王都人形騒乱録
Y 魔術師と彼の操る人形


 紆余曲折を経ながら訪問した魔術研鑚所であったが、結局の所収穫は少なかった。ファルラス、ノーマが既に十分な調査を終えてその成果をタンジェスに伝えており、ほとんどそれを確認するだけに終わったのである。その過程でいい奴だから何とか助けてやってくれないかと、ストリアスの同僚達に頼まれるばかりだった。
 その中で唯一、得られたのが「光記録板」と呼ばれるものである。魔術によって人間が見た光景をどんな絵画よりも正確に記録する、その技術によって作り出された一枚なのだそうだ。詳しい技術的な側面に関してもそれを所有していた魔術師が教えてくれたのだが、しかし難解過ぎる話でタンジェスにはさっぱり理解できなかった。一緒に聴くはめになったエレーナも、それは同様であるらしい。しかし理解がなくても、その一枚は非常に有用だった。
 巨大な像を背景に笑う細身の青年、それがその記録内容である。ストリアス=ハーミスと、そして彼が発掘した件の魔術人形だ。光記録板の研究をしていた魔術師が、実験の一環として素材を同僚とその研究に向けたものである。大きさは、手のひらに収まるほどだ。
 まずストリアスの人相風体を正確に知る事ができる。聞いて知るだけとは情報量がまるで違う。年齢は二四歳との事なのだが、もう少し若く、と言うより幼く見える。いわゆる童顔、少年の面差しがまだ残っていた。背丈はこの記録からだけでは分からないが、中背だと教えてもらっている。すると並んでみると背の高い自分の方が年かさに見えるかもしれない、タンジェスは何となくそう思った。髪は長いが、意図的に伸ばしているのではなく放っておく内にそのまま伸びてしまったと、そのような様子に見える。
 少しはにかみながら笑う様子は、確かに実に人が良さそうだ。危険な代物を持ち出して結婚式の襲撃を企てるようには、とても見えない。もっとも、世の中には基本的に犯罪に走りそうもない人間といかにも何かやらかしそうな人間、その二通りしかいないし、その境目も見る人間によって異なるのだが。
 そしてこの記録は、現在伝聞以外で例の魔術人形に関して知ることのできるほぼ唯一のものである。ストリアス以外の人間が保管していたため、奪取ないし消去を免れたのだ。
 手前のストリアスと比較すると、人形の大きさが良く分かる。ファルラスは身の丈普通の人間の二倍と言っていたが、それ以上あるかもしれない。形としては作りかけ、あるいはでき損ないの石像と言った所だ。細長い卵型とでも形容すべき様々な大きさのものが集合して、辛うじて人型を形成している。確かにある種の、操り人形に見えなくもなかった。
 それを手に入れてから、エレーナには先に帰ってもらった。収穫のほとんど期待できない作業に彼女をつき合わせるつもりがないのが最大の理由だが、気分的な側面もあった。
 夕食は研鑚所近くの安そうな店で軽く済ませている。味の方は、値段相応だった。そしてタンジェスは、再び研鑚所に足を向けた。今度は裏門、ストリアスが人形を運び出したであろう場所だ。魔術研鑚所は、煌々とした明かりによって夜景から浮かび上がっている。同僚がどのような状況にあろうと、研究が続けられているのだ。あるいは彼等には、それを止める事が許されていないのかもしれない。
 現在裏門は閉じられ、更に門衛が不機嫌そうに前を向いているが、しかし当時には門衛はもちろん門が閉じられてもいなかったらしい。夜にはむしろ魔術師達が活発に活動しだすし、押し入るには相当な無謀さが必要とされる施設だ。昼間であればもちろん他の人間の目がある。少なくとも外に対する防犯を考えている間は、それで良かったのだろう。ストリアスはその信頼を、裏切ってしまったことになる。
 タンジェスは中に入ろうとしなかった。用事があるなら、先刻当然に済ませている。呼吸を整えてから建物に背を向けて、夜の先を見通すようにした。空気が体の中に流れ込んでくる。そしてゆっくりと、タンジェスは歩き出した。ストリアスがここを抜け出したのと、恐らくは同じように。
 憤怒と憎悪、一方でミュートに対する想い、様々な感情を交錯させながら、若き魔術師はこの街を歩いていたはずだ。不案内な街で、身を隠す当てもない。その孤独と不安、焦燥に耐えながら、一歩一歩と。ただ彼女を取り戻す、その事だけを心の支えにして。
