死神を名乗る男

W 老婆


 今日は朝から騒がしい。その理由を、雪はぼんやりと眺めやっていた。彼女の病室は病院の中で裏手に位置しているのだが、それはつまり窓越しに裏口が見えるということを意味してもいる。
 この病院の場合、表口を通って来るのは本当に、普通の外来患者だ。一体何の病気なのだかと聞きたくなるほど元気良く入って来る者もいれば、お願いだから救急車で来てくれと言いたくなるような状態でタクシーなどから降りる人間もいる。
 一方裏口は、基本的に病院関係者および救急患者のためのものだ。患者が間違えてそこを使っているのではないかと思えるほど疲れた様子で医師、看護師が出入りし、また救急車が横付けされて窓からは何も見えないほど速やかに患者が担ぎ込まれる。
 そこへ、人だかりができていた。入ってくるでも出て行くでもなく、裏口を遠巻きにしている。病院関係者が迷惑そうにするのも構わず、様々な機材を手に陣取っていた。そしてそこを関係者の誰かが抜けようとすると、その関係者へ向かって無遠慮にたかってマイクとカメラを向ける。
 報道陣だ。それが仕事なのだろうし、また真実を追求する報道の使命という奴なのだろうが、明らかに嫌がっている人間に殺到する光景というのは、端から見ていてあまり格好の良いものではない。雪はそう思ってしまう。
 それでいてテレビの画面越しにその場面を見てみると、逃げるように立ち去る関係者が、いかにも何か隠している悪党のように感じられるのが不思議だ。そのギャップが面白くて、雪はテレビをつけっぱなしにしていた。
 見ているのはワイドショー、中でも政治や芸能より事件報道に強い番組だ。雪自身スキャンダルやゴシップは嫌いではないが、それならばどろどろとした事件を中心に扱い、またそれに合わせた描写をする女性週刊誌のほうが面白い。テレビで見るなら血なまぐさい事件報道だ。
「昨夜組事務所で銃撃を受けたこの指定暴力団組長は、銃撃の後病院に搬送されて治療を受けておりましたが、人工呼吸装置の故障により死亡しました。この事態に対して病院側は『ありえない、またあってはならない事故だ』として調査を始めています。一方人工呼吸装置の製造元および保守管理業者は『調査中なので詳細にはコメントできない』などとしながらも、病院側による機器の取り扱いに問題があったのではないかとの見方から独自の検証を行っている模様です。専門家によりますと、複数の安全装置が備わっているこのような高度医療機器が警告もなく呼称する可能性は極めて低いとのことで…」
 レポーターが、朝のニュースから数えると少なくとも五回は雪が聞いている話を繰り返す。彼女は何となく、それを面白がっていた。
 そしてまた、窓の外へ視線をやる。そこで、彼女は報道以外の人間がそこにたたずんでいることに気がついた。人だかりからは少し距離を置きながら立っており、情報源にくらいついていこうという熱意が全く感じられない。あくまで落ち着いた様子で、病室の窓を見上げている。
 雪はひょい、とあごを動かして彼に入ってくるよう促した。非礼な動作である、とは百も承知である。相手は相手で、病室とはいえほぼ初対面の女性が寝起きしている部屋にアポイントメントもなしに訪れるような人間だから、お互い様だとしか思っていない。
 彼はかすかに苦笑してから、裏口へ入っていった。そのあまりに自然な動作のせいか、貪欲な報道関係者たちも彼に対してマイクやカメラを向けようとはしていない。
 そして程なく、始太一が雪の病室に姿を現した。
「正直な所、こう素直に入れていただけるとは思っていませんでしたよ」
「別に、好きでやってる訳じゃないわよ。どうせあなた、あたしが嫌だと言っても入って来れるんでしょう? いや、あたしだけじゃない。あなたにやる気さえあれば、どんな人間に所へでも行ける。例えばこの前撃たれた暴力団の組長がいる所でも、ね。違う?」
 けだるそうに応じる雪に、始は小さく肩をすくめた。
