王都人形騒乱録
U 婚約者たちの家庭と意見


 軍人、ないしそれに類する人間の身支度は早い。いざ敵襲にもたついては役に立たないから、日頃からその種の訓練をするのは当然だ。外出着をまとって長靴を履き、剣帯を締めて長剣を吊るす。そこまでやって、ごく短い手紙を書くファルラスをしばらく待った。
「それにしても、若旦那って魔術に詳しいんですね。俺も魔術概論の授業を受けたりしてますけれど、正直感心しましたよ」
 目的地までの雑談も、関連した話題になる。ファルラスは笑って首を振った。
「勉強したんですよ。この一件に関わるとなると、相応の知識が必要ですから。何も知らずに仕事をする程愚かではないつもりです。ノーマ卿や魔術研鑚所、情報源には困りませんしね」
「頼りになりますね」
 タンジェスはもう一度、素直に感心していた。情報の重要性は士官学校で繰り返し教えられる事であるが、この人はごく自然にそれを承知しているようだ。しかしファルラスは笑ってかぶりを振る。
「当然の事をしているだけです。商人は必要なものを必要な所ヘ動かすのが仕事、穀物商ならどこでどれだけ穀物の需要があるか、織物商ならどこに買ってくれる当てがあるのか、知っていなければ商売になりません。そして私は人材派遣業、お客様が直面している問題にはどんな人材がふさわしいのか、そしてその能力、適性を持っているのが誰なのか、一通り知っていなければ仕事になりません。道楽でやっているとこの前言いましたが、そもそもさぼるくらいならやっていませんよ」
「確かに…」
「そう言えば一つ、前から知りたいと思っていたことがあるのですが、よろしいですか」
 不意にファルラスが話題を変える。彼としては実際、当然のことを言っているだけのつもりなのだろう。断る理由もないので、タンジェスはうなずいた。
「私は本当に趣味で今の仕事を始めたのですが、あなたはどうして騎士を志したのですか?」
 顔を上げて考える。歴史のある美しい町並みの向こうに、青い空が広がっていた。こうやって空を見るのは、久し振りだと思った。子供の頃は良く、空を見上げていたような気がする。何故かは、今になっては分からない。
「子供の頃の夢が半分、大人としての打算が半分、そんな所ですよ」
「半分?」
「はい。打算の方は分かるでしょう。俺もいい生活をしたいと思ったりする部分はもちろんあります。ただ、高等学院に入って大臣を目指すほど頭も良くありませんし、それこそ若旦那みたいに商売の才能や元手もありません。幸い腕力には恵まれていましたから、士官学校に入ったわけです。ま、こっちでも勉強が結構あるんで、苦労してますけれどね」
「失礼ですけれど、別段生活に困っている訳ではないですよね。確か学費や寮費はただだったと思いますけれど、それでもここへ出て来て一人暮しをするとなると何かと物入りでしょう。入試を通るための道場や塾に通った事を考えれば、むしろ裕福な部類に入ると思いますが」
「たしかに貧しさに喘いでいた訳じゃないですけど、若旦那ほどじゃないですよ。ただの農家ですから」
 謙遜しているが、恐らく地主のような身分だとファルラスは推測した。そうでなければ、若く体力のある働き手を農家が手放しはしない。しかし詮索はしなかった。
「家業を継ぐのが嫌だったのですか?」
「まあ…そうですね。軽蔑するつもりはありませんけれど、しかし退屈な仕事です。弟が一人いて、そっちは忍耐強い性格ですから農家はあいつに任せた方がいいと思います」
 平和な町、そして平和な田園だ。恐らくファルラスであれば気に入るだろう。農業も決して楽な仕事ではない。日々根気強い努力を必要とし、更に収穫期ともなれば一家総出での作業が待っている。十分な尊敬に値する仕事だ。しかし結局はその繰り返し、一年ごと死ぬまで、多分後数十回同じ事をする。左右するのは自分の努力ではなく天候。それに自分が耐えられるとは、どうしても思えなかった。
 ファルラスが珍しく、苦味の濃い笑みを浮かべる。
「それがあなたの若気の至りなのか、それとも私が老いているだけなのか…」
「それこそそれは、俺が老いたと思える時になってみなければ分からないでしょうね。そのくらいのことは俺も承知していますよ」
 タンジェスも肩をすくめた。夢だけ見ていられるほど、愚かではないつもりだ。
「それを覚悟の上と言うなら、周囲がとやかく言うべきではありませんね。しかしそれでは、もう半分の子供の頃の夢と言うのは?」
「聞いても笑わないで下さいよ」
 言いながら、タンジェスは自分で笑っていた。今まで言っていた事は十分に理性的だと思っているが、その先はどうもいけない。しかしそういう気持ちも、否定しようもなくあるのだった。
「はい」
 ファルラスは真顔で、続きをうながした。
「一言で言えば憧れですよ。力のあるもの、正しいものそう言ったものに対するね。もっと端的に言えば、かっこいいって事でしょうか」
「…例えばノーマ卿や、あるいは陛下のような?」
 ファルラスが素で返す。笑うなと言ったが、しかしここは笑ってくれた方がまだ恥かしくなかったかも知れない。
「そこまでの英雄は目指してはいませんけどね…」
「…では力と正義が対立するなら、あなたはどちらを優先させますか」
 ファルラスが横目でタンジェスを眺めやる。切れ長の目の、鮮やかな緑の瞳が印象的であった。
