死を撒く男
X 死ぬ人
神林は一貫して冷静だった店主の態度に腹を立て、発砲して重傷を負わせてしまった。さらにいきり立った彼は、事件発生以来人質になったままだった中村をも殺害しようとして銃を構える。それをかばって立ちはだかった倉田は、まずなだめにかかった。
「まあ待て、少し落ち着け。大体何がしたいんだ。立て篭もったら何か要求するのが常識だぞ」
マスターは失笑しそうになるのをどうにかこらえていた。そもそも立て篭もり事件という時点で、常識などはるかかなたに吹き飛んでいる。それに警察官の方からわざわざ犯人の要求を聞くなどというのも、常識とやらに意識があったら呆れかえるだろう。
それでも、当面はそれにすがるしかない。ここへ来てからというもの神林が、具体的な要求をしていないことは確かだった。わざわざ自分から倉田を呼び出しておいて、やったことといえば電気やガスを止めるなと伝えただけである。単に追い詰められただけだったとしても、逃げようとする意図も明確ではない。それだけに交渉のとりかかりがなく、こうして抜き差しならない事態に陥りがちなのだ。
相手が何を望んでいるのか、それが分かれば話し合いの余地は十分あるはずだ。何しろ今の所、話し合いにすらなっていない。恐らく神林自身、気が立っていて自分が何をしたいのか分かっていないのだろう。それが見えていればある程度は落ち着くはずだ。人間、自分の目的を達成することを理詰めで考えているなら、そうそう無茶はできないものである。
「やかましい! 俺はそうやって、偉そうに説教を垂れるような奴の苦しむ顔が見られればそれでいいんだよ!」
処置なしだ。既に十分苦しんでいるであろう店主は、薄笑いを浮かべていた。
「泣き叫んで助けを求めたほうがいいですかね」
「止めとけ。暴れると出血がひどくなる」
真剣に、倉田は制止した。そもそも今の彼に、そこまでの体力が残っているかも疑わしい。元々悲鳴を上げたりはしない人間のようだが、その分静かに衰弱して死んでゆくのだろうと思えた。
「そうですね…少し、黙ります」
ため息に近い声を上げてから、目を伏せた。あるいはもう、見えている以上に限界が近いのかもしれない。
「一々うざいんだよお前」
しかしその態度のどこかが、神林の癇に障ったらしい。ぼそりとつぶやいてから、体を動かす。
「なっ…!」
「ひぃっ!」
倉田がうめき、中村は小さな悲鳴を上げた。具体的な様子は、二人の位置からだとカウンターの陰に隠れて見えはしない。しかし上半身の動き方からして、神林が店主の足を蹴ったのは間違いないと思えた。
通常であれば悪ふざけ程度の軽い動作であったが、相手は今足に重傷を負っている。それも他ならぬ、神林自身が発砲してできた傷だ。その体を走りぬけたものは、激痛などと形容したのでは生ぬるいに違いない。
しかし、それでも、彼は一言も、うめき声さえ発しなかった。何かのきっかけで感覚が麻痺しているのではないとは、食いしばった歯を見れば嫌でも分かる。それでも、黙ると言った自分自身に、背かないようにしているのかもしれない。
一方倉田は、この間に何とか中村だけでも逃がすことができはしないものかと考えていた。一瞬は神林のあまりの残虐さに呆然とせざるを得なかったが、気力を振り絞って可能な限り早く思考力を回復させている。
凶悪犯が店主に対して抱いた強すぎる敵意は、最早理解不能な領域に達している。何かの奇跡でも起きない限り、彼を生きて帰すことは不可能かもしれない。そしてそうであるなら、それ以外の人間を守ることに全力を傾けるのが合理的な判断ではある。
しかし、自分にそこまで冷徹な決断ができるのだろうか。そう迷ったわずかな間に、すでに時機は逸してしまっていた。元々中村自身がすくみあがっているから、一瞬の隙を突いて逃がすような効率的な芸当はできなかったのだ。そんな理屈を思いついたのは、全て手遅れになった後である。
「はっ…こんな奴これ以上いたぶっても面白くもないぜ。それよりいいことを思いついたぞ」
どうせろくでもないことに違いない。聞いている人間がそう思ったし、現にその判断は間違っていなかった。
「おっさん、そこをどけ。そうしたらお前だけは助けてやる」
口の端が裂けるのではないかと思えるような笑みとともに、銃口を向ける。発音は明確だったが、しかし倉田は意味を取り損ねた。
「なに…?」
そもそも丸腰でわざわざやって来た時点で、自分が助かることは二の次にしている。巻き込まれただけの二人の被害者とは、行動の原点が違うのだ。助けてくれるなどと言われても、的を外した誘いだとしか思えない。
「どかなければまず、お前を撃つ。そうして邪魔がいなくなった所で、後ろの中村を撃つ。どけば、中村だけを撃つ。お前は帰っていい。難しい話じゃないだろう?」
