王都人形騒乱録
Z 二つの古の遺産


 アナクレア神殿は、王都にある神殿の中では最も新しい部類に入る。戦乱によって廃墟と化した場所に、戦後新たに創建されたものであるからだ。復興の、一つの象徴である。
 かつて神殿と言えば荘厳な外観、華麗な内装を誇るのが一般的であったが、それはしばしば神官達の腐敗の象徴ともなっていた。神殿を作るのもただではない。それは民衆からの寄付、浄財によって成り立っている。宗教画、彫刻を配して啓蒙を行い、また神に仕えるものとしての権威を保つのも神官の役目ではあるが、度の過ぎた装飾は単なる虚飾、浪費に過ぎない。そしてそれに埋もれて贅沢三昧をする神官もおり、そのような者達は戦乱の終結、あるいはそこで苦しむ民衆の救難に全く寄与しなかった。
 それに対する反省として、戦乱を乗り越え現在主流となっている神官達は摂生、清貧を旨としている。資金があるのならそれはまず困窮する民衆のために使おうと、そのような姿勢だ。
 アナクレア神殿もその思想のもと創建されている。多くの人間が集えるよう規模そのものは大きいが、装飾を押さえた簡素な作りである。もっともけばけばしく飾り立てるよりはこちらの方が上品でいいかもしれない、とタンジェスは思うのだった。
 ストリアス、人形との遭遇戦から既に四日が過ぎていた。つまり、式の当日である。結局あの場で出会ったのは偶然に過ぎなかったのか、あるいは互いの精神が既に異なっているのか、タンジェスはあれ以来ストリアスを捕捉できなかった。
 足の怪我は既に完治している。それも神官の手によるものだ。神官の中には法術と呼ばれる特殊な能力を使える者があり、負傷を治癒せしめる、周囲の人間を災厄から守るなどができる。魔術に比較すれば威力は地味なのだが、その特性から受ける尊敬は大きなものがある。打ち続く戦乱の中でも民衆から信仰心が絶える事がなかったのは、その神官達の力による所が少なくない。タンジェスもその世話になったのである。もっとも重傷を負ったストリアスに治療を施したのも神官達で、世の中何が災いするかわからないのだが…。
「いよいよですね」
 正装をしたファルラスが声をかけてくる。房飾りのついた帽子に短目のマント、それにゆったりした長衣、全て地味な色でまとめていて落ちついた印象を与える。目立ちはしないが、中々似合っていた。基本的に何を着せてもそれなりに着こなしてしまう、見栄えはしないもののみすぼらしくもならない、そういう人である。
「はい」
 一方タンジェスは士官学校の制服、襟の詰まった白い上着に黒の洋袴、そして黒の長靴である。更に剣帯を締めて長剣を吊るしている。一応これも礼服扱いなので、式場に入っても失礼には当たらない。ただ、今はその上に矢筒を背負い、左手には防具をはめ、更に弓を持っている物々しい姿なので、あまりそのあたりをうろつく気もしなかった。
 装備としては相当な物が必要だし、かと言って完全な戦闘服にすると浮き過ぎる。折衷案のつもりだったが、失敗だったかもしれない。士官学校の制服は軍服を簡略化した物なので、それだけでもかなり物騒に見えるのだ。特に騎士階級のいない、このような市民同士の式では目立ってしまう。式場の各所に両家が手配したらしい傭兵の姿も見えるが、彼等も普通の礼服に剣を持っている状態だ。
「しかし若旦那、ここまで警戒の厳しい結婚式というものも珍しいんじゃないですか」
「ま、普通ではないでしょうけれどね…」
 集まり始めている参列者を見渡してから、ファルラスはやや口調を変えた。
「物語の筋書きとして、略奪婚という形式は古来よりある、珍しくはないものだそうです。恋愛の悲劇を解消する結末として、あるいは奪う側の男の勇気を示すものとしてふさわしいようで」
「なるほど…。じゃ、俺達は花嫁を奪われる間抜けな悪役って訳ですか」
「別に私は悪役でも構いませんが、間抜けでは困ってしまいます。仕事になりません。ここは主役を退ける強力な敵役と行きたい所です」
「脚本が良ければそういう役もけっこうかっこいいんですよね」
「ええ。その代わり相当な演技力が要求されますけれどね。お願いしますよ」
「はい」
 正直な所人形と正面切って戦って勝てる自信は全くない。五日前に戦力の差を思い知らされた。腕力が圧倒的な上、強力な遠距離戦兵器も有しているとあっては勝算など立てようもない。最初の一瞬、奇襲でストリアスを倒す、それしかない。ただ、ここで自分を不必要に追い詰めるのは賢明とは言えなかった。関係のない話題で時間を潰すことにする。
「さすがに若旦那は教養人ですね。古今の物語に通じているなんて」
「さすがなどと言うほどのものではありませんよ、このくらい。ちょっとした努力ですぐに身につきます。十七歳の時の私なんて、教養とは全くかけ離れた人間でしたし」
「つまり勉強しろってことですか」
 わざと嫌そうな顔をして見せると、ファルラスは苦笑した。
「まあ、そういうことになりますが。人間には未来へ向かう大きな可能性がある、あなたにもストリアスさんにも。それを忘れて欲しくないんですよ」
「そんな事言って…良く考えたら俺とストリアスの年齢差より、あなたとストリアスの年齢差の方が小さいんじゃないですか。そういう精神のあり方が悪いとは言いませんけれど、そんなことばかり考えてると老けますよ」
 嫌味を言ってみるが、しかし全く通用しない。ファルラスはくすくすと笑うばかりだった。そんなやり取りをしている間に、二人の前を一人の少女が横切って行く。神官の正装である、白い長衣を身にまとっていた。ただ、今回は儀式の都合上茶色のケープを羽織っている。結婚式ではまず花嫁が白を着るため、特に女性の神官がいる場合は同じ色を避けるのだ。逆に言えば、それを羽織っていることは式に参加することを意味している。
「あれ、若旦那、あの子は?」
「あの子だなんて、失礼のないようにお願いしますよ。今日の式の助祭をして下さる方なんですから」
 神に仕える身分の者は一般に神官と呼ばれるが、彼等が祭祀を司る場合に別の呼ばれ方をされることがある。中心となるのが司祭、その補助を行う者が助祭である。当然地位が高いのは司祭で、通常助祭はそれ以下のものになる。重要な宗教行事、儀式など、あるいは王族の結婚、葬儀など特殊な場合、助祭でも相当身分の高い神官が勤め司祭は更にその上と言う事もあるが、日常的な行事や市民の婚礼なら助祭は若手ないし見習の神官が勤める。彼女はその一人のようだ。
「それは服を見れば分かりますけれど、他に人がいなかったんですか? 危険が予想されるっていうのに、女の子だなんて」
 タンジェスとしても女性に対して不必要に過保護であるつもりはない。士官学校には少数ながら女子学生も、そして女性の教官もいる。彼女等の生き方は否定せず、男性に対するのとと変わらない相応の敬意を払っているつもりだ。しかし今見えている少女は、タンジェスが知っているような猛者には見えなかった。背丈は平均より少し高いようだが、しかし全体として華奢な印象を受ける。髪も長く伸ばしており、荒事に向くようには見えない。
「手を尽した結果こうなってしまいました」
 ファルラスの釈明は、こうである。
「仕方がないですね…」
 タンジェスとしてもそれ以上の追及はしない。先日エレーナの言った通り、ファルラスは実に綿密に仕事をしている。そこだけ手抜かりをしたのでもないだろう。
 二人の視線に気がついたのか、少女が振り向いた。概して神官には勘の鋭い者が多いという。それも法術に必要な素養の一つらしい。そして歩み寄ってくる。口は開かないが、目で何か用ですかと言っているようだ。その目がぱっちりと大きい、中々可愛らしい女の子だ。その意志を汲み取って、ファルラスが口を開く。
「あ、いえ。別に用事はありません」
 ではどうして? と、やはり目で疑問を発する。ファルラスは苦笑がちに答えた。
「ご承知の通り、今回の式には危険が予想されます。それであなたのような女の子がここにいるのは危険なのではないかと、こちらの方が心配しているんですよ」
 少女がじっとタンジェスを見据える。その深い色をたたえた瞳に、タンジェスはどきりとした。しかしこう無言でいるのは気分を害しているのかもしれない。ここは謝っておこうか…と、タンジェスが考え始めた。その時だった。
