合わないようにする配慮は、基本的にその時間によって為されているのだ。
 そのため男子学生が女性の入浴時間に共同浴場の近辺をうろうろしていれば、まず間違いなく覗きの嫌疑をかけられる。そしてそこまで間の抜けた人間は、将来指揮官となるべき学生達の中にはいなかった。
「んで、結果は?」
「激怒したマーシェ以下数名が、浴布一枚を巻いただけの姿でだんびら振り回して追っかけてった。当直の連中や、騒ぎを聞きつけた俺達は彼女らがそんなあられもない姿で学校の外へ出て行こうとするのを止めるのがやっとでな、とても犯人を追うどころじゃなかったよ。まあ、相手のかっこうがかっこうだったから、あまり乱暴なこともできなかったし」
 以後、士官学校では該当時間の巡回が強化された。男子学生たちにとっては仕事が増えることになったのだが、それに関して不満の声が出たことは、少なくとも表立っては一度としてない。怠ればより深刻な事態になることは、誰の目にも明らかだった。
「ま、ばれなきゃいいじゃん。ばれなきゃ」
 しかしディーには、その危機感が伝わっていない。タンジェスは肩をすくめた。
「そう考えてるのならせめて、さっきまでもうちょっと大人しくしておくべきだったな。今なら絶対、マーシェだけじゃなくティア様も警戒してるぞ」
 捕まらなければ問題は何もない。そう考えている相手に対して、道義的なお説教など無意味だ。タンジェスはそう考えている。そのため、実際的な方面から断念を促していた。
「そうかもね。ま、別にそれでも、方法がないわけじゃないし」
 タンジェスのその態度が、一定程度功を奏したらしい。ディーも多少ながら、姿勢が後退する。ただ、少なくとも口調の上で、完全に断念してはいなかった。そこでタンジェスは、止めとばかりに笑って指を差す。
「それに、そっちだ」
「うん?」
 予想外の方向を示されて、ディーが不思議そうに振り向く。そしてそこには、ストリアスが立っていた。珍しく難しい顔をして、そして出口を塞ぐように立っている。
「変なことをしたら、黙ってないと思うんだけどな。意外と、だと俺も思うけど」
 タンジェスはかすかに笑う。しかしそれでも、ストリアスは表情を崩そうとしなかった。
 肩をすくめてから、ディーは首を振る。
「はいはい、分かりましたよ。大人しくしてるから」
「そうですか。それなら折角ですから、僕の用事に少し、つき合ってみませんか。女性のお風呂ほど興味深いとまで保障はしませんけれど、面白いことが分かるかもしれませんよ」
 ようやく、少しだけ笑う。しかしその声にはなお、冷たい響きが残っていた。それに気おされたのか、単に覗きを断念したついでなのか、ともかくディーがうなずく。
「そう。じゃあ、そうさせてもらうよ」
 タンジェスがやや、心配そうな顔をする。この無駄に好奇心があり余っている人間を、ストリアスが果たして引きとめ続けていられるだろうか。そう疑問に思っているに違いない。そしてストリアスがディーの引き止めに失敗すれば、ディーはまた何かよからぬことを考えるだろう。
 元来面白みのある人間だとは自分自身思ってはいないので、ストリアスとしてもその疑問を不快には思わない。しかしそれでも、この場では自信を持ってうなずいて見せた。
「じゃ、そういうことで」 
 ひとまず任せることにしたらしく、タンジェスはそんな簡単な挨拶を残して立ち去る。それに軽く一礼してから、ストリアスはディーに向き直った。
「それでは、行きましょうか。しばらく外へ出ますから、上着を取りに行きましょう。それから、この時間帯ですから何か明かりを用意しないといけませんね」
「明かりは何がいい? ちょっとその辺までだけなら手持ちの燭台で十分だけど、遠出をするならランプとか…」
 さすがに旅に慣れているだけあって、このあたりのディーの思案には抜かりがない。ストリアスは小さくうなずいた。実の所自分一人で行動する場合、暗いと簡単に魔術を使ってしまうので、中々小道具にまでは気が回らないのだ。
「カンテラか何か、とにかく遠くまで照らせる、なるべく明るいものがいいです」
「分かった。とりあえずこの館の誰かに掛け合ってみるよ」
 誰か、と言っているが、これまでのいきさつから判断して、彼が考えているのは下女達だろう。ある程度彼と親しく、また日用品を普段使っているため、それらを融通することができる。一方ジューアや、実質的に彼の指揮下にある兵士達から、軍用物資を入手するか貸与される交渉ができるとは考えにくい。
