王都シリーズW
王都怪談


 11 蠢く何か


 館の外で悲鳴が上がる。どうやら下女のうち誰かがまた「何か」に驚かされたらしい。それを詰め所で聞いたジューアであったが、すぐには動き出そうとしなかった。
 何しろこの館では、悲鳴が上がるなど日常茶飯事だからだ。彼としては実の所、よく飽きないものだと思っている。確かにいまだに得体の知れないものかもしれないが、逆に考えれば今の所一度も直接の接触がない。つまり経験に照らせば危害を加えてくるおそれが少ない、と分かりそうなものだ。
 しかし…と、ふと思い直す。今日は何かが違う。漠然とだが嫌なものを感じて、結局立ち上がることにした。そこへ、部下の兵士が駆け込んでくる。
「か、か、か、閣下!」
「落ち着け!」
 即座に怒鳴ったのは、相手が舌を噛みそうに思えたからである。そこで一息つかせてから、あごで続きを促した。
「外に化け物の群れが!」
 それでも、声の震えを止められないらしい。ジューアはため息をついた。
「何を馬鹿な…」
「窓の外を見て下さい!」
 この場合正しい敬語は「ご覧下さい」だ。それを注意すべきだという思いが脳裏を掠めたが、結局相手の切羽詰った様子に負けて先送りにした。小さく首を振りながら、とりあえず言われた通りにする。
「は…」
 得体の知れないものの群れが、夜の中をうごめいている。その光景に、彼は驚いたり恐れたりというよりも、むしろ呆れてしまった。奇妙の度が過ぎている。何かの見間違えかとも思えたが、しかしそこには平坦な地面しかないはずだ。
「よ、寄るな、寄るなああああっ!」
 一方、間近にいる人間は、冷静でいられないらしい。警備のために外に立っていた兵士が、足元のものに向けて槍を振るっていた。狙いがあからさまな上に無駄な力の入った、とてもほめられない攻撃だ。
 しかし、その分威力は過剰なほどだ。さらに、攻撃を受けた側にはそれを見切ってよけるなどする能力がなかったらしい。その上部が、拍子抜けするほど簡単に切断されていた。さらに勢い余り、大きく飛ばされてから落ちてゆく。落ちた先は、ジューアらの間近だった。
「これは!」
 さすがのジューアも、今度は驚きを隠せない。その理由を、傍らにいた兵士が止せばいいのに声に出してしまった。
「手が!」
 突起が五本。そのうち一本は太く短く、一箇所で曲がっている。残る四本はそれぞれ微妙に形状が違うものの、やや細長く二箇所で曲がっているというのは共通していた。確かに、人間の手…のようにも見える。
 だが、そう決め付けてしまうのは早計だ。まだ暗い中で判然としないのだが、どうも色が違うような気がする。また、位置もおかしい。明らかに立っている人間の伸ばしたものではなかったし、かといってはいつくばっていたようにも見えなかった。そして、血が流れているようにも見えない。
 今は冷静に、真相を見極めるべきだ。ジューア自身はそう結論付けたが、しかし外にいる人間はそうも行かなかった。
「うわああああああっ!」
 どうやら同僚の声が聞こえてしまったらしい。そして目を凝らしてみれば確かに、まだ攻撃されていない無数のものも、人間の手のようにも見えた。そのくせ、胴や足は見当たらない。ただ、手だけが地面から突き出ている。
 悲鳴を上げて、後ずさる。しかしその足首を、「何か」が掴んだ。尋常ではない恐怖が、彼の顔に宿る。
「馬鹿止せ!」
 ジューアが横から静止するが、反射的な行動の前には意味がない。そもそも、聞いていないようだった。その声の響きがやまないうちに、彼は再び槍を振り下ろしている。先程同様威力のありすぎる攻撃、それが地面から生えたものと、そして彼自身の足を捕らえていた。
 自業自得、としか言いようがない。しかしそれを嘲笑っている場合ではなかった。どうやら現れこそすれ直接危害を与えるものではないようだが、速やかに正体を見極めなければならない。そうしなければ混乱が広がるばかりだ。怪奇現象はこの場だけではないようで、館の各所から悲鳴や驚きの叫びが聞こえてきている。
 悠長に玄関に回ってなどいられない。ジューアは迷わず、その窓から飛び出した。待機中のため軍靴を履いており、足元の心配はない。
 そして着地するなり、何か柔らかいものを踏みつけてしまった。固められた地面のはずだとばかり思っていたので、とっさに平衡を崩してしまう。
 一体それが何なのか。態勢を立て直しながら反射的に足元を見ようとしたが、それよりもその「何か」の動きの方が早かった。足首に絡み付いてくる。
「ええいっ!」
 何も考えずに、蹴り飛ばした。するとそれは拍子抜けするほど簡単に離れ、崩れ落ちる。後に残ったのは、周囲の地面と色も質感も変わらない塊だった。
「土…か?」
 そうとしか見えない。しかしそれが確かに、今まで動いていたのだ。そして今なお、多くのものが周囲でうごめいている。
「まさか、本当に…」
 亡霊の類か。その一言を、彼は辛うじて飲み込んだ。
 この館の中で、最もその存在に懐疑的だったのがジューアである。騒ぎが起きても一貫してただの勘違い、あるいは何者かともかく生身の人間の犯行だと片付けていた。そんなもの「出る」はずがない。そう断定していたのだ。あり得べからざる事態だった。
