死を撒く男

W 撃つ男


 ここしばらく人質にとられたままの状態にある中村は、心身ともに追い詰められている。そしてその彼女を連れた凶悪犯に押し入られた店の主は、今彼女の世話で手一杯。
 残されたのは凶悪犯自身である神林と、後からやって来た警官、倉田だけだ。
「そういえば…」
 口火を切ったのは、倉田である。コーヒーを飲んで一度、間を置いていた。
「その、泣き寝入りをした女性というのは、今どうしてるんだ。まだ泣き暮らしているのか?」
 先程神林が自分から自慢げに喋った、未解決だという強姦事件。それについての話を蒸し返した。
「何だ、尋問か? 余罪を一件付け加えて、そんなに手柄が欲しいのか」
 見下げた奴だ、とでも言いたげな口調だ。お前にだけは言われたくないと返したくなる所ではあるが、定年が近いという男はゆっくりと首を振ってかわした。
「今更そんなものがあったって、退職金の額が変わる訳じゃないさ。ただ、共通の話題って奴が欲しくてな。考えてみたんだが、他に思いつかなかった。マスターだって相手が警官なら、この前のあの事件がどうだったとか、そんな話をしたくなるだろう?」
「確かに誘惑には駆られますね。ただ、仕事の愚痴を聞いて欲しくて仕方がないという方も多い反面、自由時間には仕事のことを考えたくもない、という方もいらっしゃいます」
 やや上の空気味の返答だった。この場合結局どちらが良いのか、その判断を欠いている。
 そもそもはわざわざ犯人自ら切り出してきたのだから聞いてやったほうが良い、というのが常識的な判断ではある。しかし土台常識が通用しない相手だから、自分から喋るのは良くても聞かれるのは嫌だ、という気まぐれを起こす可能性も十分ある。
 考えていれば迷う所だが、店主の声にはそれも感じ取れなかった。鈍い反応だが、倉田としてはそれでも構わないと思っている。
「話したくないならそれでいいさ。別にしろとは言っていない」
「別にどっちでもいいことだがね、俺にとっちゃ。いや、泣き暮らしてるなら、面白いから喜んで喋ってやってもいい。しかしぶっちゃけ知らん。奴は当然こっちを避けてるし、俺だって別にわざわざ調べる訳じゃない」
 乗ってきた。押してだめなら引いてみろ、といういい方そのままの倉田の駆け引きのが功を奏したのだ。どうやら彼も、相手の天邪鬼な性格を把握しつつあるらしい。自分が無関心に近い態度だったのも好影響だったか、と店主は背中で聞きながら考えていた。
自分の犯罪歴すら誇示する性分は、裏返せば目立たない、あるいは無視されるのが許せないということだ。
「まあ、そう言われればそうなんだが。人間、避けようとしても避けられない場合ってのもあるし、そうでなくとも付きまとおうとするのを追い払うのは大変だからな。そうでもないということは、いきずりの相手でしかも大した興味がなかったということか」
 どうやら、中村はこれ以上食べられないらしい。そう判断した後で、店主は音を立てないように立ち上がった。見逃したり聞き逃したりはできないが、そうであるだけに邪魔は禁物だ。
「ああ、そうさ。道で出会って、その場で犯してやったのさ」
「ほう。そうすると彼女の側は、君を探し出してまがりなりにも話をつけるだけでも大変だっただろうね。警察には訴えなかったということだから、見ず知らずの人間を見つけ出すなんて至難の業だ」
 警察ですら、犯人を探し出すのは難しいものである。突然の事態に驚き、おびえ、混乱した被害者には、実の所あまり正確な証言は期待できない。それに目撃証言も物証も、いつでも都合よくあるものではない。
 結果、警察が後手に回っているうちに複数の被害者を出し、断片的な証言や証拠が集まって、あるいは防犯カメラに映るなどのへまをしてようやく逮捕につながる、ということも少なくないのだ。
 さらには婦女暴行のような事件の場合、汚らわしさのあまり被害者自身が口を閉ざし、あるいは証拠物件を自ら処分してしまうことが多く、捜査の障害は大きい。
「親が金持ちだったからな。探偵を雇って、あげくにDNA鑑定って訳だ」
「あー、なるほど。そいつは凄い。相当いいところのお嬢さんだ。そのレベルだと世間体を気にするのもうなずけるな」
 店主は無言を保ったまま、倉田を眺めやった。すると店主の側からのみ見える位置で、軽く手を開いてみせる。引き続き黙っていろ、という意味だろう。了解した、という意志表示は、通常よりも若干時間をかけたまばたきですまされた。
「ま、もちろんヤッた時点でそんなことは知らなかったがな。マスターもそんな覚えはないか。その若気の至りって奴の中に、後々面倒になったってことが」
 自慢げに喋ったかと思えば、急に振ってくる。さすがの彼も、軽く引きつった笑みを見せた。
「え、私ですか? 身近にそんな、家柄がどうこうなんて女性がいませんでしたからね。ほら、先程もちょっと申し上げましたけれど、私自身良い環境で育ったのではありませんから」