「それはまあ確かに。人のいる所ならどこへでも、ね。しかし普通は、無駄だと承知でも精一杯抵抗する人が多いんですが」
「何となくよ。強いて言えば好奇心かな」
 それが自分の言った台詞を適宜引用していることに、始は気がついた。笑って、少しだけ挑戦的な口調で応じる。この少女は頭がいい。言動が不器用だが、それは本人が器用に接する必要性を感じていないからであって、能力による制限ではない。程度にもよるが、腹の探り合いも一種のゲームのように楽しめるタイプだ。
「ほう。それでは何を知りたいんです? 私に可能な限りで、お教えしますよ。とりあえず抵抗なく入れていただいた、多少の借りがありますしね」
「殺ったの、あなたでしょ」
 台詞だけでなく、視線まで、単刀直入だった。始はそれをまず、若いな、などと感じてしまう。
「どうしてそう、思うんです?」
 事実は必ずしも彼女の言う通りではない。しかしその若さが面白くて、聞いてみた。
「だって昨日、この病院の中をうろうろしてたじゃない。ただの見舞い客ならともかく、自称死神の人間が、ね。機械が止まったっていう時間、あなたがここを出てから何時間か後よ」
「ふむ。事実関係は一通り正しいですね。しかし解釈は、どうでしょう? 他の人間はともかく、あなたは私がそこの路地で別の暴力団の鉄砲玉を殺した現場を見ている、と言っている訳です。ちなみに彼は機械の故障で死んだ暴力団幹部の対立組織の系列に属していました。その幹部を銃撃した張本人であるとも、言われています。対立する二つの組織の人間を二人とも殺す、行為として矛盾していると思いませんか」
「そんなの、いくらでも説明のしようがあるわ。例えばあなたは機械の故障とやらで死んだ人と敵対する立場の人間で、しかも鉄砲玉と違ってかなりの大物。しくじって標的を殺せなかった鉄砲玉を始末した後で、自分で手を下して入院している敵を始末した、とか」
 いくらでも、などと言いつつも、彼女はその自分の説明こそが真実であると疑っていないようだ。そしてまた実際、かなり説得力があると始は感じる。その通りの内容で原稿を書いてニュースキャスターに読ませるなり新聞記事にするなりすれば、多くの人間がそのまま信じ込むだろう。少なくとも視聴者の希望を優先して本来の筋書きが破綻したドラマよりも、何倍かましである。
 しかし、だ。少なくとも現に自分の行動を知っている始には、言うことがある。
「悪くないシナリオです。そこまで組み立てができるなら、一流だとの保障はしませんが、少なくとも表現活動に関してそれなりの才能がありますよ。ただ、私に言わせれば少々抜けがありますね」
「どんな?」
 基本的に、雪は売られた喧嘩を買わずにはいられない性格のようだ。とにかくプライドが高く、自分のすることを否定されるのを嫌う。親に甘やかされた一人っ子のわがまま娘、あるいは息子としては不思議ではないタイプだ。始はそれを見取って、相手のやや息の荒い反応を迎えうった。
「あなたの説明なら、私はこの病院で死んだ暴力団幹部とは、対立する立場にあるということです。しかも特に腕のいい殺し屋、あるいは鉄砲玉の背後で糸を引いている幹部クラスのような、その組織の中で一定の地位にある人間になります。そういう立場であれば敵対組織への恫喝として、明らかに殺されたと分かる方法をとりますよ。事故だか何だか分からない、そんな死に方よりは、例えば集中治療室で刺されたのに犯人が見つからない、なんて事態の方が怖いですよ」
「そうかな。あたしだったら、死因が分からないほうが怖いわよ。つまりそれは敵対組織とやらが、警察の目もごまかせるほどうまく人を殺せるほどの人間を抱えてるっていう証拠じゃない」
 案の定、見事なまでに反応してくる。始はにやりと笑った。
「あなたは繊細なんですよ、雪さん。『事故』とやらで人が死んだとして、それを自分の敵が動いた結果として受け取る時点で、敵味方という周囲に気を配るだけの精神力があります」
「えー? あたしが繊細? 初耳よ、ほんと」
