王都シリーズW
王都怪談


10 闇をさまよう者たち


 廊下を走り抜け、開け放たれたままの窓から外へと飛び出る。浴場付近に現れた不審者はこの一帯の構造や警備状況に相当精通している、タンジェスはそう判断した。何しろそれを追って走る自分自身、一度も警備兵の誰何を受けない。そのまま、墓地外周の森へとたどりついてしまった。
 その知識という条件からすれば、相手の方が明らかに優位だ。もし脚力が全くの互角であったとしたなら、追跡者が逃亡者を捕捉できる可能性は極めて小さい。
 しかし、である。タンジェスには成功する目算があった。そもそも、それだけ有利な条件を持っていながら既に逃げ切れていない時点で、相手の運動能力は自分よりかなり劣っている。地道に追い続ければ、いずれ相手が息切れして追いつけるだろう。創意も工夫もない要するに力技だが、日々体を鍛えている士官学校生にしてみればそれも芸のうちである。
「おっと」
 そして不意に、その姿が木々の間で見えなくなった。どうやら相手も、ただ走っていたのでは逃げ切れないと悟ったらしい。どこかに隠れたのだろう。あるいは元々その隠れるあてがあって、この方向へ逃げてきたのかもしれない。そうだとすれば、ここが正念場だ。
 左手で腰の剣を押さえ、音を立てないようにする。そして静かに、歩き出した。夜の森に入るのに、成り行きから明かりも持っていない。足もとの不安を考えればあまり賢明とは言いがたいが、幸い逃げる相手が下草を踏み分けてくれたため、多少なりとも道筋の見当はつく。暗がりでも何とかなりそうだ。
 歩きながら、神経を研ぎ澄ます。正直な所、今はティアやストリアスの特殊な知覚力がうらやましい。そうでなくともせめて、ディーのように優れた聴覚が欲しい所だ。
 しかし、泣き言を言っても始まらない。今まで自分が積んできた訓練、そして幼い頃からの経験を生かして、「獲物」を追い詰めるのだ。痕跡に目を光らせ、そして鼓動と息遣いに耳をそばだてる。できるものなら、臭跡をたどってもいい。
 つい今しがたまで逃れようと全力で走っていた「それ」は、決して安静な状態ではいられないはずだ。しかもなお、追われている。鼓動は激しく、呼吸は乱れ、そして汗をにじませているだろう。必至になってそれを抑えようとしているものと思われるが、その焦りこそ、人間自体から静寂を奪う。
 だが、タンジェス自身も決して、安静とは言いがたい。走っていたのは彼とて同じだ。それに、もし読みを間違えていて相手を取り逃したら、という不安がつきまとう。そうなりでもしたら、わざわざ囮を買って出たマーシェはともかく、それと気づかぬうちに協力させられたティアに申し訳が立たない。さらにそれが任務の失敗につながれば、話を持ち込んでくれたノーマに合わせる顔がなくなる。
 呼吸と鼓動、自分自身の生きている証が、しかしひどく鬱陶しい。手のひらににじんだ汗が、いざというときに手にした剣の柄を滑らせてしまうのではないかと気にかかる。
 ややゆるい歩みであったとはいえ、移動距離から考えて、それほど時間が経過してはいない。それが頭では分かっていても、長い長い旅路だった。その末にようやく、逃亡者の姿が消えたと思しき場所にたどりつく。あたりの中では最も太い樹の下である。
 そこから先に、強引に踏み分けたような形跡は見られなかった。かといって、左右に方向を転じたとも考えにくい。そうであるならそもそも、見失いはしなかったはずだ。
 前後左右、さらに足元まで再確認する。しかしそこに、自分の歩いた以外の形跡を見出すことはできなかった。剣など身に帯びているものも含めた総重量は、タンジェスの方がかなり重いらしい。何気なく移動しただけで、相手の足跡などをほぼ完全に潰してしまうようだ。
 また念のため、そばにある大木も確認した。一定以上太い樹木になると、人が入れるほどのくぼみや空洞が生じることがある。この樹だと自分は無理でもディーくらいなら入る穴があってもおかしくない。そう思ったのだが、しかしそれらしいものはなかった。節くれだって、そして全体の形もねじれたような、あまり見栄えのするものではないが、ともかく欠損は見られない。
 見誤ったか。そう思うだけで、熱いような冷たいような、とにかく不快なものが背筋を上下する。しかし…。
「甘いよ!」
 感覚の網が、何かを捕らえた。その瞬間、タンジェスは手を振り上げている。そしてそこから、太い縄が伸びていた。
 マーシェの囮作戦に乗ると決めた後すぐ用意して、服に忍ばせていたものである。野営や登坂、さらに応急手当や捕虜の拘束など、様々な用途を持った縄は戦士にとって最も基礎的な装備の一つだ。今回のように遠出をするなら、最低一本は所持しておくべきと、そんな士官学校での教えをタンジェスはきちんと守っていた。
 跳ね上がった縄の先には、鉄製の鉤がくくりつけられている。すぐにでも物の固定に使えるようにとの準備であるが、この場合はそれが錘の役割を果たしていた。縄そのものが意志を持ったかのように、勢いよく跳ね上がる。飛び掛る蛇さながら、その牙が狙っていたのは樹上の目標だった。
「ひぃ!」
 妙に高い、情けない声とともに、頭上の枝から何かがどさりと落ちてくる。タンジェスは軽く後ずさって、その下敷きになるのを免れていた。