そのままの笑みを貼り付けたまま、神林はむしろ丁寧に説明した。無駄死にをするかどうか、それを選ばせようとしているのだ。理屈だけで考えるなら当然しないに越したことはないし、倉田も無謀な自殺志願者ではないことは確かである。
「そ、そんな…」
中村が悲鳴を上げ損ねて言葉に詰まるのも無理はない。倉田の選択に関わらず、彼女については殺すといわれているのだから。これがただのはったりでないことは、これまでの彼の所業を目にしてきて嫌でも理解している。
「うるさいお前は黙れ。黙らないとそのおっさんが何かする前にとにかく二発撃つ。後ろにへばりついて安全なつもりだろうが、この距離なら貫通するから二発目を食らう前に弾が当たる。ひと思いに行かないから、苦しいに違いないぜ。どうせ死ぬんだから、諦めて静かにしてろ」
そして畳み掛ける口調は、怒るでも楽しむでもない。ただ冷徹だった。彼女を殺すこと自体には、本当に何の意味も見出していないのだろうと分かった。ただ倉田を苦しめるというそれだけのために、命を奪おうとしているのだ。
もちろん納得はしなかったが、中村は黙らざるを得なかった。今更ではあるが、まともな話し合いのできる相手ではない。何かのきっかけで気が変わる、あるいは状況が変わることにわずかな望みをつなぐほかなかった。
「この際はっきり言わせてもらうが、信用できないな。自分でも分かってるだろうが、言ってることが無茶苦茶すぎる。どいたらどいたで、彼女を撃ってから俺を撃つつもりなんじゃないのか」
敵意のある笑みで、倉田が応じる。硬軟いずれにせよ正面から受け止めるのはまずい。話を少しでもそらすべきだと判断していた。
「そんなつまらないことはしないさ。名誉の戦死なんてこ汚い上に老い先も短いおっさんには似合わないぜ」
正確に言えば職務中の殉職だが、慣例に従って死後二つ上の階級が与えられる、いわゆる二階級特進になる可能性は十分にある。もちろん、本人がそれを望むかどうかはまったく別の問題だ。
「そりゃあ、俺もそう思うが」
これまで地味に生きてきた人間とって、組織主催の立派な葬式など想像するだけで恥ずかしい。それに死んだ後でも階級が上がっていると遺族補償が厚くなる場合があるのだが、倉田に関しては別に後を心配しなければならない家族がある訳でもない。
「喜べ。その代わりに生き恥をさらさせてやる。被害者を見捨てたダメ警官として、死ぬまでバカにされ続けるんだ」
つまり、自分に最大限の屈辱を与えたいのだ。他人を傷つけていなければいられない彼らしいといえば、彼らしい。そのことを正確に理解したうえで、倉田はそらとぼけて見せた。
「そいつは困ったな…。ここまで来たら定年まで勤め上げて退職金を満額もらうのが、俺に残されたささやかな夢なんだが」
「だから、そんなことはさせないと言ってるんだ。分かったらさっさとどけ!」
はぐらかされたことを察知したのだろう。にやにや笑って余裕ぶっていた態度がにわかに崩れ、苛立ちがあらわになった。淡々と、倉田が確認する。
「嫌だと言ったら?」
「馬鹿か、てめえ。さっきあれだけ丁寧に言ってやっただろうが。そうしたら犬死になんだよ、貴様は!」
「警官だから国家のイヌだなんだといわれて、最後には犬死にか。正直、笑えないオチだな」
自分の言葉通り苦笑もしなかったが、肩はすくめて見せた。引き金に力が込められる。
「いい加減にしたらどうです? 無駄死にだと自分でも分かっているのなら、わざわざ無駄に殺すこともないでしょう」
うまいタイミングで攻撃の姿勢を崩したのは、店主だった。緊迫したやり取りから取り残されている間に、話す気力を回復させたらしい。
「死に損ないはだまってろ。それからそこでゆっくり死ね」
神林は銃口の向きを変えようともしなかった。会話はともかく、店主に具体的な脅威となるような力が残されていないことはまず間違いない。その彼を攻撃対象にしても意味がないだけでなく、隙を突いて残り二人が逃げる間を与えるおそれもある。
死を宣告されたはずの男は、笑って答えた。うつむいているため飲食店の人間にしてはやや長い前髪が下がり、目元は良く見えない。その分、口元に浮かんだものの冷たさがひどく目についた。
「だから遠慮なく言っているんですよ。こういうときぐらい、言いたいことは言っておくものです」
「ふん…勝手にほえてろ。お前が何を喋ったって、どうせ何も変わらない」
無視が最も傷つく、ということもある。そのことを神林は知っていた。
「分かってますよ。私の気が済めばそれでいいんですから」
顔を上げる。その目には、少なくともまだ、確かな意志が宿っていた。
「脅しても無駄です。その人は多分、どきません」
神林はあからさまな無視を決め込んでいる。むしろその方が、実は聞いていると言っているようなものだ。一方、倉田の顔にはやや驚いた気配が浮かんでいる。まさかこの状況下で、彼が自分について語るとは思っていなかった。
