正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
3 会場ではスタッフの誘導に従いましょう
そしてやはり目的地も、人々々、だった。指定駅の改札口脇で待ち合わせ、という約束だったのだが、とてもとっさに相手を探せるような状況ではない。
「携帯で…って、おい、何だよ、これ」
手っ取り早く呼び出してしまおうかと思ったのだが、その画面の表示がおかしなことになっていた。
「しばらくお待ち下さい」
である。一瞬機械の故障かとも思ったが、しかしどうやらそうでもないらしい。新年などに通話が集中すると起こる、回線のパンクだと気がついた。裕也が使っている業者は国内最大の利用者数を誇るため、どうしてもその種の障害が起こりやすいのだ。
※確実な待ち合わせの手段を確保しましょう。携帯電話等に依存するのは禁物です。
光樹が講評する。
「同じことを考えている人間が多いようだな。都心部と違って代替可能な中継局も多くはないだろうし、これではつながらん」
「それは分かったから、どうにかあいつを捕まえる方法を考えないと」
「それは大丈夫だろう」
「何で」
「向こうが我々を発見する」
「という訳よ」
「おわっ!」
いきなり後ろから肩をたたかれて、裕也は軽くではあったが、飛び上がってしまった。二人を呼び出した、菱乃木美月その人である。
「おはよ。裕也背が高いから簡単よ」
朝っぱらからテンションが高い。にこやかに説明している。良く言えば快活、悪く言えばうるさい。菱乃木美月とは、そういう人物だ。
今日の衣装は白のキャミソールにジーンズ、実に夏らしい、軽快な服装だ。ただ、髪型がいつもとだいぶ違う。と言うより、長さが違う。どこかでつけ毛を足して、背中にかかる程度のものを腰までに伸ばしているようだった。色味は少し赤っぽい。それだと却って暑いはずだが、日よけ代わりのつもりなのだろうか。
少し変わったことをしているが、彼女の場合それが日常である。この程度ならまだ大人しい方だ。何があるわけでもないのに、大学にかわいらしいワンピース姿で現れたり、あるいはパンツスーツを着てきたりする。着ているものに自分なりのこだわりがあるのだ。
ちなみに彼女が簡単に目的の二人を発見できた理由は、裕也の身長のほかにもう一つある。光樹にはメモを渡すと同時により詳細な待ち合わせ場所を、口頭で伝えておいたのだ。裕也に気づかれずに嚇かせるよう、立ち位置まで指定している。彼ならばそこまできちんと覚えているとは、当然計算の上である。
「下らないいたずらをするなよ。里中、お前もそんなものに加担するな」
会話をしていたのだから、光樹は美月の接近に気がついていたはずであると思う。しかし彼は、そっけなく首を振った。
「君の陰に隠れていて見えなかった」
「ああ、そうですか」
投げやりに返している。事実どうだったかはともかく、追及しても仕方がないようだ。
「はいはい、雑談は後々。時間ぎりぎりだから、さっさと行くよ」
美月は二人の腕をとってぐいぐいと引っ張ってゆく。女性としてもやや小柄な部類に入る彼女の力はそれほどでもないのだが、男二人がずるずると引きずられるような格好になった。
「どこへ?」
それからようやく、聞いてみる。そこでぱっと、彼女は手を離した。小走りに先へ進んで、振り返る。その背景にはピラミッドを逆さまにして地面に突き刺せたような、奇抜な概観の建造物があった。そして彼女は、満面の笑みを浮かべる。
「ふっふっふ。駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚。真なる狂気の聖域、同人誌即売会へようこそ!」
芝居がかった口調で、ポーズまでばっちり決める。しかし裕也は、すかさずボケた。
「って、何だ?」
「あうっ」
美月がコケる。こういう所では息のあったコンビである。彼女がその状態から立ち直る前に、里中が説明を始めた。
「自主制作の本を売る催し、その中でも今日のものが最大の規模だ。それで合っているな? 私も実際に来るのは初めてだが」
「うん、まあ、合格点はあげられるかな? 他にも色々な要素があるけど、メインはそれね」
「あぁ? もしかして、ここにいるのは全部その客ってことか」
埋立地にある、本来だだっ広いはずの場所が人で埋め尽くされている。何千、いや何万人いるのか見当もつかない。
「客、という言い方は正確じゃないけれど、ま、ほぼ全員がそれを目的に来ていることは確かね。売る側の人間もいるし、買う側の人間もいるわ。もっとも、売っている人間は大体他の人の本を買ったりもするけどね」
