王都シリーズ外伝
王都士官学校日誌
王立士官学校練武場、そこは主な利用者である学生たちにとって、基本的に印象の良くない施設である。日夜武術の訓練が行われ、少しでも教官の要求を満たせないものには情容赦のない檄が飛ぶ。将来将軍となることを夢見て、過酷な訓練を覚悟で入学した学生達ではあるが、はっきり言って辛い物は辛い。
「んっ、久し振りだなあ」
タンジェス=ラントの印象も概ね他の学生達とは異ならないが、しかししばらくぶりに見るそこは、どこか感慨深いものがあった。ゆっくりと、広い練武場を見渡す。ある失態により停学処分を受けた彼であったが、武勲を上げて晴れて処分が解かれ、その最初の授業がここで行われる基礎剣術だった。何となく、一番乗りで来てしまっている。
なお、基礎剣術という科目名は、屋外あるいは多数対多数など実戦に近い形で行われる応用剣術との対比で用いられているもので、授業内容そのものは相当高度である。そもそも入学試験の科目の一つに剣術があるので、普通の意味での基礎ができていない者はその時点で落とされてしまう。一対一、普通の屋内で行う剣術の事を、この士官学校では基礎と形容しているのだ。
「そんなに長い間だったかな」
タンジェスの感慨を破ったのは、背後からの声だった。瑞々しさと涼しさが調和した、そんな響きがある。彼にとっては聞き慣れたものだった。
「気分の問題だからな」
振りかえるとそこには、予想した通りの人物が立っていた。タンジェス同様武術訓練の支度を整えた学生である。身長はタンジェスよりわずかに低いが、タンジェス自身背が高いので、これは平均以上だ。長い手足の骨格を機能的に引き締まった筋肉が覆っている、剣士として理想的な体格である。
「なら久し振りだ、タンジェス」
学生は笑って挨拶をした。印象的なのは暗褐色に輝く双眸、そして三つ編みにした同色の長い髪だ。
「ああ、久し振り、でこすけ」
タンジェスは笑って挨拶を返す。分かってやっていることであるが、激烈な反応は必至だった。
「帰って来るなりそれかっ!」
力の限りを尽して怒鳴る。しかしあらかじめ耳を手で覆っていたタンジェスに対しては、効果が薄い。
「いや、久し振りだから、ついね」
「何が『つい』だ、何が! 私の名前は」
「言われなくても分かってるよ、マーシェ=クラブレン」
級友の名前くらい当然覚えている。ましてやそれが、自分であだ名をつけた相手とあっては。マーシェ=クラブレン、通称「でこすけ」これを略して「でこ」、入学以来の付き合いだ。
あだ名の由来はもちろん、その秀でた額である。邪魔にならないよう髪の毛を編んで後ろに回しているので、良く見えるのだ。命名者は悪気のない愛称だと主張するが、本人がそう感じていないことは言うまでもない。
「大体だな、前から言おうと思っていたが、君も額を出しているじゃないか」
確かにタンジェスも、髪を短くしているので額は見える。しかし彼は自信を持って自分の短い髪をかきあげて見せた。
「面積が違うだろ」
「うぐっ」
止せばいいのに正論で反論しようとする、それが「つい」タンジェスがからかってしまう理由だった。融通が利かないわけではないが、基本的に生真面目な性格である。ひとまず相手を黙らせたので、タンジェスもこれ以上の攻撃は止めた。
「気にしてるのなら前髪下ろして隠せばいいって、これも前から言ってたっけな」
「見て分からないか?」
ものすごく不機嫌そうに、マーシェは応じる。そういわれてみれば確かに、以前は全て後ろでまとめられていた髪が、今はある程度前にたらされていた。でこすけとか言われていたのを気にしたらしいが、しかしタンジェスにとってはそれもどこかおかしく思える。
「大体さ、どうせならさっぱり切ればいいじゃないか、このくらいに」
「髪は女の命だ!」
「へえへえ」
そう言われると反論のしようがない。マーシェの性別は女性、つまり士官学校では極少数派の女子学生の一人だ。
女だてらに士官学校に入るだけあって、その実力は相当なものである。剣術の腕はタンジェスを上回る、と言うより技術面では同学年で最高と認められているのだ。腕力的にも女性としては恵まれた体格から、タンジェスとほとんど変わりはない。彼女と同じ学年で互角に渡り合えるのは、学年一の巨漢だけである。学業成績も、首位集団の一角を形成している。実家が名門だとかで、そこで幼い頃から剣術も兵学も修めている、とのことだった。
