死を撒く男

V 警察の男


 何のつもりか、警察の指揮官、倉田だと名乗る男が一人で店先に現れた。しかも丸腰だという。立て篭もり犯の神林としても中に入れる気はあるようなので、店主は鍵を開けるべく入り口へ向かおうとした。
 しかし、神林がそれを制した。
「お前は駄目だ。中村、お前がやれ」
「いや、しかし…」
 立ち上がれるかどうかも定かではない状態だ。店主が思わず反論したその鼻先に、銃口が押し当てられた。
「お前にはまだ逃げる気力も体力もありそうだからな。出入り口には近づくな」
 自分一人が脱出すれば、怒り狂った神林が中村を殺しかねない。自分にはそんな卑怯な真似はできない、と言いかけた店主だったが、結局唇をかんで飲み込んだ。憎悪と恐怖でしか物事を見ていないこの男に、道義を説くだけ無駄だ。
「…分かりました。中村様、申し訳ありませんが、表の鍵を開けてきていただけますでしょうか」
 厨房に入って膝をつき、中村に呼びかける。極力柔らかい口調で語ったつもりだったが、彼女の顔は恐怖でゆがみきっていた。
「あなただけでなく、私まで怖がられていますよ。他の人間全てが怖いんでしょう。この状態では…」
 当分、社会生活も困難だろう。ここから生きて帰れれば、の話だが。店主は同情していたが、凶悪犯はさすがに情け容赦がなかった。
「甘やかすからつけ上がる。ほら立て! その足は飾りか! 使えないならこの場でちょん切ってやろうか?」
「や、やめて、お、お願いだから…」
 少なくともこの場では、神林の手法の方が有効だった。震え、よろめき、あたりのものにつかまりながらではあったが、中村は立ち上がった。確かにこれなら、逃げようにも逃げられない。外の警官が手助けをしたとしても、完全に足手まといになる。
「はっはっは。ほらみろ、やればできるだろう? 中村ちゃんは強い子だよ」
 本当に楽しそうに笑う。正視したくないので、店主は外を向いた。
「そうですね。倉田様! 今から中村様がそこの鍵を開けます。武器をお持ちでないことを確認したいので、上着を脱いでお待ちいただけますか」
「分かった。一服でもして待たせてもらうよ。店内は禁煙かい?」
 時間がかかりそうなことを察しているのだろう。店主は苦笑して応じた。
「ちゃんと灰皿もマッチも置いてありますよ。ただ、正直に申し上げれば、珈琲の味も香りも損なうので、できればご遠慮いただきたいんです」
「せち辛い世の中だねえ。そのうち居酒屋でも禁煙とか言い出すんじゃないだろうな」
 酒を飲みつつ煙草をふかす、両方やる人間にとっては常識のような行動だ。昔ながらの居酒屋に行くと、料理の煙だか煙草の煙だか分からないものが立ち込めているものだ。
「ヨーロッパだとそういう国が増えているみたいですね。まあもちろん、愛煙家や飲食業者からはひんしゅくを買っているそうですが。しかし一度に両方、というのが体に障ることも確かですよ」
 煙草が元来有害なものであることは周知の事実だが、喫煙直後にアルコールを飲むことはそれに輪をかけてよくない。煙草を吸っただけなら口や喉の中に付着して終わる有害物質が、飲まれたアルコール等によって溶かされ、吸収されやすくなった状態で胃に流し込まれるためだ。体を蝕む度合いは、飲酒をしない場合に比べれば確実に強い。
 少し話は異なるが、身近にある毒物の中で最も危険なものの一つが、煙草が長時間浸された水である。一定量飲み干せばまず間違いなく死ねる。そんなものを飲む馬鹿はいない、と思いがちだが、飲み残しの缶ジュースを灰皿代わりに使っているとこの状態になるので、誤飲事故は少なくない。
 ともかくも、冗談ですまない毒性があることは、このことからも理解できる。これ以上危険なものを手近で簡単に作ろうと思ったら、後は…と、店主が余計なことを考えているうちに、相手が苦笑した調子で応じた。
「この前検査を嫌々受けさせられたんだが、おかげさんで、嫌でも定年までは働けるそうだ」
「その後の人生の方が長いですよ、ずっと。少なくとも警察にお勤めのようなお忙しい方の場合、自由時間はお辞めになった後の方がはるかに多いんですから」
「さて、何がやりたいと決めてるわけでもなし。それよりは…」
 それよりは、どうしたいのか。そのことを何故か、彼は口に出さなかった。中村が出入り口に近づきつつあるとは言え、鍵があくまでにはまだ間があったはずだ。