 実際多分そうだろう。雪は思ったこと感じたことをストレートに口に出すタイプだ。繊細、よりは逆に骨太と言った方が良く似合う。だから始は力一杯うなずいてから続けた。
「少なくとも、あなたは暴力団員を軽蔑しているのでしょう? そして彼らよりは繊細である、私が言ったのはそれとの比較という、それだけのことですよ」
 少々変わった所が見られるものの、雪は間違いなく堅気と呼ばれる世界に属する人間だ。少なくともまず間違いなく暴力団員とは明らかに違う。その世間的には「真っ当」な世界にいる人間からすれば、暴力団員などは間違いなくアウトローであり、軽蔑の対象である。
 その一方で、暴力団員は「堅気」からの軽蔑を受け止めてなおその道で生きていこうとする覚悟があるだけの人間か、さもなければそれほどの力もなく、ただ成り行きでそこにいついてしまっただけの人間だ。そのいずれにせよ、一般社会からの敬意は本人を含めた誰もが期待していない。むしろ「恐れられてこそ何ぼ」の稼業である。
 だから遠慮なく、始は暴力団員を引き合いに出した。彼らならむしろ、繊細な神経を持っているなどと言い出したら怒るだろう。彼らには彼らで、例えば「男らしさ」を重んじる価値観がある、それだけのことだ。
「そんなの当たり前よ。やくざなんかと一緒のものさしで測らないでよ」
 雪は雪で、遠慮なく興味のない所を切り捨てる。やくざと暴力団は実の所必ずしも全くの同一ではないのだが、それと関わりのない人間にとっては別に興味のない話だ。それはそれで堅気の真っ当な反応であると解釈して、始は話を先へ進めた。
「少なくともその筋に生きている人に対して恫喝をするなら直接的な方が効果がある、私が言いたいのはそういうことですよ」
「確かに、機械の故障よりはトカレフで頭を撃ち抜かれたって方が殺意は明らかよね」
「ええ。めった刺しにしたりすると後で怨恨による犯行だなんて誤解されたりしますから、基本は拳銃ですね」
「じゃあ事故? それもありえないと思うんだけど」
「机上の理論ならともかく、世の中にありえないことなんてありません。強いて言うなら、ありえないということがありえない、そんな所です。ただ確かに、複数の予備、そして安全装置を有するあの種の機器が、全くの警告なしに故障する可能性は極めて低いですよ」
「状況から判断して、まず他殺でしょ」
「そう考えるのなら、犯人像をある程度絞り込まないと説得力がありませんよ」
「気づかれないよう機械を故障させて人を殺すことができる人間…病院関係者か」
 少し大きな雪の声に、始は軽くうなずいた。
「もし他殺なら、その線が一番濃いでしょうね。自分が手を下したのだと分からなくするだけの動機があります」
 雪はうなずくと、腕組みして考え込んだ。
「後は、暴力団の言うなりになる動機ね。機械をうまく壊すとなると医者か技師か、とにかく知識と技術があって、それなりに地位も名誉も、それから収入もある人間のはずだけど」
「名誉ゆえに生まれる弱みというものもありますよ。例えば医療ミス、あるいは見栄を張りすぎて収入に見合わない生活をした結果の借金、等々。さらにその過程でうかつに彼らと接触してしまうと、地位のある人間の場合後はそのこと自体が弱みになります」
「ふうん。でもやだな、そんな人間のいる病院なんて。さっさと退院しないと」
「おや、確かあなたは不治の病ではありませんでしたか」
 始は皮肉な笑みを作って見せたが、相手もさるものである。
「じゃあ転院。転地療養とか、いいわね。いかにも薄幸の美少女って感じしない?」
 口が減らない上に、ちゃっかり自分を美少女などと言い放っている。ツッコミを入れると泥沼にはまりそうな気がするので、始は真面目腐って応じた。
「結核とか、実際怖いですよ。特に今の若い人は免疫がないですから」