「この国の警察官とか、消防官とか、あるいは自衛官とか、他人を守る立場にある人には、それなりに気概のある方が多いですよ。特にこうして、現場に出ていらっしゃる方はそうです」
やや荒く一息ついてから、彼は続けた。
「馬鹿馬鹿しい、身内につかまる警官だっていくらでもいる。今そう思いましたね? 確かにそうですけれど、それが全てではないということですよ。もしそういう立場の人々の大半が駄目なら、この国はもっとろくでもないことになっているでしょう。何だかんだと言っても仕組みとしてそれなりに動いているということは、働いている人の多くが自分の職務に対して真面目であるということです」
倉田は少なくとも、否定の身振りはしなかった。腹の立つ上司や同僚、あるいは部下がいないといえばもちろん嘘になるが、もしそれが大部分だったらとうに辞めていただろう。
「もちろん、他の多くの職業に就いている方々だって、大概は真面目ですよ。そうでなければ、そもそも社会として成り立ちません。ただ、危険に立ち向かう覚悟ができているかどうかに違いが出るのは、やむを得ませんけれどね」
神林は、今度こそ完全に反応しなかった。それは本当に危険な兆候だから、もう止めたほうがいい。倉田はそう思っていたが、しかし店主自身は構わず続けた。
「大勢の人間が真面目なら、何故自分が、自分だけはそうではないのか。いや、自分の身の回りの人間がそうではないのか。って?」
そもそも神林自身が真面目であれば、当然こんなことにはならなかった。そしてまだ長いとはいえない人生の、どこか適切な段階での助力があれば、もっと違った結果になっていたかもしれない。
この期に及んでしまえばもう、いっそ忘れてしまったほうが楽な疑問だ。今更人を殺してしまった事実が消えるわけでもないのだから、自分は悪党だと割り切ってしまったほうがすっきりはする。しかしそれを、彼は情容赦なく切り出していた。しかも、これが終わりではない。
「それはあなた自身が良くご存知でしょう。幼少期に恵まれていなかったのは確かです。私も生まれた環境が良くなかったことを責めるつもりはありません。そしてその出発点と、今の終着点から考えられる経路は三つだけです。一つ目、あなた自身が現状を変えようと努力をしなかった。二つ目、努力をしてもどうにもならないほど運がなかった。最後三つ目、運はあったし努力もしたが、それでも駄目なほどあなた自身に力がなかった」
息を呑む。その気配が誰のものなのか、少なくとも店主には分かっていた。結論が待たれている。
「どれでもいいですよ。努力をしない怠け者、八方ふさがりのかわいそうな人、それから、何をやっても無駄なただの負け犬。さあ、どれがお好みですか?」
どれかを甘んじて受け入れられるのなら、少なくともそれは神林という人間ではない。評価の方向性は違うが、要するにどれも侮蔑であることは変わりなかった。一応、「かわいそう」は同情の表現だが、聞く人間が決して素直には受け取らないと、分かって言っている。
そして彼が次の行動を決める前に、倉田が割り込む。
「マスターもその辺にしておいた方がいいぞ。喋れば喋るだけ傷に障るが、それだけ言ってのけられるなら、もう駄目だと決まったわけじゃないと思うんだ」
一方は自分以下警察官に包囲された凶悪犯、もう一方はその彼に重傷を負わされた被害者、という双方抜き差しならない経緯を考えれば、仕方のないやり取りではある。しかし話の内容だけを抜き出せば、殴り合いに発展する寸前の単なる喧嘩だ。
店主の方が理屈は通っているものの、建設的なことは何一つ言っていない。むしろ理屈が通っている分挑発としてはこちらの方が効果的であり、たちが悪いといえば悪かった。
このような言い争いの場面に遭遇したら、どちらの言い分が正しいかを判断するのは後回しだ。まずはどんな形であっても引き離して、頭を冷やさせるのが先決である。そうでなければ収拾がつかない。現場の警察官にとっては、それが常識だった。
「申し訳ありません。私としたことが、少々動転していたようですね」
至極冷静に、その分気のない様子で、店主は謝った。考えていたより傷は重くないのだろうか、とカウンターの外の人間には思える。
一方の神林も、すぐに具体的な行動には出なかった。急に態度が変わったのには何か裏がある、そのことを察知したからだ。元来疑り深い性格が、この場合はある程度正しい読みをもたらしている。
「自分が撃たれてる間に他の連中を逃がすつもりか? 馬鹿げてる」
今度は店主が、全くの無反応を貫く番だった。
もし神林の言うとおりであるなら、尋常でない精神力と、そして正義感の持ち主だ。撃たれて自暴自棄になっている部分があるのかもしれないが、それだけにその状況下で他人をかばおうとするのは余程のことである。