「やはりな…」
 前後左右、それから足元。その可能性は一通り潰した。残るは唯一つ、上である。相手が樹上に逃れているかもしれない。タンジェスはその可能性を、この大木の形状を確認した時点から考えていた。不恰好な分足がかりの多い、つまり上りやすい形をしていたのである。
 そしてもう一つ、やはりと思ったことがある。それは、相手の風体だった。
「ガキか」
 発育十分の上それなりに鍛えた自分とは、比較にならない小さな体躯。子供である。
 追跡する過程で、そうではないかと疑っていた。体力面で自分より大きく劣っていることが分かったし、遠くに見える姿も小さいように思えていたのだ。そして今は、手口が稚拙だとするディーの見解が思い出される。子供のすることであれば、稚拙なのは当然だ。
 もっとも彼は同時に、単純に子供のすることだとは割り切れない部分も指摘していた。ただそれについては、これからじっくり問い詰めれば分かる可能性が多分にある。
 それにしても、いくら明らかに相手が年下であるとはいえ、初対面の人間に対していきなり「ガキ」呼ばわりは、ずいぶんと柄が悪い。タンジェス自身、その自覚がないではなかった。
 普段の彼なら、そんな口のきき方はまずしない。騎士になるべき人間として、礼儀には気をつけているためである。
 そもそも特に士官学校に入る以前には、自分の柄が悪いなどと思いもしなかった。実際、故郷の同世代の少年達の中では、むしろ上品な方だったのだ。
 しかし入学以後、マーシェを筆頭とする騎士や貴族の子弟と接するようになってから、考えを改めざるを得なかった。彼らは特に意識していなくとも、それなりに格調高い話し振りを保っている。また、特に下品な単語に関しては始めから語彙にない、要するに知らないこともある。「育ちが良い」とは、そういうことであるらしい。
 それを承知で、敢えて「ガキ」と言う。要するに、意図的なものである。目的はただ一つ、威圧だ。穏やかで配慮のある口調と、きつい見下すような口調、どちらが相手に精神的な負担を強いるかといえば、当然後者である。そしてそれを通じて、タンジェスは事態を自分にとって有利に運ぼうとしているのだ。
 背景事情はこれから調べるところだが、いずれにせよ「悪さをする子供」に対しては、まず高圧的に出るべきだ。話を聞いてみてその事情次第では笑って赦すことがあるにせよ、それに説得力を持たせるためにも、始めからへらへらとしてはいけない。タンジェスはそう信じて、疑っていなかった。
 もっともそもそも、このように意図的に自分の口調を制御すること自体、あまり品のある行動ではない。育ちの良い人間は、そのように瑣末な手段で他人を威嚇することを、そもそも考えつかないものだ。基本的に物心ついて以来周囲より優位な立場にあり、敢えて何かを演じる必要を欠くためである。ただ、それについてはあまり深く考えないことにする。
「迂闊に動くなよ。それについている鉤はかなり鋭い。下手をすると肉が裂ける」
 そしてさらに、精神的な圧迫を続けた。もっともこれは実のない脅しなどではなく、現にそうなるという警告でもある。そしてタンジェスの本心としては、事情がどうあるにせよ、年端も行かない子供に重傷を負わせたくはなかった。相手の出方にもよるが、実力行使をせずに済むのであればそれに越したことはない。
「投降しろ…と、言っても分からないか。大人しく言われた通りにしろ。そうすれば命は取らないし、ひどい扱いはしないと約束する」
 とりあえず、タンジェスは「投降」という言葉の意味を、子供にも分かるように噛み砕いた。確証はないが、とりあえずこう要約しておけば間違いないと思う。
 実の所これに関する作法あるいは暗黙の了解は様々あり、それらへの見解は極めて多岐に渡る。しかし、その大まかな内容は口にした通りである。少なくともタンジェスは、そう考えていた。捕虜には自分の自由、あるいは武官の任務を放棄する代償として、それに応じた保護が与えられるべきなのだ。
 そして、縄を握っている手にかける力を強めた。それがぴんと張って、確かな手ごたえが伝わってくる。体のどこに絡まっているにせよ、その縄が相手の自由をかなり制限していることは明らかだ。
「馬鹿が!」
 しかし、その小さな体の主は、諦めてはいない。タンジェスが一方的に語りかけている間に、対処する方策を考えていたようだった。どこからか取り出した刃物を使って、自分とタンジェスをつないでいる縄を切り裂く。
「チッ!」
 それを引っ張ろうとしていたタンジェスは、音高く舌打ちをした。自分が加えていた力が不意に行き場を失って、その態勢が大きく後へ崩れる。
「ざま見ろ!」
 品のない快哉を叫んで、その小さな体が遠ざかろうとする。タンジェスは彼が完全に自分を見るのをやめる機会を見計らって、つぶやいた。
「馬鹿はどっちだ、とか言い返すのは、子供の喧嘩だよな」
 それが分かっているから、反論をせずただすべきと判断したことを行動に移す。今まで袖口に隠していたものを、迷わず投げつけた。
「少なくとも、用もないのに地面に顔を叩きつける奴を、頭がいいとは言わないだろうな」
 這いつくばった相手に対して、淡々と言う。彼が使ったのは、鉄の鎖だった。足元へ軽く回転をかけながら投げつければ、慣性でそのまま絡みつくのだ。走っている最中それに足を取られれば、後は転ぶしかない。