「…『力を』と言う解答を要求していませんか?」
 ひとまず回答を避ける。基本的に正義というものに懐疑的なファルラスと自分とでは、考え方が本質的に違う気がする。しかし正面から議論を戦わせるのはためらわれた。人の良いこの人と、あまり争いたくはない。
 ファルラスは苦笑して首を振った。
「そんな押しつけは、それこそ正義を重んじる考え方ですよ。確かに私であれば間違いなく力を優先させますが。それに正義に殉じて死んで行った人々のことを、私は否定しません。それはそれでその人の哲学ですから。例えばあなたが正式な騎士となった後には、正義に殉じようと国家に殉じようと止めはしませんよ。ただ、今のあなたはまだ何者でもありません。当然騎士ではありませんし、士官学校生としてもその資格を停止されています。さらにこの一件は無給ですから、私の雇員でもありません。正義を背負うには、少々早いんじゃないかと思いますが」
「…それでも、一人の人間として守るべき正義はあるんじゃないですか」
「人としてね。それは生きる事ではありませんか」
「…………」
「私は友人を喪うのを好みません。それは覚えておいて下さい。サームにもせっかく、相談事のできる年かさの友人ができたというのに」
 故郷の家族がどうこうと言うありきたりの理屈は持ち出してこない。その姿勢がありがたくて、タンジェスは黙ってうなずいた。

 銅材卸業ジアル商会、それが事件の当事者となった娘の実家であった。王都の中心街に広壮な店舗兼住宅を構えている。
「結構でかいですね。あれだけ払おうって言うなら当然かもしれませんが」
 建物の外観に対して、タンジェスがやや品のない感想を漏らした。しかしファルラスは、それを非難するでもなく淡々と説明する。
「この商会は銅鉱山の採掘からその精錬、銅材の販売までを手がけています。この王都における銅塊の供給占有率は四割強、最王手です。基幹貨幣の材料である金、銀、それに武器の材料となる良質の鉄は何らかの形で国家の管理下にありますから、鉱業界全体から考えても非常に有力だと言えるでしょうね」
「へえ…」
 スケールが大き過ぎて具体的にどう凄いのかむしろ良く分からない世界だ。いい加減な返事をするしかない。しかしファルラスは別に気にする様子もなく、中へ入って行く。それで仕方なく、タンジェスもついて行った。
「これは若旦那様、ようこそお越し下さいました。誠に申し訳御座いませんが、主はまだで先から戻っておりませんで…」
 来訪を待っていたらしく、店先で待っていた使用人が慇懃に出迎える。年齢、身なりからして番頭であるらしかった。
「いえ、つい先日になって予定を押し込んだ私が悪いのですから、お気になさらず。お嬢様にはお会いできますでしょうか」
 低頭する相手に居丈高になるでもなく、ファルラスが応じる。相手は深く頭を下げた。
「はい、ひとまず応接間の方へお越し下さい。ただ今お呼び致しますので」
「ありがとうございます」
 尊敬語と謙譲語と丁寧語の満載された会話を聞き流しながら、タンジェスはさりげなく周囲の状況を確認した。業種柄ひっきりなしに客が来訪するような店ではなく、一見した所視界に入るのは従業員ばかりだ。どうしてそれほど仕事があるのか良く分からないが、とにかく忙しく立ち働いている。
 ただ、少し注意するとそうでない人間が複数いることにも気がつく。目立たないよう立つ位置を考えてはいるようだが、しかし彼等のかもし出す雰囲気は商店という場を考えると明らかに異質だった。鋭い視線を周囲に走らせ、鞘に収めた剣を手の届く所に置くか腰の剣帯に吊るすかしている。この騒ぎに際して雇われたという、傭兵達だろう。少々殺気立っているらしい。魔術師がいつ襲撃してくるかも知れないこの状況下では無理もないことだが、その緊張が従業員達にも伝わっているらしく、一種異様な雰囲気をかもし出していた。
 そうしている内に、今度は若い女性の使用人が現れて二人を案内する。人手が多いのはそれだけ資力のある証拠だ。しばらく長い廊下を歩いて、庭の見える部屋に通された。
 応接間の家具調度も建物に見合った重厚な物だったが、しかしここまで高価そうな物を揃えるのはある種悪趣味なんじゃないかと、そんな気もする。絹張りの椅子にかけながら、とりあえずこの場の感想を漏らした。
「どうもここの警備は不安ですね」
「そうでしょうか。かなり厳重にやっているように見えますけれど」
 ファルラスが首をかしげる。タンジェスはうなずいて、そして首を振った。
「必要以上にね。今からああやって気を張っていたんじゃ身がもちませんよ。それに…」
「それに、何です? 声の聞こえる範囲には我々しかいません。遠慮することはないですよ」
「はい。ああやってカリカリしているっていうのは、裏を返せば自信のない証拠です。技量として信用できるんでしょうか。ま、だらけているよりはよっぽどいいですし、俺も偉そうな事を言うほど腕は立ちませんけれど」
「うーん…でしたらそれとなく、後で忠告しておきましょう」
「あ、でも先方の気分を害するかもしれませんから、無理をしなくていいですよ。自分の所の人間にケチをつけるのかって、そう思う場合もありますし。ただの俺の勘でギクシャクさせちゃったら悪いですよ」