 まだ倉田が入ってきていない時点での話題だ。首をかしげて見せると、店主は苦笑した。
「詮索しないで下さいよ」
「ああ、済まん」
 謝ったが、それだけに違和感は残った。どうもつかみにくい男だ。自分でほのめかしている不幸な生い立ちが、態度からは全く見えてこない。
 話す内容が丁寧なだけでなく理知的で、どちらかといえば正統派の教育を受けてきた人間を思わせる。典型的には一流大学を出て伝統のある大企業の本社勤務、そんな所だ。しかもこの状況下で、まだ他人を気遣う余裕も持ち合わせている。愛されはしても甘やかされはしなかった、本当の意味での良家の子弟だという気さえする。
 ある種の風格があると言ってもいい。間違っても、取調室では出会わないタイプだ。
「さっきの話だと元ジャーナリスト、だそうだ。例の、病院でガキが射殺された事件とかを取材してたんだと」
 過去の話を避ける本人に代わって、神林が説明する。もちろん嫌がらせである。無視するわけにも行かないので、店主に悪いとは思いながらも倉田は記憶を掘り返した。
「ん…ああ、代議士の隠し子だったっていうアレか」
 その後母親がどういう取り組みをしているかについても、もちろん知っている。しかしそれは神林を刺激しそうなので、敢えて下世話な方向に持っていった。
「ええ、まあ。そればかりしていたのでもありませんけれど」
 戦場カメラマンからパパラッチまで、自称ジャーナリストにも色々あるが、堅実な印象からすれば新聞社だろうか。倉田はそう想像するだけでやめておいたが、神林にはやはり遠慮がない。
「不幸な生い立ちにもめげずにいい会社に就職できた、って訳だ」
 内容は褒めているようだが、口調は刺々しい。店主は一瞬意味を取り損ねたようだった。
「え…ああ、いえ。新聞とかテレビとかの、大きな会社ではありませんよ。私が勤めていたのは小さな出版社です」
 神林が考える「ジャーナリスト」とは、主要な新聞社やテレビ放送キー局のような大規模報道機関、つまりマスメディアに勤務する人間のようだ。恐らく、それ以外の「メディア」、つまり報道や出版に接したことがないか、あっても忘れているのだろう。
 マスメディアに従事する人々もジャーナリストと言えるからその認識が誤りだとは言えないが、範囲の捕らえ方としては不正確だ。「ジャーナリスト」と言えばもっと広く、他人に情報を提供することを生業とする人間一般を意味する。雑誌記者、あるいはどこにも属さないフリーランスの人間なども含まれる。
 しかしともかく、神林としては店主をマスメディア、要するに大企業に勤めていた人間だと見たようだ。そしてそのような環境にある、つまり恵まれた環境の人間には敵意を持っているらしい。そう判断して、店主としてはできるだけそこから離れるように話したのだった。
「出版社ってのも要するにインテリの集まりだろう? つまりお前も大学出のエリートだって訳だ」
 それでも、ゆがみきった人間には通用しない。さすがの店主も、軽く肩をすくめた。
「まあ一応、大学という名前のついた所は卒業しましたけれど。有体に申し上げれば三流ですよ」
「三流大学でも出れるだけ大したものさ。学費が安いって訳でもないんだろ」
「それはまあ…」
 むしろ学費の安い国公立の方が、概して難関である。店主が対応に困っているうちに、神林は矛先を変えてきた。
「おっさんは大卒…な訳はないか。だったらもっと出世してるだろう?」
「当たりだ。高校を出てすぐ警察に入ったからな」
 こと昇進に関して、警察は日本屈指の学歴社会だ。採用された時点で、どのあたりまで出世できるのかは大体決まっている。大卒で倉田と同じ年齢なら、多くの人間は管理職だ。
 倉田自身は実績があり、ある程度試験も真面目に受けているので、同様の経歴を持っている中ではそこそこ昇進している方である。もっとも、管理職は柄ではないと思っていたので、出世頭という訳でもない。
「すると後は…ああ、そういえばそこの中村は今現に大学に行ってるのか。女子大生って言ってたよな、テレビで」
 まずい。再びこの男の敵意が彼女に向いたら命に関わる。
 一応限られた人質を減らさないほうがよいという認識はあるようで銃は使っていないが、暴力に情容赦がなさ過ぎるのだ。あるいは本人としては加減をしているつもりなのかも知れないが、そうだとしたらその加減を確実に間違えている。大の男が無抵抗の人間を殴る蹴るすれば、別に凶器など使わなくとも殺せるものだ。
 それに酒が入り始めているから、今まで以上に凶暴になることも考えられる。
 倉田だけでなく店主も強引に話をそらす方法を考えていたが、銃を持って人質をとっているという圧倒的な主導権を持っている相手に対し、そう都合よくネタが転がってなどいるはずもない。
 倉田としては、一か八か力づくで取り押さえることも考える。しかしどうやり方を頭の中で組み立ててみても相手が発砲するほうが早いので、諦めざるを得なかった。