「冗談だろ、おい。自主制作ってことは要するに素人だろ。それが何でまたこんな数に」
裕也が自主制作という単語を聞いて思い出すのはいわゆるインディーズ、レコード会社と契約していないミュージシャンの作品である。基本的に極めて少ない数しか売れず、商売としては成り立たない。まれにそれなりの販売数になるものもあるが、そのような作品を供給できるのは、いわばプロの予備軍だ。
「百聞は一見に如かず、とりあえず中へ入りましょ」
「予備知識はあった方が、事態を整理して観察できる」
再び二人の手を引っ張る美月に対して、光樹がぼそりとつぶやく。しかし彼女はそれを完全に黙殺して、そして上機嫌で、先へ進んでゆくのだった。裕也はただ、それぞれあくの強い二人と、そして大群衆の勢いに流されるばかりである。
「ご入場の方はあらかじめ、サークルチケットをご用意下さい! チケットは一人一枚、一人一枚お持ちになってお入り下さい!」
入り口らしきところへ近づいてみると、腕章をつけた人間がハンドマイクで繰り返し注意を促している。裕也はそんなものを持たされた覚えがなかったので、美月を見やった。
「あ、うん、チケットね? はいこれ、入り口でスタッフに見せて、中のホールに入るときにもう一度確認されるから、そのときには渡してちょうだい。まあ、アナウンスはあるから日本語が分かってれば大丈夫だけど」
そう言って、美月は二人にそれぞれ券を渡した。切符や映画館の入場券よりは大きいが、コンサートなどのチケットよりは小さい、微妙な大きさの紙片だ。そこには「サークル入場券」と記されている。
※入場の際には、入場券を事前に用意しましょう。一人一人の努力が、混雑の軽減につながります。
「サークル?」
裕也の目からすれば客であるとしか思えない人間を「客」と呼ばなかったりなど、どうも色々と、この場特有の言い回しがあるようだ。裕也にとって「サークル」と言えば大学での同好会活動のことである。
ちなみに裕也自身はオールラウンド、つまり楽しそうなことなら何でもやる、という看板のサークルに所属している。もっとも彼の所属サークルの場合、イベントのほとんどは飲み会である。
つまり実質的には酒飲み仲間だ。そう聞くとむさいようだが、最近は酒豪の、あるいはさほど強くはなくともにぎやかな席が好き、という女性も少なくない。
「そ。サークル。ここでは本その他を売る側の人間をそう呼ぶの。元々同好の士が集まって本を作るわけだからそんな呼び名がついたんだろうけど、今は別に実質一人で本を作っていてもそう呼ばれるわね。個人サークル、とか言って」
「ふーん。…って、おい、お前本なんて作ってるのか!」
「そーよ」
「へえー」
彼女はこともなげに言ってのけるが、裕也としてはただ驚くばかりだ。
彼の知っている限り、彼女が所属しているのは軽音楽サークルである。パートはヴォーカルで、下手なプロなどものともしない歌唱力を誇る。カラオケに行くとマイクを握って放さないが、それで文句の出ることも少なく、「カラオケ女王」の異名を持っている。
それだけでも大したものなのに、本を作るなどという趣味があるとは思いもよらなかった。
「で、何の本を作ってるんだ?」
「それも見てからのお楽しみでいいんじゃない? 現物はもう、あたしのスペースにあるはずだし」
「それもそうか」
「つまり、今日我々は君のサークルの手伝いをするのだな」
話が一段落した所で、光樹がいきなり核心を突いた。美月がぎくりとしながら振り返る。
「まあ、ね」
微妙な笑みを浮かべる。裕也はため息をついた。
「なるほど、働かせようって魂胆の訳だ」
「だって、いつも手伝ってくれる友達が、みんな今日は別の用事があるんだもん。お願い、ね? 後で好きなお酒を飲ませてあげるから」
「お前、俺が酒さえ飲んでいたら幸せな人間だと思っていないか」
「違うの?」
美月もやられてばかりでは終わらない。無邪気な笑顔ですかさず切り返す。とっさに反論できないのが、裕也の弱い所だ。
裕也が履歴書に趣味を書くならそれは「映画鑑賞」で、実際うそではない。しかし映画にかける金と飲み代と、どちらが多いかといえば明らかに後者である。
「里中はどうするんだ」
とりあえず別の方向へ逃げを打ってみる。少なくともこの男は、酒で釣られるようなことは絶対にない。そもそも物に釣られる人間ではないはずだ。
例えば裕也のように、一人暮らしの大学生など金がなくて当たり前なのだが、光樹に限ってはその様子がない。大学の生協で高価そうな専門書を買っているのが、頻繁に見かけられる。まあ、酒をきっぱりと止めてしまえば、裕也にもそのくらいの余裕が出るのかもしれないのだが。なお美月に財力があるのは、比較的裕福な家の生まれである上、その実家から学校に通っているからだ。