 昭和中期までの文学作品において、都会を離れて療養している登場人物がかかっているのは大概結核である。当時としては代表的な不治の病であり、環境の良い所に移して自然治癒と幸運を待つしかなかったのだ。現代では治る病気だが、しかし特に若い医師などに実際の結核患者を診た経験のない人間が多くなっており、そうと気づかず手遅れになることもある。
 実は深刻な内容なのだが、雪は吹き出した。
「今の若い人って、あんたいくつよ」
 始は二十台半ばから後半にかけてに見える。十台の瑞々しい若さはないが、しかし逆に中年の年輪も見当たらない。顔立ちそのものは二十台前半にも見えるのだが、落ち着いた言動が年齢をそれよりやや上に見せているようだ。
「見かけよりはずっと年を食っているんですよ、私は。そう、ずっとね」
 その口が薄く笑う。ただ、雪はその意味を察することができなかった。
「え、何? もしかして、実は四十路を越えてたりするの?」
「いや、さすがに四十の坂を越えていたりはしませんが」
 いくら何でも、それはありえない。少なくともその認識は共通だったので、雪は始の年齢に関する話を流してしまった。少なくとも彼女自身にとって、よほど重大な問題がある。
「でも冗談抜きで、別の所へ移るのを考えなきゃ駄目ね。そんな薮医者がいる所なんて、話にならないわ」
「まあ、もしその人間が医者だったとしても、腕自体は悪くないと思いますけれどね。気づかれずに人殺しをやってのけるだけの技術と才能があるんですから。今時医者のかなりの数が、医療機器の管理を業者任せにしているそうです。ただ、患者として医師に対する信頼が失われたのなら、他をあたった方が無難ではあるでしょう」
「うん」
 雪が小さくうなずく。その意味を察して、始は沈黙した。
「知ってるかもしれないけど、さ」
「話したいのなら、聞きますよ」
 ぽつりとつぶやいたのに対して、淡々と応じる。雪は先程よりは少しだけ、大きくうなずいた。
「ここの病院、なんて呼ばれてるか知ってる?」
「あいにく…いえ、幸い病気知らずなものでして、病院の詳しい話に関してはあまり」
「駆け込み寺。スキャンダルのあった芸能人とかが、よく突然聞いたこともない病名で入院したりするのよ」
 他には政治家もよく入院する。実の所始は知っていないではなかった。
 ある有名私立大学の出身者が医師のほとんどを占める、そんな学閥の塊のような病院である。名称こそ大学名は用いていないが、実質的にはほぼ大学病院の付属のようなものだ。そのため連帯感が強い反面、縁故や情実で物事が動きやすい。そこにつながるコネクションを持っている人間であれば、何かと医療以外にも便利なのだ。要するに、仮病を使って逃げ込むことができる。
 ただ、そらとぼけるのは彼の特技の一つである。何も知らないふりをして、聞いていた。
「ほう。それで、あなたの病名は?」
「ああ、うん。あたしはただの検査入院。変なビョーキにはかかってないからね」
「確かにまあ時折、よく考えるとそれはおかしいだろうという病名が報じられたりしますけれどね。しかし中高年ならともかく、あなたみたいに若い人が検査入院だなんて、普通は医師がよほどの必要性があると判断した場合に限られますけれどね」
「そうよねえ。普通は、ね」
 ふっとため息をついてから、雪はまた口を開いた。
「要は隔離よ。あたしが人前に出ると、迷惑する人間がいるの」
「ええ。でもあなたは別に、本物の隔離病棟に押し込められている訳じゃありません。身体的にも至って健康であることは、何より自分が良く知っているはずです。やろうと思えば自分の足で出られるますよ。別に監視もいないのですから」
「分かってるわよ、そんなこと。あの偽善者や、それにあたしを売った『あの人』も、あたしにとってはどうでもいいけど、でもそんな二人のおかげでさらし者になるのは真っ平ごめん」
 雪は自分がきちんと計算の上で行動していることを知っている。そしてそれが、彼女を取り巻く人間にとっては予定された、そして好都合であることも。それゆえ解消できないいら立ちを、正直に吐露することによって紛らわせているのだろう。