「お願いします。それでは早速、行きましょうか。時間はあるに越したことがないので」
「うん」
 意外に元気よく、ディーが後をついて来る。結局退屈させてしまうだけかもしれない。そう思いつつも、少なくとも今ティアの所には行かせる気のないストリアスだった。

 タンジェス、ストリアスの働きもあって、ティアとマーシェはひとまず無事浴室の脱衣場に到達していた。
 マーシェはとりあえず外部への戸締りをしっかりと確認したが、その後はむしろ無防備だ。まるでその場にもう一人いることなど気づいていないとさえ見える様子で、手早く服を脱いでゆく。あまりじろじろ見るものではないと分かってはいるのだが、しかしその様子が実に堂々としているので、ティアはついそれに注目してしまった。
 鞘に入ったままの長剣ごと剣帯を外して、それから詰襟の上着を脱ぐ。中着は白い、綿製と思しきものだった。上着ほどではないがやや襟が高く、袖口も締まっている。つまり上半身全体をほぼ包むものであったが、仕立が良く無駄なく体にあっているらしく、着ている人間の体形がむしろはっきりと分かった。
 さすがに士官学校屈指の剣術使いだけあって、肩幅は広い。首筋もしっかりしており、重い鋼鉄の武器を縦横に振り回す力強さを、十分に感じさせる。
 ただ、それにしては両腕がすらりと細く見えた。無論、筋肉がついていないというのではない。腕そのものが長いため、ある程度分量があっても細く見えるのだ。
 とりあえず腕の先まで見渡したため、その後上方へ戻そうとしたティアの視線は、自然と腰の辺りへ向かっていた。この時ティアとしては初めて分かったのだが、士官学校の制服は、帯を二重に用いる構造になっていた。まず中着などを細袴にたくし込んで、その細袴に付属の薄手の帯で止めて、その上から詰襟の上着を着て、さらにその腰に剣帯を締めるのだ。つまり通常、腰には二重に帯が巻かれている状態になる。 
 肥っていたら絶対に、着ることができない代物だ。腹回りが太いと重い長剣に引きずられて、剣帯がずり下がってしまう。
 無論「着る」という行為を「とりあえず身を包む」と定義するのなら、肥っていてもその制服を着ることは十分可能だ。下腹に剣帯を巻いて、そこから剣を吊るせばよい。
 ただその場合、突っ張った腹を強調する形で、剣帯がその下を回ることになる。はっきり言って、無様である。武勇を特に重んじるこの国において、そんな姿はその時点で既に致命的に近い。
 一方「着る」ことを「様になるように装う」と定義するならば、可能な人間はかなり限られる。鍛え上げられ、腹回りに全く贅肉のない人間だけが、二重になる帯の分量にも負けずに、これを美しく着こなすことができるのだ。見本は国王やノーマなど、誰もが認める一流の剣士である。
 そんな難しい服を、マーシェはきちんと着込んでいた。そして剣帯と上着を外し、その下の革帯と細袴になった時点でも、彼女の腰は目を見張るほど細かった。恐らく、贅肉などと呼べるものは全くないはずだ。そのくびれで、彼女は今まで重い長剣を支えていたことになる。
 そしてそんなティアの驚きが消えないうちに、マーシェは靴を脱いで、細袴を締めている帯も緩めてしまっていた。結果、袴も足元へと落ちる。少なくとも今の彼女に、自分を守ろうなどという配慮を見ることはできなかった。
 肢が長い。それが、マーシェの下半身を目の当たりにすることになったティアの第一印象である。
 締めている帯の位置が、自分よりかなり高いことは出会った当初から分かっていた。ただ服装の場合、ごまかしは相当効くので判断を保留していたのである。
 しかしいまや、隠しようもなくあらわになっている。上半身同様つくべき所にしっかりと筋肉がついているのだが、それでもごつごつした様子はなく、むしろ滑らかに見えた。足首は細く締まっており、それが俊敏さを生み出しているのだろう。
 ティアが何となく圧倒されているうちに、マーシェは手早く中着も脱いだ。動作は速いが扱いは丁寧で、きちんと畳んでいる。元来武官は、短時間で身支度ができるよう訓練されているのである。
 い、いい加減視線をそらすべきよね…。後は肌着しか残ってないんだし。でも、でも…。気になるっ! そこは、そこだけは。
 胸。いや、うん。もちろん私には同性をどうこうしたいなんて趣味は全くないのだけれど、この迫力は一体何? 戦士として平均的な男性よりもよほど恵まれた、つまりたくましい体格をしているはずなのに、嫌でも女性だと分からせるだけの量感で、前へと元気よく突き出されているのは一体どういうこと?