 相違点はいくつもある。しかし何故か、彼は停学処分を受けて当てもなく王都をさ迷い歩いていた自分に似ているような気がする。そんな気持ちが、タンジェスの脚を動かしていた。
 水路、運河沿いを歩いてゆく。彼は魔術人形をそこに隠しながら移動していたはずだからだ。研鑚所で聞いた話では、近くで見ていないと思わぬ事故を起こしてしまうらしい。その不器用な人形が、しかし彼にとっては一つの支えになっていたのかもしれない。昼間は船が行き交い、人々が歩き過ぎて行く水辺の風景も、いまはただ静寂を保っている。孤独感は、恐らく募る一方だろう。しかし人通りの多い所に出て行く事もできない。ひたすら人目を避けて、歩いて行く。
 やがてタンジェスは、流れが澱んだ部分にたどり着いてしまった。この夜の下では一見すると普通の水面だが、しかし良く見れば月明かりに浮き沈みするごみが照らされている。水辺の匂いも違う。粘るような臭気が鼻につく。水路の設計を少しでも間違うか、あるいは年月によって水流がわずかに変化するだけでも、こういう場所ができてしまうらしい。当然これでは用水としてはもう使えないし、運河としても使う人間は減る。
 寂れた場所だ。どれほど繁栄した都市にでもこのような影の部分は避けられないらしい。両岸の倉庫や民家にも、人影は見られない。
 適当に歩いていたので時刻は分からない。ずいぶん長く歩いたような気もするし、反面足はそれほど疲れてもいない。宵の口かもしれないし、真夜中かもしれない。月の形、方向、高さから大まかな時刻を知る技術をタンジェスは知っていたのだが、それを一々思い出すのも面倒だった。そもそも時刻を知る必要がない。
 半ば気まぐれ、その結果がこの場所だった。一応逃亡者のつもりになって歩いたからという理由はあるものの、もう一度やってまたここにたどり着ける保証はない。また別の寂れた場所につくか、変な所に出てしまうかが落ちだろう。
 別に成果を期待していた訳でもない。何となく気分の整理をつけたかった、それだけのことだ。だからそんな気分でなくなった所で、帰路につこうとする。そこでふと、水面下に異様な何かが沈んでいることに気がついた。行きには光の加減から、見えなかったものだ。細長い卵型の石ををいくつも組み合わせたような…。
「まさか…!」
 それは使われていない桟橋の陰、水中にその身を横たえていた。ただ石が積み重ねられているようにも見える。しかしタンジェスには、その形に見覚えがあるように感じられてならなかった。正体を確かめようと、桟橋に下りて水面下を覗き込む。しかし暗いし、ごみに邪魔されて判然としない。例の光記録板を取り出して見比べようとしたが、やはりうまく行かなかった。
「そんな所で、何をしているんですか?」
 ここは思い切って水中に入ってでも確かめるべきか、しかし水泳をするには寒過ぎるし、まして夜だし、水は汚いし…と逡巡している所へ、背後から声がかけられた。確かに端で見ていれば、不審人物に間違われても仕方がない。
「あ、いえですね…」
 別にやましいことをしているつもりもないが、官憲に通報されでもしたら面倒だ。とりあえず言い訳をしようとして、タンジェスは振り向いた
 月明かりの下、タンジェスから少し離れて、そして高い位置に立っている細身の人影。ぞっとせずにはいられなかった。王立魔術研鑚所の若き魔術師、人形研究の第一人者、その顔は、タンジェスが持っているものにしっかりと記録されている。ストリアス=ハーミスだった。
 反射的に腰の剣に手をかけようとして、そしてそれを必死になって思いとどまる。もしこの時点で相手が魔術を使う態勢に入っていれば、倒されるのは間違いなく自分だ。剣を使うには距離がありすぎる。
「散歩ですよ」
 適当なことを言って、タンジェスはまず考える時間を稼いだ。いきなり攻撃を仕掛けてこなかった所から判断して、とりあえず自分が追っ手だとは思われていないらしい。通りすがりの人物を装って話しかけて、余計な好奇心を持っている人間の注意を水面下から逸らそうとしているようだ。その間、記録板をさりげなく服の後ろの隠しにいれる。
「こんな時間に、こんな所で?」
 ストリアスの表情が、夜目にも厳しくなる。危険を感じつつも、これは相手にも余裕がない証拠だとタンジェスは自分に言い聞かせた。相手の顔は、記録で見るより更に痩せて見えた。
