王都シリーズW
王都怪談
9 夜の墓地の男二人
話の流れの都合か、いきなり色恋沙汰の話を振ってきたマーシェに対して、ティアはとっさに反応ができなかった。失礼だということも忘れてまじまじと視線だけを返してしまう。
ここはいっそ、過激すぎると素直に思ったことをぶつけてしまったほうが良かったのかもしれない。だが結局現実にできたのは、先ほどよりずっと勢いよく首を振ることだけだった。やはり、色恋沙汰の話は苦手で、どうしても過剰に反応してしまう。
「マーシェさんのほうが、お綺麗です」
ああ、いけない。神官にあるまじき腹立ち紛れの口調になってる。とっさにうそがつけるほど器用でもないからこれが正直な感想だし、けなしてもいないのだけれど、それとこれとは話が別よね…。
少々自己嫌悪が入ってしまうティアだったが、しかし今はそこに浸る時間が与えられなかった。マーシェが続ける。
「まあ、どちらがどうという議論は置くとして。正直な所私自身、自分を美人だと思ってはいるのですよ」
…来た、来たわね。なんともすごい自信。何が恐ろしいかって、表情がその自信に満ち溢れているんじゃなくて、「それを認めるにやぶさかでない」って顔をしてるってこと。変に強弁するよりはるかに説得力があるわ。普段気にしている毒気も抜かれるわよ…。
完全にしゃべる気をなくして、ティアは視線で続きを促した。
「しかし人間、容姿ではありますまい。その本質的な価値をどうこうする以前、もてるもてないという卑俗な問題についても」
自分の放った言葉の意味を分かってないのか、それとも承知の上で敢えて流しているのか…。まあともかく、容姿以外、つまり人格を評価するのならそれは卑属といわないと思うな。
そう思って、ティアは首を傾げて見せた。
「立場、あるいは身分。そういったものからまず見られますよ」
ああ、なるほど、そういうものか。ティアは半分だけ納得した。
神官を妻に、と望む男性は身分を問わず少なくない。何しろ人格面に関しては神殿の保証付きであるし、医療などの素養は家庭においても有用だ。また概して健康で母体としても安定しているとされており、どうしても跡継ぎが必要な家柄においては特に好まれる。
おかげでティア自身、既にいくつか縁談を持ち込まれた経験がある。結婚は本人の気持ちで決めるべきだという院長の方針がなければ、件数はずっと増えていたことだろう。見ず知らずの相手に結婚を申し込まれても困惑するだけなので、ティアとしてもそれには全く同感だ。
一方「女だてらに」の常套句そのままに武官になろうとしている人間を妻に、という物好きは確かに多くないだろう。ティアにマーシェを非難するつもりはないが、しかし常識外であることは認めざるを得ない。
しかしそれは「武官候補生」という身分が敬遠されているのか、それともわざわざそうなった彼女自身の性格が問題になっているのか微妙な所だ…。と、ティアは思った。それが納得していない方のもう半分である。無論、言ってしまっては怒らせるに違いないので、黙っている。
ただ、今回はそのまま沈黙しているのではなく、珍しく別に言うことを思いついた。元々先程から気になっていたことがあったのだ。
「同じ身分なら、気にしないのでは」
「はい?」
会話に関する能力に関しては明らかにティアより優れているマーシェが、とっさに意味を掴み損ねている。仕方なく、ティアは露骨な表現を試みた。
「タンジェスさんと、仲、いいです」
言っている自分が恥ずかしくなる。しかし確かにティアの目には、彼女とタンジェスの仲が普通ではないように見えていた。
そして、少しの間だけ。どこぞの誰かが乗り移りでもしたかのように、マーシェは無言かつ無表情だった。噴き出して笑ったのは、それからである。
「あははははは! いや、失礼。でも、くくくくくく!」
大はずれ、であるらしい。マーシェは右手で口を押さえながら、左手でばちゃばちゃと水面を叩いている。そこまで正面から笑われても、ティアは別に怒りを覚えはしなかった。元々神官としてある程度人間はできているつもりであるのだが、それに加えて疑問の方が先に立ったのだ。
「先程、肩に手を回していました」
とりあえず追及する。しかしここは、マーシェの方に明らかに部があった。
「ああ、窓が揺れた時のことですか。あれはこうやって、ここで手信号を送っていたんですよ。そちらからは死角になっていましたから、見えなかったとは思いますが」
体をひねって背中を見せながら、至極明快に回答する。鍛え上げられていながらもどこかなだらかな肩を、細長い指が叩いていた。やや不自然に身をよじっているせいか、その様子はどこか、妖艶に見える。