 変な思考がティアの脳裏をぐるぐると回っている。ここでさすがに、マーシェも視線に気がついた。まず既に半裸になっている自分と、まだ上着すら脱いでいない相手との違いに驚くことになる。
「どうしました?」
「あ、いえ…」
 慌てて目をそらす。しかしその行動はむしろ、どこを見ていたのか白状するのに等しかった。ただ、それに気を悪くするでもなく、マーシェは苦笑して応じる。そもそも見られるのを嫌がるのなら、一緒に風呂へなど誘ったりはしない。
「はは。胸ですか? 大きいように見えるだけですよ。このあたりにも筋肉をつけていますから、要するに上げ底です。ほら」
 ひょいとティアの手を取って、自分の胸に押し当てる。びっくりしつつも、ティアはしっかりその感触を確かめていた。
 …絶対、違う。それは確かに自分で言っているとおり、筋肉の厚みは十分にある。自分にも医術の知識があるから、間違いない。
 でも、でも…でも! どう「上げ底」部分を差し引いて考えても、この「上もの」がとんでもなく大きいじゃないっ! むしろ触ってみたからこそ分かる、この膨らみようの見事さは一体何? 指が柔らかいところに、ずぶっと埋まってるんだけど…。
「そそそ、そうですか」
 動揺を隠すのを完全に失敗しながら、ティアは半ば振り払うように手を離した。これ以上同じ状態を続けても、自分のためにならない。惨めになるだけだ。
 そこで相手の色々な意味で見事な体躯に少々気後れしつつも、自分も服を脱ぐことにする。
 最も上に着ているのは、神官であることを示す前掛けと、白い長衣だ。これらは帯でまとめて留めているので、それを外せば簡単に脱げる。急な患者があった場合、袖の広い長衣は治療の邪魔になるので、そのような構造にしているのだ。これ以外にも活動的な衣装はあるのだが、ティアとしてはゆったりとしている今のものが好みだった。
 その下に着ているのは、半袖の中着と膝丈の短袴である。これがティアにとっては、いわば作業着になる。個人的な趣味としてはスカートの方が良いし、また女性神官の場合礼装も本来はそちらである。しかし施療院の中では膝をついたりする機会が多いため、普段は着ないのだった。
「わあ、綺麗な肌ですね」
 あらわになった手足を見て、マーシェが賞賛する。体形の件があったばかりだから、少し気をつかってくれているのかしら…とティアは一瞬ややひがみっぽく考えてしまった。しかしすぐに考えを改めることになる。マーシェの目の輝きが、心底感心しているそれだったのだ。
 そんなことはない、普通。そう思っているので軽く首を振って見せる。しかし相手は、大きく首を振りかえした。
「本当に綺麗ですよ。ほら、私なんてよく日焼けをするから、違いがもう歴然です」
 すっと腕を差し出す。そうやって比較してみれば確かに、肌のきめは自分の方が良いように見えた。
 もっともそれはあくまで比較の話で、別にマーシェの肌が荒れているということではない。日焼けも重度のものではなく、やや色づいている程度で十分に瑞々しく、健康そうに見える。屋外での活動が多い人間にしては、むしろ色白な方だろう。
 さてここで、どう対応をしたものだろう。そこで悩んでしまう、ティアだった。
 相手の方が綺麗だと月並みな社交辞令を言うのは、嘘を言わないという信条に反する。何しろ正直な所では、自分の方に部があると、そう思ってしまったのだから。
 かといって、思うところを正直に認めるのはある意味傲慢だ。いくら相手が引いた態度を取っているとはいえ、それに対して頭に乗ってしまえば、角が立っても何ら不思議ではない。
 結局まごついて、いつものように黙ってしまう。悪いくせだとは思いつつ、打開策がある訳でもないティアだった。
 ただこの場では、マーシェの方が気を利かせてくれたようで、それ以上その話が続いたりはしなかった。
「と、見とれているばかりでは風邪を引いてしまいますね。申し訳ありませんが、お先に失礼しますよ」
 言うなりひょいひょいと、下着を脱いでしまう。そうして身を翻して浴場へと姿を消すマーシェだった。同性であるティアにさえ、その躍動する残像がまぶしく映る。それでいてマーシェが残した衣類は、最後まできちんと畳まれていた。
 結局、ティアは作業着姿で取り残された形になる。そしてそこには、そこはかとない罪悪感が漂っていた。
 なんだか、自分が隠し事をしてたみたい。マーシェさんは一貫して、解放的だったのに…。
 そこでやや慌てて服を脱いで、その後やはり急いで脱いだものを畳んでから、後を追うことにした。