「本当に、色々あったと聞いているが、相変わらずだな」
怒りのために額にわずかに浮かんだ汗をぬぐいながら、マーシェが溜息をつく。タンジェスは笑わなかった。
「変わってたまるかよ」
タンジェス本人は気がついていないが、しかし語気が強まっている。事情はわからないがうかつに踏み入るのはまずいとおもって、マーシェは話題を変えることにした。正確に言えば、からかわれたために入れなかった本題に移ったのである。
「所でノーマ卿に剣術を教わったと聞いたが」
「何だ、女子寮にまで話が行ってるのか」
今朝顔を見せた男子寮で、タンジェスは根掘り葉掘り聞かれたものだ。ノーマ卿、と言えばかつて戦乱の事態に最強をうたわれた戦士の、ただ一人の弟子である。今の時点でもタンジェスやマーシェらと数歳しか年は変わらないはずだが、既に王都屈指と言われる剣客だ。
「むしろこっちでは持ちきりだよ。まあ内容的にはあのノーマ卿につきっきりで教えてもらってうらやましいと、そんな所だが」
「アホらしい。あの人の鍛え方と来たらここ以上にきついんだぞ。ちょっと本気を出しただけでぞっとするような威圧感があるし、防具ごしとは言え思いっきり殴られるし、洒落にならなかったよ。感謝はしてるけど、でもうらやましがられるようなものじゃない、絶対」
「想像がつかないな。まあ私は遠巻きに見たことがあるだけだから、偉そうには言えないが」
「普段は見かけ通りのいい人なんだけどね。しかし伝説と言われる剣術は伊達じゃないよ、うん」
「ふうん。しかし私としては今、むしろ伝説の剣術よりも、君がそこから何を学び取ったかに興味があるな」
マーシェの瞳が好戦的に輝く。天才肌の剣術使いにはしばしば見られることではあるが、彼女も強い相手との勝負を楽しむ所がある。それで今日は、タンジェスに目をつけているのだった。対するタンジェスの反応は、むしろ冷めている。
「大したことは教わってないぞ。教え方が悪かった訳じゃないけれど、何しろ半日だけだったからな。たったそれだけでぐっと強くなれるほど、俺は天才じゃない」
「ふうん。しかしまあ、それも試してみなければ分からないとは思わないか? 良ければじかに成果の程を見せてもらいたいところだが」
「ああ。じゃあひと勝負するとしようか。むしろこっちから頼もうと思ってたしな。でも後で、失望したなんてなじらないでくれよ」
マーシェは軽くであったが目を見張った。停学前のタンジェスであれば、渋っていた所だ。
これは無理もない話で、運がないのか相性が悪いのか、タンジェスはこれまでマーシェから一本も取っていない。いくら彼女が強いとは言っても極端にぬきんでてはいないので、他の学生からは一本取られたことはある。剣術の技量では上位集団に入るタンジェスであればいつ一本取ってもおかしくないのだが、しかし何故か駄目なのだった。タンジェスも負けるのが好きではないので、いつしか自然と避けるようになる。マーシェとしてもそれは承知しているから、ここ最近は彼女から試合を申し込んではいなかった。
そのようないきさつがあるから、彼女は試合を承諾させるにあたって多少の苦労を覚悟していた。それがごく簡単に、むしろ自分から試合がしたいとの口ぶりで受けてくれる。拍子抜けと言えば、拍子抜けだった。実戦を経験したため自信をつけたのかとも思えたが、しかし本人が言う通りその表情に気負った様子はない。肩の力も抜いている。
不思議そうな顔に、タンジェスも不思議そうな顔を返した。
「ん? 俺の顔に何かついてるか?」
「いや」
「そう言えば変わったかな、確かに」
タンジェスは苦笑して、しかしそれ以上質問に答えようとはしなかった。やがて他の学生達、教官も姿を現して、授業が始まった。
準備運動から木剣の素振り、型に従った撃ち合い。と、普段通りの過程をこなす。これだけでも汗をかくし、そうしなければやっている意味がない。下手に手を抜けば、怪我をするのは本人である。準備運動を欠けば簡単に筋を痛めるし、そうでなかったとしても、体が温まっていなければ後の試合で叩かれる。そうそう不真面目にやる者はいない。