「ありがとうございます」
 ようやく、そして不意に発せられたのは感謝の言葉である。少女は深々と頭を下げている。これにはちょっと、対応に困ってしまった。
「あ、いえ。礼を言われるような事ではありません。顔を上げてください」
 とりあえずそう言ってみると、ひょこりと顔を上げて元の姿勢に戻る。タンジェスは混乱した。とりあえず無難そうな発言を試みた。
「あ、ええと…色々あると思いますけど、頑張ってください」
 少し考えてから、少女は答えた。
「…頑張ります」
 その「間」が何を意味しているのか分からない。しかも少女は、何故かタンジェスをしげしげと観察している。タンジェスとしてはとうとう言葉に詰まってしまった。
「ご武運を」
 そしてまた唐突に、少女が口を開く。一瞬以上、タンジェスは反応し損ねた。
「あ…ありがとうございます」
 どうやらタンジェスの装備から、これから戦闘をする人間なのだと見て取ったらしい。「ご武運を」は「ご武運をお祈りしています」の省略形である。神官が祈ると言っているのだから、霊験はあるだろう。それで慌てて、タンジェスは返礼をしたのだった。そしてもう一度深く頭を下げてから、少女は自分の仕事に戻るべく立ち去って行く。
「…どういう人なんですか」
 とりあえず手近な所に疑問をぶつけてみたが、はかばかしい回答は得られなかった。
「私も最近知り合ったばかりなので、詳しくはちょっと」
「うーん…でも何か、頭の中では物凄く面白いことを考えていそうですよね」
「…確かに」
 珍しく、ファルラスも首を傾げていた。話が途切れた所で、彼がもう一度周囲を見渡す。
「さて、私は少し新郎新婦の様子を見てきます。やはり不安はあるでしょうからね」
「そうですね。じゃあ…俺はそろそろ配置につきますよ」
「お願いします。あ、タンジェスさん」
 歩き出そうとして、振りかえる。視線でその意味を問うと、ファルラスは笑って言った。
「意外と何とかなるものですよ。気を楽にして下さい」
「…どうも」
 気休めだとは分かっている。しかし実際、この状況下でいつもの調子を保っている彼の言葉には、何となく安心させられた。
 ストリアスを捜索する合間に済ませておいた下見によって、待機場所は既に決めている。しかしそこに行く前に、入り口の警備をしている男が声をかけてきた。タンジェスを訪ねてきた者がいると言う。
 神殿の外に出てみると、待っていたのは一人の騎士だった。朝の光の中、漆黒のマントがどんな華麗な装飾よりも鮮やかに目に映る。軍衣も黒、引き締まった精悍な印象を与える色だ。この人物の二つ名を、自然に思い出させる。「黒騎士」ノーマ=サイエンフォートである。
 騎士の軍装は、概して人目を引く物だ。手柄を認められるには目立たなければならないし、華麗な装いをすることによって味方の士気を鼓舞する効果もある。また、高名な武人であればその存在を示すだけで敵を威圧することも可能だ。そしてこの黒い軍衣は、最後の要素が最も強い物として知られている。
 戦場に出るたび、その黒が敵兵の血によって形容しがたい色に染まったと言われる。その時最強と言われた戦士の装いである。戦場における死の象徴とさえ形容され、見る者を震え上がらせてきた。その服装が、弟子であるノーマに引き継がれているのである。
 元来あまり縁起が良いとされる色ではないし、まして何にも増して不吉ないわれを持っている。しかしそれを、ノーマは見事に着こなしていた。白皙の肌、金髪に黒が良く栄える。これは女の子を騒がせずにはいられないだろう。
 タンジェスの感心をよそに、まずノーマは謝った。
「呼びたててしまって済まない」
「いえ、とんでもない。それより閲兵式の方はよろしいのですか」
「うん。今から行けば十分に間に合う。足の方は大丈夫か」
「はい、お陰様で。紹介していただいた方の腕が良くて助かりました」
 術者としての神官の能力には大きな個人差があり、全く使えない者も少なくない一方で奇跡としか思えない術を使いこなす者もいる。修行だけでは埋められない、天性の素質を必要とするのだそうだ。そしてタンジェスが人形との交戦によって負傷したと知らされたノーマがよこしてくれた神官は、非常に優秀だった。
「礼をすることではないよ。戦力を整えるのは指揮官として当然の義務だ」
 ノーマは普段通り微笑をたたえている。実に感じの良い、人好きのする表情だ。しかし今日は、どこかそれだけではないものを感じさせる。何故か剣の稽古をつけられた時の事が思い出された。
「わざわざ俺の様子を見にいらしたのですか」
「いや…これを渡しておこうと思ってね」
 マントの下から長い物を取り出す。反射的に出しかけた手を、しかしタンジェスは慌てて引っ込めた。
 それは黒塗りの鞘に収められた一振りの剣だった。刀身、柄、共に通常の長剣より更に長い。片手でも両手でも使える造りである。ノーマが普段佩いている物で、タンジェスも会うたびに目にしている。一度など誤解が元であるとはいえこれで斬りつけられたこともある。しかし渡されようとすると、寒気のする思いだった。
 伝説の魔剣…古の魔術師によって作られ、数百年のうちに幾多の勇者の手を経、数々の魔獣、怪物を葬り、そしてどんな剣よりも人血を吸ってきた。最強を謳われた戦士の愛剣であり、現在はその弟子であるノーマ=サイエンフォートの佩剣として知られる。その刃は破壊の光を放ち、城壁すらも一撃で両断するという。大陸最強とされる二振りの剣の一つだ。もう一振りは王権の象徴として、王家に代々伝えられている。言わば神剣である。
 士官学校の一学生が手にして良い代物ではない、絶対に。タンジェスは後ずさらないようにするのが精一杯だった。しかしノーマは、それを手にするにふさわしいであろう王国屈指の剣士は、苦笑しながら剣を取るよう促すのだった。
「大丈夫。古い物だけれど壊す方が難しいから。鞘は私も良く壊すから気にしなくていいし」
「いや、しかし、これは…」
「これなら人形を斬れる。だから今日は君に預けておくんだ」
 確かにこの魔剣も、魔術全盛時代の遺産の一つだ。あの魔術人形にも対抗できる。戦術的な観点からすれば、ノーマの行動は非常に理に適っていると言えるだろう。しかしその神経は全く理解できない。普通の騎士ならば、愛剣を短時間とはいえ手放すことはまずしない。それは騎士の象徴だからだ。しかもこれは、他に替えることのできない伝説の魔剣である。
「俺なんかが…使っていいんですか」
「これはただの道具だよ。本質的に君が持っている物と変わりはない。君も剣の使い方くらい、一通り学んでいるだろう」
「ええ、それは…まあ」
 感覚が常人からかけ離れているとしか考えられない。呆然としているタンジェスを前に、ノーマはひとまず剣を引っ込めた。そして苦笑がちに話を続ける。
「師匠が亡くなられてこの剣を継いだ時、私はまだ十歳の子供に過ぎなかった。それがあの方のご遺志だったからだが、しかし誰がどう考えても荷が重過ぎる。そもそも当時の私は身長が足りなくてね、こうして腰の剣帯に吊るす事ができずに、仕方なく背負って歩いたものだよ。その時の私に比べれば、君は余程うまく剣を使える」
 本人は笑っているが、しかしその話の中に、重大な事を思い起こせる一節があった。
「でもそのお師匠様の、大事な形見なのではありませんか」
「うん。まあ、あの方が気分を害せば祟るくらいなさりかねないが…」
 それだけは勘弁して欲しいことを真顔で言ってくれる。タンジェスが思わず黙ると、ノーマは笑って続けた。
「しかし多分大丈夫だよ。常識では測れない大きさをお持ちの方だから。必要があって形見を貸したくらいで、わざわざ冥府から戻っていらっしゃりなどしないだろう。これをお知りになったとしたらどんな顔をなさるのか、そこまでは分からないけれどね」
 正直な所今のノーマもタンジェスの常識からは測りかねる。だからただ、話を聞くばかりだ。
 やがて表情を改めて、ノーマは話を魔剣に戻した。
「この剣は一人の偉大な魔術師により鍛えられ、同種であるもう一振りを除けば他に類を見ない力を備えている。使い方を一つ誤れば、容易に破壊と殺戮の道具となりうるし、現にそうなったことも少なくない。魔術同様、禁忌の力とされてもおかしくなかっただろう。強過ぎる力とは、本来恐れられるものだ。しかし今、これはどのような剣だと思われている?」