「ま、とりあえずは珈琲だな。マスター、一杯頼むよ」
「かしこまりました。お勧めはブレンドですが、それでよろしいですか」
 店主は店主で、それを別に非難しもしない。いつものこと、といった様子で確認する。
「ああ、ならそれで。別に豆の銘柄や良し悪しが分かるわけじゃないんだ。ただ、習慣でね」
「同じ銘柄でも年や畑によって出来不出来はありますし、また同じ味や香りでもその日の気分や体調によって感じ方は違います。固執しないのは、悪いことではありませんよ」
 店主は香りも苦味もやや強い豆を選んだ。相手は煙草を吸った直後だから、味覚、嗅覚ともやや鈍っている可能性が高い。それでも味わえるように、との配慮である。
「ふうん。俺はてっきり、こういう店の旦那ってのは強いこだわりがあるものだと思っていたが」
「珈琲ぐらいゆっくり気楽に飲みましょう。人間、他にいくらでもしなければならないことがあるのですから。強いて言うならこの店のこだわりはそれだけですよ」
「違いない。ああ、悪いね、中村さん。手間をかけさせちゃって」
 カーテン越しとは言え、人の近づく気配は察せられる。それがよろよろと、あたりのテーブルに手をつきながらやっとのこととなればなおさらだ。
 彼女は、小さくうなずいた。それでは相手に伝わらない、という発想はまだ出来ないらしい。それでも何とか、震える手で鍵を開ける。防犯には心もとない貧弱なつくりだが、この場ではそれがむしろ幸いしていた。
「邪魔するよ」
 なじみの、それこそ居酒屋にでも入る口調で外の男が扉を開けようとする。それを、神林が鋭い調子で制した。
「待て! 中村、お前は戻れ。それからだ」
 今まで店主と彼の雑談を制止しなかったのは、中村が逃げないよう監視することに意識を集中させていたためだったらしい。暗黙のうちに、とにかく凶悪犯の意識を事件そのものからそらそうと連携していた残る二人は、当面口を閉ざさざるを得なかった。
 転がるように中村がカウンターの中へと戻る。店主が口を開いたのはそれからである。
「どうぞ。ただ、お入りになられたらすぐに鍵を閉めてください」
「ああ」
 のそり。そんな様子とともに、倉田だという男が姿を現した。
 身長は中村より明らかに低い。震え上がって小さくなった状態の彼女よりも、丈が短かった。しかしそれでいて、「小さい」印象はあまりない。横幅が広いのだ。それも無駄に肥満しているのではなく、骨格と筋肉による太さだと見て取れる。よく見れば腹は出ているが、これは年齢を考えれば許容範囲だろう。
 顔から受けるの印象は、六十歳過ぎ。体同様横幅が広く、刻まれたしわは浅くない。髪も白髪の方が多いようだ。ただ、話している内容を信用するなら五十代後半ということになる。
 そして表情には、今のところ読み取れるものがなかった。眼光鋭くても、逆に愛想笑いでも挑発になる。それを考えてのことだろう。
「丸腰だということに嘘はないようですね」
 観察した結果を、店主は無感動に、また当人にも聞こえるように伝えていた。鍵をかける際にはカウンター側に背を向けるので、前後とも見えている。言われたとおりにジャケットを脱いだワイシャツ姿、スラックスのポケットやベルト周りなど、一定の重さを持った武器を保持できるあたりに不審な様子はない。強いて言うならシャツの胸ポケットが膨らんでいるが、これは明らかに煙草とライターによるものだ。
「まあな。座っていいかい?」
「そちらの席へどうぞ。珈琲は今しばらくお待ちを」
 店主が示したのは、数少ないテーブル席の一つだった。カウンター、つまり立て篭もり犯や人質から最も遠い。予想を超えた事態の急転を望まない以上は、当然の配慮である。
「分かった」
「恐れ入ります」
 喫茶店である以上、客にはまずは水とお絞りを出すのが常識だ。この店にもその備えはある。彼以前の二人の招かれざる客については、そうするためのタイミングがなかっただけだ。
 しかし、現状ではできるだけ余計な行動は避けたい。神林が真意の読めない沈黙を守っているうちは、なおさらだ。ただ、一度出すといった珈琲を取りやめるのも不自然なので、それは続けていた。
 やり取りが途切れる。タイミングとしてはそれを待っていたような、つまり犯行の凶暴さからはかけ離れた紳士的な所で、神林は口を開いた。
「で、おっさん何の用だ」
