王都人形騒乱録

V 悩める黒騎士と彼の与えた試練


 ジアル商会で必要と思われる事は徹底的に討議して、タンジェスとファルラスはそこを後にした。時刻は正午を過ぎている。
「うーん…参りましたねえ…下らない誤報に付き合わされてしまったおかげで、予定が狂ってきてしまいました」
 歩きながらファルラスがぼやく。タンジェスもあまり好ましい状況ではないと気がついた。
「ノーマ卿をお待たせしていますよね。急がないと…」
「それもあるんですが、私はもう一件別口の用事を抱えていまして。ノーマ卿は今日一日自宅で待機なさっているそうですからこちらはむしろあまり問題はないのですが、別口の相手が結構忙しい方でして。別に遅刻したくらいで怒りはしませんけれど、しかし話し合う時間が取れなくなるのはまずいんです」
「あ、そうなんですか。それじゃあ…」
「申し訳ありませんが、ノーマ卿の所にはお一人で行ってもらえないでしょうか。私とあの方でしたら昨日のうちに一通り必要な話は済ませてありますし、今の所付け加えることもありません。しかし向こうの方はどうしても今日のうちに話を済ませておきたいので」
「分かりました。道順さえ教えてもらえれば一人で行きますから」
「ありがとうございます。もうしばらくは一緒ですけれどね」
「所で別口の用事って、一体何ですか」
「人の手配です。式を執り行う神官の方はもちろんもう決まっているのですが、事情が事情だけにその他の人が怖気づいているんですよ。それで何とか、別にやってくれる人がいないものかと探している所なんです。強引に説き伏せて怖気づいている人にやってもらう手段もあるのですが、それが原因で式が失敗するなんて事になったら困りますし」
「そんな事まで若旦那が手配しなきゃならないんですか」
「人を呼んでくるのは人材派遣業の本業ですから。幸いツテはありますし、何とかなりますよ」
「苦労性ですよそれ、絶対。色々背負い込み過ぎです」
 真顔で指摘すると、ファルラスは笑ってごまかした。
「あはははは。そうそう、ここでお別れですね。ノーマ卿のお宅はそっちへまっすぐ行ってから突き当りを右に行ってしばらく先です。サイエンフォート家の紋章は空色地に翼を広げた白鳥ですから、それが目印になりますね」
「分かりました」
「魔術研鑚所への案内はエレーナさんがしてくれます。ノーマ卿の家に迎えに来てくれる手はずになっていますから、私がいない事情を説明して後の事はあの人に任せて下さい。それでは、ノーマ卿にうかがえなくなった事をお詫びしますとお伝えください」
「はい、それでは」
 かなり手際良く話が進んで、タンジェスは一人サイエンフォート邸に向かった。
 騎士の家が立ち並ぶ住宅街、空色地に翼を広げた白鳥の紋章が掲げられた家はその一角にあった。近衛騎士は上級騎士に分類され、更に将来の出世が確実視されている割には質素な、普通の騎士と変わらない所に住んでいるようだ。
 開け放たれたままの門から入り、玄関の扉を叩く。そこで現れたのは、この邸宅の若き主自身だった。ノーマが穏やかな笑みをたたえながら出迎える。
「よく来てくれた。しかしファルラスどのは?」
「こちらにうかがえなくて申し訳ありません、とのことです。何でも人の手配をしなければならなくて、誰かに会いに行くとか」
「なるほど、それなら仕方がないな。それに良く考えたら、今日はあの人がいないほうが話を進めやすい」
「そんなものでしょうか」
「まあ、あの人には退屈なだけの話もするからね。所で昼食はもう済んだかな。そうでなければ昼食がてら話を始めることにしよう」
「そう言えば食べていません。御馳走になります」
 遠慮しても腹を減らして集中力が怪しくなるだけなので、素直に好意に甘える事にした。ノーマが手を叩いて使用人を呼ぶ。現れたのは、一人の老婆だった。
「二人分の支度を頼む」
「かしこまりました、坊ちゃま」
 孫よりも更に年下であろう若い主人の言いつけに、老婆は人の良さそうな笑顔で答える。しかしこれに対してノーマは珍しく眉をひそめ、気分を害した様子をあらわにした。
「だからその呼び方はせめて他人のいる所では勘弁してくれないかと、何度も言っているだろう。旦那様と呼べとは言わないから、せめてノーマ様とか」
 確かに二十歳を過ぎた、しかも王国有数の剣豪に対して「坊ちゃま」はない。タンジェスは笑いをこらえるのに苦労した。しかしノーマはその気配にも気づかず、老婆はそれほど恐縮した様子もなく一応と言った様子で頭を下げる。
「申し訳ございません。また別に『坊ちゃま』とお呼びできるような方がおできになれば、この癖も直ると思うのですが」
「またその話か。当分無理だと君が一番良く知っているだろう」
「男女の仲の行きつく先は、誰にも分からぬものでございます。どなたか気にかかる方がおられるのでしたら…」
「だからいないよ、そんな人は」
「でしたら、お見合いの一つでもいかがでしょう。坊ちゃまでしたらどんな方でも首を縦に振りましょう」
「来客中だ。内輪の話は失礼だろう」
「あ、申し訳ございません。ただ今お支度を」
「そうしてくれ」
 老婆が下がってから、ノーマはあからさまに溜息をついた。
「済まなかったね。今食堂に案内する」
「いえ、別に気にしませんが」
 言いつつ、タンジェスは表情を取り繕うのに失敗した。
「笑わないでくれ」
「済みません」
 ノーマ自身に案内されて食堂に向かう途中、雰囲気がまずかったのでタンジェスは話題を変えることにした。
「しかし閣下、今日はここで待機だと聞きましたが、他のお仕事はよろしいのですか」
「うん。元々私には定まった職務はないから。近衛騎士の本来の仕事は陛下の護衛、しかし今現在これほど形骸化した地位もなかろう。何しろあの方に勝てる人間など何人もいないのだから」
「確かに…」
 国王は王国最強の剣士、伝説の魔剣の所有者として知られている。一対一で勝てる人間など伝説の魔術師意外にあり得ないだろうし、かといって集団で襲いかかろうとしても王宮には常時多数の騎士が出入りしている。彼等に発見されずに国王の身近に迫るなど、まず不可能だ。つまり通常の軍のみで必要を満たしてしまうのである。
「陛下が軍や官僚に何かを命ぜられたとあってはそれだけで大事になる。しかし事を大きくしない方が良い場合も何かと多いからね。それに当たるのが実際の私の仕事だよ。近衛の称号は陛下のお側に仕える大義名分と、後は格式づけに過ぎない。そして今は例の人形の件に専念するよう命ぜられている」
 ノーマは淡々と語ったが、しかしタンジェスはつばを呑み込んだ。大事だとは思っていたが、しかし自分は今国王直々の命令と同じ目標を追って行動していると思い知らされたのだ。その表情を見て、ノーマはなおも続ける。