 浴室に入ると既に、マーシェは湯船に浸かって手足を伸ばしていた。自分を飾るものが何もない、生まれたままの姿で広い一室をたった一人で占領しているその姿は、堂々たる王者のそれにさえ見える。
 実の所この館の浴室が広いのは、大勢がまとめて入ることができるように作られているためだ。それは、似たような構造の浴室を日常的に使っているティアには良く分かる。複数の人間で使っても混みあわないよう水場が広く作られ、また備え付けの道具が多いのが特徴だ。そうでない浴室もあるはずだが、それは男爵など、身分の高い人間たちに対して個別に設けられているはずである。
 しかしそんな、要するに粗末な環境にいてさえ大きく見える。それこそ本物の気品なのだろうと、ティアは思った。人間自体が燦然としているのなら、きらびやかな装いなど必要ない。自分の身をどうしても飾り立てなければならないのは、本来みすぼらしい人間だけだ。
 凄い。ティアは素直にそう思った。
 世の中には「凄い」と形容すべき人間がいくらでもいる。例えば彼女自身が誰よりも尊敬している、施療院の院長。あるいはストリアス=ハーミスやノーマ=サイエンフォートといった、政府からもその才覚を認められるような人々。そして夜の街路に現れた、腕自慢であるはずの傭兵たちを苦もなく退けた覆面の剣士…。
 ティアが直接知っているだけでも、枚挙に暇がない。しかしそれらは皆彼女より年長、あるいは少なくともそうと思しき人々だった。同世代の人間に対してそんな感嘆を覚えたのは、記憶にある限り初めてだ。
 何しろティアは院長が認める逸材であり、それゆえその事実に気づかないほど愚かではない。教理、法術、医術等々、神官として必要である素養のほとんどに関して、同世代の中では最高あるいはそれに近い水準を維持している。神殿武術、あるいは単なる肉体労働などはあまり得意でないのだが、ティア自身がそれに習熟する必要を感じておらず、また院長以下誰もそれを注意しないため、これまで劣っているという感覚は生じていなかったのだ。
「何か、お気に触りましたか」
 浴室に一歩入っただけで立ち止まってしまったティアの様子をいぶかって、マーシェは少し姿勢を改めた。無論、この双方裸でいるべき場所における礼儀の定石などありはしないので、多少背筋を伸ばした程度である。
「いえ…。凄いなと、思って」
 釈明する必要を感じて、後半部を付け加える。マーシェは首をかしげた。
「何が…とお伺いしたいところですけれど、とりあえず入られてはいかがでしょう。お風邪を召されたとあっては、あなたをお守りするという、私の任務も果たせなくなります」
「はい」
 うまい具合に反論を封じてくる。それが別に不快でもなかったので、ティアは言われた通りにした。かけ湯をしてからマーシェと同じ湯船に浸かる。
「はぁ…」
 熱が皮膚を通して体全体に伝わってくる。その刺激に対して思わず、ため息をついてしまった。
「熱いですか? でしたら、埋めさせますけれど」
 マーシェが確認してくる。そこでティアは、小さく首を振った。確かに多少熱く感じるが、入浴にはこの程度がちょうど良いと思っている。
「そうですか。おーい、お湯番の人! このくらいの加減で頼む!」
「あいよぉ!」
 背中越し、一見すると壁しかない所へ声をかけたマーシェに対して、確かに返答があった。どうやらこの浴室は、隣で湯を沸かしてそれを流し込む、という構造になっているようだ。
 姿が見えない造りになっているのは、覗き防止のためだろう。ややひしゃげたような奇妙な癖があったが、返事の声は男のものだった。
「さて、それで。話を戻してよろしいでしょうか」
「うまく、言えないのですけれど」
 普段なら、そう考えて黙ってしまう。しかしさすがに、この場でそれはまずいと判断した。無論これは正直な感想なので、言葉の後が続かない。むしろいぶかっている側のマーシェの方が、雄弁だった。
「正直という徳目を謙譲の美徳より優先させることをお許しいただければ、確かに私は技量や成績に関して『凄い』などと賞賛されることもあります。逆に、愚か者だとの意味で、そのような言葉を浴びることも少なくはありません。ただ、今おっしゃったのは、今まで私が聞いたどの『凄い』とも違うようです」
 ティアはゆっくりとうなずく。相手がうまくまとめてくれたおかげで、今度は自分の心情をある程度説明することができた。
「賞賛、です。マーシェさんの、器の大きさに対して」
 もちろん罵声ではないし、技術や成績といった、何かの側面を取り上げた賞賛でもない。マーシェという人間そのものの大きさを、凄いと評したのだ。
「器…ですか。そうおっしゃっていただくのはありがたいですけれど、正直に申し上げればあまり実感が湧きません」