 もちろん、口調はぞんざいなままだ。相手の方が確実に年長者であり、また社会的な地位もあるはずだが、気にした様子はない。もっとも、この場合は丁寧にされると余計に不気味であるので、相手としても気分を害さずに応じた。
「言わなかったっけか。とりあえず話をしに来ただけさ。まあ、そっちが電話の方がいいと言うなら、とりあえずは出直すよ」
 警官にしてみれば、事件現場における用事は簡単に言うとただ一つしかない。当然、その解決だ。そしてこの場で解決と言うためには、人質の無事解放と犯人逮捕という、二つの条件を同時に満たす必要がある。
 そのどちらも、神林がすぐに受け入れるとは思えないものだ。だからこそ、自分自身の目的について明言を避けている。交渉をしに来たとさえ言わず、彼から働きかけがあるのを待っている状態だ。
「正直、オヤジの顔なんざ見せられても嬉しくはないがな。いられても別に怖くはない。どっちでも…いや、どうでもいいさ」
 しかし、神林はそれに乗ろうとしない。意味があるとも思えない挑発をしただけである。彼自身ならともかく、ベテラン刑事がその程度の誘いに乗るはずがない。膠着状態が、むしろ悪化しつつあるようだ。
「そうか。ならとりあえず、ゆっくりさせてもらうとしよう。マスター、メニューを見せてもらっていいかい」
「いや…そちらのテーブルにも備え付けてございますので。ご覧になるだけならお好きにしていただいて構いませんし、ご注文をいただけるのなら支障がない限りお作り致しますが」
 飲み物はもう注文しているから、今から、しかもここで、何か食べる気か? 口調が丁寧な分却って、店主のその言外の主張がはっきり聞こえていた。時既に遅し、ではあるが、客商売を放棄している。
「さすがにまだ腹は減っていないがね。見れば中々いい雰囲気じゃないか。ものがよければ今度、寄らせてもらおうと思って」
「それは、恐れ入ります」
 実際珈琲以外は大したものがないんだが。その本音を、店主は飲み込んだ。これ以上事態がややこしくなっても、誰も喜ばない。
 倉田はメニューを開くと、程なく目的のものを見つけ出した。元々品揃えが多いような店ではなく、見開き部分しかないのだ。ただ、一枚紙にしてしまうとそば屋か何かのようなので、二つに折って重めのカバーをかけ、内装にあわせている。
「ふうん。で、パック丸ごとオレンジジュース、氷抜きってのは一見お断りの裏メニューかい?」
 彼は目ざとく、カウンターに置かれたままの業務用オレンジジュースのパックに注意を払っていた。異常な点がそこだけならともかく、そもそも銃を持った人間がいるというこの状況下で気がつける人間は滅多にいないだろう。しかも、氷が始めから入っていなかったことまで看破している。グラスの中に見当たらないだけなら溶けてしまったという可能性もあるのだが、犯人がここへ押し入ってから今までの時間からすればそれは考えにくい。優れた観察力、判断力はさすがと言うべきだろう。
 つまり彼は、会話をするきっかけを探っていたのだ。そう悟って、店主が応じる。
「別に馴染みの方でなくても、お客様がお望みでしたらできるものはお出ししていますよ。ファストフードやファミリーレストランではありませんから、その辺融通は利きます」
 もっとも、例えば「オレンジジュースでコーヒー豆を煮出したもの」などというゲテモノ注文であれば、丁重に断るが。ともかく店主は、軽く身振りで神林を示した。
 ここで「ジュースが好きなのかい」などというありきたりな振り方をされるのが嫌だったのだろう。彼は刺々しい声で言い放った
「他にろくなものがなさそうだったからな。仕方なくこれにしてやっただけだ」
 いかにもまずそうに、残っていたものを飲んで見せる。店主は彼の反対側だけで、小さく肩をすくめて見せた。
「ははは。まあ、俺も勤務時間中じゃあなければとりあえずビールだな。そういえば最近は、昼間喫茶店で夜はバー、なんて所もあるそうだが」
 事実だが、そういう流行だけ把握しているのもどうかと思う。噴き出す寸前で、店主は探る視線に応じた。
「生憎ですが、ここは夜までこのままです。確かに最近だと、色々な業態のお店が夜はお酒が主になるそうで、中には昼間飲食店ですらないところもあるとか」
「マスターも詳しいじゃないか。嫌いじゃないならいっそ、ビールくらいは置いたらどうだい。チェーンの牛丼屋やカレー屋でも、そのくらいはメニューにあるぞ」