「気を抜くな! さもないと自分に突き刺さった剣を見ながら後悔するぞ!」
それでも教官の檄が飛ぶ。しかし実戦経験のない学生達に、言葉だけで完全にはその切迫感を伝えられない。結果、できの悪い連中には実力行使が待っている。理不尽な暴力を振るうほど人格的に問題のある教官はいないが、しかし隙のある人間に情容赦のない一撃を叩き込むくらいは日常茶飯事だ。この学校は詰まる所軍隊の下部組織であり、軍隊とはそういう世界である。
一通りの過程を終えたところで、授業は一対一での試合形式に移る。学生同士の試合が基本だが、教官から指名され、あるいは学生の要請で教官対学生で行われる試合も珍しくはない。要は場合によりけり、教官あるいは学生が、最適と思われる方法を選択するのである。
「タンジェス、勝負だ! 停学でなまった体を叩き直してやるぜ」
ここでまずタンジェスに突っかかってきたのは、何かと彼を敵視するバイア=レームだった。対戦成績はタンジェスに分があるので、普段なら返り討ちにしてやると応じる所だが、今日はそうもいかない。
「悪いな。先約がある。また後で」
軽く手を振って背を向ける。逃げるか、などの罵声がかかったが、タンジェスは相手にしなかった。
「譲ってもいいけれど」
一応マーシェが言うが、タンジェスは首を振る。
「奴とはやり飽きてるからね。さ、それよりさっさと始めるとしよう」
軽く笑いながら、タンジェスは手際良く戦闘場所を確保した。このあたりの要領の良さは、マーシェが彼を見て感心させられる所である。しかし以前の彼であれば、そうしているうちにもっと真剣な表情になったものだ。やはり変わったな、とマーシェは感じる。
「いや、一手御教授願おう、かな?」
変わった点がもう一つ、以前の彼であれば恐らく吐かなかったであろう台詞を、タンジェスは口にした。これは通常、師匠や兄弟子、あるいは社会的に実力の認められている剣士など対して使う言葉だ。つまりマーシェを格上として認めていることになる。いくらこれまで対戦成績が悪いとは言え、同じ学年の学生同士でここまで謙虚になる者は少ない。
「ん、ああ。こちらこそよろしく」
多少調子を狂わされながらも、マーシェは剣闘礼を取ってから構えた。タンジェスも同様の動作をして、構える。するともう、柔らかい表情は消えていた。
「行くぞ」
「来い」
試合形式と言っても、審判は置かずに二人だけで行われる場合がほとんどである。騎士やそれを志すものであれば、打ち込まれた際には素直に負けを認めるべし、そのような考え方をするからだ。それに個別の試合にはつかないにせよ、教官がまんべんなく目を光らせているので、卑劣な振舞いが多いと最悪の場合騎士として不適格とみなされ、退学処分を受けかねない。やはり真面目にやるのが一番だ。
開始の機会も、本人達の判断次第である。自分と相手が態勢を整えたと見える時点で、始めれば良い。
「ふうっ!」
一瞬だけ先に動いたのは、タンジェスだった。短い息と共に、勢い良く距離を詰める。しかし大上段からではなく、姿勢が低い。喉元に襲いかかる、猟犬さながらだ。
「くっ!」
正面からは受け切れない。そう判断したマーシェは、まず身をかわそうとした。返し技で相手を倒す、それが彼女の基本的な戦術である。優れた技術を最大限に活用できる、もっとも的確な対応だ。
「はあっ!」
無論タンジェスはそうさせまいと剣を振るう。自分の勢いを殺さぬまま、横殴りに叩きつけた。
「んくっ!」
牽制のための攻撃であるから当たりはしない。マーシェはきちんと防いでいる。しかし衝撃力が大きく、態勢を崩されてしまった。一方のタンジェスも、完全に勢い余っているのでそれにつけ込むほどの余力はない。両者とも足を叩きつけるようにして踏ん張り、態勢を立て直す。
「はっ!」
強烈な負荷のかかった床が悲鳴を上げる。それとタンジェスの気合の声が重なっていた。立て直しざまにしかけたのだ。これもマーシェは防いだが、しかしその目が大きく見開かれる。ここまで強引に攻めて来るとは予想外だったのだ。
マーシェの驚きなどを意に介さず、タンジェスは攻め続ける。雄叫びに近い気合を上げ、一撃一撃刻み込むように重い打撃を繰り出す。小技に走らない、半ば力づくの攻撃だ。