「しくじる事の許されない問題だよ。陛下のお膝元であんなものが暴れ回ったとあっては軍のみならず王国全体の治安維持能力に疑問が持たれる。最悪でもあれがもう一度現れた時点で、片をつけなければならない」
「…それでは、俺の出番はありませんね」
 ノーマがそこまでの考えを持っている以上、タンジェスとしては引き下がらざるを得なかった。例え手柄を競ったとしても勝てるはずがない。相手が悪かったのだ。残念だと言う気もしなかった。
 しかしノーマは、苦笑して否定した。
「そんな気の弱いことを言ってもらっては困るな。この件は君に任せるつもりでいるのだから」
「…よろしいのですか?」
 一拍間を置いたのは、別にもったいぶっている訳ではなく、意外な成り行きに反応し損ねただけだ。
「うん。…と、ここが食堂だ。座ってから詳しい話をするとしよう」
 前菜の並べられた食卓を囲んで、ノーマは切り出した。
「当日どうしても抜けられない用事があるからね。それからそれまでに目標を発見できたなら、君に連絡して対処してもらう」
「どうしてもって…」
「思い当たらないかな。五日後には御前閲兵式がある。欠席できない」
「あ…」
 王都とその周辺に駐留する軍の精鋭、更には地方駐留軍の一部が参加して王都の南門から王宮前広場までを行進し、そこで国王の閲兵を受ける。年一度、国軍最大の行事、それが御前閲兵指揮である。正規の兵員ではないタンジェスには今の所関係のないことだが、しかし去年の行進は朝早くから場所を取って見に行ったものだ。華麗な軍装をまとった騎士達が轡を並べ、兵士達が陽光にきらめく槍を掲げて歩く、騎士を志すものなら是非一度見ておきたいものだし、去年の行進を見終わった後には次の機会も必ず見ようと思った。しかし今の今まで、すっかり忘れていたことだ。
 一方、ノーマは出席しないことはもちろん忘れることもできない立場にある。少年の頃から剣術に優れ、さらにその美貌も手伝って、彼以上に高名な騎士は国王と将軍達を除けばいないのだ。その人物が式を欠席するとなれば軍の内外に不審の念を抱かせる。これまで内々に事を処理してきた意味がなくなるだろう。
「葬式ではないのだから祝賀気分に便乗するのも悪い考えではないが、しかしこの場合は裏目に出てしまった。陛下はもちろん私以下主だった騎士は簡単には動けない。警備体制は通常通りないしそれ以上だが、しかし通常の部隊ではあの人形に対処する事は難しい。できる限り他の誰かにやって欲しい所だったんだよ」
「それは分かりました。しかしそれまでに発見した場合、閣下はそのために待機してらっしゃるのでしょう。それを何故、私にやらせようというのですか」
「遠慮しなくていい。率直に言って手柄が欲しいのだろう」
「それはもう切実に。しかしそれでよろしいのですか」
「うん。私は別に、今手柄を必要としていないからね。幸運なことに師匠に恵まれ、陛下にも知己をいただいている。自惚れるつもりはないが、しかし大きな失敗さえしなければ出世は間違いない。ここで焦るのはあさましいと思わないか」
「確かに」
 自分と身分が違い過ぎてうらやましがる気にもなれない。ここは素直に好意を受けようという気になった。
「ただ、無条件に任せる訳には行かない。食事が終わったら少し確かめておくことがある。ぬか喜びをさせても悪いから、具体的な話はその後にさせてもらうよ」
「あ、はい」
 そうしている内に料理が運ばれて来て、具体的に何を確かめるのか聞きそびれてしまった。主になっているのはタンジェスの見た事のない料理だった。妙な形をした黄色いものが多数、皿の上でたれと絡まっている。
「じゃあいただきます」
「いただきます…って、これ、何ですか?」
「ん? ああ、知らないか。小麦粉を練って固まりにして、切って形を整えてから乾燥させてあるんだ。形の変わった麺みたいなものだよ。故郷の料理だが、王都より北ではむしろ一般的だと思うな。彼女の料理の腕は確かだから、こわがらずに食べてみるといい」
「あ、はい」
 実際口に入れてみると、適度な弾力があって食べていて心地よい。やや酸味の強いたれと良く合っていた。
「それにしても誰も彼も結婚結婚と、それしか人生の目的がないわけでもないだろうに。そうは思わないか」
 食べる合間にノーマがそんな話を振る。タンジェスは特に考えもなく、一般論を口にした。
「目的じゃないとは思いますけれど、でも重要なものである事は確かなんじゃないですか」
「それを否定はしないが、別にしなくても生きていけるだろう」
「そりゃ確かに。でも…そう、俺なんかはともかく、サイエンフォート家には領地もあれば家臣の方もいらっしゃるでしょう。後継ぎは必要なんじゃないですか」
 後継者に恵まれなければ、領地は遠縁のものが相続するか国家に編入される事になる。その地域を良く知らないものが統治を行うのは何かと不都合が多いし、それに領地に愛着を持っていない人間が支配者となった場合、ともすれば領民を無視した為政に陥る。育成に余程の失敗を来さない限りは、後継者は直系の者が望ましいのだ。先程ノーマに仕えている老婆が結婚結婚とうるさいのも、それを心配しているからである。それは彼も重々承知しているらしい。
「うん…まあそれも分かるのだがね。女性を子供を産むための道具として見るようなことはしたくないから。相手が見つからなければ養子を取るよ」
 ノーマは非常に道理の通った、落ちついた物言いをする。しかしそれがむしろタンジェスに違和感を覚えさせた。この種の問題が道理で片付けば、今この二人が顔を突き合わせている事もなかっただろう。それに能力、社会的地位、将来性、容姿、人格、ほぼ全てにおいて完璧に近いはずの人なのに、相手が見つからないことを前提に話をしているような節がある。一声かければついてくる女性は少なくないはずだ。
「何か、こう…」
「ん?」
「あ、いえ、何でもないです」
 自分がかなり失礼なことを考えていると気がついて、タンジェスはそれをごまかそうとした。しかしノーマが追及する。
「気になるよ、そんな言い方は」
「なら言いますけれど、気を悪くしないで下さいね。ただの思いつきですから」
「うん。自分から望んでおいてそうするほど未熟ではないつもりだよ」
「分かりました。どうもノーマ卿のお話を伺っていると、女性と付き合った事がないように思えてしまうので。もちろん勘違いなんでしょうけど」
 観念的に恋愛や結婚を捉えるのは、概してそれを経験していない人間のする事だ。一度でもそれを経験してしまえば、どうしても生々しくなる。ノーマにはその生々しさが感じられないのだ。
 そして彼は、秀麗な容貌をはっきりと曇らせた。それこそその表情一つで女心を揺るがすことも可能だろう。