「はっはっは。あなたはそんな些細な事を気にしなくていいですよ。あなたが全力を尽くせる環境を整えるのも、私の仕事ですから。それに品のない話ですが立場としては私の方がここのご主人よりも強いので、多少気を悪くしてもらっても何とかなります。もちろんできる限り穏便に話をしますが」
「そりゃ凄いですね。ここだってかなりの大金持ちでしょうに」
 同じ商人同士で立場の上下があるとなると、それはもう資産の量に差があるに違いない。金銭は人間の価値を決めはしないと言ってみた所で、取引関係などの強弱はどうにもならない。
 ファルラスは苦笑して首を振った。
「正確に言えば私の義父が強過ぎるだけです。別に私が偉い訳でもありません。どこの馬の骨ともつかない男がその一人娘をたぶらかして婿養子に収まったって、少なからずそう思われていますよ」
「そこまで卑下しなくても…」
「卑下じゃなくて事実ですからね。私もこの世界に入ってから実感したのですが、家柄だ何だを重んじるのは何も貴族や騎士ばかりではありませんよ。特にここ以上の大規模商人ともなると名門意識が強いです。ま、人間という存在自体が何かと他者に対して優越感を持ちたがる生き物なのでしょうが」
 皮肉な事実を翳りのない笑顔で言ってのける。本人が全く気にしていないのか、それとも強烈な反発を覚えているのかは余人には分からない。そしてそのまま話を続けるのだった。
「ま、これはこれで利益もあるんですよ」
「そうでしょうか」
 見くびられ、軽蔑されて得られる利益など、タンジェスにはちょっと思いつかない。
「ええ。とりあえず義父に絶大な信用力がありますから、こうして割のいい仕事をすることができますし、反面私個人は…」
 一瞬、ファルラスは口を閉ざした。少し扉の方に視線をやる。
「来たようです」
「そうですね」
 廊下を人が歩いてこの部屋にやってくる。その音を聞きつけたのだった。
 やがて扉が開かれ、現れたのは若い女性だった。年齢はタンジェスとさほど変わらない、せいぜい一つか二つ上だろう。結婚を間近に控えているのだという先入観がなければ、同い年か年下と見ていたかもしれない。やや小柄で、目の醒めるような美人ではないが、しかし愛嬌のある可愛らしい感じの顔立ちだった。
「ようこそいらっしゃいました、若旦那様」
 優雅な仕草で一礼する。それでかすかに舞う服地はやはり高価そうだが、派手派手しくはない。むしろ上品さ、持ち主の趣味の良さを感じさせた。
「お邪魔していますよ、お嬢様」
 ファルラスが緩やかに礼を返す。礼を失する気もないがいきなりでしゃばる気もないので、タンジェスはひとまず無言のまま士官学校で習った通りの礼をした。騎士、武官となると礼一つとってみても最敬礼、敬礼、馬上礼、剣闘礼などなど、多様にあって面倒が多い。もっとも今回は、官位のない人間に対して行う、ごく普通の礼である。ただ、普通の人の仕草よりも動作が速く、軍関係の人間であると見れば分かる。
 そのようにあらかじめ言い付けられていたらしく、彼女の供をしていた使用人達は扉を閉めて出ていってしまう。そうすると不意に、令嬢は顔をほころばせた。
「ファルラス様、お会いしたかったですわ」
 そしていきなり、勢い良くファルラスに抱きつく。しかし抱きつかれた方はそれを十分に予期していたらしく、苦もなく抱き止めていた。
「こらこら、式も間近の娘さんがこのような事をするものではありませんよ」
 苦笑して説教をしながらも、ファルラスは彼女の髪を撫でてやる。扱いにはごく慣れているようだ。
「だってファルラス様ったら、こちらにいらしてもわたくしには全然お会い下さらないんですもの」
「それは新郎に遠慮しているに決まっているじゃないですか。彼は優しくしてくれるのでしょう」
「それが、わたくしよりも仕事の方が大事らしくて、このごろは構ってくれません。寂しい思いをしております」
「はははははは。それは大目に見てやって下さい。今あの人は、そこら中から『所帯を持つんだからしっかりしろ』なんて言われているんですから。ひとえにあなたのためです、いずれ落ちつきますよ」
「もう…それは男の方の言い分です。女の気持ちなどまるで考えていないのですから」
「ま、そうなんですけれどね…。分かりました、後で一言言っておきますよ」
「ありがとうございます。本当に、奥様がうらやましいですわ。こんなにお優しい旦那様がいらっしゃって」
「私がですか? 悪い冗談ですよ」
 甘える彼女を、ファルラスはそっと引き剥がした。
「そもそもあなたは欲深に過ぎます」
「わたくしがですか?」
 大きな目を丸くする。ファルラスは重々しくうなずいた。
「ええ。娘思いのご両親、情熱的なごく近い未来の夫、それから忠実な手代の方々…。いずれ可愛い子供にも恵まれるでしょう。それで十分だとは、思いませんか?」
「あら、愛情はいくらあっても良いものではないでしょうか」
「さて…」
 一つ溜息をついてから、ファルラスは一歩退いた。
「紹介します。タンジェス=ラントさん。士官学校の学生さんです。今回の事件の解決に協力して下さいます」
 少々話のもって行き方が強引だとは思ったが、別に異論を唱えるほどの事もないだろう。タンジェスはもう一度頭を下げた。
「初めまして」
「お初にお目にかかります。ジアル商会主の娘、ミュートと申します」
「ご丁寧にどうも」
 少し考えてから、タンジェスはすぐに本題に入った。別に話術が売りではないし、相手もそんなものを期待してはいないだろう。