ともかく、どうやらこの件に関して嘘はついていないようだ。しかしそれで、ティアの疑問が完全に払拭されたわけではない。元来男女が行動をともにしているという時点で、怪しいといえば怪しいのだから。
話の流れとして止むを得ない。それがマーシェには分かっていたらしく、その疑問にも自分から答えてきた。
「お互いその気はありませんよ。学内での恋愛は、退学につながります。これは規律を引き締めるためのただの脅しではなくて、現にその実例もありますからね」
まず建前を述べる。そして彼女は、少しきょろきょろとしてから顔を近づけ、耳打ちをしてきた。
「それに彼は、ふられたばかりですぐ別の女を、というほど気の多い人間でもないようですし」
ゆるぎない事実であるからこそ、言ってしまったのだろう。しかしそこに重要な情報があることを、ティアは聞き逃していなかった。
…初耳。タンジェスさんの女性関係については、今まで聞いたことがない。
ティアの表情が変わる。それを見て、マーシェも自分の過ちを悟った。考えなしに喋っていたつもりはない。だからこそ耳打ちという手段を選んだのである。それだけに、悔やまれる。
他の人間ならともかく、ティアならばその事実を知っているはずだ。何しろタンジェスがふられた頃に、茜商会を通して両者は知り合っていたのだから。そう勘違いをしていたのである。しかし今思い返してみれば、タンジェスがわざわざ自分からそんなことを話しはしないだろうし、このティアが一々詮索をするはずもない。要するに、必要以上の意志の疎通はなかったのだろう。その高いはずの可能性を見逃していた自分の迂闊さ加減を、マーシェは反省せざるを得なかった。
「つまり、そういうことです。まあ、あれですから、これ以上は申し上げられませんが」
即撤退を決め込む。無意味に粘って被害を拡大させる、などという力自慢の武官にありがちな勇敢さを履き違えた悪癖を、マーシェは持っていなかった。言葉遣いが丁寧になっているのは、その分距離をとっている、要するに拒絶の意志表示だ。
結局彼女は、自分自身が彼をどう思っているかについては全く語っていないわよね。ティアはそのことに気がついてはいたが、しかしタンジェスに悪いので、追及を諦めることにした。
この幽霊騒動以外で接した機会は実の所ごく限られてはいるのだが、しかしそのたびごとに借りを作っている。それがティアとしての、タンジェスに対する感想である。魔術人形の一件では結局彼が問題の代物を撃破したのだし、孤児になりかけた少年を助けた際には、図らずもその助力のために事なきを得た。そのため、ティアとしては彼を傷つけるようなことはしたくなかった。例え彼がこの場にいなくとも、である。
「ま、私は私で今の所は気にかかる相手もいませんから、焦ってはいないのですけれどね。ティア様はどうです?」
「私も、同じです」
それが主流というほどではないのだが、一般社会と比較して神官には生涯独身で通す人間が多い。家庭を持ってしまうと神官としての勤めがおろそかになる、そう考える者もいるためである。それに神官であれば信仰という大義名分があるから、婚期を逃しても、他の身分の人間のように何のかのと余計なことを言われる機会が少ない。
ただ、ティアには明確な結婚願望がある。いい人を見つけて幸福な家庭を、と願う素朴な気持ちは、世俗の少女達と変わりないのだ。そしてその思いは、神官になってからむしろ強くなった。憧れの人である院長が、二児の母として立派に家庭を営んでいるためである。
しかしそれがいつになることやら。正直な所、そう思っているティアだった。願望はあるのだが、それが必ずしも情熱には結びついてこない。誰かを熱烈に好きになる、そんな経験を、今までしたことがないのだ。修行をした結果、生来の落ち着きに磨きをかけすぎてしまったのかもしれない。
かといって、自分を好きになってくれる男性というのも、中々いないだろう。何しろ無口なので、好き嫌い以前に関心をもたれない。そう自己分析をしているのだった。
「あ、そうそう。ティア様としてはどういう殿方が好みだとか、聞かせてもらっていいですか?」
しかし、である。マーシェはそんなことを聞いてきた。一体何を考えているのやら、と思いつつ、とりあえず嘘はつかないのがティアである。
「穏やかで、誠実な方…です」
他にもいくつか条件があるように思えるけど、とりあえずはこんなところかな。そもそもうるさい人は苦手だし、自分が神官だからそれに見合う気質でないと多分うまくいかない。
「ほほう。つまりはティア様と近い雰囲気をお持ちの方ということになりますね」
マーシェが大きくうなずく。ティアは当初小首を傾げたが、結局うなずいた。