「どこの大学だ。おっさんなら知ってるだろう?」
「華山学院だそうだ」
「知らない名前だが、マスターと同じ三流大学か」
 酷い言われようだが、とりあえず危惧していた方へは向かっていないのを良しとすることにした。
「うーん…私の所を三流とするなら、華山は有体に言って二流くらい、でしょう。誰でも入れるというレベルではありませんが、難関大というほどでもありません。まあ、私も最新の受験事情に詳しいわけではありませんから、情報源としては不正確ですけれどね」
 嘘は言っていない。ただ、知っている全てを話してもいなかった。実は学費も入学金も水準以上に高いうえ、何かと寄付を募るという、人呼んで「金持ち大学」なのだ。ただ、その潤沢な資金を生かした独創的な研究が評価されてもいる。そのため一般にはさほどではないにせよ、知る人ぞ知る学校だ。
 倉田が学校名以外に関して何も語らないのも、同じ事を考えている可能性がある。金持ちの娘だと神林に認識されるのは防ぐべきだ。一つ分からないのはそんな彼女が何故わざわざアルバイトを始めようとしたかだが、もちろん今は触れない方がよい。
「二流大学ねえ…良く分からんな、何のために行ってるのか。バイトにしたってなにも、わざわざあんな面倒な所でやることもないだろうに」
 すでに取り返しのつかない事件のあった場所に意識を向けさせることになる、そんな綱渡りだが今は止むを得ない。店主は当面、中村から神林の意識をそらすことを優先させることにした。
「そんなに大変なお仕事でしたか」
 危険すぎる賭けだ。倉田としては目を見張ったが、もうとめることはできない。仕方なく、彼と成り行きに任せる。
「こ汚い中華料理屋でな、ひっきりなしに客が来るもんだから休みなんてありゃしねえ。それもむさくるしいおっさんばかりで奴ら自身だって礼儀の『れ』の字も分かっちゃいねえ癖に、俺の言葉遣いが悪いとすぐオヤジがなんのかのと小うるさく言いやがる」
 つまり外装は悪くとも客足の途絶えない繁盛店で、その忙しい中でも従業員をきちんと教育しようとする姿勢があるということだ。確かに楽ではないだろうが、決して悪い勤め先ではない。本人にとっては良い経験になる。
 少なくとも、例えばこの喫茶店などに雇われて終日暇を持て余す、などというよりは余程有意義だろう。と、倉田は事実だが酷いといえば酷い余計なことも考えていた。
 じろり、ではなくちらりと彼に視線をやってから、店主は話の続きに入った。
「ケースバイケースですよね。いつでも馬鹿丁寧にしていればいいというものでもないですし」
 少なくともあんた並に空気が読めて機転が利いて、必要であれば最大限丁寧になれる人間ならそうだろうがな。何もしないとその考えが顔に出てしまいそうなので、倉田は一口珈琲を飲んだ。
「だろ? 何でも丁寧でいいんなら、ファミレスやハンバーガー屋でバイトをしてるガキでもできるぜ」
 そして、そのまま飲み続けることになる。何か顔を背ける口実を考えておいたほうがいいな、と思った。通常の場面であれば窓の外でも眺めていれば良いが、この状況下では外にいる部下達を気にしているように見え、犯人を刺激しかねない。
「そうですね。ああいうマニュアルどおりで自分の言葉で話していないというのは、感心しませんよ」
 こちらは恐らく、意図的に話を歪めにかかっている。「ケースバイケースが良い」と「マニュアルどおりは良くない」は、論理的にほとんど変わりがない。だから彼としての主張は実の所首尾一貫しているのだが、口調だけ聞いているとさも神林の意見に賛成しているようだった。内心としては、いくら自分の意志であるとはいえ、ケースも何もあったものではない神林も嫌っているはずだ。
「だよな。バカにはお似合いだぜ。そういやあ中村ちゃん、お前なんでそういう簡単そうなバイトにしなかったんだ。やっぱり大学に行ってるようなえらいさんは、そういうバカバイトはしないのか」
 話が元に戻ってしまった。誰がどう努力しようと、当面彼の注意が中村に向いているのを止められはしないようだ。
 とりあえず、ファミリーレストランやファストフードで働いている人を一まとめに侮辱するような発言をとがめても、今は意味がないどころか有害なだけだ。ただ、中村がとっさに反応できないようならそれとなく話を引き取るべきだろう。そう思った倉田と店主は、視線を合わせることもなく同時に身構えていた。しかし、いややはりというべきか、物事は期待通りに進まない。
「わ、私は…」
 当面話すことはできるようだし、それは賞賛されるべきだ。そしてそうである以上、他の二人が下手に割って入れば神林の怒りを買い、事態を悪化させかねない。
 しかし、それが彼女にとって残り少ない力であることはまず間違いないから、対応を誤る可能性が否定できない。現に先程は下手に迎合して暴行を受けている。そして気をつけてくれ、という意味の男二人の視線に、少なくとも彼女は気づいていなかった。