 あの偽善者、とは紛れもなく彼女の実父、そして「あの人」とは血を分けた母親のはずである。
「人間は皆平等だなどとご大層な御託を並べる一方で、人の生まれを一々ほじくり返すマスコミなんて、珍しくもありませんからね」
 迎合するにしてはそっけない様子で、始が応じる。雪が唇の端を吊り上げるようにして笑った。
「そうね、あんたならそれこそ死ぬほど分かってるわよね。人間なんて所詮不平等だって」
「生きるということは、ね。でも私の前で、人は本当に平等ですよ。ちょっと中身をぶちまけてしまえば、成分はそう変わらないのですから」
 少なくとも外見の上でだけなら、その男の笑みはむしろ感じの良いものでさえあった。しかしその向こうにあるものを、雪は直感的に感じ取っていた。
 事態が事態である以上止むを得ないとはいえ、ひねくれているだけの自分の冷たさなど、彼にとっては生ぬるいものでしかない。最早冷えてさえいない、無限の虚無がそこに横たわっているのだ。
 思わず口をつぐんだ彼女を、始は見やる。実の所今の言動は主に、口の減らない彼女を黙らせるためのものだった。その手段として少しだけ内面をうかがわせるような言い方をした、それだけのことである。だから笑っても良かったのだが、しかしそのまま続けることにした。
「確かに大往生を遂げる人間もいますし、生まれたその瞬間、いえその前に死んでしまう赤ん坊もいます。所詮不平等だと分かったのなら、それに関して思い悩むだけ損ですよ」
「そうやって悟れないから、人間なんじゃない?」
 立ち直りの早いことに、雪は切り返した。まだ本調子ではないが、この程度は彼女の潜在力を持ってすればなんでもない。そして始は、苦笑を返した。
「違いないですね」
 そしてふと、その視線が泳ぐ。別に不利だと思って目を逸らそうなどとしているのではないと、雪は見て取っていた。感情の動きによるものではなく、それ以前の感覚的なもの、何かを半ば反射的に見ようとする目だ。その視線は窓の外、庭へと向けられている。人間、誰かが何かを注視していると気になるものなので、雪もその方向を見やった。
 一見した所立ち止まっていると感じられる、しかし根気強く観察していれば極めて遅い足取りながら、歩いていると分かる。そんな様子の、老婆だった。その姿に、雪は見覚えがある。
「あ、あのおばあちゃん、あんな所に」
「お知り合いですか?」
「さあ、向こうはあたしのことを覚えてるかな? ボケてるから。いきなり人の病室に乗り込んできて同じ話を何度も何度もするものだから、あたしや同じ目にあった他の人なんかは嫌でも覚えてるけどね」
 痴呆以前に祖父母と同居した経験もない雪としては、ある意味新鮮な経験だった。しかしまあ、正直な所一度でたくさんだと考えている。博愛の精神で縁もゆかりもないそういう人の面倒を見られる人間は立派だとは分かっているが、だからこそ真似はできないとも思う。
「なるほど。しかしあの足腰では、乗り込んでくるというのも一苦労でしょう」
「ああ、うん。この部屋に来た時はそうでもなかったんだけどね。ここしばらくでだいぶ弱っちゃったのかな。そう言えば最近は見かけなかったな」
「そうですか。それでは少し、失礼しますよ」
 そう言って、始は出口へと歩き出す。何となく気になって、雪はベッドを降りた。
「どうするの?」
「それでもああやって出歩いているということは、余程誰かに話を聞いて欲しいんでしょう。だからそうしてあげます」
 始は笑って、歩くのを止めない。決して急いだ足取りではないのだが、さすがに男の足である。それに追いつくのに、雪は小走りになった。
「どうしました?」
「あたしも行く」
「そう、ですか。そうおっしゃるのならそれも良いでしょう」
 あからさまに嫌そうな顔をしていたのに、とでも言いたげな顔を始はしたが、やがて先程よりは薄い笑みを浮かべてからうなずいた。そして彼女の足に合わせて、ゆっくりと庭へと向かった。