 なお、これも出発の時点から準備していたものである。場合によっては犯人を捕縛し、王都まで連行する必要がある。そう判断していたのだ。
 短時間の拘束であれば縄を使っても良いのだが、長時間になると擦り切ったりされるおそれがある。タンジェスはそれを、あるときの自分の経験から悟っていた。完全に身動きを封じる縛り方もあるが、その状態が長時間続くと命に関わるため、無闇には使えない。
 そこで工具でも使わなければまず切れない、鉄鎖を用意していた。これは拘束に使える他、振り回せば十分に殺傷力のある武器になる。半ば伝説と化している歴史上の偉人の一人は、鎖を用いて単身、凶悪な邪教徒の群れを制圧したという話だ。無論タンジェスにはそこまでの心得はないが、少なくとも一対一でそう簡単に遅れを取らない程度の運動能力は持っている。
「諦めろって。悪いがこっちの方が一枚は上手だぞ」
 多分、二枚か三枚は上手。その内心を、タンジェスは一応謙遜して表現した。
 複数回の実戦経験は伊達ではないつもりだ。それが必ずしも勝利に結びつきはしないとも、何より自分自身の経験から学んでいる。しかし完全に負けておかしくない所を何とか切り抜けたのはその賜物、例えば修羅場度胸の産物だ。そう考えていた。
 しかしその事実が、経験のない人間には分からないらしい。その子供はとりあえず何か反論、あるいは罵ろうとする。無理もないとは思いつつ、タンジェスはそれを封じにかかった。
「止めてくれないかな。縄で括っても駄目、鎖で縛っても駄目となると、後は刺すしかないぞ。傷による体機能の低下、出血による体力の消耗、それから痛み。場合によっては包帯のおまけ付き。俺だって別に、好きでやる訳じゃないんだが…」
 実にわざとらしく、帯剣の鞘に左手をかぶせて重々しく鳴らす。歴戦の勇者なら鼻で笑ったかもしれないが、しかしこの場での効果は絶大だった。鎖に足を取られたまま、相手は震え上がっている。
 どうやら少々やりすぎたらしい。実は剣を使うにしても、刺したり斬ったりせずに平で打ち据えるなどの方法がある。しかし彼に、そうと気づくほどの余裕は全くないようだった。
「分かったら持っている武器を捨てろ。今すぐ、全部だ」
 しかし今更、甘い顔もできない。表情を崩さないまま、タンジェスはそう告げる。相手は不必要に何度もうなずいてから、手にしていた短刀を投げ捨てた。どうやら彼にとって、武器になるようなものはそれだけであるらしい。もっとも体格、さらに技術を考えれば、武器を持った彼より素手のタンジェスの方が、余程殺傷力に優れているだろう。
「それでいい。鎖をゆっくり、自分の手で外すんだ」
 少しだけ、口調を和らげる。子供にとって絡まった鉄鎖はかなり重いだろうが、しかしどうにもならないというほどではない。タンジェスはそう見取っていた。自分よりは明らかに若いが、しかし体格から判断して少なくとも十歳は超えているようだ。迂闊に足元にかがみこんで両手を使えば、不意を突かれて不覚を取られるおそれもある。だから、自分の手でさせることにした。
 まだ恐怖にとらわれているらしく、その手つきはおぼつかない。しかしタンジェスは、手を貸すでもなく、一方で叱咤するでもなく、辛抱強く彼が自ら戒めを解くのを見守っていた。
「立ってくれ。俺はタンジェス=ラント。士官学校の学生だ。君は?」
 相手が立ち上がる態勢になったのを見届けてから、改めて声をかける。はいつくばったままの状態でもできないことはなかったが、そうしなかったのは一応礼儀を守ったためだ。身分に明らかな際がある、あるいは特殊な場面であるなどの例外的な状況でない限り、挨拶は対等の目線で行うものである。
 もっとも、「君」という呼びかけをした時点で、敬意は完全にないといってよい。相手が自分と概ね同格だと判断している場合でも、初対面であれば最低でも「あなた」などの丁寧語を用いるものだ。明らかに騎士であれば「閣下」が無難である。
 自分が名乗る前にまず「誰か」などと相手の素性を確認する、軍隊で不審者またはその予備群に対してよく行われる「誰何」よりはまし、という程度だ。
「ここの兵隊じゃないのか」
「質問に答える。名前は?」
 立ち上がりながらの反応に対して、また口調を厳しいものに戻して再度促す。誰何するなら「官姓名は?」と言うのが定番だが、この少年が官位を持っているとは始めから考えていなかった。
 一方タンジェスの「士官学校の学生」は、一応官位である。命令があれば即戦場に出る義務があり、その代わりに一定の俸給を受けている。それを考えれば、正規の軍人と変わるところはない。もっとも俸給の大部分は学費や寮費という形での言わば現物支給であり、学生達の手元に渡るのは小遣い程度だ。
「ギイ」
 彼が口にしたのは姓か名か、いずれにしろタンジェスにとっては聞き覚えのない響きだった。あだ名か、あるいはどこか異国の出なのかもしれない。命名の方法は、地域ごとに大きく異なるものだ。
「ギイ何だ。それとも、何とかギイか」
 確認しながら、目を凝らして何とか相手の様子を詳しく確かめようとする。何しろ夜の闇の中である。一応月は出ているが、その光も大半は周囲の木々に遮られてさほど救いにはならない。今の所、目で見て分かっていたのは背格好程度である。