「辛い話になるでしょうが、事件のいきさつを教えていただけますか。解決させるためには、なるべく多くのことを知っておきたいので」
「お気遣いありがとうございます。ただ、元を正せばこの一件はわたくしの愚かさに始まった事、全てわたくしが悪いのです。家族、親類どころかファルラス様やあなた様まで巻き込むような事になり、心苦しく思っておりました。わたくしでお役に立てる事があるのなら、どんな事でもするつもりでおります。ですからそうお気になさらないで下さい」
 こう前置いて、彼女は語り始めた。

 彼女が魔術研鑚所の若き魔術師、ストリアス=ハーミスに出会ったのはほぼ半年前の事だった。研究用の資材として大量で、しかも純度の高い銅が必要となり、その買い付けにこの商会にやってきたのである。
 ストリアスが求めていた量は膨大とまでは行かなかったが、しかし通常の取引先への供給を止めずに売り渡すとなるとこの商会としても簡単な話ではなかった。多少は価格の割増を求める商会と、当然市場価格での供給を求める魔術師、交渉は難航した。しかし商会にしてみれば相手は上客で、この先も買ってくれる見込みがある。魔術師としても必要量を満たすとなるとここ以外では難しいので、決裂もせずに話が長引いた。価格に折り合いがついたら今度は納入する方法が問題になる。そのようにしてストリアスが何度もここに足を運んでいるうちに、ミュートと面識ができたのである。
 禁令が解かれた今もなお、魔術とその使い手に偏見を持つ者は少なくない。商会の使用人の中にも彼を避ける者が少なくなかった。しかしそんな中で、ミュートはむしろ積極的に彼に話しかけて行った。元来誰とでも話をする社交的な性格で、魔術に対しては恐怖よりも好奇心が勝っていたのだ。
 始め戸惑っていた彼も次第に心を開くようになり、彼女の求めに応じてちょっとした魔術を見せたりもした。高い知性と能力を持った選良、周囲からは嫉視と偏見、言わば孤高の存在である事を強いられていた青年には、彼女の人懐っこさが何より貴重に思えたのだろう。
 ミュートの興味も次第に魔術からストリアス個人へと移り、互いを恋人として認識するようになった。地方出の彼を彼女が案内して王都を歩き回ったり、あるいは彼が彼女を観劇に誘ったりもした。当然そのような行動は使用人らの知る所となったが、少なくともそれを両親に告げ口をする程無粋な者もいなかった。母親はそれでも薄々は感づいていたらしく、知らぬは父親ばかりなりである。
 しかし結果的には、それが仇になった。噂は商会を出て広まっており、それが以前からミュートとの結婚を望んでいた男の耳に届いたのである。大手の細工物商の次男、オーザン=サムールというのがその名であった。ミュートとは父親同士が取引関係にあり、その縁があって以前から親しく会話をする仲ではあったのだが、しかしこの時点で恋愛関係には発展していない。彼としてはいずれと思っていたようなのだが、しかしストリアスに先んじられてしまった。ここですぐに引き下がるのが潔いのか、それともあくまで押して行くのが意志の強さなのか、微妙な所だ。
 そして少なくともオーザンは、ここで諦めては男が廃ると考えた。彼はまだミュートの父親が交際の事実を知らないと察知すると、まずそこから攻略を開始した。かなり強引に娘を嫁にもらいたいと説得し、そしてそれが熱意と評価されて結局父親は首を縦に振った。そしてそのまま、話は急速に進んで行く。
 無論ミュートは戸惑い、そして悩んだ。ストリアスを愛していたが、オーザンの気持ちも痛い程分かった。しかし現在ではなく将来を考えた時に、彼女はオーザンを選んでしまった。話がここに及んでしまった段階で縁談を断るからには相応の理由が要る。ただ付き合っている、好きだ、そんなことでは済まされない。ストリアスとの結婚を真剣に考えていると言わなければならないのだ。しかし彼女は婿をとって商会を継ぐ事を期待されている身だ。そうしなければ最悪の場合、多くの使用人が路頭に迷う。ストリアスは学究肌の人間で商売には向かないし、何よりそれでは彼の夢である魔術の研究を捨てさせることを意味する。一度は駆け落ちも考えたが、しかしその結果を考えると諦めざるを得なかった。
 ストリアスは魔術師だ。研鑚所以外での魔術の使用が認められていない以上、逃亡などすればそれだけで追っ手がかかる。自分にはもう魔術を使う意志がないとする抗弁は、政府や軍部を納得させはしないだろう。地の果てまでも追い詰められる。現に今、逃亡した彼を王国有数の剣士にして伝説の魔剣の所有者、ノーマ=サイエンフォートが追っている。
 逃亡まで行かなくても何らかの問題を起こせば処罰は回避できない。普通の人間であれば私生活上の事として公的には罪に問われない問題でも、高い道義性がその資格とされている研鑚所の魔術師としては仕方がない。
 このままでは彼を不幸にするだけだと思って、ミュートはもう会わない事にした。これ以上会ったとしても未練が募るだけだ。裏切られたと思った方が、ストリアスも早く自分の事を忘れてくれるだろう。その予測は、しかし間違いだった。
 彼はあくまで彼女を信じて、そしてそれゆえの行動が事件につながってしまった。

「あの方が悪いのではありません。ですからどうか、あの方を止めていただきたいのです。何かが起きる前に。なにとぞよろしくお願い致します」