「英雄、勇者のための剣だと」
「そう…それはこの力が弱者を蹂躙するためではなく、より強大な力を持った者と戦うために使われてきたからだ。巨大な魔獣、圧政を行う国家、あるいは破滅の使者たる異界の住人達…そのような恐るべき敵と歴代の所有者は戦い、そして勝利を収めてきた。いかにこの剣の力が強いとは言え、その戦いが熾烈であったことは想像に難くない。そのような戦いを自らの技量と機知と、何より勇気で乗り越えて来たからこそ、彼等は英雄、勇者と呼ばれるに至った。あるいは逆に、さしもの彼等もこの剣の助けなしにはそこまでの偉業はなし得なかっただろう。だからこの剣は、勇者のための剣だと言われている。戦場で自らの力を発揮することによって、その正義を証明してきた」
 鞘の先が、地面を突いた。杖を使うように、ノーマが柄頭に両手を置く。
「これは飾り物ではない、倒すべき強大な敵がいる限り。それを忘れて敵の来るはずもない式典などにのうのうと出ていたら、この剣の存在そのものを否定することになるし、魔力を持たぬ者のためにこれを鍛えられた偉大な魔術師にも、命を賭けて戦いの中に身を投じて来た多くの勇者たちにも申し訳が立たない。だから君に託そうと思っている。これから巨大な敵と戦う君に」
 タンジェスは自分の喉が全く別の何かであるように感じられた。唾が通って行かない。当然言葉も出ない。それを見てなお、ノーマは言葉を続けた。
「一つ尋ねるが、タンジェス。君にはあの人形に確実に勝てるという成算はあるか。もちろん勝つ算段は整えているとは分かっている。しかし戦場ではあらゆることが起こりうる。その全てに対応できるかどうか、それを考えて答えて欲しい」
「それは…ありません」
 かすれた声が辛うじて出た。そんなものあるはずがない。ストリアスを弓で射落とすつもりでいるが、それを外せば確実に反撃を食う。そうなれば勝てる見込みなどごくわずかだ。それ以前にも、射かけられない状況は十分に考えられる。それでもなお、厳しいノーマの言葉は続いた。非の打ち所のないような美貌が、その言葉の鋭さを増して感じさせる。空色の瞳が、明け方の冬に見えた。
「しかし君が負ければ、どうなる。誰が人形を止める。ストリアスにそのつもりがなくとも、余波だけで人が死ぬ。あれにはそれだけの力がある」
「…俺が奴を倒すしかありません」
「そうだ。君も騎士を志すのなら、一つ覚えておかなければならないことがある。騎士の道徳は無用の戦いを戒める。戦いの本質は暴力、それを濫用するなど、騎士として以前に人間として最も恥ずべきことだ。では騎士の戦い、すなわち必要な戦いとは何だと思う?」
「負けられない戦い、ですか」
「そうだ。負けて良い戦いなら始めからしなければ良い。資格はどうあれ戦う以上一人の騎士として、君は勝たなければならない。君には最大限の努力をする義務がある、違うか?」
「いいえ。おっしゃる通りです」
「君にはこの剣を使う資格や権利があるのではない。義務がある。そして君に課せられた義務を完遂できるのなら、私は君を一人の騎士として認めよう。できないのなら…それまでだ。この場合恐らく騎士として以前に、一つの命として。だから…」
 ノーマの手が改めて黒塗りの鞘をつかむ。それはごく何気ない、柔らかな動作だった。
「受け取れ! タンジェス=ラント!」
 凄まじい衝撃が体全体に広がった。乾いた音が神殿前の静寂を乱し、やがて痺れが、手のひらにゆっくりと染み渡る。伝説の魔剣が、タンジェスの手の中に収まっていた。師匠の形見の愛剣を、黒騎士は投げつけたのだ。それもそれまでの態勢から考えると恐らく全力で。反射神経に劣る人間なら、直撃を食らって重傷でも負わせかねない所だ。
 ノーマが笑った。普段の人好きのする微笑とはやや趣をことにする、晴れやかな笑みだった。
「閲兵式が終わったら取りに戻ってくる。吉報を聞かせてもらおう」
 漆黒のマントが翻る。ノーマはもう、歩き出していた。
「ノーマ卿!」
 距離がつく前に慌てて呼び止める。疑問を浮かべて振りかえる彼に、タンジェスは笑いかけた。
「騎士が式典に出るのに丸腰じゃあ、かっこつかないですよ。これに比べればずいぶんと不足でしょうが、ないよりましでしょう。持って行って下さい」
 自分の剣帯から剣を外して放り投げる。至近距離ではなかったので多少勢いをつけていたし、鋼造りの長剣にはそもそもかなりの重量がある。しかしノーマはそれを後ろ手に、しかも音さえ立てず軽々と受け止めた。
「考えもしていなかった。助かるよ」
 端正な顔に安堵の笑みが浮かぶ。どうも他人の心配をしすぎて自分の心配を怠ってしまう人のようだ。
「元々あなたにいただいた物ですよ」
 この前の事件で誤ってノーマが官給品であるタンジェスの剣を折ってしまったため、謝罪の意味も込めて新しい物が贈られている。さすがに魔剣ではないが、しかし高名な鍛冶師の手による物だ。
「そうだった。人には親切にしておくものらしいね。では私はこれで。そろそろ時間がなくなる」
「はい。わざわざありがとうございました」
「うん」
 黒いマントに包まれた背中がずいぶんと大きく見える。そこへ深く一礼してから、タンジェスも自分のなすべきことを果たそうと歩き出した。

 白は神の正義を象徴する色だとされる。全てを照らし出す光の色、一点の曇りも汚れも許さない純潔の色だ。それゆえ、花嫁の色でもある。
 淡く輝く白絹を金糸銀糸の刺繍、更に真珠と金剛石が彩る。華麗な衣装をまとった花嫁は、参列者に溜息を漏らさせるほど美しかった。荘重な神殿音楽に包まれ、衣装を引きずらないように付き従う二人の介添え人を伴ったその姿は、ある種の威厳さえ感じさせる。
 花婿もそれなりに見栄えがしたが、所詮結婚式で花婿など必要不可欠な添え物に過ぎない。花嫁の美しさを損なわぬよう、与えられた役割を無難に果たしていれば良いのだ。
「若人達よ、名乗るが良い」
 司祭の言葉によって式が始まる。体全体が縮んだような皺の多い小柄な老人だが、その声は朗々として礼拝堂に響き渡る。彼ももちろん式を上げる両名の名くらい把握しているが、これは神に対して名を名乗るという意味が込められている。
「オーザン=サムールと申します」
「ミュート=ジアルと申します」
 新郎の声は緊張しているらしく、少しかすれている。新婦の声はいつもながら瑞々しかった。
「うむ。何用あって参ったか」
「わたくし達二人の未来に、祝福をいただきたく存じます」
 オーザンが答える。うなずいて、司祭が説法を始めた。
「ならばまず聞くが良い。大いなる神は人をお作りになられた際、その形質を二つに分けられた。すなわち、男と女である…」
 人類の創造に始まり、聖典にある物語に題材を取りながら夫婦の協力の大切さが繰り返し協調される。ありきたりなようだが既婚者にはそれぞれに何かを感じさせる所があるらしく、視線を合わせる夫婦がいる一方で互いに目をそらす者もいる。そういえばファルラスも妻帯者のはずだが、夫人の姿は今日も見えない。彼一人、ただ前を向いてじっとしているため、タンジェスの位置からはその表情を窺い知ることもできない。
 説法を終えた後、神聖な儀式に入るための祈祷を行い、二人に夫婦の誓いをさせてから今度は新たに夫婦となった者の未来のために祈祷を行う。それが宗教行事としての式の大まかな流れである。披露宴はその後だ。儀式の間何も起こらなければ、それは神が結婚を認めた証とされる。
 もっとも神の意志として式を取りやめるほどの「何か」というと神殿への落雷、地震その他の天変地異で、そのような状況下では宗教以前に社会常識として式が中断される。日を改めて式を行えば、それで済む話である。
 しかしここに神ならぬ人間が実力をもって異論を唱えればどうなるのか…それはもう、なるようにしかならない。
「そして倒れた夫を抱き起こした妻は…」
 話の途中、不意にファルラスが振り向く。それが始まりだった。
「じ、冗談じゃないぞ、あんなの。話が違う」
「やってられるか」