「ギイはギイだ。他に名前なんてない」
 ふてくされた声が響く。タンジェスは謝ろうとして、止めた。別に非を認めないつもりはないが、しかし認めた所で相手が納得する見込みもない。むしろ感情を逆なでするだけだろう。
「そうか」
 その一言で、ひとまず打ち切る。今のやり取りは要するに挨拶の代わりであり、長々としていても仕方がない。
 そこで早速、本題に入った。
「で、何でまた女風呂を覗いたりしたんだ?」
 我ながら間の抜けた質問だ。覗きをしでかすのに、もっともな理由などあろうはずもない。言い訳をするのなら見苦しいの一言に尽きるし、かといって生々しく赤裸々に欲望を語られても気持ちが悪い。しかし今は、この質問が必要なのだとタンジェスは判断した。
「覗きなんかじゃない!」
 言い終えないうちに、ギイが猛烈に抗議する。しかしこれこそ、タンジェスが望んでいた反応だった。だからいきなり大声を上げられても驚きはしないし、態度の悪い年少の捕虜に対して怒りを覚えもしない。
「じゃあ何だよ」
 至極さりげない様子で質問の角度を変える。怒りに任せたまま、ギイは口を開きかけた。
「それは…」
 しかし、すんでのところで思いとどまる。挑発だと気がついたのだ。痴漢の類だと決め付けることによって怒らせ、その場のとっさの反応としての真実を引き出す。それがタンジェスの狙いだった。
 ばれたな、と思いつつ、タンジェスは一応念を押してみることにする。
「ほら、すぐに言えないじゃないか。まあやっちまったことはやっちまったことだから無罪放免って訳にも行かないが、若気の至りって奴は誰にだってあるからさ。正直に謝るなら今のうちだぞ」
 えせの理解ほど相手の神経を逆なでするものも珍しい。しかし親切ごかしたわざとらしい笑顔に対して、ギイは良くこらえた。結局、夜目にも明らかなほど顔を紅潮させて激情をあらわにしたが、結局沈黙を守っている。力の差が既にはっきりしていなければ、飛び掛っていたことだろう。
 ちなみに、ここで自然な表情を作れないのが、演技者としてのタンジェスの限界である。土台そのあたりに関して器用ではないとの自覚もあるので、ひとまず素にに戻ることにした。
「そう、か。じゃあ仕方がないな」
 軽くため息をついて、顔の筋肉の不自然な緊張をほぐす。そのため息が、タンジェスとしては本当に、偽らざる心境だったのだ。
「ギイ。君の罪状は、君自身が考えているよりずっと重いんだ」
 相手が簡単な挑発に乗る程度の子供であれば、笑って済ませられる。少なくともタンジェスはそうするつもりだったし、そのような弁護が必要であればしてやるつもりでいた。
 しかしギイは、それをかわす程度の知性を持ち合わせている。その分、例えば誰かの言いなりになっていたなどという抗弁は、難しくなった。結果、責任を自ら負わなければならない公算が高くなる。そして、その罪は恐ろしいほど重いのだ。
「そんな脅しには乗らないぞ」
 ギイは強がって見せる。しかし、タンジェスは小さく首を振って続けた。どうやら本当に分かっていないらしい。出鱈目な脅しではない。ただ、事実を羅列しているに過ぎないのだ。
「畏れ多くも国王陛下がお作りになられた、この墓地で騒乱を引き起こし、そのご威信を傷つけようとした。…反逆だぞ」
 元来タンジェスは、このような建前にとらわれる人間ではない。騎士を志している以上名誉を尊重しているが、それは他人の罪を重くするために存在するものではない。そう信じているからだ。幽霊騒動を引き起こしたなど普通に考えれば精々騒乱罪、あるいは「罪」にさえならない、厳重注意ものという程度である。
 しかしことが国王の名誉、つまり威信となると話が違う。それを傷つけることは、国家の秩序への挑戦とみなされるからだ。騎士であれば、時としてそれを守るために命を賭けて戦わなければならない。現に今回、近衛騎士であるノーマ=サイエンフォートが影ながら動いている。建前だからと無視できないことを、嫌でも分からざるを得ないのだ。
「死刑まで覚悟しても、大げさじゃない」
「はったりだ!」
 ギイが声を張り上げる。しかしどうやら、彼は自分の目が嘘偽りですまない光を帯びていることを悟っているらしい。もし本当に相手の発言を疑っているのなら、もう少し余裕のある振る舞いができるはずである。中々、勘は良いようだ。
「そう思いたければ、今はそれでもいいさ。尋問や裁判をするのは俺じゃないからな。その前に考えを改めれば何とかなる」
 そう言えば、この件を裁くとすれば一体誰になるのだろう。タンジェスは言いながら、ふと考えてしまった。
 一般的な平民の場合、裁判を行うのは領主である。形式上国王が領主である直轄地であれば、その権能を代行する地方官だ。
 しかしここの場合は、かなりややこしい。軍組織等に対する犯罪に関しては、戦闘権限の一環として、部隊指揮官が即決裁判を行っても良いことになっている。ここではブレアン男爵がその責任者である。その一方で宗教施設に対する冒涜である場合には、神官にも処断する権利があるとされている。つまり地方官とあわせると、権限が三重にもなっているのだ。