「おおおおおあっ!」
「くうっ!」
女性といえどもマーシェの腕力はタンジェスに劣らない。激しい攻撃を良く防ぐ。しかし何度か打ち合うに連れて、タンジェスの執拗さには違和感を覚えざるを得なかった。ぎらつく視線が自分をとらえて放さない。殺意があるのではないか、そうとさえ感じられた。そんなはずはないと理性で抑えつけても、感情が頭をもたげてくる。
それを振り払おうと、マーシェは勢い良く剣を振るった。
「てやあっ!」
タンジェス以上に強烈な一撃が空間を両断する。そしてそれは、それだけだった。
「ふうっ」
タンジェスは通常よりわずかに大ぶりな攻撃を見切り、かわしている。それまでとは一転して鋭く、小さく動いた剣が真っ直ぐにマーシェの眉間に突き込まれた。
視界が暗転する。それが単に、自分が目をつぶっているためだと気づくまでに、マーシェはしばらくの時間を要した。剣先が触れてはいるが、しかしそれ以上奥になど届いていない。
「ああ。剣術は殺し合いなんだから一瞬でも気を抜くもんじゃない。ノーマ卿から俺が学び取れたのは、詰まる所その程度だな」
そこに勝利の喜びはなく、剣を引くタンジェスの目はどこまでも冷たかった。そしてそれがまるでなかったことのように心配そうな様子で歩み寄り、マーシェの眉間を覗き込む。
「あー、悪い。止め切れなかったから、跡がついてる。冷やして来た方がいいんじゃないのか?」
それは、いつものタンジェスだった。親しみやすいが、下心ありげな馴れ馴れしさはない。貴族や騎士の子弟のように女だからといって妙に気を使いもしないが、逆に女性だからといって侮りもしない。ごく普通に、友人として接してくる。
その自然な姿勢が、マーシェは気に入っていた。だからタンジェスは、彼女にとって男子学生の中でも特に親しい友人となっている。
「いや、大丈夫だ」
敗北感すらもなく、ただ表面上の応対に終始する。タンジェスは深刻な顔で食い下がった。
「ならいいけど、一応女の顔だぞ」
「一応は余計だ。それに少なくともこういうことに関して遠慮は無用だと、前から言っているだろう」
取りようによっては相当侮辱的な発言にも鈍い反応しかない。タンジェスは真面目腐った顔でうなづいた。
「ああ、そうだな。しかしこれじゃあせっかくの『でこ』が台なしだから」
「貴様は!」
これにはさすがに反応する。目を吊り上げて怒鳴ると、タンジェスはくすくす笑い出した。
「そうそう。たかが一本取られた程度で呆然としてるんじゃないよ。俺なんて君から何本取られたか、覚えてもいないぞ」
「呆然となんてしてない!」
「ならいいけどね。なんなら、もうひと勝負しようか」
楽しそうな様子が、マーシェの神経を逆なでした。くっきりとした眉が跳ね上がった所で固定される。
「余裕だな」
「別に。今度は負けるかもしれない。いや、その可能性の方が高いってことは分かっているさ。で、どうする? やるかやらないか」
「私は挑戦から逃げるような人間ではないぞ」
「そうしてくれるとありがたい。じゃ、もう一回だ」
軽い調子で剣を構えるタンジェスに、マーシェは気合をみなぎらせて向かって行った。
後刻、タンジェスは座り込んでぼやいていた。
「なあ。もう、止めようぜ。十分、分かっただろう、自分が、俺より、強いって」
言葉が途切れがちなのは、完全に息が切れているためである。今日の対戦成績はタンジェス一本に対してマーシェ十三本。つまり最初の一本以外は十三回も連続して取られた、タンジェスの完敗である。なお、普通は十数回も連続して同じ相手と対戦はしないものだ。
「本当に手加減していないだろうな」
前に立ちはだかったマーシェが見下ろしてくる。こちらは多少汗をかいているものの、まだまだ元気いっぱいである。
「馬鹿。こっちがもうふらふらだって、見れば分かるだろうが。大体俺だってぼこぼこ殴られるのは嫌なんだし、頭からずっと全力でやってるよ。これが実力なんだって」
うかつに続けての勝負をやったために、えらい目にあってしまった。二本目以降自分が勝ち続けたのはタンジェスが自分の顔を立てようとしたせい、つまり意図的なものだとマーシェが勘違いし、むきになったのだ。中盤頃は仕方なく相手をしていたタンジェスであったが、それがまた相手の誤解を助長してしまう。自分で言っている通り負け続けるとさすがに頭に来るので、後半はタンジェスも本気でやっていたのだが、結果はこれまでと変わりなかった。基本的な苦手はそのままだったのである。