 語り終えると、彼女は深く頭を下げた。
「事情は分かりました。最善を尽す事をお約束します。俺は…いえ、私は官憲でも何でもありません。公平に見て最善だろうと思える解決方法を考えますよ」
 この人も苦しんでいる。自分のためだけではなくこの人のためにも何とかしようと、タンジェスはそう思い始めていた。
「ありがとうございます」
 ミュートがもう一度頭を下げる。ファルラスはそれを不分明な視線で眺めやったが、しかし残る二人はそれに気がつかなかった。
「式は五日後に迫っています。事前に解決させるとなると、相当に急がなければなりませんよ」
 淡々とファルラスが指摘する。タンジェスは思わず大声を上げてしまった。
「五日ですか」
「はい」
 ファルラスではなくミュートが答える。彼女には悪いと思いつつも、タンジェスは今度溜息をついた。たった五日でストリアスを見つけ出すとなると、確かに難しい。
「恐らく、彼は結婚式への乱入を狙っています。日取りは彼も知っていますし、今まで何の行動も起こさなかった事を考えると」
「当然例の人形を使って…最悪ですね」
 その光景を想像すると、頭を抱えざるを得なかった。
「わたくしとしてはもう、怪我をなさる方さえいらっしゃらなければそれで満足です」
 ミュートの言葉はありがたかったが、しかしそれに甘んじてばかりもいられない。ファルラスに視線を送ると、彼は少し首を傾げてから口を開いた。
「この際多くを望むのは止めましょう。残念ながら、我々にはそれだけの力量はありません。優先順位は第一に花嫁の安全、第二にその手段としての魔術師の身柄確保、第三にその際障害となるであろう人形の撃破、そんなものですよ。後のことは余裕があれば考えましょう」
「花婿以下は後回しですか。危ないと言えば危ないですけど」
「そうですね。男だったら自分の妻くらい自分一人で守って見せろとはこの際言いませんけれど、少なくとも危険を避けるくらいのことは期待していいでしょう。彼等には彼等で傭兵がついていますしね」
「俺が口を挟むべき事じゃないとは思いますけれど、式の期日を延ばすことはできませんか」
「あ、それは私が散々口を挟んでいるので気にしないで下さい。ただ、私もそれを考えたのですが、却ってまずい結果になると思います。彼は今、ぎりぎりの所で追い詰められていますから。一刻も早く彼女を取り戻したいでしょうし、一方で追っ手がかかっていることも十分に承知しています。ただ、彼女を奪った者達に対して最大の形で復讐する機会として、間近に迫った式を狙っているのでしょう。これがもし伸ばされると知ったなら、いつ忍耐の限界に達するか分からなくなります。こちらとしてはいつ襲いかかって来るのか分からない敵を一日中、それも何日も警戒しなければなりません。何より彼女の精神がもちはしませんよ。これでは我々の負けです」
「つまり…いえ、なんでもありません」
 つまり花嫁と言う最高の餌で魔術師をおびき出すのだ。しかしそれを本人の目の前で言うこともないだろう。非情な策のようだが、ファルラスとしても考え抜いているらしく非難はできない。口にした所でそれこそ誰の得にもなりはしないのだ。だから言いさして止めている。それより建設的に、対案を出した。
「替え玉を使うとか、式そのものをでっち上げるとかできませんかね」
「相手が魔術師、そこが今回最大の問題点ですよ。魔術を使えば彼女が本当にその場にいるのかどうかを判別するのは難しくないそうです」
「…それってもしかして、例えば俺が罠を仕掛けたりしても全部見破られる事を覚悟しなきゃならないんですか」
「相手が最高位の魔術師なら、そうなるでしょうね。彼はそこまでの力を持ってはいないと言いますが、追い詰められた人間は時として驚くべき力を発揮します。その分他の面では隙も多くなりますが…」
「やれるだけのことをやっておくしかないって事ですね」
 やはり正面からの決戦を覚悟しなければならないようだ。それに応じて、タンジェスは話題を少し変える。
「…例の人形について、彼は何か言っていませんでしたか? 弱点が分かれば最高ですけれど、そうでなくても特徴なんかが分かるとありがたいんですが」
「それが…そのようなお話もあったと存じますが、わたくしなどの力では理解できない難しいお話だったので、良く覚えておりません。あの方もわたくしの分からないことを長々と語るほど無神経な方ではありませんから、結局そちらのお話はあまりしなかったのです」
 確かに魔術に関して得々と語られるとかなり嫌だ。士官学校では戦略・戦術その他様々な講義が行われており、興味深いものも少なくないが、しかし魔術概論は最大級の危険科目だった。何しろその授業自体に人間を眠くする魔力が込められているともっぱらの評判なのである。タンジェスもそれを全面的に肯定している。魔術に相当な興味がなくては絶対に面白くはない。そんな話をされたのでは、恋愛も何もあったものではないだろう。
「確かにそうなるでしょうね…」
「ただ一度だけ、その人形には他のものには見られない何か特別な力があると、聞いた事があります。それがなんなのかは、私には分からないのですが…申し訳ありません」
