王都人形騒乱録
X 学生の過去とそれに関するある女性の意見


 午後遅くの王都を歩く。太陽は夕刻のそれに落ちかかる寸前で踏みとどまり、柔らかな光で風景を包んでいる。大都市としての活気と古都としての静けさ、その両面を併せ持つこの町は、大陸で最も美しいと称される。初めてここに足を踏み入れた時、タンジェスはその大きさ、活気にばかり目を奪われたものだ。
 しかし今、こうして落ちついて眺めていると、漠然とではあるがその美しさのもう一つの理由が分かる気がする。もっともそんなものを分かりきってしまうほど自分は成熟しても、あるいは老いてもいないと承知しているつもりだ。
 傍らには中々に美しい女性が歩いている。髪をやや短くし、着ているのも活動的だが、その分むしろ顔つき、体つきがはっきりする。実はその双方に自信があるのかもしれない。彫刻的な美貌、手足が長く、引き締まっている。身長は少し高めだ。確かに自信を持つ方が自然かもしれない。
 景色もいい事だし、ここは一ついい雰囲気にでも…などとは間違っても考えてはいけないな、とタンジェスは自問自答した。別に嫌っている訳ではない。近寄りがたい美しさと呼べるものが確かにあると、彼女は無言のうちに教えてくれる。茜商会の手代、エレーナとはそういう人だ。
 緻密な処理能力、決して損なわれる事のない礼儀、雇い主に対しても遠慮なく直言する度胸、そして容貌、その一つ一つが、そしてそれらの総体が常に完璧という言葉を思い起こさせる。誰もが十分な敬意を払う、しかし一方で親しみやすい人ではない事も確かだろう。
 恋人と言えるような相手はいないように思える。とりあえず見たことはない。隠しているとしたらまず他人には分からないだろうが、その可能性は低いように感じられる。何しろいると言われても、想像できない。ノーマとは別の意味になるが、顔が良ければ良いというものでもないのだ。
 自分が今少々下世話な事を考えているとの自覚はあるのだが、タンジェスはこの際開き直っていた。状況が状況だ。詰まる所今の自分が関わっているのは三角関係の後始末だ。当事者の一人が普通の人間でなかったために事態が大きくなっているが、しかしその原因は高尚とはとても言えないだろう。この際状況が悪いことにしている。
「タンジェス様、まずお詫びしなければならない事がございます」
 その考えを知ってか知らずか、エレーナはいつもの生真面目さで話しかけてきた。しかも言葉遣いが非常に丁寧なので、何か物凄く重大な用件のように聞こえる。
「はい、なんでしょう」
 しかしあまり身構えることなく、タンジェスは聞き返した。この相手の調子に完全に合わせてしまうと、少なくとも自分が疲れてしまう。不真面目にするつもりはないにせよ、自分にその気がないのなら多少肩の力を抜いておくのが得策だ、とタンジェスはファルラスから学んでいた。
「魔術研鑚所への訪問なのですが、先方のご都合で夕刻ということになっております。ですからだいぶ時間がございます」
 実際聞いてみるとそんなに大したことではない。元々本人としては普通に話しているつもりなのだろう。タンジェスは気楽に返した。
「エレーナさんが謝る事じゃないですよ。しかしそれにしては、さっきは少し急いでいるようでしたが」
 基本的に無意味な事をする人ではない。その理由を、彼女はこう説明した。
「それはあの方のお宅でしたから。わたくしがいては御迷惑でしょう」
「あ、知ってたんですか」
「知っていた…と言うより、御様子を拝見していればすぐに分かります」
 確かにそうだろう。会うたびに緊張されたのでは、普通異常さに気がつく。エレーナも立派な女性だ。
「そうですね。それで、魔術研鑚所ってどのあたりにあるんですか?」
 話を蒸し返しても彼に悪いので、とりあえず本題に入ることにした。
「あちらです。ここからだともうしばらく歩かなければなりませんが」
「具体的にどこの近くだとか、分かりますか」
「高級服のレドワース商店が近くにございます。他には…」
「ああ、はいはい、大体分かりますよ。あの辺にはちょっと行ったことがあるもので」