まあ、確かに。うまく行っている夫婦って、大概どこか似た雰囲気を持っているものよね。そうでなければ、その雰囲気を共有することになる、家庭という場を維持できない訳だし。だから、互いに気の合う、つまりは共通するところの多い相手と一緒になるのが良いのかもしれない。
結論がそこに近づいたところで、ティアは大きな疑問を持ってしまった。正直な所、自分の性格をそれほど好いているわけでもない。自分同様の人を好きになるかどうかについては、かなり怪しいと思う。
しかし口をついて出た感想は、マーシェに言わせればティア自身に近いということになる。複雑、としか形容できない思いに押されて、ティアはまた黙り込んだ。
「いいと思いますよ。以心伝心の夫婦というのも」
一方のマーシェが、簡単に請合う。以心伝心、つまり言葉の必要がない関係、それは確かに理想だ。
でも、それって実現可能なのかな? そこまで深い信頼関係を築くためには、それ以前に相当しっかりと意志疎通をしなければならないと思うのだけれど。でも、何しろ自分はこのとおりの無口だし…。どうもマーシェさん、軽々しくものを言っているような気がするんですけど。
そんな疑念の視線を受けて、マーシェは弁明した。
「いや、知人にティア様好みの人間がいたら紹介しようかと思いまして。何しろ一部の学友には女友達を紹介しろとうるさく言われるのですけれど、私自身こちらでは男の知り合いが増えるばかりなもので」
何か下心がありそうで嫌。
ティアはこの際、その感想を遠慮なく顔に出した。何しろ好きで神官をやっているくらいなので、倫理面では潔癖に近い。始めに「男女交際」ありきの相手には、かなりの抵抗を感じてしまう。
「ははは。まあ、そもそもうるさく言ってくる時点で対象外ですね。学友達の中だと、タンジェスがあれで比較的大人しい方ですから」
もちろん信頼しているけれど、感覚的に恋愛対象じゃない。…とか言ったら、タンジェスさん傷つくかな?
それが、ティアの正直な思いである。そして別段意識していなかったから、すぐに別のことを考える。
「女性に女性を紹介しろと言うのは、失礼では?」
要するに、「少なくとも君は異性として意識していない」と、面と向かっていっているように思えるのだけれど。いくら自分としては相手を意識していなくとも、そうされるとやはり不快になる気がする。こちらは若くて未婚なのだから…。
しかしその危惧を、マーシェは一笑に付した。
「いえ、別に。我々も彼らを異性として意識してはいませんからね。お互い様です」
「家族のような、ものですか」
本当に、全く意識していないらしい。ごく当たり前のように語るその姿を、ティアはそう評した。
「それに近いかもしれませんね。よく言うでしょう、同じ釜の飯を食った仲間って。まあ、皆が皆そうではありませんけれど、私やタンジェスはそのようなものですよ」
どうやら男女の意識をしない人間というものが、多数派であるとはいえないらしい。ティアはマーシェの表現から、そのような印象を受けた。
すると、マーシェさん本人の心情はともかく、男子学生たちから異性として意識されている可能性は十分あるのではないかしら? 何しろ自分で認めて嫌味にならないほどの美人だし、性格だって型破りではあるけれど好感が持てる。その辺は一体…。
ティアは好奇心をそそられて、珍しく自分から口を開こうとした。
「…っと、失礼します」
今度は自分が追及される番だと野生の本能で察したのか、あるいは単に十分に温まったと感じたためか、ともかくもマーシェは立ち上がった。みずみずしく、そして引き締まった肢体から無数の水滴がこぼれ落ちる。そんなどこか圧倒的な光景を、ティアは仰ぎ見ることとなった。
「あ、そうだ。お背中をお流ししましょう。温まったらこちらへどうぞ」
湯船を出たマーシェが、明るい声で手招きをする。彼女がその見事な体躯を隠そうともしていないだけに、ティアとしては気後れしてしまった。とりあえず、何か言おうとして口をぱくぱくさせる。
あー、うー。駄目だ。断る適当なせりふが思いつかない。その場しのぎにもう少し温まったほうが良いかしら…。
うう、それも駄目。おしゃべりの間にけっこう長湯をしてしまったみたい。神官がのぼせて人の手当を受けるなんて、間抜けだわ。
ティアはしぶしぶ、自分も立ち上がった。マーシェが調子よく手招きする。
「ささ、遠慮なさらず」
あの、別に。遠慮はぜんぜんしていないんですよ。ただ、いくら同じ女性だとは言え気恥ずかしいものは気恥ずかしいわけで…。まあ仕方がない、とりあえず背中を向けていたほうが楽よね。
結局言われたとおりの所へ座り込む。そのとき既に、マーシェは手際良く石鹸を泡立てていた。