「他のバイトの面接落ちちゃって…」
「ふふん。確かに、他に行き場のない人間が働く所だがな。しかしあの店、求人なんて出してたか」
 まがりなりにも従業員だ。事情はある程度知っていて当然である。
 倉田は事件現場として足を踏み入れただけだから詳しくは知らないが、どこにでもあるような小さな店で、思い返してみれば多数の従業員を抱えているとは考えにい。経営者家族に加え、せいぜいアルバイトやパートが数人といったところだ。人を集めている、あるいはその前段階としてそれまで勤めていた人間が辞めた、などという大きな動きは意図しなくても分かるだろう。
「私は、よく知りませんけど。知り合いの紹介なんです」
「へえ、じゃあ俺と同じか。いい店があるって話で勤めてみたらろくなもんじゃねえ。結局働かなくて、運が良かったな、お前」
「は、はあ…そうですね」
 中村の「知り合い」にどのような意図があったかは定かでない。ただ、神林の場合は想像がつく。彼のすさんだ生き方を見かねた人物が、厳しく鍛え上げてくれることが期待できる、信頼の置ける雇い主をわざわざ紹介してくれたのだろう。
 ここまで来るともう、彼に対する正当な批判をする気も起きない。いっそ見捨ててしまえば雇い主は死なずに済んだと、紹介した奇特な人物を理不尽ではあっても非難したくなってしまう。もっとも見捨てたら見捨てたで、この男の場合はまた別のどこかで凶行に及んでいた可能性は十分にあるだろうが。
「それともあの野郎、始めから俺を辞めさせる気で新しい人間を探しでもしていたか」
 吐き捨ててから、また酒をあおる。新しく人を雇う動機について可能性はもう一つあるが、と、倉田やマスターはもちろん中村もこのとき気づいていた。
 一方的に言い寄られていた、そして今は既に殺されてしまったという、もう一人の女性が辞めたがっていたのかもしれない。全面的に悪いのは神林だから筋としては彼が辞めるべきだが、同じ店にいれば暇になった彼に引き続き付きまとわれる可能性がある。縁を切ることを優先させるなら、いっそ彼女の方から辞めて姿を消してしまう方が確実だ。彼女自身がそれを望んでいる、また金銭面などの状況が許すのであれば、引き止めるのは酷だろう。
 もちろん、誰もそのことをわざわざ指摘はしない。そして神林も、今は他人の意見など求めてはいなかった。自分が殺した雇い主の悪口を言い、酒をあおるということを繰り返していた。
 周囲に飲めそうな人間が他にもいるのに独り酒。しかも手酌。一晩で二日酔い、毎日続ければ慢性中毒まっしぐらという「悪い酒」の見本だが、この時ばかりは全員がそれに期待していた。
 このまま酔い潰れてくれれば万事解決だ。そうでなくとも、酩酊して動作が鈍れば付け入る隙が生じる。本人はこの程度で酔わないと言っているが、このまま続けていれば時間の問題だろう。瓶にはまだたっぷりと入っている。
 とりあえずは邪魔をしないようにしよう。三人は暗黙のうちにその考えを共有していた。お互い喋るでもなく、ただ適当な所でうなずいたり、相槌を返すだけにしている。
 ただ、消すタイミングを逸してつけっぱなしになっているテレビだけが、その他の音を垂れ流し続けていた。気がつけばこの店の事件に関する報道は既に終わっており、別のニュースをやっている。
 やがて、神林のろれつが回らなくなりはじめた。このときテレビは既に、報道ですらなくなってグルメ情報を伝えている。どうやらワイドショーの枠の中だったようだ。日常生活ではともかく、当面この場では毒にも薬にもなりそうにない。まあ、毒にならないのを良しとしよう、と、倉田は考えておくことにする。例えば先程のようなこの事件に関する報道などは、犯人を刺激するので好ましくない。
「えー、番組の予定を変更して、ここでニュースをお伝え致します。先程お伝えした人質立て篭もり事件に関して、新たな情報が入りました」
 と、思ったらこれだ。テレビの中では司会者が表情を切り替えて話し始めている。倉田は頭を抱えそうになるのを、必死でこらえていた。
「人質の身元が判明しました。中村良子さん十九歳、華山大学の二年生です」 
 矛盾している。先程確かに「女子大生」と言っていた。身分まで分かっていたのだから、名前その他も当然その時点で把握していたはずである。
「…倉田様、こういう時は報道管制が敷かれて、必要以上のことは一般には知らされないものだと思っていましたけれど」
「あんたジャーナリストだったんじゃないのか」
「申し上げましたよね。新聞やテレビではなかったって。マスコミの裏側にはあまり詳しくないんですよ」
「ならまず初歩的な誤りから指摘しておこうか。『報道管制』っていうのは権力を使って報道を強制的に制限することだ。独裁国家ならともかく、日本の警察はそんなことをしない」
「そうですか」
 胡散臭そうな返事だったが、倉田は無視して続けた。