「ジューア卿!」
 その混乱を断ち切るように、声が響く。二階の窓から、神官のヒームが身を乗り出していた。
「ご心配には及びません。確かに妖しげな術ではありますが、しかし少なくとも亡者の仕業ではありません」
「では一体…いや、まさか」
 妖しい術を使う、生きている人間。そのような存在を、ジューアも知らないではなかった。魔術師だ。しかしそんな人間が、そこらにごろごろいるものではないはずだ。
「戦士でも神官でも、また吟遊詩人でもない。あの素性の良く分からない痩せた青年が、恐らくは」
 淡々と語るヒームに対して、ジューアは言葉がない。少なくとも頭ごなしに否定ができないのは確かだった。思う所があってそれが発揮されることは少ないが、彼は法術使いとしてかなりの力を持っている。ジューアはそのことを知っているのだ。術に関することについては信憑性が高い。
「私にも魔術の詳しい性質は分かりかねますが、ともかく今はまだ危害を加えるつもりはないようです。ただ、この先どう出るかについては見極めが必要でしょう」
 説明を終えて、少し考えてからヒームは付け加えた。
「お急ぎを…」
「承知しました。ヒーム様はこの者の手当てをお願いいたします」
 けが人が出ているのを忘れていたわけではない。ただ、構っている余裕がなかったジューアである。重傷だが致命傷になるとは思えなかったので、後回しにしていたのだ。
 神官が小さくうなずくのを見てから、ジューアは待機中の兵士を呼びに走り出した。
 
 ヒームが看破したとおり、地面をうごめく奇怪なものの正体は、ストリアスの魔術である。魔力によって土壌を変性させ、人の腕の形にして動かしたのだ。相当程度自動化され、また強大な腕力を有する「人形」の研究をしていた彼にとってみれば、むしろごく初歩の魔術である。
 またそれだけに、実害があまりないことも良く知っている。見た目は確かに不気味だが、要するに目的もなくただ動いているだけなのだ。簡単に踏み潰せるので、足止めにもならない。それによって恐慌状態に陥る、あるいは卒倒するなどの可能性を除けば、人を驚かせるのが精一杯である。
 ともかくも、その目的の通り驚かせている。そのため事態の元凶としては「大成功」として快哉を叫んで…いなかった。
「何でこんなことに!」
 実は誰よりも驚いていたのが、彼自身だったかもしれない。何しろ彼にとっても、予想外だったのだ。
 正体不明、ともかく自分たちに好意的ではないと思われる人間に取り囲まれていた。その状況を打開するために、魔術を使っていたのである。それゆえ術の及ぶ範囲としてはそのあたり一帯で十分だったし、またそれ以上に拡散するほど力を注いでもいなかった。魔力にも限りがあるので、むしろ自分としてはかなり抑制したつもりである。
 それが、何故だか王立墓地全体に広がっていた。自分の魔力に呼応して、無尽蔵なほど数多く、腕の形をした土が盛り上がっている。それを否応なしに感じて、ストリアス自身まで混乱状態に陥っていた。
「いいから!」
 一方、傍らにいたディーは実にしっかりしたものである。何しろ発生源が至近にあるため、周囲一帯の地面が腕らしきものやらそうでないものやら、ともかく異常なものが無数に湧き出ている。そんな光景にめげるでもなく、呆然としたストリアスの手を引っ張って逃走を始めていた。
「おかしい! 確かに周辺土壌の適性は良かったけれど、だからってこんな…」
「黙って! 多くもない体力を余計なことに、使わないで!」
 なおもぶつぶつと自分の計算違いを検証し続けるストリアスを、ディーは叱咤する。その強い調子に触発されて、どうにかストリアスも相手の様子に気を配ることができた。
 言葉の調子がおかしい。内容自体は至極もっともだが、息継ぎをする間合いを間違えている。分かりやすく意味を伝えるなら、そもそも間をおかずに一息で言い切るか、あるいは「体力を」と言った後にすぐ息をつくのが正しい。
 言葉を操るのが本職の吟遊詩人である彼がそれを誤った時点で、何かがよほど間違っている。そのことに、ストリアスはどうにか気がついた。
 どうやらディー自身、走るなど体を動かすのは得意でないらしい。だから、うまく息継ぎができなかったのだ。その分、体力を消耗していると見た方が良さそうだ。
「分かりました」
 原因の解明よりも、今は彼と自分の安全確保を優先させざるを得ない。周囲に敵対的と見られる人間が多数いるという状況を、現時点では完全に脱し切れていないのだ。
 今の所、彼らは地面から這い出したように見えるものに気をとられている。しかしその正体がいつ見破られるか、分かったものではない。仕方なく、ストリアスは自分の足で走ることにした。
「さあ、どっちへ逃げたらいいでしょうかね!」
「君に任せるよ。男爵館に戻るか、あるいは仲間の所へ行くか、行きたい所へ行けばいい」