「ほう。背中もやはり綺麗ですねえ。流し甲斐がありますよ」
「はあ」
何となくだが、ともかくティアは諦めてしまった。後はされるがまま、後のマーシェは鼻歌まで歌いだした。
「楽しいですか」
「ええ、何だか。こうやって女同士で何かすることが、私の場合あまりないもので」
強がっているのではなく実際に強いのだろうだけれど、それでも心のどこかで寂しいと感じているのかもしれない。ティアはこの時、ふとそう思った。そしてこれで彼女が喜ぶのならそれでもいいかなと、そう考える。
ただ、それも長くは続かなかった。広くもない背中を手際の良いマーシェが洗い終わるその前に、ティアがふと顔を上げる。
「どうしました」
何か、引っかかる。でも明確な答えが出る前はうかつにしゃべれないし…。
そしてその答えよりも、マーシェ自身にとって事態が判明するほうが早かった。
なにやら音がする。それもそれほど離れてはいない所、恐らくは脱衣所の近辺だ。
確かここへ入った際に、マーシェが鍵をかけたはずだ。それを不審に思ったティアは、とりあえず立ち上がろうとする。そもそも状況がどうあれ、何の断りもなく入浴中の近辺をうろうろとされるのは、女性として身の危険を感じるものだ。
またディーの悪ふざけかもしれないが、それならばそれで度が過ぎる。注意する必要はあるだろう。
しかし、ティア以上に厳しい所のあるマーシェが、この時すぐには動き出そうとしなかった。むしろ後を取っている態勢を利用して、そのままティアの肩に手を回して制止している。そしてそのまま、抱きすくめるようにして自分の口元を相手の耳へと寄せた。
「どうも最近思うのですけれどね、私には独創の才能が欠けているらしいのですよ」
「は…」
一体どういう脈絡かしら。それが全く理解できなかったおかげで、ティアは自分の背中に押し付けられるものの感触に注意力のかなりの部分を削がれていた。やっぱり大きいし、柔らかい…。
「どうやら古今の書物に親しみすぎたのが災いしているらしくて、机上演習などでもつい、どこかで見たことがあるような作戦を立ててしまいます」
しかし、マーシェはただ意味のないことを言っているのではない。それを、ティアは理解した。声の質が変わっている。戦っている、あるいはそれを考えているときの、冷徹を基調としていながら熱気を感じさせるそれだ。どこか矛盾した感想だが、しかし実際そう感じてしまうのだから仕方がない。
「しかしね、実際それでそうそう困りはしないのですよ。黎明の時代から今に至るまで、戦史には無数の事例があります。わざわざ一から新しいものを作らなくとも、現状に応用可能な手法を見出し、それに手を加えてさえやれば良いのです。まあ、ことは不確定要素の多い戦場ですから、それが十分にできるだけで天才の令名をほしいままにできるでしょうけれどね。例えば国王陛下のように」
つまり戦争では必ずしも独創的な才能は必要なく、むしろ分析力こそが必要だと言いたいのだろう。とりあえずティアは、そこまで理解した。しかしそれだけに、自分がこの現状を全く分析できていないと、再確認させられることになる。
「だから、こういう場合にはつい、典型的な場面を想定してしまいます。風呂に入れば丸腰どころか丸裸ですから、それは敵の戦力が弱まる襲撃の機会として、まず考えるべきです」
マーシェは相変わらずの調子で語る。そして、ティア自身が感じたところではようやく、話を理解した。
そもそも一緒にお風呂とか言い出した時点で、マーシェさんは襲われる危険があるって考えていたんだわ。それが分かっていて二人揃って無防備になったということは…。
そして続く言葉が、それを確認することになる。
「しかし、典型的に過ぎますね。こういう所で現に何かしようとするとして、考えられるのは二通りです。まず一つは繰り返された古典を敢えて愛する人間。そうでなければ、
あるいは単に先人の真似をするだけか、あるいは独創をしたつもりで先例のようになってしまうか、いずれにせよ発想の才能がない人間です」
囮だ。おいしそうな餌を用意して、その周囲に罠を仕掛ける。風呂に入った裸の女性二人というのは、その美味な素材に他ならない。そして、それに対して喰らいつこうとする得物をとらえるのは…。
「安心して入って来いよ」
恐らく万人に対してそうであろう、その身分と年齢の割には落ち着いた印象を与える物腰の少年。しかしその奥では、鋼の牙が確かに研ぎ澄まされている。そのことを、ティアは知っていた。いざというときに発揮されるとてつもなく鋭いものを、彼は持っている。
