死神を名乗る男

V 暴力団幹部


 集中治療室前には警官が二人。しかも拳銃を携帯している。直立不動の姿勢からは緊迫感が伝わってくる。それを始は、彼らに気がつかれないように眺めていた。
「厳重な警備だけれど、あいにくだ」
 普通の人間ならともかく、自分であれば正面突破も不可能ではない。しかしその必要もないと分かっている。さほど時間もかけずに、始は内部へと入り込んだ。
 警備に手落ちがあるとは思わない。土台一般的な日本の病院というものは、侵入を防ぐのに不向きな構造をしているのである。そしてこの病院もその例に漏れない。病人を襲撃しに来る人間を想定した設計など、普通はしないためだ。治安が良い、あるいは少なくともそうだと思われている証拠である。
 これがごく治安の悪い国になると、大病院であれば必ず高い塀や警備員用の監視所など、然るべきものを含めた設計がなされる。そのような設備の整った病院を利用できるような人間は金持ちだけであり、それは身代金目的誘拐の標的となることを意味しているためだ。
 構造上の問題はさておくとして、無論不備を補うだけの人員を配置することも、理論上は不可能でない。しかし、最近とかく言われるような行政改革を背景にした予算縮減の元では、そこまでのいわば贅沢が難しい。こと警察のような上下関係のはっきりとした組織なら、予算的な制約のないサービス出勤をさせることもできなくはないが、それはそれで前近代的なやり口である。
 今の所、治療室内部に立っている人間、つまりは医師や看護師の姿は見えない。いるのは患者だけだ。そして迷わず、始はそのうちの一人の傍らに立つ。
 しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…。生命維持装置の発する、人間的を装った音だけが聞こえてくる。
 それは初老の男だった。背は高くないが、がっちりとした体格をしており、顔立ちもいかつい。普通なら眠っている人間は顔の筋肉が緩み、はっきり言えばだらしのない顔になる。しかしその男は、意識がないながらも厳しい表情をしていた。ただ、苦痛に歪んでいるのとも、少し違う。若い頃から恐い顔ばかりした結果表情筋がそのように出来上がってしまっている、そんな男の、顔だった。
 複数箇所に巻かれた包帯が、彼が生活習慣病などでここにいるのではないことを無言のうちに物語っている。手術痕なら通常、開けるのは一箇所にとどめるためだ。そして始には、包帯の巻き方からその下の傷の状態を推測するだけの知識があった。何かの外傷によって貫かれた、そんな傷ばかりだ。
 銃創である。それも貫通力の高い弾丸によるものだ。そもそも発射の時点で弾丸が拡散する散弾銃によるものではありえない。また、西欧先進国の拳銃に使われるものとして普及しつつある、着弾した後破裂して損傷を大きくするが、その分貫通はしにくい加工のなされたフォローポイント弾とも違う。典型的には、ライフルを使えばそのような傷になる。
 しかし人体に与える損傷という点でそれ以外に似たような特性を持つ火器を、始は良く知っていた。トカレフだ。とにかく貫通力が高い。火器としての長所は、ほぼそれだけである。フォローポイントあるいはそれに類する弾を発射することも不可能ではないが、少なくとも日本に流入するような非合法ルートの供給元は、そんな高級な弾丸を作っていないのだ
「…う」
 横たわる男のまぶたがかすかに動く。然るべき措置、それこそこのような集中治療室で処置が受けられれば、貫通した傷というものは意外に人間を殺さないものなのだ。昨夜始が言ったように、それだけで致命傷になる部位は限られる。
「無理はしない方がいい。まだ死んでいないとはいえ、起きられるほど軽微な傷でもないし、無理の効く年齢でもない。それは自分で分かっているはずだ」
 諭されて、彼はすぐに体の力を抜いた。その唇がかすかに動く。呼吸装置越しで声になってはいなかったが、しかし始には読唇術の能力があった。
「いや、止めなんて、わざわざ刺しに来たりしないよ。あなたに残された時間は、どうせそんなに多くない」
 しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…。規則的な生命維持装置の作動音だけが響く中、沈黙がわだかまる。横たわる男に話そうとする力がないことは、この際関係ない。死を間近に突きつけられてとっさに反応できる人間など、そうはいない。それだけのことだ。
 そして彼は結局、沈黙を続けることを選んだ。しかし始は、それに語りかける。
「覚悟は、できているようだな」
 そうだ、との意志が示される。始は軽くうなずいた。
「飲む打つ買う、悪い遊びはヤク以外全部やったし、タマの取り合いもした。今では人にそれをさせることだって訳はない。この期に及んで悪あがきをしてもみっともない、そう感じる程度の性根はあるか」
 男は答えない。それを、始は了解した。
「ならばもうかけるべき言葉はないな。では聞こう。言い残すことは? 差し支えなければ、相手に必ず伝えると約束する」
 伝え終わらないうちに、否定のニュアンスが返される。大方そうだろうと、始も思っていた。
「そうか」
 そして、再度否定。その後始は少し、首をかしげた。
「あの若いの? ああ、あなたを撃った彼のことか」
 軽く腕組みをしてから、彼は正直に答えた。
「先に逝ったよ、そこの路地でね。あなたの所の追っ手から逃げ切れなかったんだ」
 撃たれた男が搬送された病院、その間近で撃った男が先に殺された。皮肉な偶然だなどと、少なくとも始は思わない。所詮死とはどこか皮肉な現象だ。それに、負傷した人間が手近な病院に搬送されるのも、逃げ切れなかった人間が犯行現場の近辺で捕捉されたのも、当然と言えば当然のことである。
 遠くないうちに死ぬであろう男のわずかな表情を、始は見取った。それは苦渋だ。しかし「死神」は、そんなちっぽけな人間の情動を突き放す。
「自分がいなかったらこんなことにはならなかった、だって? 潔いのは結構だが、それは少しうぬぼれが過ぎるな」
 激しい非難を含んだ内容であるはずだったが、しかしその顔に表情の変化はない。そしてそのまま、続ける。
「所詮、あなたたちの言う堅気として働ける適性を皆が皆持っている訳じゃない。人間社会がある以上、そこには必ず暗部が存在する。あなたがいなければ誰か別の人間がその地位を占めて、また別の抗争が起きた、それだけのことさ。彼が死んだ責任は、本人の能力か選択か、いずれにせよ彼自身にしか帰すことはできない。あなたはそれについてとやかく言えるほど、大物じゃない」
 そして無感動に返された無言の問いかけに、始は苦笑して答えた。
「私か? 私だって別に、あなたと同様無力でちっぽけな存在に過ぎないよ。ただ、少しだけ、『死』について知っている、それだけのものさ」
 かすかな嘲笑。それをまた、始は笑った。
「まあ、確かに若造に見えるだろうね。ただ、そうやって表面しか見えていないこと自体が、私に言わせれば『死』を知らない証拠だよ」
 相手は取り合わない。軽く息をついてから、始は首をかしげた。
「そろそろ時間だ。これで失礼するよ」
 きびすを返して数歩歩いてから、しかし立ち止まる。そのまま振り返らずに、つぶやくように、そしてどこかうたうように、言った。
「誰もが死の前では、死の前でだけは、平等だよ。皆、無に帰る。それに比べればそれぞれの生の違いなど、些細なことさ」
 始の姿が消えた。
 そして程なく、白衣を着た人間が現れた。あるいはその間横たわる男は意識を失っており、時間の感覚もなくなっていただけなのかもしれない。
 しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…。あくまで規則的な、生命維持装置の音だけを、その恩恵を受けている男は感じ取っていた。少なくともその認識の中に、医師の姿はない。
 しゅう…こぅ…しゅう…す…。……。
 そして、沈黙が訪れた。

続く


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