正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
4 着替えは所定の更衣室で
そこが既にホールなのではないかと思うほど、展示場の入り口部分は大きい。高い天井を見上げるとそれが分かる。ただ、現状では視線を水平に戻すと、人間の頭ばかりが目に付く。
「うへえ。中へ入ればもうちょっとましかと思ったが」
スタッフのハンドマイクによるアナウンスは、サークルチケットを持っている人間を中に入れて、そうでない「一般」の人間を外に並ばせている。つまり裕也の感覚で言えば外にたまっているのは「客」だから、基本的には売り手だけがいることになる展示場の中であれば、それほどの混雑はないと淡い期待を抱いていた。
しかしそれも、薄々感づいてはいたとはいえあっけなく叩き潰される。中は中でまた、人波だった。
「スペースは約一万、その一つ一つに入場チケットが三枚渡されるから、それだけで人数は軽く万を超えるわ」
「万と来たか。世の中には物好きが多いもんだ」
「意外とね」
「確かに」
目の前の美月も、その物好きの一人である。
「本当に、色々な物好きがいるものよ。という訳で、裕也と光樹くんはあっち。男子更衣室。渡した服を着てくるように。あと、ついでに登録も済ませておいて。二人分の登録料はこれだけだから」
「何だい藪から棒に」
突然のことへの驚きを、裕也はなぜか古典落語調で表現した。一方の光樹が当然の確認をする。
「着替えろと言われてそうするくらいのことはできるが、しかし登録とは何だ。何をどう登録するのかが分からなければ、話にならない」
「大丈夫。それはもう、スタッフの人の方がよっぽど詳しいんだから。登録したいんですけどって言って、指示に従ってればそれでオッケー」
「あのな、おい…」
そうは言うものの、美月が登録料を強引に押し付けてくるものだから、裕也はとりあえずそれを預かってしまう。拒絶すれば金を落としてしまうだけだ。
「さあ、行った行った!」
そしてどん、と美月は二人を突き飛ばす。しかしそれで実際によろけたのは、彼女自身だった。何しろ裕也と光樹の体重を合計すれば、恐らく彼女一人の三倍近くに達するのだから、当然である。
別に二人が肥満しているわけではない。二人とも、それぞれの身長に対して男性として不合理でない体重を有している、その程度だ。そして美月の体重は、同じ身長の女性の平均と比較するとやや軽い
「な、何てことするのよ…あたし、女優よ!」
行きかう人の邪魔にならない、その精一杯のオーバーアクションで美月が自分をかばう。もはや光樹は何か言う気にもなれないのだ、と、裕也は理解した。そしてそんな二人に構わず、彼女は戻ってくるどころか別の方向へ歩き出す。
「おい、どこへ行くんだよ」
少なくとも自分は自称女優の演技に付き合っているのではない。社会生活を送っている人間として、最低限のことをしているだけだ。裕也はそう自分に言い聞かせながら、問い質した。
「衣装替えに決まってるじゃない、女優なんだから。集合場所はここでよろしく。じゃ、またね!」
つまり、女子更衣室である。裕也はため息をついた。
「さすがにそこへはついていけないしな。さてどうするか。着替えずにここで待っているって選択肢も、あるはずだが」
「余計な面倒を増やすだけだな」
「やれやれ。毒食らわば皿までか」
裕也は軽く肩をすくめたが、光樹はというと先程までとやかく言っていたにもかかわらず小さく首を振った。
「まあ、大した毒でもなかろう」
「それはちょっと、人のいい考え方なんじゃないか?」
美月はやると決めたらとことんやる。それを裕也は知っていた。光樹はこんな性格だから、その行動につきあった経験がないのかもしれない。そう思える。
「人がいいのは君のほうだな」
しかし彼は、冷然と否定してからつけ加えた。
「中身はもう確認してある。私の趣味とは異なるが、少なくとも突拍子もないというほどではない」
確かに、この場合は光樹のほうがずっと猜疑深かったようだ。どうやら渡された時点で、中身を調べていたらしい。さらに実は大したことがないと知っておきながら抵抗していたのだから、その後も油断がない。