 さらにタンジェス自身の事情も、今は複雑だ。本来軍人軍属としての立場からすれば、当然直属の上官に指揮権限がある。学生の場合は、担任教官がそれに相当することとなっている。しかし現在実際に彼が行動しているのは、全く別の指揮系統に属するノーマの依頼によるものだ。
 あまり深く考えないほうが良さそうだ。結局タンジェスはそれだけ判断して、その後の思考を放棄することにした。
 ギイの身柄は、しかるべき調査を終えた末ノーマに引き渡しておけばよいだろう。彼ならば性格的にも、また内々に済ませようとしている今回の事情からしても、過酷なことはすまい。そう思う。
「まあ、とりあえず男爵館まで戻ろうか。どうするかは俺の仲間と合流して、それから決めることにするよ」
 それがこの場での結論である。もっとも、タンジェスとしては選択肢など始めからありはしなかった。頭ごなしに命令をされるいわれはないにせよ、ティアやストリアスの意見は尊重しなければならない。集団行動をしている以上、それが常識である。
 また、マーシェとの間については、意見が食い違えば最終的に彼女の指揮命令に従わなければならない。士官学校の同級ではあるが、彼女の席次はタンジェスより高いためだ。緊急事態においては少しでも地位の高い人間に従う、それが軍隊なのだ。実際どうなるかについては個人的な力関係など色々複雑なことはあるが、ともかく今のタンジェスに自由がないことは確かである。
「歩いてくれないか。縛って引っ張っていくとか、気絶させて担ぎ上げるとかは、嫌なんだけど」
 動かしようのない結論をもとに、タンジェスが話を進める。ギイは、のろのろと歩き出した。少なくとも今の彼は、タンジェス以上に不自由な身分だ。何しろその不自由を、タンジェス自身が圧倒的な力の差を背景に強いているのだ。
「…とはいえ」
 それを承知して、タンジェスは苦くつぶやいた。しばらく相手が反論あるいは反応をしておらず、自分だけが喋っているということも知っての上である。
 力づくで物事を制する行為の、何と不毛なことだろう。何より恐ろしいのは、その不毛さを分からせるために唯一ある程度有効な手段が、その彼をまた力で制するしかないということだ。少なくともタンジェスが自分の経験から判断する範囲においては、そうである。
 そして、タンジェスは不意に、ギイの襟首を掴んで自分の方へと引き寄せた。
「おい、なに…!」
 いきなり、ごく軽いとはいえ暴力の行使を受けて、少年が大きく抗議の声を上げる。タンジェスは構わず、さらに腕を回して、身動きが取れないよう強く締め上げた。
「ぁ…」
 うめき声が搾り出される。本人が望んで発せられる音ではない。肉体という構造物に対して外部から圧迫を与えて初めて出る、否応なしの響きだ。しかしそれでも、タンジェスは力を緩めない。
「じたばたするなよ」
 至極簡単にささやく。声高な脅迫などは、児戯に過ぎない。真に相手を圧倒できる力があるのなら、そんなものは必要ないのだ。
 必要であれば、あるいは気まぐれで、相手を殺せばいい。それが強者の論理である。その力が自分にあることは百も承知で、しかしタンジェスは説得した。理由は、自分自身が万全には程遠い状態にあったからだ。
「頼むから!」
 必至の懇願にも関わらず、ギイは手足をばたつかせる。そして次の瞬間、恐るべき勢いを持った何かが、その大げさにふられた手のわずかに先を通過した。
「うそ…」 
 とたんに、その手足から力が抜ける。タンジェスは小さく、ため息をついた。
「分かってくれるとありがたいな。いつ殺されたっておかしくないんだぜ、俺達。何しろ、一連の事件の重要な手がかりを握ってるんだから」
 タンジェスは能書きを垂れながら、呆然として力を全く失ってしまっているギイの体を強引に移動させる。その視線の先には、やや離れた位置にある樹の幹に突き刺さった矢があった。
「口封じだな。手先になって裏の事情を色々と知りすぎた奴と、それを嗅ぎ回っている人間と、まとめて始末しようって訳だ。何しろここは墓場だから、死体の処理にも都合がいい。墓が一つ二つ増えたって、誰も不思議に思わないだろう」
 しかし俺もずいぶんと偉そうなことを言うものだ。タンジェスは語りながら、内心ではそう自嘲していた。墓場が怪談だけでなく暗殺にも好都合だと、彼自身襲撃されてようやく気がついたのだ。
 例えば自分やマーシェなら、誰かが行方不明になれば、掘り返された跡の新しい墓を疑うこともあるだろう。しかしその程度の目星では、無数の墓標の中から最近手の加わったものを洗い出し、さらに実際疑わしいものを特定するとなると現実問題として不可能に近い。一方ティアやストリアスなら、最悪の事態に対して特有の能力を発揮してくれるかもしれない。しかし少なくとも自分にとって未知のものを当てにするほど、タンジェスは楽観的になれなかった。そもそも最悪の事態を想定しておいて、そこだけ楽観的になるのが間違いである。
「こっちへ捕まったままなら、少なくともまともな裁判を受けられる。大人しくしていれば情状酌量ってのもあるだろう。しかし向こうなら、結果は一つしかないぞ」
 先程ギイが上っていた木を盾にして身を守る。さらにその後ろに、彼をかばった。ただ、極度に太い木でもないから、相手が位置を変えればまた狙える状態になる。安心してはいられない。まして自分だけでなく敵対的な意図を持つ捕虜まで守るのは、まず不可能だ。