自分にも真似はできないかもしれない。内心そうつぶやきながら、倉田は口を開いた。
「マスターに褒めてもらえるのは正直嬉しいがね。ただ、俺はそんな偉い人間じゃない。実際死ぬのは怖いさ。この年にもなって、しかもあとのことを考えなきゃならない訳でもないのにな」
自分で言っていて苦笑してしまう。神林も、店主も、表情を浮かべないまま、それを見据えていた。
「しかし、それと同じくらいに、さっき言われたような生き恥を晒すのも怖い。そんなことになったら正直、生き続ける自信はないよ。両方怖いから、結局どっちも選べずに立ちすくんでいる。要するにそれだけのことさ」
「ああそうかい」
つまらなそうに神林が相槌を打つ。店主は目を閉じた。
「あ…」
とうとう耐え切れなくなった中村が、意識を失って崩れ落ちた。
「何人殺しても気が済むわけじゃないだろうに…」
つぶやきながら、目を開ける。その視線の先には、倉田の背中があった。まず膝を突き、両手を突き、それでも体を支えきれずにとうとう倒れたのだ。血だまりが、その下で急速に広がっていた。
「くそ、やっぱり面白くもない」
神林が吐き捨てる。相槌をした瞬間に、倉田の胸部に向けて発砲していたのだ。どんな結果になったかは、わざわざ確かめる意味がない。
「だから言っただろうに。意味がないって。弾が当たった衝撃があるから後ろ向きに倒れて当然なのに、前向きに倒れたってことは本当に最期まで足を踏ん張っていたってことさ。醜態を晒させようと頑張ってはいたが、結局誰にも非難できない立派な終わり方を用意しただけだ」
情のない上司が仕事上の注意でもしているかのような、淡々としていながらも見下した調子のある声だった。他に誰もいないと分かっていたはずなのに、神林がそれがだれのものかを理解するまでにはやや時間が必要だった。
「何だ、後でも追いたくなったのか」
「さあね。ちょっとは考えてみたらどうだ? ない頭でも使わなければ余計腐るぞ」
銃を突きつけられてもひるまず、皮肉な笑みを浮かべて見せる。顔つきさえも別人かと思えるほどだったが、確かにそれは店主だった。
「ああん?」
とりあえず狙いを定めるが、引き金をひくまでには至らない。店主は顎で、その銃を指し示した。
「何発撃ったんだよ、お前。ここへ来てからは四発。その間弾を込め直したそぶりは一回もないし、予備の弾を持ってるような様子もない。しかも、来る前に二人殺してるから、最低でも計六発だ。大方お前のことだから、殺す前に威嚇のためにもっと撃ってる。散弾銃なんて十発も二十発も弾が入るものじゃないから、もう弾切れなんじゃないのか」
威力が大きい分、弾丸そのものも大きい。散弾銃とはそういう性格を持った火器である。このため、内部にあまり多くの弾を込めることはできない。例外的に装弾数の多いものもあるが、その分弾倉が大型化して取り扱いにくいし、このクラスになると重武装警察あるいは軍用だから、日本の銃砲店ではまず手に入らない。狩猟用としては単発から三連発といった、もっと少ないものの方が主流である。
「なら試してみるか、後何発入ってるか」
「好きにしろ。空だと分かれば俺は外の警官を呼ぶから、それで事件解決だ。それに残り一、二発なら、慎重に撃てよ。外せば少なくとも彼女一人は助かる」
神林はこれ見よがしに引き金にかけた指を動かしたが、店主はせせら笑っただけだった。その顔はどうしても、片足の膝から下が血まみれになるほどの重傷を負った人間のそれには見えない。もちろん、カウンターの中の神林からは、同じカウンター内部にいる店主の全身が見えている。
「無駄死にじゃないんだよ。やっぱり所詮お前はお前だったということだな。何をやってもうまく行かない。悪党になりきろうとして他人を辱めようとしても、結局その様だ」
既に弾切れであることを確信しているのか、あるいは挑発することで弾丸をさらに消費させ残る一人を守るつもりなのか、神林には店主の意図を読むことができなかった。
そして残弾数も、分からない。何しろ強奪したものだから、そもそも装弾数に関する知識がないのだ。犯行に及ぶに当たっては可能な限り詰め込んだという、それだけのことである。それに、この前の現場では極度の興奮状況だったから、実際に何発撃ったかも良く覚えていない。
確かなことは、もし残りがあるにしても、それは銃の内部にある分だけということだった。銃を強奪した際には予備の弾丸も大量に持ち出したのだが、それもここへ乗りつけた車に置いてきてしまっている。
「大体、間が抜けてるのは今に始まったことじゃないけどな。強姦なんてしたことないだろ、お前。はったりかましたつもりだろうが、ばればれなんだよ。彼も気づいていたさ」
憐れむような視線を向ける。もちろん、相手を傷つけるためだ。