「いっそどころか、ここもそういう店にしようかとは思ったのですけれどね。よく考えないでも私、自分が飲むのはともかくしらふで酔っ払いの相手をするのは嫌いなもので」
「あー、そりゃ言えてるな。ま、旦那が飲みながら営業してる店もあるにはあるが、万人には勧められん」
 と言いつつ、二人とも一滴も飲んでいないはずなのに、話の内容が最早居酒屋化している。なにしろ目の前に材料があるので、酒談義は酒席において最も取り掛かりやすい話題だ。
「ふふ。誤解しないで下さいね」
 ふと苦笑してから、店主は棚の奥から二つの瓶を取り出した。一つには赤みがかった琥珀色の液体が満たされ、表面が多数の多角形から構成されている。もう一つは中身のうかがえない濃い茶色で、丸っこいずんぐりとした胴のものだ。
「何だ、あるじゃないか」
 倉田が非難がましい声を上げたのも無理はない。それぞれ、ブランデーとウィスキーの瓶だった。メニューにそれらの表示はない。
「珈琲や紅茶に数滴たらして飲むんです。多くはありませんが、そういうお客様もいらっしゃいますので。そこそこ良いものですよ。酔っ払うためではなくあくまで…」
 香り付けだ。そのことを店主が言い終える前に、神林がブランデーの瓶をひったくっていた。そして飲み残しのオレンジジュースが残ったままのグラスにどぼどぼと注ぐ。いわゆるアルコール中毒、という報道は間違いないようだ。マイナーなカクテルのレシピに似たようなものがないではないが、それを意識しているようにはとても見えない。
「これで潰れたらしめたもの、なんて思ってるだろうが生憎だったな。この程度なら実際朝飯前だ」
 そう前置いてから、彼はジュースと変わらない勢いで飲み始めた。
 やはりそうだったか、というのが他の酒飲み二人の感想である。ある程度は考えながら飲んでいるので、他人のことも大体は分かる。
 本当にアルコールに弱い人間は、そもそも自分の意志で大量に飲むことが難しい。そのため継続的に飲酒をする慢性的な依存症、いわゆるアル中にはなりにくいものだ。もちろん、弱い分急性中毒の危険性は高い。
 慢性化するのは主に、なまじ酒に強い人間だ。大丈夫大丈夫と思って量が過ぎるうちに、取り返しのつかないことになる。また、すぐに眠り込んだり身動きが取れなくなったりしない人間だからこそ、酔っている間中暴れて他人に迷惑をかけるのである。
 予想の範囲内であったので、店主としては自分の仕事を思い出していた。
「あ、これは失礼を。何かつまむものでもお出ししましょうか。ハムやチーズでよろしければすぐにお持ちしますし、サラダならば何種類か作れます。後は…ああ、そうそう。パスタを揚げるとチップス系の食感になって、意外と酒に合うんですよ」
 この辺り、酒飲みゆえの頭の回転である。飲まない人間ならそれぞれサンドイッチやスパゲティの材料でしかないが、上手く組み替えて、必要に応じて手を加えれば適当なつまみになる。これだとパンやミートソースが余ることになるが、これも互いを組み合わせればそれらしい料理になるだろう。
 後は冷やしトマトだな、と倉田は考えた。店主が洋食系を中心に発想しているのに対して、こちらは昔から居酒屋にあるメニューだ。基本的に冷蔵庫のトマトをスライスしただけの代物なので、気取った店ではまず出ない。ここのマスターも、愛想よく応じつつも内心はあまり良く思わないだろう。
 ただ、神林は鼻息一つで提案の全てを吹き飛ばした。
「いらん。せっかく酒を飲んでるってのに、腹に余計なものを入れて何が楽しい」
 本当に、酒だけが好きな人間なのだ。倉田と店主は思わず目をそらした。病的に疑り深い危険な相手でなければ、顔を見合わせていたところだ。
 その飲み方だとまず胃腸が荒れるし、吸収が早すぎるので悪酔いもしやすい。急性中毒などの危険も高くなる。さらには必要な栄養分を摂取しないから、アルコールの分解が遅くなって二日酔いを誘発するだけでなく、体全体を弱らせる。
 それでも、まあ、辛い思いをするのが本人だけであれば自己責任というものだ。しかし、この男は暴飲に関連して、他人に迷惑ですまない被害を現に与えている。救いようがないとはこのことである。同じ酒飲み、とひとくくりにはされたくない。
「失礼しました。まあ確かに、それほどのものができる訳でもありませんからね」
 ただ、それを今口に出しても仕方がない。店主は引き下がるだけで済ませた。世間話を再開するつもりか、倉田が口を開く。