 そして神聖な儀式が、二人の男によって妨害される。入り口を守っていた傭兵達だ。彼等は慌しく中に入ってきて、更に奥へと抜けようとする。神殿の床がわずかに、しかし規則的に振動する。司祭は視線で不届き者をたしなめたが、彼等はそうされていること自体に気がついていない。そんな中、ファルラスは構わず続けるよう身振りでうながした。
「夫の手を取って励ました。すると夫は…」
 司祭も意地になったか説法を継続する。しかしそれも、長い間のことではなかった。振動が徐々に大きくなり、そして重く沈んだ音が耳に残る。やがて場内もざわつき出した。さすがにもう限界だ、そう感じられたその時、何かの気まぐれのように地響きは止んでしまった。全員が黙り込む。これで異常な事態が解消されたとのだと、そのような楽観論にたどりつけた者は一人もいなかったし、現にそう考えるのが妥当だった。扉一枚隔てた向こうに、「何か」いる。
 そしてその「何か」は扉とその周囲の壁と、そして静寂をまとめて叩き壊した。轟音が荒れ狂って耳を打ち、原型を止めず砕け散った扉の破片が宙を舞う。その中心、白煙の中に、逆光を浴びて巨大な陰が黒々と浮かび上がっていた。
 怪物、事情を知らない者は誰もがそう思っただろう。うかつに動いては危険だと考えたか、あるいはもっと原始的な恐怖に取りつかれたのか、誰も動こうとしない。声を上げもしない。再び生じた静寂を破ったのは、一つの叫びだった。
「ミュート!」
 その声にどれほどの想いが込められているのか、余人には想像もつきはしない。しかしそれは確かに、聞く者の心に切れるように響き渡った。怪物…いや、人形の上に、魔術師、ストリアス=ハーミスの姿がある。
「ストリアス…様…」
 純白の衣に身を包んだ花嫁が小さく、しかし確かにかつての恋人の名を呼ぶ。ただそこに込められた想いは、既に彼のものとはすれ違っていた
「…………」
 そして第三の当事者が彼女をかばうように立ちはだかる。遠目にもその震えは明かであったが、それでもオーザンは逃げようとはしなかった。

「そこをどけ! お前のしたことは絶対に許せないが、大人しく彼女を渡すのなら命だけは助けてやる」
「できない。…確かに私にも非はあった。彼女が望むのなら、結婚そのものを止めてもいい。しかし今追われる身の君に渡してしまったらどうなる。辛い目にあわせるだけだ。今ならまだ間に合う。考え直してくれ」
「誰がお前の言うことなど信じるものか!」
 言葉を詰まらせながらのオーザンの抗弁を、ストリアスが一喝して退ける。童顔が、しかし凄まじい形で歪められていた。確かにそうだ。袋叩きにした挙句濡れ衣を着せておいて、今更信用を求めるなど無理な話だ。暴力の代償は、安くない。
「お願いです、ストリアス様、もう止めて…」
 ミュートが訴える。しかし美しい花嫁の懇願する姿は、それを手中にしたいと心の底から願う男を更に奮い立たせるだけだった。
「大丈夫、すぐに終わらせますから」
 一瞬だけ笑みを見せて、そして決然とした様子がその顔を彩る。彼の意のままに動く人形が大きな一歩を進め、床板に罅が入った。
 それが合図だった。参列者がなだれをうって巨大な物体の進路から逃れようとする。彼等を守るべき傭兵達が、先頭に立つ始末だった。これ以上事態を放置しては、混乱が拡大するばかりだ。
「ストリアス=ハーミス!」
 目撃者達にとって、それはあまりにもあっけない幕切れだった。礼拝堂の隅、人形の側方にいつの間にか立っていた人物が既に弓矢で狙いを定めている。魔術師が愕然としてその声に反応しようとしたその刹那、十分に引き絞られた弓から矢が放たれ、そして魔術師の肩に突き刺さった。訓練された射手にとって、一連の問答に要した時間は正確な狙いを定めるのに十分過ぎたのだ。
「くっ…!」
 体の向きを変えようとした所に矢の直撃を受けて、ストリアスの平衡が大きく揺らぐ。立て直そうにも既に矢の刺さった側の腕の自由が効かず、どうにもならない。その体がねじれるようにしながら人形から落下した。形容し難い不気味な音とともに、人体が罅の入った床面に落着する。
「ミュー…ト…」
 その声を聞いたのは、彼に矢を放った者ただ一人だった。
「ふう…」
 射手の溜息だけが、礼拝堂に響く。射手、タンジェスは倒れ伏したストリアスに歩み寄って、その状況を確かめた。更に人形を見上げるが、それは全く動こうとしていない。
「気絶しています。もう大丈夫でしょう」
 安堵の溜息が各所から漏れる。しかし誰よりも安心していたのは、タンジェス自身だったかもしれない。正直な所魔剣を使わずに片をつけたかったのだ。ノーマはああ言うがそれでも畏れ多くて使いづらいし、何よりこの巨大な人形と白兵戦など考えるだけでぞっとする。弓で倒してしまえるのなら、それに越したことはなかった。
 居合わせた多くの人、そして倒されたストリアス自身には不意打ちのように見えた攻撃であったが、別にタンジェスは隠れてなどいなかった。隅の方でじっとしていただけである。全員が巨大な人形とその上の魔術師、そして彼と問答をする新郎新婦に比べれば、その存在感など無きに等しかった。特にストリアスは自分の名を呼ばれるまで、タンジェスの存在に気がついていなかったようだ。しかし戦場で隠れてもいない人間から攻撃を受けるのは受けた側の不覚であって、攻撃した者が卑劣なのではない。
 ここでわざわざ名を呼んだのは、さすがに自分の存在にも気がついていない人間を攻撃するのはためらわれたからだ。かと言って反撃させる余裕を与えるつもりもなく、気づかれた次の瞬間に攻撃している。そうしなければ、自分が倒されていただろう。それが偽善だと誰かが非難するのなら、反論はしないつもりだ。無視するだけである。所詮自分の気持ちの問題なのだから。
「ふむ…聞け、皆の者よ。今見たように、人生には様々な波瀾がつきまとう。しかしながら、それを嘆くことはない。苦境にあっても信仰を忘れぬ者には、必ず救いの手が差し伸べられる。隣人を見るが良い。必ずや汝等の力となろう。恥じる事などない。それは彼に善行を積ましめることであり、また自らはその力があるときに別の者に力を貸せば良い。恥ずべきは助力を拒む高慢と、助力を惜しむ怠惰であり…」
 さすが年の功と言うべきか、司祭はこの騒動をもとっさに説法に結び付けて事態の収拾を開始した。天変地異でもないものに神聖な式の進行を邪魔されてなるものかと、そう考えているのかもしれない。しかしそれに異を唱えたのは、一人の若年者だった。
「お待ち下さい」
 助祭の少女が司祭の脇から制止する。説法の間は特にすることもないので大人しくしていたのだが、突然の行動であった。
「何か」
「動いています」
 白い長衣から伸びる指が、真っ直ぐに人形を指差す。しかしそれはどう見ても、微動だにしていなかった。参列者の間から憫笑が漏れ、物事に動じない司祭も、やや苦笑を浮かべる。
「何を言い出すのかね、あれは…」
 正直な所タンジェスも同意見だった。動いていると言われても、動いていない。少女はもどかしそうな表情を浮かべる。感じていることがうまく言葉にできないようだ。
「確かにおかしいですよ」
 そして彼女に口添えしたのは、他ならぬファルラス=ミストだった。普段うるさい人ではないが、しかし決して口下手ではない。
「完全に動いていないのなら、倒れるはずです。二本の足で立つにはそれなりの力が要りますから。しかしあれは…立ったままです」
 ファルラス自身、助祭の少女、そしてミュート、オーザン、少数の例外を除いた全員が後ずさる。タンジェスもそうしたかったが、しかし自分のなすべきことを放置するほど無責任ではなかった。かがみ込んで再度、ストリアスの状態を確認する。非常時なので迷わずその頬を平手打ちしたが、しかし全く反応はなかった。
「完全に気絶してますよ」
「分かっています。それは…」
「自力で立っています」
 ファルラスの言葉の後半を、助祭が引き継いだ。男の視線は冷たく、少女の視線は鋭く人形を捕らえている。
「馬鹿な、何で…」
 人形の最大の弱点はそれを操る魔術師であったはずだ。それを頼りにしてこれまで作戦を立ててきた。その大前提が、静かに崩れて行く。
「何か自動で動くような命令が仕込まれているようですね。例えばただ立っているだけの命令なら問題はありませんが…」
「力が集まっています」
 ファルラスの分析を、少女が遮った。その意味は、恐らく否定だ。