 そうやって言い終えたディーは、当座の体力を使い果たしたようだった。ストリアスの手を引いていた、元々力強いとは言い難い腕の力が急速に衰えてゆく。別に重篤という訳ではないが、少なくとも息切れは明らかだ。それも仕方がないと思いながら、またそうすることが可能かどうか大きな疑問を抱えながら、ストリアスはとりあえず逆にその手を引いて行くことにした。
「仲間の所へ」
 何故そう判断したのか。その根拠は、このとき彼自身にも分かっていない。ともかくも、ストリアスは同行した三人と合流することが最優先であると感じられたのだった。
 それを、ディーは何故だか笑った。それが嘲笑でなかったとは、少なくともその笑みを向けられたストリアスには分かっていた。
「そう。じゃあ、あっちだ。今さっき、何だか切羽詰った調子で聞き覚えのある声がしたよ」
 ディーが迷わず指差す。しかしそれだけに、ストリアスは一言言わざるを得なかった。
「それならそうと早く言って下さい!」
 正論である。しかしそれに対して、ディーも至極真っ当な正論を返した。
「そんなこと言ったってボク自身取り囲まれてたし、しょうがないじゃないか」
 他人の面倒を見る暇などかけらもなかった。止むを得ないといえば、それまでである。
 これ以上の議論は不毛を通り越して有害だ。双方体力の乏しさは先程確認されたばかりである。仕方なく、ストリアスは黙って先を急ぐことにした。

 白い長衣を翻して、ティアが走る。その足が地面につくたび、周囲の蠢く土塊はただの地面に戻っていた。ストリアスの魔力が、ティアの発する気によって排除されているためだ。元来魔力も気を源としているから、優秀な法術使いであれば効果の弱い魔術を無効化することは難しくない。
 そしてその後を、マーシェがついて走っていた。追っているタンジェスらを見失ったため、結局遅れて出てきたティアと合流せざるを得なかったのだ。目に見えていない以上、今は彼女がタンジェスの気をたどっているのに頼るほかない。
 さらにティアと違って極端に悪い足場の影響を受けざるを得ないため、本来の運動能力を発揮することもできていない。無力感に苛立っているのが、ティアには振り返らなくとも分かる。
「えいくそっ! 何だこれは!」
 そうしているうちに、極度に動揺した声が聞こえてきた。闇雲に動いているらしい人影も見える。しかしそれは、探しているタンジェスのものではない。剣を持っているようなので、マーシェはいぶかりながらも自分の長剣に手をかける。
「あそこか? いや、しかし…」
「そばです」
 微妙に異なる方向を、指で示す。ただ、そこにそれらしい姿はなかった。何も動いてはいない。それでも、ティアの声には間違いないという自信があった。それでいてどこか、不安が混ざっている。
「あ…」
 マーシェが短い声を漏らす。そして次の瞬間、彼女はティアを追い越していた。
「うおおおおおおおおおおおおおっ!」
 足元のものを力づくで蹴散らして進んでゆく。つまづいて転ぶことなど既に念頭にないらしい。引き止めても却って危ないと判断したティアは、彼女が進むのを助けることにした。
 速度を落として自然な流れで立ち止まりながら精神を集中させ、祈りの言葉を心の中で念じる。概してそうした方が集中を高めるため、法術使いとしては口に出して唱えるのが常識である。しかし言葉を発すること自体に苦手意識のあるティアは、無言で通すのが常だった。口からの声と心の声と、祈りとしての本質に変わりはないのだ。
 淡い光がティアの体を包み、長く伸ばした髪が風に逆らってうねる。力が満ちたのだ。そうして態勢が整ったのを見計らって、ティアは祈り以外の声を上げた。
「行きます!」
 集中に伴って軽く挙がっていた手を、勢いよく振り下ろす。それによって投げ出されたように、光がマーシェの前の地面を駆け抜けた。そうして過ぎ去った後からは、蠢くものが消え去っている。
 マーシェはかすかにうなずいて先を急いだ。そしてティアの放った光が消えたあたりで急停止して振り返る。その視線は、一本の木の根元へと注がれていた。
「タンジェス!」
 この暗さの中でも、顔色が変わったのがはっきりと見て取れる。間に合わないかもしれないとの不安と戦いながら、ティアは再び走り出した。
「おのれ…貴様かあああああっ!」
 マーシェの顔色が再び変わる。長剣を抜き放ち、近くにうずくまっていた人影に向けて振りかざす。沸騰するような殺気を、ティアはひしひしと感じていた。ただ、激昂している分冷静さを失っているとしか思えない。
「後ろ!」
 その場に敵と思しき人間は二人、マーシェが今狙っている他に、先ほどまで闇雲に長剣を振り回していた男がいる。そのもう一人が、当面の混乱から脱して彼女に向かってきていた。
「邪魔だ!」
 振り返りざま、どこか猛々しい姿をした長剣が一閃する。それが彼女の家に代々伝わる剛剣であると、ティアも聞いたことがあった。そして今この瞬間、その戦歴に新たな一項が、血文字をもって記されている。
 相手は正面に剣を構えていた。マーシェはそこへ力づくで剣を叩きつけて、軽々と弾き飛ばしている。そしてその勢いを無理には殺そうとしない結果、剣先が相手の胸部へと食い込んでいた。背後から襲い掛かる敵がいるのを分かっていて、敢えてその寸前まで気づかないそぶりを見せていた。そうとしか思えない、破壊力のある一撃だ。