「あ、そう。なら行くとするか」
「ああ」
そして二人は、奇妙な成り行きに任せて更衣室へと向かうのだった。
着替えと登録自体は、実際簡単に済んだ。周囲では何やら色々とやっている人間も見受けられるが、それをゆっくり観察している時間もないほどだった。
裕也が着ているのは太いグリーンのラインが入ったTシャツとジーンズ、それからスニーカー。要するに普段の彼とほとんど変わりがない。強いて言えばシャツの柄のセンスが若干違う、その程度である。
凝ったデザインのシャツはそれだけなら見栄えがするが、他の服とのコーディネート、そして着回しが難しい。だから裕也はなるべく、Tシャツなら色柄の無難なものを選ぶ。しかし今のこれは、色合いこそどぎつくはないが、デザインが少し変わっているのだった。
一方やや遅れて現れた光樹は、ベージュのサマージャケット姿だった。それだけを見るとやや硬い感じの装いだが、下に着ているのは無地のTシャツだ。裕也としては彼が襟付きシャツ以外のものをを着ている所は見たことがないので、むしろ普段よりはラフ、あるいはカジュアルな印象を受ける。
「似合ってるじゃないか」
「それはどうも」
からかう裕也を簡単に流してから、光樹は美月から渡された金を使って二人分の登録を済ませた。彼女が言う通り、誰よりも担当のスタッフの方が事情をよく分かっていたので、逆に裕也としては一体これが何なのか詳しく知る機会がなかった。
光樹は光樹で彼流の観察力を発揮してある程度状況を推測しているのかもしれないが、しかしとりたてて何か言おうとはしない。結局彼は、着替えを済ませた美月がやって来るまで黙っていた。
「お待たせー。じゃあ行くよーん」
彼女はグリーン地のセーラーカラーのブラウス、黒のプリーツスカートに白いニーソックス、そんな装いだった。どこか女子学生を思わせる、そんな姿である。彼女本来の年齢は既に成人に達しているので、いわゆる「なんちゃって女子高生」のようだという気がしないでもないが、やや小柄で華奢であり、また童顔の傾向がある美月にはむしろよく似合っていた。
そして何より目立つのが、その髪型である。手を加えてそのままの状態よりかなり長くしている髪を、頭の片側で結って青いリボンでまとめていた。さらに何かで染めているのか、先程まででもはっきりと赤みを帯びていると見て取れたものが、もっと赤くなっていた。
「なんか、通常の三倍は赤いな」
「ツノつきだしね」
美月が自称「ツノ」の、横向きポニーテールを揺らす。
「最大でも三割増程度だ…」
光樹がぼそりとつぶやく。しかし残り二人がその真意を確かめる前に、彼自身が別の話題で割って入ってきた。この男は用事がなければ黙っている代わりに、あると決まれば遠慮がない。要するに究極のマイペース人間だ。
「菱乃木、あの案内書のような物、君も持っているな」
「お。あれが案内書だと気がつくとは、さすがに光樹くん、お目が高い。もちろんあたしも、ちゃんと持ってるわよ」
美月は普段彼女が使っているよりもかなり大きめのリュックサックから、分厚い冊子を取り出した。イラストの描かれた色鮮やかな表紙とその厚みは週刊漫画雑誌を思わせるが、中に使われている紙の質が異なるのか、ほっそりとした美月の手にはずいぶんと重いらしい代物だった。彼女はやや、取り出すのに力を込めているように見える。
そんな奇妙な物体を、しかしこの場にいる多くの人間が手にしていた。
「それが案内書かよ」
少なくとも「パンフレット」と呼びうるものでは絶対にない。角で力いっぱいぶん殴ったら十分に人を殺せることだろう。そこで聞いてみたのだが、光樹はうなずいた。
「他では見当たらないものであるにも関わらず、この場では皆一様に持っている。そうなるとそう考えるより他あるまい。それより菱乃木、貸してくれないか」
「どーぞ」
運動に縁がないとは言え、一応は男の光樹もその予想外の重さに冊子を取り落としそうになった。そしてやや不快そうに口をゆがめてから、ページをめくる。