「それではなぜ、始めの一本だけああも綺麗に入ったんだ?」
「あん? 自分で気がついてないのか? 君にしちゃあ珍しく隙ができたんで撃ち込んだ、あれはそれだけだよ。言っただろう、一瞬でも気を抜くものじゃないって。俺が停学明けだからって、油断してたんじゃないのか」
「そんなことはない。ただ…」
「ただ何だよ」
ただあの時は、負ければ殺されるかと思えた。しかしよりにもよって本人に対して、言えない。
「何でもない」
「あのな、何でもないで十三回も人をぶん殴るんじゃないよ、ったく」
「ごめん」
「謝ることじゃないがね。結局俺が弱いのが悪いんだから。また明日以降はよろしく頼むよ。今日はもう勘弁して欲しいけど」
「分かった」
「さて、と」
話しているうちに多少体力を回復させたらしく、タンジェスは立ち上がった。そしてふらりと、全体を監督していた教官の前に進み出る。
「閣下、ご指導をいただきたいのですが」
教官は騎士身分を有しているので、敬称は「閣下」となる。戦争が一応の終結を見てからそう時間は経っていない現在の軍体制では半ば当然であるが、数多くの実戦を経験したつわものの一人である。
「いい心がけだが、しかし大丈夫か。散々痛めつけられていたが。自分の力量を知るのも大切だぞ」
やや苦笑がちに、すぐには乗ってこない。しかしあっさり引き下がるようなら、わざわざ自分から指導を申し込みはしない。
「まあ何とか。それに実戦って、いつでも万全の状態でできる訳じゃないでしょう。俺程度じゃあ万全でも相手にならないんだから、今やっても意味がないとおっしゃるのでしたら仕方がありませんが」
「そうだな。良し、相手をしよう」
「ありがとうございます」
自ら苦労を買って出るようになったタンジェスを、マーシェはただ何となく眺めていた。
「クラブレン!」
しかし、士官学校の授業はぼうっとしていることが許されるようなものではない。タンジェスを相手に構えようとしていた教官に怒鳴られてしまった。
「休んでいずに次の相手を見付けないか」
「あ、はい。申し訳ありません」
慌てて言われた通りにせざるを得なくなる。そのためタンジェスが今何を考えているのか、推測することもできなかった。
朝から訓練、それに続いて複数の講義、午後には午後で講義と訓練が待っている。さらに進度の遅い学生の場合、夜には予習復習をきちんとしないと講義について行けなくなる。従って昼食後の休憩時間は、士官学校の学生達にとって文字通り休息と憩いの一時である。とりとめのない雑談に花を咲かせている者あり、球技に興じる者あり、時間の使い方は様々だ。中にはさらに勉学に励む学生もいたりする。
マーシェは基本的に雑談派であるが、今日はいつものお喋り仲間、数少ない女子生徒らの輪から離れて庭を歩いていた。ともかく休むことに重点をおく、つまり昼寝組の代表的な居場所である。ただ、マーシェ自身に休む気はなかった。目的の人物を探して歩く。
結局、彼を発見するまでに多少時間を食ってしまった。予想外の場所にいたためである。庭の外れ、模擬戦闘訓練場の草の上に、タンジェスは寝そべっていた。日々激しい訓練が行われる場所であるので悪名高く、普通の学生ならば好き好んで近寄る場所ではない。
寝転がっていはいるが目は開けていたので、マーシェは声をかけた。
「邪魔かな」
「いや、別に」
いいながら、タンジェスは手で草を払って座りやすいようにしてくれた。もっとも芝生ではなく雑草であるので、そうしてもあまり変化がないような気もする。しかしマーシェはその気配りに敬意を表して、そのあたりに腰を下ろした。
「どうしてこんな所に?」
「森があって池があって、箱庭みたいだとは思わないか?」
突如詩人と化した学友を前に、マーシェは目を丸くした。それを確認してから、タンジェスはくすりと笑う。
「なんてね、休んでいる間に知り合った人が、そんな風に言ってたものだから。ま、静かでいいだろ、ここも。ゆっくりするには結構穴場だぜ」
「そうだな」