「光樹くんにはまた別のプレゼントを用意してるのよ。それも後のお楽しみ、だけどね。それに光樹くんは、人間観察するの好きでしょ。ここには他では見られない人が、いーっぱいいるからね」
「ふむ、少々奇抜な服装の人間が見られるな」
相変わらず何を考えているのか分からない、無感動そうな視線であたりを眺め渡す。そうしながらも彼は確かに、しっかりと周囲を見ているようだった。
それまで大群衆を一まとめに「人ごみ」と処理していた、裕也の朝から既に疲労気味の脳も、注意を喚起されることによって個々の人間の服装を理解できるようになる。
光樹の視線を追ってみると、まず、この「クソ暑い」のに厚着をしている人間が目についた。しかも直射日光を吸収せずにいられないであろう、黒づくめのドレス姿だ。ご丁寧にも長手袋までしている。
「まあ、お前には珍しいかもな」
確かに、少なくとも普通の街中で見られるような格好ではない。しかしあのような格好をした人間を見たいのならばどこへ行けばよいのか、裕也は知っていた。いわゆるヴィジュアル系バンドのファンなどに多く見られる装いであり、原宿あたりで遭遇することができる。ただ、光樹が原宿に用事があるとは思えないので、見たことがないのだろう。
「しかしそもそもお前、観察以前に人づき合い苦手なんじゃないのか」
「ああ。つきあいは好きではないな。しかし観察は興味深い」
歪んでいることこの上ない。二の句の告げない裕也をよそに、光樹はさらに別の方向へと視線を向ける。
今度も夏場には特に目立つ、厚着をした女性だった。しかし先ほどの黒づくめとはまた対照的な装いである。純白のブラウスにはこれでもかという勢いでフリルがつき、スカートや上着などは鮮やかな花柄だ。ある種の少女趣味、とでも言えば良いのだろうか。しかしそれにしては、着ている本人は自分たちより一回り近く年上であるように見えた。
瞬間的に、強烈な違和感を覚える。しかしこの場の平和な日常から乖離した雰囲気には、それがふさわしいようにも思われた。とりあえず、詳しそうな人に聞いてみることにする。
「ファッション評論家の菱乃木先生としてはどーよ、アレ」
美月は美月で、服装に関しては一風変わった特有のこだわりを持っている。しかし少なくとも彼女は、TPOから外れた服は絶対に着てこない。例えば夏場に暑苦しい装い、あるいは冬場に寒々とした装いだと周りに不快感を与えてしまう。彼女はそれを知っているのだ。見せて、そして見られてこその衣装だと、そう思っているようだ。
「はは、まあ、特にこの時期、しかもこの場所だと本人の体調に悪いだろうからお勧めはできないけどね。でも、実際着ている以上は誰よりも本人が覚悟の上のはずだし、誰に迷惑をかけているわけでもいないわ。折角年にたった二度のお祭りなんだし、他人がとやかく言う筋合いはないと思う」
始めのうち彼女の表情は曖昧だったが、しかし半ばを過ぎるあたりからどこかに芯が通ってきた。各論反対総論賛成、そんな所なのかもしれない。
「お祭り、ね」
そんなことを言われると、裕也としてはまた反論がしづらい。新年と言っては酒を飲み、また桜が咲いたと言っては酒を飲むような人間である。無論そんな口実がなくとも、飲みたければ飲んでいる。理由付けなど所詮、自分自身に対する言い訳に過ぎないと、裕也は承知している。「酒が飲める飲めるぞー、酒が飲めるぞー♪」である。それでもなお、飲む。それが、酒飲みだ。
「まあ、無礼講って訳だ」
そんな表現で、裕也はまとめてみた。美月はうなずく。
「ほんとに無礼でいいって訳でもないけどね。裕也の言う無礼講くらいなら、そうなのかもしれない」
いくら無礼講などという建前であっても、参加者を不快にさせないための最低限のマナーはある。裕也はそれをわきまえているつもりだ。だからこそ、さほど飲まない美月が自分と友人づきあいをして、また飲み会などにも積極的に参加するのだと思っている。
「それに…」
そして彼女はふと、珍しくどこか寒々とした笑みを見せた。物言いがはっきりしないのも、美月らしくない。
「何?」
「なんでもない。これは後のお楽しみ、とは言わないけど、別にわざわざ今話すことでもないと思う」
「そう」
どうやら話したくない事柄であるらしい。しかしいずれ分かるような口ぶりであるから、今は保留しておくことにした。里中も相変わらず周囲を眺めていて、問い質そうとはしない。
そうして三人は、チケットを見せて建物内に入った。
続く