そう言えばその彼が、そんなことを言っていた。今にして思えば答えは一つ。それは、彼が囮となる人間に対して、その安全は自分が保障するとの意志表示だ。彼も古今の先例を勉強している人間であるから、入浴時の危険性は当然承知しているはずである。要するに、あのような返答をしている時点で、彼はマーシェと「ぐる」だったということだ。
「済まん、取り損ねた!」
ばたばたと足音がする。そこから聞こえてきたのは、確かにタンジェスの声だった。
「追え!」
マーシェが鋭い声を上げる。そうしながら、何故かこの時ようやく、彼女は自分の胸を腕で覆っていた。
返答はない。しかしそれが、彼がマーシェの指示通りに行動している何よりの証拠であると、ティアは理解した。現に逃げる相手を追っているのなら、一々返事などしていられないはずである。
そうして反応がないことにむしろ満足したらしく、マーシェは軽くうなずいてからティアに向き直った。どう考えてもこれから大事になる、その認識とともに、ティアは背筋を伸ばす。
「さて、ティア様」
改まった声がかかる。それに対して自分は現状を認識していると示すつもりで、ティアはやや大きくうなずいた。
「どうします? 今から我々が身支度を整えて、それから不埒者を追ったとしても、恐らく追いつけません。追うつもりなら彼に任せるしかないでしょう。いっそここでゆっくりと、旅の埃でも落としましょうか」
理屈としては全くマーシェの言うとおりだ。しかし、ティアはゆっくりと、しかしきっぱりと首をふった。
「追います。捕まえた後には、全員の判断が必要でしょう」
マーシェの髪は三つ編みが腰まで垂れている。解いて伸ばせば、もっと伸びることだろう。それでいて、何か異変あればそれがはっきりと分かる濃い色をしていながら、荒れた様子がない。どうやら日常的に余程気を遣って手入れをしているらしい。
これを始めから作業しなおしたら、恐ろしいほど時間がかかる。それを踏まえた上で、ティアはうなずいた。
「承知しました」
すくっと立ち上がったマーシェは、そのまま浴場を後にした。そして用意されていた浴布を一枚手に取り、もう一枚を不意に投げてよこす。
「失礼ながら、先行をお許し下さい」
そう詫びを入れながら、既に体のほとんどを拭き終えている。そしてティアが何か言おうとする前に、彼女は身支度を整えていた。
…手品? 男性用と同じ形の上着はともかく、色々と複雑な女性用下着をどうして瞬間的に身につけられるのだろう。
「お気をつけて」
あっけに取られて、そして裸のまま、とりあえず無難なことを言っておく。それがおかしかったらしく、マーシェはやや苦笑して短く口を開いた。
「はっ」
ティアにとっては耳慣れないが、それが恐らく、軍内部では了解の返答なのだろう。そしてティアがその意図を確かめる間もなく、マーシェは立ち去るのだった。
好き好んで、それも縁者が埋葬されているわけでもない夜の墓場に訪れる。それはかなりの奇人変人に違いない。
ストリアスはそう、自己分析をした。そして、鼻歌交じりに自分の後をついてくる男についても、そう思った。
「怖くはないようですね」
一応、念のため、確認する。一節終えてから、ディーは心底不思議そうに聞き返した。
「何が怖いって言うの? たかが死体が何百だか何千だか何万だか、埋まってるだけじゃない」
全くそのとおりだ。身動き一つしない骸など、いくら集まろうと危険な存在ではない。それを見据えている点、ディーは極めて合理的である。
「されど死体、だったらどうします? とかくこのあたりには、悪い噂が多いですから」
様子を見るために、ストリアスは敢えて不合理な可能性を指摘する。しかしそれでも、ディーは笑って首を振った。
「例え化けて出たとして、埋められたその場をうろうろして、無関係の人間にあだを為すほど分別もなくした輩を、ボクは怖いと思わないね。幾万里を離れていようと狙い違わず怨敵を祟って殺す、くらいの根性があるのなら認めることにやぶさかではないけれど」
元来死してなお現世をうろついている時点で、亡霊というものは相当程度条理を逸脱した存在ではある。ただ、その分得体が知れない、そんな怖ろしさはあるはずだ。
しかしそれを、ディーは正面から論理の刃で切り裂いていた。そしてそれが、ストリアスにとっても結論である。不条理なものは、そこから先へ進まないのだ。
理屈をつければ、そもそもそれに反するという根本が崩壊してしまう。かといって、理屈のないものが、他に建設的な影響を与えることは困難だ。つまりそれは、要するに何かの役には立たない。
「結局、生きている人間が一番怖いのさ。生きてさえいれば、何だってできる。少なくとも、その可能性がある。人を殺すことも、生かすことも…ね」