そして沈黙が二人の間を通り過ぎる。先に口を開いたのは、タンジェスだった。
「何か聞きたいんじゃないのか」
「うん」
「君らしくないな。何を遠慮している」
「私はそんなに無遠慮な人間かな」
「自覚がないのは危険な兆候さ。ま、俺だってそんなに繊細な人間じゃない。気にするな」
ここで反論すると相手の術中にはまってしまう。マーシェは正直に切り出した。
「なら遠慮なく。何を考えているのか知りたくて」
「何を、って、何をだ?」
「今日の剣術の訓練だ。わざわざ教官に向かって行ったり、前とはずいぶん変わったと思って」
「ああ、あれね」
タンジェスは少し視線を泳がせる。答えるかどうかを考えているのではなく、表現の方法を迷っていたようだ。
「俺も遠慮なく言って構わないかな」
「ああ」
「そうか。誤解を恐れずに言えば、ここで君に勝っても負けてもそれは大した意味がないし、それは教官に対しても同じだよ。つまりこんな所で勝ち負けを競ったって何にもならないんだ」
「どうして?」
「ここで勝つのが俺達の目的じゃないからさ。ああ、いや、少なくとも俺の目的じゃない。俺がわざわざ辛い訓練に耐えているのは、卒業した後に実戦で使うためだ。学校で何百回負けていようと実践で勝てばそれでいいし、逆にどれだけここで勝っていても実戦で負けてしまえばそれまでだ。で、負けない力をつけようと思ったら、自分より強い人間とやっておいた方がいいと思ってね」
タンジェスの言葉は静かなままだが、その下に流れる物の深さは計り知れない。マーシェはただ、つぶやくだけだった。
「実戦、か」
「ああ、実戦だよ。ここを出れば俺達は、騎士として文字通り先頭の矢面に立つことになる。そこで負けは許されないんだ。俺達が倒されれば誰が人々を守る? 誰が正義を貫く? 兵士を指揮するのは誰だ? 騎士より強いことが期待されている人間なんて、いやしないのに。力なき正義に意味はない。俺達は強くなきゃならないんだ」
先刻証明された通り剣術の技量では一日の長があり、学業の成績も自分の方が優秀だ。しかしそれでも、マーシェにはタンジェスが、一歩も二歩も先を歩いているような気がしてならなかった。だから、何も反論ができない。
「なんてね。大部分はノーマ卿の受け売りだよ。短い間だったから色々とって訳には行かなかったけれど、大事なことは教わったと思ってる。それから他の人に教わったことも色々あるから、まあ停学も全く無駄って訳でもなかったかな」
やがて照れてそうごまかす彼は、やはりタンジェスだった。教えられたことを吸収する、そしてそもそも何かの事実について教えられたと感じるのは、その人間の成長を意味する。何となく、マーシェはその間の事情について知りたいと思えた。
「と言う訳で、まあこれからも相手を頼むよ。君には迷惑かもしれないけどさ」
「うん、いつでも受けて立つよ」
「ありがとう。あ、それからもう一つ」
「何?」
「俺が休んでた間のノートとか、貸してくれないかな。俺一人でやってたんじゃ追いつけそうにない」
「分かった。何とかする」
「助かるよ。マーシェ様々だ。これからはでこすけって呼ぶのは自粛するから」
「早速使ってるじゃないか!」
「悪かった。つい」
口でそう言いつつ、反省の色は見られない。恐らくほとぼりが冷めれば完全に元通りだろう。マーシェは溜息をついた。
「全く。大体何故顔を会わせるたびに『でこ』とか『でこすけ』とか言われなきゃならないんだ」
「面白いから」
報復手段としてノートの貸し出しを撤回する以前に、マーシェは殺意を覚えた。それを敏感に察知したらしく、タンジェスは言い訳を始める。
「理由はもう一つあるんだ、実はね」
「またしょうもない理由じゃないだろうな」
「こっちは比較的真っ当」
「比較的、の部分に不安を感じるが。それで、その理由とは何だ」
「分からないかな」
何故か苦笑して、タンジェスは返答をためらった。それも今のマーシェには、焦らしているようにしか見えない。
「分からないから聞いている」
「ああ。でもなあ、言うと妙な感じになりそうだし」
「いいから言え」
「はいはい。弱点を攻撃するのは戦術の基本だが、君の場合他にそういう所が見当たらないからな。だからこそからかっても洒落で済むから、顔のことについてとやかく言っていた訳だ。俺だってブスにブスって言うような致命的にやばい真似はしないよ」