「あんたが言いたいのは報道協定のことだろう? あれはまあその名の通り紳士協定だから、確信犯で破られたらどうしようもない。それに誘拐事件とは少し事情が違うから、そもそも協定ができているかどうかも微妙だな」
「そうですか」
 さも世間話のような顔で話をしているが、そもそも口を開いている主な目的はなるべく彼の注意が中村に向かわないようにとの配慮からだ。
 それに倉田としては、何故今になって放送局が自粛を取りやめたのか考えるのにも忙しい。もし彼らが事件解決に協力する姿勢を完全に放棄しているとしたら大事だ。こちらの動きを逐一犯人に伝えられるという、警察としては最悪の事態を招きかねない。
 ただ、二人の思いも空しく、神林はそもそもそのやり取りを聞いてさえいなかった。だからこそ黙れなどとは言っていない。ただ、酒精に澱んだ目で画面を捉えている。杯を傾ける手も止まっていた。
 そして、彼女に関することが遠慮会釈もなく伝えられる。会社経営者の両親の元で育ち、小学校から私立に通っていたいわばお嬢様だ。学校のプロフィールや所属していた部活動に至るまで、丁寧に伝えられている。金銭に不自由したことはないが、社会勉強として敢えて忙しいアルバイト先を探したのが、今回は仇となったという。
 中村自身は既に、何が起こっているのか理解できない状況に陥っている。自分自身が先程以上に危険にさらされていると気づくでもなく、そして誰よりも良く知っているはずの事柄が報じられる画面を、何となく見ていた。
 一方倉田は、表情を消しつつも実は呆然としている。何か悪い冗談だと、現実逃避がしたい所だ。
 この状況下でよりにもよってということもあるが、そもそも情報の出所が理解できない。本人が否定していない所から判断して正確な情報を、こうまで迅速かつ豊富に得るなど警察にも困難だ。あるいは親族にこのテレビ局の関係者でもいたのだろうか、と思える。他のマスコミを一方的に出し抜いたスクープ報道であれば、自粛の解除も考えられないではない。
 最後の店主は表情もなく、ただ腕組みをしてテレビ画面だけでなく店全体を見渡していた。
 やがて放送の上で、一通り中村良子という女性に関しての紹介が終わる。この時それが前振りに過ぎないということを知っていたのは、この放送局の、それもごく一部の人間だけだった。
 アナウンサーの口調が、先程よりもやや遅いものになる。表情も硬い。急遽渡された原稿のようだった。
「えー、ここで。被害者の中村さんのご両親と、中継がつながっています。二階堂さん?」
「はい。中村さんのお宅前からお伝えいたします」
 画面にはコンクリート造の建物が映し出される。民家にしてはあまり生活感のしない、清潔だがその分無機的な印象の外観だった。そしてその前には、マイクを持った三十歳前後の男と、中年から初老と見える男女が立っている。
「あ…」
 言葉にすらなっていないかすかな声。驚いている、というほどではなく、気がついたという程度に過ぎない。しかしそれが、事実を雄弁に物語っていた。画面に映し出されたのは間違いなく彼女の自宅、そして両親だったのだ。もし万一別の建物、あるいは別人だったなら、もっと別の反応があったはずだ。
 現に人が住んでいる割に見た感じがさっぱりとし過ぎているのは、それが経営する会社の事務所を兼ねているからだろう。恐らく、家族の居住スペースは表側からは見えない位置にまとめられている。別の見方をすれば、それだけ敷地に余裕のある立派な建物だということだ。
 見るからに、金持ち。それは建物に限った印象ではなかった。両親とも、それなりに整った服装だ。冠婚葬祭や格式のあるパーティーなどの例外を除けば、そのまま大概の所へ出かけても恥ずかしくない。かといって、大事に際して慌てて一張羅を着込んだという不自然さもなかった。それが、二人にとっては普段着なのだろう。
 ざっと主要な人物と背景を確認してから、倉田は画面の端に注意を移していた。脇からマイクが突き出されたり、あるいはこの光景を見るのに不必要な照明が当てられていたりする様子はない。つまり、他の報道機関がその場にいないということだ。いわゆる独占インタビューである。
 まさか…一つの可能性に思い当たった倉田は、とうとう表情を消すのを諦めて眉をひそめた。店主も、微妙に目を細めている。
 二階堂と呼ばれた記者が、まずここに至った経緯を説明した。中村の両親の側から直接テレビ局に連絡があり、急遽実現したものだという。
 その後あわただしさを残したまま始まったインタビューであったが、夫妻は疲労した様子を隠しきれない中でも、つとめて冷静に話をしていた。非道な神林を非難するでも、早期の解決に失敗した警察への苛立ちを表すでもない。ただ切々と、次第に涙をにじませ、そして声を詰まらせながら、優しい我が子を返してくれるようにと訴えていた。もちろん、二階堂も刺激的な言動を引き出さないよう、質問には十分注意していると分かる。