「かつての魔術全盛時代の研究は非常に多岐に渡り、現在研鑚所が把握しているものはそのごく一部に過ぎません。研究員達の間でも、基礎的な分野ならともかくそれぞれの専門となると、正確な理解は難しいそうです。特に彼は高度な研究を行う逸材として知られていましたから、我々ではとても理解の及ぶ所ではありませんよ。あなたが気に病むべき事ではないでしょう」
 ファルラスが彼女を慰める。少々自分が悪者のような気もしたが、それでもタンジェスは続けた。
「彼の立ち回り先に心当たりはありませんか」
「先程申しました通り王都には不案内な方です。普段は研鑚所に篭もりがちの生活を送っていらっしゃいましたから、その周囲とこの近辺以外にはあまりお詳しくないと思います」
「彼女の話に従ってノーマ卿が一通り網を張っています。その線は望み薄でしょう」
 ファルラスが補足する。どうも彼女よりむしろ彼に聞いたほうが万事早いんじゃないかと、そんな気がして来た。そうするともう、聞き出すべき事はほとんど限られる。
「一言で言うのは難しいかもしれませんけれど、性格的にどういう人ですか」
「…真面目で穏やかな方です」
「事件を起こすなんて考えられない…ですか」
「はい」
 事実上手がかりなし。そう結論づけざるを得なかった。不真面目で過激などと評される人間は少ない。さてどうしようかと考え、少し間が空いた内に商会主の帰宅が告げられた。現れたのはやや背の低い、当然ながら中年の男だった。顔の造りが丸っこく、想像していた強権的な父親という像からは外れている。むしろ人は良さそうだ。
「お待たせ致しました、若旦那さん」
「いえ、大して待っていませんよ。お嬢様にお相手していただいていましたしね。おや、オーザンさんもご一緒でしたか」
「はい。少し打ち合せをしていたものですから」
 心構えをする前に、タンジェスは問題の人物の一人を見ることになった。オーザン=サムール、ミュートの婚約者、そして事件のいきさつを聞いた際、タンジェスが一番悪いのはこの男ではないかと、そう感じた人物である。年のころはファルラスと同年代、つまり二十代半ばに見える。大柄で彫りの深い顔立ち、商人の次男よりも何かの肉体労働をしていると言った方が説得力のある風貌だ。あるいは鎧など着せても似合うかもしれない。
「紹介しますね。こちら、バクレイ=ジアルさん、この商会の旦那さんです。それから先程お話した、オーザンさんです。それで、こっちがタンジェス=ラントさん、士官学校の学生さんです。例の人形退治はこの人にお任せする事にしました」
 ファルラスが手早く紹介を済ませる。それに応じてそれぞれ初対面の礼をしたが、その中でタンジェスに突き刺さったのは不信あるいは不安の視線だった。無理もない、相手は二十歳にもならない無名の若僧だ。重大な仕事を任せるのにいきなり信用しろと言う方が無理だろう。と、タンジェス自身が考えている。何しろ自分でも、例の人形を確実に倒せる自信はないのだから。
 その気配を読み取ったらしく、ファルラスは素早く付け加えた。
「こちらの切り札ですよ。伏せろと言い渡されているので詳しい事はお話できませんが、とある魔術師を倒した実績がありますし、ノーマ卿も推薦していらっしゃいます。もちろん学校の成績も優秀ですよ」
 それが商売なのだろうが、かなり調子がいい。実績はともかく、ノーマの推薦など初耳だ。これに合わせる自信もなかったので、タンジェスは黙ることにした。
「さすが若旦那さん、人脈が豊富でいらっしいますな」
「何しろ私は運だけで生きていますのでね。知り合いになる方が皆さん優秀なんですよ」
「はは、ご謙遜を。あなたは大旦那様のお眼鏡に叶うだけの方ではありませんか」
「商人としての優秀さと父親としての厳格さは別のものです。ここだけの話になりますが、義父も一人娘にだけは弱いんです。どこでも同じですよ」
 バクレイとファルラスがそんなやり取りをする間にも、オーザンとミュートの視線は綺麗に絡み合っていた。
「ちょっと久し振りでしょうか」
「ええ、でも若旦那様に愚痴を言ったら笑われてしまいました。オーザン様も頑張っているのですから、と。反省しています」
「はは、私はただ自分の仕事をしているだけですから。これからは気をつけるようにします。五日後にはもう…夫婦ですからね」
「はい…」

 さて自分は何をしに来たのやら…。分かりきった疑問を、タンジェスはしばらく考えていた。
 その反動ではないのだが、タンジェスは本題に入ってからはかなり熱心に話を詰めた。この屋敷とオーザンの屋敷の構造、その警備の様子を確かめ、更に式の次第、警備状況を確認する。彼女の安全を確保するためにはなるべく彼女から離れた所で食い止めたい所だが、しかし奇襲を受けた場合に別の所にいてしまうと致命的だ。その辺りの矛盾をぎりぎりの所で整合したりと、これはこれで難しい作業だ。
「最悪の場合の話もしておきますけれど、人形と魔術師は俺が何とか食い止めます。ですからその間に何とか、できる限り遠くへ逃げてください。花婿さんは花嫁さんの手を引くなりいっそ抱え上げるなりしてね。実際狙われている人が近くにいるとそれだけでやりにくくなるので」
 とりあえずそのくらいは期待させてもらおうと、タンジェスは決め込んだ。実際これでオーザンがうなずくのだから恐れ入る。
「はい。この命に代えても、守ってみせます」