 そしてひとまず、ギイが体の力を抜いてくれる。半分だけ安心したタンジェスは、まだ姿の見えない敵に集中することにした。
 手持ちの主な武器は長剣一振り。弓矢を持っている相手に対して、しかも距離を置いた状態では一方的に攻撃されるしかない。
 ただ、この闇の中では射手もあながち有利とはいえないだろう。余程夜目が効かなければ、狙いを定めるのが難しい。現に相手は、第一射を外している。相手に身を守る時間を与えずに仕留めるのが基本の狙撃としては、明らかな失敗である。それに樹木という障害物が多いのも、弓矢にとっては困難な要素だ。
 勝機は十分にある。それを見取って、タンジェスはゆっくりと剣を抜いた。その動作で盾にした木から腕がはみ出てしまわないよう、やや不恰好な姿勢になる。
 その瞬間、ギイが走り出した。まだ姿の見えない敵に注意を集中し、また両手が塞がっていたタンジェスは、とっさに捕まえることができない。
「おいっ!」
 芸のない声を上げるのが精一杯だ。その間、ギイはあろうことか矢を放った人間がいると思しき方向へかけて行く。
「俺だ、助けてくれ!」
 タンジェスは歯噛みした。説得に、完全に失敗していたのだ。ギイは相手をまだ仲間だと思っている。いや、勘違いしている。
 あの矢が自分を助けるため、タンジェスだけを狙って放たれたものだと信じているのだろう。この暗がりでもつれ合う二人を峻別して射抜くなどまず不可能だ。どちらに当たっても構わないという意図で射掛けたはずだが、彼にはそうと分かる弓術の知識、あるいは冷静な判断力がないらしい。
「このバカ!」
 タンジェスも飛び出す。既に覚悟を決めていたため、迷いはない。それにこのような考え方はしたくないのだが、前を走るギイが事実上盾になっている。自分は少なくとも、彼より上にある部位に気を配っていれば安全だ。
 そして弦の弾ける音が、夜の中から響く。それが何であるか気づく前に、強い衝撃を受けたギイは頭から地面に突っ込んだ。さらに彼にとっては苦痛が続くことに、駆け寄ったタンジェスがその背中を踏みつける。
「死ななきゃ分からないか! そうじゃないなら伏せていろ!」
 その姿勢のまま、タンジェスは三度目に放たれた矢を切り払った。ギイが意味を成さないうめきを上げるが、構おうともしない。
 どうにか最悪の事態を迎える前に追いついて、その背中を蹴り飛ばすことによって伏せの態勢を取らせ、二本目の矢を無理やりよけさせた彼である。しかもその矢はギイを外した結果タンジェスの胴へと刺さる軌道を描いており、辛うじて防いでいる。さらには、ギイの胴体を足で踏みつけることで余計な動作を抑制し、狙撃の的となることへの危険を最小限に留めていた。
 とてもではないが、他の手段をとっている余力などない。できれば、それによって救われたギイには理解を求めたいところではある。ただ、少なくとも今のタンジェスに、そこまで考える余裕はなかった。
「やってやろうじゃないか…」
 形容するのももどかしい怒りがあふれ出す。しかしその一方で、不気味なほど冷たいものが湧き上がるのを感じ取らざるを得ないタンジェスだった。その二つは溶け合って相殺することもなく、どろどろと消化不良のまま混ざってゆく。
 頭のどこかは、いやに冷静なのだ。どうやったら敵を殺せるか、その明確な手順が複数思い浮かび、相互に優劣を検討する。そして出た結論を実行に移すまで、呟きを終えてからほとんど時間を要していなかった。
 木々の間を縫って走りながら、敵との距離を速やかに詰める。暗く障害物が多いのに加えて、激しく動く目標を射止めるなど、至難というほかない。無論それを可能にする達人もいないではないが、もし相手がそんな人物であれば既にやられている。相手にそこまでの技量はないと割り切って、迷わず突き進んでいた。
「…っ!」
 舌打ちをかみ殺したような短い呼気に、風を切る音がかぶさる。次の瞬間、タンジェスの短い髪が数本、闇の中に舞っていた。
「そこ!」
 一歩間違えれば殺されていたが、ともかく相手が攻撃をしてくれたおかげで位置がはっきりした。ごく近い。
 次の矢を放つ態勢を整える前に斬りかかるれる。タンジェスは一気に踏み込んでいた。
「ええいっ!」
 今度は紛れもない苛立ちの声が上がる。もう隠れるのが無駄だと分かっているのだろう。そして、弓を使っていては間に合わないとの認識も共通だったらしい。声に続いて、冷たく乾いた音が響いた。
 長剣を抜いたのだ。木々の陰になってタンジェスからは相手の姿がまだ見えていないのだが、聞いただけで分かる。騎士あるいはそれに類するものなら、ごく耳慣れた音なのである。
 別にこれまでも油断はしていないのだが、タンジェスは一段と気を引き締めた。相手は騎士か傭兵、あるいは自分のようにそれに類する人間だ。いずれにせよ戦闘術に長けている。一般的な平民、あるいはそこから徴兵されただけの兵士が長剣を持つことは珍しい。たとえ所持していたとしても剣術の心得がなければ有効に使えず、意味がないためである。
「潔く縛につけ!」
 叫びながら、迷わず剣を突き出す。生け捕りにする際の台詞だが、同時に十分に殺傷力のある攻撃を放ったのだ。走り込んだ勢いをそのまま活かした突きは、骨ごと人間の胴を貫くことができる。