「いや、勘違いではない。確かに君の言う通りだ」
 まずい事をした。批判ないし弱点の指摘は的を外している方が相手のダメージが少ない。気にしている部分に的中させてしまうと、ほとんど致命的である。慌てて失敗を取り繕う。
「それはまあ、相手に見る目がなかったんじゃないですか。あなたほどの人が…」
 ノーマは溜息をついた。
「全て私が悪いんだ。全く自慢にならないが、子供の頃から女性には良く声をかけられた。ただ私は、女性と話をすると必要以上に緊張してしまうんだ。うまく話をすることもできない。日常の会話でもそれなのだから、愛を語られてしまうと本当に何も話せなくなる」
「…何でまた」
「その理由が分かればあるいは問題が解決するのかもしれない。少なくとも物心ついたときからそうだった」
「悩みは人それぞれですねえ…」
 タンジェスは物凄く常識的な所で落ち着いてしまった。女性が苦手な男は確かにいるものだ。タンジェスも士官学校の友人の中に、そのような人物を知っている。しかしそれが、このノーマにも当てはまるとは思わなかった。
「全くだ」
 反論のしようもない台詞なので、ノーマがうなずく。しかしそうしている内に、タンジェスとしては次第に納得の行かない気分になってきた。恵まれている人をそれだけを理由に妬もうとは思わない。しかしチャンスをみすみす逃していると思うと、腹が立ってくる。
「もったいないとは思いませんか」
「その理屈も分かるけど…」
「その顔と、実力、贅沢は言いませんからどちらか一つ分けて欲しいですよ」
「顔だけは剥がして渡す訳にも行かないだろうが、しかし君だって醜男ではないと思うぞ」
「そりゃどうも」
 男に褒められても嬉しくない。タンジェスはその顔で語って見せた。苦笑しながら、ノーマが話題を変える。とりあえず自分が美形である事を、結局否定はしなかった。
「実力などというものはこれからつければ十分だよ。これから伸びる可能性はいくらでもある」
「だといいんですけれど」
 何となく不機嫌なまま料理をつつくタンジェスを、ノーマは笑って眺めていた。

 食後のお茶をゆっくり楽しんでから、ノーマはタンジェスを館の一角に案内した。高い天井と広い床面、しかしホールと言うにはその部屋はあまりに無骨だった。剥き出しの石壁に打ち付けられた棚の上に、いくつかの武器が並ぶ。調度と言えばほとんどそれだけの部屋だ。練武場である。
 タンジェスの見慣れた士官学校の練武場に比べればもちろん狭い。しかし一人の騎士が自宅にしつらえるとしてはかなり大掛かりで、さすが一流の剣士だと思わせる。普通この規模の邸宅なら、武術の稽古は中庭などでするものだ。
 やがてタンジェスの視線は部屋の奥に吸い寄せられた。ひたすら実用のみを追求したと見える部屋の中で、そこだけが鮮やかな色彩に溢れている。旗が壁面にかけられているのだ。深い青を基調とした王国旗が中心に据えられ、向かって右には空色地に翼を広げる白鳥、サイエンフォート家の紋章旗である。それぞれに来歴、伝統のある美しい図柄だ。しかし左側にかけられた旗は、どこか不吉な雰囲気を放っていた。
 その意匠がごく新しいものであると、タンジェスは知っていた。つまりその短い歴史にも関わらず彼が知っているまでに名高い、そのような旗なのだ。伝説の魔剣を手にし、雑兵から名だたる敵将、果ては怪物に至るまであらゆる敵をその手にかけた。出自は全くの不明、あまりの強さと狡猾さ、冷酷さから、あるいは人間ではなかったとさえ言われている。実力を見込まれて騎士の位と紋章旗を授けられたが、やがて異形の存在との戦いでその元凶と刺し違え、短い生涯を追えた。正確な年齢も不明だが、その時まだ少年の面差しを残していたという。それが、ノーマ=サイエンフォートの師である。
 つまりこれは主を失い後継者もない、もはや使われないはずの旗なのだ。それが高々と、王国旗と館の主の紋章旗と並べて掲げられている。この国で何かを並べる時の序列は中央、向かって左、右の順であるから、主の紋章旗よりも師匠の物の方が高い位置に置かれていることになる。恐らく、流派の象徴として飾ってあるのだろう。それが無言の内に自らの戦績を語っているように、タンジェスには思えた。
 その彼に、ノーマが落ちついた声で語りかける。
「さて…ここに来たからには何を確かめるのか、察しはついているだろう」
「はい。つまり俺の力を確かめると、そういう事ですね」
「うん。この事件の重要性はもう説明する必要もないだろう。できれば君に譲ってやりたい所だが、しかし実力が伴わなければ誰のためにもならない。私も無条件には甘くないつもりだ」
「一応学校を休んでいる間にも剣を振るくらいのことはしていますが…少しなまっているかもしれませんね」
「そのくらいなら私に見極めがつくし、やって行く内に勘も取り戻すだろう。さ、始めようか。まさか止めるなどとは言い出さないのだろう」
「もちろんです」
 緊張はしたが、無意味に恐れてはいない。力を込めてうなずくと、タンジェスは棚から木剣を一本取り出した。代わりに自分の剣をそこにかける。いくつかある中で、自分の物と長さが同じ物を選んでいた。
「お借りします」
「うん…そうだ、防具もつけた方がいいな」
 ノーマのこの台詞は暗に、何回かは剣を叩き込んでくるつもりだということを示している。普通実力に開きがあれば、寸止めをすることも可能である。
「はい」
 一流の剣士の斬撃は、普通の鋼の剣であっても鎧の鋼板を叩き割る。これには少々不安を覚えたのだが、今更嫌と言える状況でもない。上着を脱いで、訓練用の皮の防具を身につけた。元々動きやすい服装を選んでいるので、それだけで支度が済む。
 ノーマも上着を脱ぎ、剣を棚にかけてから木剣を手にした。やはりそれぞれの長さがほぼ等しくなるように選んでいる。タンジェスの物と比較するとやや長めの、片手でも両手でも扱えるように作られた物だ。タンジェスは純粋な片手専用の剣を使っている。ノーマは防具はつけていない。打ち込まれない自信があるのだろう。それで気負った様子もなく、練武場の中央に立った。
 稽古をつけてもらう場合に準じて、タンジェスは一礼する。
「お願いします」
「うん」
 小細工の通じる相手ではないし、それが目的でもない。自分の実力を見てもらうために、タンジェスはごく基本的な構えを取った。そうしながら相手の戦力を値踏みする。
 タンジェスも背は高いほうだが、ノーマはそれよりもう少し高く、比例して手足も長い。武器もタンジェスより長い物を手にしており、剣の届く範囲はかなり広くなっている。真剣の場合は長い物を使うと重量がかさむのでその分取りまわしが悪くなり、一概に有利とは言えないのだが、木剣の場合は基本的にそこまで重くならないので多少長い方が有利だ。しかし不慣れな長い物を使うよりはと、タンジェスはいつもの長さの物を選んでいる。