 つまりこれは、他ならぬ肉親が自ら望んで実現したものなのだ。囚われの愛娘を何とか救い出すために、自分達にできる限りのことを考え、行動しているものと思われる。
 実際、ケースによってはこのような言わば「お涙頂戴」も有効な手段だ。例えば、かっとなってトラブルを起こした結果事態が大きくなりすぎた、などという型の人間には特に効く。このような場合本人としては引っ込みがつかなくなっているだけで内心では激しく後悔しているから、きっかけさえ与えてやれば自ら事件を解決する方向へ動く可能性がある。ただし、この場合には犯人が手っ取り早く自殺する、という手段にでてしまうことに注意が必要だ。
 一方営利誘拐や政治的テロリズムと言った、何らかの明確な目的を持った犯人に対しては効果がない。ただ、せせら笑われるだけだろうが、少なくとも人質に悪い影響はない。見捨てられていないということを教えられるため、むしろ勇気付ける効果は期待できる。
 しかしこの場合は、最悪だ。神林は熱しやすいが、冷めにくい。自分に敵対した人間に対してでなく、恵まれた何かを持っているあらゆる存在に対して、憎悪と敵意を抱いている。間違っても反省して投降などはしないだろう。むしろ、何よりも愛されて育ったという人質は格好の標的だ。
 本人の言葉を信用するなら親殺しだから、彼自身が良好な家庭環境にあったとは考えられない。仮に嘘、つまりはったりだったとしても、それなりの環境で育った人間ならそもそもそんな発想はしないはずだ。
 失敗だったな、と、ベテラン刑事は遠い目でテレビ画面の先を眺めていた。店内の様子、そして何よりも神林の気性をある程度把握した時点で、一度退いてその情報を持ち帰るべきだった。そうすれば、この展開だけは避けられたはずだ。
 もっともそれは、所詮後知恵に過ぎない。その場その場では、決して間違った判断はしていない。そう割り切って、倉田は目の前の事態に集中した。事件解決に向けた執念深さも必要だが、切り替えが早くなければこの仕事を何十年も続けていくことはできない。
「はっはっはっはっは! いい親父とお袋じゃないか。なあ、中村ちゃんよぉ。ああいう奴らが可愛い娘を殺されたら、どんな顔をするんだろうなあ?」
 それまで、酒が入っているにも関わらず体を揺らしさえしなかった男が、とうとう動いた。案の定、散弾銃を大きく振りかざしてから、大げさに狙いをつけて見せる。
 威嚇している間はまだ大丈夫だ。辛うじて。そう自分に言い聞かせながら、倉田は立ち上がった。
「無茶はよせ。そんなことをしても…」
「動くな! ぶっ殺されたいのか!」
 銃ごと振り返る。その動作はまだ十分に機敏だった。距離を一気に詰めて格闘に持ち込めるほどの隙はない。それに狙いが多少甘くても、散弾ならば当たる可能性は高いのだ。
「別に死にたくはないが、無駄な人死にを出したくはない」
「無駄かそうじゃないかなんてどうでもいい。むかつく奴が苦しめばそれでいいんだよ!」
 叫びとともに、再び銃口がめぐってカウンターの中へと向けられようとする。倉田は飛び出していた。分の悪い賭けだが、実力行使をためらえば確実に一人が助からなくなる。
 そしてこのとき、なすすべもないかに見えた中村自身も動き出していた。床を蹴って、さらにその勢いのままカウンターを飛び越えて外へと逃れようとする。敵の意表を突くとともに、カウンターやテーブルなど盾になる障害物があり味方もいるスペースへ移動する、極めて合理的な選択だった。
 もし裏口側に逃げようとすれば背中を長時間相手にさらすこととなり、格好の的になっていただろう。生きようとする意志が通常を大きく越える判断力をもたらしていた、そうとしか考えられない。両親の顔を画面越しにでも見られたことは、少なくともこの点に関しては良かったのかも知れなかった。
「え…?」
 散弾銃が火を噴き、破裂音が店じゅうに轟く。元々無理のある姿勢だった中村はカウンターから転げ落ち、近づこうとしていた倉田と衝突してしまった。倉田としてはとっさに、彼女が怪我をしないと同時に敵の射線をさえぎる、そんな難しい態勢をとらせるのに精一杯だ。
「あはははははははは! ざまみろ! ほら、おっさんも良く見ろよ! はあーっはっはっはっはっは!」
 神林が哄笑する。自分が撃たれていないとは分かっていながらも、倉田は血の気が引く思いだった。慌てて中村の負傷の有無を確かめる。
 幸いにというべきか、彼女は無傷だった。しかし、神林の笑いは止まらない。
「ひゃはははは。だからほら、良く見ろって言うんだよ。こいつを!」
「くっ…ぁ…」
 自分は動転していたのだ。倉田はこの時、ようやく思い知らされた。
 マスターがカウンターに突っ伏し、うめき声を上げている。珈琲のかおりをかき消す硝煙の臭いに混じって、確かに血の臭いがした。わずかだが、背後の棚に赤いものが飛び散っているのも見て取れる。