「そもそも強姦の前歴があるような人間が、言い寄って駄目だった相手の女を腹いせに殺すなんて考えにくいんだよ。前科と同様、無理やり犯しに行く可能性の方が余程高いからな。
その時点でもう話がおかしかった上に、詳しいとも言えない内容を聞かれて完全にぼろが出た。DNA鑑定とか言ってたが、あれは犯人を見つけ出すのには使えないんだ。あるサンプルと別のサンプルが同じかどうかを判定する技術だから、相手をある程度絞り込んでいないとどうにもならない。
DNAデータベースでもあれば話は別だが、少なくとも現時点のこの国では、警察でも前科者の遺伝情報を全て収集するなんてことはやってない。民間レベルでは当然無理、DNAで全て解決なんていうのはおとぎ話だ。現に捜査に当たってる警察官なら当然、口から出任せだって分かるんだよ」
長い内容だがよどみなく、神林に反論する間を与えず言い切る。彼よりもむしろ神林の方が、顔を青くしていた。
「何でだよ…何でだよ…何で俺ばっかり、こんなときまで…」
ぶつぶつと口の中でつぶやく。聞こえないはずのその言葉を、店主は理解していた。
「命がけでも駄目なときは駄目さ。どうにもならない」
何気ない言い方だったので、聞き流しそうになってしまう。しかしそこには、無視できない一言が含まれていた。神林は少ししてから、慌てて銃を握り直す。
「何でそれを…」
店主は苦いともあざけりともつかない笑みを見せた。
「分かるさ。死ぬ気だろう、お前。これだけ殺した後で捕まれば、前科もあることだし死刑はまず間違いない。それにしてはがむしゃらに逃げようとするそぶりがないのは…」
「ああそうさ! 死ぬ気だよ! 何もかも、俺自身も、滅茶苦茶になっちまえば良かったんだ! だが俺みたいなクズの命じゃあ懸けたって意味がないって、そう言いたいんだろう? だがなあ、お前一人くらい弾がなくても殴り殺すくらいはできるんだよ!」
店主は手負いだ。わざわざ凶器を使うまでもない。それを考えて威嚇したのだが、彼は小さく首を振っただけだった。
「そういきり立つな。別に命の重さに値段をつけた訳じゃない。善人でも悪人でも、若くても余命いくばくもなくても、懸ければどうにかなるというものでもないと、それだけのことだよ」
「偉そうに、説教のつもりか」
「いや。今更悔い改めろだなんて言うつもりはないよ。ただ、聞いて欲しくてね。誰の話でもいいんだが…そうだな。倉田さんの奥さんの話をしようか」
一体なにを言い出すのだろう。店主と既にないという刑事の妻に、面識などないはずだ。その疑問が、とりあえずではあったが神林の殺意を押さえ込んだ。
「端的に言ってしまえば、子供ができなかったのは奥さんの体質に問題があったからなんだ。二人とも病院で検査を受けてるからはっきりしてる。それで、何しろ昔のことだから、そういう女性に対する偏見が今よりもさらに強くてね。誰よりも奥さん自身が気に病んでた。それで不妊治療を熱心に受けて、結婚十何年目でようやく妊娠したんだが、結果的には死産。しかもその時の無理と心理的な傷が重なって、奥さん自身も程なく他界。命がけで子供を生もうとしたのに、結局残されたのは再婚する気もなくした男やもめ一人というわけさ」
「お前も口から出任せじゃないか。初対面だったくせに、そんな家庭の事情を知ってるはずがないだろう」
嘘八百にもほどがある。いかにもありそうな話をしているあたりが却って馬鹿馬鹿しい。呆れるあまり、神林の殺意は完全にしぼんでしまった。しかし、店主はそれを明確に否定する。
「初対面だと思ってたのは倉田さんだけ。俺は良く知ってたよ。昔からね。仕事柄多いんだ、一方的にこっちが知っているということが。気味悪がられるから、知らないふりをすることが多いけれど」
「それがジャーナリストだってことか」
「さあ…」
嫌に思わせぶりに、首を振って見せる。それこそ気味が悪くなったので、神林は思わず聞いてしまった。
「俺のことも調べがついてるとか言い出すんじゃないだろうな」
「あまり…というか、私でもびっくりするほどいい思い出はないはずだが…敢えて思い出してみるかい?」
「言ってみろよ。その瞬間、出任せだって分かる」
神林がつばを飲み込んだ。店主が口を開いたのは、それを見届けてからである。
「君が実の母親から最期にかけられた言葉は『やめて殺さないで』だった」
視界全てが、一瞬で暗転する。血と、肉の感触が鮮やかによみがえった。いつの間にか相手の口調が「俺」「お前」から、「私」「君」に変わっているが、そんなことに気づく余裕などもちろんない。
「親子喧嘩でもみ合った末勢い余ったというのも、その前提として控えめに言ってもあまりいい母親ではなかったというのも嘘ではない。ただ、最後の瞬間抵抗する気力のなかった相手に、止めを刺したね。自分に不利になることが分かっていたから、取調べでも裁判でも、そのことは言わなかったけれど」