 しかし背が高い割に、ノーマはずいぶんと華奢に見える。ややゆったりとした服を着ているが、それでも細い印象を受けるのだ。恐らく純粋な腕力、そして重量の面では自分の方が有利だろうと、タンジェスは判断した。これらは正面切ってぶつかり合った際にものを言う。
 自然体に近い形で下げられたノーマの剣が、すっと動いた。攻撃でも防御でもない、恐らくは無意識的な動作、癖のようなものだろう。しかしそれだけの事で、風が急に冷たくなったような気がした。そもそもこの室内で、風など吹くはずもないのに。
 親切、謙虚、温和。ノーマ=サイエンフォートという青年は多くの美質を備えた人物である。非常に高い戦闘力を持っているにも関わらず、威圧的な雰囲気とは普段無縁だ。むしろ周囲からこれほど好かれる、親しみやすい人物も珍しいだろう。
 しかしこの人は、紛れもなく当代一流の剣士なのだ。それもかつて「最も多くの人間を殺した」とされる人物の、ただ一人の弟子である。国王の信頼が厚いだけに多くの戦場に立ち、そしてその度ごとに戦果を上げている。それはつまり、数多くの人間を殺している事に他ならない。その事実を、一変したこの場の雰囲気が無言の内に物語っていた。わずかに気迫を込めただけで、凄まじいまでの圧迫感を与えてくる。


「ハッ!」
 そのまま呑まれてしまわないよう、タンジェスは気合の声を発した。しかしそれで空気が小揺るぎもしない。まるで何もない闇に吸い込まれて行くようだ。後ずさりそうになるのをこらえるのさえ努力を要する。相手に殺意がないと理性では分かっているのに、逃げ出したいという原初的な欲求が沸き立っていた。なまじ剣士として訓練を積んでいる分、そのような動物的な勘が発達しているのだ。自分よりはるかに強い相手に遭遇したのなら、それは普通逃げるしかない。同族であれば降伏するという選択肢もあるのだが、この場合相手が同じ人間とはとても思えなかった。
「…………」
 獲物に飛びかかる直前の猛獣さながら、ノーマがゆらりと動く。それに応じてタンジェスが剣を運ぼうとした刹那、その動きが急速なものになった。
 速いと感じる暇すらない。意識がついて行かない内に、有効な斬撃の放てる間合いまで飛び込まれている。辛うじて剣を突き出して防いだのは、これまで訓練を積んできた事による反射の為せる技であった。しかし互いの剣が激突した瞬間、反動でタンジェスの体が大きく揺らぐ。細身の体格からは全く信じられない威力だ。
「くうっ!」
 辛うじて足を踏みしめ、態勢を立て直す。しかしその間、ノーマはそのままの勢いですれ違い、タンジェスの後方へと抜けていた。背後から攻撃されるなどという無様な事態を防ぐべく、振り返りざま牽制の攻撃をしようとする。しかしそこでタンジェスが見たものは、既に防ぎようもない距離で自分に迫っているノーマの剣先だった。
 脇腹に重い衝撃が走る。まだ反転を終えていなかったタンジェスの体は、その勢いが加わってねじりながら弾き飛ばされる事になった。床に叩き付けられる寸前辛うじて受身を取ったが、しかしそもそも胴体のダメージが重過ぎる。防具をつけていなければ、肋骨を叩き割られた上内臓まで潰されていただろう。これが真剣であったなら、輪切りにされている。とても起き上がれる状態ではなかった。
「一撃目を防いだのは立派だ。今のを防げる人間はそう多くはない。しかしその後油断したのがまずかった。反転するのが少し遅い」
 剣を下ろして、ノーマが解説する。その声が嫌に遠い。
「は…はい」
 剣を支えにして、どうにか立ち上がる。しかしとっさに呼吸を整える事もできない。
「普通ならひと休み入れる所だが、続けるぞ。戦いは常に万全の体調で行える訳ではないからね」
「…分かりました」
 タンジェスは身の危険を覚悟せざるを得なかった。殺意はないかもしれないが、この調子で続けられては何があってもおかしくない。忱流剣術の恐ろしさを、改めて思い知らされる。このような過酷な訓練を日常的に積んできたから、今のノーマ=サイエンフォートがあるのだろう。しかし彼は師匠にただ一人弟子と認められた天才だ。凡人がそれに付き合わされたらどうなるのか、ノーマも実際には知らないだろう。
 だがそれでも、ここで尻尾を巻いて逃げる訳には行かない。夢は捨てないと決めたのだ。半ば強引に、タンジェスは構え直した。
「私から打ち込んでばかりでは続かなくなる。かかってきてくれ」
「はい…。行きます」
 小細工なし、全力で撃ち込む。しかしそれはあっけなく弾き返された。
「力が入っていない! 体が痛みに負けているぞ! 気合を入れ直すんだ!」
「は、はい!」
 今度は体重ごとぶつけて行くような突きを撃つ。これに対してノーマは、軽く身をかわしてタンジェスの後頭部を手で突いた。剣を使うまでもないという事だ。
「気合が篭もっているのと捨て身になっているのをはき違えないことだ。そうしないと、死ぬ」
「死」その言葉の意味が息苦しくなるほど重い。ノーマはこうして、捨て身でかかってきた敵を葬ってきたのだろう。
「はいっ!」
 体が次第にこの状況に呼応してきているのか、痛みが意識から外れて行く。それを危険な兆候とは思わず、タンジェスは迷わず間合いを詰めた。とにかく力と技の限りを尽して、ひたすら撃ち込んで行く。
「勢いはいい。しかしいつまで続くかな」
 ノーマには笑みさえ浮かべる余裕がある。もちろん一撃も打ち込ませず、かすったり押されたりする場面さえない。相手は化物だと、タンジェスは確信した。
 士官学校の剣術教官たちもそれは相当に強い。「鬼のように強い、と言うより鬼だ連中は」とは学生の間で本気とも冗談ともつかずに良く使われる言い回しである。学生達が一本でも取れたら後で拍手される。その場でしないのは、教官に対する気配りだ。ただ、その彼等の動きはタンジェスの理解の範疇にある。技の切れや瞬間的な判断力、そのような所で自分たちが負けているのだなと、見ていて分かるのだ。見ていて分かっても実際にはできないのが、実力の差だ。
 しかしノーマと撃ち合っていると、まずどこで負けているのか分からない。技に関しては基本など全く無視しているように見える。ほとんど棒立ちのような姿勢から不意に鋭い一撃を繰り出し、あるいは崩れた姿勢のまま軽々と防御する。判断力に関しては、もう頭の中身を読まれているとしか思えない。打ち込もうとするともうそこから逃げているか既に防御が待っているし、相手の攻撃をかわそうとするとその先に剣が突き出される。当然、何をどうして良いのかさえ分からなかった。