 それはタンジェスの目にもしっかりと見て取れる。人形の胸部が発光し始めていた。
「危ないっ!」
 自分は無力だ。タンジェスは叫びながら、ただそれだけを感じていた。止めようもなく、燐光が閃光に変わる。それが走った次の瞬間、礼拝堂の床には巨大な裂け目ができていた。全身総毛立つ。幸いそこに呑まれた者はいなかったが、しかしそれは新郎新婦を両岸に分ける形で走っていた。
「ミュート!」
「…………」
 ミュートはオーザンの呼びかけにも答えず、ただ溝を見下ろしている。衣装は純白のまま、負傷はしていない。しかし恐らく精神に来ている。表情も消え、彫像さながらだ。
「ミュート!」
 これまで動けずにいた父親、バクレイが彼女に駆け寄ろうとする。しかし中年に入り、礼服を着込み、何より日頃運動をし付けない人間の動作は悲しいほど遅かった。人形の方が余程速い。大きく一歩を踏み出し、更にまた胸部を光らせる。再び放たれた閃光が父娘の間を分ける。そこで巻き上がった破片に目を打たれて、動けなくなるだけだった。
 その間にも人形が巨大な歩幅で花嫁との距離を詰める。目標は明らかに、彼女だ。
「ミュート様、こちらへ!」
 その中で、それでもミュートを助けようとする者がいる。介添えの女性の一人だった。地味であっても動きやすいとはとても思えない女性の礼装を着ていながら、機敏な動作で花嫁の手をつかんでいる。
「エレーナさん!」
 その声、その横顔は確かに茜商会のエレーナだった。しかしこの瞬間まで、タンジェスはそうと気づいていなかった。タンジェス自身他の人間には先ほどまで気づかれていなかったのだが、しかし彼も主要な人物意外には注意を怠っていたのだ。確かに普段とは全く違う女性らしい服装ではあったが、しかし限度というものがある。少しでも注意を振り向ければ、すぐに分かったことだ。
 タンジェスの声をよそに、彼女はミュートを引っ張って安全な場所へ脱出しようとしている。しかし一人が主体的に動こうとしていない状態で、必要な速度が出るはずもなかった。
「エレーナさん、危ない! 狙われている!」
 距離を詰めつつ更に人形が光線兵器の力を収束する。その攻撃を既に三回目の当たりにしているタンジェスには、どこに狙いがつけられているのか漠然とではあるが見当がついた。今はエレーナに狙点を固定しようとしている。しかし分かるだけでは不毛だ。ストリアスの気絶を確かめようとかがみ込んでいたため、完全に出遅れてしまっている。走ってはいるが、それでも間に合わない。
 彼女一人ならば攻撃を回避できるかもしれない。人形は花嫁に近づくものを全て攻撃対象にしているように見える。だとすれば、その手を放しさえすれば助かるのだ。しかしこの場合、ある意味よりにもよって、エレーナだった。絶対にミュートを見放しなどしない。そして現にそうだった。
 人形の光が耐えがたいほど大きくなる。その時、一つの人影がその前に立ちはだかった。長衣の裾とケープが翻る。助祭の少女だった。彼女と彼女にかばわれる形となった二人の女性、その一群の人影が、人形の前ではあまりに小さい。
「無茶だ!」
 タンジェスの叫びにわずかに遅れて、閃光が放たれる。声の反響は轟音にかき消された。光が荒れ狂って視界を閉ざす。
「駄目か…!」
「いや…」
 ファルラスはなお冷静に状況を見守っていた。確かに少し注意すれば、状況がこれまでとやや異なると気づく。一瞬で収まって巨大な破壊の爪痕を残すはずの光が、しかし直撃を受けたと思われる場所の周囲で舞っている。
 そしてその中心には、今なお一人の少女が立っていた。人形に対して手をかざし、決然とした表情をたたえている。背後の二人の女性もどうやら無事のようだ。
「エレーナさん、今のうちに!」
 ファルラスが鋭い声で指示を飛ばす。うなずいたエレーナは、ミュートを抱きかかえるようにして歩き出した。しかし礼拝堂の奥側の出口は狭く、参列者が殺到している。すぐには出られそうもない。ミュートを守るべく配置された傭兵達は、既に姿を消していた。
 その間にも人形が攻撃を継続する。疲れを知らないのだ。立ちはだかる少女に対し、更に光線を浴びせかける。しかし結果に変わりはなかった。光は少女の手前で拡散してやがて消えて行く。
「術者か」
 タンジェスも状況を理解した。少女は法術を使えるのだ。それもあれだけの破壊力のある攻撃を止められるのだから、その能力はかなり高い。神官なのだから、極度に不思議なことではなかった。それならば、これでひとまず時間が稼げるかもしれない。
 しかしさすがに人形も、通用しない攻撃を三回繰り返しはしてくれなかった。その巨大な腕力で少女を排除しようとする。伸ばされた腕が少女に近づいた瞬間、激しい火花が起こってその動きが止まった。常人には見えない術の力と、人形の物理力が拮抗しているのだ。術に全力を使っているらしい少女の額に汗が浮かぶ。何か手助けをしようにも荒れ狂う火花に阻まれて近寄れない。
 半日とさえ思える一瞬の死闘の末、人形が一度腕を引く。しかしそれは諦めではなく、新たな攻撃の前兆だった。もう片方の腕が大きく振りかぶられている。少女は改めて手をかざし、攻撃を防ごうとしているようだった。
「まずいっ!」
 タンジェスは反射的に飛び出していた。あの勢いで叩きつけられたのでは少女の防壁が突き破られる。瞬間、そう思えたのだ。それが杞憂であるかどうかなど、考えている暇はない。
 唸りを上げた巨大な拳が見えざる防壁に食らいつく。鼓膜を裂くような音とともに、電光がその腕に巻きついた。そこを中心に巨体が大きく振動する。しかし一方で、少女の周囲で何かが確かに崩れていた。先ほどまでとは違う、淡い光が床に流れて行く。恐らく、これまで彼女を守っていた防壁だ。そして振動を続けてなお、人形は全く無防備な彼女に手を伸ばす。ぎりぎりで間に合うかどうか、その刹那にタンジェスにはそう思えた。
 だが、タンジェスの目前で、少女の姿は消えていた。何かが視界を横切った次の瞬間、その姿が完全になくなっている。光ではない。何か影のようなものだった。間に合わなかった…その場ではそうとしか考えられない。
「確かに無茶をし過ぎです、ティアさん」
 しかしやや呆れた様子を交えた若い男の声が、タンジェスの絶望を確かに否定してくれた。人形からかなり距離を稼いだ所で、少女は確かに生きている。そしてその下敷きになるようにして、ファルラスが彼女を抱きかかえていた。
 意図していた所はタンジェス自身と変わりはなかったのだろう。ただ、ファルラスの方が早かった。その動きが見えなかったのは、恐らく少女と人形に全神経を集中していて彼を見ていなかったせいだ。
「しかし…」
 助祭の少女、ティアがファルラスに反発しながら立ちあがる。まだ戦えるとでも言いたいようだが、しかしファルラスはそれを許さなかった。
「大丈夫、彼に任せて下さい」
 ファルラスがそう言ってタンジェスに視線を向ける。しかしタンジェス自身は、もうそれを見ていなかった。
 黒塗りの鞘から長剣を抜き放つ。その刃はどんな炎よりも、そしてどんな流血よりも赤かった。伝説の魔剣、緋い剣だ。それは自ら輝き、礼拝堂を赤く染める。初めて抜いたはずであるのに、しかし吸いつくように手に馴染んだ。軽く重量の均衡が取れている。それが魔剣の力の、ささやかな一端なのだろう。
 一瞬、人形が動かない。同じ魔術の産物として、剣に込められた力がどれほど巨大なものであるかを察知したのかもしれない。しかしそれも所詮、一瞬の事に過ぎなかった。人形にとっては命令の遂行が最優先される。
 再び閃光、攻撃範囲が広く目視するのが難しいほど速度もあるため回避は難しい。タンジェスは左腕を上げて自分の体をかばった。巨大な棍棒でも叩き付けられたような衝撃が腕を襲い、反動で意志に反しての後退を強いられる。しかし最終的に、光線がその体を突き抜けることはなかった。
 タンジェスの左腕、正確に言えばそこにつけられた防具の周囲で電光がうねる。前回の事件で使った魔術を反射する防具は、今回も威力を発揮してくれた。反射された閃光は天井の一部を破壊して空へと抜けている。しかし完全にタンジェスの思惑通りにはならなかった。よろけるほどの反動があるのは予定外だ。恐らく攻撃の出力が強いせいだろうが、防ぐたびに平衡を崩されたのでは反撃できない。何かべつの方法で攻撃する隙を見つけるしかないようだ。