「そんな気分になるときって、ありませんか? 部屋でじっとしているのも嫌だけど、お日様の下で綺麗な景色を眺める気もしないって」
 自分自身、まさか出くわすと思っていなかった。だから弓はおろか、ファルラスから借りっぱなしの魔術を反射する防具すら持って来ていない。武器は腰の剣一振り、それだけだ。一方のストリアスは丸腰であっても魔術師であり、そしてタンジェスの背後に切り札である人形を隠している。戦力が圧倒的に違う。いざ戦いとなれば奇襲によって片をつけるつもりでいたのだが、まず自分の方が発見されてしまった。まずいなどという騒ぎではない。
「まあ…あるかもしれませんね」
 ストリアスは笑おうとして失敗し、不器用に顔を引きつらせた。恐らく彼は、人形に何かあってはいけないと、頻繁に、あるいは終始監視していたのだろう。そしてタンジェスを見てこうして姿を現した。余裕がないのはストリアスも同じだ。この局地的な戦場では彼に有利かもしれないが、しかし彼は逃亡者である。元々追い詰められているし、ここで騒ぎを起こして発見され、包囲されればそれでお終いだ。できれば何とか穏便に済ませたいに違いない。
 どうも似ているな、とタンジェスは思わずにいられなかった。そもそもここで二人が遭遇した時点で、似ている点を媒介にした奇縁がある気がする。そうすると違う点がそれぞれの運命を決める事になる。
「実はですね、学校生活も恋人との間もうまく行かなくなってしまって、それでまあこんな所をふらふらとしていた訳ですよ。元はと言えば全部俺が悪いんですけれどね」
 最大の相違点は、タンジェスはストリアスを間接的にでも知っているが、ストリアスにとってタンジェスは名前も知らない相手との所だ。当然、似ているかもしれない事も。そこに賭けようと、タンジェスは覚悟を決めた。相違点はもう一つ、修羅場の場数とそれに支えられた度胸にある。
「学生さん…士官学校ですか」
「ええ、この通り」
 腰の剣をふらふらとさせる。それだけの動作で、ストリアスは少し身構えた。それが抜くための動作か否か、多少剣術の心得があれば分かるのだが、魔術師にはそれがないのだろう。
「こんな妙な所で会ったのも何かの縁でしょう。良ければちょっと、身の上話でも聞いてもらえませんか。聞きたくないのなら、そのまま立ち去っても怒りはしませんよ」
「いいですよ。僕も別に、急ぎの用事はありませんからね」
 やはり何となく、親近感を覚えたのだろう。警戒を解いたとはとても言えないが、それでもとりあえず聞く態勢に入ってくれた。
「いざ話すとなると、どこから話していいか分からなかったりするんですけれどね。ええと…あれもやっぱり夜の事でしたね。彼女と芝居見物に行って、その帰りです。俺達は殺人の現場に出くわしました…」
 停学になったいきさつ、そして現在の彼女との状況を簡単に話す。茜商会に関する事は、追及されると一度に話が破綻するので黙っておいた。ただ、今日エレーナに言われた事に関してだけは、知人の女性からと話を曖昧にして告げておく。
「そんな状態で迷って、ふらふらしてたってことです」
「そうですか…。若いのに、大変ですね」
「ええまあ。でもあの事件が起こってから、親身になってくれる知り合いが増えました。だから俺は大丈夫ですよ」
 話している内に、また違う点が見えてくる。この人には、自分にとってのファルラスやノーマ、そしてエレーナがいないのだ。ただひたすら自分の想いの中に閉じ篭もろうとしている。自分がそのような存在になることができれば、あるいは無茶な事を止めさせる事ができるかもしれない。
「例えその恋人を失っても…ですか?」
 それまで応対だけだったストリアスが、話に乗ってきた。ここからが正念場だ。
「そこに関しては自信がないんですけれどね。これが初恋って訳じゃないんですけど、きちんと付き合ったのは彼女が初めてですから、もしかしたらしばらくは立ち直れないかもしれません。ただ、しょうがないじゃないですか。嫌われちゃったなら。しつこくしても余計に嫌われるだけでしょうし。男だったらきっぱり諦めるべき時があると思います。もちろん彼女次第ですし、俺としてはできればまた元通りに仲良くしたいですけれど」