 そして始は、日当たりの良いベンチで老婆の話を聞いた。同じ話を何度も、何度も。歯が悪いらしく、内容を聞き取ることさえ難しい。それでも彼は笑顔を絶やさず、きちんと適切なタイミングでうなずいたりしていた。
 既に他界した夫との馴れ初め話が九回、戦時中の苦労話が七回、飼っていた猫の話が五回…と、雪は回数を数えていた。正面切ってつき合わされるのはどうかと思うが、しかし横で観察しているのは意外に面白かった。
 やがて太陽の位置も変わってきた頃に、話し疲れたのか老婆は眠り込んでしまった。
「あーあ、看護婦さん呼んでこなきゃ駄目ね。それともあなたが運んでいく?」
「病院の方に来ていただいたほうが良いでしょう。申し訳ありませんが、呼んできていただけますか。私は立場が立場なものですから」
「しょうがないなあ」
 雪が立ち上がるのと同時に、始も立ち上がった。
「おやすみなさい」
 それだけ言うと、彼は姿を消してしまう。ちょうど看護婦が通りかかったので、それを避けたらしい。逆に雪としては手っ取り早いので、すぐに声をかけた。
「あ、すみません。このおばあちゃんなんですけど」
「ああ、はいはい。分かりました」
 とりあえず手すきであったらしく、笑ってうなずいてから歩み寄る。そしてその顔が、ふいにはっとなった。素早く脈を診る。
「どうしたんですか?」
「先生を呼んできます」
 それだけ言うと、看護婦は足早に建物内へと歩いていった。おかしいと思った雪は、慣れない手つきで同様に脈を診ようとする。
 ぬくもりも、感触も、雪が知っている人間のそれと代わりはない。しかしどう探してみても、脈拍を確かめることができなかった。それは自分にその種の知識や経験がないせいだ、雪はそう自分に言い聞かせていた。
 そしてやってきた医師が、改めて老婆の状態を確認する。呼吸、脈拍、そしてペンライトを使って眼球の奥を覗き込む。見ているのは瞳孔の拡散状況だ。それが死亡を確認するための動作であると、雪にも分かってはいた。

 医師が確認をした時点で既に心停止、その後行われた蘇生処置も効なく、老婆は息を引き取った。そもそも同じ病院に入院しているだけの縁しかない人だったのだが、雪はそれを最後まで見届けていた。家族の誰かが来れば自分の部屋に戻るつもりだったのだが、結局誰も現れなかった。
 霊安室へと運ばれる、「遺体」を見ながら、雪を担当している看護婦が声をかけてくれた。
「最後に話し相手がいてくれて、おばあちゃんも喜んでると思いますよ」
「いえ、あたしじゃありません」
「あら、そうでしたか? 今日はずっと、おばあちゃんと二人であのベンチにいらっしゃったでしょう」
 患者の様子をしっかり把握できなくて、看護婦など勤まるはずもない。声をかけずに見られていたこと自体に関して、雪は特に不快だとは思わなかった。
「ああ、見てたんですか。だったら…」
「何です?」
 看護婦は心底不思議そうな顔をする。それは例えば、相手が助からない患者であっても必要であればそれを悟らせない、職業柄ゆえのとぼけかも知れない。しかし実際に知らないのだと、雪の直感が告げていた。
 この看護婦は、始の姿を見ていないのだ。ずっと雪がそこにいたことは、確かに知っているのに。そう言えばその前も、この看護婦には似たようなことがあった。
「あ、ううん、何でもありません」
「そうですか」
 不審そうな顔をする相手に、雪はもう一度首を振って見せた。
「じゃああたしは、部屋に戻ります」
 何か詮索される前に逃げることにする。患者が病室で大人しくしているのはそれ自体悪いことではないので、看護婦としてもとやかく言わなかった。雪がただの病人ではなく訳ありであるとも、担当である以上承知している。
「何で…?」
 健康体そのものの足早さで廊下を歩きながらつぶやく。そしてふと気がついて、自分の部屋に戻る前に寄り道をした。

続く


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