「マスターは洋酒派かい?」
「いえ。日本酒もやりますよ。雪でも見ながら湯豆腐に冷酒なんて最高ですね」
 口の前で、架空の酒盃を傾けて見せる。持ち方が猪口ではなく、大ぶりのグラスのそれだった。
「熱燗じゃないのか」
「熱いもの同士だと良さが分からなくなるでしょう? 冷酒で口の中がきゅっと引き締まった所で、熱い豆腐をはふはふといただく訳です」
「あー、そりゃ美味そうだ。ただ、俺はどっちかと言うと焼酎派でね」
「ほう。すると湯豆腐では少し弱いですね。同じ鍋ならもっと脂っこいあんこう、あるいはすき焼きなどがお勧めでしょうか。後は味付けそのものが濃いチゲとか…石狩鍋なんかも良いですね」
「悪くないとは思うよ。しかしこの歳になると、そういう量があるものは一人前を食い切れない気がしてさ」
「というと焼き鳥や焼き魚、あるいは塩辛や肉じゃがといった定番に落ち着きますか」
「どうしてもね」
 中々手強い客だ。苦笑しながら、マスターは首をかしげた。
「そうすると、他には野菜や卵の炒め物がお勧めです。後は豆腐とか。まあ、ひとくくりにすれば肉以外ということになりますが」
「まずそうだとは言わないけれど、何だか中華みたいだな」
「そうですね。さすが中国四千年の歴史と言うべきかどうかよく知りませんけれど、中華料理が肴なら、大概の国の酒は美味く飲めるものです。日本酒でもビールでも、あるいはブランデーでも」
 口が滑ったのではない。敢えて振ってみたのだ。神林にこれという反応がないのを見てから、倉田が応じる。
「まあ確かに。ブランデーって言ったらチョコレートをつまみにするらしいが、それよりは中華の方がいいような気もするな」
「私自身大好きだというほどではありませんけれど、甘いものには甘いものの良さがありますよ。ブランデーとセットで、食後のデザートのようなものですね。さすがに日本酒や焼酎では、そういう楽しみ方は難しいですから」
「へえ。俺としちゃあブランデーケーキやウィスキーボンボンなんてものもどうもしっくり来ないから…」
 倉田は言いきらなかった。さえぎられたのでも言葉に詰まったのでもない。待っていたものがようやく現れたのだ。
「マスター、注文だ」
 大分中身の減ったグラスを叩きつけるように置いて、神林が口を開く。声をかけられた店主は、通常の客を相手にするかのように何気なく応じた。
「はい。何に致しましょう」
 そろそろ倉田のための珈琲が出来上がるのだが、ここは後回しにすべきだろう。
「チョコレート」
 誤解しようがない、明瞭な発音で一言。天邪鬼にもほどがある。嫌がるそぶりを見せる人間がいたから、わざわざそれを実行しようとしているのだ。倉田は無表情を保ちつつ、指で椅子の裏側を何度か叩いた。
 一方の店主は、当面注文に沿うことだけに集中している。コンビニエンスストアや菓子の専門店ではないので、はいそうですかとすぐに出せるわけではない。
「ええっと…とりあえずチョコパフェやチョコレートケーキならメニューにあるんですけど、それではないですよね。とはいえ、そのためのチョコレートシロップの原液ではなんですし、ココアというのもどうも…。いや、ああ。そういえば」
 冷蔵庫ではなく、酒を出してきたのと近い所の棚をごそごそとかき回す。ややあってから、彼は紙包みを引っ張り出した。それをはがすと、今度はアルミ箔が現れる。規則的な凹凸のある板状、市販の物と違ってメーカー名こそ書かれていないが包装をはがさなくとも分かる、板チョコだ。
「何でもあるなあ」
 感心した、というより呆れた倉田だった。店主はかるく肩をすくめてから、神林に向き直る。
「こちらでよろしければ」
「さっさとしろ」
「ただいま」
 ここでけちけちしても仕方がない。無造作にアルミ箔を破り捨ててから、拭いたばかりの皿にそのまま乗せて出した。これを普通の客に向けてやったら、不快に思われるのは間違いない。しかし現実には、手が汚れるかもしれないということなど気にもせず噛みついている。どうやらある程度は、腹が減っているようだ。是非はともあれ心身ともエネルギーは使っているはずなので、自然といえば自然である。
「チョコパフェなどに少し入れるんです。何だかんだ言っても、日本人はあの味が好きですからね。日持ちがしますので、少量ずつでも無駄になる心配は少ないですし」