「それは観念論ではありませんか。最も大事な存在を実際に失う事に直面すれば、人間は何だってする…。あなたにはまだ、その事態がが差し迫ってないから。あるいは彼女よりも騎士になることが大事だから、そう思えるのではありませんか」
 恐らく本人でも気がつかないうちに、熱が篭もっている。タンジェスはひとまず首を振ってかわした。
「見かけによらずきついことを言いますね」
「…済みません」
「ま、否定はできませんよ。確かに彼女に、騎士になることと自分とどっちが大事か、なんて聞かれたら多分答えられません。きっぱり振られた訳でもないですしね。ただ今の俺としてはその観念論で語るしかない、そうでしょう?」
「それはそうです」
「俺だったら彼女を失わないために手段を選ばないとか、そんなことはしたくないですよ。そうしたら必ず彼女の周囲に迷惑がかかります。その人達は、彼女にとって大事な家族や友人なんじゃないですかね」
「…………」
 ストリアスが沈黙する。本来慎重で思慮深い青年なのだろう。今回の暴挙は、追い詰められるだけ追い詰められて暴発した結果のように思える。うまく行くような気がして来た。
「そう言えば、お仕事は何をなさっているんですか」
「え、僕ですか? 一応…学者みたいな事です」
「学者さんですか。年は俺とそんなに変わらないのに…。凄いですね」
「運が良かっただけですよ」
「はは、まさか。運じゃ学者になんてなれませんって。そういう研究って、やっぱり一人で本に埋もれたりする訳ですか」
 研鑚所を見ているのだが、ここは多少外しておく。神経を使う作業だ。
「そういう事も確かにありますけれどね。ただ、考える作業って一人でやっているとどうしても煮詰まるんですよ。だから同僚に研究の成果を見てもらったり、あるいは見に行ったり、そういう事はけっこうします」
「仲はいいんですね」
「仲がいいと言うか、良くしてもらっています。僕が一番年下ですから」
「そうですか。だったら自分の恋人が例えあなたのためだからと言ってもその人達に滅茶苦茶やって、迷惑かけたらやっぱり嫌でしょう。それはそれこそ、さっき俺に厳しい事を言ってくれた女の人の言う、相手のことを本当に考えている事にはならないんじゃないですかね」
「それは…」
 視線が泳ぐ。タンジェスはそれを、じっと眺めていた。しかし不意に、魔術師の目が一点に固定される。タンジェスの、腰より少し下のあたりだ。
「失礼ですが…」
 ストリアスの声が強張っている。実戦を経験した事により感覚が発達しているのか、あるいはただの気のせいか、殺気が感じ取れたように思えた。
「何か?」
「その隠しの中の物を見せていただけませんか」
「はい? なけなしの金が入っている財布があるだけですけど」
 タンジェスは、前の隠しから薄い財布を取り出して見せた。ストリアスが小さく首を振る。
「そちらではありません。後ろの、右側です」
 正面に立つ彼からは見えるはずのない部分、しかしそれを、ストリアスは気にしていた。尋常ではない。しかしその理由を、タンジェスは薄々感づいていた。
「こっちですか? ああ、これはですね…」
 ゆっくりと、問題になっている物を引き出す。そして、それが体の正面に回ろうとする瞬間、手首を翻した。
「こういう物ですよ!」
 薄い板がストリアスめがけて投げ付けられる。反射的に顔をかばった彼の腕に当たったのは、彼自身の姿が映った光記録板だった。
「追っ手か!」
 その声に怒りが満ちる。恐らく魔術師に特有の何らかの感覚で、タンジェスの持ち物を察知したのだろう。それを通りすがりの人間が持っているなど、確かにできすぎている。
「ストリアスッ!」
 もう正体は割れてしまった。いちかばちか、一度に決着をつけるしかない。光記録板を投げ付けたのは、わずかでも時間を稼ぐためだった。接近戦ではそのわずかな時間が生死を分ける。相手がひるんだ隙に、抜剣しながら斜面を駆け上がろうとした。
「来いっ!」
 魔術師が叫んだ瞬間、タンジェスの背後の水面が爆発する。巨大な人形が、水面下から姿を現したのだ。それを背中で感じつつも、敢えてタンジェスは無視するつもりだった。正面の魔術師と背後の人形、双方を同時に相手取ることなど不可能だ。人形が接近してこないうちに元凶である魔術師を片付ける、それしか手段はない。それならば一瞬のうちにでも、魔術師に神経を集中すべきだった。