 ああ、本当にやってしまった。走り続けながら、ティアは心底思った。
 出血から判断して、明らかに重傷。しかも胸部だから、肺に達していれば致命傷の可能性もあるわね。そうでなくとも周囲の筋肉がやられているだろうから呼吸障害は確実だし。さらに悪いことに凶器があの厚手の刃だから、傷口も相当荒れているわよね…。
 それが、日常的に負傷者の治療をしている人間の正直な感想である。彼が敵か味方か、という発想はその後だ。もっとも、やられた人間がひとたまりもなく崩れ落ちたのは、そのさらに後になる。
「さて…」
 その間マーシェは改めて、当初の目標にゆっくりと向き直っていた。ある程度冷静さを取り戻している…のではない。それは整った顔立ちを引きつった笑みがゆがめているのを見れば、明らかだった。むしろ今一人を倒した結果、神経を逆なでされてより危険な状態に陥っている。
「うぁ…」
 うずくまっている人間は、相変わらずの位置と姿勢を保っていた。十分すぎるほど気圧されており、また下手に背中を見せればその瞬間に斬られるおそれが強いとは分かっているのだろう。ただ、理由がそれだけではないとティアは見て取っていた。どうやら彼自身、既に負傷しているらしい。今のマーシェが彼を殺すことなど、羽虫を叩き潰すより簡単だろう。
「そこまでです」
 ちょうど追いついたこともあって、ティアは止めに入った。マーシェと、その男の間に立つ形になる。
「どいて下さい! そいつは…」
 剣の柄を砕いてしまうのではないかと心配になるほど、マーシェが手に力を込めている。下手をすれば自分まで斬られかねないわね、とティアは眉をひそめた。
「ふう…タンジェスさんの手当てをするから『止めろ』と言っているのです」
 走った結果息が上がっているのをこらえて、語気を強める。下手に出るよりは敢えてぶつかっていった方が、良くも悪くも戦闘向きの性分をしている彼女には効果的ではないかと判断した結果だった。
 しかし次の瞬間、ティアは肩を落とすことになる。
 言い返された瞬間マーシェ怒りの形相は剥がれ落ち、動揺した無防備な少女の顔があらわになっていた。
 タンジェス=ラントが、そこに座り込んでいた。まだ右手には剣を握り締めているが、一方の左手で傷口を押さえている。そしてその左手から、今もどろりと血があふれ出ていた。既に座っている姿勢を維持することさえ難しい重傷のはずだ。体重を背後の木に預けていなければ、とうに倒れ臥していただろう。



 やっちゃった…。言い過ぎたわね。マーシェさんでも仲間が重傷を負ったのを見るのは初めてなのかしら。今の態度は強がりかしら? でも、いまさら慰めても意味がないし。有無を言わさず仕事に専念させて、落ち込んだ原因に向き合わないようにした方がよさそうね。
 素早く判断をまとめてから、ティアは口を開いた。
「止血を」
 それだけ言えば、十分に通じる。マーシェにその心得があることを、ティアは疑っていなかった。専門の武官なら、当然知っているべき事柄である。
「は、はい!」
 ティアに聞かせるにしては必要以上に大きな声で返事をしてから、彼女は言われた通りにした。常備していたのか包帯を取り出して、処置を講じている。
 動揺していてもそれが手先のぶれに反映されないのは良いことよね。当面の作業はマーシェさんに任せておけば問題ないわ。最悪の事態は防げるか、最善を尽くしてもどうしようもないか…だけれど。
 そう判断して、ティアは自分の仕事に集中する。
 自力で立ち上がるのは難しいらしいけれど、今までのやり取りにはきちんと反応してる。ただ、そのつど痛みに伴って消耗を自覚させられているみたいね…。
 そう見ながら、座り込んでそのまま動かない相手と視線を合わせるために膝をついた。症状の確認である。
「意識は、ありますね」
「あ…」
 声をかけられて、何か言おうとしてから苦痛に顔をゆがめる。ティアは小さく、首を振った。
「分かりました。声を出そうとしても痛むだけでしょう。まず、傷口を塞ぎますから」
 うわ…発声のために使う腹筋だけじゃなくて、奥の腸まで傷ついてる。気絶して当然の重傷なんだけど、それでも意識を保っているなんてすごい精神力だわ。ここまで来ると自力で回復するのは無理だから、気を失っちゃって後は生きるか死ぬか運に任せたほうが楽なのに…。
 助けがくるの待っていてくれたのよね。その信頼に、応えなくちゃ。
「光の神よ…!」
 本来無口な人間が、思わず口を開く。それほどまでに、ティアは精神力を注ぎ込んだ。
 心臓や中枢神経は傷ついてない。運さえ良ければ十分助かる。でもそうじゃない。今、私は、絶対にこの人を助けなければいけない。それが、信頼されている側の責務だもの。
 そういえばマーシェさんの止血の手つきは確かだけれど、よく考えたらこの人激怒していても戦闘能力は普段どおりやそれ以上だったりするのよね。失敗したらまた人死にが出る。それだけは避けないといけないわ。全力を尽くさないと…。
 やがて、タンジェスがゆっくりと息を吐いた。傷口が塞がったのを感じ取ったのだろう。