 第二撃も閃光、一度の攻撃で効果がなくとも再度試行するような命令になっているらしい。タンジェスはそれも何とか防いだが、しかしやはり反撃する余裕などなく、また防具にまとわりつく電光はその強さを増していた。鋼鉄の盾も強過ぎる打撃を繰り返されれば割れてしまうのと同様、この魔術の盾もこの破壊力の前にはいずれ破られてしまうのかもしれない。
 わずか二撃で追い詰められた。しかしここ最近不利な戦いばかり強いられている。それがこの場では幸いして、タンジェスは萎縮などしなかった。思い切って相手の懐に飛び込む。射撃武器を使う相手に対しては、接近戦に持ち込むのが戦術の常道だ。
 人形の豪腕が唸りを上げ、その風圧だけでタンジェスの長身が揺らぐ。しかし不意に全力で動いたタンジェスを、人形は完全に捕らえ損ねていた。不用意に繰り出されたその腕に、緋い魔剣が一閃する。
 斬れた。かえって寒気がする程簡単に。まるでそれが、元々砂袋か何かであったようだ。しかし勢いがついたまま斬り落とされ、床に叩き付けられた人形の腕が床に落ちて蜘蛛の巣状に罅を作る。それは確かな硬度があるはずだ。そもそもその腕で、この人形は壁を破って礼拝堂に入ってきたのだから。
 魔剣が紅蓮の炎を吹き上げる。原理はタンジェスの想像の彼方だが、しかしそれには人形の光線以上の破壊力があるるようだ。直撃さえできれば確実に人形を破壊できる。刃と炎の向こう側、隻腕となった巨体は、既に恐るべき存在ではないように思えた。
 二本の腕と脚を持つものにとって、一般的に腕を一本失ったことは、それ以上の戦闘力の喪失を意味する。例え痛みや出血と無縁の人形と言えどもそれは例外ではない。平衡が崩れてしまうのだ。動作は確実に鈍る。
 それを承知か、あるいはそもそも接近戦は不利と判断したのか、人形は後退しながら再び胸部を発光させる。これ以上防ぐよりも一度に片をつけた方がまだ危険が少ないと判断して、タンジェスは追いすがった。幸い、人形は見当違いの方向を狙っている…。
 そこで何かが、タンジェスの脳裏にひらめいた。相手は一対一で勝負をつける騎士道精神の持ち主とは限らない。別の目標を狙って来るものもいる。それは初めての実戦で得た、苦い戦訓だった。
 見当違いの方向ではない。タンジェスの右後方、そこにはようやく出口に達した花嫁がいた。人形はあくまで彼女を狙っているのだ。タンジェスを攻撃しようとしたのはその目的を妨害するものだと判断した、言わば二次的なものである。
 しかし花嫁の周囲には、逃げ送れている人がまだ大勢いる。エレーナもいる。ファルラスもその方向に後退しようとしている所だった。その一方で頼りになるはずのティアは、強引に逃げようとしているものに突き飛ばされたらしい女性を抱きかかえていて、こちらを見ていない。光線の直撃を受ければ、まとめて薙ぎ払われる。
「ふざけろっ!」
 その光景を想像した瞬間、脳が沸騰した。考える前に体が反応している。そして振りかざされた魔剣の刃に、光線が直撃した。赤い炎と白い光が絡み合い、巨大なエネルギーが中空に蓄積される。一瞬にも満たない間に飽和状態に達したその力は、その場で爆発した。
「…………!」
 溢れ出した光が視界を、轟音が聴覚を閉ざす。それでも自分が死んでいないと教えてくれたのは、腕の痛みだった。衝撃がタンジェスの握力を大きく上回り、剣が弾き飛ばされる。そこで生じた痛みだ。
 盾を持って攻撃線上に移動していたのでは間に合わない。だから腕を伸ばし、剣の刃で光線を受け止めようとした。それが自分の直感的な判断だったのだと、その時理解する。しかし衝撃に負けて剣を最後まで持っていることができなかった。
「無事か!」
 とりあえず叫ばずにいられない。これで返答がなければ、終わりだ。しかし確かに声が返ってくる。
「何とか。それよりタンジェスさん!」
 まだ耳が完全には働いていないが、それでも辛うじて聞き取れた。ファルラスだ。彼はタンジェス自身を除けば最も人形に近い位置にいたのだから、恐らく他の人も無事なのだろう。しかし何が「それより」なのか、タンジェスはその意味を一瞬以上把握し損ねていた。
 タンジェスの手を離れた魔剣が床に突き刺さる。飛ばされた時点で相当な勢いがついていたために、その着地点はかなり遠かった。人形の攻撃から人々を守る代償として、彼は最強の、いや唯一の武器を失ったのである。今この瞬間、最も危険にさらされているのは他の誰でもなくタンジェス自身だ。自分自身の安全を失念していたのである。
「くっ…!」
 自分の命が惜しいのなら、早々に逃げを決め込むべきだ。反撃をするにしても、とりあえず剣を拾い上げなければならない。しかしここでもしタンジェスが人形の正面を離れてしまえば、その攻撃は必ず花嫁の周辺に向かってくる。最低限彼女達がこの場を離れるまで、持ちこたえなければならない。むしろ進んで、タンジェスは人形の前に立ちはだかった。
 蝿でも追い払うかのように、人形の腕が振るわれる。実際剣を失ったタンジェスの攻撃力は、この人形に対して無に等しい。片腕を失い平衡を失ったために人形の動きは鈍っている。しかしどれほど相手に隙が大きくとも、有効な武器を持っていない以上避ける他なかった。それも背後の人々をかばっている以上脇に避けることも下がり過ぎることもできない。その都度見極めをつけながら最小限に下がる、できるのはそれだけだ。
 幸い動作の機敏さではタンジェスに大きな分がある。振り回される腕を避けるだけなら、直撃を受ける可能性は低い。しかしタンジェス自身が誰よりも警戒している通り、人形の攻撃方法はそれだけではない。最早案の定、人形の胸部が発光していた。
 次は光線が来る。完全に読めているから避けられるのだが、しかし背後の人々を考えればやはり受け止めざるを得ない。左腕に右手を添え、両足を踏ん張る。
 そして正面からの閃光、防御に専念していたため極度に平衡を崩しはしなかったが、しかし頼みの綱である魔術の盾からは、今や耐えず火花が落ちていた。いつ破られてもおかしくない。反射された光は人形の脇の床を大きくえぐっており、無言の内でも苛立たしいほど執拗にその破壊力を物語る。
 二者択一だな、とタンジェスはどこか冷めた頭で考えた。このまま留まって最後まで自分の義務を全うするか、あるいは逃げてしまうか。名誉か生命か、どちらかだ。
 タンジェスが犠牲になれば少なくともその分の時間は稼げる。それでミュートらは助かるかもしれないし、結局追いつかれるかもしれない。それはもう、結果論だ。しかし少なくとも、最後まで努力を惜しまなかったものが非難されることはまれだ。
 一方逃げれば、まず間違いなく自分の命は助かるだろう。感情を持たず命令を遂行するだけの人形にとって、タンジェスは所詮邪魔者、障害物でしかない。それがどきさえすればどうでも良くなる。しかしその後は正当なものから的を外したものまで、あらゆる非難を覚悟しなければならない。勇戦しながら最後の瞬間に身を翻したばかりにその後の人生を駄目にした騎士などいくらでもいる。人間の人間に対する評価など、所詮不公平だ。
 生きるのにも死ぬのにも、勇気は要りようであるらしい。さてどうしようか…。
「タンジェスさん、剣を!」
 その声は生きろと言っていた。ファルラスが弾き飛ばされた魔剣を拾い上げ、タンジェスに向けて投げる機会をうかがっている。それが迷いを吹き飛ばした。
 ファルラスが剣を投げて、それを受け止めてから攻撃する。普通に考えればごく短い時間も、戦闘に関しては恐ろしく長い。下手に剣に注意を向け過ぎると、一撃を受けてそれまでである。かと言って取り損ねるなどしたらもうどうにもならない。一瞬以上、その長い時間を稼がなければならなかった。しかしそれには余程強力な攻撃を当てなければならない。意表を突いた行動など、この相手に通用などしないだろう。自己矛盾だ。
 タンジェスの盾がそろそろ限界を迎えているのが分かっているのか、人形は更に光線を蓄積する。膨れ上がって行く光を正面から見据えながら、タンジェスは全身の筋肉をたわめた。