 とりあえず拒絶されていないのを見届けてから、店主が倉田の感想に反応する。先程のつまみ談義とは違って、倉田の受け止め方は懐疑的だった。
「そんなもんかねえ。最近は何だか、チョコレートも海外ブランドばやりらしいじゃないか。バレンタインのたびに、得体の知れない高い店の話ばかりしやがる」
「ははは。まあ、ここもそういう流行にあやかれれば、もう少し繁盛するのかも知れませんけれどね。ただ、ブランドというのは個性的だからこそブランドなので。正直、万人向けではないと思いますよ。もちろん、食べ比べた末に気に入ったものに出会うならそれは幸せなことでしょう。しかし名前があるからといって味わいもせず食べたり、まして人様に贈ったりというのは、どうなんでしょうと私も思いますよ」
「そのうちこっちの猪口もブランドが流行りだしたりしてなあ」
 日本酒を飲む真似をしてみせる。一瞬、間があった。
「…オヤジギャグ」
 マスターだけが、仕方なく応じたのではない。かといって、もう一人の男だけが情け容赦なく切り捨てたわけでもない。二人、異口同音に、そう言っていた。
「揃って真っ向から潰さなくてもいいじゃないか」
 どうやら寒い風が吹く程度には慣れているようだが、さすがに全否定はこたえたらしい。その抗議に対して、マスターは小さく首を振っていた。その横で神林は、他にはっきり言う人間がいたのなら無視すれば良かったといわんばかりにそっぽを向いて、酒をあおっている。
「この際ですからはっきり申し上げますね。受けないものを受けると勘違いするセンスのなさと、受けなかったらどうしようとか考えない羞恥心のなさ、両方なければできない芸当ですよ」
 言いながら、カップに出来上がった珈琲を注ぐ。まだ誰も口をつけていないそれではあるが、強烈に苦そうに見えた。一応はそれを和らげるつもりがあるのか、マスターは頼まれる前から砂糖とクリームを用意している。
「歯に衣着せないとはこのことだね」
 飲む前から既に、苦そうな顔をしている。店主は笑って、それ以上の反応を見せなかった。既にカップを乗せたトレイを手にしており、接客業としては喋ることも肩をすくめることもしにくかったのだ。
 ここで、神林が食いついてくる。まだ酔いが回るようなタイミングではないが、飲み始めことで気が緩みだしたのかもしれない。
「おっさんの周りに『それつまんねー』とはっきり言う人間がいないだけだろ? 娘に汚いもの扱いされて、口もきいてもらえないんだろうが」
 定年間際であるらしい警官は、とっさに答えなかった。ちょうど珈琲が彼のテーブルに運ばれてはいたが、それに遠慮した訳でもあるまい。口を開いたのは、マスターがカウンターの中に戻ってからである。
「娘なんていないよ」
 そう言ってから砂糖の紙包みを破り、珈琲の中に流し込んだ。
「じゃあ息子か嫁」
「子供もかみさんもいない」
 ありきたりのプラスチック製ポーションではない、金属製の壷に少し途惑いながらも、クリームを入れる。マスターは陰鬱な顔で、トレイを片付けていた。
「なるほど、結婚できなかったって訳だ」
 楽しそうに、笑っている。警官は構わず、コーヒーをかき回していた。疑問点に気がついたのは、店主である。
「今、『かみさん』とおっしゃいましたよね。それは主に、ある程度の年月結婚生活を送られた方の言葉だと思いますが」
 未婚の人間であれば、そもそもとっさに自分の配偶者を指す言葉は出てきにくいものだ。出たとしてもせいぜい、「嫁」だろう。もちろん、個人差があるので、これだけでは確証にならない。
 その点、特に二人と自分の年齢差を盾に粘れなくもない所ではある。二人とも子供でもおかしくないと思える世代だ。神林の年齢は既に割れているし、マスターも三十台後半には見えない。しかし、この件に関しては諦めが早かった。
「マスターにはかなわないな。しばらく前に亡くして、それきりやもめ暮らしって訳だ」
「そちらのようなお勤め先でしたら、再婚のお話も…」
 店主の話を、神林は強引にさえぎった。
「それでもしばらく結婚はしていたんだろう? 子ができなかったってことは、あんたに『タネ』がなかった訳だ。それとも不能だったか」
 元々紳士的であることを一片たりとも期待してはいないにせよ、あまりに酷い侮辱だ。もちろん子供を作るだけが人間の価値ではない。しかし、子供に恵まれないことについて誰よりも悩んでいるのは、多くの場合他ならぬその夫婦である。その傷口を、力づくでこじ開け、えぐりまわすようなものだ。