「なめるなぁあ!」
 怒りを交えた叫び声とともに、相手はその強烈な一撃をはじき返した。突きが来ることを読んでいたのだ。突進からの直線的な攻撃は、確かにあまり芸がない。力負けさえしなければ、防げる。
「ふ…」
 全力を込めた攻撃が失敗したタンジェスは、短く、しかし確かに笑っていた。元々第一撃が防がれることは、計算の上だったのだ。そもそも自分で言っている通り殺意はなかったため、それなりに身を守ってくれなければ困ってしまった所である。とりあえず防がせて、逃亡などそれ以外の行動を封じる。それが狙いだった。
 だからこそ、あえて力任せの単純な攻撃を選んでいたのである。防ぐことそのものは難しくないが、大きな力がかかる分防御以外に裂ける余力はごく限られる。
 それが見切れずに冷静さを失っている時点で、既に相手の負けは決まっている。タンジェスの剣は弾かれたが、しかし走ってきた勢いそのものまでは失っていない。体はそのまま、相手へ向けて進み続けている。そして相手からかけられた力をも逆に利用しながら、タンジェスは身をよじった。左足が、むしろ自然の摂理のように無理のない形で宙を舞う。
 そして軍靴の硬い踵が、相手の胴に突き刺さった。敵にとっては意表をついたであろう、後ろ回し蹴りである。もっともそれを放ったタンジェスにしてみれば、事の成り行きと勢いに任せた結果だった。状況が別であったなら、正面からの蹴りでも良かったと判断している。軍靴は実に頑丈に作られており、別に踵でなくとも十分凶器として使えるのだ。
「ぐふあ…」
 抑えきれないうめきと、そして唾液が零れ落ちる。そこまで、彼の負った負傷は重大だった。既にとっさに反撃する能力を奪われている。
 手応えあり。いや、足応えとでも言えば良いのだろうか。ともかく、タンジェスは攻撃が成功した感触を確かに捕らえていた。それは少々強すぎて、やりすぎたかも知れないと思える。何か硬いものを破壊した、そんな反動があったのだ。どうやら骨を折ったらしい。
 しかし腹部を狙わなくて良かった。次の瞬間、そう思い直すことにする。肋骨などで守られていない場所に同様の打撃を与えていたら、内蔵を破裂させていた可能性があるのだ。自分自身の有する基本的な殺傷力に関して、タンジェスには十分な理解があった。
 それでも力を緩めなかったのは、相手が鎧などをつけている場合を考えたためである。もし相手の防御がそこまで強固であれば、なまじの攻撃は跳ね返されて、大きな隙を生じさせることになる。しかし全力を込めれば、負傷はさせられなくともその勢いで敵の態勢を崩し、反撃を封じられるのだ。
「だから大人しくしろといっている」
 結局彼は負傷した上に体ごと弾き飛ばされ、仰向けに倒れていた。その間に剣は取り落としたらしく、脇に転がっている。タンジェスはそれを、冷たい表情で見下ろしていた。一時は勝利の快哉を笑みに変えたものの、地面に貼った相手をいたぶるような趣味は持ち合わせていないのだ。とはいえ、自分を射殺そうとした敵に対して友好的になる理由も一切ない。
「官姓名は?」
 視線に乗せるように、剣を下げる。そしてそのまま、緩やかに歩み寄った。
 下手に動こうものなら斬る、それは相手も重々承知しているだろう。そのせいではあるまいが、彼は無言だった。ある程度予想はついていたので、タンジェスは冷静に、ゆっくりと続ける。
「観念して名乗るより、嫌々白状させられるか身元を洗われる方が趣味に合うというのなら、止めはしないが」
 後者の方がより無様だ。少なくとも、名誉を重んじる人間の行いではない。自分の名も堂々と名乗ることができない名誉など、まず存在しないのだ。例外は、「貴様のような悪党に名乗る名など持ち合わせていない」場合くらいである。
 無論このような挑発は、相手にその感覚が欠落していれば効果がない。ただ、これに乗ってくるかどうかで素性をある程度推測できる。それなりの反応があれば騎士だし、そうでない、あるいは不自然に過剰な反応をするなら傭兵や暗殺者の類だ。つまりどちらに転んでも、やってみる価値はある。
 そして相手は、無言だった。しかし無反応とは違う。その顔に夜の中でも隠しきれない動揺が浮かんだのを、タンジェスは確かに見て取っていた。名誉を傷つけられるのは腹立たしいが、しかし素性を隠したい事情もある。そんな所らしい。
「とりあえず、とっさに口から出任せができるほど器用な人間ではないようだな」
 少なくとも犯罪の常習者ではないらしい。もし良心の呵責というものを感じないのなら、平然と偽名を使ってもおかしくないはずだ。タンジェスはそう分析した。
 何もしゃべらないまま、ゆっくりとしかし確かに自分の素性が明かされてゆく。その恐怖が浮かぶのも見て取れた。単純な戦闘力だけでなく、精神面でもタンジェスの方が元来優位にあるようだ。
 それを誇ろうとは、思えない。なぜならその顔は、彼と同年輩の少年のものに見えたからだ。先ほどのギイほどではないが、むしろどこか弱いものいじめをしているような気分にさせられる。
「両手を挙げて、それからゆっくり立つんだ」
 とりあえずこの場での詰問をあきらめて、タンジェスは彼を連行することにした。順番からすると手を使わずに立てと言っている、やや難しい注文だが仕方がない。縄も鎖も先ほど使ってしまっており、捕虜をそれらしく扱えないのだ。まあ、弓も剣もそこそこ使える運動能力をもっていれば、無理ではないはずである。