 しかし、人形の出現によって水面が大きく動いている。溢れ出して流れ、そして元に戻ろうとする水が、タンジェスの足に絡みついていた。とっさに転倒を防ぐ事しかできない。そしてその一瞬の間に、人形は完全に上陸していた。対峙したそれは予想していたよりも更に大きく、夜の中にそびえたっている。まるで一つの、そそり立つ石壁だ。
「よくもそこまで出任せが言えるものだな。恥かしくないのか。それとも所詮、この国の官憲はその程度か!」
 言葉として凝固した怒りが吐き出される。タンジェスは小さく溜息をついた。
「事情を説明しても、この状況じゃわかってもらえないだろうけどね…。ただ一つ答えてくれ。いくら親が勧めるからといって、結婚なんて本人が本気で抵抗したらさせられるものじゃない。それでも縁談はどんどん進んでる。ミュートさんはもう、オーザンさんとの結婚を望んでいると、そうは思わないのか。俺は今日二人に会ってきたけれど、あんたはミュートさんの気持ちを本当に確かめたのか? 自分があの人を諦め切れない、それだけじゃないのか? 答えろ! ストリアス=ハーミス!」
 言っている内に自分でも感情が高まってくる。その分、嘘偽りのない本音をぶつけている。しかしこの状況下では、買い言葉を誘発する売り言葉にしかならなかった。
「誰がこれ以上口車に乗るものか! 彼女は優しい人だ。家族に気を使って、本当の気もちを偽っているんだ。助けられるのは僕しかいない。誰にも邪魔はさせない!」
 風が動いた。人形が腕を振り上げた、それだけの事で。どれだけ攻撃範囲が広いかさえも分からない。足の力全てを使って飛び退る。次に襲いかかってきたのは、鈍い衝撃だった。着地した瞬間の地面が揺れ、泥が大きく跳ね上がって人形と言わずタンジェスと言わず汚して行く。人形の拳一つで、穴ができていた。
 これはかすっただけでも洒落にならないな、とタンジェスは妙に冷静な頭で考えた。どうしてそう余裕があるのか、それはまだ自分にも分からない。人形の動作ごとに、風が唸り地響きがする。その圧倒的な破壊力を前にしながら、やがてタンジェスの心の中に生まれたのはある種の余裕だった。
 少なくとも自分が回避に専念している限り、この人形は恐くない。確かに攻撃力は人間の比ではないし、大きさがあるだけに最終的な速さも相当なものになる。しかし、それも当たらなければ意味がないのだ。
 タンジェスらが日々武術の実技を学んでいるのは、詰まる所攻撃を当てるための力を養うためだ。幾多の時間を積み重ねてようやく熟練の域に達し、更に達人と呼ばれるためには天賦の才を必要とする。それほど接近戦は奥深い。タンジェスはその訓練を積んでいるが、人形に、正確に言えばそれを操るストリアスにそのような素養は全くなかった。
 つまり、この人形には無駄な動きが多過ぎる。例えば攻撃するのに腕を振り上げる必要はない。これだけの巨体であれば、軽く腕を払っただけで重傷を負わせることができる。それがわからないストリアスに、避け方を心得ているタンジェスを捕らえることはできなかった。
 攻撃を身軽にかわしながらも、タンジェスとしては思案のしどころである。やはり避けているだけでは勝てない。懐に飛び込んで関節を攻撃するか、あるいはストリアス本人を攻撃するかのどちらかだが、しかしうかつに回避への注意を怠るとその瞬間に捕まって洒落にならない事態に陥る。精神的に限界まで追い詰められ、そして今タンジェスにだまされたと確信しているストリアスに、情容赦があるとは期待できない。かと言って、そのまま続けていても自分が疲労してやはり捕まってしまう。恐らく人形に、疲労の概念はないだろう。
 ただ、タンジェス以上にストリアスは焦っていた。彼には巨大な力を持つ人形が、たかが人間一人をすぐに倒せない理由がわからないし、場数を踏んでもいないため平常心を欠く。何より派手に暴れて困るのは逃亡者である彼自身だ。このままではいずれ包囲されてしまう。
「この…」
 歯噛みしつつも、魔術師は操作を変えるべく精神を集中した。闇の中で、人形の胸部が鮮やかに発光を始める。
「何だ…」
 タンジェスはとりあえず何歩か後退した。何が起こるのかは分からない。しかしこれがミュートの言っていた「他にない能力」の前兆のように思えた。正体の分からない物に対しては、とりあえず離れておくのが無難だ。しかしその一般論に基づいた判断は、この特殊な場合において完全な誤りだった。