丘一杯に広がる、墓標の群れを見上げる。そして髪を軽くかき上げてから、ディーはストリアスを見やった。一瞬だけ、夜に溶けるような黒髪の間から、同じ色をした黒い瞳が覗く。
「さて、それでは。生きている君は、何を見せてくれるのかな」
「あなただって、生きていますよ」
笑って指摘してから、ストリアスは地面を指差した。
「よろしければ、落ちている小枝を集めて下さい。なるべく…そう、なるべくこの辺りに生えている樹に似た形のものを」
「えー? めんどくさいなあ。何するのさ」
「それはできてからのお楽しみ、ですよ。まあ別に、協力してくれなくても責めはしません。僕としてはそもそも、始めから一人でするつもりでいましたから。しかし当然、倍は時間がかかりますけれどね」
ディーは退屈するのが極端に苦手だ。ストリアスはそれを見通していた。
「それも嫌だけど、ボクが小枝を拾っている間に、君は何をするんだい」
「僕は土…それから石を集めます。なるべくこのあたりに近い様子になるように。何なら僕が小枝で、あなたが土や石でも構いませんよ」
小枝を拾い集めるのと、土をかき集めるのと、どちらがより退屈かつ面倒な仕事だろう。ディーはそうすること自体不承不承といった様子で考えた末、結論を出した。明かりの用意は十分してあるが、土を掘る道具などまでは持ってきていない。
「小枝でいいよ」
ディーは自分の爪を眺めやった。丁寧に切られ、整えられた様子はさすがに楽器を扱う人間にふさわしいものだ。ただ、その割には指先に固くなった様子は見られない。何の労働も知らない、良家の子供の手のように見える。
確かにその手ならば、土を掘って汚すのは嫌だろう。ストリアスはゆっくりと、しかし大きくうなずいた。
「そうですか」
話は決まった。そうである以上、別に一々念を押す必要もない。そう感じて、ストリアスはとりあえず足元の土を手に取った。もっともその動作が、ディーに対しては何よりの念押しになったらしい。
「やれやれ」
嫌々、と言外で高らかにうたいながら、それでもディーは小枝拾いをはじめるのだった。
そして程なく、あるいはディーにとっては恐ろしく長い時間だったかもしれないが、ともかく一定の時間が経過してから、二人はあたりから必要なものを拾い集めた。ストリアスは土の小山を作り上げ、ディーはその傍らに小枝をばら撒いている。
「で?」
「ええと…あの樹は、これがいいかな。それから、そこは…」
答えを求めるディーを気に留めさえせず、ストリアスは自分で作った山に小枝を差し始めた。周りを見渡しては、目についた樹木に近い形状の小枝を探し出す、そんな作業を繰り返す。やがてディーも、とりあえず何がしたいのかを理解した。そしてふと、自分が持ってきた小枝を山に突き刺す。
「これはこの辺なんか、どうだろう」
「ああ、いいですね」
「後は…そう、ここはもっとこう、こんな感じだと思うんだ」
繊細そうな指先が、土塊の小山に力を込めて変形させる。ストリアスは、それに頬を寄せるようにして視線を下げて、その形状を確認した。
「なるほど。そういわれてみればその通りですね。よくお分かりで」
「ま、旅に慣れてるからね。地形についての感覚は、当然鋭くなるさ」
斜面を作って、そこに樹を植えて、さらに石も丁寧に配置してゆく。それは、この王立墓地正面付近の模型だった。現に目の前にそれがあるにもかかわらず、敢えてその縮小版を作る、そんなどこかこっけいなはずの作業が、しかも夜の墓場の中で続けられる。
そして、どれだけの時間がたったのだろう。少なくともストリアスは作業に熱中していたので、その経過には注意を払っていなかった。ともかくも、彼が飽きたり疲れたりする前には、即席の模型が完成することになる。
「本当は立ち木の形状を細かく再現できると良いのですけれど」
しかし手を離すなり、ストリアスは首をかしげた。熱心にやっていたからこそ、自己に対する評価も厳しい。そんな気質なのである。
「とりあえずはこの程度で十分なんじゃない? 予期した通りの結果が得られなければ、そのときはまた細かく、ゆっくり作り直せばいいんだし」
元来おおらかなのか、既に飽きているのかは定かではない。ともかくディーは、切り上げに賛同した。
「そうですね。それでは…と、これだと強すぎるかな」
軽く手のひらをくぼめ、指は五本そろえる。そんな手の形を作ってから、ストリアスは首を傾げて考え直した。ディーは苦笑する。
「くだくだ悩むよりは、やってみたほうがいいと思うけど。試す機会はいくらでもある。別にこの夜中に、しかもこんな所で、急ぐ必要なんてどこにもないよ」
「そうでした」
小さくうなずいてから、ストリアスは手の形を変えた。親指と中指の先を合わせ、薬指と小指は丸める。人差し指は、その状態から自然に緩く曲げていた。