 頭の中の地図で自分の関わっている場所の位置関係を検討する。得られた結論は、あまりかんばしいものではなかった。
「茜商会とは完全に逆ですね。元々近い訳じゃないですし、一度戻って休もうとしても却って疲れたりして」
「ええ。わたくしもそのように考えていた所です。どこか適当な所で時間を潰そうと思うのですが、タンジェス様に何かお考えがあればうかがいたく存じます」
「そうですねえ…」
 地理を再検討してみる。ふとある風景が、脳裏をよぎった。
「…エレーナさん、甘い物はお好きですか」
「ええ」
 エレーナはいつもながら、あまり表情を変えずに答えた。実は甘いものに目がないのか、それとも言葉通りなのか、あるいは嫌いなのだが社交辞令として言わないのか、タンジェスにはさっぱり分からない。しかしこの際、それは気にしない事にした。
「少し寄り道になりますけれど、友人曰く王都一お菓子のおいしいお店、の心当たりがあります。そこでいいですかね」
「はい。それは楽しみです」
「じゃ、こっちです」
 とりあえず知っている通りに出るべく、タンジェスは歩き出した。

 冬楓亭が王都一お菓子のおいしいお店かどうか、実際タンジェスは良く知らない。他で食べたことがほとんどないからだ。少なくとも近所での評判は良い小さな店、それが菓子店冬楓亭である。そもそも良し悪しがきちんと分かるほど、舌が肥えてもいない。ただ、店先のテーブルで焼き立ての菓子を食べながら道行く人を眺めているのは、何となく好きだった。
「あ、それでなんですけれどね、この近所に知り合いの家がありまして、ちょっと寄って来ていいですか。ここの払いは俺が持ちますから」
 エレーナを座らせてからそう切り出す。彼女は淡々と答えただけだった。
「どうかお気遣いなく。待つ事を苦痛と感じない性質ですので。それにわたくしは、旦那様より十分な給金をいただいております。失礼ながら、タンジェス様より自由になる金銭は多いと存じます」
 実にはっきりとものを言う人だし、実際彼女の言う通りである。最近は何をしようとも思わなかったので金銭に困ってはいなかったのだが、しかしちょっと出かければすぐに厳しくなる。この際あまり見栄を張らない方が身のためである。
「じゃあ…まあ、詳しい話は後で。すぐに戻って来ますから」
「ごゆっくりどうぞ」
 深々と頭を下げられるのを気まずく感じながら、タンジェスはひとまずその場を後にした。
 そして、実際すぐに戻って来た。エレーナの前には焼き菓子が一皿、それにお茶が置かれて湯気を立てている。
「どうもお待たせしました」
「いえ、全く。注文したものが先程来た所ですから。タンジェス様も何かお食べになるのでしょう」
「そうですね…」
 見慣れた品書きに一応目を通し、結局いつものものを注文する。注文を受けた女給がひとまず奥に引っ込んだ所で、エレーナが不意に口を開いた。
「それで、リアンゼ様にはお会いになれましたか?」
「…………」
 これまで会話の中には一度として出てこなかった名だ。少なくともタンジェスが口に出した覚えは絶対にない。しかしエレーナは、愕然とする彼に対して正面から告げた。
「失礼とは存じましたが、タンジェス様のことは多少調べさせていただきました。素性の知れない方を商会にお泊めしたり、仕事をお願いすることは致しかねますので。例えおっしゃらないことでも、調べればすぐに分かります」
「…そうですか」
 勝手に調べられたという不快感はなかった。そんな神経はとうに麻痺している。

 タンジェスが冬楓亭の近くにある商家の娘、リアンゼと出会ったのは数ヶ月前になる。士官学校の生活にも多少慣れてきて、周囲に目が行くようになった、丁度その頃だ。起源が何かも良く分からない古い祭りの夜、観光がてら学友達とそれを見物に行ったときのことである。
 良く言えば積極的な、悪く言えば女好きの学友の一人が丁度自分たちと同じ人数の女の子の集団に目をつけ、声をかけた。別段運命的な出会いでもない。その中で何となく、タンジェスはリアンゼと話をするようになり、去り際にはまた会う約束を取り付けた。