 あるいは、夫ではなく妻の方に何か子供が生めない事情があったのかもしれない。しかし倉田がそうだと反論すれば、既にこの世にない人の非を鳴らすことにもなる。普通の神経を持ち、そして夫婦としての何らかの絆が今も残っているなら、絶対にできないことである。
 暗く、澱んだ笑みを、彼はのぞかせた。基本的に沈着な店主が、息を潜めている。
「ま、そういうことになるな」
 言葉としては、そう口に出しただけである。神林はげらげらと、指をさす代わりに銃口を向けて笑い出した。店主はここしばらく放置されたままの中村の様子を見に行く…ふりをして、この二人のそばから離れようとする。店の外へ逃げるつもりはないが、とりあえず可能な範囲でフェードアウトしたかったのだ。
「そういえば、マスターは結婚してないのか」
 しかしだめだった。呼びかけたのは、倉田である。
「…しているように見えます?」
 精一杯、営業スマイル。その顔立ちは、老け込んでもいないが幼いあるいは若々しいというほどでもない。どこか年齢不詳に見えたが、少なくとも結婚ができない年齢だとは思えなかった。この場に居合わせたほか二人については、中村が女子大生だというので考えにくいし、神林は既に素性が割れている。
「いや、あまり見えないけれど。先入観だけで物事を判断するなってのが、長く仕事をしてきて得られたささやかな教訓だよ」
「実際していません。まあ、『若気の至り』の覚えが全くないとは言いませんから、実は子供が、なんてこともありえなくはないですけれどね。ただ、最近身に覚えはないので、可能性はごく低いでしょう」
「ああ、やはりちょっと意外だな。結婚に関しては当たりだけど『若気の至り』もしなさそうな堅い人間に見えたから」
 誰にでもあるような失恋の思い出、では済まされない。一方的に別れた、あるいは一晩きりの付き合いをしたなどという無茶な真似をしなければ、相手がその後妊娠や出産をしたかどうかは分かるはずだ。そこまですさんだ様子は、少なくとも今の彼からは感じ取れない。
「色々ありましてね」
 皮肉っぽく笑って見せた。「色々」の中には犯罪に該当するような事柄もあるのだろう。そのため暗に、警官に喋るようなことではないと示しているのだ。倉田としてはまだ時効になっていない件もあるのではないかと気になったが、この場では詮索しても仕方がない。納得顔でうなずくだけで済ませた。
 その一方で、神林が身を乗り出して来る。
「女を力づくで犯したこともあるんじゃないのか」
 何か同じ臭いを感じ取ったようだ。渋い顔で、店主は応じる。
「一応強姦とか、しゃれにならないことはしていないつもりですがね。今にして思えば、ちょっと強引だったかと反省せざるを得ない覚えもありますよ」
「その方が燃えるだろ、実際」
 にやにや笑いで聞いてくる。店主は無表情に応じた。
「さあ…昔のことですからね。したことまでは覚えていますけれど、自分がどう感じたかまではちょっと」
「なら、今やってみて思い出したらどうだ。ちょうどそこに女もいることだし。いいもんだぜ」
 外道め。内心でつぶやいてから、店主は首を振った。
「できる状態にならないですよ。さすがに、こういう状況では」
 人目がある。それもただの人間ではなく警察官がいる。その一方で、銃で脅かされている。この状態で女性をどうこうできるとなると、とてつもない性欲、あるいは異常な精神の持ち主だ。
 うかうかしていると強制されかねないと思って、とりあえず不可能だということで予防線を張った店主である。その弱腰といえば弱腰な姿勢に満足したのか、神林はけらけらと笑った。
「だらしないなあ」
「もう若いというほど若くもないですからね。しかしおっしゃりようからすると、そちらはそういうご経験がおありのようですが」
 本来なら恥ずべき以外のなんでもない事柄のはずだが、この男としてはむしろ自分から喋りたいようだ。凶悪さを強調することで、他の人間を威圧するという意図があるのだろう。そこで水を向けながらも、視線は倉田に投げてみる。
「仕事だから前歴は調べさせてもらったが、そういう話はなかったな」
 警察官としては判断保留、様子を見るといったところだろう。それに満足して、神林は口を開いた。
「嫁にいけなくなるってな。警察にも誰にも訴えずに内々で片をつけたわけだ。良くある話だろう、おっさん」