神林、とは母親の姓である。父親は名前も知らない。母親自身にも分からないだろう、というのが息子、春仁自身の読みである。何かというと男を家に連れ込む、そんな女だった。貢がせるか金を取るか、ともかくそういうことをしていたらしく、若い頃は金回りが良く、物質的には不自由した覚えがない。特に息子が一人で一通りの買い物ができるようになってからは、金だけ渡されて後はほったらかしというのが当たり前になっていた。
ただ、年齢が進むにつれて衰えがあったらしく、その一方で蓄えも他に収入を得るすべもなく、ある時期から急に小遣いが減るようになった。神林が恐喝を覚えたのはその頃である。
ただし生活苦というほどではなく、母親自身は以前と変わらず浪費を続けていた。そのことを責めた所、「お前みたいなでかい息子がいるからやりにくい」「お前がババアになったからだろうが」と口論になりエスカレートして双方暴力をふるうに至ってしまった。
放置していただけに、母親は我が子の腕力が既に自分を大きく上回っていることに気づいていなかった。息子は逆に、母親がどれ程か弱いかも知らなかった。結果意外なほど簡単に追い詰め、殺すことができた。
そこまでの大方の事情は、裁判などに関わった人間なら知っているはずだ。しかしその言葉だけは、誰も知らない。誰にも言っていない。強いて一人挙げるならば、もう死んでいる母親自身だけだ。
「嘘だ、嘘だ…」
絶対に何か裏があるはずだ。神林はその可能性を、必死に考え続けていた。しかし目の前の男は、いや男の姿をした何者かはその努力を嘲う。これまでの彼の人生そのものが、同様にされていたように。
「まあ、信じたくなければそれでもいいさ。信じてもらう必要はない。君はただ聞いていればいい」
「黙れ!」
「死んで全てが赦されると思っているなら、考え直すことをお勧めするよ。特に神様仏様にすがろうと思ってるならね。死んでも罪は償えない。むしろ罪業に一つ余計なものを加えるだけだ。それは大概の宗教に共通している。
彼らに言わせれば命は何らかの意味を持って生まれているのだから、勝手に処分してはいけない。よく自殺者の遺書には天国に行きますとか書いてあるけれど、彼らは一体どこの天国へ行くつもりなのだろうねえ。例えばキリスト教ならそれだけで地獄行き、仏教なら現世よりもさらに重い業を背負って来世に転生する。
もっとも、君の場合は現時点で既に、もしそんなものがあるなら誰がどう考えても地獄行き決定だから、好きなようにした方がいいのかもしれないが」
「黙れ黙れ黙れ!」
「それに、死んだらそれまでと思っているとしても、賢明とはいえないな。自分としては極悪非道なことをしたつもりだろうし、実際形容するならそれしかない。しかし世の中には、他にも非道なことがいくらでもある。だから君のしでかしたこともいずれは、数多くの事件の中の一つとして、記録の中に埋没し、記憶されなくなる。自分をないがしろにした社会そのものに復讐したつもりだろうが、結局はその程度さ」
店主の顔から嘲笑が消える。漆黒の双眸が、果てしなく深く、そして広く見えた。
「死は何も解決しない」
それがこの男の、いや、この人間の男の姿をした「何か」が、ただ一つ言いたかったことだった。抑揚がなく、大きくもない、つぶやくような声だったが、はっきりとそう分かる。いや、感情としてはそれ以前の理解全てを拒絶しているにも関わらず、知覚そのものに働きかけてくる。
神林はこの時確かに、恐怖していた。それが何に対するものであるかは、彼自身にさえ分からない。
それでも、あるいはだからこそ、抗おうとする。カウンターから躍り出ると、倒れたままの中村に銃を突きつけた。あらためてではあるが人質を盾に取る行動で、正面から立ち向かう勇気がなかったのだ、と自嘲するような余裕は、少なくとも彼にはない。
「解決するかどうか、試してやろうじゃないか。今から俺の言うことを聞かなかったら、こいつを殺すぞ」
冷静沈着で、自分にとって危険な可能性があると判断すれば警察官に対してさえ良い顔をしない。一貫してそんな態度の店主ではあったが、少なくとも中村に対しては、できる範囲でのいたわりを見せていた。
何も解決しないと心底思っているのなら、最終的には彼女の死に対しても無感動なはずだ。神林はそう考えると同時に、実際にはそうならないと読んでいた。必要に応じて平静を装ってはいても、超越的に理詰めで割り切ったような気性ではない。決して長くはないとは言え、これまで話していれば分かることだと思えた。
「弾切れかもしれないと、さっき言ったはずだが?」
調子を変えずに聞き返す。神林は勝ち誇った笑みを浮かべた。やはりこの男は、もう一人の女の命を諦めてはいない。