「ふ…う」
「命に別状はないでしょう。ただ…」
 素晴らしい生命力で、術の効きが爽快なほど良いですよ。でも、問題は大量の出血。この暗がりではそれがどこまで広がっているのか分からないほど酷いです。神官の法術も無から有を作り出せはしませんから、失血だけはとっさに補いようがありません。
 説明しようとしたその内容を、タンジェスは表情だけで理解した。負傷による問題やそれを癒す神官の術の特性も、士官学校で習っているのだろう。
「本来なら十分な安静が必要ですね」
 授業だけでなく、実際に重傷を負って神官の世話になった経験があるタンジェスだった。
 できれば担架で安静にできるところまで運びたいけれど、今は無理ね。マーシェさんには敵意を持っている二人に対処してもらわないといけないし。タンジェスさんには自力で立って歩いてもらうしかないわ…。
 ティアはやむを得ず、大きくうなずいた。
「とりあえず二人には止めを刺しておきますか。それで私とティア様と、人手が確保できます」
 仲間の血で塗れた手をぬぐいながら、マーシェが冷え冷えと響く声を出した。
 確かにタンジェスさんの治療を最優先するなら合理的な提案だわ。この人、私がうなずけば絶対に実行するわね…。
 そう判断して、ティアは相手がその動作を認めるまで、小さくだがしっかりと首を振った。
「降霊術は…」
 私たちの仕事は真相の解明ですけれど、止めを刺した人間から話を聞こうと思ったら、そんな手段しかありません。ただ、神の御手にゆだねられるべき魂を弄ぶのは、人の道に反します。神官の道徳に反するのはもちろん、騎士道にも。それでも、やる気ですか? そうしないなら結局、生かしておくしかないでしょう。
 念を押すために、ティアは敢えて毒々しい表現を選んでいた。それも口下手であるため、たった一言に集約している。
 そしてその効果は、十分にあったらしい。マーシェは慌てて、首を振っていた。
「ああ、いえ、冗談…いえいえ、勢いで言ってしまっただけです。お忘れ下さい」
 とっさに誤魔化そうとして、結局言い直す。人の生死に関ることを冗談の種にするのは、趣味として最悪である。まして自分がその生殺与奪を左右しうる立場にあるなら、なおさらだ。
「そのように」
 今度ティアは、小さくうなずいた。神官の仕事は人を責めることではなく、赦すことだと思っている。だから怒りにとらわれた結果過激なことを言ってしまったマーシェに対して、必要以上に注意をするつもりはなかった。反応から判断して既に彼女は十分に反省していると、ティアには思える。
 それから、マーシェの一撃で負傷した人間に、ティアは向き直った。どう見ても、手当てが必要な重傷である。あるいは、そのまま放置するか苦痛を長引かせないために止めをさすかして、ともかく死なせるしかない。
 ただ、彼を見据えた瞬間、ティアは後悔した。
 いくら彼に対しては発したつもりがないとはいえ、ともかく言い過ぎたのだ。
 胸部に重傷を負った上に、彼は震え上がっていた。どうやらティアが「降霊術」云々と口走ったために、彼としては殺された挙句その術によって最後の安らぎから無理やり現世に呼び戻されるものと解釈したらしい。これは完全な誤解なのだが、死者の祭祀を執り行う神官には、霊魂を操る力があると一般的には信じられている。
 言い過ぎたわね…。またやっちゃった。そう思いつつも、彼が既に聞いてしまったという事実は取り消すことができない。ティアは少し呼吸を整えてから、声をかけた。
「大丈夫です。死なせはしません」
 とりあえず、行動によって自分の思いを伝えようとする。そこでその傍らに跪いて治療の法術を施し始めた。ただ、それでも彼の不安は解消されていないように見える。一歩間違えば致命傷という状態で、しかもティア自身の発言も含めていろいろあった以上無理はない。
 ティアはもう一度うなずいて、笑いかけた。
「神の御名にかけて、あなたの生命は私が保証します。ですから、今は…」
 患者の精神面でも安静が保たれていなければ、治るものも治らない。神官がどれほど手を尽くそうとも、最終的に文字通りその死命を決するのは本人の生命力、そしてそれを支える精神力だからだ。
 相手はようやく、体の力を抜いてくれた。そこで術を使うのに改めて集中するが、その間にマーシェが微妙な表情をするのに気がついてしまう。そして彼女はタンジェスと目を合わせた。結局、口を開いたのは座ったままの彼である。
「しかし少なくとも、無罪放免にはできませんよ」
 その後、浴場からここへ至ったいきさつを説明する。そこから判断して、彼らが一連の幽霊騒動に何らかの形で関っている可能性が高い。タンジェスに襲い掛かったというその一点をとっても、罪になるはずだ。とりあえずマーシェが指摘をしなかったのは、威圧的になるのを避けようと配慮したのだろう。
「それに、見た所武官ですからね。許可なき戦闘は一般市民の傷害より罪が重いですし、もし上官の命令があったとするならそれはそれで事態が深刻です」
 だが結局、タンジェスの様子を見たマーシェが自分で説明をする。一応、最大限に抑えた口調だった。