「どうなってるんだ、こりゃ」
横から覗き込んだ裕也の視界に展開されたのは、何か混沌とした漫画のようだった。イラストの描かれた長方形の小さなコマで、紙面がびっしりと埋められている。そこには統一性があるようにも、また全く内容にも見える。とにかく良く分からない。
「それぞれのサークルごとに一コマが割り当てられている、という所だな。それが数千件あるから、これだけの厚さになる」
「正解」
ぺちぺちと、美月が手をたたいた。裕也の疑問交じりの視線に対し、光樹が説明を始める。
「それぞれ画風が違う。別の人間の手によるものだ」
「そんなもんかね」
裕也自身、漫画は読まないではない。少なくとも、硬そうな本しか読みそうにない光樹よりは読んでいるものと思っていた。作者ごとの絵柄の違いなら、ある程度分かる。
しかし今目の前にあるのは、同じキャラクターを描いているらしい類似した絵の群れだった。指摘されてみれば確かにそれぞれ違いがあるものの、ぱっと見た所ではどれも同じに見える。
「ん? ああ、これ、あの漫画に出てくる奴じゃないか」
それはさほどマニアックな趣味のない裕也も良く知っているような、有名な漫画のキャラクターを真似たもののようだった。興味がないので見たことはないが、確かアニメ化されて全国ネットのテレビ局で放映されていたと思う。
「そのようだ」
簡単にうなずきながら、光樹はページをめくる。今度は同じ漫画の、別のキャラクターらしきものが出てきた。
「ふうん、なるほどね。この漫画について本を作ってる訳だ」
「うん。原則として同じジャンルの本を作っているサークルは、固めて配置するから。メジャーな作品だとこんな感じになるわね。まあ、この中にも別の本を売っているところはいっぱい、というよりほとんどだと思うけど」
「ほー。でもさ、これってめちゃくちゃおおっぴらにやってるけど、パクリとかそういう問題にはならないのか」
光樹あたりにコメントさせれば何を言われるか分かったものではないが、これでも裕也は法学部の学生である。合法違法という問題については、少なくともその他一般の人よりもセンスが鋭い。その方面が専門ではないため詳しくは分からないのだが、著作権などの観点からすると考えると危ないようにも思われた。
「許諾を受けていれば問題はあるまい」
こちらは少なくとも学生としては真面目極まる光樹が、簡単に応じる。
犯罪、あるいはそれに類するような行為でない限り、法律関係は当事者間の意思によって決定される。それが民法の大原則であり、著作権法もその考え方を基本にして成り立っている。意図的に似せたものであったとしても、それに関して権利を持っている人間が認めているのであれば問題はない。
一瞬彼の説明に納得しかけた裕也であったが、しかし美月の声がまた判断をぐらつかせることになる。
「んー、法律論としては光樹くんの言うとおりだけど、きちんと許諾を得たサークルなんて、ほとんど、もしかしたら全くないんじゃないかな」
「やばいだろ、それ」
「やばいっちゃあやばいわね。訴えられたら最悪の場合マジでつかまるから」
「おいおい」
違法行為を、しかも大規模に行っているとしたら、無礼講のお祭りという訳には行かない。裕也は首を振って、そして光樹はまなざしで説明を求めた。
「でも、普通は訴えないけどね。裕也が素人の作った物って言ったのも一理あって、大量に売れるサークルなんてめったにないから、ほとんどの所が赤字。裁判を起こしたところで弁護士費用の分損をするだけよ。それに利益が出てないから、刑法でいうと、ええと」
美月が言いよどむ。彼女の成績は少なくとも裕也などよりはよほど良いのだが、専門家ではないので小難しい法律用語などはとっさに出てこない。
「可罰的違法性に乏しい」
彼にとってはなんでもない言葉なのか、あるいは美月がもたついている間に記憶を確認したのか、ともかく光樹が補った。
可罰的違法性、とは簡単に言ってしまえば、その人間が犯罪者として処罰しなければならないほどの重大な罪を犯したかどうか、という刑法上の問題だと裕也は記憶している。