「剣術の定石で相手の動きを読もうとするな。今度の相手にはそんなもの全く通用しないぞ」
「勘に頼らず相手の動きを良く見るんだ。君程度の経験では、勘は信用できない」
「疲れで足もとの注意が散漫になっている。それでは不意の攻撃に対応できないぞ」
「自分の間合いに詰めようとするのはいいが、しかしその意図が見え過ぎる。こちらはそれを読むことができるぞ」
「牽制やフェイントに手を抜かない。下手な動作はつけいる隙につながる」
「攻撃の型が単調になってきている。知っているのはそれだけではないだろう」
 しかしノーマにはそれが見えている。激しく撃ちかかられているはずであるのに恐ろしいほど冷静にタンジェスの動きを観察し、その欠点を一つ一つ指摘して行く。タンジェスも自分の剣術が完璧だなどとは思っていないが、ここまで言われたのは士官学校入学当初以来だった。学生の中では基本的に、武術は良くできる部類に入る。しかしここで要求されている水準ははるかに高い。全くついていくことができなかった。
 心身ともに疲労だけが蓄積されて行く。手など抜いた瞬間に見破られてしまうだろうから全力を出しており、当然体力を消耗する。それに一撃一撃を確かなものにしようとする集中、更に圧倒的な速さを誇る相手の攻撃に対する警戒が、精神力を削り取って行くのだ。
「くっ…」
 やがて体力が限界に達する。ここで何とかしなければならないと気力を振り絞ろうとも、それだけでどうにかなるほど剣術は甘い物ではない。着実に蓄積される疲労が、動作を鈍らせていた。
「ここまでか」
 ノーマが剣を小さく、しかし鋭く動かす。ただそれだけで、タンジェスの剣はあっけなく弾き飛ばされた。更に精密な動きで、それが喉元に伸びる。剣先が丁度肌を撫でる位置で、止まっていた。一瞬の静寂、そしてタンジェスの木剣が落ちる乾いた音がそれを破る。ノーマはそれから剣を引いた。
「はあ…はあ…はあ…」
 自分の呼吸と、心臓の鼓動が嫌に大きく感じられる。利き腕が痺れ、足もふらつきを抑えるのがやっとだ。
「水を汲んでくるよ」
 そう言うノーマの声は、既に普段の柔らかさを取り戻している。あの威圧感もまるでそもそも存在しなかったかのように霧消した。汗をかいた様子すらない。しかし今更凄いと思う感性も、タンジェスには残されていなかった。
 ノーマが一時この場を離れて、一人練武場に残される。弾き飛ばされた木剣との距離が、妙に遠く感じられた。無様に小さくなって転がっている。まるで俺自身だな、とタンジェスは内心でつぶやいた。
「はい」
 どうやら時間の経つのも忘れてそれを見ていたらしい。気がつくと、ノーマが水をたたえた椀を差し出していた。
「ありがとうございます」
 井戸で汲んできたばかりらしい、冷たい水を一息で飲み干す。それで体は落ちついてきたが、しかし精神は波立ったままだ。苦笑しながら、ノーマが声をかける。
「不機嫌そうだね」
「それはまあ」
「君は良くやったよ。体力的にも技術的にも基礎がしっかりできているし、それを活かす勘もある。大概の欠点は経験が解決してくれるだろう。さっきは成り行きから厳しいことを言ったけれどね」
 少し長めの前髪が目に落ちかかろうとする。それを手で払いながら、ノーマは笑って見せた。しかしタンジェスは吐き捨てる。
「その経験をつむ機会が、俺にはもうないんですよ!」
 ノーマがはっとして目を見開く。その悪意の全くないような表情を見て、タンジェスは自分が嫌になった。所詮力の及ばなかった自分が悪いのだ。機会を与えようとしてくれた期待も裏切ってしまった。それで苛立ちを叩き付けるのは、理不尽、恩知らずと言う他ない。
「…済みません」
 素直に謝ったが、ノーマはそれより更に頭を下げた。
「いや、私のほうこそ済まない事をした」
「いえ、元はと言えば俺が…」
 もう一度自分の非を認めようとするのを、ノーマが慌てて制する。
「本当に私が悪いんだ! すっかり忘れていた」
「…何をです?」
「その…例の魔術師、人形と戦う機会を譲る条件として君の実力を試させてもらうと言った事をね」
 物凄く済まなさそうに弁明する。彼の基本的な人の良さを示すものであったが、タンジェスは力一杯怒鳴った。これはノーマが悪い。
「どうしてそんな大事な事を忘れられるんですか! こっちにとっては将来がかかっているんですよ!」
「ごめん…教えるのに集中しすぎてしまったようだ」
「まったく…」
 気が抜けたら立っているのも億劫になった。そのままその場に座り込む。そしてようやく自分が汚名を返上する大きなチャンスを与えられただけでなく、王国有数の剣士から一対一で剣術を教わることができたのだと気がついた。しかし今礼を言うのはあまりにも気まずい。
 幸い、ノーマの方が話題を変えてくれた。彼は彼で気まずい。
「さて、それでは少し休んだら具体的な話に入るとしよう。書斎に一通り必要な資料が揃えてあるから、そこでね」
「分かりました」
 ノーマは少し休んだらと言ったが、しかし疲労と打撃をある程度回復させるにはしばらく時間が必要だった。気を張っているうちは気がつかない分が、凄まじい量に達している。タンジェスは雑談でもしてその時間を埋める事にした。
「所でノーマ卿、弟子をお取りになろうとは考えないのですか」
 実力は確かだし、教える事に関しては熱中するほど好きなようだ。時間がないのかと思ったが、こうして何かの拍子で暇になってしまうこともあるように思える。帰って来たのは、意外な返答だった。
「うん…研究する時間が欲しいからね」
「それだけ強くてまだ足りないんですか」
 呆れた顔を作ると、相手は苦笑を返す。
「まあそれが最大の理由だが。それにこの剣術は普通ではないからね。一人の天才が数多くの敵を葬った過程で編み出された強力な戦闘術、それがこの流派だ。本来あの方以外に扱える代物ではない。あの方は教えることにかけても天才だから私はその何分の一かを受け継ぐことができたが、しかしこれをそのまま次の世代に受け渡せるとは思えない。私がこの体で覚えている事のまた何分の一かを後世に伝えるためには、やはり相当の研究が必要だと思うんだ。だから今のように短時間教える事はあっても、弟子を取る気はない」
「そうしないと残らないものでしょうか」
 やたら人を殺すのが良いことだとは、もちろんタンジェスも思っていない。人が死なずに済むのならそれに越したことはない。しかし最強を謳われたものがそのままでは存続しないとは、何となくもったいない気もする。
「多分ね。時代は変わった。剣術も変革を免れないだろう。文官達の中には剣術の時代は終わったと言う者も少なくない。私はこれが全く不用になる事はあり得ないとは思うが、しかし同時に自分の手を汚すのは我々で終わればいいとも思っているよ。君達若い世代には、もっと別の騎士としてのあり方を模索して欲しい」