 その他の学友たちは結局見事に振られるか元々好みの相手がいなかったかで、祭りの夜以後も交際が続いたのはタンジェスのみだった。おかげで周囲からは冷やかされるだけ冷やかされたが、それでも自分なりに頑張った。そういうことに詳しい人間から雰囲気のいい場所を聞き出して彼女を連れて行ったり、少ない金をやりくりしながら贈り物をしたりしたものだ。
 自分としてはいい雰囲気で交際が続いていたと思っていた。実際他人の心境など究極的には分かるものではないが、しかし少なくとも不穏な兆候など微塵もなかった。次第に打ち解けて、色々な側面が見えてくる。第一印象は大人しそうな感じであったが、やがて明るく、活発な面も見られるようになった。そしてその全てを、タンジェスはいとおしく思えていた。
 そんな関係がごく脆いものである事を、その時は全く考えもしなかった。
 彼女を誘って芝居見物に行き、少し遅くなったので家まで送り届けようとした、その途中の事だ。ふと異様な気配を感じて横道を覗き込むと、そこには二人の人物がいた。立っている一人が、横たわるもう一人の胸から剣を引きぬいている所だった。
 静けさに包まれた夜の住宅街で、その光景はあまりに異様だった。噴き出る血も、かすかな断末魔のうめきも、先刻見た芝居よりも現実感を欠いている。そして殺人を目撃された男の反応も、また通常の感覚からはかけ離れていた。
「やれやれ、現場を押さえられるとは、俺もやきが回ったものだな」
 覆面から漏れ出るその声には、一片の動揺も含まれていない。人一人の命を奪うなど、ごく些細なことのようだ。そしてタンジェスらの存在を全く意に介していないかのように、背を向けて歩き出そうとする。
「待て!」
 タンジェスは抜剣していた。それが騎士を目指すものとして当然であると思えたし、たかが犯罪者相手に負けるはずがないという自信もあった。そして彼女にいい所を見せようとした部分も、否定はできない。
「タンジェス…」
 呼びかける声には不安と信頼が混在している。つまり、この場でそれがいかに無謀な行為であるかを知っていたのは、敵手たる男だけだった。
「待てと言われて待つ人間も珍しいだろうな、こういう状況で」
 淡々とふざけているとでも言えばいいのか、そんな声を発しながら覆面の男はゆっくりと振りかえる。神経を逆なでされながらも、タンジェスは宣告した。
「剣を捨てろ!」
「その勇気と正義感は賞賛に値するが、しかし愚かだな。余りある寿命を無駄にする事もあるまい」
「何だと!」
「戦場の恐怖も知らずに戦おうとするな。取り返しのつかない事になるぞ」
「偉そうにごちゃごちゃと、大人しくしろ!」
 そして次の瞬間、「取り返しのつかない事」は現実のものになっていた。斬りかかったタンジェスに対し、男はそれを軽々とかわして脇を抜けていた。立ち尽くすリアンゼの元へと。そしてその細い首筋に、血塗れた剣が撃ち込まれた。元から命などない人形のように、彼女の体が崩れ落ちる。怒りに我を忘れたタンジェスは、男の再三の警告を無視して斬りかかり、破れた。
 しかしその時、彼女は生きていたのである。重傷を負ってさえもいなかった。男が使ったのは剣の刃ではなく平の部分、頚部に衝撃を与え、気絶させただけだったのだ。後で聞いた話になるが、わずかなあざができただけの、信じられないほど正確な剣さばきであったと言う。当然、今も生きている。
 夜のことであり、また剣についていた最初の犠牲者の血が飛び散って斬られたように見えたとは言え、タンジェスの失敗はあまりに大きかった。負傷した彼女を捨て置いて、相手の力量も見極められないまま斬りかかって行ったのだから。そもそも送って行こうとした以上、まず彼女の安全を第一にする義務があった。そして夜中に人殺しをするような無法者が相手である以上、戦えば彼女に危害が及ぶ事も十分に考えられることだった。
 以上の状況を考慮した上で士官学校が下した処分が、停学である。教官に呼び出されて色々と追及されたため、詮索されるのに関しては慣れてしまっているのだ。