例えば他に犯罪歴の全くない人間が、出来心で消しゴム一つを盗んだからとする。その場合、行為としては明らかに窃盗罪であるから、理屈の上ではその罪で懲役刑にすることも不可能ではない。
しかし常識で考えて、たかが消しゴム一つで人間を監獄に入れたり被害額の数十倍になる罰金を払わせるのは、明らかにおかしい。その程度なら、まず警察でこってりしぼられるだろうが、後は盗んだものを返させるか弁償させて終わりにするのが普通だ。
そのような微罪を、可罰的違法性のない罪である、と言う。要するに刑法を厳格に読めばそれに当てはまらないこともないが、わざわざ罰するまでもない、そのような行為のことである。
作者に無断でそれを真似た本を作ることが可罰的違法性がないと言い切れるかどうかは、裕也には分からない。光樹も「ない」ではなく「乏しい」と言っていた。ただ、少なくとも利益よりむしろ赤字の出ている人間を捕まえるべく、わざわざ警察が動くとは考えにくい。
「グレーゾーン、というと何だけれど、法の予定するところを大きく超えた事態であることは確かね」
「その表現も、何だっちゃあ何だぞ」
それはとある、極めて異常な事件の裁判に際して使われたような表現だ。ある種社会問題にもなったため、裕也も良く覚えている。
「人間の歴史の中で、後追いでない法律など存在したためしがない」
光樹がぼそりとつぶやいたが、踏み込むと長くなりそうなので、裕也はそのまま流してしまうことにした。彼がまた何か言い出さないうちに、別の話題を振ってしまう。
「しかし、大半の人間が赤字だって言うけれど、じゃあ何だって本なんて作るんだ」
「裕也のアルコールに対する出費も、黒字だとはとても思えないけど。特に肝臓の消耗とか、二日酔いで休んだ授業に対して支払われた学費とかを考えるとね」
「悪かったな」
手厳しい反論に小児的な反応しかできない。美月はそんな彼をあざ笑いはしなかったが、しかし笑った。
「趣味だからね。利益を、少なくとも金銭的物理的な利益を出そうと思ってするものじゃないわ。強いて言うなら得られるのは心の利益よ。ま、そういうことに関してはあたしなんかよりも里中大先生の方がよほどお詳しいはずだけど、ねえ?」
ややわざとらしめに首をかしげた彼女に対し、光樹はゆっくりと首を振った。
「説明しても長見には分からん」
「ああ? 何だ、お前もそういうことをやってるのか」
彼の話しぶりは配慮を欠いていたが、元々そういう人間だと分かっているつもりなので一々気にしない。怒ってみた所で申し訳なく思う神経も持ち合わせていないだろうし、苛立つだけ損だ。
「私も来るのは初めてだと、さっき言った」
「一々覚えてないよ、こうもごちゃごちゃしていると」
「そうか」
配慮はないが他意もない。だから流せばそれで済んでしまう。光樹相手の応対はこれに限るのだ。
問題が起こらないのならば、それで良い。裕也はそのような考え方の持ち主である。そんな彼を卑屈だなどと言う人もいるが、しかしその程度の批判はさして気にならない。
「はは。そういう柔軟さは裕也のいい所だけどね」
むしろこうして、評価してくれる人の方が多いのだ。同じ世代では美月がその代表格だが、今日の彼女は敢えて一言加えた。
「でも、今回ばかりはツッコミどころよ。光樹くんが知っていることで説明を拒否するなんて、実はものすごく珍しいんだから」
「はー、そんなものかね。じゃあ何でまた」
言われてみればそうかもしれない。知らないなら無遠慮に「知らん」と言うし、知っていることなら何でも、少なくとも嫌がる様子は見せずに教えてくれる。そんな気がするが、元々あまり興味がないので良く分からない。ともかく、美月が言うのだから、多分そうなのだろう。
「隠してたって、じきばれるわよ」
「別に隠してはいない」
「ははあ、光樹くんでも照れることあるんだ」
「ふん」
意地悪さを装ってからかう美月に、光樹は答えない。それが彼の、照れの表現であるらしい。結局裕也にとっては分からないことが多いまま、会場である展示ホールへ入ることとなった。
続く