 足を撃たれたのだ。それもかすったなどという程度ではない。明らかにその部位を狙われ、発砲されている。この至近距離だと本来は拡散するはずの弾にそうする余裕が与えられず、言わば束になったまま一箇所に着弾したはずだ。見えない位置は無数の金属片が食い込んで恐らく滅茶苦茶、そしてその下は血の海だろう。
 状況は分かった。しかし何故、今、彼が撃たれなければならない。顔にそのまま出た疑問に満足したらしく、神林は勝ち誇って説明した。
「元々気に食わなかったんだよ、こいつ。いつまでも余裕があるような顔しやがって」
 甘かったのだ。自分も、そして撃たれた彼も。倉田はそう理解した。
 確かにこの男は、恵まれた人間全てを憎悪している。ただ、それは例えば中村のように環境がよい人間だけが対象ではなかったのだ。
 銃を突きつけられ、脅迫されているというこの状況下でさえ一貫して礼儀正しいうえ、それをうわべだけに留めない優しさも持ち合わせている。それでいて情に流されてはおらず、判断そのものは常に冷静沈着だった。この店の主とは、そういう男である。簡単に言えば人間そのものとしての能力が非常に高く、他人を厳しく見るのが商売のベテランの刑事にさえ一目置かれている。その恵まれた才能が憎まれた、正確に言えば妬まれたのだろう。
 詳しく語りたがらない彼自身の言葉から推測すれば、生まれや育ちは撃った人間とそれほど変わらない。あるいは抑制しているだけに、実際にはもっと酷かったのかもしれない。それでも今は店の主と言える立場になった彼だから、憧れの対象になってもおかしくはないはずだ。境遇が似ている人間にとってはなおさらである。
 しかし、そうはならないからこそ、今の紛れもない凶悪犯の神林があるのだろう。むしろスタートラインが似通っていたからこそ、自分に大きく差をつけた相手に対する憎悪をつのらせる。そしてそれを例えば努力などという自分自身にとって良い方向へ昇華させるでもなく、破滅的な暴力に直結させる。そんな人間なのである。
 店主としては十分警戒し、また注意を払ってもいた。しかしそれだけに、まさかこのタイミングで撃たれるとは思っていなかったはずだ。それは倉田も同様である。
「おいっ!」
 とっさにそれしか声をかけられない。間違っても、「大丈夫か」などとは言えなかった。
「大丈夫…とはいえません、がね。さすがに。意識は、ありますよ。こうして、話していられるうちは、何とか。しかし、いつまでもつか…」
 マスターはカウンターに手を突き、体を起こしてから背中をそこに預けた。少なくとも足のどちらかは無事なようだ。そうでなければ崩れ落ちている。そして彼は、腰の下で何かを始めた。どうやら前掛けを外して、傷ついた方の足の付け根を縛っているらしい。とっさの止血法としては正しい判断だ。理性はまだ十分に残っているが、切れ切れな言葉が消耗を強く物語っている。
「強く縛るんだ。できるだけ強く」
「やってます…。この際、鬱血しても構わない、くらいのつもりで。どうせこの足、もう駄目かも知れませんからね。しかし、腕に力が入りません。それに、普段の力があったとしても、これでは…」
 店主は澱んだ視線を自分の足元に向けた。出血が止まらないのだろう。
「病院へ運ばないといかん。その人を解放してやってくれないか。代わりにここへは俺が残るから」
「嫌だね。俺はこいつが苦しむのがまだ見たいんだ。ほら、さっきまでへらへら笑ってたのに、いい顔をしてるじゃないか」
 神林は銃口で店主の肩口を小突く。倉田の後ろで、中村が小さな悲鳴を上げた。逃げ出したいだろうが、今そうすれば撃たれるだけだということを嫌でも思い知らされている。当事者である店主は、敢えてまた笑って見せた。
「早く、気絶してしまった方が、楽かも、知れませんね。これは」
「そう簡単に寝かせるかよ。寝たら傷口をえぐりまわして起こしてやるからな」
「分かりました…」
 言葉が途切れる。その瞬間、倉田は叫んでいた。
「ダメだ下がれ! 人質が銃を突きつけられている! 今突入したら殺されるぞ」
 足音などは、しなかった。しかし倉田には、殺到しようとする気配が確かに感じ取れていた。銃声がしたのだ、倉田自身がが外で指揮を取り続けていたとしても、やむを得ず突入する機会だと判断したかもしれない。
 そして再び音もなく、気配は遠ざかって行った。
「ご苦労さん。おかげでまだ楽しめそうだ」
 冷笑を浮かべながらも、神林は賞賛する。両手が散弾銃で塞がれていなければ、拍手でもしそうな勢いだった。倉田は小さく首を振る。
「言ったろう? 俺は無駄な人死にを出したくないだけだ。もうこれ以上殺すな…そっちにとっても大事な人質だろう」
 噛んで含めるように言う。神林は表情を変えなかった。
「忘れたのか? 奥にもまだまだ代わりはいるぜ」
「そう言ってたのは覚えてるよ。だがそんな奴はいない。誰も。ただのはったりだ」
 つぶやくように、しかし決定的な一言が投げかけられた。神林の表情は、まだ変わらない。
「ずいぶんと強気だな。そのせいで連中が死んだらお前のせいだぞ」