 きょとん、としている。その顔を見て、ティアは反省した。
 無理もないわね。いくら成績優秀だって、まだ若い人に「大物」って言ってもしっくりこない。自分自身そんなふうにいわれたら困ってしまうだろう。場合によってはただの嫌味になってしまうところだけれど、今回はマーシェさんがおおらかな性格だから、そう受け取られなかっただけ。表現力ないなあ…。
 そうしてティアがやや内側に向いてしまっている間に、マーシェは自分の考えをまとめていた。
「私はむしろ、ティア様の方が凄いと思っていますよ。同い年くらいのはずですのに、もう一人前の仕事をしていらっしゃいます」
 確かに、ティアは身分上既に正規の神官である。施療院では実地で、極度の重症患者でない限り自分ひとりで治療も行っている。
 一方マーシェはいわば騎士見習い、人にものを教わるのが仕事であり、少なくとも実戦参加を求められてはいない。そして卒業して任官したとしても、当面は上官の指揮命令を受けることになる。
 その違いを承知した上で、ティアは首を振った。
「神官になるということは、修行の第一歩に過ぎません」
 人から教えてもらっているだけでは分からない、現に神官として働いてみて初めて分かることはいくらでもある。それが、経験豊かとは言えないティアの感想であり、また多くの年長の神官たちにとって共通の認識でもある。そのため、いつまでも見習いのままでは得るものに乏しいから、とりあえず神官としての身分を与えることになるのだ。
「生涯が修行ですか」
 補足して、そしてつぶやくようにマーシェが言う。ティアはやや大きくうなずいた。マーシェのその言いようが、深い理解に基づいたものだと悟ったためである。
「そうですね、それは騎士たる者も変わりありません。我々の場合はただ、殺し殺される身分であるから、それを容易には与えられないだけ。人様が既に一人前であるからとうらやむのは、ただのひがみですね。失礼しました」
 そしてティア以上に、マーシェがしっかりとうなずきを返す。普段は覇気を表現するためにあるかのように感じられる鋭く整った顔立ちが、今は柔らかな笑みを浮かべていた。
 ただ、そんな穏やかな様子だからこそ、見逃せない。そう感じられる一言があった。殺し殺されるなど、本来穏やかでないことはなはだしい。それが一面では現実であるのだから、自嘲気味であったのなら敢えて追及はしなかっただろう。しかし今のマーシェからは、むしろそれに満足しているのではないかと思わせる気配が漂っている。
「死に関わることだけが、騎士の勤めではないでしょう」
「それは無論です。しかし、我々の存在意義は、他の人々が直面するであろう死の前に立ちはだかるところにあります。それができない、あるいは必要ないのなら、騎士などいなくとも良いのです」
 そこには何の迷いもない。まるで彼女自身が、研ぎ澄まされた鋼鉄の刃であるかのようみたい。灼熱の中で鍛えられ、打ちかわせば火花を散らすものが、今は冷たく、静かにたたずんでいる。
 どうやらこのことに関しては、何を言っても無駄なのね。ティアはそう、マーシェのことを理解した。別に蔑んでいるつもりはない。自分なりに精一杯、理解したつもりなのだ。
 こうまで真摯な生き方をする人間を納得させるためには、現に戦う必要のない世界を見せるしかない。そしてそれは、可能であったとしても近くはない未来のことだ。ティアが誰よりも尊敬している院長は、戦いのない世界を願い続けている。その彼女も、現にできたのはその犠牲者を減らす程度だった。
「無理は、しないで下さい」
 今はそうとしか言えない。この種の性格の人間はいざとなったら誰が止めても無理をする、とも承知した上でである。こうして心配している人間がいるのだと伝えれば、その「いざとなったら」の判断がわずかばかりでも慎重になる、それを期待してのことである。
 そして、マーシェは明るい笑みを浮かべてうなずいた。
「お優しいですね、ティア様は」
 縁のある人間を気遣うのは、神官として以前に人として当然のことだ。そう思って、ティアは首を振る。その動作が終わらないうちに、マーシェが話題を変えてきた。
「それにお綺麗だし、男性からは引く手あまたでしょう?」
 いや、あのね、マーシェさん? 湿っぽい話題を続けないための配慮は分かりますけど、やり方がちょっとえげつなくないですか?
 思わず、丸くした目で相手を見返してしまうティアだった。

続く


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