 ファルラスやノーマは相手が悪かったのだから重過ぎる処置だと考えているが、しかしタンジェス自身は一面で納得してもいる。誰よりもまず、自分で自分を責めているのだから。納得がいかなければ茜商会ででくすぶってはいなかっただろう。そしてもし、彼女が命を落としていれば、停学も何も関係なく今もあの男を追っていたに違いない。ノーマの制止も聞きはしなかっただろう。
 今も騎士としての自分の適性には自信を持ててはいない。しかし夢をあきらめる事もできずに、こうして復学への努力を続けている。ファルラスやノーマがいなければ、まだ迷っているだけだったかもしれない。その過程での、エレーナの一言だった。

 表情を消して、タンジェスはエレーナの問いに答えた。
「やっぱり会えませんでしたよ。ま、当然ですけれどね」
 あれ以来、何度かリアンゼの様子は見に行こうとしている。肉体的には軽傷であっても精神的な衝撃が大きく、しばらくは臥せっていたらしい。最近は回復したようだが、しかし会わせてもらえるはずもなかった。そのたびに使用人らに追い払われている。今日もいつも通りだった。
「多少強引にでも、お会いするべきだと存じます」
 エレーナが自分の意見を述べる。自分のことが精一杯で、タンジェスはその様子が普段と違う事に気がつかなかった。
「そんな資格はありませんよ、俺には…」
 どの面下げて会えばいいのか、そんな思いが厳然としてある。しかし彼女の事が心配で、つい足を運んでしまうのだった。昨日サームに相談を持ちかけられたのも、門前払いを食らってから帰って来た直後である。
 そして返って来たのは、冷然とした声だった。
「あなた様の資格など、どうでも良いのです。責められるとしても、それは当然だと存じております。確かにタンジェス様の失態なのですから。しかし今のリアンゼ様の心境を、一度でも本当にお考えになった事がおありですか? 恐い目にあって、家族からは信頼していた恋人のことを悪し様に言われて、外出も制限されて、どういうお気持ちでいらっしゃるか、お分かりにならないのですか?」
 ざくりざくりと、その言葉の一つ一つが情容赦なくタンジェスの心を切り刻んで行く。息苦しさを覚えながら、タンジェスはようやく答えた。
「…恨まれているかもしれません」
「でしたら、タンジェス様にはリアンゼ様から罵声を浴びせられる義務が御座います。その気持ちのやり場は、まずあなた様以外にあり得ないのですから。それが恐くて、面会が遮られているのをいい事に避けていらっしゃるのではありませんか?」
「…………」
「今のタンジェス様が重んじていらっしゃるのは世間体、ただそれだけです。士官学校の方々が処分を行ったのも、まずは体面を考えての事です。リアンゼ様のご家族も似たようなもの、一体誰があの方の気持ちを本当に考えているのですか? 殿方はいつもそうです、世間体、体面ばかり考えて、自己満足に浸っていらっしゃいます。女がどんな気持ちでいるのか、考えてもいません。例え誰に非難されようと、恋人には相手を思いやる義務が御座います、違いますか?」
 全てを貫くような眼光が、タンジェスを捕らえて離さない。返答をするのに、相当な時間が必要だった。
「…おっしゃる通りです」
 反論のしようもない。うなだれるしかなかった。立ち昇る茶の湯気さえ無機質に感じられる。
「…出過ぎた事を申しました。お許し下さい」
 さすがに言い過ぎたと思ったのか、エレーナの頭が下がる。タンジェスは苦笑して首を振った。
「いいんですよ。本当に、エレーナさんの言う通りなんですから。何をやっても駄目ですね、まったく」
「……」
 それに返事をせず、エレーナの視線が左右に振られる。ふと気がつくと、思いきり周囲からの注目を集めていた。
「申し訳ありません…」
 彼女がここまで済まなさそうにするのを、タンジェスは初めて見た。この際いじめてみることにする。
「あーあ…しかも俺、ここには彼女とよく来てたんですよね。それで今度は別の女の人になじられてる訳ですから、店の人には何者だって思われてますよ、きっと」
「…出ましょうか」
「俺は別にいいですけどね。色々ありましたから、もう恥を恥とも思いませんよ」
「…………」
 恨めしそうな視線に、タンジェスは折れる事にした。