「逆に言えば、まだあるかもしれない。それはお前にも、もちろん分からない。それに弾がないならないで、こいつで殴り殺せば済むことだ。今の何もできないざまなら訳もない」
「分かった。言われたとおりにするという約束はできないが、とりあえず話は聞く」
かすかにため息をついて、譲歩の姿勢を見せる。だからこそ、神林自身も敢えて下手に出てみた。微笑を浮かべさえしながら語る。
「別に難しいことじゃない。俺はもう、楽に死にたいだけなんだ。撃たれて死ぬのも、長々と裁判を受けたあげく死刑になるのもごめんでね」
「きちんとやれば、首を吊るのが一番楽だ。勢いをつけて落ちればその瞬間に頚骨を折るから、それ以上苦痛の感じようがない。ちなみにこの国の死刑のやり方はその絞首刑だ。しかし失敗すれば呼吸困難でもがき苦しむし、場合によってはその結果死にぞこなう」
「呼吸困難はこの際仕方がないにしても、死にぞこなうのは勘弁だな。それでつかまった後で絞首刑じゃあ、それこそ死んでも死に切れない。いっそそこのガスに火でもつけて、きれいに吹っ飛ぶか」
厨房には当然、ガスコンロがある。それも営業用の、火力の強いものだ。
そんなことをすれば中村まで吹き飛ぶことになって、意味がない。それが常識的な返答である。しかし神林としてはそんなものを期待してはいなかったし、相手もそうしなかった。
「これが意外にうまく行かない。爆発を引き起こすためのガスと酸素の比率というものは結構微妙でね。しかも十分な規模でとなると、その状態で充満させなければならない。よしんばうまく行ったとしても、都市ガスでは人体を一瞬で破壊するほどの熱量は出ないから、中の人間は全身やけどでのた打ち回る。通常の火災であれば死因の多くは呼吸困難だから、実際に体に火がつく前には意識がなくなっていてそんな苦しみはせずに済むんだが」
「やれやれ。打つ手なしかい?」
敢えて、相手に話を任せてみる。彼は小さく、首を振った。
「敢えて勧めるなら毒だな。種類と量を間違えなければ確実にいく」
「だからって、こんな喫茶店に毒薬が常備されてるわけじゃないだろう?」
「それが、されているんだ。持ち歩く人も珍しくない」
すっと取り出したのは、煙草だった。まだ封を切っていない、当たり障りのない銘柄だ。ただ、包装に不自然に記された注意書きが目を引く。規制強化で有毒性が以前よりもさらに強調されるようになった、最近のものである。
うっかり切らした客のための、売り物だ。サービスとしてマッチやライターが置いてある店なら、置いてあっても不思議ではない。神林はそこまで知っていたし、それだけにもちろん喫煙の影響も理解していた。
「ちょっと気の長すぎる話だぜ」
「吸うだけならな。水に溶かして飲み込めば、煙にして肺に入れるのとは比較にならない有害物質が吸収されて死に至る」
やや考えた末、神林は眉を片方だけ上げた。
「水の入った灰皿なんかだと、中身がどろどろの茶色になってる。あんな感じだろう?」
「まあ、似たようなものだろうな」
「それよりは多少きれいだろうが、いまからあれをつくるとなると、時間がかかる。自殺するための毒ができるのをじっと待っているというのも、何だかぞっとしない話だぜ」
他人事であれば、多分本気で笑ってしまう。そのことを、口の端を歪めて示して見せた。面白くもなさそうに、相手が応じる。
「それもそうか」
「もう打ち止めかい?」
目を伏せ、しばらく考えてから、彼は神林の目を見た。
「混ぜるな危険、そう書いてある洗剤や漂白剤がある」
「混ぜるとどうなる?」
神林は即座に聞き返した。店主も明確に答える。
「塩素ガスが発生する。本格的な化学兵器としては軍事史上初めて使われた類のもので、初回だけで数千人を殺戮した。まあ、毒性という面では現代の化学兵器に比べれば可愛いものだが、製造工程はそれらに比べてはるかに簡単だから、考えようによっては今でも十分有効だ」
非常に危険な、それだけに自暴自棄の凶悪犯にとっては魅力的な話題のはずだ。しかし神林はこのとき、むしろ気のなさそうに応じる。
「なるほどね。じゃあ、その洗剤はこの店のどこにおいてある? 危ないから置いていないだなんて話はなしだぜ」
「厨房の流しの下の収納だ。危険とはいっても混ぜるのと換気に注意すれば問題はないから、業務用の大きいものが置いてある。効力は強いから、こういう食器がきれいでなければ商売にならない店には欠かせない」
食中毒者を出すような不衛生な状態は論外だし、そうでなくとも食器の見栄えが悪ければ食欲を著しく削ぐ。使い捨てで済ませるようなファストフード店をのぞけば、飲食店は神経質なほど丁寧に食器を洗って当然だ。その反面洗い物は日々大量に出るから、なるべく効率が上がるよう強い洗剤、あるいは漂白剤を使うのがものの道理というものである。