「いい返事です。でもあくまで逃げるだけにしておいて、抵抗しようなんて思わないで下さいよ。ほぼ間違いなく、乱入してきた時点で彼は話の通じる状態じゃなくなっています。戦場とはそういうもの、循環論になりますけれど、そうなった時点でそこはもう式場ではなく、戦場です。この前あなたがでっち上げたっていう魔術師があなたを殺そうとする状態が、今度は現実になります。殺されますよ」
 この半ば以上の脅迫に、最も不快感を示したのは花嫁の父、バクレイだった。そこまで言わなくても良かろうと言いたげだ。ファルラスは表情を消し、ミュートは心配そうな視線をオーザンに向け、そして当人はうなだれた。
「申し訳のないことをしたと思っています。しかし彼女を幸せにできるのは私だけなんです。それは…分かってください」
「別に、俺に謝ることじゃありませんよ。俺は本来部外者です。頼まれごとをするだけですよ」
 相手が違う。彼が謝罪しなければならないのは、ストリアスに対してだ。しかし今のこのこ出て行って謝罪しようとしても、無視されるか怒りを買って危害を加えられるかのどちらかである可能性が極めて高い。取り返しのつかないことをした、タンジェスが言いたかったのはそれだけだ。
 しばらく話をした所で、不意に室外から声がかかった。使用人が何か、主に判断を求めているらしい。不機嫌そうに一時席を外したバクレイであったが、すぐに額に汗を浮かべて戻って来た。
「申し訳ありません、若旦那さん、オーザンさん。しばらくここで待っていてもらえないでしょうか」
「どうしました」
「アルサバルの金鉱山で新しい鉱脈が発見されたと噂が広まっていて、相場が混乱しています。真偽を確かめて対応しないと」
「それはまずい。私もご一緒してよろしいですか」
 オーザンが慌てて立ち上がる。家業が細工物商であるから、死活問題なのだろう。一方ファルラスは、自然な動作で椅子を離れた。
「私もお願いします。こちらとしても無視できません」
「ん、そうですね。それでは…」
「でしたら、タンジェス様のお相手はわたくしが致します」
 ミュートが申し出る。金相場の上下になど興味もないし、話を聞かされても分かるとは思えないタンジェスとしてはありがたかった。バクレイ、オーザンはあわただしく事務所の方へ向かって行く。ファルラスだけはいつも通りの悠然とした様子で一礼してから退席したが、しかし何故か二人に遅れる事はなかった。
 三人が出て行ってすぐ、ミュートが声をかける。
「タンジェス様、よろしければ庭をご覧に入れたいのですが。たいそうなものではございませんが、手塩にかけた父自慢の庭です」
「ありがとうございます。無学なものですから、案内していただけるとありがたいです」
 良く気のつく人らしい、タンジェスは立ち上がりながら少し感心した。こういう奥まった応接室は密談にも使われる種類のもので、扉の前にでも立たない限り中の様子は分かりにくい。そんな所に若い男女が二人きりで一緒にいるのは色々とまずいだろう。特に相手は数日の内に結婚する身だ。本来ならこう言うときは男が気を使わなければならない。タンジェスも鈍くはないつもりだし、人付き合いに疎くもないからさほど時間もかからずに気のつくことではあったのだが、しかし先を越されてしまった。
 ジアル家の庭は、昨日タンジェスが眺めていた茜商会の庭とは対照的なものだった。つまり細部にまで人の手が加わっている。手塩にかけた、とはむしろ控えめな表現かもしれない。刈り込まれた木々、計算され尽くした配置で咲く花々、ささやかだが確かな涼気をもたらすせせらぎ…謙遜ではなく造園には全く知識のないタンジェスでも感心してしまうだけの芸術性を有しているが、しかしその分彼としては近寄り難さを感じてしまうのだった。
 例えばここでは、子供が庭木を折ってしまっただけでも叱責されるだろう。そしてここが主の熱意とそれを受けた庭の精魂込めた努力によって成立している以上、それを破壊するものを叱責しない方が不当と言える。そういう庭だ。常識的な観点からすれば明らかに荒れていても、タンジェスとしては茜商会のものの方が居心地はいい。
「なるほど…確かに私でも熱の入れようが分かります。もっとも王都に出て来てからこうして真面目に庭を眺めるなんて、初めてですけれどね。若旦那の所は子供の遊び場になっていますし、学校の庭なんてもうただの模擬戦闘訓練場ですから」
 内心はともかく、とりあえず自分のほうから話をして行く事にする。彼女が語るとなると一歩間違えばあっという間に暗い方向へ向かうから、その方が無難だと判断したのだった。
「どのような所なのですか」
「あれだけの場所に良くここまで色々な地形を詰め込んだものだと、そういう所ですよ。草原、林、砂地、川、沼地、岩場、崖、などなど、果ては城跡まで作ってあるんですから」
 ぼやきに入ったタンジェスを見て、ミュートは顔をほころばせた。
「そこでご苦労なさっていると分かった上で言うのは申し訳ないのですけれど、そううかがうと他にない箱庭みたいで面白そうだと思ってしまいます。一度拝見したいですわ」
「はは、箱庭ですか。そう考えると確かに面白いですね。今度あそこで訓練をするときには気分が変わっていいかもしれません」
「いつもそこでなさるのではないのですか?」
「色々です。さすがに平らな土の中庭でするのが一番多いんですけれど、今言った庭だと手狭だからって郊外に出たり港まで行ったり…あ、そう言えば食堂で集団模擬戦闘とか馬鹿な事をした事もありましたっけ」