 さて、これからどうしたものか。渋々、かつ戸惑いながら立ち上がる相手を見ながら、タンジェスは思案した。
 この男を連行するのは当然として、問題はその後だ。主犯が誰か、あるいは彼自身が主犯であるのなら動機と手口など、聞かなければならないことは数多くある。
 しかしその口を割らせる方法として、とりあえず暴力しか思いつかなかった。その発想の貧困さに、まず自己嫌悪に陥ってしまう。
 さらにもしやむを得ずそうなれば、それをやるのは自分しかいない。その未来像にも胸が悪くなった。まさかティアにさせるわけにはいかないし、ストリアスでは腕力と迫力で無理がある。また、マーシェがするのを見ているくらいなら自分で手を下すほうがましなように思えた。
 ギイの証言でも得られれば良いのだが、そういえば彼はどこへ行っただろう。どさくさ紛れに逃げてしまった可能性は多分にある。かといって今の状態ではもう一人を捕らえておくのが精一杯だし、またどうにか同行できても素直に白状する柄とも思えない。
 とりあえずティアやストリアスの意見を聞くしかないだろうか。少なくともマーシェでは、発想が似通ってしまうのが落ちだろう。結論ともいえない所へ考えが落ち着いてしまいそうになる。
 その時だった。
 とっさに上体を大きくそらす。なぜ自分がそんなことをしたのかという理解は、後からついてきた。一瞬前まで胴体があった場所を、何かが風を切り裂きながら通り過ぎてゆく。
 反射的にかわしたのだ。もしそうしていなければ、死んでいたかもしれない。闇の中へと抜けていったのは、一本の矢だった。無論、今倒れている男が放ったものでない。
「くっ!」
 タンジェスは失望のうめきを抑えることができなかった。敵がもう一人いるのだ。これで状況は二対一、明らかにこちらが不利である。
「ぬううあああああああっ!」
 蹴られた方も、戦闘力を完全には失っていない。痛みをこらえながらも立ち上がり、拾い上げた剣を振りかざしている。
「こいつ!」
 タンジェスはその剣を叩き落した。元来力量の差があるし、また相手は手負いなのでその程度は難しくない。
 しかし、止めを刺すまで手が回らない。その前に、もう一人の方に対処しなければならなかった。再び飛来した矢を切り払うのが精一杯だ。
 そして、まだ姿の見えない射手が次の矢をつがえる前に、近くの敵を無力化しようとする。まず一人、戦闘力を完全に奪えば状況はかなり好転する。その可能性にかけて振り返り、そのまま剣でなぎ払おうとする。相手が再び剣を拾い上げるまでには、まだ時間があるはずだ。
 だが、それよりも、相手のほうがわずかに早かった。彼は剣を無理に拾わず、体ごとぶつかってきたのだ。大した勢いではなかったが、しかしさすがにそのまま攻撃はできない。
 とりあえず態勢を立て直して、斬る。こうしてもつれ合っている間は射掛けることが難しいから、むしろ今が好機だ。タンジェスはそこまで考えて、体を捌くために足を踏み変えた。いや、そのつもりだった。
「あ…?」
 力強く踏みしめたはずが、もつれる。その足元に、何かがぼたぼたと零れ落ちた。そのとたん、灼熱感が全身に広がってゆく。その中心は、脇腹だった。
 刺されていた。敵は長剣の他に、刃物を所持していたのだ。恐らく小刀か何かだろう。装備の手入れや野外作業などに使う、戦士にとっては必需品の一つである。その可能性に、そしてそもそも負傷したことに気づかなかったのは、やはり余裕がなかったからだろう。頭の片隅の、気味が悪いほど冷静な部分がそう分析する。
「くそっ!」
 予定外の態勢だが、ともかくこのままやられる気はない。タンジェスは何とか剣を振るったが、空を切るだけに終わった。そして剣の勢いに振り回される形で、姿勢をさらに崩してしまう。そのまま倒れてしまうのを防ぐために、とっさにそこにあった木に背中をつけなければならなかった。
 傷口をかばうため、左手を剣から離してあてがう。しかしその指の間から、血があふれていた。
 どうやらやばい、らしい。そのようにあいまいにしか、自分自身の状況を把握できない。これは本当に危険だという、理性のかすかなささやきはやがて消えていった。
 そういえば前にも一度、こんなことがあった。重傷を負わされ、一歩間違えば殺されていた所だった。しかしそれが、いつのことだっただろうか。遠い昔のようにも、またつい数時間前のことのようにも思える。その時はそれでも、そして負傷したのが脚部であったにもかかわらず、ともかく最後まで自分の足で立っていた。また、敵の姿を見据えていた。
 しかし今は、背後の木に寄りかかっているのがやっと。しかも、視界の隅を何やら訳の分からないものが多数うごめいている。今の所少なくとも敵のうちの一人の姿はきちんと見えているが、それが効かなくなるのも時間の問題のようだ。
 タンジェスの精神のどこかで、何かが、切れてしまった。これまで何とか構えていた剣をだらりと下げて、足元で動き回る不思議なものをぼんやりと眺め始めていた。

続く


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