「それでは」
多少、呼吸を整える。そしてストリアスは、手を振り下ろしながらその中指を弾いた。指を鳴らす、奇術師が不意に花でも咲かせる、そんな動作だ。
そして、何も起きない。強いて探すなら、湿っぽい摩擦音が聞こえただけである。あの小気味よい、渇いた音さえしなかった。そしてそれとは全く因果関係がないにもかかわらず、関係しているとしか思えない所で、うすら寒い風が吹いていた。
「下手にもほどがある、という程度さえ下回ってると思うんだけど」
やや間を置いてから、ディーが失笑する。実の所あまり誠意はないのだが、とにかくストリアスは謝った。
「済みません」
「なら僕がやっていい?」
「どうぞ」
承諾を受けて、今度はディーが似たような手を作る。そして気負うことなく、その手を振り上げた。
「それ!」
肘と手首が、しなやかに翻る。小さいとはいえ何かが破裂したとしか思えない、そんな音が高らかに響いた。
「おお」
ストリアスが思わず声を漏らす。無論それは、実に見事に指を鳴らす技術に対するものではなかった。この吟遊詩人なら、その程度のことは当然やってのけるだろう、それくらいには信頼しているのだ。
その代わり、自分たちで作った模型へと完全に注意を向けている。そのままそこへ顔を突っ込んでしまいそうな勢いだ。
「ふう、やれやれだね」
一方ディーは、呆れて首を振っていた。そしてそのまま、周囲に目を配る。彼が非難したかったのはストリアスではなく、その視線の先にいるものであった。
「はいはい、検証はお預けだよ。無粋な連中がいていけない」
つま先で軽く小突いて注意を促す。非礼極まるやり方だが、しかしこの場合それで決して間違いではなかった。そうでもしなければ、ストリアスはなお地面に這ったままだっただろう。
「はい? あ、ああ、何でしょうね」
立ち上がって、きょろきょろとする。見えるのは墓石と、木々だけである。しかし指摘されてなおその先の存在に気づかないほど、ストリアスの知覚は鈍くなかった。問題は集中力がありすぎて、意図していないと感覚が外部に向かない点にある。
「さあ。とりあえず、お友達になりましょうっていう近寄り方じゃあないと思うけど」
音源は複数。こだまの類ではない。それがじりじりと近づいている。ディーはそう聞き取っていた。少なくとも相手は、何らかの形でこちらを警戒している。
「引っ込み思案なだけという可能性も全くないではないでしょう。それにまあ聞く所によりますと、この世ならぬ方々が我々を『お仲間』にしようとするときには、ひっそりやって来るものだそうですし」
いきなり明るく現れる亡霊などどうにも怖くない。いや、妙な意味で怖いかもしれないが、ともかく怪談としては忍び寄ってくるのが定番である。
「別に内気な人間も嫌いじゃないけれど。でもボクは、同類であることと友人であることを安易にはき違えるような輩は、大嫌いだね」
例え同じ死人の仲間入りをさせたとして、そりが合わないなどという可能性は無尽蔵にある。何しろ同じ生きている人間同士、いがみ合う事例には本当に事欠かないのだから。それは誰しも目にしているはずである。
しかしその割に、人間はしばしばつまらないことで仲間意識を持つ。そして、その「仲間」に入らない人間を疎外する。例えば魔術を使えない人間が、魔術師を恐怖するように。またいわゆる「堅気」の人々が、定職どころか定住の場所さえ持たない吟遊詩人を見下すように。
それを考えれば、これは正論だと、ストリアスは評価した。しかしかなり、本筋を離れている。もっとも、そのきっかけとなる話をしたのは他ならぬ彼自身だから、注意はしないことにした。代わりに、話題をこの場に戻す。
「そうでしょうね。それで、あなたはこのあたりの人々ををその『輩』だと思っていますか」
「君はどうなの?」
この傍若無人という言葉の生きた見本のような男が、聞き返す。それは判断の全面的な委任だと、ストリアスは理解した。
「そもそも賭けは嫌いなのですけれどね。しかしどうしても賭けなければならないのなら、友好的でない方に賭けますよ。そのほうがずっと、分がいいですからね」
「分かっているのに、ずいぶん余裕があるじゃない」
やや歪んでいるとはいえともかくも友好的。その可能性を排除するとなると、現状分析は敵対的な意図を持った集団に包囲されていることに他ならない。そんなディーの指摘は、ストリアスにとって実の所驚くべきものではなかった。始めからそうだと分かっているし、対処法も十分考えている。
「不思議ですよね」
苦笑しただけで、ストリアスは疑問への回答を無造作に捨て置いた。