マーシェは始め意味がつかめずきょとんとしていたが、やがてその額まで赤くしてしまった。曲線的な表現でではあるが、タンジェスはマーシェを、他に欠点の見当たらない人物、つまり美人だと言っているのだ。
「か、からかうな!」
更に何とか言おうとするが、声が裏返ってしまっている。これでは無理だと一瞬でも黙らざるを得なかった。
「本当に見ていて飽きないねえ。学年一の猛者を口説こうなんて俺は思わないけどさ、相当いい線行ってるってのは事実だよ。目鼻立ちがしっかりしてるし、髪も肌も綺麗だし。誰とは言わないが、憧れてる人間は一人二人じゃないぞ。自分で気づいてなかったのか」
別段芸のない誉め方をするだけで、マーシェは口をぱくぱくさせてしまう。これはこれで面白いと、タンジェスはまた意地の悪いことを考えた。髪を伸ばしているあたりに女の子としての意識は高いのだが、武術に優れているためにそちらに注目する者が多く、容姿が注目されることは少ない。その落差が、この過剰反応を生むのだろう。
「そ、そんな調子のいいことを言うなよ」
「だから別に嘘はついちゃいないって。おだてるつもりもないし」
「も、もう。それでもあんまり、そういうように言わない方がいいぞ。ちゃんとした恋人がいるんだから、他の女を褒めているなんて聞いたら気を悪くする」
照れ隠しの苦し紛れの一言、しかしこれが致命傷だった。
驚くほど鮮やかに、タンジェスの顔色が変わる。それは少々浮かれていたマーシェの精神状態を、一瞬で冷却するのに十分だった。
ものすごく、気まずい時間が流れてゆく。
「ごめん」
「いや、別に」
やがて行われたその空気を改善しようとする努力が、状況をさらに悪化させる。この際白々しくとも謝りなどせず気づかないふりをすべきだったし、一方見え透いた強がりなどという痛々しい真似もすべきでなかった。惨めになるだけだ。
タンジェスは再び、草の寝台に倒れ込んだ。
「しょうがないさ。あれだけ醜態さらして停学のおまけつきとあっちゃ、愛想を尽かされて当然だ」
「でも君は、汚名を返上したのだろう」
「人の心がそんなふうに割り切れれば苦労はない。と、これも世話になった人に教わったことだな。しかし逆に、そうやって割り切られて見られているとしたら却って嫌だよ。将来が危うくなったから距離を置いたけれどもそれが元通りになったからよりを戻す、なんて相手は、むしろ嫌じゃないか?」
「うん、まあ」
正直な所、そういう話はマーシェにとってはあまり現実感がない。彼女自身は、そもそも士官学校への入学を決めた時点で「嫁の貰い手がなくなる」などと言われた身なのだ。だから今は、曖昧に答えるしかない。
「とにかく、ふられる理由なんて嫌いになったの一言で十分だ。それ以上くだくだ言われたら、その分だけ気分が悪い」
聞き手は黙って、多分そうであろうという憶測を元にうなずいた。そして話し手は、続ける。
「それに俺が人に好かれる資格があると、そういう自信もなくなったからね」
「何故そんなふうに言う?」
これ以上相手を傷つけないためにはそっとしておくのが無難だ。それが分かっていながらも、マーシェはこの話題を継続せずにいられなかった。今の言い方はいくらなんでも、暗い方向に走りすぎている。基本的にそういう人間を放っておけない性分なのだ。
とりあえずタンジェスは、不快そうな顔はしなかった。ただ、無反応は却って危険な兆候かもしれない。
「そもそも君は、俺が停学になったいきさつや、あるいはその間何をしていたのか、どこまで知っているんだ?」
「確定情報としては学校の告知『賊に敗れた咎により、タンジェス=ラントを停学に処す。期限は定めない』それから、『逃亡せる魔術師を捕縛した功績を認め、タンジェス=ラントの停学を解く』。その他には、君がその間寮からいなくなったことくらいだな。後は噂を総合して、君が最初の事件の時女の子連れだったこと、それから君が戦ったのが魔術師だったこと、後は、そうそう、君がノーマ卿に師事したこと、その程度は事実だと思ってる。他には情報が錯綜していて何とも言えないけれど」