「ま、出ましょう。食べる物はさっさと片付けてからね。時間は散歩でもしながら潰すことにして」
「はい」
 タンジェスは場の勢いで運ばれてきた菓子を一口で平らげ、お茶も一気のみして立ちあがる態勢を整えた。士官学校は一通りの礼儀作法も教えてくれるが、しかし同時に暗黙のうちに早食いを要求したりもする。一方エレーナはマナーを失しない範囲を守りながら急いで食べようとして、その様子が妙に可愛らしく思えた。

 恋人に案内されて歩いた道を、違う女性と並んで歩く。それは妙な気分だった。
「それで、どうなさいますか?」
「何がです?」
「今からでもリアンゼ様にお会いするお時間は御座いますが」
「うーん…でも俺が今無理して、官憲にでも捕まったらエレーナさん困るでしょう」
 強引にやり過ぎればそういうことも十分に考えられる。エレーナはもう既に困っていた。
「それは…そうですが」
「意外に無茶なこと言いますよね、エレーナさんって。さっき実は結構熱くなってたみたいですし」
 あの近寄りがたさは、もう消えていた。だから言いたいことも言える。彼女は困るばかりだった。親しさを感じているだけに、タンジェスはこのあたりで切り上げる事にした。
「その辺の事情を抜きにしても、止めておきますよ」
「何故です?」
「五日後に戦闘を控えてますからね。別に死ぬつもりはありませんけれど、でもせっかく仲直りしておいて死んでしまったら笑えませんよ。なまじ彼女を悲しませるだけです。そうするくらいなら、間抜けな男と思われるか、忘れられたまま死んだ方がいい。もちろん俺としては、きちんと片をつけたら堂々と会いに行くつもりですけれどね」
 じっと話を聞いていたエレーナがふっと笑った。今日の陽光のように、美しい笑顔だった。


「この茜商会の承った仕事で人死にが出るなんて、そんなことは絶対に御座いません。ですから必ず、その日が来る事でしょう」
「あ、頼もしいですね。エレーナさんの言う事なら信じてみましょうか」
「わたくしなどは、雑務をこなしているだけで御座います」
「また謙遜して。エレーナさんが万事緻密にやってくれるから、商会の仕事もうまく行くんでしょう」
 別に世辞でもなくタンジェスは言ったつもりだったが、エレーナは少し考えた末口を開いた。
「この際ですからお話しましょう。タンジェス様の身辺調査はわたくしの一存によるものでは御座いません。旦那様のご指示です」
「若旦那の…?」
 一瞬、信じられない。そのように抜け目のない人だとはまったく思っていなかったからだ。しかし、エレーナがこの場で嘘をつくとも思えない。不器用な人なのだ、多分。
「はい。普段のあのお人柄の良さからは想像もつかないほど、お仕事に関しては驚くほど周到に当たられる方です。お仕事をお願いする方々はもちろん、お客様に関しても一通りの事をお調べになった上で総合的な判断を下されます」
「…………」
 そう言われてもまだ信じられない。エレーナは一つ確かめてきた。
「所で旦那様が具体的にどちらへおいでになったのか、ご存知ありませんか」
「人の手配をすると言ってましたけど…そう言えば具体的には何も」
「でしたら恐らく、今もわたくし達の存じ上げないところで何か手を打っていらっしゃるのでしょう。あの方はそういう方です。ですから、この茜商会の仕事に間違いはないと、そう申し上げるのです」
「そう言えば確かに、今日一日動いてみて何もかも準備が整っているって感じましたけど…。その辺の手配も全部若旦那が?」
「はい。人は見かけによらないものです。よくよく調べてみたり、あるいは親しくなってみたりしなければ分からないことはいくらでも御座います」
 使い古しの一般論を、エレーナは妙に重々しく響かせた。そしてタンジェスの反応を待たずに、歩く方向を変える。
「さ、そろそろ参りましょうか。丁度良い頃合かと存じますが」
「あ、はい。分かりました」
 結局エレーナの真意を確かめられないまま、タンジェスは魔術研鑚所に向かった。

続く


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