 そして視界が漂白される。その光の中心めがけて、タンジェスは飛び込んだ。正面にかざした左腕にも、それを支える右腕にも、ちぎれるような圧力がかかる。ここで抵抗を止めて死んだら多分楽だと、ふとそう思えた。一瞬で済む。刺し殺されたり、あるいは病み衰えて死ぬよりは苦痛が少ないだろう。
 しかし体がそれを許さない。痺れがその全てを覆ってなお、腕が下がることはなかった。
「おおおおっ!」
 知らぬ間に咆哮している。そして光がやんだとき、彼が立っていたのは天国でも地獄でもなく、アナクレア神殿の礼拝堂、そして人形の目の前だった。
 人形の巨躯が大きく揺らぐ。その頭部は半ば欠落していた。至近距離で反射された光線が人形自身に返っていたのである。もちろんタンジェスはそれを狙っていた。距離を詰めたのは、確実に反射光を命中させるためである。
「剣を!」
 今しかない。タンジェスが手をかざしたその時、既に魔剣は投じられていた。それさえも魔術であるかのように、その柄が吸いつくようにタンジェスの手に収まる。そして向き直った彼が見たものは、多くの部分を失ってなお腕を振りかざし、自分を攻撃しようとする人形の姿だった。それには口さえ与えられていない。しかしその時、その叫びが聞こえたような気がした。
 巨腕の一振りが気流をねじまげる。魔剣の閃きは、わずかに遅れていた。
 二つの影が交錯する。そしてその一方が崩れ落ちるまでに、長い間があったようだった。落ちた腕が床面に新たな罅を作る。そしてその上に、胴体部が落ちかかっていた。
「…やったか」

 そこまで終わってから、タンジェスはようやくつぶやいた。まるで自分の戦果を確認するように。そこにあるのは既に、ただの残骸だった。その光景にタンジェスは苦笑を浮かべる。それが何故快心の笑みではなく苦笑なのか、少なくとも彼自身には分からなかった。
 分からないまま膝をつき、そして床に倒れる。落ちつきかけた埃が、再び宙に舞った。
「生きてます…よね?」
 歩み寄ったファルラスが声をかける。タンジェスは小さくうなずいた。
「大した怪我もしていませんよ、多分。ただ、疲れました。休ませて下さい」
「分かりました。場所が場所ですからゆっくりととは言えませんが、しばらくはそうしていて下さい。後始末は我々の仕事でしょうしね。新たな戦いに赴くのにも、休息は必要でしょう」
 ファルラスが身を翻す。タンジェスは何となく、そのままの姿勢でそれを見送った。
「…風邪を引きます」
 と、いきなりタンジェスの体にケープがかけられた。ティアが真剣な面持ちで、彼を見下ろしていた。
「…どうも。それにさっきはありがとうございました。お陰で死人を出さずに済みましたよ」
「自分の務めを果たしただけです」
 素っ気ない。仕方なく、タンジェスも相手の調子に合わせることにした。
「他に重傷者がいなければ、あいつも見てやって下さい。切り札を失った今、起きたとしてもそう問題はないでしょう。死んではいないですけれど、あのまま放っておくのもなんですしね。この一件、あいつだけが悪いんじゃないんですよ」
「はい」
 微笑んでから、ティアは倒れたままのストリアスへと歩み寄る。タンジェスは少し驚いたが、しかしそれもすぐにどうでも良くなってきた。とにかく今は、何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。埃まみれの冷たい床と、温かいケープの取り合わせが妙に心地よかった。

 神殿の入り口は大きく破壊され、中の様子をうかがえる。しかし何か極めて危険な事件が起きているとは明らかであるため、近寄るような無謀な野次馬はいない。しかしその中で、平然とその近くに立っている一群の人影があった。
「無事に済んだようだな」
 深い青に染められたマントを羽織った男がまず口を開く。答えたのは、漆黒の装いをした男だった。
「はい。少々予定とは異なったようですが…恐らく問題はないでしょう」
 近衛騎士、ノーマ=サイエンフォートは秀麗な面差しに笑みを浮かべる。うなずいた男の顔立ちもノーマに劣らず整っているが、こちらは表情を崩していない。
「これで彼の停学を解いても問題はないだろう。国軍の出動という最悪の事態を防いだ、十分な功績だ」
「はい。士官学校にそう伝えておきます」
「先程話に出た少年のことですか。それでしたら、ずいぶんと回り道をさせたのではないでしょうか。騎士として叙勲するにも十分な功績でしょう」
 口を挟んだのは、今一人の人物だった。白いマントに身を包んだ、小柄な女性だ。ノーマは目をそらすが、もう一人は正面から答える。
「急ぐ必要はない。ただひたすら勝利を求めなければならない時代は、もう終わろうとしている。ゆっくりとでも確実に歩いて行けば良い。最も多くの勝利を収め、敵という敵を全て殺し尽くした、戦乱の時代を誰よりも速く駆け抜けたあの男が今何をしているか、君も知っているだろう」
「それは…そうですが。不公平ではありませんか」
「天運に左右されるのも武門の習いだ。それに大丈夫、彼はいい騎士になる。今はそれで十分だろう」
 軽く女の肩を叩いて、男は神殿へ向けて歩き出した。ノーマが少し目を見開く。
「どちらへ?」
「彼の所へに決まっている。勝者を称え、そして労をねぎらうのも私の務めだ」
「あ、じゃあ私もお供します。ティアの様子も気になりますし」
 仲良く歩き出そうとする二人を、ノーマは慌てて止めなければならなかった。
「お止め下さい、お二方とも! せっかく騒ぎが収まったのに、また別の騒動を起こすおつもりですか。それに午後の式典はどうなさるのです。必ず戻るというお約束をいただいてお供致しましたのに、それでは話が違います」
「私をそんな、例の人形と同列に扱わずとも良いだろう。それに式典なら、少し遅らせればいい。出ないとは言っていない」
「そうそう。ノーマくん…じゃなかった、ノーマ卿、お願い、見逃して」
「駄目です」
 不本意そうな抗弁と、愛嬌での誤魔化しを、ノーマは一蹴した。更に止めを刺しに入る。
「御立場をお考え下さい、国王陛下」
「国王」の部分を特に強調して発音する。この先の議論の筋が読めたので、男としては黙らざるを得なかった。恐らく言い負ける。身分が高くなればなるほど人間は自由になるわけでもない。むしろ逆の場合の方が多いものだ。
「あ、じゃあわたし一人で…」
 女が半ば逃げるように動いたが、しかし睨み付けられて足を止めざるを得なかった。
「妃殿下。施寮院の院長、宗教界の指導者のお一人でもあられるあなた様が神殿にお入りになればどうなるか、当然お考えでしょう」
「あ、いや、それは…もちろん考えてるけど、でもほら、さっき話したでしょう。うちのティアが心配なのよ」
「ティア嬢の能力を信用なさっていないのですか。でしたら始めから送り出さねば良いでしょうに」
「う…」
 それ見たことか、と言いたげな視線を国王が院長に向ける。院長はそれに気づいていたが、悔しいので見えない振りをした。
 二人とも反論に詰まったのを見定めてから、ノーマがようやく表情を和らげる。
「ひとまず今は、お二人に代わってわたしが神殿に参ります。剣も返してもらわなければなりませんしね。ですからお二人は、王宮へお戻り下さい」
「あ、ずるい…ノーマ君だって閲兵式には出なきゃならないのよ」
 院長がごねるが、それを国王が制した。
「分かった。君に任せよう」
「ありがとうございます」
 国王は今来た道を、ノーマは神殿へとそれぞれ歩き出す。院長は一瞬迷った末、仕方なく国王について行くことにした。
「釈然としません」
 しかし納得はしていない。待たせたいた馬への騎乗を既に済ませている国王に向けてそうこぼす。国王は苦笑しながら彼女に手を貸して、自分の前に座らせた。
「私も一面としては同感だが、しかし仕方がないのだろう。若い世代は確実に育っている。まだ手助けが必要とはいえ、次第にそれも抑えて行かなければそれ以上伸ばすことが難しくなる。ノーマを見ただろう。あれだけ師匠に忠実な男が、あの剣を一時的にでも手放した。彼自身が我々の期待を大きく超えて成長しているし、後進の者を信頼することを覚えていると、そうは思わないか?」
「分かりますけど…でも、それって自分がずいぶん年を取ったような気がしませんか」