 これは士官学校関係者が知り合いに一人でもいれば誰でも知っている有名な話の種だ。しかし幸い、ミュートは初耳らしく目を見張る。
「食堂でですか? だって普段皆様そこでお食事をなさるのでしょう」
「朝、昼はほぼ必ず。夕食はとる奴ととらない奴がいますけれど、それでもかなりの数になりますね。教官達も基本的にそこで食べていますし」
「そこで集団模擬戦闘って…」
「いや、本当に、我々もいきなりそれを聞かされたときには自分の耳を疑いました。訓練の時間に食堂へ集合させられて、とりあえず机と椅子を片付けろって言い渡されたんですよ。訓練代わりに掃除でもさせられるかと思ったんですけれど、そうしたら今度は古くなって捨てる予定だった机や椅子を運び込んで、そこで学生を二班に分けたんです。そしていきなり、甲班は配膳口を占領せよ、乙班はこれを阻止せよ、負けた側は罰として中庭二十周走なんて命令された訳ですよ」
「それで始めたのですか」
「ええ、ついでに言えば時間内に決着がつかなければ両班仲良く中庭十周って話になりましたから、お互い作戦を練る時間もないまま戦闘に突入です。というよりただの乱闘だったんですけれどね、あれは。一応全員訓練用の防具と模擬剣は持っていたんですけれど、殴る蹴る関節技をかける投げ飛ばす、椅子を叩きつける机を蹴倒すと何でもありでした。剣を振りかざすには天井が低くて、しかも振り回したら敵方以前に味方に当たるという密集具合でしたから、それ以外で何とかするしかなかったんですよ」
「…なんだか、楽しかったみたいですね」
 弾んだ口調からミュートがそう察する。タンジェスは笑いながら説明した。
「その時は自分たちが楽しい事をしているんだって分からないほど本気になっていましたからね。訓練にあれだけ熱中したことはありませんよ。やはり普段は絶対にできない事をするって、どこか興奮するものがあるんでしょうね。結局その勢いで壊してはまずい所にまで被害が及んで食堂の人達が激怒して、この訓練を指示した教官と全員で仲良く中庭を三十周するはめになりましたけれど。それでも食堂を片付けてからの食事は本当においしかったですよ」
「ふふ、騎士を養成する学校だとうかがっておりましたから士官学校って何だかすごくお堅い所だと思っていましたけれど、そう言う楽しいこともなさるのですね」
「大概の教官はご想像のとおり堅いのですけれどね。一部の応用戦闘訓練の担当教官が傭兵の出身だそうで、かなり無茶をしてくれます。学生なんかはもう私みたいに騎士以外の家の出身者が結構いますし、騎士の息子でもこっちに同調しがちですから、別に普通の同じ年代の連中とそう変わるものではありませんよ」
「なるほど…なんだか安心しました」
 ミュートが華やいだ笑みを見せる。タンジェスは少し首をかしげた。
「安心ですか」
「失礼ながら。さっきまで戦う事についてすごく真剣にお話をなさっているものですから、そのような方なんだと思っていたんです。将来将軍になられる方は、やはり若くても厳しい性格なのだろうって。あのご高名なノーマ卿が推薦なさっているというお話も伺いましたし。でもこうしてみると、とても親しみやすくて。それで安心したんです」
「それは、こちらこそ失礼しました。恐がらせてしまったようですね。厳しいだなんて思われたのは生まれて初めてですよ、多分」
「とんでもない。あの場ではああするしかなかったのですし。それに今はそれが頼もしく思えます。紹介してくださったファルラス様と、そしてタンジェス様御自身に感謝します」
「感謝だなんてそんな…」
 こうしてタンジェスはミュートに伴われ、庭を散策しながらしばらく話をした。そうするとストリアスもオーザンも彼女に惚れ込んだ理由の一端が理解できる。接していて実に居心地の良い人だ。今は状況が状況だけに多少翳りが見えるものの、本来はもっと明るい、楽しい所もあるのだろう。
 だからこの庭にファルラスが現れたときには、正直な所少し残念な気がした。もっと話をしていたいと、素直にそう思えた。
「またこうして、お話をする機会があれば嬉しいです」
 そこでミュートがそっとささやく。それは嬉しかったが、しかし社交辞令として受け取っておく事にした。相手は五日後には人妻だ。
「私もです」
 社交辞令を返して、それで終わりにする。ファルラスが話しかけてくるまで、少し間が開くことになった。
「いやいや、全く、お粗末な誤報でしたよ。二人とも、お待たせしました」
「いえ、お嬢さんに案内してもらったおかげで退屈どころか楽しかったですよ」
「こちらこそ、色々なお話が伺えましたから」
「なら良いのですが…時にタンジェスさん、今の内にお嬢様にうかがっておく事はありますか。なければ後の無粋な話は我々男だけでしようかと思うのですが」
「んー…いえ、特にないですね」
「それでは、我々はもう少し話を詰めるとしましょう。お嬢様、今日はご苦労様でした」
「いえ、とんでもない。わたくしでお力になれることがありましたら、いつでもおっしゃってください」
「はい。その時はよろしく。それでは」
「失礼します」
「ごきげんよう」
 去り際自分に微笑みかけるミュート、その表情が、タンジェスには印象的だった。

続く


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