「もっと別の…?」
「うん。陛下や私の師匠、そして他多くの騎士達は剣によってこの平和を切り開いて来られた。私はその仕上げをしていると考えている。そうして作られた平和を守って行くのが君達の仕事だと思う。それが我々のやっていることと同じになるのか、あるいはより良いあり方があるのか、そこまでは見えて来ないけれどね」
「…………」
 にわかに返答はできないし、そうすべきでもないとタンジェスには思える。ノーマも別に、今答えを求めてはいなかった。
「今回問題になっている魔術師もそうだ。非常に優秀な、この国の将来を担えるだけの才能を持っている。それをどろどろとした憎悪によって潰して欲しくはない。何とか助けて欲しい」
「助けられるものなんですか」
 研鑚所の職員が逃亡した時点で状況は相当に悪い。しかも危険な代物を持ち出し、明らかな犯行の意図を有している。資格の剥奪くらい当たり前だろう。タンジェスが遭遇戦で敗北した結果停学を受けたように、王立施設の規律はかなり厳しい。
「ことここに至った事情には情状を酌量する余地が十分にあるし、ファルラスどのがジアルとサムールの両家に減刑の嘆願書を出させる約束を取り付けてくれた。その上で私が陛下に直接申し上げる。最終的な判断はあの方が下すことになるが、話の分からぬ方では決してないからこれで何とかなるだろう。後は宗教界から余計な横槍さえ入らなければ…」
「無期限で出勤停止、とか」
 何となく親近感を覚えてしまうタンジェスだった。
「そうだね。その辺りで折り合いをつけたい。しかしそれも人死にが出なければの話だ。状況が状況だから過失致死は絶対にない。陛下の治世で魔術師が裁かれることは初めてになるが、甘い判断を下せばあらゆる方面からの反発は必至だ。処刑して更に研鑚所所長の責任を問うくらいはしなければならない」
「分かりました。何とか努力してみますよ」
「よろしく頼む。さ、そろそろ行くとしようか」
「はい」
 多少まだふらついたが、それでも何とかタンジェスはノーマについて歩き出した。
「しかしさっきからちょっと気になっていたんですけれど…」
「何か?」
「例の人形って相当でかいんですよね」
「うん。とりあえずこの廊下には入り切らないだろう」
「それがその辺をうろうろしていて、普通なら見つからないとはどうしても思えないんですけれど。例えどこかに隠していたとしても、それまでに絶対誰かに見られているはずです。何か魔術でも使っているんでしょうか」
 常識で考えてその大きさのしかも異様な物体が歩いていたら、絶対に噂になる。ここは人里離れた山奥ではないのだ。人口百万を要する大陸最大の都市である。例え夜中と言えども人通りが絶えない。目撃者は少なくないはずだ。それがないとなると、特殊な状況を疑わざるを得ない。姿を消してしまう魔術があるとなると、戦う場合には相当に厄介だ。
「うん、いい質問だね。魔術の可能性も否定はできないが、しかしそれはそう高くはない。幻術の類は魔術の中でも比較的難易度の高い術なんだそうだ。それも空気や光を扱う技術に長けていなければならない。鉱物の加工などを専門とする錬金術師であるストリアスが、その術を使って人形を隠しおおせるとは考えにくい」
「すると何かもっと別な手段ですか。うーん…何かの荷物に隠して運べるような大きさじゃないですし、一体…」
「タンジェス、君はこの王都で生活しているのは大体一年と少しくらいかな?」
「え…? あ、はい。士官学校に入学してからですからそんなものです。それが何か」
「ならもう少しここに詳しくなった方がいいよ。士官ならそういう戦術眼も要求される。考えてみるんだ。道以外にもこの王都には大きな運送手段がある。それも他の町にはない特徴としてね」
「…用水と運河!」
 戦術理論の授業で聞いた事がある。この王都の最大の特徴はその人口の巨大さにあるが、そこから派生して、あるいはそれを支える要因として様々な特徴がある。その一つが人口流水の多さだ。
 百万の人間が必要とする水を自然の水系だけでまかなうことはできない。ここは元来多くの人間が集まる事が想定された計画都市であるから、それを補うために多くの用水が整えられているのだ。更に水以外の物資も必要量は膨大になる。それを供給するには水運が効率的で、そのために南にある大河にまでつながる運河が造られ、その支流も多い。つまりこの王都は水上都市としての側面を備えている。
「…って、もしかしてその人形って、泳ぐんですか」
 物凄く恐い光景を想像してしまった。とりあえず現物を見ていないので、タンジェスの魔術人形に対するイメージはまだ飾り人形から完全には離れていない。着飾った巨大な人形が平泳ぎで運河を泳いでいる、そんな光景が頭の中で回ってしまっていた。それじゃ却って目立つだろうが、と内心で否定する余力もない。
「沈むよ」
 とりあえずノーマが冷静に指摘してくれた。それでどうにか、タンジェスも通常に戻る。
「あ、そうか。別に息をしなくてもいいんですね、人形だから」
「うん。川底を歩いて行けばいい。夜中に水深のある水路を使えば、そう簡単には見つからないだろう。その脇で人が一人ゆっくり歩いていたとしても、誰も気に留めはしない。だから今は川沿いで潜伏できそうな場所の捜索をさせているが、この王都ではそれも簡単ではないよ。条件に合う場所がいくつあるのか、それさえも分からない」
「なるほど…」
「さて、ここが書斎だ。とりあえず地図から見るとしよう」
 案内された部屋は書棚、机の他に置物があったり花が生けられていたりと、色々と物がある割には良く片付いて見える。持ち主の几帳面さが感じられる場所だ。書斎につきものの年より臭い雰囲気もなく、若い主もすんなりとその一角に納まる。彼は引き出しから大きな地図を取り出して机の上に広げた。士官学校でも授業で使われる精密な軍用地図だが、タンジェスの見慣れた使い古しの物と違い、こちらは新品に近い。ただ、各所に印がつけられたり線が引かれたりしていた。
「ここが魔術研鑚所、ストリアスはこの裏手の水路から人形を運び出したと推測されている。濃い青で塗ってあるのはあれが通れると考えられる、比較的広い水路だ」
「それだけでもずいぶんありますね…。ええと、ジアル商会はこの印ですか。幸いここはそこまで水路に近くはないですね」
「うん。花婿側のサムール商会はここ、ここも周辺に大きな水路はない。問題は式を予定しているアナクレア神殿、ここだ」
「よりにもよって水路の合流点が…」
 思わずうめく。赤い印のつけられた場所のすぐそばで、濃い青の線が交わって一つになっている。