「まあ、ないじゃないな」
「しかも後で孕んでることが分かって、堕ろしても、まだ泣き寝入りって訳だ。おかげでこっちはヤリ得さ」
 最早人間の言葉で形容することさえためらわれる内容だ。敢えて言うならば「言語道断」に尽きる。
「さて…と。しかし堕胎の費用くらいは請求されたでしょう?」
 むしろかなりわざとらしく、それまでの話の流れとは無関係に、店主が動き出した。冷蔵庫を開けながら、そのついでのようにして会話を続けている。
「されたって、踏み倒せばそれで終わりだ。元々そんな金なんて持ち合わせていやしなかったしな。それに、請求書なんてものを作ったら逆にこっちのものだ。それをネタに強請ってやると言ったらすぐに黙ったぜ」
「なるほど。警察としてはだから最初の被害のときに泣き寝入りをせず告発すべきだった、というところですか」
 倉田は小さく、ため息をついた。
「そうなるな」
 しかし、警察や裁判は神様ではない。被害者の心の傷を癒せるわけではないのだ。
 犯人を裁く過程に関わるとなると、思い出したくもないことに正面から向き合わなければならない。結果、却ってその傷を広げてしまうということも現にある。
 ただ、避ければそれで済むかというとそうでもない。人間物事を都合よく忘れ去れるものではないから、一度逃げれば心の整理がつくまで逃げ続けなければならない。あるいは死ぬまでだ。
 どちらが本人にとってより負担の少ない選択であるのか、それに保障を与えることは、すくなくとも倉田にはできなかった。
「で、マスターは今一体何をしてるんだ」
 冷蔵庫からは食材を、棚からは食器を取り出している。料理、にしては、その後加熱したり包丁を使ったりという様子が見られなかった。
「別に、喫茶店のマスターが何をできるということもないのですけれどね。ただ、生きている以上は、食べないことには始まりませんから」
 言い終えた後で、他の人間に見えるように持ち上げる。それはバニラのアイスクリームにチョコレートソースをかけたものだった。もう少し手を加えればチョコパフェになるはずだが、そこまでにするつもりはないらしい。
「違いないが、何だね、そりゃ」
「何だといわれても困りますけれど…あまり凝ったものだと、食べづらいかと思いまして」
 軽く笑ってから、彼は神林に向き直った。
「これ、中村様にお持ちしてよろしいでしょうか。何か口に入れていただいたほうが、後々面倒もないかと思いますが」
 ここへ来て以後、彼女は水分すら満足に摂取していない。その前も、拉致されてからは似たような状況だろう。精神的に追い詰められてもいるし、放置すれば急速に衰弱する可能性がある。
 大事な人質に死なれては元も子もないだろう。気がつけば、彼女はカウンターと厨房の間の床に座り込んでいる。食べさせようとしているのは噛まずに飲み込めるもので、この時点で既に病人食に近いのだ。その言外のメッセージを、神林は理解した。
 しかし、無条件ではない。
「好きにしろ。ただ、奥にいるほかの奴らにはやるなよ」
 実際よりも人質を多く見せかけている。そのはったりを、彼は忘れていなかった。表情を消してうなずいてから、店主は中村の傍らに膝をつく。
「さあ、少しでいいですからお食べになってください」
 スプーンで、白と黒がバランス良く配置されるようにすくう。本人の意志で開けられた、というよりもしばらく前から半開きだったらしい口に、彼は半ば強引にそれを押し込んだ。
 すぐに、入りきらなかったものが口の端からこぼれる。体温で白いアイスクリームが溶け、またチョコレートソースが緩んで混じりあい、どろりとした茶色になっていた。お世辞にも見栄えのする様ではない。しかし、食べさせている男は微笑んでいた。
「そう…それでいいですよ。人間、食べられるうちは何とかなりますから、ね」
 入れた全てが、戻されてはいない。かすかではあったが飲み下した様子を、彼は見逃していなかった。もちろん十分な量には程遠いが、全く受け付けないという事態もありうることを考えれば、それよりは余程希望が持てる。
 当面、この二人はお互いで手一杯だ。結果、凶悪犯と警察官という、そもそも対立関係を避けることが難しい男たちが残されていた。

続く


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