「絶望的では、ないはずです」
 事態の深刻さを受け止めていない訳ではない。しかし、それがティアの性分なのだ。
「仕方がありません。あなたはそういう人でしたね」
 苦笑して、マーシェは受け入れた。それからタンジェスに対して、真剣な視線を向ける。
「病み上がりどころの騒ぎではない状況で申し訳ないが、ゆっくり休ませてはやれなくなったな」
「分かってる」
 すっと立ち上がる。その動作は危なげなかったが、しかし機敏でもなかった。さりげなく、しかし慎重にしているのだろう。立たせたマーシェも、彼がぐらついたら手を差し伸べることができるよう身構えていた。
「ティア様の仰せである以上仕方がない。しかし思い上がるなよ。恩をあだで返すようなまねをすれば、止めを刺されなかったことを後悔させてやる」
 そしてマーシェが、先ほどとは微妙に意味合いを変えた脅迫を始める。しかしティアとしても、こればかりは制止できなかった。今この場で敵を助けることで、ティアはもちろんマーシェにとってもタンジェスにとっても、危険は増大しているのだ。それを受け入れてくれた以上、相手に対して相応の自制を求めることも止むを得ない。
「ティア様、そちらが終わったらもう一人もお願いします。肋骨か…そうでなければ胸骨を折っているはずです」
 それが本来の気性であるのか負傷の結果気力を欠いているのか微妙だが、ともかくタンジェスの口調はごく淡々としていた。マーシェのような攻撃性はないが、だからといって優しさが感じ取れるものでもない。手当てが遅れて事態が悪化するよりはましだと、そんなことを考えているようだ。
 黙ってうなずいてから、ティアは迷わず言われた通りにした。
 危険に対して一見落ち着いている人の方が、ことによっては怖い。表に出ず発散されない怒りを溜め込んでいるから突然それを爆発させたり、逆に極限まで冷徹に行動したりする。院長がそうおっしゃっていたわよね…。
「無理をしましたね」
 そして改めて診ると、タンジェスの表現がむしろ控えめだったと分かった。
 胸骨破砕。肋骨骨折も複数。丸太でも叩きつけたのかと思いたいところだけれど、ここについているのって、明らかにタンジェスさんの靴跡よね…。しかもその後安静にしていれば悪化はしなかったのに、無理をして激しく動いたらしくて骨の断面が中の肉を裂いちゃってる。ここまで酷いと患者が滅入るから、症状を正直に伝えることもできないわよ…。
 結局ティアは、いつもの口数の少なさを保つのが最良だと判断した。
 そしてティアが彼の治療にかかりきりになっている間に、マーシェはというともう一人を縛り上げていた。彼に関してはひとまず治療が終わっているので、捕虜の扱いとしては止むを得ない。そしてそうされる方としては、先程まで重傷だったので抵抗する余力に乏しかった。
 それを見ながら、タンジェスが口を開く。
「で、とりあえず二人とも、捕まったとたん洗いざらい白状をして命乞いをするほど卑しい人間じゃないことは、これまでのいきさつから分かったわけだ。武装を含めて身なりは武官。僭越ながら現に戦った俺の感想を言わせてもらえば、少なくともある程度の訓練は受けている。君ならどう見る、マーシェ」 
 口調には相変わらず熱がない。ティアとしては彼自身の体調も心配になってくるのだが、マーシェは手を止めるでもなく答えた。
「両名とも騎士。あるいは少なくとも、そうなることを前提とした教育を受けている。我々同様にな」
 マーシェ自身、うち一人と短時間とはいえ戦っている。そしてもう一人の実力に関して、タンジェスの分析を疑うつもりはなかった。そしてそこから得られた力量から判断して、敵は二人とも騎士あるいはそれに近い人間と判断できる。
 なお、マーシェもタンジェスも身分としては騎士見習いの学生であるが、判断基準として遜色があるとは思っていない。士官学校入学試験で厳しい選抜を受け、さらに高度な訓練をつんでいるため、単に騎士の位を世襲で得た人間などよりは概して強いのである。士官学校の教官などが学生を大きく超える戦闘力を持っているのは、彼ら全てが名のある武人であるためだ。
「そんな人間を複数で行動させることができる人間…主犯の地位はかなり高いな」
 例えば今回マーシェとタンジェスの二人に直接指示を下しているのは、騎士の中でも最上級とされる近衛の任にある、ノーマ=サイエンフォートである。これは例外的な事態であるが、通常二人に対して命令権を持つ士官学校の教官たちも、前線に転属となれば多数の兵員を指揮することになるだろう。
「そして男爵配下という比較的規模の小さい部隊の中で、そんな人間はごく限られる」
 この王立墓地にいる騎士は数人程度だと、マーシェは聞いていた。彼らもその部隊の中では幹部に相当するから、そのうち複数を操れるとなると最上層部に位置する人間と考えるべきだ。
 一方武官であると見られる以上、外部の人間とも思えない。そもそも警備部隊というものは、それ以外の勢力を鎮圧するために存在するからだ。外敵であればもちろん、同国軍であっても管轄部隊の許可や承認のない行動は咎められる。マーシェやタンジェスがこれまで何かと気を遣っていたのは、まさにそのためである。もし内部の人間でなかったとしても、少なくとも部隊の有力者から行動を容認されていると見るべきだ。