「ふうん…しかしだからといって、何でもかんでも混ぜればいいってものでもないんだろう? 化学反応って奴が起きなきゃ意味がない」
「そうだな。理屈の上では酸性の溶液なら何でもいい。それこそ炭酸水でも食酢でもレモンでも、冷蔵庫を開けるだけでいくらでもある」
若干、喋る速さが鈍る。その瞬間、神林は畳み掛けた。
「洗剤に酢を混ぜる馬鹿がどこにいるんだよ。一番やりがちなのは、効き目を強くしようとして洗剤に同じ洗剤を混ぜるって奴だ。違うか?」
「その通りだ。洗剤にも酸性、それも食用とは比較にならない強酸性のものがある。性質から言って基本的にトイレ用だが」
食器用の洗剤や漂白剤は直接手に触れることが多いので、劇薬に属するものは使えない。一方トイレ用なら進んで触れる人間はまずいないから、ある程度強いものが多い。
「だからって、トイレに堂々と洗剤が置いてある店は、どうかと思うぜ。トイレが汚い店にはもちろん誰も来たがらないが、だからって汚いものを片付けたというのが見え透いても気分が良くない」
トイレ用洗剤のほか、雑巾、モップなども好き好んで見たいものではない。飲食の前後では特にそうである。清潔にするための道具だと頭では分かっていても、感覚的に受け入れられない人間が大部分だろう。掃除道具をきれいに片付けるまでが、掃除なのである。
「言いたいことがあるならはっきり言えばいいだろうに。どうせ最期なんだから。用具入れならそこの事務室の中だ」
やや不機嫌そうに、店主は応じた。恐らくは死にたいと言い出したその始めから、彼は洗剤を混ぜ合わせることを考えていたのだ。それが見え透いている。業態が違うとは言え彼も飲食店で働いてたのだから、混ぜてはいけない洗剤があること、そしてそれらがこの店においてある可能性が高いことは分かっていたのだろう。
他の話をしていたのは、相手を弄ぼうとしていたに過ぎない。だから脱線しようとするたびに止められ、これまでに比較すれば丁寧に感じられても実際の所強引に、流れを修正していたのだ。
「ありがとう」
心からの笑顔で、そして礼を言って、神林は引き金を引いた。店主は吹き飛んだ。体ごと、そして色々な物が。
「何だ、弾、まだあったじゃないか」
撃った男はすっかり忘れていた買い置きの日用品を見つけたような口調で、つぶやく。もしかしたらもう一発くらいはあるかもしれない。一瞬そう思えたが、しかし確かめる気にはならなかった。今はもう、銃に興味がない。
「まったく脅かしやがって、結局自分だって、最後には肉の塊になるだけの生き物じゃないか」
先程わずかな間だけでも気圧されていたのがあまりに馬鹿馬鹿しくて、怒りさえ湧いて来ない。そこで淡々と、教えられた部屋に入った。
主は「事務室」と形容しており、また実際事務机も置いてある。ただ、半ばは物置に近いような狭い部屋だった。机と椅子以外の大部分を、スチール製の安っぽい棚が占領している。用具入れはその奥にあり、目的のものは簡単に見つけることができた。ごく一般的な家庭用の製品だったが、ちょうど買ったばかりなのかなみなみと入っている。それと、混ぜるためのバケツも持ち出した。
それからもう一方の洗剤も、特に苦労もなく取り出せた。こちらは業務用の、大型のものである。これも十分に入っており、ずっしりと重い。店主にうそを言うつもりは無かったのだろう。
「これで何人、死ぬんだろうな…」
少量ずつ混ぜただけでも、人が死ぬのだ。全ての量を一度に使ったら、どれだけの人間の致死量に達するか分からない。それを想像するだけで、愉快だった。自分は死ぬ。しかしあたり一帯にいる警官全てが、恐らく巻き添えだ。あるいはもっと広く、町ひとつ全滅するかもしれない。その惨状を想像して、ざまを見ろ、と思えた。
「さあて!」
まずは食器用洗剤を逆さにして、バケツの中に勢い良く流し込む。多少こぼれたがこの際気にする必要はない。そしてもう一方の洗剤を、続けて流し込んだ。ためらいは、不思議となかった。
化学反応が始まって、バケツの中身がごぼごぼと音を立てる。二つ目の洗剤が全て空になるまで、神林は息を止めていた。
「へへ、これで…」
みんな死ぬ。その思いはもう、声にならなかった。毒が回り始め、呼吸器系がもう機能していないのだ。ただ、別にそれでも構わない。すぐに手足の感覚もなくなり、床へと倒れこんだ。
その瞬間、見えたのは、立ち上がって店の外へと逃げてゆく中村の後姿だった。
なんでだ、なんで! なんで最期の最期で、人一人満足に殺せないんだ!
叫ぼうとしたが、当然声にならない。そのうちに、視界も閉ざされた。
「だから言ったろう。何も解決しないって」
その声だけが、聞こえる。それが誰のものか、何故か思い出すことができなかった。
「いや、あいつ一人逃げても、他の奴らはもうお終いだ。警官だけじゃない、町ごと丸まる一つ、みんな…」
「ふうん…」
彼、は外を眺めやる。
続く