「精神的な中年化」
 の一言は、彼女にまだ突き刺さっていた。国王は一度首を傾げてから、くすくすと笑い出す。
「わ、笑うことないでしょう!」
 からかうとむきになって面白い所を含めて変わっていない。国王はそう思えたのだが、もちろんそれを教えはしなかった。ただ抗議と笑いを残して、騎影は街路に消えて行った。

 先日院長をからかって遊んだ男は、この時無表情にミュートを見下ろしていた。彼女は負傷こそしていないものの何かと衝撃が大きかったらしく、また逃げる人波に巻き込まれてしまったため意識を失っていた。先程まではエレーナも付き添っていたのだが、ひとまず手がかからなくなったのでティアの手伝いに回っている。
 やがて休ませた効果があって、ミュートはうっすらと目を開いた。
「…気がつきましたね」
 彼女は横たわったまま小さくうなずいた。しかしまだ状況が把握できていないらしく、視線を泳がせる。
「神殿の奥の部屋を少しお借りしています。あなたを休ませた方が良いと思ったものですから」
「…はい」
「片はつきましたよ。少々予定を外れましたが、しかしノーマ卿の英断のお陰で重傷者も出ていません。いや…ストリアスさんだけはさすがに別ですが、しかし命に別状はないとのことです。お父上とオーザンさんも軽傷、今手当てを受けている所です」
「…そうですか」
 ミュートはわずかではあったが顔をほころばせた。
「喉が乾いていませんか」
 エレーナがあらかじめ用意していた水差しと杯をファルラスが示す。言われてみると確かに水が欲しい。ミュートは身を起こし、ファルラスが水を注いだ杯を受け取った。ただの水が、しかし驚くほど心地よい。彼女にしては勢い良く飲み干して行くその姿を、ファルラスはいつものように笑って眺めていた。そして杯の水がなくなった所で話しかける。
「まあこれに懲りて、関係をきちんと清算する能力もないくせに男遊びをするなんて愚行は以後控えて下さい」
 その言葉が無造作に投げ出されたのは、あまりに唐突だった。声の調子も全くいつものままだ。そのためミュートは杯を取り落としさえしなかった。
「……?」
「あなたにとってストリアスさんは遊びに過ぎなかった。物珍しかったんでしょう? 魔術師が。しかし彼が熱を上げるにつれてそれが面倒になった。あなたは魔術師の妻などになりたくはなかったから。この商会を出るとなると、今まで通りの暮らしは難しいですものね。そこへ渡りに船とばかりに現れたのがオーザンさん、彼ならば大人しく婿養子になってくれますし、ジアル商会の後継者としての才覚も十分にある。彼が相手であれば、今まで通りの暮らしが維持できるという訳です。いや、それとも始めから目をつけていて、彼がその気を起こすように仕向けましたか? あなたならそのくらいやりかねませんが。まあその辺の事実関係はどうでもいいとして、うまくあなたにたぶらかされたオーザンさんはあなたに結婚を申し込み、以下の事情は皆も良く知る通り…と、この事件の顛末はこんなものでしょう」
 穏やかな笑顔でファルラスが語ったのは、しかし激しい罵倒に等しかった。それに毒された空気が重く濃厚にミュートに絡みつく。やがて彼女は、はらはらと落涙した。あの騒ぎの中でも奇跡的に汚れていない、純白の衣装に大きな染みができて行く。
「フ…ファルラス様…どうして、そんな…酷いことをおっしゃいますの? わたくしは…」
「あなたは幸せな人だ。泣けば許されると思っている。例えば泣き叫んでやめてと言っている女性を十数人がかりで輪姦しているとか、そういう光景をご覧になったことはありませんか? そう言えばあの人は今元気にしているでしょうか…。ちなみに犯している側の男たちは、どういう訳かその直後に全員死んでいるのですけれどね。そんなことも十年前までは、この町でだって珍しくはありませんでしたよ」
 ファルラスはまだ笑っている。この時ミュートはようやく、この男も自分の顔の皮一枚くらい意のままに操れる類の人間なのだと理解した。その善意を当てにしても全く無益だ。そうすると彼女の涙は、急速に乾いて行く。
「…何か勘違いをなさっているのではありませんか」
「ほう…さすがですね。伊達に男を何人も手玉にとってはいない。その気丈さは敬意に値しますが、しかし賢明とは言えませんね。自分さえ黙っていれば秘密は漏れないと、本気で思っているのですか? まあそれで今までお父上もオーザンさんもストリアスさんもだましおおせて来たのですから、無理もないことかもしれませんが。…役者のラムセールと服屋のミドン、それからジアル商会の手代デセオ、後何人かいるそうですが、一々覚えていられませんね」
 それは確かに全て、ミュートが関係を持った男の名前だった。愕然とした彼女に、ファルラスが淡々と事情を説明する。
「調べれば簡単に分かることなんですよ、このくらいは。特に当商会のエレーナは実に優秀な調査員ですから。お客様の身辺調査をするのは、私のように取引先が一定しない反面取引額の多い業者にとって、当然の措置なんです」
「…わたくしに何をお望みですか」
 彼女は無表情に尋ねた。正体の掴めない相手に対しては、それが最後の防壁だ。
 ファルラスは笑った。貼りついた仮面の笑みではない、心底楽しそうな笑顔だった。
「お幸せに」
「…………」
 混乱したミュートを見て、ファルラスはまた笑った。
「別にあなたに要求しなければならないことなんて、私には何一つないんです。はした金をせびり取らなければならないほど生活には困っていませんし、偽りの愛情も欲しくはありません。それにあなたを弾劾するつもりもありません。私はあなたの父親でも夫でもないのですから、関係のない話です」
「では、何故…」
 息が詰まる。相手の求めるものを与える、相手の望む形の女を演じる、それが彼女の処世術だった。それを武器にして今日まで、自分の欲望を充足させてきたのである。ストリアスの行動は予想外だったが、結局彼も退けられた。何もかもうまく行った、はずだった。
 しかしファルラスは何も求めようとしない。それは彼女にとって、まるで闇そのもののように、得体の知れない恐怖だった。そしてまた、その表情が仮面の笑みの中に消える。
「あなたにはむしろ感謝しています。今回いただいた仕事は大きな黒字になりますし、多数の参列者の前で私がご紹介した方の力を示したことは大きな宣伝になります。生活に困っていないとは言え、事業に失敗したとなると外聞をはばかりますのでね」
「わたくしたちを、利用した…」
「人間は助け合って生きて行くものですよ」
 ミュートは絶句した。
「そして何より、将来を危うくした一人の若者に立ち直る機会を与えてくれました。ですから、これは親切心からの忠告です。柄にもないのですがね。男遊びを繰り返すのなら、綺麗に手の切れる相手を選ぶことです。その程度の見極めもつけられずに手当たり次第に食っていたのでは、この先何度でも痛い目を見ますよ」
「わたくしは…」
「確かにあなたにとってオーザンさんは物足りないでしょう。善良で商人としても将来は有望ですが、その実直さは反面面白味を欠きます。しかし状況がこうなったからには、我慢して下さい。そうすれば誰も悲しまずに済みます。結婚してめでたしめでたし、それで良いではありませんか」
「…無理でしょうね、わたくしには」
 花嫁は薄く笑った。それがファルラスが初めて見た、彼女の本当の表情だったのかもしれない。ファルラスは薄く、笑い返した。
「自分の人生を決めてかかるには、あなたもまだ早過ぎるのではありませんかね。努力もしないうちに諦めるのは怠惰というものですよ。ま、私も成果を期待している訳ではありませんが…」
「…………」
「いずれにせよあなた自身の人生です。ご自分でその行く末を決めて行けばいい」
 ファルラスは立ち上がって、部屋を出ようとした。しかし戸口でふと振り返る。
「そうそう、茜商会には修羅場に強い人材の当てもございます。この先また男関係でお困りになるようでしたら、是非当商会にご用命下さい。それでは」
 丁寧に頭を下げて退出する。これがミュートにとって、ファルラスと言葉を交わした最後の機会となった。

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