「迂闊に男爵館へ戻ることさえできないな」
 恐らく真の敵は、そのどこかに潜んでいる。警戒することもなく来た道を戻るのは、自殺行為だ。ジューアを頼るとしても、敵は彼をも制する大物、あるいは出し抜ける狡猾な人物である可能性が否定できない。
 タンジェスはマーシェに完全に視線を固定させて、厳しい顔で語っていた。マーシェも真剣な顔でうなずいている。
「最悪の場合はこの二人の捕縛を良しとして、王都あるいはその支援が期待できる地域まで後退することになるな」 
 だが、二人の気配がどこか奇妙だ。治療を続けながらも、ティアはそれを感じ取っていた。注意がお互いに向いていない。それでいて、二人とも同じような感覚でいる。
「既にそうなりつつあるんじゃないのか。とりあえず退くにしても、ストリアスさんとディーの二人と合流しなければならないぞ。現状ではそれだけでも簡単じゃない」 
 そう思って観察して初めて、気がつくことがあった。二人ともさりげなく、しかし意味もなく手や指先を動かしている。二人が注意を向けているのはその内容、そしてそれによって表現される対象だ。
「それについては二人の才覚を信用しても良いのではないのか」
「楽観論だね」
 タンジェスが笑う。そして同時に、彼はあごをひょいと動かした。少なくともこれに関して、意味を深読みする必要は全くない。相手は、その方向にいる。その指示に誰よりも早く反応したのはもちろん、先ほどから言葉のやり取りと並行して全く異なる内容の意思疎通を成功させていたマーシェだった。
「そこだあっ!」
 均整の取れた見事な長身がにわかに翻る。そして長くしなやかな手が、目標を確かに捕らえていた。
「うわっ!」 
 悲鳴を上げたときにはもう手遅れである。捕獲者は十分な余裕を持って彼に相対しており、抱きすくめた後さらに吊り上げることに成功していた。
 両腕を固定されたうえに両足は地面から離れ、捕らえられた側は完全に身動きが取れない。体格からして、どうやら少年のようだった。
 タンジェスが、半ばふざけて手を叩きながら賞賛する。
「お見事」
「なに、たやすいことだ。それで、これが先程君の言っていた少年か」
 まだ大人になっていないとはいえ、人間一人を軽々と持ち上げたままマーシェが確認する。しかしタンジェスは、苦笑しながら小さく首を振った。
「多分な。だが後頭部を見せられても確かなことは言えないぞ。どうやらもう抵抗する気もないようだし、下ろしてやれよ」
 行きがかり上、彼の顔面はマーシェの胸元に埋まっている。しかし幸せな状態ではないだろうと、ティアにも理解できた。
 両腕に対して絞め技が完全に極まっている。力加減を変えれば、それを折ることもできるだろう。その中でさらに呼吸を阻害されているのであるから、命の危険もある。
「む、そうだな」
 少し力を弱めて、すとんと落とす。よろけたその肩を、マーシェは念のため押さえた。
「戻って来たのは賢明だな、ギイ。褒めてやるよ」
 タンジェスは苦笑を保ったまま、そんな彼に声をかけている。
 一言もしゃべらずに人一人捕まえるまでしてしちゃうなんて、凄い。
 ティアは感心していた。そんな自分たちに対する賞賛の念を抱いている彼女を、しかしマーシェは咎めるのだった。
「駄目ですよ。確かに『これ』には一定の規則がありますけれど、普段喋りなれている人間同士でないとうまくいかないんです」
 日常会話でさえ、見知らぬ人間同士では間が合わなかったりするものだ。まして暗号となると内容がかなり限られるので、それで何かを伝えるのは難しいのである。互いの性格や表現の癖を、十分把握しておくことが望ましい。
 だから身振りによる意思の疎通は、無口なティアがその弱点を直接克服する手段にはならないだろう。そう悟っていたマーシェは、敢えて笑いながら言った。今すぐ解決しなければならない問題が別にある状況において、真顔で言い放つには重い事柄だ。
「まあ、そもそも軍用暗号ですから主にそれに関することしか表現できません。日常会話にはあまり役に立ちませんよ」
 ティアは小さく、頭を下げた。
 安易で浅はかだったのね。マーシェさんの忠告と配慮は理解できるけれど、それだけに自分が小さく思えるわ…。
「賢明だって…ここにいればあの訳の分からない手は寄ってこないよな」
 その一方で、ギイはきょろきょろとあたりを見渡している。気がつくと、既にストリアスの魔術は効力を失っているようだった。あたりにはただ、暗い森が広がっている。
 タンジェスはとっさに答えず、ティアに視線をやった。彼に法術や魔術に関する能力はないし、まして先ほど重傷を負っていた。正確な状況の分析は不可能だろう。ただ、ティアが現れたのと前後して事態が収束したことから、因果関係を推測したらしい。
「はい。大丈夫です」
 ティアは大きくうなずいた。
 実は私がしたのはごく限られた範囲の無効化で、全て収まったのは術そのものの効果が切れた結果だろうけど。今は言わないほうが彼が安心するわよね。落ち込んでる場合じゃない。まず自分がしっかりしなきゃ。