「テーブルとカウンターに、俺たちが使った以外のカップや皿がない。例え注文の前だったとしても、客が来れば普通はすぐに水くらい出すものさ。それにマスターの口ぶりからして、他に従業員がいる様子もなかった。つまりこの店の中にいるのは、今見えているので全員ということだ」
 実は、店に入った直後から分かっていたのだ。ただのうのうと珈琲を飲んでいたわけではない。相手を刺激しないよう話を合わせていただけである。しかし、刺激しようがしまいが最終的には人を傷つける以上、下手に出るのは無意味だ。それは店主を見ていて思い知らされた。
「この野郎…」
 銃口が倉田に向けられる。しかし倉田はひるまず、正面からそれを見返した。実は中村の方が彼よりも背が高いので、小さくなっていると彼女をかばえなくなってしまうのだ。
「苦しむのが見たいんだろ? だったらその撃ちかたは止した方がいいな。俺の頭が丸々吹っ飛んじまう。即死だよ」
 最後には、肩をすくめてさえ見せた。神林の顔が怒りにゆがむ。
「てめえ…殺しただけじゃ飽きたらねえな。そこの奴みたいに痛めつけるだけでも気が済まねえ」
「だろうな。商売柄良く言われるよ。そういえば『デカ』って言葉も元々は罵声だったって、この前テレビでやってたな。俺も初めて知ったよ」
 相手の指が引き金にかかっているのは当然見えている。それでも、簡単に流して見せた。舌打ちをして、神林は軽く銃口を上げる。
「まさか死にたがってんじゃないだろうな、おっさん。定年間際で老い先短くて、将来に希望が持てないか。だったら殺す価値もねえぜ」
「それこそまさか、さ。認めたくはないが今更希望なんて持っちゃいないのは確かだが、それでも自分から死のうだなんて思えない」
「だったらどうして、そんなに平然としてるんだよ!」
 彼自身は銃を持ち、傍らには傷ついて自力で動くことが困難な人質を擁している。一方の相手は丸腰で、しかも背後に人をかばっていて身動きが取れない。そこまで極端な形勢の差が生じているはずなのに、苛立ち、いきり立っているのは有利なはずの男だった。
「別に平気でもなんでもないさ。ただ、仕事だからな。逃げ出すわけにも行かない」
 立場の上では、確かにそうだ。それが警察官である。しかし、全ての人間が自分の立場にふさわしい行動をするなら、そもそも警察官という職業自体が不要になる。詰まる所皆が皆うまくできるわけではないのが、人間なのだ。
 実際、警察内部でも裏金作りで内部告発があったり逮捕されて懲戒免職になる者がいたりと、悪い話が絶えない。凶暴そうな犯人に対してテレビカメラの前でもなりふり構わず逃げ出すなどは、まだ可愛いほうである。
 また、倉田自身の若干広くなった額にはうっすらと汗が浮かんでおり、死の恐怖を現に感じているとは分かる。それでも、一点も恥じる所のない振舞いができるのは、この男の中にその恐怖を凌駕する何かがあるからだ。
「かっこつけやがって…」
 言い捨ててから、神林は自分自身の言葉でさらに苛立ちをつのらせていた。
 ただの「かっこつけ」で、身を挺して他人をかばえるはずもない。それは現に人を殺したことのある神林自身が、誰よりも理解している。しかしとっさに、うまい罵声が浮かんでこなかったのだ。結果として的外れなことを言ってしまったという後悔が、逆恨みから敵意へと転化していた。
「どけ! お前みたいな薄汚いオヤジぶち殺しても面白くも何ともねえ。そいつを殺してやる!」
「ちょっと待てよ、おい。言う通りにしたら彼女を無事に解放するということなら考えるが、そう言われてどける訳がないじゃないか。念のため言っておくが、彼女を殺す代わりにマスターを引き渡すなんてのも勘弁してくれよ。俺にはどっちか選ぶなんてできないぞ」
「レディファーストです。それに退避するなら責任者は一番最後と相場が決まっています。中村様からお先にどうぞ」
 神林は自分自身の言葉で今以上に興奮しかねない。そこで倉田は早口でまくし立てた。さらに店主が、彼が一度息を切らしたのに続けて間を空けずに喋る。体力を温存していたのか、先程よりもむしろ声に力があった。ただ、さすがに長くは続けられない。
「やかましい! 二人揃ってがたがた綺麗ごとぬかしてんじゃねえ! 文句があるなら順番に三人ともぶっ殺してやる!」
 沈没する船でもあるまいに、という指摘が神林の頭をよぎったのは、怒鳴り終えたあとだった。
「結局殺すのか」
「今更殺すと言われましても、どうせこのままでは」
 倉田は呆れた様子を隠さない。一方の店主は、自分自身を見限ってしまったのか冷笑を浮かべていた。
「てめえら…」
 とうとう言葉がなくなる。引き金を引かなかったのは、そうしても自分の気が晴れないと思ったからに過ぎない。道義はもちろんのこと、この後どうするのかさえ考えていなかった。

続く


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