「そう。これでストリアスは任意に上陸点を選択する事ができる。聖堂以外で待ち伏せをしたのでは空振りになる危険が大きい」
「どうしてもその場で何とかするしかないようですね…」
「そうだね。それでこちらが聖堂の見取り図。式の進行状況によって多少異なるだろうが、大体各人の配置はこんなものになるそうだ」
 入り口から奥へ向かって招待客が並ぶ。最奥に祭壇。司祭を務める神官、新郎新婦、その肉親ら重要人物は基本的にその周辺だ。
「奥側からの襲撃はないでしょうね。こっちには神官の居住区や研究室がありますから。いくらあの人形に破壊力があるとは言っても、それが壁になります」
「左右からの攻撃も考えにくい。ここを破ってしまうと内部、特に奥の人間に危険が及ぶ。もっともこれは、彼が花嫁の無傷での強奪を目的としている事を前提にしていればの話だが」
「…それに賭けてみてもいいような気がします」
「正直な所、私には分からないな。彼は何にせよ、彼女に裏切られたんだ。殺意がないと何故言い切れる」
「何となく、ですよ。強いて理由を挙げるなら、彼女を信じていなければ彼はこういう行動に出なかったと思います」
 自分が理屈の通っていないことを言っているとは分かっている。ノーマの意見の方が明らかに理にかなっている。それでもタンジェスは自分の勘を押し通した。この人はまだ、恋を知らない。異常としか言いようのない戦闘力を始めとする非常に高い能力を有しているが、それとこれとは関係のないことだ。
「…そうか。まあいい。どうせ私は君に賭けたんだ。その部分だけ乗らないという話もないだろう。とすれば彼が襲撃するのは正面入り口部分、ここは例の人形が入れる大きさではないから、恐らく破ってくる。内部に入ってしまえば高さも広さも十分にあるから、かなり自由に動くだろう」
 ノーマもあっさり折れた。恐らく他の人間からタンジェスが考えたのと同じようなことを指摘されたのだろう。
「派手な登場ですね。式の最中にどん、って。入り口を破って巨大な人形と魔術師が花嫁を奪還するために現れる」
「地味に登場される方が恐いよ。いつの間にか参列者の中にストリアスが混じっていたら、全く洒落にもならない」
「…その可能性は?」
「君達が気をつけてさえいればないに等しい。場所は神殿だ。多少の魔術を妨害する作用がある。人相風体、背格好さえ分かっていれば見破れる。この際最も警戒すべきは正面突破だよ。彼等にはそれだけの戦力がある。さて、君ならどうする」
「…狙撃ですね。正面から攻撃力を争ったのでは勝つのは難しくなりますが、奴は恐らく花嫁しか見ていないはずです。こちらが身を隠して、側面から矢を射掛ければ何とかなるでしょう」
「参列者の全員に目を配る余裕はないだろうな、確かに。物陰から射落とすのが一番確実だ。君の弓術の腕前は?」
「この前基礎弓術の成績は優でしたよ。この距離なら外しはしません」
「それは心強いな」
「所で弓術を使うだけならさっき剣術の腕を試した理由は一体何なんでしょうか」
「…で、例の人形の具体的な能力だが…」
 かなり強引に誤魔化されてしまった。追及すればかなり困らせる事ができただろうが、この際止める事にする。この人は、基本的に嘘をついたり言い訳をしたりするのが下手なのだ。
 ノーマの説明によると、魔術人形は石に似た物質から構成されており、普通の剣で破壊する事は難しい。「似た物質」とは魔術で変成されているため通常の観念では説明できない、とのことである。生身ではない人形であるだけに片腕一本落としたくらいではその戦闘力が減殺される事はない、しかし脚部を破壊すればその動きを止める事ができるのは生身の人間と同じである…などという話になる。
 ミュートから聞いた「他にない能力」に関しては、ノーマも知らないとの事だった。彼もかなり念入りに研鑚所の他の職員から調査を行ったのだが、結局ストリアス本人しか分からないことらしい。資料の類も全く残されておらず、破棄されるか持ち去られるかの状態だ。
「…やはり正面からの戦闘は極力回避すべきでしょうけれど、しょうがない場合は懐に飛び込むしかないですね」
「うん。小回りが効かないから基本的にはそれでいいが、しかし攻撃は関節部を狙って行かないと効果がない。それ以外の部分は何しろ石のようなものだからね。間接部ならさすがに剣も通用するはずだ。高さから考えると膝裏か股関節だろう。あとはロープでも引っ掛けてやれば転倒させられるかも知れないが、しかし何しろ力がある。引き千切られる可能性も考えなければならない」
「いっそ落とし穴を仕掛けるとかできればいいんですけれどね」
「それは当たれば大きいけれど、外すと情けないよ。何しろ大きな物が必要になる。そこまで労力をかけて無駄になったら虚し過ぎる」
「ですねえ…。あ、とりあえず式場の下見をしなきゃならないですね。最低限狙撃点は決めておかなければなりませんし」
「そうするといい。その辺りの手筈はファルラスどのがつけてくれているから、あの人の名前を出せば自由に見学できる」
「準備万端ですね」
「我々も遊んでいた訳ではないからね。後はその日を待つだけだよ。まあ、ただ待っているだけではなく引き続き捜索もさせるけれど。そうだ、弓を使うにしても、その用意はあるのかな」
「さすがに持ち歩いている訳じゃないですけど、寮に学校から支給されたのが置いてありますよ。停学でも別に部屋の出入りが制限されている訳じゃないですし」
「あれか…さすがに王立学校に粗悪品を納入させるほど教官たちの目も節穴ではないが、しかし大量に必要になるし予算の都合もあるからね。品質は推して知るべしだろう。ここにある物で気に入ったのがあれば持って行くといい」
「ありがとうございます。でもよろしいんですか?」
「構わないよ。私が持っていても宝の持ち腐れだ。何しろ弓術が得意ではないのでね。武具の類は色々な機会でいただくのだけれど、正直な所使いはしないんだ」
 この人は王国有数の剣士だ。変に他の武術に手を出すよりは剣術を極める方が効率が良いのだろうと納得した。
「じゃあ遠慮なく」
 実際遠慮している余裕など今の自分には全くない。最大限好意に甘えるべきだ。
 そうして一通り戦術についての話を詰めた後、タンジェスは言われた通り弓を借り出した。華麗な装飾が施されたもの、地味ながら高名な職人の手によるものなど、色々とあったのだが選んだのはごく地味な短い弓である。
 材質や職人の腕、手入れによる差などがあるものの、概して弓は長い方が威力、精度、射程に優れている。騎士が通常使うのも身長ほどもある長弓で、タンジェスがこれまで使って来たのもその類のものだ。それでも短い弓を選んだのは、使う状況を考えたからである。