 一瞬、人形の光が閃光に変わる。


 そしてタンジェスの神経を灼熱感が駆け上がった。
「っ!」
 次いで轟音が聴覚を満たす。目は強烈な光によって眩まされ、耳もおかしくなった。何故か触覚にも異様なものがある。感覚全体が混乱する。自分が死んだのではないかとさえ思えるほどだ。それを辛うじてよみがえらせたのは、生暖かく濡れた感触だった。
 黒い何かが、左の太もものあたりを覆っている。鉄錆のような匂いが鼻を突く。それは、タンジェス自身の血だ。本来は真紅のそれも、月明かりの下鈍い色に照らされている。
 そして、タンジェスの左側の地面が大きくえぐれていた。人形が拳で開けたよりも、更に大きな穴が口を開けている。柔らかい菓子に無理やり包丁を入れたような、地面にそんな跡が刻まれていた。
 それがこの人形の「他にない能力」だったのだ。遠距離の目標に対しても攻撃できる。だから離れるのは恰好の的になるだけだ。しかしそれは、あくまで結果論である。
 狙いが逸れたのか、あるいは反射的に避けたのかはもう自分でも分からない。とりあえず直撃だけは免れていた。胴か頭部に食らっていれば、最早人間の体裁を為していなかった所だ。片足が丸ごと一本もって行かれるなどということもなかった。きちんと立つことができている。かすった、とも言えるだろう。
 痛みはない。しかしそれが、軽傷の保証には全くならない。それにしては出血が多過ぎる。恐らく、痛覚が麻痺しているのだろう。だから触覚がおかしかったのだ。却って重傷だ。思うように動かない。体重を支える事はできても、そこから動く事はできないらしい。
 そして…立ち尽くすタンジェスを間近で人形が見下ろしていた。ストリアスの顔も、人形さながらだ。勝ち誇って笑うことさえない。冷たい怒りが、そこには固定されている。
 恐怖は、何故かなかった。どうもそういう感覚も麻痺しているらしい。技量の方はこのざまになるほど未熟だというのに、そんな所だけ一人前になって困ったものだ。しかし結局、リアンゼにあれ以来会えないまま死ぬのは心残りだ。振られるなら振られるでそれは仕方がない。ただあいまいなまま、彼女の気持ちを知らないまま別れるのが、何となく嫌だった。そう言えば自分の死は家族にどう伝えられるのだろうか。名誉の戦死? 多分そうだろう。実は停学処分を食らった挙句それを解こうと悪あがきをした結果に過ぎないのだが、死んだ人間の悪口は相手が余程の悪党でない限り控えるものだ。そのあたりのことはファルラスやエレーナ、それにノーマが抜かりなくやってくれるに違いない。そう伝えられた所で故郷の家族が喜ぶとも思えないが、それは仕方がない。死んだという事実だけは、変えられないのだから。親不孝だが今更謝罪する手段もない。弟が両親を慰めてくれるのを期待するだけだ。それはそれで悪い兄ではあるが。それに、サームにも悪い事をしたかもしれない。彼にとっては初めて親しい人間を喪う事になる。幼い心には酷だろう。いや、それともファルラスが、自分は遠くに行ったとでも言い繕ってくれるだろうか。だとしたら彼には結局終始迷惑をかけっぱなしになる。困ったものだ。そう言えば小腹が減ったな、ちょっと何か食べたい。最後の夕食ならもうちょっと豪勢にしておくんだったな…。
 思考が脈絡を欠きながら加速する。記憶が走馬灯のように…と言うものでもないらしい。
「何だ、雷か?」
「そんな馬鹿な。晴れてるぞ」
「おいありゃなんだ、あのでかいの」
「怪物…!」
 声が聞こえる。いくら一帯寂れているとは言え、ここは大都市の一角だ。閃光と轟音を不審に思った人間が複数、様子を見に来たらしい。タンジェスはそれを無感動に聞いていたが、しかしストリアスの反応は大きかった。
 差し出された人形の手に乗り、そこを踏み台にして背中に移動する。そして水路へと、人形を飛び込ませた。水飛沫で視線を遮って、闇の中へと消えて行く。
「必ず彼女を取り戻す。誰にも邪魔はさせない!」
 その宣告だけが、その場に残された。
「痛いじゃないか…」
 タンジェスはぼそりとつぶやいた。痛みは、生きている証だ。

続く


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