一度ならず捨てた命だ。今更惜しいとは思わない。それでいて、今思い出されるのは、そのとき考えていたことだった。
敵に追い詰められたらどうするか。そんなことばかり思案していた。
とっさに襲われれば、実の所それまでだ。自分は特に素早い反応が苦手であると、重々承知している。だからその可能性については深く考えていない。要するに、どうせ駄目なのだから仕方がないと、開き直っていたのである。
しかしその分、突然ではない敵対行動に対しては、十分すぎるほどの対処法を考えていた。それを今も、忘れ去ってはいない。いや、葬り去るべき記憶とともに忘れたつもりだったが、今やはっきりと思い出せる。
それに照らして、現状は理想的であるとさえ言えるだろう。自分の身構える時間が十分に過ぎるほどあるうえ、相手の位置の変化は緩慢だ。「おあつらえむき」とは、こういうことをいうのだ。ストリアスは、そんなことを考えていた。
「でももっと、不思議に見えることも、世の中にはありますから」
「見せてくれるの?」
「この際です」
ごく限られたものにしか使うことを許されていない、禁忌の能力。それをストリアスは重々承知している。何しろ一度は、彼自身がその許しを得ているからだ。その許しを得るために、禁止事項を完璧に覚えてもいる。
しかし今、その資格は剥奪されている。それも承知のうえで、ストリアスは迷わずそれへ向けた準備を既に始めていた。命を捨てたのと同時に、当然のことながら瑣末な配慮などというものも捨て去っている。資格がないことと、能力がないことは全く別の問題だ。やる気さえあれば、その力の続く限りのことができる。
「驚かないで下さい、なんて言う必要、ありませんかね」
木々がざわめいている。しかしそれは、常識をはるかに超えた聴覚を有するディーにさえ、感じ取れないはずだ。別に、実際に何かの音がしているわけでもない。ただ、大地に与えられた尋常ならざる力に反応して、そこに根ざした者達が音にならない声を上げているだけだ。
「多分ね。ボクも賭けは嫌いだけれど、ボクが驚かない方に賭ける人間のあてなら、複数思いつくよ。こう見えて吟遊詩人だからね。色々知ってるのさ」
「そうですか」
返答がそっけないのは、既に別の作業に精神力を集中させているからだ。目標の正確な位置は、今の所つかめていない。それを特定することも、ストリアスの尋常ならざる知覚を持ってすれば不可能ではない。しかし敢えて、彼はそうしていなかった。精密な探知に力を割くよりも、疑わしい場所全体に働きかける方が簡単なのだ。分厚い書物を読破するより、燃やしてしまう方が手間は少ない。ストリアスにしてみればそのようなものである。
「さて、それでは何が始まるのか、ゆっくり見物させてもらうとしようかな」
ディーは腕組みをして、少し下がる。しかしその動作自体に何の意味もないことを、ストリアスは理解していた。接近してくる気配は、正面や左右ばかりではない。後ろからもだ。
要するに、取り囲まれている。そしてその状況下で、単に後退をしたとしても得られるものはない。どの方向であれ、場所を変えればそこにいる敵につかまることになる、それだけのことである。
それにしては、ディーに動揺の兆しは全く見られない。しかしその理由を、ストリアスは考えようとしていなかった。この後自分が無事であったのなら、そのときゆっくり考えれば良い。現状で判断したのは、それだけである。
「行きます」
そして何となく、つぶやく。
少なくとも、ディーに対してではない。彼は既に、覚悟を決めている。
かといって、直接その対象となっている人々に対してでもない。そもそも今自分のしようとしていることは、無警告であるからこそ有効である。その程度の認識は、十分にある。
一方、これは件の禁忌を課した人々に対してでもなかった。わざわざ断るくらいなら、そもそもその禁令を破ったりはしない。どれほど相手の身分が高かろうと、そして破ったことに対する罰が重かろうと、今のストリアスにとって、彼らは要するにどうでも良い存在だ。
これは、自分自身に対する宣告だ。
ディーを守る。つい数刻前に出会っただけの間柄だが、逆に考えればそうである以上、自分に巻き込まれて危害を加えられるいわれは全くない。だから彼は、無事でいなければならないのだ。
反面、自分についてはどうでもいいと思っている。その後の制裁が怖くないからこそ、簡単に禁を破ることができるのだ。
心に迷いや曇りはない。むしろ理想的な状態だと、ストリアスは冷静に自己分析をしていた。大地への働きかけが、急速に高まってゆく。
「始まる…」
今や普通の人間にも分かる形で、現象は始まっている。それをディーは、研ぎ澄まされた聴覚で感じ取っていた。
続く