 そこへ、時期を見計らった声がかけられた。
「そう、その意気だよ」
「いつの間に…」
「しかもまた」
 マーシェ、タンジェスとも反射的に身構えている。二人の厳しい視線の先には、一人の男が立っていた。
 足音もなく、また気配もなく。初めて自分たちの前に姿を現したときのように。そしてこの場では立場上軽々しく存在を認めてはならない「もの」であるかのように。
 ディー。素性も、年齢も、そして名前さえもうつろな男だ。夜の中で、その姿はどこか妖しく見えた。
「何?」
 そんな二人に対して、さも罪のなさそうな笑みを見せる。マーシェもタンジェスも反発を覚えて警戒の度を強めたが、まさかそれだけの理由で仮にもこれまでの同行者と戦うわけには行かない。とっさに次の行動が取れずにいた。
「驚かせてしまってすみません」
 やがて、少しだけ遅れてきたストリアスがすまなさそうだがそれ以上の危機感を欠く声をかけてくる。結局、マーシェもタンジェスも肩を落として構えを解いた。
「無事で何よりです」
「ええまあ、何とかお蔭様で」
 正体不明の集団に取り囲まれたことが「無事」といえるか否かはなはだ疑問だったが、ストリアスは社交辞令で簡単に片付けた。それよりも注意を奪われることがある。
「タンジェスさん、それは…」
 衣服が切り裂かれ、その下部が血で染まっている。既に傷口は塞がっていると分かったが、重傷だったことは間違いない。
「命に別状はないそうです。それにもしあの時あれがなかったら、止めを刺されていましたよ。こちらこそ、お蔭様で助かりました」
「そ、そうですか。不幸中の幸いですね」
「不幸中?」
 動揺を隠せないストリアスの言葉をマーシェが聞きとがめる。常人には理解できない魔術に関してのことなのだからうまく立ち回れば露見しないのだが、ストリアスは簡単に白状した。
「術をかける範囲を完全に失敗しました。もっとずっと狭い範囲にとどめるつもりだったのですが、何故か効きが良すぎてしまって…」 
 少なくとも結果的に数多くの人々を震え上がらせた彼が、気味悪そうに地面を見渡している。士官学校生二人は再び身構えた。
 とりあえず治療を終えて、ティアはその後の処置をマーシェに任せた。それからストリアスの魔術がいわば暴走した原因を考えてみる。
 術者の精神が動揺すれば効力も不安定になるけれど、今のストリアスさんがそこまで酷いようには見えないわね。そう考えると原因は外部…あれ? 何かしら? 魔術の発動自体はとまったけれど、魔力が浸透した気配がまだ凄く強い。理由までは分からないけれど、一帯の地面が魔術に対して過敏になってるみたい…。
「大地が、使われることを望んでいるみたいです」
 つぶやいたのを、ストリアスは聞き逃さなかった。目を見開いてから、首を振る。彼としては無論魔術に関してこの場で最も詳しいつもりなのだから、他の人間から説明を受ければ驚くしかない。
「そう、ですか。僕には何も…」
「もう、あなたの魔力と一体化しているようですので」
「それは一体…」
 マーシェがくっきりとした眉をひそめて問い正そうとする。しかしそれを、ディーがさえぎった。
「この際それはどうでもいいんじゃない? 問題なのは、何で隠しているつもりだった魔術を使わなきゃならなかったかってこと」
 つもり、という言葉で、ディーはストリアスの素性についてそれ以前から気がついていることを暗に示していた。四人ともそのことにはやや驚いたが、何故そうと分かったのかを聞くのも当面の問題ではない。
 そこでとりあえず、ストリアスが事情を説明した。
「取り囲まれそうになったので、逃げてきたんです」
「相手は何者ですか」
 マーシェが難しい顔で尋ねるが、ストリアスは首を振った。
「済みません。顔を見る前にそうだと分かってしまったもので、確かめていないんですよ」
「ああ、いえ。謝ることではないですよ。身の安全を優先させたのなら、それが正しいのです」
「そしてとりあえず、俺たちも逃げるしかないようだな。敵が多すぎる」
 タンジェスが急いで結論を出す。マーシェも反対はしなかった。
「最悪の事態…いや、少なくとも二人が合流してくれたから、その面では今が好機か」
 ギイを捕らえるための暗号を使いながらの会話だったが、内容は理解している。自分たちの予想以上に敵と見られる人間が多い以上、留まるのは危険だ。
「戻りましょう、王都へ」
 真相の究明という所期の目的はまだ達成していないが、止むを得ない。全員口封じのために殺されるという結末を迎えるよりは、今捕らえている二人とギイを連れ帰って手がかりを確保しておくべきだ。ティアはそう決断した。
 そしてマーシェが同意したことを行動で示す。先頭を切って歩き出した。一方タンジェスは最後尾を守る位置につく。その前に後ろ手に縛られた捕虜二人を歩かせて、おかしなまねをすれば斬ると無言の圧力をかけていた。

続く


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