「ああ、大体あってるよ。それなら話が早い。停学の間俺は仕事をしていたんだ。下宿させてもらった店の若旦那の頼みでね。例の人形の一件に関わったのもそれがらみだ」
「人形って、例の神殿で巨大な石像が暴れ回ったっていうあれか?」
話には聞いていたがあまりに荒唐無稽であったので、マーシェとしては確定情報から除外していた。
「ああ。魔術師の間ではああ言うものを人形と慣用的に呼ぶ、のだそうだ」
無機的に説明してから、タンジェスは一度目を閉じた。そして淡々と話し出す。
「停学になったのはね、俺が彼女を守れなかったからなんだ。彼女と観劇に出かけてその帰り、俺達は殺人の現場に出くわした。俺は立ち去ろうとする犯人を止めたよ。正義感もあったけど、彼女にいい所を見せようとしたって気持ちが全然なかったと言えば嘘になる。相手は戦いたがらなかったけど、俺は斬りかかった。そうしたら奴は俺をかわして、彼女に襲いかかったよ。彼女は気絶させられ、そしてそれを殺されたと勘違いした俺は奴と戦い、相手にもならなかった…。俺は自分の実力さえわきまえてなかったし、守るべきものを守ろうともしなかった。あの時はまず、彼女の安全を考えるべきだったんだ。俺は彼女を送るって、そう言っていたんだから」
誰にだって間違いはある、そんな台詞を言おうとして、マーシェは直感的にためらった。そしてその勘は、当たっていた。
「誰にだって一度や二度の間違いはある、と、言えばそうだけどね。そこには大きな前提がある。過ちを改めようっていう姿勢がなきゃならない。でも俺は、そうしなかった。特に人形の事件は本当に大事だったし、他にも色々あったってせいもあるけどね。俺は一度も彼女に会わなかった。全然会おうとしなかったわけじゃないけど、無理にとはしなかった。向こうの家族に会わせてもらえないのをいいことに、俺自身が彼女を避けてたんだ。どの面下げて会えると、そう思ってた」
「それは、仕方がないんじゃないのか」
「俺自身の立場から言えばそうさ。でも彼女にしてみればどうだ? いきなり訳も分からず賊に襲われて怖い思いをして、気がついたら自宅の奥の部屋に寝かされてる。家族はもちろん優しくしてくれるだろうけど、自分が選んだ相手はクズ呼ばわりされて、そいつは謝りに来もしない。不安になってるってちょっと考えればすぐに分かったさ。俺は彼女を全然考えてなかったんだ。恋人失格は当然だろ? ま、これもある人に教えられたことだけどね」
足を上げて反動をつけてから、タンジェスは勢い良く立ち上がった。伸びをしながら言葉を続ける。
「何もかも受け売りばっかりさ。結局俺が自分で分かったのは、自分がまだ、教えられなきゃ何も分からない子供だってこと、それだけだよ」
空の奥を眺めながら、タンジェスはつぶやいた。マーシェは彼に対して何も言えない自分は子供以下だと、そう感じながら黙っていた。
「ま、しばらく。少なくともここを卒業するまでは勉強に専念するさ。自分に人から好かれる資格があるかどうか、それは一人前になってから考えるよ」
多分もう、今のタンジェスは良き恋人である資格のほとんどを備えている。ただ一点、自信を持つということを除けば。自分を愛せない人間を愛するのは、辛いものだ。マーシェはその考えを、飲み込むことにした。邪魔をしては、いけないと思う。
そして彼女も、タンジェス以上に勢い良く立ちあがった。
「分かった」
「ん? 何が」
「とりあえず卒業するまで、機会があるならそれからも、君に付き合うよ。一人前になるまで。それで私も一人前になると思うしね。一緒に頑張ろう」
笑いかけると、タンジェスも笑った。そこに翳りは、見られなかった。
「悪いな。それじゃ、よろしく頼む」
軽く差し出された手をマーシェが握る。大きさはそれほど変わらないが、彼の手は想像していたよりももっと骨ばった感じがした。
「さて、それじゃあそろそろ教室に戻ろうか。一回でも遅刻したらやばいからな」
「そうだな」
二人並んで士官学校の庭を歩く。しばらくこういうのも悪くはないかもしれない、マーシェはふとそう思った。しかし、それではいけない。すぐにそう考え直す。彼は既に、何歩か先を歩いている。自分ものうのうと、同じ学生としての調子で歩いていたのでは追いつけない。そんな気が、していた。