 使う場所は恐らく屋内、つまり目標と自分との距離がさほどなく、命中精度も射程もそれほど長い必要はない。一瞬で相手に気づかれないだけの距離さえ稼げれば良いのだ。それにそもそも長弓のは戦場で鎧を着た人間を狙い撃つか、あるいは屈強な獣の類の狩猟に使うことが前提とされている。今回の敵は魔術師、恐らく鎧など着ていないだろう。何しろ重量があるので、ある程度体力のある人間でないと着ているだけで疲労してしまう。つまり生身の人間相手にそこまで強力なものを用意する必要がない。
 後は取り回しの問題である。隠れての待ち伏せを考えているのだから長すぎると邪魔になるし、発見されるおそれもある。それに長弓は長剣以上に目立って物々しいのだ。持ち歩いていると注目されること請け合いである。式の前日まではタンジェスもそれを持って捜索を行うつもりなので、そのような事態は避けたかった。短弓なら何かにくるんでおけば何とかごまかす事もできる。
 しかし使い慣れない物なので、とりあえず試し撃ちをさせてもらう。それである程度感覚をつかんでから、練習用も含めて多めに矢を借り受けた。結局サイエンフォート邸を辞去するまでかなり時間がかかってしまった。
 玄関先で、見送ろうとするノーマにひとまず深く頭を下げる。
「今日は何から何まで、ありがとうございました」
「いや、どうせ待機しているだけだから、退屈していた所だよ。そんなにかしこまられると却って居心地が悪い」
「そう言っていただけるとありがたいです」
「ん…他に何か、私で力になれることがあれば何でも言うといい。最良の環境を整えるのも仕事を任せる側の役目だからね」
「はい。それでは遠慮なく」
 しかしファルラスにも今朝似たような事を言われたのだが、今の所必要と思われることは特にない。そろそろ辞去の挨拶をしようとして、ふとある事を思いついた。
「一つ関係ない事なんですけれど、構いませんか」
「なに?」
「あの男の行方はつかめていませんか、やはり」
「あの男とは?」
「俺達が出会うきっかけになった、例の人殺しですよ」
 それほど日数は経っていないはずだが、しかしずいぶんと昔の事のような気がする。そのくせ記憶は痛いほど鮮明だ。その殺人現場に出くわさなければ今ごろこうしてノーマと話をすることもなかっただろうし、そもそも人形退治に参加もしなかったはずだ。それまで同様、士官学校の授業を受けていただろう。
 そうしてノーマの顔に浮かんだのは、見慣れない表情だった。普段の優しげな微笑でもなく、あるいは先程の戦士としての顔でもない。同情と、そしてタンジェスには不分明なそれ以外の何か。
「今はストリアスの捜索で手一杯だから何も手がかりはない。しかしもしあったとしても、教える事はできないよ」
「なぜですか」
「今度こそ命がない。重大な問題だからはっきり言うけれど、君の勝てる相手ではないよ。例えこの先何年か修行を積んだとしても、私には君が勝つ保証はできない」
 ノーマ自身もその場で男と剣を交えている。そして結局取り逃がしてしまった。剣撃の最中に背を向けて逃げ出す一瞬は、通常大きな隙になる。それをノーマほどの相手に対して無傷で行った男の実力たるや相当なものだ。警告の意味を込めて、ノーマに遠慮はない。
「もし何かのきっかけで男の正体が分かったとしても、戦ってはいけない。悔しいだろうが、その気持ちだけで命を無駄にすることが正しいとは、私にはどうしても思えない」
「…………」
 勝てない相手であることは、言われるまでもなくタンジェス自身が誰よりも承知している。連れの人間が攻撃されて倒れているあの状況、頭に血が上っていなければ男自身の警告に従って剣を引いていただろう。しかし理性でその理屈が分かってなお、得体の知れない犯罪者に完敗し、停学の憂き目にあわされた事実がその精神に重くのしかかる。歯噛みする少年の肩を、ノーマは軽く叩いた。
「ストリアスの件は今回君に譲ったんだ。あの男に関しては私に譲ってはもらえないだろうか。私としてもああして剣を交えた以上、機会があるなら決着はつけておきたいしね」
「…分かりました。言いたい事ばかり言って、申し訳ありません」
「いや、いいんだ。分かってくれるならね」
「ありがとうございます。それでは俺はこれで」
「うん」
 玄関の扉を開けると、門の脇の所に人がたたずんでいるのが見えた。少し背の高い、髪を短くした女性だ。相手はこちらの姿を認めると頭を下げる。
「あ、エレーナさん」
 魔術研鑚所を訪問する際の案内役として、エレーナがここに迎えに来る手筈になっていた。彼女が来ないので色々とやっていた部分もあったのだが、どうやらそこで待っていたらしい。
「お迎えに上がりました、タンジェスさん。ノーマ卿、今日は御機嫌麗しく…」
 待っていたことに関する疲労も不満も全く見せず、淡々とした挨拶をする。有能で信頼できる、しかしその分少し冷たい印象を与える女性だ。
「いらしていたのならそうおっしゃってくれれば良かったのに。大したおもてなしができる訳でもありませんが、中でお待ちいただけたらお茶の一杯でもお出ししたものを。そう遠慮なさらないで下さい」
 対照的に、ノーマはにこやかに応対する。それでもエレーナはもう一度頭を下げた。
「いえ、丁度わたくしもここへうかがった所でしたので。お気遣いはありがたく存じます。所で主人は奥に居りますでしょうか」
「いや、それが…」
 ノーマの視線を受けて、タンジェスは事情を説明した。
「ジアル商会で予定外に時間を食ってしまって、他にも約束があるとかで途中で別れたんです。研鑚所には俺と二人で行って欲しいとの事です」
 特に考える時間も必要なく、エレーナはこの場を処理し始めた。
「左様ですか。かしこまりました。それではタンジェスさん、よろしければこれからすぐに研鑚所に向かおうと思うのですが」
「はい。じゃ、これで失礼します。今日はお世話になりました」
「失礼致します」
「はい。タンジェスもエレーナどのも、何かあれば遠慮なくここをお尋ね下さい。私はあなた方を友人だと心得ておりますから」
 ノーマは主にエレーナに向けて声をかけている。女性に対しても別に普通に話ができるじゃないか、とタンジェスは思ったが、それも一瞬の事だった。良く見るとさりげなく、しかし確実に距離を取っている。自分と話をするときよりも明らかに遠い。どうやら本当に女性の相手は苦手であるらしかった。
 振られて憎悪をたぎらせる人がいるかと思えば、ここまでもてる条件が揃っていながら女性が苦手な男もいる。世の中そんなものだと肩をすくめながら、タンジェスはその場を立ち去った。エレーナと一緒に長居すると、ノーマが可愛そうだ。

続く


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